くろまめのをりをり10(2012年1月から)


 毎日のようにベランダから富士山を眺めています。よく晴れた日は丹沢が見えます。平成24年元日
 の写真にスカイツリーが写っていました。平成22年の写真には建造中の短いスカイツリーが写って
 いました。太陽が少しずつ移動して行くのを見ていると今日の日を残しておきたくなります。

 


 良いお年をお迎えください。    (2012年12月30日)

  

 みなさまがたの投稿・作品に支えられて今年もすてきな年を送ることができました。  こころより感謝申しあげます。           銀鏡のおやつ 樫の実ギャー(蒟蒻)と唐芋餅です。 樫の実ギャーは、ダマになりました。     あいも変わらぬくろまめです。     なにとぞ ご容赦のほど。     新しい年にまた 樫の実ギャーで ご挨拶を申し上げたいと思います。     それでは また。  

 変わっても変わらないもの    (2012年12月14日)

 テレビで舟木一夫が歌っていた。  ♪友と歌った〜〜〜 ♪赤い夕日が校舎を染めて〜〜  なんか違う?   あやをつけてテンポを外して歌っている。私が欲しいのは当時のままのメロディーだ。 私の頭の中を流れる当時のメロディーから外れてほしくない。舟木一夫は姿も声も錆び ていない。すてきに歳を重ねている。感心に思う一方で、やはり思ってしまった。  カナダ時間の12月15日(土) 午後5時半には「トロント紅白歌合戦」の開幕だ。 紅白を見にいらしたみなさんがそれぞれの思い出の時間を引き出してくれる歌に出遭わ れることとだろう。  今夜7時からは、ふるさと・銀鏡で「銀鏡神楽」が舞われている。夜を徹して舞われる。 天気予報によると今日明日雨で例年よりあたたかくなるようだが・・・。    神楽を観ながら囃す歌(神楽囃子)がある。実家の隣のさよちゃんは、この歌を地元の 古老に教わって練習したと聞く。廃れないよう、廃れないようにと昔のままの抑揚で歌っ ていることと思う。歌は男女がかけあいで歌う歌(半ば定型化された)もある。  言葉の意味、背景を知る者が歌う歌は、必ず伝わる。銀鏡には古語がたくさん残ってい て今も使われている。  昔ながらの抑揚だから安心できる。昔ながらの抑揚だから即興の歌詞を楽しめる。  追記:銀鏡は14、15日はこれまでになかったほどの大雨で雷も鳴り、筵敷きの舞台    (外神屋)に屋根(ブルーテント)をこしらえて舞ったそうだ。  

 ひよこまめちゃんの12月   (2012年12月12日)

 先日のこと、  本当に良いお天気♪  91歳と90歳のおおおばあさまが ひよこまめちゃんを見ています。   

 寒い日が続いていたので こんなに晴れて こんなに嬉しいことはありません。    ひよこまめちゃんはピアノの演奏をしたり?  おもちゃを叩いたり   ボタンを押して 音が出ると ランプが光ると   振り返って 「ネッ みた?」って 顔します。   本を開いたり めくったり 閉じたり  グーパー グーパーしたり(指を開いたり閉じたり)  あー(しま次郎の歯磨き歌まね)  イエーイふうに(片方の手を挙げて手のひらを相手のほうに向ける)  その手にタッチすると とっても嬉しい顔します。    会いに来て下さった親戚のみなさんに 披露してくれました。  みんなが拍手拍手♪    集合記念撮影も楽しかったです。  ひよこまめちゃんは 眠そうにしていましたが〜  ウピャーって顔に撮れていました♪    みなさんがお帰りになる頃に すやすや すやすや(^^)  目が覚めて 不思議そうにしていました。     「おかあさんと いっしょ」♪    

 ♪みんなみんなみんなみんな ぴょーんぴよーん     おやおや 不思議な感覚続いているみたい。  ♪おいでおいでおいでおいで ぴよーんぴよーん     乗りはいまいち。    いただいたピンクのシャツを嫌がらずに袖を通しました。    みんな みんな 会いにきてくれてありがとう。    


 絵の上手な方たちのハンドメイド「ぷちっと展」初日   (2012年12月4日)

    

 ここは、千葉県柏市富里1−1−4 デザインショップ・エアーに併設しているギャラリー・エアー。  http://designshop-air.com/    「ぷちっと展」は、水彩画教室の先生と生徒さん、そしてその仲間のセンスの良いオリジナル 作品が会場全体をやわらかくしていた。初日の今日、千客万来! @@  クリスマスプレゼントにピッタリな作品ばかり。  水彩、アクリル、釦、リボン、ニット、カットソー、  コルク、板、ガラス、瓶、貝、和紙、植物などなど。  色彩のバリエーションに さすが!  唸ってしまう。    生活周辺にある素材の生かし方にも  額縁の扱い方にも  発想が豊かで見るものを飽きさせない。  悩ませるほど。    さて、本日のお買い物は〜 姪っ子のるんるんちゃんと私に♪   

 トイレのサンタクロース 中身はトイレットペーパー。包み紙の帽子の赤は染めたのだそうだ。    小さな額は、リボンをカットして貼ったツリーと淡雪の静かな夜・・・    ガラス瓶の中は、クリスマスカラーのリボンが幾種類も入っている。外側はアクリルペイント にビーズをのせている。ホワイトチョコレートを入れてみようかな。    大きな額と貝絵合わせは友人のK子さんの作品。額の中は水彩とガラス絵。貝の外側は和紙の  貼り絵と新聞のカラー刷りをカットして貼り、上からニスを塗っている。  他の作品群もすべてみなさんの豊かな発想から生まれた一点もの。  今日の盛況ぶりに会期中にまたまた新作が生まれることを期待している私だ。    = 7日(金曜)が最終日です =  お近くの方は是非!   こころぬくもるクリスマスプレゼントが ここにあります。  そして 出品者と来場者との新しい出会いが きっと♪    

 「yusa工房」の6人展  最終日  (2012年11月24日)

  

 ↑写真は本日のお買い物。  案内状に「・・・かご+服+BAG+胸のアクセ+おおきな安全ピン・・・」  訪問して実際の手仕事ぶりに感動した。胸のアクセは、とんぼ玉、山ぶどうの蔓の樹皮を 使ったブローチ、竹のブローチ、竹の釦、大きな安全ピンのブローチなど。  かごは、山ぶどうの蔓の樹皮やあけびなどで編んだバックや小物など、花活けかご、革の バック、革の小物などなど・・・。  服はパンツ、スカート、ジャケット、ワンピース、ショートコートなどなど。デザインは 1960年代のモード。さすがである。  最終日(搬出)とあって作家さんたちがいらしていた。 「やめられないとまらない手仕事楽しい」と みなさんのお顔に書いてある。    yusaさんはひとつのことに集中すると黙る。ラッピングしていた。緑系と赤系のテープを ちょちょっとちぎって貼ってクリスマスバージョンの出来上がり。赤い実が雪に映えている。  途中、私のだと気付いたがそのまま見ていたら「くろまめさん みてないで ここを押さえて」 と言われた。これがyusaさんなのである。この感じがいいのだ。  北海道のドングリの帽子と山ぶどうの蔓の樹皮で胴体部分を編んでいるストラップ(写真)を 今すぐにつけたくて仕方なかった。「袋に入れないでー つけて帰ります」とまで言ってルンルン 手に持っておいとました。そしてお庭の池を眺めたり樹木を仰いだりした。車に乗ったら、ストラ ップをつけよう(うふふふふ)。と思ったとき、手の中がさびしい〜。あれ? 手の中に何もない。 ここからダッシュしたのだった。彼女の家に戻り「ドングリがドングリが・・・」わけのわからない ことを言っていたに違いない。ようやく事情を理解してくださった方が、帰りの私の行動を聞かれた。 「ああしてこうして そしてここでこうして〜ここに荷物を置いて・・・」 「ここですね。ここに荷物を・・・」 「ああ! ありましたよ」。 あったのだった。池のそばの平たい石の上にポトリあった。  危ない 危ない、このパターン最近も いや以前も あった。  無事で良かった。こうして私のケイタイにぶら下がっている。なんだか笑って見ているよな顔に 見えてくる。  そして ユニクロの”本日限り”のダウンベストは、Lサイズは青と黄色だけがたくさんぶら下がっ ていた。そして若草色はどのサイズも一点もなかった。メンズのSサイズならどうだろうかと見てみたら 黒いベストが一枚ポヨヨーンとぶら下がっていた。会計を待つ人たちの行列は長く長くのびていた。 午後4時過ぎ、5分間ほど滞在して直ちに退散した。  手作りに感動し、手仕事の魔術にかかっている人たちとの不思議なゆるい時間を反芻している。

 東京元気ウォーク2012 参加して  (2012年11月23日)

  

 予報通り雨。予定通り決行!   私と友人は後発組の10時スタート。        国立科学博物館→かっぱ橋道具街(上 写真)→浅草寺→隅田川を渡り、国技館  →江戸東京博物館→柳橋→神田明神→アーツ3331(下 写真)  

 背中のリュックが濡れないように抱っこして歩いた。  途中の公園は改修工事中。昔の面影が薄まっていくのはいかがなものか?  晴れていれば、お握りを食べる最適の場所はどこにもあったのだが。  11キロ完歩 23000歩。  上野のお寺の石の階段で食べた。(工事中で人いない ラッキ〜♪)  友人がビニールシートをひろげると、住人らしき猫くんがそろりそろり・・・。  近づいてきた〜。恥ずかしながら お握りをとられたくないという守りに入った私。  「ごめんね〜 」と言葉で伝えたら猫君は去り、おみかんを食べていたら再登場。  とってもふくよかでつややかな猫君はきっとどなたから賄いをうけているんだね。    桜の紅葉を見ながら歩く人たちに感動していたのも束の間、次に飛び込んできたのは  「スターバックス」!    噴水を挟んで向かい側にも看板あり! 「上野公園パークサイドカフェ」!  どちらも長い行列。どちらも和風建築様式。どちらも景観には溶け込んでいない。  森がひとやまごっそり消えたような 寂しいではないか。  これから育っていく子供たちの思い出の上野公園は?  どのようなものになっていくのだろう?  日本の村が細っていくように都会の歴史が削られていく・・・危機だ。     手作りのことなど話している内に互いに昔に戻っていった。  「今年はこれで〜 また 来年だね〜 元気でね〜」    雨もまたいい思い出になる。    追記:(2012/11/24) 上野駅構内にあるユニクロでプレミアムダウンジャケット(紫)を買いました。 「本日限りで〜す」プラカードを持ったユニクロのお兄さんが通行人に声を掛けていました。 着膨れの私はリュックを抱っこしてからお店に入りました。すごいんです。お客さまがいっぱい! 橙色にも惹かれました。お店のお姉さんが「紫もお似合いですよ〜」で、決めました。 薄くて(平たい)、暖かい(上等なダウンジャケットと同じくらい)です。外出時の着替えの インナーとしてバックに入れておくこともできます。 ダウンベストのカラー選びをしていたらお兄さんが「ベストは24日です」と教えてくれました。 ほう〜 まあ〜 (こころの声は ルン ウレシイ!) 若草色のベストを買えたらいいなあ。  今日は知り合いのギャラリーにお邪魔します。陶芸作家の革製品など、  面白そう〜。  

 朝日新聞デジタル・ヘッドライン   (2012年11月20日)

 今月の15日から朝日デジタル・ヘッドラインで朝刊を読んでいる。  毎朝6時台にパソコンで朝刊が読めるのはありがたい。  我が家では新聞をとりに行くのは90歳の達子さんである。この役回りが自然と決まったのは夫( 息子)が定年してからだ。達子さんは2時間ほどかけて新聞を読んできていたが5年くらい前から読む 速度が遅くなった。読む場所が限られてきた。テレビのリモコン操作を習得して「テレビでニュース を見る」ことを楽しみにしている。  毎朝ゆっくり起きて来て居間にいる私たちに「おはよう〜」。それからトイレ、洗面、着替など。 居間に再び顔を出してお茶をゆっくり飲む。9時55分にテレビ体操をする。そして新聞をとりに行く。  このような流れでゆっくりと朝がスタートするのである。  畑行きがあるときは、夏時間は6時台出発。冬時間は10時過ぎ出発。達子さんの体内時間が我が家 の生活時間になってきている。  我が家流シニア生活に届いた「朝日新聞ヘッドラインの知らせ」はぴったり合致した。  14日夜受信したお知らせには次のように案内があった。 「アスパラクラブのサイトやメールなどでご案内しましたとおり、アスパラクラブは朝日新聞デジ タルに統合させていただきます。本日、○○ ○○様の朝日新聞デジタル無料会員への統合が完了し、 朝日新聞デジタルのご利用が可能になりましたのでお知らせします。  ※朝日新聞デジタル無料会員は料金無料です。 朝日新聞デジタル無料会員では有料記事を1日3本までお読みいただけます。 アスパラクラブから朝日新聞デジタルに移管した特典応募やアンケートなどにもご応募いただけます」。  無料記事で十分ありがたく ときおり右手にマグカップを持ちながら。  活字を大にして。 ありがたいのである。  一方、達子さんが新聞を持ち替えたりしている音が聞こえてくる。  「ピシャーッツ!」いちだんと大きな音がしたときは、「ひととき」の欄だ。  「天声人語」だ。「今日の料理」だ。    今日も元気でごはんが旨い! なのだ。

 老齢厚生年金請求手続き  (2012年11月16日)

