第5回「私の針仕事展」を観に行って (2008年8月31日) 土曜日に行く予定であった展示会を1日延ばしたのは豪雨のためであった。会場の入り口は ご婦人の行列!!。 整然と列が進んでゆく。年の頃は昭和20年世代か。いずれもお手製のあるいはどなたかの手作 りの服やバックを身につけていた。ファッションショーに集まる人たちがデザイナーの服や小物を 身につけているように今日のご婦人方も日本のキルト・山葡萄の蔓で編んだバック・海外のキルト ・レース・リボンなどを切取ったり貼り付けたり縫い合わせたり(はぎ合わせたり)して、姿は歩 くキルト・持つキルト。その数のすごいことったら!! 会場の外ではキルトショプが展開していて、作品を観て出てきたご婦人、入る前に下見をしてい るご婦人達でごった返ししていた。友人はキルトと小物を買って、それで小さなバックを縫う計画 を立てていた。私もなにか記念にと思って見て廻っているうちにこんな可愛い針山を見つけた。 (高さ4.5cmほど) 次にこの山には黄色い待ち針が似合うなあとじい〜っと見ていたが却下した。待ち針入れの小瓶・ アルミ缶はちょっと出会えそうにない気がしたので、じ〜〜っと見て家にあるジャムの小瓶と寸法は 変わらないなあとなり、缶の絵柄のウサギやネズミや小鳥やお花は西洋のデザインなのでこれは気に なって思案タイム。だが、他にも種類があって例えば横浜あたりで入手できそうなので却下した。陶 製の指抜きの花模様とは別れがたくなり、買っても使わないのもどうかと(飾るのも素敵だと思ったり) 思案してもう一周廻って家のお裁縫箱の中身をひとつひとつ浮かべては却下して行った。小さな針目に は小さな道具が合うわけだがキルトはまだ始めていないのでこれから徐々に気持ちが向いて行ってから 買い揃えることにしようという思いに至った。こうやって決めた針山を手の平に載せてながめては重た さもひっくるめて可愛いと思うのである。 「特別展示展 赤毛のアンのキルト物語」では、日本のキルト作家それぞれが描いた『赤毛のアン』 をイメージにしたキルトや人形・小物など色調やシーンに工夫がなされていて可愛くもあり美しい。 セピア風の時間を温存しているかのような作品の前ではしばらく足が止まった。思わずアンの焼菓子 をキルトで作ってみたい!!と友人に宣言してしまった 第5回「私の針仕事展」は8月29日(金曜)〜9月3日(水)西武池袋本店7階に於いて開催中です。 |
草刈り (2008年8月23日) 朝夕すっかり秋めいてきた。こうやってひんやりとした空気を感じながらほんの少し前までの暑い暑い 時間を思い出している。過ぎてゆけば今年の夏も去年の夏もその前の夏もこんなに暑かったかしらという話に なるのが常だ。涼しい感覚もまた同じように過ぎてゆけば寒いとなっていつも新しい季節を感じて今年の秋は 今年の冬はと話すのだ。幸せなことであると思う。 8月に入って畑の草取りに出かけた。畑は水路に架かる木の橋(幅1,5m程)を渡ると近道なのだがいつか折 れるのではないかと思ってみれば、ミシリと音を感じたのでこれはたまらない。少し離れた田んぼのほうに架か るコンバインも通る頑丈な鉄の橋があるのだからこの橋を渡ることにした。橋を渡り右に進めば畑に繋がる道が 伸びているはずなのだ。でも道は筋も見えない草ぼうぼうの状態になっていた。先ずここから草刈りを始めた。 もともと田んぼだった土地なので草の背丈は稲の背丈ほどあった。刈り進んで行くうちにピンクの小花が固ま って垂直に伸びていた。私はこの40cmほどの花を残して道を作った。振り返ると10mほどの刈り跡は青ピカ していて花は生気を取り戻したかのようにシャキンと立っていた。それから数日後義母と畑に行った。行き帰り に私たちは花先を撫ぜた。道の中央寄りに咲いているので歩きにくかったが花の在り様が一呼吸させてくれた。 それからは行けば花を摘んでは帰ってきた。居間の端の小さな机に飾った。「きれいねえ〜」と眺めていた。 土曜日の今日、予報どおり曇り空だ! みんなで畑に行った。橋の先の道は草刈り機で刈られていて草は横倒 しになって枯れていた。そしてピンクの花はそっくりそのまんま残っていた。畑の持ち主さんが道幅を広げてくだ さったのだった。私はそのことへの感謝もそしてこのお花をそっくり残してくださったことにもワア〜キャ〜が 尾を引いている。みんなも感激していた。 帰宅してからこの花の名前を調べた。(以下、(株)創元社発行『俳句の花』より「千屈菜・禊萩・溝萩。お 盆に盆花とか精霊花と称して盆棚に供える風習があり、この茎で盆の箸を作る。本来は仏花で、禊萩(ミソギハ ギ)から転じてミソハギになったといわれる。溝などに生えるのでミゾハギともいう。花の高さは1〜1.5m。」 以上『俳句の花』より) ところで畑の道の花が短かかったのは辺りの草が風の道を塞いでいたからだろうか。 みそはぎの露にとどけり昼の鐘 細身綾子 |
残暑お見舞い申し上げます (2008年8月15日) |
暮らしのクオリア (2008年7月31日) もう7月も今日でおしまい。夏休みももう一週間が過ぎようとしている。早い早い。 あつ子@カナダさんとも今日のメールで「早い早いね〜」と話題にした。彼女は「今を 一生懸命に」と言っていた。 あつ子さんは12月開催のトロント紅白歌合戦の運営にあたっている。ふるさとでは 8月のお盆に向けて動いている。農業に携わっている人たちは天候をみながらの作業で ご苦労が多い。もう少しで本当の夏休みに入れるのだ。サラリーマンの方たちは先に妻 や子供達を実家に送っていることだろう。そして同郷のみんなは「実家に帰っとね?」、 「帰とっとや?」と聞いてくる。8月は家族が集まってにぎやかで騒々しいが笑いに満ちた 時間だ。毎年毎日今日もこうやって積み重なって行く時間が思い出に変わるときがとても 大切なことだと思う。 ↓朝日8月号「暮らしの風」より |