 今年に入って「日本年金機構」から「大切な書類です。(開封前に宛名をご確認ください。)」 と書かれた封書が二度届いた。開封はしたものの「まだ先だわ〜」と思っているうちに、もう誕生 日はやってきて、もう次月度に入ってしまった。  手続きに必要な戸籍謄本を本籍地に請求した。定額小為替を添えるようにと窓口の方から教わっ たので、請求書と一緒に役所に送ったところ、戸籍謄本と年金手続きの場合は定額小為替は不要と いう旨の付箋が貼られた小為替が同封されていた。  先日、電車に乗って街なかにある年金相談センターへ出掛けた。番号札を取る。相談内容を聞か れて「請求手続きです」と答えると何番の窓口へどうぞと案内された。  担当者は女性で、提出した書類に目を通すときのその目の動きたるや ハヤ! 往復している。 止まった! また進む!  私は彼女の目を追いながら不備がないことを念じていた。  彼女はパソコンに打ち込みデーターを確認している。  ただならぬ気配だ。   やがて彼女の目は穏やかになり笑顔でこう言った。  「老齢厚生年金請求書の受付控えです。年金証書・年金決定通知書が届くまでお待ちください」。  控えの紙1枚をいただいて終了。  60歳。老齢の冠にも慣れた。いやむしろ歓迎している。  これから先、ますます知らないこと、新しいことに出会うだろう。人にも出会える。      カフェにて。     窓下は役所通り  


 意味を表す漢字  (2012年11月12日)

 面白い番組をまた見ることが出来た。俳優の中井貴一が中国を案内する第二回目。 今回は、殷国の甲骨文字から読み解く「漢字の強力な力」についてだった。  殷の王は、甲骨文字による占いによって多くの生贄を神にささげていた。そして神との 交信の記録である甲骨文字は一般人の目に触れられないように一箇所に埋められていた。 このことが発掘による殷の国の解析を分かり易くした。  周は、殷の周辺の言語の異なる幾つかの国々との共通言語として漢字を使い殷を滅ぼす準備 を着々と進めていっていた。言語は異なっても意味を表す漢字のやりとりで意志は通じる。 殷を滅ぼした後は青銅器に刻んだ漢字で諸国と封建の契約を取り交わしていた。文化が進み新 しい物が増えてくると漢字も必要に応じて増えていった。 このくだりは非常に興味深かった。  中井貴一は語る。 「人と神をつなぐものから人と人をつなぐものへと「漢字」へと大変革をしていったわけですね」。  満州国王はこう嘆いている。 「音(オン)は人と人を繋ぐのは難しい。漢字を徹底的に身につけよ」。  さて、次回は 秦国・始皇帝の中国統一だ。  1000年、さらに3000年と漢字は使い続けられているという点に、なにかと考えされた。

 雨、再検、本とお茶  (2012年11月6日)

朝の7時 雨。外は10℃。部屋の中は20℃。 ベランダに干しているサツマイモやクロマメが気になる。 昨夜のうちにかけておいたビニールシートを捲る。異常なし! 8月に受診した人間ドックの再検日だ。 あいにくの雨となったがそれはそれで良いこともあった。 電車はすんなり座れた。 ケイタイを使う人の(おへその辺りで操作する傾向にあるように思う) 肩や肘が私の肩に触れることもなく、 スマートフォンを使う人の(目の高さに置いて操作する傾向にあるように思う) 肘が私の顔の辺りで動くこともなく、とても快適だった。 検査は糖代謝と肝機能。採尿・採血・体重測定で終了。 体重は2キロ減少していた。詳細は後日郵送されてくる。 先ずは食べたい。新宿通過して東京駅で下車。 想像していたよりも人が多い。 ご婦人方の多色な声がマーブル調になって私の耳の後ろから襲ってくる。 食欲もお土産を買うことも失せてしまったが ぐるり一周して家族に様子を伝えたくもあり、雑貨など見ているうちに てぬぐいのブックカバーとポッケ付きノートからインスピレーションが湧いてきた(^^)。 頭の中は、○△□。こころは○○◎花丸に変わった。   上野駅構内の「アンジェビュロー」で本を買ってお茶でもという気分。 ここは文具も本も音楽も大人なセレクト。   

 そしてお茶は、パン屋さんでこんな感じ。   

 帰宅して、さらにこんな感じ。      まあるい至福の時がここに続いた。 「リンゴは輪切りにすると美味しい」って? 夫がなにかで聞いたかのか? 見たのか?  合理的であることは確かなようです(笑)。  我が家のサツマイモも輪切りにしていました。  オオアジデハアリマセン。ビックリ美味しいのでした。  それからは お茶を飲みながら、飲まないと詰まりそう〜〜(><)  本日の新宿通過東京駅巡り上野駅お茶ストーリーを家族に話しています。

 還暦の朝  (2012年10月27日)

 いつになくはやく起きてポットのスイッチをオン。  気温17度。    お湯が沸く間、ベランダに出て深呼吸。  十字路に赤いパンツを穿いた犬連れの人が立っている。  人も車もパラパラ動いている。  昨日買ったばかりの2本の干し竿に両手をのせるとフンニャリ シナシナ。  30年近く使っていた竿はビクともしなかったが  しっかりとした作りのものだったが  骨が弱ってきていたようで ある日突然骨折した。  もう一本の竿はまだ毛布を支える力はあったが、もうこれからはガンバレナイと思えた。  新しい竿は、平成生まれの青年たちのよう。  垢の抜けたつるりんとしたスタイルで冷たい。  干し芋をつまむ。  チンもグリルもしないで冷たいままが旨い。  植物たちに挨拶して部屋に入る。    家族がおきてこないうちに今朝のひかりを見ている。  美しい朝だ。

 成田空港にて  (2012年10月25日)

 あつ子@カナダさんが成田から発った。  「行ってきます!」「行ってらっしゃい!」と見送った。  今回はクロネコ便の看板の前で待ち合わせをした。  ここは、私たちのチェックインと言っても良い場所だ。  そして控えたる次の間は授乳室。    本来の授乳室ご利用者様がいらっしゃる場合は入室しない。  いらしたら即座に退室する考えでいる。    誰もいないお部屋で5,6分ほど。  荷物の整理完了。  整理している姿をケイタイに撮った。  後に写真を見たときに思い出すことが湧き出てくることを楽しみにして、  カ シャ〜ン ♪  お土産を見にちょっとブラブラ。   パスタいただきながら、お茶飲みながら、    互いに親のことはこれまで以上に気になるね。  親と語り合う昔話は笑いがいっぱい湧いてくるものだね。    歳を重ねていく時間のありようを追ってみたり、    明日のことがとても新しいような気にもなり、  今楽しんでいることがもっとも合っている気になり、  なんだかとってもいい感じ。  あつ子さんはこれからますます忙しくなるんだね。  2012年12月15日(土曜)「トロント紅白歌合戦」開催。    チャリティーショーとして誕生した日系人親睦の「トロント紅白歌合戦」は  2年休演して今年よみがえる(日加新聞で予告掲載)。  100名のボランティアと8名の審査員。  裏方をはじめすべてボランティアなのだそうだ。  運営/中山あつ子    がんばれ!   成功を祈っちょるよ。 「帰り 気をつけてね〜」とかわいい声で言ってくれたのに    私は、ひとつ手前の駅で降りてしまった。  駅の景色が似ていたから、  その駅はもう何年も降りていなかった。新しくなって明かりが煌煌としていた。   「ここはどこですか?」と問う私に駅員さんは不思議な顔もせずに教えてくれた。    ホームにあの横書きの進行方向を指す看板がないのだから。  正面の柱をぼんやり見ていたら、徐々に柱の文字が太く見えてきた。    「○○駅」と、  立派に堂々とした、  言うなれば、”である調”体の字面で主張しているではないの!  ホームのベンチで25分ほど待った。    ふんわりとした待ち時間。  「帰り 気をつけてね〜」   まこち よう わかっちょっちよるねぇ(^^)    

 あるくみるきく双書『宮本常一とあるいた昭和の日本』  (2012年10月23日)

 おもいがけない贈り物に感動している私だ。  「この双書は、民族学者宮本常一と彼が率いた近畿日本ツーリスト(株)  ・日本観光文化研究所が発行した幻の月刊誌『あるくみるきく』を地域別、  テーマ別に編んだ昭和日本の風土記集である」。(表紙より)     

 シリーズ20「祭と芸能」  2012年10月15日第1刷発行    監修者:田村善次郎・宮本千春   編者:須藤 功  発行所:社団法人 農山漁村文化協会  表紙写真:表 スコ祝い(現在はおこなわれていない)         三重県阿児町安乗(現 志摩市)         昭和58年1月 撮影・須藤功     帯より  *********  神や租霊を迎え供宴する四季の行事に秘められた思いとは?  海のかなたから神を迎える八重山の節祭、  亡き子の声を聞く青森川倉の地蔵盆、  新盆の家々をまわる田峯盆踊り、  三夜踊り明かす新野の盆踊り、  巨大な燈篭木が燃える京都北山の松上げ、  神懸りする石見大元神楽などなど      *********

  シリーズ25「青春彷徨」   帯より   *********     高度経済成長に沸いていたころ、若者たちの自己発見、ひとり旅紀行  原初の生き方を求めて居ついたトカラ列島臥蛇島・平島、  師宮本常一の旅手法に習い歩き回った人吉盆地、  67日間4万円の日本縦断徒歩旅行、  本物の百姓を求めて汗を流した沖縄・北海道、  消えゆく地神盲僧琵琶探訪記・・・       *********  シリーズ25の中で、知人の竹細工・民族研究家の尚さんこと稲垣尚友氏が「ふうらい坊渡世」と題して、 昭和30年代後半〜昭和50年頃までの”タビ”を時系列(”タビ”年譜)に書いている。  これまで尚さんから”タビ”で出会ったさまざまな出来事を聞いていたが、まだまだ聞き足りない思いが していた。青年の尚さんが困難を買って出てまでも明るく逞しく進む姿はまさに表紙の空のよう。  シリーズ20「祭りと芸能」の著者・撮影者・編者の須藤功(すとう いさお)・民俗学写真家は私の故郷・ 銀鏡の『銀鏡神楽 -日向山地の生活誌-』の監修・編集をされた方だ。銀鏡神楽の本は村人の原稿が寄せら れて出来た本であり、須藤氏の撮った300枚の写真を添えた異色の民族芸能誌と言われている。    氏は宮本常一主宰する日本観光文化研究所の所員として銀鏡の山の暮らしを記録し続けてこられた。40年 も銀鏡の人たちと交流を重ねてこられた方だ。私は氏の「写真と文」、「文と写真」に入念な検証(歩く・ 見る・聞く)を重ねてこられた時間を大いに感じた。    9月銀鏡にて「銀鏡神楽・出版記念祝賀会」があり、地元の唄「祝いめでた」が歌われたときの須藤氏の (目を閉じて聞いておられる)お顔が忘れられない。そしてそれから後の氏の言葉も忘れない。 「私は秋田の生まれですが銀鏡は”第一のふるさと”になりました」。         よろしかったら下記、「くろまめの投稿・写真」のコーナーを拡大(+クリック)してご覧下さい。    https://picasaweb.google.com/yeziyezi55/ZPaDwK#  

日比谷図書文化館へ  (2012年10月20日)

 今朝7時台 気温16度強。朝夕の冷えを考えると着るものの支度に時間が掛かる。 顔は眉と口紅でシャッシャッ完了。これ以上は省略しないようにしようと思っている。 電車で途中乗り換え1回、霞ヶ関駅下車。C1出口を出て日比谷公園に向かう。  友人と日比谷図書文化館の館内で待ち合わせて1階の特別展示室に入る。

 歌舞伎を観に行きたくなる内容だった。お時間のある方は行かなきゃ〜そんです!  図書館は2011年に都立日比谷図書館を全面改修し、「千代田区立日比谷図書文化館」 となったのだそうだ。図書館、博物館、カレッジの3機能が融合した総合文化施設とな っていた。図書フロアの書籍を持ち込めるショップ&カフェがあり、雰囲気の良いレス トランもある。  私たちはレストランとカフェの両方を探訪した。結果、味美し雰囲気良しお値段良し。  図書館を出て公園へ。本日のイベントにもあやかることが出来た。   

 とうにあきらめていたのだったが、運よく並ばずにいただけた。  

 しかし いったい どこからこんなに人が湧いてきたのか!   食べている姿は実に平和だ。  

   温まってから散歩の続きを。  日本プレスセンターへ 探訪。  10階は一般の人も食事が出来るレストラン。  9階はクラブ会員のレストラン。    1階で面白いものを撮った。  =2012年度「新聞広告クリエーティブコンテスト」結果発表=  

 タイトル「懐かしい景色」 代表=原田康代  私なら、この作品を採りたいと思った。  原風景。 

幸せなハンカチ  (2012年10月15日)

 ギャラリー・エアーで拝見した刺し子のハンカチの話をもう少ししてみたい。  刺し子作家・清水美沙さんのお姉さまがちょうど来ていらして、  感動している私を見ていらしたのかな?  二枚のハンカチをみせてくださった。  「妹が8年前に私にプレゼントしてくれたハンカチです」  「手でごしごし洗えて、すぐに乾くので、いつも一緒です」  嬉しいお顔されて、頬にすりすり、手でもみもみしながら教えてくださった。      
 「これは、涙のハンカチです」と涙を拭くしぐさ・・・  思わず「涙の壺? あれですか?」とバカな私。  「幸せの涙を拭くんです」とニッコリ。  「なんどもなんども幸せの涙をふきました」。  
   どちらもサイズは20cm四方くらい?      世界で一枚。お姉さまだけのハンカチ。   やわらかくて優しい風合い。  妹さんからのプレゼントをこうして大切に身に付けられているお姉さまも  ふんわりあたたかいお人柄でした。  

ギャラリー・エアー「BORO WORK」最終日  (2012年10月13日)

 今朝は畑に行き種蒔きなどして満足。  午後は柏の「ギャラリー・エアー」で感動。  ボロをテーマにした展示会の案内をいただいてから待っていたのだった。  見るもの触れるものみな共感。  江戸時代の縞柄の古布や沖縄の布、ボタン、古布端切れ、ニットの小片、その扱いに驚嘆。  和綴じの縞帳に興奮。  縞帳に貼られてある縦横の縞模様の端切れ。細い縞、太い縞、縞の色の色々。  傍らに手染めの藍の布が置かれてあった。  写真は江川さんの刺し子の防寒着。  
 粋な企画だ。  企画されたのはT.KANEKOさん。    昔日本にあっただろう、お茶の間での女子会風と言える設営。  自家製のお漬物や煮物お菓子果物などを持ち寄っての座談会風の演出。  上質な時間をいただいた。       ↓写真は豊田恵子さん作。自由発想で布と遊んでいらっしゃる。  
 ↓写真2枚は清水美沙さんの繊細な「刺し子のハンカチ」。   赤い糸のハンカチは8年間も使っていらっしゃるとのこと。風合いが素晴らしく良い。      完成を急がず楽しくチクチクされているのが伺える。    
   みなさんの笑顔が手作りの楽しさを感じさせてくれた。     今日の出会いに感謝したい。

 ひよこまめちゃん♪ 三回食 (2012年10月3日)

 台風一過の朝、宮崎からのお土産を届けに行く日。  カーラジオからは「青空ですね〜〜」アナウンサーの声が弾んでいた。    ひよこまめちゃんは這い這いがとても上手になっていた。  オモチャが増えて、鼻腔をふくらませてよく遊ぶこと。  食事は三回食になり、うんちは硬くなったいた。  ママが見えるところにベッドを移動して、  「トイレに流そうね」と声を掛けると、  顔を上げて目でママを追う。  トイレのドアを開けてママがニッコリ。  ママが出てきてひよこまめちゃんもニッコリ。 「ウンチをしたときはお尻を高くして気持ち悪そうにするのよ」と  ママが教えてくれました。    食事のときは、テーブルに両手を置いて「ア、ムア、ムア、ムム」  お口を何度もパクパクして言う。  絵本の『だあれだ だれだ』の中でイヌさん・ネコさん・ゾウさんが「あむあむ」しているのを  ママが真似してそう言っていたら、そう言うようになったって(そう聞こえるって)。    乳幼児の番組を見ながら両手両足を開いてクルクル回してリズムをとることも  一段と進化していました。  お外は風が強くなってきていたのでお散歩はできませんでした。  

 水玉 草間弥生 (2012年10月3日)

 テレビで観たのだが草間弥生はすさまじい形相して大作に挑んでいた。目がたぎっている。 「私、私が大好きよ」「私、天才よね」「そう思わない」と少女のように繰り返す。不安に なるのを奮い立たせているようにも見える。  私は15、6年前にはじめてカボチャに描かれた水玉をみた。斬新なフォルムに色彩。 まったくもってお洒落なのだ。水玉がびっしりなのに嫌味が無い。重さを感じさせるけれど 暑苦しくない。安定感があるからこれまた不思議だ。    テレビは作品を通して弥生を見せてくれた。作品を離れて病と向き合う姿も見せてくれた。 どちらも健気で愛おしい。終わる頃には赤い水玉衣装を着て諸外国の美術愛好家に野心をみ せる弥生は、インタビューに応えて正直で大胆だった。  9月30日曇り。中秋の名月は見られない。アクリル絵具を買いに出かけた。テレビで弥生の 水玉を見てからは布にも木にも水玉を描きたくなっている。

 宮崎帰省、その後、そして今。 (2012年9月26日)

5日目の早朝、山から街へふた手に分かれて移動。 街の大きな病院で予約していた母の精密検査に付き添う。 病院で老親の付き添いにきているひとたちを多く見かけた。 夜は合流して家族が一気に増えた。久しぶりの歓談にみなほろ酔い気分。 6日目、フェニックス自然動物園へ出発! 動物園のそばの住吉神社に参拝。  
(父83歳。母81歳)   動物園で車椅子を借りた。 母はあまり歩けないので車椅子をはじめて使った。 初めは使うことに躊躇していたが、そのうち「楽じゃね〜。ありがたいねえ〜」と変わっていた。 誰しも自分の足で歩めることを希望するが、そうできなくなったときの周囲の対応など考えるきっかけにもなった。 父は案の定、あのムツゴロウ(畑正憲氏)さん化していった。 動物に近づいて撫ぜる触れる語る。 「カバが大あくびをすれば顔を入れるのではないかしらねえ〜」と私。    
園内のレストランでお昼をいただいた時間も楽しく笑いが絶えなかった。 園を出て、江田神社に参拝。木陰の中でしばらく涼んだ。 26日早朝宮崎駅発、夜7時半過ぎ帰宅。 濃い時間が今も追っかけてくる。心地よい疲労感。ふるさとは今もっとも近いところに在る。

 宮崎帰省の4日目 網張作業完。バーベキュー♪ (2012年9月23日)

朝霧の中を作業するのは楽しい。 私くろまめは網張の仕事はまったく手伝わなかった。(まあ、邪魔になるだろうと思いまして^^)。 母の指示に従いよくはかどっているように見えたが、実際は大変な作業だったようだ。 完了したときの喜びを共有したく、畑に出て写真撮影などした。(後日まとめてみたいと思っている)。 お昼からバーベキュー開始! 宮崎牛、トウモロコシ、ナス、ピーマン、タマネギ、ニンジン等など。 ムカゴは針金に刺して焼いた。細い針金が見つからなかったのでクリーニングのハンガーを利用)。   

 宮崎帰省の3日目 『銀鏡神楽』出版記念祝賀会 (2012年9月22日)

朝8時祖霊祭。銀鏡神社に向かう道の両端に彼岸花が咲いていた。 厳粛なる神事を拝見することができた。  
11時半より集会所での祝賀会に出席。  
出版記念表彰式。 地元のご婦人方による地元の食材を使ったお弁当にも感動した。   二部は浜砂伴海さんの歌で感動。  

 宮崎帰省の2日目 ソバ畑の網張 (2012年9月21日)

晴天。 お昼過ぎより夕方の6時ごろまでソバ畑の周囲に200m弱網を張り巡らした。 母はつい最近、ウリ坊を庭先で見かけたそうだ。 そらまめ(夫)は網張りの杭を立てる穴をあけるのに20sの金棒(曾おじいさんが使っていたもの) を振り下ろしていたがとうとう手にマメをつくった。   畑の隅っこに天然の木をくりぬいた日本ミツバチの巣箱が置いてあった。    ダリヤメのビール。美味い!   

 宮崎帰省の1日目 東京駅発ー宮崎駅着  (2012年9月20日)

東京駅発7時30分の「のぞみ」に乗る。朝食用のおにぎり400円を東京駅で購入。 パッケージが面白いので切り抜いて貼り付け12枚のハガキを書いた。

 銀鏡(しろみ)の行事 彼岸中日は「祖霊祭」  (2012年9月15日)

 ふるさと銀鏡(しろみ)では、秋分の日(彼岸中日)に「祖霊祭」を執り行っている。今年は9月22日 がその日にあたる。今年7月刊行『銀鏡神楽ー奥日向の生活誌ー』第6章「伝承を守り生活を刻む」に次の ように書いてある。一部抜粋して以下「」、紹介したい。  「この祖霊祭は、先年の祖霊祭以後に亡くなられた人を祖霊社に合祀する祭事である。祖霊社は長享 三年(1489)に建造された最初の銀鏡神社の社殿で(西都市指定文化財)、なかにこれまで亡くなられ た方々の霊牌が安置されている。」。(以上、『銀鏡神楽ー奥日向の生活誌ー』頁187一部抜粋)  代々銀鏡の人たちはご先祖様を敬い、銀鏡神社をこころの拠り所としている。銀鏡の人たちの生活カ レンダーには、祭事に関してはもちろんのこと他にも記念すべきことをしっかり”メモ”して代々引き 継いでいる。銀鏡の本が発刊となったとき、銀鏡神社において発刊の奉告及び発送式を行ったそうだ。 銀鏡をふるさとの思う人たちにとっては忘れることの出来ない記念日となったことと思う。  私は本の表紙裏の見返しのところに発刊に至ってからのさまざまなエピソードを書き記している。マス コミに取り上げられた記事や書評などを貼付しているので盛り上がってきている。もう一冊は新しい状態 で保管している。  昨年、本にかかわっていた方がお二人もお亡くなりになっている。今回の祖霊祭、本出版祝賀記念式典 はさぞ感慨深い式典になることだろう。式典のあとのアトラクションは自由参加だそうだ。地元の祝い芸能 (唄、舞)なども披露されるそうだ。  銀鏡はいよいよ虫時雨の季節だ。

 田中忠三郎のコレクション「美しいぼろ布展」  (2012年9月11日)

 これまでも”布に関する”展示場に行っているが今回の感動はちょっと違う、布に家族の絆が染み 込んでいる。東北地方の過酷な風土から身を守るために粗い麻布を重ね合わせ、刺し子を施して補強 していた布のホコロビのツギあての中に見ることができた。来館者が布に触れ(撮影可)、着て(着用可) 体感できるようになっていたことが私の思いを一層深いものにしてくれたのかも知れない。  襤褸(ぼろ)の語源は「ボロボロ」からきているらしい。画数の多いこの漢字をここに来て初めて 知った。何度も何度もボロになった布に小布(ツギコ)をあてて、ひと目ひと目等間隔に縫ってある。  田中氏が取材したある老婆の話によると、「女の悲鳴が突然したので行ってみると縫い針を無くし たと泣いていた。死にたいと叫んでいた」。縫い針はたいへん貴重なもので針を売りにくる商売人が いたほどだった言う。そしてある老婆の話(***〜***)が石に彫られて展示されていた。             ***          私は泣く場所が欲しかったと老婆が言った。       「台所で泣くと、女は台所で泣くものではないと言われ、       便所で泣くと便所が長いといわれ、       野良で泣くと他人が見ていると姑になじられ、       夜寝所で泣くとうるさいと夫が怒る。       我慢しろとばかりで、女には泣く場所がなかった」・・・。       見事な刺し子の技巧が培われたのは、       そんな時代のことだった。             ***  友人と私は屋上に出てスカイツリーと浅草寺を一望した。 過去が積み重なって今ある豊かさ。過去を見失いつつある今の日本。スカイツリーはそういう過去の 出来事とは無関係のように、ただ青空に突き立っていた。    

 ”ボロ布”にハマッテイマス  (2012年9月11日)

 古い布を触っているとこの布を身につけていた人はどんなひとだろうか?  ツギハギをして孫子の代までも着ることが当たり前だった時代・・・。  今は「エコ」と言う・・・。  布がとても希少なものだった頃の布に会いたい。   浅草へ行こう。    布文化と浮世絵の美術館「アミューズ ミュージアム」      

 難聴 (2012年9月8日)

 8月の人間ドックによる診査結果は「脂肪肝、糖代謝異常、脂質異常症も合併しているので今後は適 切な運動療法、積極的なエネルギー摂取制限を行い、3ヶ月後に再検査を受けるように」ということだっ た。このことは強い意志で自己管理するしかない。今現在ガンバっているところである。  ガンバっても良くならないものがあった。「会話音域の聴力が低下しています。日常会話に支障があ るようでしたら耳鼻科を受診してください」。私は電話をいただくと逃げ出したくなるくらい難聴なの だ。顔を見て話をするときは、雰囲気でだいたいわかるが、顔の見えない相手だとニュアンスが伝わっ てこないのでトンチンカンなやりとりになってしまう。難聴を自覚するようになってから20年くらいに なる。そろそろ補聴器のことを考えてみようか・・・。  今年「還暦同窓会」に出席した。小中一緒だった人、中学から一緒になった人、そして48年ぶりにお 会いする先生方。みんなの元気の良い声が会場に響いていた。再会の言葉を交わしながら聞こえないこ とは想像して懐かしむことができた。みんなが笑う顔は言葉以上にものを言うものだ。集合記念写真を 撮る頃には1人1人の顔をしっかり憶えることができた。ケイタイに電話が入ったときは録音を何度も 再生してみたが聞き取れなかった。聴力がかなり低下していることを実感した同窓会だった。  私の場合は、後方から呼びかけられると飛び上がってしまう。声・音に過剰反応するので声を掛けて くれた人がビックリ!(青ざめることも)。高い声で早い言葉は聞き辛いのでニュアンスで応えている。 低い声ではきはきとした言葉は”集中”すればわかる。NHKのアナウンサーの言葉も近くで聞くとわかる。   「耳が遠いので・・・」と言う人に対しておおかたのひとは、大きな声でゆっくり、おさらいをするよ うにして話をするようだが、場合によっては音の高い低いの”どちらかが聞き易い”という人がいるので、 繰り返し話をするときは、先に「聞こえますか?」と尋ねてみるとよいと思う。

  銀鏡・上揚地区「ひったまげたプロジェクト」 (2012年9月1日)

 たまげるは漢字で「魂消る」と書くように、魂が消えるほどの思いから、驚きを意味する言葉として 江戸時代から使われている。 「消る(げる)」は、「消える(きえる)」が縮まったもの。 ひつ〜は 接頭語で強調を表す。   銀鏡(しろみ)・上揚地区には「ひったまげる」資源がいっぱいある。上揚地区で生まれ育った私だ がひったまげる事柄がいっぱいある。ランプの火屋を拭いていた祖母(オステ)の姿が思い浮かんでき たように灯台下暗しとはこのことかと気づかされている。懐かしんでいるばかりではいけないという思 いになっている。  銀鏡・上揚地区に暮らしている人たちは過去を振り返り、そこから今に向かって歩み始めている。 よろしかったら「ひったまげたプロジェクト」を探索してみませんか。  ここからのぞいてみなさらんね。    http://isaito.net/isaitoflat/siromi/hitamageta-top.html

 『銀鏡神楽-奥日向の生活誌』書評 評・朝吹真理子(作家)讀賣新聞(2012/8/26付朝刊)

 友人のえだまめさんからのメールに、私はすぐに新聞を買いに走った。  芥川賞受賞作家の朝吹真理子氏が『銀鏡神楽-奥日向の生活誌』の書評を書いている。     「一度も訪れたことのない土地の・・・すがた・・・音・・・におい。気配。・・・感じる。・・・」  氏はまさしく”本の後ろから”皮膚で感じとってくださっている。  銀鏡を『銀鏡神楽ー』を評していただいたことに深く感謝するとともに、今年の12月14日の銀鏡神楽をたく さんの方に観ていただき体感してもらえたらいいなあ、と私は思っている。  

  ひよこまめの「あむあむ」   (2012年8月25日)

 食事のときママの手の先の匙が近づくと「あーん」。  お口を開いて舌を出し、「あむあむ」  匙を自分で持ちたがり、掴もうとします。  初めて食べる食品には関心の度合いがちょっと弱りますが拒否しません。  はじめての黄身も(卵白は次回に)はじめてのおうどんもアレルギー反応なし。  はじめてのおやつ(ボーロ)の一口目は、「う、あら?ら?」おいしい〜表情。    はじめてのストローも上手にできました。  そろそろ三回食になるころかな。     乳幼児番組の中で好きな場面が出てくると目を見開き手足バタバタお口とんがらかせて喜ぶ。  メリーゴーランドの選曲(足でボタンにタッチ。スイッチオンオフ。)偶然が面白いみたい。  オモチャを落としてまた落とす。回したり叩いたり吹いたり吸ったり、お口に入れたり舐めたりと、  ああー 忙しい。  遊びに研究心が芽生えてきているのかな?  