お墓参りの日−その2 (2008年7月27日) 帰りは、空がにわかに暗くなり今夜は涼しく寝れるかもねえと期待した。しかし照り曇りが続いて 降らなかった。帰宅してみるとほおずきの配達連絡表が新聞受けに入っていた!。すぐに連絡をし、 届けていただくことにした。今日見たお花屋さんのほおずきのことを話題にしていたら辺りが薄暗く なってきて遠くで稲妻が光り始めた。段々近づいてきて雷鳴がとどろき始めたとき、そらまめがカメ ラを持ち出して撮影をし始めた。動画だと稲妻をキャッチできるのでそれがいいと私はもう子供のよ うになっていた(ようだった><)。しばらくしてから「中武ファーム」からのほおずきが届いた。 開けてびっくり!! 大きい!! 赤い!!緑が新鮮!!ハートの形の美しいこと!!その見事さに 興奮してきて落ち着かない(私だった><)。そうだ、そうだ、ほおずきさんたちを束縛から解放し てあげなくては。丁寧に束ねられていたほおずきさんたちがそれぞれの茎に独立したところで水切り をした。葉っぱはイキイキとしていたが、(今日は私自身がとても暑さを感じたのでそうしてあげた くなって)水揚げをした。濃い緑の大きな葉っぱがぐんぐん頭を持ち上げてきた。そして写真撮影!! 2006年も2007年もそうだった。そして2008年もお盆の迎え火が安心して灯せることに 感謝した。もう一箱のほおずきさんたちを友人達におすそ分けするのが楽しみだ。 ほおずきの箱の中に素敵な書状とパンフレットが入っていた。書状には、ほおずきがご注文者のお 手元に届いてからのことことがそれは分かりやすく解説されていた。文字は大きくて、生産者である 中武洋文さんの撮られたに違いない、ほおずきにキスをしているようなしぐさの青蛙さんとのカット が載っていた。洋文さんの研究熱心なほおずき生産姿勢と自然に対する畏敬と感謝を感じた。パンフ レットは、西米良の「夏米良芸術祭」のプログラムだった。今、宮崎県は注目度ナンバーワンの県で 「どげんかせんといかん」県で「どげんかすっとばい」と村民が一体となって取り組んでいる村おこ しの一環の芸術祭に拡大して行っている。(このことは次回に紹介したい)。 洋文さんの村に生きること村を愛することの高い志を感じずにはいられなくなった。私に稲妻が走った瞬間だった。 追記:「中武ファーム」は<<クリック>> 「西米良芸術祭ブログ」は<<クリック>> |
お墓参りの日−その1 (2008年7月27日) 午前9時出発。家族みんなでお墓まいりに出かけた。 横浜のランドマークタワーが真正面に見える丘の上にお墓がある。 お茶屋さん(お墓の管理事務所)のご主人様はお参りの方々の お顔を覚えていらっしゃる。名前もすぐに出てきて私はいつも感心 している。今回もそうだった。義母に優しく接してくださり「遠方から おいでで・・・道は混雑していませんでしたか」とおっしゃってくださった。 義母が「スイスイ来れましたよ」とこたえたら「それはようございましたねえ」と にこにこされていた。本当に今日は高速は全く渋滞がなくて停車したのは料金所だけだった。 これもガソリン代の値上げの影響だろうかと思わずにはいられなかった。 横浜が近づいてくると、横浜ベイブリッジが目の前に現れてきた。橋は上り坂である。 頂上に近づくと360度の視界が開け海にたくさんの大型船が浮んでいた。そのときラジオから ♪海は広いな大きいなあ〜の唱歌「海」の歌が流れてきた。なんという偶然!!。わたしたちは合唱 した。 橋を降りて目印の花屋の角で上り坂に入った。花屋さんの入り口に長いほおずきがドアの枠を縁取って 飾られていた。7月、8月のお盆の期間に入ると植木鉢のほおずきが売られているが、このように飾られ ているのを見て私は思わず「あ〜っ!中武ファームのほおずきみたい。去年は飾ってあったかしら?」と 家族に尋ねたが誰も去年のことを覚えていなかった。ご仏壇、お花屋さん。お寺さんの多いこの町で長い すらりとした赤いほおずきをみて中武ファームのほおずきの到着がもしかしたら今日なのではと思えてきた。 お茶屋さんでこんな話を聞いた。「ちょっと前までは7月、8月に御年配の方がご家族に内緒でひとり お墓参りにいらして暑さで具合が悪くなりその場に倒れたところを別のお参りの方に発見されて救急車を 呼んだりしました。その件数も多かったです。お墓参りのことが気になって、それで内緒でいらっしゃい ますから連絡をするとそれは大変驚かれて・・・。」 今は核家族が多くなってきて熱中症という言葉も定着してペットボトルを常に携行しているのでそうい ったことは無くなってきたけれど、確かにいろいろなことが日々起きていることであろうことが想像できた。 帰りは、昔住んでいた丘の上に行ってみた。こんなに急な坂道をよく歩けたものだと思った。変わってなか ったのは美容室とお寺と神社と公園の中の競技場とプールだけで大きく変わっていたのは高層団地と音楽堂と 保育園だった。私たちが住んでいた頃の公園の噴水は上野の公園の噴水のように高く水しぶきを上げていたが、 いまや水しぶきは見れず浅く、さらさらさらさらと循環水が流れていた。わんちゃんが水浴びをしていた。 水の中でわんちゃんの尻尾は振って振ってとまらない状態だった。飼い主さんは炎天下うらめしそうに わんちゃんの尻尾を見ているように見えたが・・・。暑い暑い日だったがお墓参りができてよかった。 正面にランドマークタワー |
盛夏 (2008年7月20日) |
フラダンスな日 (2008年7月16日) 日曜日友人も一緒にドライブがてら買出しに向かった。途中の家々の門にノウゼンカズラが咲きこぼれていた。 いつものお店がみえてきたとき大覧車が迫ってきた。毎回この大観覧車をみては「なにがあるのかなあ」とつぶやいて それだけで終わっていたのだったが、遊園地かもしれないところへ入って行った。実際はショッピングモールで南国の島 でお買い物をしているような雰囲気にさせてくれる通りにアジアン家具・雑貨の店があった。面白かったのは「二木の菓子」 屋さんと地場の物産店。二つのお店には昭和30年代が詰まっていた。チュニックやタンクトップを買ったが、着るときが くるのかどうだか>< 広場の野外ステージで、フラショーが始まろうとしていた。最初の組が舞台にすべるようにして現れた。ちょうど太陽は 彼女達の顔のスポットライトになってピチピチとして見えた。笑顔はそれは美しく指の先は細くしなやかに動いて神々しく さえも見えた。胸で手を交差させるときのようすは乙女そのもの。腰も手足も表情筋もよく動いていた。 フラダンスの所作は手話と同じで鳥や月や波やそういった自然と男女の悲恋などを表していることが音楽と表情と動きで 分かる。音楽にはハワイの空と波の音とゆっくり流れる時間を感じた。最後まで観ていたらきっと眠くなっていたと思う。 観客がどんどん増えて来たところで建物を出た。 夏休み、故郷の村の人口がもっとも多かった昭和30年代は盆踊り大会が毎年あった。炭坑節、延岡音頭、東京音頭の振り と歌をところどころ覚えている。♪ハァ〜踊り踊るなら、チョイト東京音頭、ヨイヨイ、花の都の花の都の真中でサテ、ヤッ トナァ〜ソレヨイヨイヨイ、ヤットナァソレヨイヨイヨォーイ。(東京を知らないみんなが踊った)♪月が出た、出た、月が、 ア、出た、ヨイヨイ(これがフィナーレだったような)。♪鐘がぁ〜鳴ぁ〜る、鳴ぁ〜る、城山の鐘が〜ヨッコラセ(ヤッコラセ だったかも?)♪あれは三百年時打つ鐘よォ(このあとがわからない><)♪延岡百万石城下町昔を偲ぶお城山鐘の音聞きに来 やらんけ(せだったかどうか?)ホラヨーイトコセー。銀鏡音頭はあったのかどうか覚えていない。炭坑節は調子が良いから かどうかわからないが日本全国どこでも踊っていたそうだが、わたしたち子供はなんだか嬉しくなって大人の輪に入って踊っ たものだった。 雑貨にしても踊りにしても人が集まり相互に鑑賞し、感心し、驚き感動できる場所は今も昔も変わらず必要なことだと思う。 2008/08/21追記: 地元のフラダンス倶楽部で一箇所だけ通える教室があるのでぶらり見学をしました。私によく似た背格好の方が複数いらっしゃ いました。入会は大歓迎だと聞きペンディング中が長いこと続いています。8/18付け朝刊に「アカデミー・オブ・ハワイアン・アーツ」 の日本公演の案内記事が目に飛び込んできました。これは幸運なことですからその日のうちにチケットを申し込みました。スペシャル席 2枚、夫と観ます。公演日は2009/02/14バレンタインデーですから。支払いは夫が済ませてくれました(笑)。 |