  菊池のお殿様   (2012年8月22日)

 2012年7月、ふるさと銀鏡(しろみ)の本『銀鏡神楽ー日向山地の生活誌ー』が発刊になってから ”菊池のお殿様”についてよく聞かれる。  銀鏡のみんなが「お殿様」と呼ぶその方は米良領主の後裔・第41代菊池武夫(きくち たけお)の ことである。 1875年(明治8年)7月23日 - 1955年(昭和30年)12月1日 満80歳没  お殿様がどれほど米良のみんなに尊敬されていたかというその一端を紹介したい。   http://www.f4.dion.ne.jp/~yezi/tyantoshimota.html  

戦争を引き連れてゐる蝉時雨   (2012年8月17日)

 「忘れてはならない」「過ちは繰り返さない」私には蝉の声がそう聞こえてくる。8月の空が 青ければ青いほど、入道雲が湧き上がるほど、蝉の声が痛ましく哀れに聞こえてくる。甲子園球 場の大歓声も私には蝉の声と同じように感じられてならない。  私のふるさと銀鏡(しろみ)では昭和37,8年の頃は兵隊さんの帽子を被ったおじさんが何人も いた。農林業の仕事用に使っていたのだと思う。ある年の夏休みに地区の「子ども会」がキャン プファイヤーを催した。親子参加だったこともあって大人がたくさんいた。ひとりのおじさんが 上半身裸になって火の前で踊った。なにやらカタカナの言葉を繰り返し歌いながら両手をひらひ らさせて、火の周りをくるくる回った。大人たちはその人を笑わなかった。大人たちは小声で戦 争を語っていたのかも知れない。おじさんが歌った歌は、そこはかない哀しい旋律だったことを 憶えている。それからもそれからも8月は蝉時雨と戦争がセットになって私の耳の奥を騒がせる。  昭和51年、上野公園で傷痍軍人さんを見た。軍人さんのほぼ全身を覆っている包帯はいやに 白かった。  戦後67年の重みを感じずにはいられない。テレビ、ラジオから「黙祷」の言葉を聞くと正座し て目を閉じなければ申し訳ないという気持ちになる。これは毎年繰り返していかなければならない ことだ。夏休み中のお祭りお盆は家族を結び、また解きほどき解き放ち、また結ぶ。そういった仕 掛けがあるような気もする。  同郷のありさんのお父様の実録「出征から復員まで」をここに紹介したい。  http://ha5.seikyou.ne.jp/home/ARISAN/yasojidenwar1.html  

人間ドック   (2012年8月14日)

 朝の6時台の電車は通勤時間帯であるがお盆休みのせいか空いているように感じた。東京が近づ いてくると普段の朝に変わった。タッタッタッターと歩かないと流れに乗れない。歩けるものだな あと嬉しくもある。  外は雨。健保組合の直営健診センターはロビーも受付カウンターも照明を落としていたがテキパ キと対応する受付の女子事務員の対応が気持ちよかった。。  検査は上下階で行われた。開始されると5階6階の電光掲示板(モニター 各階4台)が指示を出 し始めた。太い文字なので見やすい分かりやすい。受診者は検査項目の書かれたバインダーを持たさ れ(名前と背番号が記録されている)、「貴方はここへいらっしゃい」というふうに番号で進行を促 してくれる。検査がひとつ済むごとにその階の受付に戻り、そこに置かれてある認識板にタッチする という流れになっていた。なるほど係員は少なくて済む。上下階のモニターの前には、ゆったりとソ ファが配置されていて雑誌新聞テレビが自由に見れる。ずいぶんとシステマティックになったものだ。 検査をする機器は最高のシステムを使用しているらしい。検査した画像が診断する医者のパソコンで 瞬時に確認でき過去の画像と比較することができる。医者の診断も過去の画像と比較しての「変化」 を重視しているようだ。  しばらく人間ドックをさぼっていた私は還暦を迎える頃になってやっと最新の設備を完備したシス テマティックな運営を実感した。  食事は700kcal弱。料亭で出される和の膳の趣。向かいの席の若い女性の所作が美しくて爽やかな 気分になれた。  検査直後の総合判定は、私は脂肪肝からきているアレコレを努力して改善しなければならないこと がいくつかあった。医師と並んで画像を見ているときは不安もあったが質問しやすい環境になってい た。この時点で胸部の肺のCTを受けた。あとは別室で保健スタッフから生活指導を受けた。夫は「休 肝日を作りましょう」とやんわりと言われる程度だったそうだ。私にはそうはいかなった。体重計に 毎日乗ることはなかなか手強い注文だ。追跡してデータが送られてくる(パソコンに送られてくる) となるとなおさら困難だあ〜。糖脂質代謝が悪いことも生まれながらの体質もあるのか。骨密度がふ たりとも若いという判定は畑仕事が丈夫な骨を作ってくれているのだろうか。    アンケート用紙がバインダーに挟まっていたが提出するのを忘れた。全部の項目に5(とても満足) にしても良いと思った。  まずは後日送られてくる詳細レポートを待つことにしよう。  

 自転車で家出してみる夏休み    (2012年8月9日)

 私は小学生の頃から家出に憧れを持っていた。縁側に腰掛けて脚をぶらぶらさせる。「文部省唱 歌歌集」を順に捲って歌う。向かいの山は高くて緑一色。吊橋を渡れば放たれているヤギが見れる。 イノシシの小屋ものぞける。でも私はこの山の向こうの「登内(のぼりうち)」までは家出の距離 を伸ばすことをしなかった。  昭和35年にバスが開通した。朝6時台にバスが下って(町に出て行くこと)来た。停留所でバス 待つときの心臓の高鳴り。車掌さんのバックの形と革のツヤ。子供たちは銀鏡で降りることがほと んどだった。最も近い町の「妻(つま)」に行ったとしても、正味5時間ほどしか滞在できなかっ た(ように記憶している)。最終便は夕方の6時台に上揚(かみあげ)の「尾吐(おはき)」とい うところで終点となり、運転手さんと車掌さんは一泊して翌朝下って行った。乗客の数と運転手さ んと車掌さんの人件費と燃料費と考えれば、ありがたく申し訳なくなる国鉄バスであった。    家出の日、上がるか、下るかはその日の気持ちしだい。上がるときは川、山、谷をさるいた(歩 いた)。川を上っていくと面白かった。疲れたら川原で寝る。せせらぎと木の枝が擦れあう音に寝 入ってしまったことも。しかし怖いということを知る出来事があった。猟師さんが鹿を追いかけて 川原に出てきたときだった。   自転車のときは道なりにペダルを踏む。風を受けて家出の実感は天にも昇る心地。村の一本道に は対向車も人馬も居なかったから山側を走れば危険は無かった。田に水をひく水門が塞がれると乾 いた水路に手作りの屋根を葺いて中で腹ばいになって本を読んだことも。土管が置かれてあったな ら確実に私の家出の基地になっていたはず。仰向けになって雲の行方を追うのだ。晴れ渡った空は 広すぎて空想が広がらないのだ。  銀鏡は漫画や本に出てくる面白そうな場所やモノがほとんど存在してなかったので頭の中の創作 活動は活発で、物語のタネは子供たち(今はシニア)それぞれの目の底に置かれてあるに違いない。 そしてときおり引き出してにんまりしているのではないだろうか。  信号はない、紙芝居は来ないが、アイスキャンデーを売る人は来ていた。チリンチリンと鈴の音 が聞こえると、大皿を持って買いに行った。町では@5円がここでは@7円だった。アイスが溶けな い魔法の箱は不思議だったが、その原理を真剣に科学する気持ちは無かった。家出をしたかった子 供心であったが、地理的、経済的な理由で結局「プチ家出」になってしまった。

 秋立ちぬ    (2012年8月7日)

 エレベータで一緒になった同じ階のご婦人が「涼しくなりましたね」と私に。  「今日から秋ですね」と私。「そうだ 今日は立秋だよ」とご主人が。  三人は顔を見合わせてにっこり。  「お先に失礼します」。箱から出て、右、左に分かれた。    このマンションは建ってから30年になる。  30年前私はこの箱の中でどんな挨拶を交わしていたのだろうか。  みんなそれなりに年を重ねて・・・。  2012年の秋です。

 一歩一歩  ♪ひよこまめです    (2012年8月2日)

                      (↑大月茂子さん作:絵手紙カレンダー)        夏ですね〜。    蝉が急き立てるように(そう聞こえてなりません)鳴いています。    ひよこまめちゃんは初めての8月に初めて鍵盤を叩きました。    しばらく音を聴いていました(そのように見えました♪)。 8月1日のことです。              触って〜叩く。身を乗り出してたたいちゃいました。    指で押したときの感触が面白いのかな?                   リンゴジュースをママが作ってくれました。         ねむたくなっちゃいました。     

『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー』 銀鏡(しろみ)というところ    (2012年7月28日)

 インターネットで検索キーワードを入れれば本は入手できるわけだが、また弘文堂のサイトでは 立ち読みも出来るわけだが、立ち読みでは銀鏡の地理的なことが読み取れなかったのでお伝えした くなった。と言うのは、銀鏡と書いて「なんと読むのでしょうか?」と聞かれ「しろみです」と答 えると「宮崎のどこにあるのですか?」と聞かれるからだ。  この本の出だしがその答えになると思う。  『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー』   第1章「奥日向の山里へ」        初めての人が、宮崎市内から地図を頼りに道に迷うことなく車を走らせたなら、銀鏡には二時間 ほどで着くだろう。この時間を長いと思うか短いと思うかはそれぞれだが、途中ではたしてこの先 に家や集落があるのだろうかという不安に一度や二度はかられるに違いない。銀鏡は宮崎県西都( さいと)市内ではあるが、市の中心街から遠い奥日向の山里である。銀鏡までの道筋で、家の途切 れるところがしばしばある。  国の特別史跡である西都市の西都原古墳群から、北西におよそ三キロメートルほどの杉安峡に架 かる橋を渡って左(西)に折れると、銀鏡に通じる米良街道(国道219号線)は、そこからしばらく 一ツ瀬川沿いに走る。  一ツ瀬ダムを左に見てさらに進み、ダム湖に架かる米良大橋を渡って右折すると、ほどなく一ツ 瀬バス停留所がある。直進して銀鏡トンネルを抜けると西米良村に行ってしまう。そこで銀鏡まで 9キロメートルの、右方の銀鏡川沿いの県道39号線にはいる。  一ツ瀬川沿いの山間の街道にこれといった見るべき風景はないが、ところどころに冬もなお緑濃 い樹林が密生している。常緑樹の椎、樫、樟などで、これらを総称して照葉樹林と呼んでいる。春 彼岸のころ、この樹林の濃い緑に引き立てられるように咲く山桜は美しい。  照葉樹林は同じ奥日向の他の地域にも見られるが、狩猟や焼畑などの照葉樹林文化を今も色濃く 伝え残しているのはここ銀鏡だけのようである。(以上、第1章「奥日向の山里へ」より転載。)                                         私と同世代のユーミンこと松任谷由実が歌う「♪中央フリーウェイ」は  都会の華やかさとスピード感とファッション性を感じさせてくれた。  私は助手席に乗り、歌の通りに景色が目に入ってくるのを楽しんだものだった。    奥日向・銀鏡へと向かう県道は古の万葉のかおりを感じさせてくれる。  ぜひ、銀鏡へ車を走らせてください。                   さて、もう少し、    昭和35年、国鉄バス「一の瀬〜尾吐(おはき)」の銀鏡線開通。 昭和37年東米良は西都市と合併。    昭和42年だったかに市が遠隔地の学生の下宿環境を考えて寮を建てた。  寮費だけで月1万5千円だったように記憶している。西米良の生徒たちと部屋が一緒だった。  洗濯洗剤など貸し借りしていた。  親たちは仕送りに大変苦労していた。  当時の一家の子供の数は平均4人以上は居たように思う。    平成24年村の人口373人。昭和26年東米良村の人口4755人。      *山村留学と村の行事などについて*     http://www.miyazaki-c.ed.jp/shiromi-j/          *銀鏡の物産「かぐら里食品」と銀鏡の紹介*         http://www.mera-yuzu.com/

日本農業新聞と『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー 』   (2012年7月22日)

     午前中に届いた小包。中身はふるさと銀鏡(しろみ)のことが書かれた本である。 新聞紙でしっかりガードしてある。空になった箱の底に残る「日本農業新聞」も気 になった。  さて、表題の新聞についてだが、コラムの七十二候のという書き出しに惹かれて 読んだ。第三十二候「蓮の花、はじめて開く」。  先週近くの蓮池に家族と行ったときも先日見に行ったときもまだポツポツ蕾だっ たことに思いが行った。  我が家では朝日新聞を購読しているが、私は新聞を読むことがとても億劫になっ てきている。前にもこのことを書いていたような。ふるさとからの小包のおかげで このような新鮮な思いをすることができて良かった。     M砂 武昭=著/  須藤 功=写真  B5判 上製 216ページ  定価:4200円(税込) 主要目次 第1章 照葉樹林の山峡に住む   銀鏡というところ   遺跡が語る銀鏡   隠れ里の足跡   江戸・明治の米良   つつがなく暮らす    第2章 銀鏡の四方に坐す神々   銀鏡神社の系譜   生活を見守る神と仏   山々をめぐる   道筋の伝説と人  第3章 祈りをこめた神楽の系譜   銀鏡神楽の構成   一夜つづく銀鏡神楽  第4章 狩りと焼畑の秋・冬・春   狩りの組織と作法   猪をさばきわける   狩りことば   山に拓く畑   唄が流れる山  第5章 日々の暮らしむかし今   住まいの変遷   食生活の工夫   人生の歳月  第6章 伝承を守り生活を刻む   四季おりおりの行事   暮らしを歌う   山の不思議   銀鏡の活力  明治以降の銀鏡のあゆみ  私のふるさとの本。帯を読んで、序文、そしてあとがきを読んだ。 最初からこみ上げてくるではないか。そして事務局・甲斐優(まさる)氏がこの本 を作るきっかけになった経緯を述べているところにいたっては涙を禁じ得なかった。  村のみなさんの気持ちから持ち上がった本作りに民族学写真家の須藤功氏の協力 なくしては実現し得なかったことに対しての御礼の気持ちが書かれてある。   以下<>、 「お礼にかえて」事務局 甲斐優氏の文より一部抜粋して紹介したい。  <『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー 』は、会長のM砂武昭氏の下に編集委員 はもとより、銀鏡内外の人々の協力と原稿執筆によってできた、地元発の歴史と生 活誌であることを胸を張って申し上げてよいかと思っております。>                 甲斐優氏は本の提案者でもある。          本の中身については、次回に書きたいと思う。

父と母の運動靴   (2012年7月19日)

      私の両親の写真。私の大好きな写真。2009年9月14日、舗装されていない道を案内した。  父には夫の運動靴を、母には私の運動靴を履いてもらった。父は身長の割には足のサイズ が大きいので夫の28センチでもヒモを調節すればOKだった。「これは ええわい」「ええばい」。 玄関で両親の声がした。私は二人の革靴をピカピカに磨いて他の荷物と一緒に宅配便にした。  一枚目の写真は「今井の桜」で有名な並木道の菊芋の花。 遠目から父が「きれいじゃねえ〜。ひまわりかい?」近づいたら「見たことがある」。 「キクイモの花よ。戦争中は根っこのイモを食べていたんですってね」と俳句の仲間から教え ていただいたことを話したら、母が思い出した様で「あら、あれはよしみ爺さんが町から取り 寄せて家の裏に植えとらいたなあ。増えるっちゃね〜、花だらけになっとったよ。でも根っこ を食べたことはないちゃけど??。いつの間にか花もなくなってしもうとったなあ」二人は昔 の若かった頃の貧しかった頃の輝く黄色い花のことを思い出したようだった。  今は、お店で菊芋の根っこが食料として売られていることを話したら、ますます目を輝かし て聞いてくれた。それから後、キクイモの効能(糖尿、高脂血症に良い)、調理方法などをイ ンターネットで調べてプリントしたものを種イモと一緒に実家に送った。以来、花を愛でイモ を食べているそうだ。  二枚目の写真は樹齢三百年「吉高の桜」の前で、父80歳、母79歳。 夫がなかなかシャッターを切らないので二人はお疲れ気味(笑)。「ハイ 1,2、サーン」 まだ決まらない。「長く連れ添った感想は〜〜」と言ったとき決まった!  「私たちは同志ばい」「ワッハッハハ」。  夕方の羽田空港で見送るとき、二人はお茶目なポーズで振り返り振り返り手を振った。しかし 宮崎への発着ゲートは端っこにあるのでそれからかなり長い距離を歩くことになるので心配でな ららなかった。 「案内の方がまこて親切にしてくださってねー。車椅子で連れて行ってくださったとよーー」  (このようなサービスの実施中で開始日? 最終日?だったかでとにかく幸運だった)    宮崎に着いてからの母の弾んだ声と二人の運動靴姿がセットになって写真に残っている。運動 靴を履いた両親の全身を見ているとただただ感謝のみである。

暑中お見舞い申し上げます   (2012年7月16日)

       雨に風に雷に地震!  被害にあわれた方々にお見舞い申し上げます。    公園で水遊びをしている子供たちの声に涼しさを感じます。  先日私は畑で1リットルのお水を飲み干しました〜〜  竹林のほうでウグイスがないていましたよ。  トンボが風に吹かれてもがんばっていました。  バジルは風にやられて一株はチリチリ。もう一株は持ち直しそう。  とにかくお水を携行しましょう!  

ひよこまめちゃん 離乳食二回食記念日   (2012年7月12日)

 娘から孫の様子をときどき知らせてもらっています。  先月はあせもが出てきたので病院でお薬をもらったとか。  食事と睡眠と運動のことなどが主ですが(笑)。  お散歩♪。ワンちゃんが嬉しいと尻尾を振るように♪ひよこまめちゃんは足をバタバタ♪    さて、二回食となると特にお粥の消費が早い!!  お粥・トマト・カボチャなど冷凍保存。    
  
 なめらかになめらかにして冷まして。  これからは市販のものもお粥に加えていくそうです。  
   離乳食でたんぱく質をとるようになったせいか、  昨日から便のにおいが大きく変わっていたそうです。      お風呂ではヒヨコさんを手で掴もうとして顔中ビジョビジョ〜〜♪  
   ひとりで飲みたい。  
   絵本は文字の形・太さ・動きにも面白がるそうです。  テレビの乳幼児番組には身を乗り出して手足バタバタ♪  お口を大きくまあるくして笑う笑う。よだれタラタラ♪  下の歯茎から歯が2本♪        そろそろパン粥いいかも。    育児日記続いています。  
 

認識力   (2012年7月10日)

 私は小さい頃から人の顔かたち癖を初対面で憶えるという特技があるのであったが、 先日勘違いしたことで特技としていたことがもう過去のことになったしまった。    雨上がって出かけることにしたその日、駐車場の入り口にお隣のご主人が立ったまま タバコを吸っていた。「こんにちは」挨拶すると手元の簡易灰皿にタバコを置いて「こ んにちは」。私は会釈して車に乗り、遅れて来る夫を見ていた。夫はその方の前をちょ っと会釈して過ぎた。 「お隣のご主人よ」。「似てるけれど別人だよ」。 「お隣のご主人なんだからちゃんと挨拶しないと失礼よ」。  夫はは首をかしげながらも戻って行った。何かやりとりをしていたが戻ってきた夫が 「人違いだよ」と言った。バックミラーに映るその方は本当に似ている。ああ!(><)。 こうやって認識力はしだいに怪しくなって行くのだろうか!  義母の達子さん(90歳)は数字の認識力にまだ衰えを憶えない。ドライブすると前を走 る車のバックナンバーの数字を足し算して楽しむ。数字好きで70歳くらいまでは新聞に 出る模試問題を読むことから面白がっていた。娘が小学高学年の頃には宿題をのぞき見 して「いい問題ねぇ」。そばに居てムズムズしているようすだったとか。  今でも「数字が好き!」って公言している達子さんである。だから私は今メモしてお いたほうがよいと思う時、声に出して達子さんに言うのである。10桁までは信頼でき る。毎月一回血液検査をお願いしている病院でもそう。複数の検査値を憶えているので ある。次の月に検査結果を医師から聞くと「横ばいですね」なんて言うのである。新聞 を読む時間が2時間から1時間になったくらいで、タイシタ”認識力”デアル。  私は天声人語を読まないことには一日が始まらなかったのが、読まなくても一日は始 まり終わっているのである。こうやって書くことで反省しているのである。 今日は真夏日。みんなで手賀沼の蓮を見に行った。葉は青々としていたが花は蕾が一 輪ほど。おばあちゃまたち7,8人のグループが来ていて蕾を指差しながら達子さんに教 えてくださった。遠くのほうにいるカメラの男性(夫のそらまめ)にもみなさんが叫ん で教えてくださった。  ワイワイから静けさが戻り、オオヨシキリが姿を見せてギョギョシーギョギョシー。 私たちは合歓の木陰でしばらく休んだ。空はちぎれ雲。

暮しの手帖   (2012年7月9日)

 読んでいるのは「夏 2008年(8-9月号)」。娘が2007年から2012年早春号まで購読 していたのを譲り受けてたまに読んでいた本。今は目次から目を通し、繰り返し読んで も飽きない。これはタイシタホンデアル。  2008年、暮らしの手帖60周年だった。私が昭和50年代前半に購読し始めた頃「ニュー ファミリー時代」と言われていた。需要供給のバランス良く、新感覚(ファッショナブル) 雑誌が幾種類も出て来た。そして多様化時代になり雑誌の競争は濃くなりやがて絞られて 行った。けれども『暮らしの手帖』には筋が一本ビシッと通っていた。暮らしの中からの しあわせを伝えていた(ように思う)。  平成号も一貫している。編集のやわらかさとオシャレ度の違いは確かに感じられる。    本の表紙の内側にその”スジ”が書いてある。   これは あなたの手帖です   いろいろのことが ここには書き付けてある   この中の どれか 一つ二つは   すぐ今日 あなたの暮らしに役立ち   せめて どれか もう一つ二つは   すぐには役に立たないように見えても   やがて こころの底ふかく沈んで   いつか あなたの暮し方を変えてしまう   そんなふうな   これは あなたの暮らしの手帖です      

半夏生   (2012年7月3日)

 7月1日 旧暦5月13日。<三十候の半夏、生じる>。半夏生とは梅雨の末期。田植えを終える めやす。先日気に入って買った旧暦手帳にそう書いてある。  俳句歳時記を開くことがうんと少なくなってきているこの頃、「そうそう」と思いながら、はっ とした。  一昨日のこと、雨が降らないうちにと家族みんなで畑に行ってジャガイモなど収穫したのであっ た。収穫が終わって帰る頃には雨が降り出した。そういえば、両隣の畑の主は来ていなかった。こ んなに畑作業にとって良い天気なのに?と思ったものだった。その前日は隣人は畑仕事の途中だっ たのでたぶん続きは翌日に来てされるのだろうなあと思っていたから。「どなたもいらっしゃらな いのねえ」と私は家族にそう言ったのだった。  なるほど! 半夏には、次のような言い伝えがあると書いてある。 「半夏生の日は蛸、鯖、うどんを食べる習慣や、井戸に蓋をして水を使わない、土いじりをしない」。 節目の日とは総じて身体を休め、「気枯れ」をのりきるための休息日である。  さもありなん。両隣は句歴の長い俳人。そしてもう一人は二十四節季や七十二候などを尊ぶ方だ。

ひよこまめちゃん   (2012年7月2日)

   
 離乳食を開始してから2ヵ月目に入りました。  七ヶ月目に入ったら回数を徐々に増やしていこうかなあとママが。  カボチャやサツマイモは甘いので好みのようです。  お粥だけはちょっと苦手かなって。  お粥に甘いものを混ぜると完食。    
 ブロッコリー、ホウレンソウ、コマツナには苦い顔をするそうです。  トマト果汁はスッパ〜〜〜イ! でもいただきます! その顔がとてもかわいいです。  シラスにもしだいになれてきているそうです。  初めてのお豆腐にはアレルギー(大豆食品)反応なし(^^/)    寝返りして戻れるようになり、よく寝てよく遊ぶそうです。    
 BCGの予防接種の跡も順調です(~~)。

  今朝の畑   (2012年6月29日)

 今朝は早朝から車で畑に行った。途中の住宅街はひっそりと呼吸していた。畑の中に入ると緑 みどりの中に赤く実ったミニトマトが目に飛び込んできた。朝の畑は湿り気があってトマトの匂 いが一層嬉しい。嗅ぎながら収穫。ピーマンの畝に大きく形を成したピーマンがぶら下がってい たのでそこを目指してハサミでカットしようとしたとき「それはパプリカだよ」と夫。ここは赤 と黄色のパプリカの苗を植えた場所だった。同じ畝の端っこがピーマンで、これもまだ生長過程。 ナスは明日辺りに採るのがよさそうだ。キュウリはずいぶんと大きくなっていて肌が地に着いて 硬くなっているのもあった。ジャガイモもよく出来ていた。蜂やトンボにも出合った。  畑のそばの保育園・幼稚園の園長先生もご熱心だ。園児たちが収穫をするためにサツマイモや ダイコンを毎年たくさん作っていらっしゃる。互いの作業の手が空いたときなど、声を掛け合っ て話をするのも楽しい。今日は畑から離れた話など、初めて聞く話は発見も大きくこれもなかな か楽しかった。

 "手影絵" 劇団かかし座  (2012年6月25日)

 家族の用事に応えようとテレビの前を横切ったときに、テレビの画面を見てしまったから、もう用事 は後回しと決めた。黒い手がヒラヒラヒラヒラ動いて形を作っている。手影絵だ! 、と同時に若かっ た父の手影絵がハクチョウ・カラス・キツネ・ウサギになって記憶の引き出しから飛び出してきた。障 子の桟に脚や羽が見え隠れしては動いている。見ている私たち兄妹の頭も影になっている。そして無邪 気な驚きぶりが声になって聞こえてきた。  ほんの短い時間に普段ほとんど使っていない脳が総動員で回転していることが嬉しい。あれは、半世 紀以上前のこと、父が私たち子供に集合をかけた。正座してみているうちに立ち上がって障子の裏を覗 いてみたのかどうか? 『夕鶴』のお噺のようにそうしたのかどうか? 父が手で形を作って見せてく れたのだ。私たちはそれを真似てやってみたのだ。大中小小の影絵が障子からはみ出してはまた戻って きたのだ。あんなに楽しかった白と黒の世界をテレビが蘇らせてくれた。影絵が動くと天気予報のアナ ウンスが流れ、背景は野原から森から海から水中から空に変わって行った。 「劇団かかしの“手影絵”」のことを私は今日まで知らなかった。夫は昭和30年代に小学校にやって きた劇団(かかし座だったかどうかはわからないそうだが)の手影絵を何回か見たことがあるそうだ。 私のふるさと(宮崎県西都市銀鏡(しろみ))には紙芝居屋さんも来なかったし、ちんどん屋さんもこ なかった。知らないことの不都合はなにもなかった。  信号もコンビニもない、ほとんど変わらない、というところの路線に話が入ると長くなるのである。  