宮崎・西米良「中武ファーム」のほおずき (2008年7月8日) 宮崎は6日(例年より7日、去年より12日も早く)梅雨が明けたそうだ。マスコミは洞爺湖サミット関連ニュースで 熱くなっている。 先日有楽町のお花屋さんでほおずきの鉢を見た。観賞用に姿が整えられてとても美しい。おリボンの向こうの値札を 見てビックリ!!。 私は値札を「あっち向けホイ」してあげた。ほおずきを見て郷愁にひかれる人もいるかも知れない。このお店に出てい るほおずきさんたちはここで色づいてゆくのかも知れない。行く人の目を休ませてくれるかも知れない。 2006年の夏、「ほおずき」で検索していたら宮崎県、西米良の「中武ファーム」のほおずきに出会った。明度 の高い赤で形はハート型で大きくてふっくらとしていて実の数の多さにも驚くことばかりだった。そしてなによりも 中武ファミリー一丸となり魂を込めて育てていらっしゃることにも。 私は2006年(「をりをり−4」2006/07/04記)、2007年(「をりをりー5」2007/7/27記)とお盆用意は中武 ファームのほおずきと決めた。そして2008年、今夏のほおずきを心待ちしている。 お盆が終わったら風通しの良い場所に吊るしてドライにしている。ほこりは年に数回お化粧用の刷毛でやさしく払っている ↓写真は、2007年のほおずき。 ↓2007年産、赤の赤がやわらかい。 ↓2006年産、赤が枯れて網目が残って行くのが美しい。 2008年のほおずきの様子は、”中武ファーム”のホームページ<<クリック>> をご覧ください。 (追記:2007年産のほおずきで、網ほおずきに挑戦し成功しました。2008/09/06重石をしてほおずきを水に浸しました。 10/22取り出して振り洗いをし、爪楊枝でカスを 取り除きました。あえて漂白はしていません。) |
土曜日の銀座 (2008年7月6日) 銀座は歩行者天国だった。ベビーカーを押している若い夫婦の姿を多くみかけた。7月の第一週の土曜日とあってボーナス支給対応の セールの真っ最中。行き交う人たちに若い頃の自分を見た。育児に専念していた頃、ブルーの幌つき簡易ベビーカーに紙おむつと粉ミル クとおしぼりとバスタオルと着替えを入れた大きなママバックを持ってたまに銀座に出てきていた。東横線で渋谷にはよく行ったが銀座 は特別な場所だった。おしゃれをして通りを通るだけで嬉しかった。脱日常の時間を歩いたものだった。 土曜日(7/5)の夕方、娘と待ち合わせて家族みんなで「ハクビちぎり絵展」を観た。展示会場は4丁目交差点側の大黒屋と鳩居堂のギャラリー。 出掛ける前に「どちらのほうから見ましょうか」と義母に訊いたら、「広いほうから観たいわ。疲れてからはよく観ないもの」という答 えに私たちは大笑い。ところが銀座に着いたのが遅くなってしかも喉がとても渇いていたので喫茶店に入ろうと思ったがどこもかしこも 人が並んでいたのでやむなく食事を。お蕎麦も美味しくお茶も美味しくお店の棟方志功の版画も鑑賞できて得した気分になれた。 「今、着きました〜」と娘から連絡が入ったので大黒屋から先に見ることにした。7階ギャラリー中央に木の大きなテーブルひとつ、椅子6脚。 手荷物を置いてゆっくり鑑賞することが出来た。講師と師範の作品75点。運良くお客様が途絶えたところだったのでいよいよ我がファミリーの時間は濃くなっていった。写真撮影OKということで家族の気に入った作品を2 箇所の会場で撮った。(当サイトの動画がそうです)鳩居堂ギャラリーは、4階と3階合わせて創作作品300点以上が展示してあった。見ごたえがありすぎて少々疲れが出てきたが、中 央の椅子に掛けて鑑賞することができたのでしだいに疲れもとれてきて義母はとても熱心に見ていた。ときおりメガネを外したりまた掛け たり離れたり近づいたりとそれは絵画展を観るときよりも熱心に見ていた。ヒントをいっぱい得たのだろうと思った。 私たちは和紙だけであれほどの絵が描けることに驚いた。ちぎり絵の製作過程を身近で見ていてもそう思っていたが300点もの作品を見たあとは話題がとて も豊かになって食事の間も続いていた。義母は「しゃぶしゃぶコース」を選んだ。「なんでもいいですよ〜。みんながいいのでいいですよ〜」ということだったがお肉を選んだ ことにまた拍手をしたくなった。乾杯もしっかりした声で、話す声はいつもより大きく聴こえた。孫に手をひかれ御機嫌な一日であった。 追伸:私は家族より先に「和紙ちぎり絵展」を友人と見ました。平日とあって通りは大人の街の印象でした。お茶して話題は遠く離れて 暮らす親のことになりました。彼女は新聞の短歌の欄を切り抜いてお母様に毎月郵便で送っているのだそうです。今は短歌をおやめになっ ているお母様と繋がっている時間を感じました。私はこうやってをりをりで親戚・友人に近況を報告しています。 |
いくつになってもおしゃれは楽しい (2008年7月2日) 最近爪が伸びるのが早い。髪は部分的に伸びが早い。先月ヘアーカットをして翌日までは気に入っていた。 私の襟足は長くて髪は外側にぴんぴんはねるので希望するスタイルに近づけてくださるけれども希望通りに はならない。もう少しシャギーをいれてみたくなって隙バサミを使って自分でやってみた。(夏だし、寂聴 さんの頭髪にならなければいい)面白くなってきた。合わせ鏡でチェックしたあと、義母に「どうですか〜〜」 と後頭部をみせた。(変化に気づいていない!)それ以前を見せていなかったので無理は無い。「いいわねえ〜」 という返事を期待していたのでちょっとガッカリ。やり直すことに。直しているとどんどん直って変わった。「いいわねえ」と。 「よかったらやってみましょうか」と義母の襟足に手を触れたら「来週銀座に出かけるから美容室でカットするわ」と即返事が 返ってきたのだった。 そして本日、義母は家の近くのいつもの美容室へ行ったのだった。フロントを高く襟足は長めで耳が外に出ていた。 (もう2センチ短くしたいなあ〜)お顔ツルツル。眉の周りはピカピカ。お顔のイボの頂点もキュキュキュしていてピンク色。 私はとうとう隙バサミを使う機会を失った。技術的な信用を得ることができなかった。 美容室からの帰りに老人会のお仲間の方が「みんなで行ってきました〜」と開催中の「ちぎり絵展」の←クリック 様子を教えてくださったのだそうだ。