 第9回「四婆バスの旅」2日目  (2012年6月24日)


 朝日サンサン。昨日よりも暑くなりそうです。  7時過ぎ朝食。  お粥に赤だしのお味噌汁組。パン組。  互いの今朝の体調がプレートの中身からわかります。    
 朝の食事の光景は、夜と違って人の動きがとてもキビキビして見えます。  食事が済んでそれからは、ハワイアンズマーケットへ。  なににしようかなあと相手のことを考えるのはとても楽しいものです。  時間がどんどん進みます。  フラ・ミュージアムでは時間帯のせいか人が少なかったので丁寧に鑑賞することができました。  それからまたしばらくお茶をしながらお話など。  時間はそれはどんどん進むのです。  あれまあ! 3時。  バス発車。 途中事故渋滞があり東京駅到着6時40分ごろ。  それぞれの家に帰り着いたことをメールし合って旅は終わりました。    おそろいのターコイズのネックレスが旅の思い出の象徴です。

 

 第9回「四婆バスの旅」1日目   (2012年6月23日)

 土曜日晴れ。東京発のバスで向かう先は、今年2月に新装オープンした  スパリゾートハワイアンズ。   到着予定12:30〜13:00予定。  私は少し早めに家を出た。休日の久しぶりの晴れとあって電車は混んでいる。  東京駅を出てバス集合場所まで5,6分ほど歩きました。  (写真は集合場所、合流、ホテル到着、ロビー、部屋、フラショー)   


フラショーに感動しましたが立ったままで見たので四婆は疲れたのでした。  お部屋でコーヒーを飲みました。  それからはお互いの近況や孫のことなど写真を見ながら盛り上がりました。  私は昨年孫が生まれて正真正銘の婆になりました。時の流れを感じながら  四人はまだまだ若い! お互いが思ったことだと思います。  夕食は7時からなので露天風呂(石鹸が使えない)と大浴場へ。  とにかく人が多いことは結構なことだと思いました。    お部屋に用意されていたお揃いのムームを着てゆったり夕食をいただきました。  食材は豊富で新鮮です。   小さなお子さんたち向けのコーナーではカラフルなトレーが人気を呼んでいました。  乾杯! 良く食べてお話して、また乾杯!    あららー 私たちは長居していたようです。  見渡しましたらお客様は・・・二組ほど。  お話は部屋に移っても続きました。これまでの空白が埋まっています。  それでは〜また明日

 「旧暦日々是好日」 手帳届く   (2012年6月21日)

     友人の友人のそのまた友人の・・・。人やモノとの繋がりがピタリと決まってくる今日この頃。 またひとつピピピピーって繋がったこの手帳。アマゾンに注文してから3日後に届いた。昨夜は、 そうか、旧暦でいうと5月1日にあたるのかと、ことさら意味を感じてしまった。趣味の俳句を 作るときにも(旧暦で季感を詠むので)この手帳はこれから手放せない。  6月20日の行に☆「旧暦日々是好日」手帳届く☆とだけ記した。    本日6月21日は、旧暦5月2日。夏至。第28候 夏枯草、枯れる。    手帳の中に差し込まれていた購入者への挨拶文が私の気持ちと一致した。一部をここに紹介し たい。 「実際にお使いいただきますと、日本のこよみは自然のリズムに叶ったものであることを実感し ていただけることと思います。日々の営みの中で、静かに自然と対話する豊かなトキが訪れます よう。みなさまの大切な時間が、雨の日も風の日も日々好日となりますように願いをこめて作り ました。」  私の曾おじいさんは明治5年の生まれだ。この年まで1200年以上に渡って月と太陽の周期を併 用する「太陰太陽暦」を使って暮らしてきた人達にとって明治6年から採用された太陽暦には気 持ちが(体感)不具合なことが多々あったことだろう。    現代だからこそいろいろが面白い。選んで遊べる。ほっとできる。

 ラムネとおひつと   (2012年6月17日)

 5月に帰省したときに写真をたくさん送ったせいか? 請求額が高かったので内容確認にドコモ ショップへ行ったら移転していた。移転先は同じ建物内の前よりもうんと広いスペースのショップ になっていた。しかも昨日オープンということで店内はスマートフォンを見に来ているお客さまで 混雑していた。料金システムの丁寧な説明を聞き半ば納得した。詳細の通信履歴は個人情報という ことでその場では教えてもらえなかったが、パソコンで確認できるということでパスワードをもら った。帰ってパソコンで確認すると、写真をファミリー割引の夫のケイタイに送っていたつもりが パソコンの「くろまめ展示室」にせっせと送っていたことが原因らしいことがわかった。視力が落 ちてきたせいにはできないなあと反省。    オープン記念のラムネをいただいた。     帰りにレストランで和食をいただいたら炊き立てのご飯がとても美味しかった。我が家に「おひ つ」があることを思い出した。急に「おひつ」を呼び寄せたのは、お椀からの湯気の甘いにおいだ ったのかも知れない。「おひつ」は私が夫に頼んで買ったもらったものだったが、しだいに使わな くなっていっていた。納戸から布の袋を被った「おひつ」を引っ張り出してきて洗うと蓋の上部に 微かなシミが残った。おひつを欲しいと思ったときの状況は思い出せないまま、2合炊いて「おひ つ」に移し、蓋をしてしばらく置いた。蓋を開けるとたちまち木の香りが立った。  

 梅雨の晴れ間に   (2012年6月14日)

 今朝2通葉書を投函した。ポストの口に落としてからの気持ちの良いこと。そう、この気持ち をテレビドラマの字幕「(心の声)」に表すとするなら、「○○さん、ありがとうございます」 に尽きる。    先週届いた郵便物(還暦同窓会の写真とDVD)を今朝じっくり時間をかけて見た。感激をあらた にしていることを伝えることができた。空は雲が薄くなってきて光がまばゆい。すずめはチュン チュン。遠くで草刈機の音が聞こえる。小石を弾く音も気持ち良く感じられる。  午後は成田空港から羽田へ移動する友人を追いかけよう。会えるのだ。

 ゴールデン・ドロップ   (2012年6月9日)

 故郷・銀鏡(しろみ)の古穴手(ふらんて)産のお茶を飲んでいる。霧の多い深い山奥で焼畑の あとに自生していたお茶だ。野生の新茶の香り立つ朝の始まり。 晴れた日、曇りの日、雨の日、ゆったりとスタートする(ように心がけている)。最後の一滴をチョ ンチョンチョンと銘々の湯飲み茶碗に注ぐ。  美味しい。しみじみ味わっているひととき。    今朝は雨。「今日は畑は無理だなあ」と夫が言った。「カブを抜いてきたいわねえ」と達子さん。 「足元が危ないから今日はやめましょう」と私。飲みながら三人はベランダの植物の生長に思いが行 っている。  遠くの空は明るいが、雨はやみそうにない。

 我孫子まで   (2012年6月2日)

   6月1日、天気予報は夕方から雨。畑作業のあとシャワーを浴びてすることもなし・・・。髪に手を 当てたら髪を切りたくなった。電車で数駅先の町に出ることに。  ホームに着くと、男子高校生がずらり腰掛けている。壁にもたれている。彼らはひたすらにケイタイ をいじっている。部活で疲れてうな垂れているのではない。本を読んでいるのでもない。私には彼らが ゴッホが描いた囚人のように映った。青白い横顔が額の辺りに影をつくっている。女子高校生はグルー プにわかれて立ったままおしゃべりをし続けている。  電車に乗る。男子は男子で横並びに腰掛けてケイタイケイタイの操作。男女互いに無関心。女子は座 らず立ったまま話が湧き続けている。女子はケイタイ依存度が男子より低い。コミュニケーション力は 女子に神が与えた生きる術か。  私は高校生を観察し続けた。(目はどんな動きをしていたか・・・思えば恥ずかしいことだが)  彼らは客観的にケイタイを頼っている自分の姿勢を見ることは?  「人のふり見て我がふり直せ」 そういったことあるとは思うのだが?  オ、カ、シ、イ。  自意識も美意識も弱ってきているぞ。  すると次の駅で、ちょっと面白いグループが赤い顔に汗を垂らしてなだれこんできた。(あ!茹で蛸) 男子5,6人、女子1人のグループは部活の後のようだった。何人かが透明の袋に運動靴を入れて手に持 っていた。話の内容はわからなかったが、女子も大いに語っていた。男子も女子もよく話している。立っ たまま笑ったりしている。次の駅に着く頃になると、彼らはいっせいにドアが開く側の道を作った。出る 人、入る人が落ち着いたら、また元のポジションに戻って愉快そうに顔を揺らしていた。  我孫子駅に到着。さわやか組みがシャキシャキと降りた。うつむいたままのケイタイ組はゆっくり顔を 上げて、明けはじめた空を見るような様子で腰を上げ始めていた。  二ヶ月相当分伸びた髪をカットして駅に向かう間は雨が降らなかった。帰りの電車は立って帰りたくな った。真正面に俳句の仲間の高志さんが座っていた。「久しぶり!そらさん!話をしましょう」。互いに 握手。話は俳句から畑のことなど。大音量の会話(私が難聴なので句会でもみなさんに気遣っていただい ている)は周りの皆様にも届いていたことだろう。    行きの電車で高校生を思わず観察した私であったが、帰りは、おばさん観察の対象になっていたことだ ろう。しかし高志さんに出会ったことは良かった。外は雨。畑に恵みの雨となった。

 ひよこまめちゃん   (2012年5月29日)

         絵本『だあれだ だあれだ』   ママが声に出すと手を伸ばしてきました。   興味を示すしぐさが可愛くて思わず写真を撮りました。  「だあれだ だあれだ」と繰り返す言葉の音にも面白がっているように見えました。           今日で全部の予防接種が終わりました。   昨日から離乳食を始めたのだそうです。十分粥小さじ1杯。    はじめは嫌がったそうです。   今日は小さじ2杯。        聖五月小さじ一杯はじまりぬ   くろまめ   

  金環日食 観察  (2012年5月21日)

   今朝6時半頃私は寝ていた。足の先がひんやりしてきて目覚めた。    夫のそらまめが窓を大きく開けて東の空に向けて三脚を立てているからだった。  (↓三脚立ててOK)   (↓レスキューシートを通して観る)    私は南側の達子さんの部屋をノックした。  「晴れたの?」ってパジャマで現れた。  「曇っているけれど見えるわよ〜」 (↓達子さん90歳の好奇心)   (↓金環撮影成功!)    私たち三人は欠けていくところから輪になったところまで観ることができた。   ケイタイでレスキューシートから見える金環を撮ったが不鮮明だった。  そらまめの撮った写真はよく撮れていた。カメラの性能も良いが三脚を立てたことが良かった。  もう少しで太陽がマンションの屋根に隠れそうになったところで金の輪の幅がきれいにそろった。  「達子さん、達子さん、見えますか?」  「あ〜見えた見えたわよ〜」  ケイタイで撮った家族の様子はなかなか面白い。

  ひよこまめちゃん  (2012年5月18日)

   首が座った。寝返りの自主トレーニングが日課になった。おもちゃで遊ぶ。  ママやパパが声をかけると笑顔で返す。 声に声で返す。  ママが食事の用意をしていると関心を持って見ている。  ママがミルクを調乳しているところをじーっと見ていたりする。    五ヶ月児対象の離乳食講習会に一緒に行った。  同月齢の赤ちゃんたちのなんと可愛いこと!  みんながコロコロムチムチ。   ママたち同士のコミュニケーションもなかなか。  調理実習室で、かくはんしたり、すったり、茹でたり、蒸したり、漉したり。  ラップを利用して、つぶしたり、叩いたり、混ぜたり。  市販のベビーフードを使ったり、大人の食事の材料を加工したり。  私は懐かしさを感じながらママたちの後ろから講師の手元を見ていた。    「割と簡単に出来るわね」  「母乳を少ししかあげれなかったので手作りをして食べさせたいわ」。    体重身長を測って解散。      車の窓を少し開けて新緑の風を入れた。  ひよこまめちゃんは目を細めて流れる景色を追っていた。      

  帰宅 (2012年5月14日)

 5月13日、宮崎駅から11時間半の電車の旅が終わった。  両親に無事に帰り着いたことを伝えたのが10時過ぎ。  もっと早くに着いていたのだが、母の日の赤ワインが利いたのか? うとうとしてしまった。    夫のそらまめと義母の達子さんが玄関で私を笑顔で迎えてくれたとき、緩んだ。  「三人揃ったね」と達子さん。  「おつかれさま!」とそらまめ。  お隣の畑の方から頂いたという筍をそれは美味しく煮ていてくれた。  ハーブを使っての肉料理。  「母の日おめでとう〜」と三人で乾杯した。  そして、今朝から掃除ばかりしていた(笑)。  洗濯も楽しい。    宮崎での滞在記をリアルタイムにケイタイで送っていたが、受けてアップしてくれていたそらまめの  苦労に対しても改めてありがとう。  「をりをり」を読んでいたら、訂正、加筆、写真も追加したくなった。  とにかく伝えることに一生懸命で(笑)。  間違いも多々あった。  で〜〜  直しました〜〜〜。    今一度 宮崎と銀鏡ばみてくれんね。

  帰路車窓より (2012年5月13日)