「銀座大黒屋ギャラリー」←クリックに出品した義母は とても喜んで帰って来た。髪型のことよりも先に話してくれた。 久しぶりに電車に乗って銀座へ行くのでおしゃれにして行こうかしらと思っていることが分かった。70歳くらいまでは それはとてもおしゃれにしていたが背骨が弱くなってからはダンスを止め、スカートも徐々に履かなくなり、ローヒールも 履かなくなり、イヤリングもほとんどつけなくなり、ネックレスは全くしなくなった。義母のおしゃれ復活のきっかけが出来て 良かった。私も一緒に出かけるのでどこか替えようと思っている。 今、私の右側の頬骨の上には赤いポチがひとつ、目立っている。ポチになったのは”蚊”に攻撃を受けて(それを気づかない でよく寝た)できた美味しい証でもある。そして二日経った今もポチは小さくなっていない。頬骨は顔の中でも柔らかい部分と 化して”蚊に”やられたのであるから笑えない。脂肪が下降して頬骨が堰止めしている。やがて行く着く先は生母さま。離れて 暮らしているのでカガミは遠い。遠いので義母さまに倣いましょう。お互いにいたわりあいながら・・・。 |
豆 (2008年6月22日) 「まめ」 まど・みちお 豆に「まめ」という ぴったりの名まえを だれがつけたのだろう さっぱりしている ひきしまっている りっぱというほかはない つけたのは 人間ではないのでは? と 思われてくるほどだ ほんとに それはもう このへんの 小鳥やけものや 木や草や 雨や風や きせつまでが 人間と いっしょになって ながいながい時間をかけて 磨きあげてきた名まえにちがいない ヤブマメ ツルマメ ナタマメ タヌキマメ ああいい! シロマメ クロマメ アカマメ ウズラマメ ますますいい! 先日行きました三鷹のジブリ美術館で、まど・みちおさんの詩集に出会いました。それからいつも手元に置いています。 私の名付け親は夫のそらまめです。私は大の豆好きです。「まめ」の詩を楽しく鑑賞しました。 ソラマメ エダマメ まめまめばんざい!と続けて読みました。 |
いつかきっと、それが実現した時 (2008年6月17日) くろまめの小さな展示室に立ち寄ってくださる方々の中にビタミン愛さんのお仲間がいらっしゃいます。みなさん共通して『赤毛のアン』のファンです。 いつの頃からだったでしょうか。「みんなで『赤毛のアン記念館』←クリックへ行きたいですね。 あそこで茶話会に集まったら楽しいでしょうねえ」とメールを交わすようになりました。「いつかきっと」、「今年こそ」、「今度こそ」と数年が過ぎて行きました。 今年4月に、いくつになってもさんから「私たちも上京します。会いましょう!」とメールがきました。ありのままさんからも「会いましょう!」とメールがきました。 実現に向けてみなさんが時間調整をしてくださり6月12日〜13日(1泊2日)に決定しました。待ち合わせは、日本橋三越・新館7階「赤毛のアン展」入り口前1時半。 6月の週間天気予報は両日とも雨。会えることが嬉しいのですからなにも問題はありませんでした。 その日がやって来ました。ビタミン愛さんとるんるんちゃんと私は早めに三越に入りました。目的は他にもあったのです。モンシュシュ の「堂島ロール(シンデレラロール)」を予約しました。そしてお昼をいただきました。チケットを購入し荷物をロッカーに入れてみなさんの到着を待ちました。 その間、グッズ売り場を見て歩きました。大正乙女、昭和一桁世代の方たちのお買い物籠は一杯になっていました。それほど長く読み継が れている『赤毛のアン』なのですね。そういえば、前日に私たち3人は劇団四季の「赤毛のアン」を観劇しましたが観客の中に80歳前後 のご婦人、50代60代、20代30代40代も。男性はマシュー世代の方たちがいらしていてファンの層の厚さに納得したものでした。 ・・・あらまあ! わき道に入りましてごめんなさい。 7階のエレベータが開きました。いくつになってもさんと花ちゃん、ありのままさんとさくらちゃんが出てきました。私はビタミン愛の 部屋に投稿してくださるママさんたちと花ちゃんとさくらちゃんにお会いして花ちゃんとさくらちゃんにどのようにご挨拶をしていいか戸 惑いました。「はじめまして〜くろまめです」と言いましたら、さくらちゃんから「くろまめさんって? お名前は?」って訊かれました。 (いけない、いけないぞ)「これは失礼しました〜」姓名を名乗りました。アングッズのお買い物を済ませてそれから会場に入りました。 本の中を散歩しているような気持ちにさせてくれました。当時はお部屋におまるをおいていたわけですから当然再現したお部屋に置いてありました。ホーロー製のおまるの絵柄はピ ンクのローズでしたよ。誰もが満足できた展示室を出て、予約していた堂島ロールを受け取りました。ホテルで茶話会ができましたよ。 子供達同士は歌ったり書いたり描いたり、それぞれの趣味のことはビタミン愛のお部屋で読んでいましたから分かっているつもりでした。 発表の場があることは恥ずかしいことでもあり嬉しいものだろうと私は思います。この入り混じった感情をるんるんちゃんは”嬉しい”がほとんど を占めているように感じました。私は長い歌詞を目を閉じて聴きました。そして目を開けたらコロコロ楽しそうに発表してくれました。 花ちゃんは礼をして「音楽の先生が厳しいのです」と紹介してからプロのソプラノ歌手のように両手で空気を押し上げたり転がしたり揺らしたり して美しい声で発表してくれました。歌はオリジナルなのだそうです。落ち着いたやわらかさを感じました。 さくらちゃんは深く礼をして胸に手を置いてドキドキを沈めるしぐさをしてふう〜っと息を吐いてから始めました。お膝を打って拍子をとり丁寧に明るく歌ってくれました。 間もなく合唱部のコンクールなのだそうです。その歌を発表してくれました。 みんななんて素敵なこと。マナーが良くて私は恐れ入りますという思いになりました。翌日の「ジブリ館」行きでは三人とも親しみが増したように感じました。お手紙の交換が始ることでしょう。 そうそ、さくらちゃんはアニメの「しずかちゃん」が大好きでヘアースタイルもしずかちゃんのようにしていました。電車の中で「『さくら』から『しずか』になりたいです」と言ってくれました。(了解しましたよ。) 花ちゃん、お首が弱いのでみなさんに判っていただけるよう何度でも詳しく発表していただきましょうね。 るんるんちゃん、たくさん歩くと足がかくんかくんしますから少し痩せましょうね。 しずかちゃん、頭がときどき痛くなるのね。我慢しないで伝えましょうね。 ダウンちゃんたちとの一泊の旅を終えてから指を折って数えています。思い出すシーンがいっぱいあります。発見と感動のシーンです。 4日目の今日、ほんの少しですが紹介させていただきました。 追伸:いくつになってもさんは、帰りの新幹線の席で温かい出合があったそうです。優しいまなざしの紳士が「わたしの子供はダウン症です」とおっしゃったそうです。 一期一会のご縁を感じたとメールで知らせてくれました。 |
横浜、変わらない確かな人 (2008年6月16日) 私が横浜に出てきた翌年のこと、慶応の受験生と間違われて「カツ弁当」を買わされそうになって 「通勤の途中ですから」としっかり断ったことがあった。あの頃の学生のファッションはニュートラ ルックで社会人と学生の区別がつきにくかったのだと思う。 先日、私たちはここ日吉駅に降りた。迎えてくださったご婦人は27年前横浜のある結婚披露宴会場でお目にかかった 桜子さん。髪は短くされていたがお変わりなく優しい笑みで迎えてくださった。 雨も優しい。桜子さんのおうちの庭は自然の野草がそのままに育っていた。お嬢さんの泉さんお手製のお料理を前にして 私たちは今現在を紹介し合った。泉さんは数年前から自作の切り絵で影絵紙芝居の物語を作り、語り部となったときは「撫の巫女」 という名前で朗読をされているのだそうだ。丹沢ブナ党(自然保護団体)←クリックでもご活躍であることが分かった。 私たちは影絵紙芝居を見せていただいた。ステンドグラス風の影絵もモノクロの影絵も素晴らしく美しかった。主人公の「日本おおかみ」 の言葉はとても分かりやすく、朗読の声も間も耳心地よかった。傍らのトランクの存在が気になって仕方なかった。トランクには夢があるものだ。 中には紙芝居の効果音に使われているらしいCDが入っていた。篠笛のCDを聴けて良かった。私は故郷の村の神楽囃子の笛の音を想った。 篠笛はアニミズムの世界に溶け込んでいると思った。 鈴木桜子・画 ポストカード『野の花・山の花』、 梶谷泉・著『聖なる黒の復権』 『丹沢を駆け抜けた戦争』、 ポストカード 梶谷泉・画 『まつろわぬ者の美・狼』をいただいた。 外に出ると雨あがって庭のどくだみが冴えていた。 註:鈴木桜子 著 詩集『ひぐらしの鳴く刻』について、くろまめのをりをりー2(2004.4.4記)で紹介しています。 |
雨、雨粒、霧 (2008年6月5日) 恒例の「写生画友会・スケッチの旅」は予報どおり雨の出発となった。バスのワイパーは必至で働いていた。私は運転手さんのすぐ後ろの席に座って、 窓をつたう雨粒を見ながら俳句の気分になっていった。 幼いときからバスに乗るときは一番前の席が好きだった。その席が空いていないときはその席に掛けている人をうらめしく見ていた のではないかと思う。集合時間を少し過ぎてから乗り込んだのに空いていたのは運転手さんから運転席の後ろは空けておいてください と言われていたのだそうだ。そう聞いたあとも動くのは惜しくて座っていた。 運転手さんのケータイから雷鳴が聞こえた。そして「悲しき雨音」のメロディーが続いた。私の全神経はこの音楽を気に入ってい るに違いない運転手さんに向いた。「それって カスケーズですね」と聞けばどんなふうに答えたのかな。「6月ですから」ではちょ っとつまらない。聞かずじまいがミステリアスで面白い。 スケッチは軒下から見える風景をそれぞれが描いた。私はどうしても藁葺き屋根が描きたくて画紙の半分以上を屋根で占領した。従 って残りの空白は山並みと樹木と階段になり「ここはどこですか」となってしまった。構図もデッサンもめちゃくちゃで存在するのは 目線の定まっていない描きたい思いの屋根だった。もう一枚横に繋げば空も山も広がって「ここは平家の里です」の絵に仕上がるので はないだろうかと思った。夕餉のあとの合評会で先生からのご指導をいただき、描き直すしかないことに気付けた。写真は雨の走りの 雰囲気はあったので良い記念写真になったと思う。 翌朝5時起きで男性のほとんどは外に出て描いたのだそうだ。私は霧が晴れてゆくのを窓から撮ったが東山魁夷の世界は出ていなか った。それでも出発までまだ間があるので仲間とカメラを持って外に出た。パチパチ撮れば電池切れになり散々だったが、人通りの無 い道の真ん中をゆっくり歩けたことは大いに満足できた。 本日、写真をプリントした。描きたい思いの屋根はよく撮れていた。その周辺も目線が同線にあったのでつなげて見たらほぼ一致した。 これは傘を挿したまま撮ったのでパノラマに近い写真になったのか?。 先生のおっしゃった「雨も又良し」、確かにそう思えた今日だった。 |
続・テレビ「田舎に泊まろう」が故郷の村に泊まっていた (完) (2008年5月26日) 翌朝、お味噌汁の中身はフダンソウ(和名、不断草。私も朝に夕に採れたてをいただいたのですぐに思い出せた)。村の朝は早い。前田健さんもスタッフさんたちも(おそらく)家の前の柚子畑の草を抜いてきれいに していた。「まあ〜これはこれは〜。道のごとなりましたが」と夫妻が目をまんまるうしてよろこんじょりやった。 番組を製作する側はできるだけお宿に着くまでを急がず回る。回ってきた先の断る側は「まっくろうなってゆくがこんひとたちゃあどうすっちゃろかい。まこて」(このままだと真っ暗くなって行きますが、みなさんはいったいどうなささるのでしょう。心配だなあ」と 思った人がほとんどだったに違いない。私は、同郷の友が見ているかなあと思いながら見ていた。そこへ電話が鳴った。同じ考えで見ていた友からの電話に故郷はまこち繋がっていると思ったものだった。そして放送から6日目の土曜日、再放送を録画した。宮崎は夏の放送になるとのこと。 日本の奥にちょこっと入って来て去って行った彼らの胸に残ったなにかが再び足を運ばせてくれることになればいいなあと淡い期待が私に残っている。 |
テレビ「田舎に泊まろう」が故郷の村に泊まっていた (2008年5月26日) 先週の日曜日(18日)、テレビをみていたら農家の女性が「いまどき、かまどでご飯炊く人はおりやらんわ」とタレントの前田健さんに答えている。その独特な イントネーションに私はたまげた。筍を釜で茹でている。手は素早く水平移動している。蕗を洗っているのか皮を剥いているのか判らない。ポンポンと返って来る小気味の良い言葉に 前田健さんは可笑しさをこらえて鼻口を膨らませている。「畑や田んぼをみてきない」と言われて見に出て行った。「360度が山だ!」と驚嘆している。「ハイ。みて来ました」と報告している。 女性は「こうやってぜんまいを干しとるとよ」と乾燥ぜんまいを見せる。「筍とぜんまいの煮付けは美味いとよ」(食べさせたいなあと顔は言っている)でもすぐに「忙しくてな らん、帰れ!」と宿泊を断った。ここで交渉を続けていたら続編が見たくなるほど愉快なことになっていたことだろうに。番組はここでは終わってはいけないわけで、次の訪問先は、 鹿や猿の進入を防ぐためのゲートのある農家だった。ご年配のご夫婦とワンちゃんが暮らしているようだった。「勘弁してください」と断る男性の言葉は、実直な人柄がにじみ出ていた。 延々と歩くことになり、暮れてきた。ヒッチハイクをするしかなくなり、「あのう、僕だけ乗せてください」とお願いしていた。先導車に付いて行くスタッフの姿は見えないが、想像しただけで もう可笑しくてたまらない。