 滞在中は晴天続きだったが今朝は白い空だ。  8時6分特急にちりん6号に乗る。    宮崎弁が飛びかっている。優しい響きだ。右手に穏やかな高鍋の浜が見えてくる。  日曜日とあってか?外はとても静か・・・・・・なにもかも小型に見える。  山肌は湿気を帯びて深緑に見える。  帰路はどこか寂しさを拭えない。  大分まで少し眠ろう。 ****************************************  目覚めると延岡から満席になっていた。  トンネル、またまたトンネルだ。そのちょっとの隙間から幾分か明るくなった空が見える。  コデマリの花が今日の空によく似合う。  津久見−臼杵を通過。 海側から左手山を見るとシイの花がびっしり咲いている。 今回の帰省で母から聞いたことだが、シイの実はイノシシの大好物なのだそうだ。 (しばらくは畑を荒らされることはないだろ) それんしても今年はすごいもんじゃと父も縁側に立って興奮気味に云った。 ここ大分でも先祖代々の土地に住み続けている人たちの間で同じような会話がなされていることだろう。    −間もなく鶴崎だ−。 *************************************** 大分からソニック号に乗り換えて小倉まで。 別府で車内販売のお弁当「かしわめし」とお茶を買う。 宇佐までシイの花穂をずいぶん近くに見ることができた。 中津から大分平野がひろがる。畑中で煙りが立上っている光景はまさに日本の原風景。 しかしケイタイの充電危うし。撮りためておいた写真を自宅に送信した。 小倉で新幹線のぞみ32号に乗り換える時、のぞみを撮ろうとしたが完全に充電切れしていた。 座席で充電をしながら続きを書いて(打って)いる。車内を撮ろうとしたら画面が真っ黒になり撮影できない。 原因不明。充電不足か??? ***************************************  撮れました〜〜 おっちょこちょいでした。 私は充電器に入れたまま撮ろうとしていた。 自分のオバカぶりにひとり笑い転げた。  コーヒーを飲もう。 *************************************** のぞみ号の乗客はお眠りか?現在3時半過ぎ。静かだ。 食べている人たちは音を立てないように気づかっているようだ。ビニール袋の音が微かに聞こえる。 赤ちゃんのおもちゃにビニール袋がある。これはおもちゃとしてかわいらしいデザインになっている。 赤ちゃんがグズグズしているときに、耳元でカシャカシャと音を立てるとご機嫌になるのだそうだ。 それで孫のひよこまめちゃんにやってみたら効果があったことはあった。子宮のなかで聞いていたのかな? 名古屋でミックスサンドイッチいただいた。次は新横浜。  還暦同窓会に出席して良かったと思う。  時間が過ぎるに連れて思い出すことだろう。  名前は忘れても風景が残るような気がしている。

  今日も晴れ (2012年5月12日)

 さあ!今日は鏡鏡の最後の日だ。早くに目が覚めた。 6時過ぎ「ホーィ」「ホーィ」声が聞こえた。宮崎からお魚やさんがやってきた合図とは(笑)。 山では、鼻から頭の先に抜けるように声を出すと遠くまで届くのだそうだ。 朝食の後は昨日に続いて台所の整理整頓。要不要に仕分ける。要のモノを移動。物おきを整理してから移動。 お箸、お皿(各種)、ふた付きの塗りおわん、お茶碗、お湯のみ、急須、グラス、お猪口、お膳、ふきん、 ボール、ザル、カゴなどなど。50名から100名くらいの集まりごとに対応できるように揃えている。 「最低50客分は揃えておかんと不便じゃもんね」。 味噌甕(自家製麦味噌)大きな樽は麦入れ。升、五升炊ガスコンロ、父のエアロバイクも仕舞うことに。    ゆったり食事が出来るようになった。 母がスズランとスイセンの球根を土産に持たせてくれた。  土が乾いいてから葉の部分を切った(手前がスイセン)。  午後4時半出発! 宮崎の兄宅へ  父よ母よ元気にしちょってね〜  山よさようなら〜〜

  朝だお昼だ (2012年5月11日)

お味噌汁の具を畑に探すところから朝が始まった。サラダにも菜っぱを摘む。 にぎやかに話ししながらの朝食は今日で4日目になる。 塩鯖の焼いたにおいがちょっと苦手な私は梅干しの種を舌の上で転がした。 父83歳、母81歳。元気だ。 兄は草刈りに。 今日の予定は、台所とその周辺の片付け。 村では地区別に持ち回りで宿になる記念行事があったが老齢化で来年からは公民館でまとめて行うことになったそうだ。 我が家でも50客分の道具を使うことは無くなった。限界集落の行事は形を変えて引き継がれている。 時間が惜しいと思えてならない一日だった。

  開墾 =茶の木を燃やし、石拾いをし、草を抜き、初操縦をして。 (2012年5月10日)

 庭の前のこの畑は元は茶園だった。2年ほどそのままにして茶の木が枯れるのを待っていた。    横倒しして燃やして根っこを抜いて、それでもそれでも時間が掛かったそうだ。  母はお花が大好きで、接木も得意で、育てるのが名人だ。  自分で耕した場所にヒマワリ(三種類)、コスモスなどを植えていた。  この日はJAでいただいたコスモスの種を蒔いていた。   兄は芋(大和芋・自然薯・アピオス)の手を立てている。母は洗濯しながら畑で作業。父はゆったり新聞読み。 この対比を私たち子供は毎度笑ってしまう。     残りの耕していないところを始めよう〜 茶の木の枯れ木や雑草を焼く。 大きな石だ。深く掘ると岩盤にあたる。   ミニ耕運機のしくみについてのレクチャー = 父も母も興味津々。   二人の好奇心に感動! 父も上手かったが母はもっと上手だった。       きれいになった。(達成感)   作業を終えて、家の裏に蕗取りに。 「足らんわあ」とすごい量を取る母。。 兄と一緒に作ったときの要領で。(私流は、板ズリも水に晒すも省略なのだが)

  ケサエさんの畑 (2012年5月9日)

 本日も晴天なり。  なにやら発動機の音が気になり外に出てみたら兄が畑に水を撒いていた。  タンクに雨水を貯めているのだそうだ。     家の周りを歩いていたら母が出て来て庭木や花を挿し木で育てていることなどを話してくれた。  「あとで見てみるね?」と言い、菜を摘んで家に入った。      食べる前に手作り窯入り茶の飲み比べをした。 写真左、山村留学生のお母様が里親のお宅で摘んだもの。右、兄の手作り。    どちらにも軍配が上がった。  食後は母と庭を散歩。  私が子育て始めの頃に着ていた防寒コートが干されていた。  春先の畑で作業するときに着ているのだそうだ。  「畑に下りるときには足元に用心してねー」  「ロープがあるから大丈夫よー」  「命綱だね」と私。     接木や挿し木から花や実が。飛んできた種からメタセコイアが。  先祖代々のお墓の周辺にツツジ、サルスベリ、フヨウ、ツバキ、スイセン、キンカンも。  家の周りにサルスベリ、ムクゲ、キヨウチクトウ、キンモクセイ、ギンモクセイ、コスモス、  スズラン、イロハ紅葉、楓、山ツツジ、バラ、ナンテン、アヤメ、フヨウ、ハナモモ、ライラック、  イチジク、ブルーベリー、ザクロ、ビワ、カキ、キュウイフルーツ、ブンゴオオウメ、種無し金柑などなど。  残飯を捨てたいというので一緒に畑に下りた。畑に居る時の母はとても若く見える。   「スイセンとスズランの球根を持って帰らんね?」  千葉で育てたいと思った。  兄が出てきて烏帽子岳が見えると言うのでその場所に連れて行ってもらった。  枇杷の大樹の辺りからでも見えたが、この場所からはとても姿が良い。  家の前の川は昔石飛をして遊んでいた。兄は中間達とウナギを捕っていた。  その頃は大きな石があったのだが・・・ ・・・。  午後からは、残りの障子貼りを完了。  明日は、裏山の蕗を摘んで煮付けよう。いよいよ畑の手伝いだ。

  障子を貼る (2012年5月8日)

 8時20分、朝日を観る。    小中学校の校歌の歌詞が浮かぶ。  水蒸気が靄っている。深呼吸をして庭から畑(茶園だったところ)を見る。    本日は障子貼りだ。全部で23枚。  前の川で洗うのかなあと思っていたが、「庭でええちゃが」と母。  
   簡単には剥がれない。  8年前に従来のやり方で貼ったのだそうだ。  今回は一枚のシートになっている障子紙を使うことにした。  糊を剥がす液体が付いている。糊も付いている。だから簡単に思っていた。  糊剥がしに時間がかかったのは昨日の気温のせいかも知れない。軍手を使って障子の桟を拭いた。  後片付けを母がしてくれた。    障子を元の位置に戻してから、お昼ご飯。そして休憩。  骨になった障子から山が見える。  あ! 休憩に時間をとってしまった〜〜  畳の上に糊が付かないように新聞紙を敷く。その上に乾いた障子を寝かせて貼る。      「昔はお盆の頃に、障子貼りをしたっちゃが」  「実家じゃ〜川に浸けとったちゃが。上から石を乗せておけば、綺麗になったとよー」  父のお嫁さんになるうんと前の話し。聞けて良かった。

  ピザとシイの花 (2012年5月7日)

 今日も晴れ。  姪っ子を職場に送る。跳ねながら「うんじょ〜るの」の扉に消えて行った。  レストランがオープンする時間にみんなで行ってピザを注文した。    私たちはとうとう写真を撮るのを忘れてしまった。    午後から鏡鏡へ上がる。 (銀鏡の人達は町からアガル。町に下る(クダル)と言う)    木々の白く見えるのは、シイの花穂。  子供の頃の私たちは、シイの実(村ではコウジと呼んでいた)を炒って食べていたものだった。

  綾町 「酒泉の杜」 へ (2012年5月6日)

   本日も晴天なり。   かなり遅くに起床。朝食はパンor雑穀米のお握り。  しかし兄はいつものようにゆったりといつもの食事(一汁三菜と玄米ごはん)をしていた。  女はそれなりに支度に時間がかかるのだ。マグカップにコーヒーをなみなみと注いでパンをいただいた。  綾へ行ける時間ができたので、昨日のうちから日焼け止めクリーム(SPF50+PA+++)を買っておいた。  美容のためではないのだ(すでに遅し!)。宮崎の陽射しの強さに参っていたから。  今日は真夏日になるので、みんなで仲良く日焼け止めのクリームを塗り塗り。  皮膚呼吸ができるのだろうか?   表情筋が伸縮できないのでは?。  ホウレイ線が消えているのではないか?。(ヒロタミエコさんの顔が浮かぶのであった)    行きは遠回りをしてドライブを楽しんだ。  山で育った私たちだが山や田や畑が見えてくるとそれだけで嬉しくなるのだ。  約1時間のち到着。先ず藍染工房へ。  藍染めの服はどうしてもデザインが似通っている。  個性的なものを求めて見て回ったが私の好みのものには出会えなかった。  帽子の中にユニークなデザインのものと出会えた。 (手拭いを使って縫ってみようかしら)  それから、酒泉の杜へ。  私たちは一番奥の第三駐車場に止めた。  誘導係りの方たちは気の毒なくらい太陽と戦っていた。暑い暑いのだ。  陶芸の市は人が少ない(物も少なくなっていたが)。  おかげでゆっくり見て廻れた。買うことよりも見ることの方が好きなので満足できた。  オークションが開かれていたが、これにはまったく興味がわかなかった。    アンデスの音楽を30分ほど楽しんだ。  風あり日除けあり。コンドルは飛んで行く。楽器のサンポニャンの奏でる音に眼を閉じて聞き入った。  演奏が終わったら誰ともなく募金箱へ。      食事はさっぱり系で行きましょう! 皆が一致。    酒泉の杜で宿泊した日のことが思い出された。  あの日は姪っ子が盲腸で緊急入院したのだった。  かわいそうに痛かっただろうに我慢してくれていたのね。  そんなことちっとも知らなかった私たち。    姪っ子に「また来るね〜」と言って、こちらに移動。  夜はヒノキ風呂に浸かり、美味しいお料理を食べていたのだった。    今、姪っ子は、目の前でニコニコ顔して食事をしている。  甘いものをすすめたら「もう お腹いっぱいです〜〜」。  帰りにガラス工房の小物を買った。 青い鳥。840円なり。     帰路は父の話で盛り上がった。  子が年を取ると、親はまことに愛すべき存在になるものだ。  それは40年ほど前の話。中1の妹の参加日に来ていた父。  先生 「This is a pen.」   続けて   生徒 「リス イズ ア ペン」  生徒の声に混じって〜 ダミ声 が 聞こえる?   妹は「まさか!」と思ったのだそうだ。  父は、生徒と一緒に ”英語ふう”に発音して   「ジス イッザァ ペーン」って言っていたのだそうな。  妹は恥ずかしくて恥ずかしくてうつむいた。教室のみんなが笑ったそうな。  先生のスリッパは革張りだったので歩くと音がカツカツ。  しかしそのあとからズズ一スリースリー  底がつるつるとした革のスリッパの音がしたのだそうだ。  妹は「まさか! まさか! エ〜〜〜ッツ」と思って振り向いたら、父だった。   だったそうだ。  父「お! お前は〇〇さんとこの子か?」 「お!してお前は〇〇さんとこの〇〇君じゃねえ〜」と 云い、  肩をポーンと叩いて〜「しっかり勉強しなさい」とまで言ったそうな。  うぇ〜〜〜ん うぇ〜〜ん 妹は泣きたかったそうな。  父の自転車乗りのスタイルも評判になっていたそうだ。  絵に描かないと説明しにくいのだが。  膝を大きく開いて乗るポーズなのだ。      そういえばね、と私。思い出したのである。  それは、私が小学時代だから50年近くも前になる。  校長「どなたかご父兄の方にご挨拶を・・・」  父兄「シーーーーーーン」  父「それでは 私が」 と進んで前に。   そして話したのであった。の・だ・った・た・・・ ・・・。  あれも そうよ 運動会の日。  誰に頼まれたのか? 自発的なものだったのかも知れないが。  応援団長の姿(角帽に黒マント)で現れて、それはそれは大きな大きな声で、旗振りのようにして  大きく手と胸を広げて やっちゃったのであった。  それは 今風に言えば   かっこよかったから たまらん!!  ああ〜 愛すべき父よ!     あのころの私たち姉妹兄は、どれだけ父と距離を置いて身を置きたかったか!  父よ、ご存じないと思うが。  しかし、今の私たちは、あなたをこうやって ”旅のお肴にして語っているのです。  ああ〜もうたまりませ〜〜〜ん。  ワラって笑った。つっぱってならなかった日焼け止めクリームの効果はとうになくなっていて、  元の収縮性のある肌に戻っちょっとった。   明日は、姪っ子が働く「いつかの杜 うんじょ〜るの」のレストランへ行く。  それから銀鏡へ上がる。  7日から12日の夕方までの5日間にどんな出来事が起きるか楽しみだ。  予定に組んでいることは、障子張り。片づけ(掃除など)。夏野菜の植え付け。    ケイタイでまた日々を綴ろう。