やがて私のふるさとに続く道に入って行ったのだった・・・。 中学校の当直の先生が「この上に里親さんがおりやるですが。」と宿泊を決定させる案内をされた。家の主は、昔、小中合同大運動会が行われていた頃の青年団のお1人だった。お名前と年齢がモニターに出た。 Kさん67歳。Sさん61歳。昔から変わらない村の大人の笑顔が二つと留学生の中3の少年の素直な笑顔ひとつ。コタツを囲んで「どうして留学生を?」と主に問えば「学校がなくなるからですよ。なくなると村もなくなります。 10年毎年卒業式ですわ」と応えた。少年は「最初は不便さに驚いた」とニコニコ。Sさんが「参観日も出んといかんし、忙しいですがー。また淋しいなりますがあ。落第してもいいからまだいないよとゆうちょっとですよ」と。 ご夫妻と少年の短い言葉の中にすごい量の気持ちが入っていた。前田健さんにもビンビン伝わっていることが感じられた。ご夫妻と少年と前田健さんの夕食風景がいつものまんま(自然な暮らし)を捉えている。「裏の竹藪でとれた筍ですが。 米は田んぼでとれました」妻のこしらえた筍と鶏肉の入ったご飯をご主人が紹介された。少年が「いただきます」とお箸を持って礼をして、前田健さんはハッとしてそれに倣った。番組が村に やってきたことをこころから歓迎できた瞬間だった。・・・・・・・・つづく |
ゆっくり18,555歩 (2008年5月24日) 4月5日に捻挫してから無理しないようにしてきた甲斐あって、歩くことができるようになってきた。 5月21日、思い切って「写生画友会」のスケッチに参加した。お弁当は途中で買うことにしてコーヒー5杯分をポットに入れて、手作りのパンツを 履きたくて、披露したくて、コーディネートして出発(ここまでは実に爽快)。しかしコンビニにはサンドイッチを置いていなかった。 上りホームに立ち考えることはお弁当。みんなと合流してからあそこのお弁当やさんが休日だったら(おにぎりを作ればよかったなあと 反省)・・・そのまま足元に目を落とせば、蟻さん発見! 黄色い線の向こう側の世界をしばらく廻っていたが今度は前後に5cmほど何往復も続けて止まらない。食料を捜しているのだろうか? まだなにも得ていないではないか。この蟻さんは今日の日をどのように過ごすのだろうかと途方もない考えにはまっていって私の目は 食を探していた。蟻さんは触覚嗅覚では感知できない場所に居るのではないかと心配になってきた。それでひょいとつまんで黄色い線の 内側にそっと這わせた。すると蟻さんは「ここはどこ?」ってなったのかどうか? 体をひねった。私のつまみ方が悪くて空中で骨折で もしたのかどうか? そうこう思っているうちに遠くなってしまった元の世界に向いた。私の勝手な思いで余所の世界に運ばれて相当 憤慨しているのでは? そのような明らかな意思を表したように見えた。電車がホームに入ってきても風圧を微塵も感じないような体で ミリ、mm、ミリと前進している。私は席に座り、蟻さんに3分ほど関った時間を反芻した。たった一匹で壮大な宇宙を気に入って歩い ているのか。無事に暮らせよと思うしかなかったが。 お弁当屋さんは休日だった。仲間のひとりがお弁当を持ってきていなかったので私達はみんなとはコースを離れてお弁当を買いに行った。 自転車の彼に付いて行った。待望のサンドイッチもおにぎりも、みんなにアンパンも。レジで「どうぞ、くじ引いてください」と言われ ヨーグルトが当たった。近道をして合流地点へ着いたが、仲間は誰も居ない。居るのは釣り人ばかり。ケイタイのない私たちは、皆が到 着するのを待つことにした。もしかしたら、ここの「古利根」ではなくて対岸の「古利根」なのではという思いに至って対岸に向かうこ とにした。(二人はとてものんびりと結果を出したのだった) そらまめ畑、ジャガイモ畑、花畑、茶畑を通過して柿若葉を愛でながら、アイヌ語の地名が多いことを話題にしながら歩いた。ふと振り 返ったら、リーダーが汗を拭き拭き早足でこちらへ向かって来ているではないか。いや〜〜驚いた! 頭が猛スピードで回転した。リー ダーは黙って頷いた。そして「自転車でどうぞ先に」と促して他は何も言わなかった。私たちがアイヌ語のことを話題にしていた辺りから、 リーダーは私たち探しをしたことが分かった。みんなに迎えられて恐縮至極。お昼をりっぱにいただき、常円寺・9番札所とその隣の 水神社を案内していただいた。水神社は舟大工さんたちの信仰のお宮だそうだ。狛犬の頭がカッパのお皿だった(見えた)もっとよく 観察すれば良かったと思っている。境内に鳥のさえずりと光が少しこぼれて揺れていた。 (追記:2007年12月(12/9記)も今年4月(4/4記)も「写生画友会」のみんなと取手周辺を歩いた。) |
那須省一 著『英語でさるく』 (2008年5月1日) この春、同郷の友人のコラムが本になりました。和文、英文ともに著者の執筆です。 (↓それぞれの写真は拡大して見れます。拡大アイコンが出ましたらクリックしてください。) 出版社の書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)←クリックにて 予約販売しております。全国書店にても注文できます。 注文可能ネット書店/Amazon、紀伊國屋書店BookWeb、楽天ブックス、JBOOK、本やタウン、ジュンク堂書店、丸善、ブックサービス、bk1、本屋さん、セブンアンドワイ、e-hon 。 私は『あとがき』を読んで、山の子だった頃のことが思い出されてきた。村の少年少女たちは縦社会で繋がって いたので誰それの姉妹、兄弟と分かっていた。みんなが互いの家のお菜の分かる間柄だった。みんなが校歌を歌っ て学び舎から散って行っても夏がくれば、冬がくれば、帰省していた。それぞれが社会人になってからは帰省する 時期がばらばらになっていった。大人になるとあの人この人があのひとこのひとだったかと印象が変わってきて分からなくなってきたりするが それでもインターネットで故郷のことがわかるようになり繋がっている感覚は消えない。ぜひ、ご一読を。 |
続・お花見で捻挫 (2008年4月9日) 帰宅して足を見ると内出血していた。痛みは弱かったが腫れていたので冷シップをした。日曜日は安静日と決めて ひとり留守番。体重が加わると痛い。くるぶしを押さえると痛い。月曜日病院へ行った。 医師「どっちの足ですか」 私は失礼しますと靴下を脱いだ。お気に入りすぎて履きなれたこの靴下はツルリーンって脱げた。飛んだ!! 看護士さんは笑った。医師の目がフクロウさんになった。 医師「ヒールを履いていたのですか。そういう場合はだいたいココガ痛いものです」とくるぶしを押した。(イタイッ!) 医師「左足首をレントゲンに撮って〜」とパソコンに向かって言った。私は一緒になってデーターを送るのを見た。 ツ〜〜〜って送信された。 医師「送りましたからレントゲン室で待っていてください」。(医師が笑った) レントゲン結果は異常なしという診断だったが写真4枚のうち1枚に黒い線が見えた。 医師「微妙〜ですが・・・。他の3枚には出ていませんね。ウーンこれでいいかなぁ」と(医師納得) 左足首に着脱自在のベルトをクロスして留めてくれた。経皮吸収型鎮痛消炎貼付剤を9日間分とお風呂もいいですよと言われて その夜ゆっくりお湯に浸かったら軽くなって普通に歩けた。しかしそれは束の間だった。 「微妙〜」と言った医師の言葉に思い当たることがあった。7,8年前、レストランの西日が強くて耐え切れ ず自分でブラインドを下ろそうとして左足の靴紐を右足で踏んで外側にねじれたことがあった。自然治癒したかと思っていたが もしやあのときのアレかも。あの時はウォーキングシューズだった。今回は6センチ以上あるゴム底の布の靴だった。 今日で6日目。痛みがはっきり点になってきた。内出血も薄らいできている。運動不足にならないように 毎朝、ひざまづいてお掃除(ローラー式)している。骨の丈夫な傘にすがって移動している。三度目が時間を 空けてやってこないように注意をしようと思っている。 |
お花見で捻挫 (2008年4月9日) 4月4日は「写生画友会」の仲間とゆかしき街を探訪できて大満足。翌5日(土曜)は隣町の「今井の桜」を見に行った。 今年も1月、2月、3月、4月と毎週末にかけて定置点で撮影をしてきたそらまめが今日は 見頃だと言った。友人と一緒に出かけた。 苺園の「イチゴ狩り」の旗は優しく揺れていた。老人ホームの正門も大きく開いていた。左遠方に 桜並木が見える。先週とは色も分量も違って見えた。橋のある場所に入って行くとみなさんマナー良く 橋からうんと離れたところに並んで駐車していた。あぜ道に足を下ろしてドアを閉める。バチッと鳴った。 放電するものを妹がプレゼントしてくれていたのに忘れていた><。 トランクから先ず奥にあるシートを取った。次に手前のお弁当を持ち上げた、左足がズルッと滑って 傾いてグギッと鳴った。骨にきたかな? 不安がよぎった。 そこへそらまめが荷物を運びに来てくれた。「どうした!!」「う〜ん、なんかね、ひねったみたい。 危ないワア。ここは」と荷物を渡して「大丈夫よ。ホラ」と見れば、そらまめは災難にあう寸前の傾きを して踏みとどまった。彼は足のサイズで難を逃れたのだった。 橋から少し離れた場所にシートを広げた。橋に集う人たちはカメラを水路に向けたり花に向けたり人に 向けて撮っている。水路の両側の土手に280数本の染井吉野や八重桜が続いていて、他には田んぼと畑と 人家。出店がないことが一番嬉しい。 通路の邪魔にならないようにしてお弁当を食べているグループがいる。自然のままの並木は宴会ムードに なれない力を持っている。和服のご婦人が歩いてくる。若いひとたちが自転車を押しながら近づいてくるのも 幼子が摘み草をしたりトコトコ走ったりしている様子も美しい。いつまでも自然のままであって欲しいという 気持ちはこの場所にやってくるひとたちの共通の願いだと分かる・・・。そんなことを思ったり感じたりしながら よく食べたのだった。 帰りは泳ぐように歩いてそして花見は終わった。 |
桜の旧水戸街道探訪 (2008年4月6日) 4月4日(金曜)「写生画友会」の仲間たちと旧水戸街道を歩いた。M氏の案内で取手駅前を出発。 天気晴朗風やわらかし。すれ違う人は少なく最良の日であった。 取手の街は屋根や塀や壁や座敷稲荷に江戸時代を残していた。また桜も他の花木も樹齢300年 近いものが花を咲かせていた。田園の広がるここは小貝川の氾濫で新田開発がなされたと言う。 「埋蔵文化センター」に立ち寄って『江戸時代の取手展』を鑑賞した。玄関まで形の違う豚さん たちの行列が伸びていたのでこのことも知りたくなって施設の方に尋ねたら「近くに東京芸大が ありますので卒業作品(取手市長賞受賞者)の発表をしているのです」ということだった。作品 のタイトルは「87」であった。(87は豚の数) お昼は桜公園の東屋で桜を見ながら。それから相野谷川親水公園辺りでスケッチ。私は向こう岸の 我孫子市に向いて描いた。視界の端に赤い屋根の我孫子市の体育館が見えた。親水公園の内も外も桜を造形美のように配していなかった。野趣味のあるところに日本の美があ るように思うのだが入園料で管理している場所も確かに美しい。 ここから取手駅に戻って行った。途中、街道の吉田地区でサイカチの木を見ることができた。マメ科 の木で樹齢200年以上?だったような。利尿薬にもなるとか。大きな鞘が落ちていた。枝先は長 く鋭い棘がいくつも出ていた。賊や敵に対して罠をかけていたのだろうか? 利根川に沿って取手宿本陣目指して歩いた。土手の風が心地よい。小堀の渡しの船着場が見えてき たが乗り場まで降りて行っても25分くらいかかりそうな距離だったことと下船してサッカー場を 抜けて歩くので今回は止しましょうとM氏の判断だった。バスも船も使わずに花を愛でながら取手宿 本陣に到着。茅葺の屋根は葺き替えの最中であった。 駅前でお疲れ様の乾杯。そしてスケッチの合評。 万歩計はしっかり歩き:119分12,482歩。だらだら歩き:26,973歩。消費カロリー849kal。(数字はS氏の万歩計で歩幅80cmの設定による) 相馬四国霊場のお遍路道を通るので私は大師堂の地図を持参して参加していた。 13番、7番、14番、11番、2番。(3番の八坂神社はパス)、本陣そばの長禅寺の1番、5番、結願所88番の計9箇所の大師堂におまいりができた。 下総の四国巡りや閑古鳥 (長禅寺の一茶の句碑) こうして取手の史跡巡りは終わった。M氏の言った「人も街も古くなれば深くなるんだよ」という言葉が 耳に残っている。 (追記:取手宿本陣には2007/12/7に初めて訪問している。「くろまめのをりをり−5(12/9記)」) |
『暮らしの手帖』と別冊『すてきなあなたに』 (2008年3月13日) 昨年の暮れに「暮らしの手帖・12月号」を娘が「懐かしいでしょう〜」と買ってきてくれた。 そしてまた今年「早春号・2−3月号」を買ってきてくれた。 表紙から目次に目を通して読んだ。暮らしに役立つ実質的な情報もシンプルな暮らし方の提案も変わって いないけれどもおしゃれに感じた。懐かしさと新鮮さを届けてくれた娘に感想を伝えた。 早春号に暮らしの手帖アーカイブが載っていた。ここに紹介したいと思う。(以下、本誌記事抜粋)。 1958年2月5日発行『A.D.2008年の暮らしの手帖アメリカ版』という特集記事がある。アメリカの家庭誌『PARENTS』の記事を翻訳・転載したものだが、いわば 「50年後のわたしたち」を想像してまとめた未来の記事だ。50年後(つまり現在)は、「ヘリコプターやモ ノレール電車のようなすばらしい高速度の機関が発達」していて、中央都市に産業が集中することはなくなる。 仕事も住まいも郊外にあり、通勤に無駄な時間やエネルギーを使わないですむ。それには、「テレビは思いも よらない使い方ができるようになっていてもっと便利な即時通信連絡の方法がある」ことも役立っている。現在 は、まだ通勤にたいへんな思いをしている人も多いが、見事に予見されているようだ。50年前のこの年は、 1958年(昭和33年)映画「ALWAYS三丁目の夕日」の舞台となった年でもある。秋まで「なべ底不況」が続いた。 8月には即席麺の元祖「チキンラーメン」が発売された。当時の平均寿命は、男性64.98歳、女性69.61歳。 現在は男性79.00歳、女性85.81歳(2006年)と、約15年も伸びた。(以上、本誌記事抜粋)。 アメリカ版には未来図がイラストで描かれていて、同じ号に庶民のあこがれの文化住宅のようなキッチンで キッチンの研究をしている。台所の火についての考察は、台所設計の基本が述べられいる。火の数と鍋の 数の実験ではご飯・みそ汁・ちくぜんだきを作る時間と効率が調べられていた。あれからそれから50年、 私は科学技術の進化がもたらした弊害を思わずにはいられなかった。 『暮らしの手帖』は、行過ぎた文明を静かに立て直してくれる、時間にゆとりをもたらしてくれると改めて思った。 そして後ろの広告の頁に『すてきなあなたに』の1巻〜5巻が並んでいるのを見たとき私はまた過去の時間の中に入っていった。 左「1976年12月18日有隣堂にて」と記しているから新婚7ヶ月のときに買ったことになる。 右は「娘より1997年○月○日誕生祝」と記している。 この2冊のあとがき(←クリック)を ここに(←クリック)紹介したい。(註:拡大アイコンが出るのを待ってクリックすると文字が大きくなります) 余談だが本の定価の表記は、1巻、一千二百円。2巻1800円(本体1748円)。現在1巻〜5巻、各1800円(税込) |
札所めぐりと銀杏の木 (2008年3月9日) 日曜日。ゆっくり起床。ベランダに出て花屋さんを見下ろす。お店のポメラニアンの尾っぽが振り 振りしている。繁盛しているようだ。少し風が出ているがよく晴れている。映画を観ようかそれと も春探しのドライブにしようかと考える。ブランチにカスピ海ヨーグルトにサイコロ林檎とコラー ゲンを入れる。コーヒーを飲む。そらまめが焼きうどんを作ってくれた。ニンニク、人参、玉葱、 長ネギ、ウインナー、ピーマンなどお野菜がどっさり入っていた。 新聞の「天声人語」には俳句が紹介されていた。 子も猫も母の近くに桃の花 (永田英子) やわらかい時間だ。札所めぐりへそらまめの運転で出発した。 2月は市のバスで新四国相馬霊場札所めぐりが実施されたのだったが私は気ままに季節を楽しみな がら巡ることにしていたので応募しなかった。昨日はそうして良かったと思える日になった。 76番、龍泉寺の大師堂は屋根が高く幅も広く全体の造りが大きかった。境内に幼稚園があり、走 る汽車ぽっぽも設置されていた。竹林があり銀杏の大樹が枝を空に広げていた。このお寺の弘法大 師歴史絵と、少し離れたところにある28番、60番札所にはまた次に。 25番、地蔵院。形の崩れた石の門柱からご年配の男女がぞろぞろ出てきたので注意しながらゆっ くり過ぎようとしたときに門柱の文字が読み取れた。老人会のお集まりだったようだ。お爺さんが 「お大師様めぐりですか。どちらからですか」と声を掛けて下さった。「ここに住んでいる者です。 長く住んでいるのですが何も知らないので・・・」と言ったらお爺さんは優しく笑って「ここには 千体の観音像が置かれていますよ。写真を撮ってあげましょうか」ともおっしゃって・・・困った。 「もうきれいではないので」と言ったら大きな声で笑ってくださった。大師堂は全体に白く注連縄が かかっていた。そしてここにも銀杏の大樹が立っていた。 77番、葺合格(ふきあえず)神社。駐車場がなく月極めになっていたのはなぜだろうか。運良く駐 車場の向かいからご婦人が出ていらして「どちらからですか。ご参拝ですか」と聞かれた。「地元の 者です。ここに札所があると聞いたものですから・・・駐車場はどこにあるのでしょうか」「駐車場 はうちのですから少しなら停めてていいですよ〜。ここを下りて左奥にありますよ」とそれは親切。 長い階段を下りると竹林があり銀杏の大樹が2本立っていた。お大師堂の入り口の柱は新しく丸みを おびていた。神社は1186年建立だそうだ。昭和40年代に改装されたそうだ。変わらないのはお 大師堂と銀杏の木と竹林・・・。3つの駅の間に13箇所の札所があるこの街道についてもいずれ調 べてみたいと思った。4月は花の香る寺へ。5月は若葉風を受けながら続きをまわろう。 |
ネズミと米俵 (2008年2月29日) 先日、義母の内視鏡検査の日だった。この日も南風が強く吹いていた。病院送迎バスの停車場ま でほんの数分だが体調の悪い義母の歩みが気になった。風除けになる場所に義母を待機させてから 駅に義姉を迎えに行った。義母にとっても私にとっても義姉(義母の娘)が一緒だと心強い。バス を待つ人が数人並んでいた。酸素の入っているらしいものを持っているご婦人もいらした。付き添 いのいない方たちのことが気になったが自発的にそうされているのかも知れないなあと思ったりご 家族は遠くにお住まいなのかなあと思ったり、田舎の両親のことを思ったり・・・。バスは風を考 慮してか早めに入ってきた。「おはようございます」とみなさんがバスに乗り込んでから病院に着 くまでの間に満席になっていた。病院では紅梅、椿、蝋梅がきれいに咲いていた。「ありがとうご ざいます」運転手さんに礼を言ってみなさんがゆっくり降りた。ゆっくりゆっくりこのリズムは大 切だ。病院に来て感じることは患者のリズムが崩れないようにすることかなあとこの日実感した。 内視鏡検査を終えて医師からお話を聞いた。医師は「長いお付き合いをしましょう。体調が良く なってもお薬は止めないでくださいね。増血剤と胃薬を飲んで2週間後にまたきてください。貧血 はおそらくびらん性胃炎からでしょう。」と大きな声で分かりやすい言葉ではっきりとおっしゃっ てくださった。義母の貧血が慢性化していたことをもう少し早くに気づいてあげればよかったと医 師の話を聞きながら思った。感じにくくなる年齢にきていることを家族が気づかないといけないと いうことを実感した。医師の太い声と笑顔とお薬のおかげで食欲も出てきて、昨夜は普通に食事が できた。本日は閏の日。春らしい陽気だ。洗濯物はほとんど揺れない。お布団もフカフカになるだ ろう。義母の部屋は陽がいっぱいだ。デンドロビウムがとても可憐だ。 義母は毎月午後、老人会定例会に出ている。午前中は折り紙を習っている。当初5,6名だったのが 今月は12名だったそうだ。講師の先生は毎回タイムリーな題を用意されている。病院から帰宅し て私たち3人は義母に習って折り紙をした。折り方の図をああでもないこうでもないと言いながら 出来るまで(すぐには出来なかった)悔しい私たちだった。昨日、再挑戦してきれいに(まあまあ) 出来た。閏のネズミを米俵に乗せて本日、ここに残そう。 |