  朝の散歩と午後の生ジュース (2012年5月4日)

 6時半起床。晴れ。兄と散歩に出る。  朝日を右肩に受けて出発。  グランドの端っこで椋鳥の親子が虫ちゃんたちを食べている。  シロツメクサが朝露に濡れて光っている。  犬と人とすれ違う。車は徐行して過ぎていく。  目が合えば「おはようございます」。  そして犬も人もどちらからとも「おはようございます!」。  田の畔で一人男性が何やら口にくわえて動いている。  近づくとそれは細い糸で、どうやら鳥が近づかないように糸を張っていた。  その糸は放射線状に張り巡らされている。   アザミを近景にして写真を撮る。    日向夏の花、野バラ、ハゼ、柿若葉、椎の花、榎の若葉、グミ、見上げながら歩いていたら、  眼がチカチカ〜足元はフラフラしてきた。(普段これほど上を向いて歩くことはない)    貯水池はとても広い。水神様が祀られいる場所に椅子が二脚置かれている。  ここからの眺めは湖だと思えばそう見える景観だ。  ウシガエルが鳴いている。ウグイスが鳴いている。  堆肥をこしらえているところを通過。  畑にはジャガイモの花が咲き、ソラマメは鞘を太らせている。大根はそのまま育てられている。  ニンニク、ラッキョウ、ネギ坊主、トウモロコシ、紫蘇畑・・・。  右も左も天も地も美しい!!  帰路、畑の草を刈っているおばあちゃまを見た。  腰が曲がっている。鍬も鎌もこの方が持つと動きがとても安定していて(安全)いる。  長年畑と田んぼを手入れされてきていることがよくわかる。  黙々と働いていらっしゃる。(何歳くらいだろうか?)   兄は「いつもこの時間に見かけるよ」と教えてくれた。  日中はどんなに暑くなることだろうか。夏はどんなになる?   宮崎はテゲ暑い!  帰宅。40分ほど歩いたようだ。  朝食。一切兄がしてくれた。  玄米(オカカとジャコ乗せていただく)、  具沢山のお味噌汁(お豆腐、シメジ、フダンソウ、麦味噌)、  梅干しとショウガの酢漬けと薩摩黒酢漬、焼き鮭、フキの煮付け、フルーツ。  そして釜炒り茶。   まことに嬉しい朝食だった。  そして庭の芝の手入れなどする兄。  私は暑さにたまらなくなって写真を撮っただけ。    宮崎日日新聞を丁寧に読む。  6日まで綾の手染め織工房にて「藍染作品500点展示」展開催」とのこと。  綾の照葉樹・ブナ林もを観たい。(行けたらいいなあ)  「窓」の欄に興味をひかれる記事があった。タイトルは「還暦の教え子同窓会で再会」。   あらら 今夕はまさしく還暦同窓会の始まりだ。)     睡魔がまた襲ってきた。  宮崎3日目の今日も眠い眠い。(約1時間半寝てしまった!)  兄がオリジナル生ジュースを作ってくれた。  素晴らしい!!   このジュースには以下のような効果があるとか?   @活性酸素の除去  A免疫力のアップ  Bガン抑制効果  C成長ホルモンの分泌促進  D血液サラサラ 材料 キャベツ・赤ピーマン・ショウガ・ブルーベリー・大麦若葉粉末・すりごま・きな粉・ハチミツ・豆乳。 味は、とろりしてすっきりとした味。 美味い! さあ〜食事はこれより摂らない。 同窓会でいただくことにしよう。

  訪問 待ち合わせ  そして蕗の煮つけ (2012年5月3日)

 昨夜はずいぶん遅くまで兄妹たちと起きていた。そして5時には目覚めた。  小鳥の声が耳に心地よい。  窓を開けるとレースのカーテンが優しく風に揺れる。朝日が回ってきている。  宮崎晴れ。美しい朝だ。  朝食はクロワッサンにベーグル(街の天然酵母のパン屋さん)に妹がこしらえてくれたミネストローネとコーヒー。  昨夜の残り物の古代米ごはんに納豆のジャコかけ。兄手製の釜炒り茶(実家の畑のもの)を飲む。  香り良し。お湯の温度を下げて淹れればどんなに美味しいことか。温度調整で解決。  美味しい〜〜〜〜〜♪ 「すぼった味がいいよねー」などと。  さて、今日は高校のときにお世話になった(下宿)キヨさん宅へ訪問。  同郷の後輩Tさん夫妻の案内で西都へ向かう。彼らの赤い車に乗り高速道路を走った。    実は私は今日の訪問にノースリーブのワンピースとレースのボレロとローヒールを用意してきていた。  その恰好をして鏡の前に立った。そして正座してご挨拶のポーズをとってみた。  妹が「やめたほうがいいかもね」と。  確かに。自己診断で却下することにした。  福助足袋のフクスケ君のように正座してご挨拶できないなあ。  滑稽且つ危険!!  背中のファスナーの辺りに裂け目が出るかも!!  結局は普段のカジュアルパンツに黒のカットソーに袴をリフォームしたコートを羽織って出かけた。  コートは刺し子ふうにして、布の裂けた場所やこれから裂けるかもしれない場所に共布を当ててチク  チクグルグル縫ったので力を入れなければ新しく裂けることはないだろうから。  西都までのドライブは近況を語り合える有意義な時間でもあり窓外の景色を見ながら「きれいね〜」の  連発もかなりオーバになるのであった。  訪問先に到着。  あらかじめ訪問のことを伝えていなかったがいらした。  キヨさんは朝から昔のお写真の整理をされていたのだそうだ。  99歳とおっしゃった。  Tさんのお母様と教員時代同僚でらしたキヨさんは「Tちゃん?」と  喜んで招き入れてくださった。  私のことを「〇〇ちゃん」ってすぐに思い出してくださった。  「傘を二人で探したわね」と。  私はもう記憶にはないエピソードも話してくださった。  目はイキイキと輝き、滑舌は非常に良い。  私は15歳になり、食卓を囲んでいるような不思議な感覚になった。  お茶菓子をおみやげに頂いた。  外へ出てそれは丁寧に手を振ってくださった。  帰りは西都原公園へ。  平年ならツツジが咲いているところだが咲き終えていた。  「咲いている所をみせたかったねえ」と優しい会話。  一昨年榎本先生から西都原の一面のひまわり畑の写真をいただいたことが昨日のことのように思い出された。  明日の同窓会に榎本先生が現れるはず。  勾配のある坂を下り、彼らの懇意にしているレストラン「緑風庵」でごちそうになった。  ここは、以前カナダ@あつ子さんを伴って食事をしたところだと聞いた。  明日はあつ子さんのメッセージを携えて私は同窓会に出席する。  レストランの庭にはショウブが咲いていた。  そう、五月の節句の時は実家の隣の家のマサエさんが頭にショウブの葉を巻いて  我が家の庭を横切っていた時の光景が浮かんだ。  そしてその隣の家のキッコさんが  割烹着を着て姉さ被りをして口をすぼめてショウブの花を両手に抱えて横切って行く光景が  しばらく浮かんでいた。  宮崎の太陽は熱い。熱い日差しの中で咲いているショウブが涼しげに見えた。  帰り楽しい話に身をよじりながら身を乗り出しながら〜〜  そうしたら〜〜私の右袖が縦に裂けて敗れた。  シャ=キッと音がした。  また花火を描こう。  グルグルカラフルに糸を刺して。    帰宅したら睡魔に襲われ約3時間ほど寝た。  それから兄と蕗を煮た。蕗は実家の畑のもの。写真はその工程。  素材の味が生きていた。写真は順番に:板ズリ、茹でる、冷水に浸す、皮むき、切る、煮汁、完成。

   ラッシュラッシュラッシュ (2012年5月2日)

 天気予報では雨嵐のこと。油断できないので30分早く家を出る。 10輛編成の3りょう目に座れた。人がこちらに移動して来る。 上野まで一時間弱。山手線満杯なので二回見送った。三回目はやや隙間が見て取れた。 10号の絵の額縁を肩から下げて乗りこんだ。 それからも出勤の群像が通過して行くのを見送った。 東京ー博多行乗車。お弁当から始めよう。 めるすきさんから行ってらっしゃいのコールが入った。 新横浜通過。外は雨 ************************* 静岡ー緑滴るの風景の中に工場が見える。そして茶園。昨日は八十八夜だった。 名古屋辺りで雨上がる。三人がけの窓際が私の席。中空き。通路側は犬連れの若い女性。 ゆったり座れていい。京都まで『アメリカ文学紀行』の続きを読もう。 ありさんからも行ってらっしゃいメールが入った。ありがたい。 ************************* 新神戸発車。風が吹いている。服装は誰しも薄着だ。 空が明るく見えたが?あーあトンネルだあー。 只今ケイタイの充電中。私の足元にコンセントがあるのでありがたい。 バソコンのサービスは新大阪までだった。 傘が見える。降ったり止んだりしているようだ。 神戸には一度も来たたことがないので、本を閉じてしばらく外を眺めよう。 横浜とは少し違って感じられるのは目線が低いからだろう。 トンネルをいくつ抜けたのだろう。小さな家並みが見えて来た。 雨のせいか落ち着く風景だ。川あり橋がありたんぼ畑、緑なすものみな美しい。 雲が流れている。 そして岡山に到着。 高層ビルが灰色に変わった空に馴染むかのようにただ建っているように見える。 動いているものが見えないことが電車の旅人にはちょっと色合も望まれるが。 家のたたずまいが整然としていてかつての城下を彷彿させる。 稲作の日本美しい。 ************************ 福山では雨が激しく窓を叩いた。 私は眠っていたようだ。コーヒーをいただく。3百円。ケイタイは圏外。 しばらくして着信あり。嗚呼 カナダから同窓会のみんな宛てにたメッセージが。 たんぽぽちゃん(あつこ@カナダ)ありがとう。 確かに受領しましたよ。 小倉までまた本の続きを。同郷の友人の本を読むことのなんと幸せなこと。 故郷へ向かう道中にだ。感想はまたゆっくり伝えよう。 省一さんは連休が明けたらイギリスへ旅に出るそうだ。さるきシリーズが続いている。 さて、小倉からはどんな旅になるのか。 ************************* 小倉からは山あり谷ありの予感がしてきた。 私の指定席に学生さんらしき女性がいる。 そばでイギリス人の青年がチケットを確認している。 私は彼に日本語で声をかけた。(座席番号の確認のために)。  彼はチケットを見せてくれた。私の隣の席の番号だった。  流暢な日本語で、じつに紳士的に私に席をすすめてくれた。  私たちのやり取りを彼女は見ていないわけはない。  しかし彼女は、じつに涼しい顔してー立ち上がり去って行った。  青年と私は運命共同体になったような気がした。  しかしこの優しい時間は中津までだった。  良い旅を!  日本の若い女性があまりにもマナーのないことに恥ずかしい思いが残ってしかたない。  ケイタイの充電サービスがないので別府まで閉じることにしよう。 *************************  別府で一分間の再会を果たすことができた。  はるかさん(「木曜日の風の色」)からメールをいただいてから私はこの一分間の停車時間を  最大有効に使い切るにはどうしたら良いか考えた。  はるかさんも考えた。そしてホームで会えたのだ。  とにかくハグハグで30秒。互いの顔を見てお土産交換。顔を見合うこと20秒ほど。  手を振り振り電車に乗り数秒。席に戻る気持ちにはなれなかった。  大分までの6、7分を出口に立ったままでいたかった。ありがとうはるかさん。  写真は、はるかさん手作りのアクセサリーと所属している「大分県詩人協会」の詩集。     
 宮崎まで懐かしさに満ちて来る景色を楽しもう。宮崎では兄が迎えに来てくれているから。  雨はすっかり上がりうっすらと日がさしこんできた。

  くろまめ帰郷  (2012年5月1日)

 明日からふるさとへ。    5月に帰省するのは何年ぶりだろうか?もしかして40数年ぶりか?  クロネコ宅急便で一番大きなサイズの箱をふたつ送り届けた。それなのに今日は他にも持って 行きたいモノが出てきた。ふるさとの風景を写真に撮ったり、スケッチもしたい。俳句もできる かも。あれこれ楽しいことを描いては荷物が増えていった。  ふるさとでは中学時代の同窓会が待っている。卒業以来会える人もいるようだ。先生も4名御 出席くださるとのこと。いよいよ空想が現実味を帯びてきた。しわ・しみ・たるみ・老眼・白髪… …なかなか味が出てきて愉快愉快。私は今のまんまでひょいと顔を出そうと思っている。「誰や?」 「誰ね?」ちて言う同級生がいればいるほどそれは嬉しいことだ。(と強がりもあることはある) 先生とはどんなお話しになるのだろうか。このことも楽しみだ。  そして実家の両親とは滞在の半分を一緒に過ごせるのだ。山の霧と土と山菜と田んぼと花と木々 と電信柱(でんしんばしら)に挨拶しよう。  行きも帰りも新幹線を使うのだ。若い頃上京してきたときも新幹線だった。ただし博多からだっ たが。九州新幹線ができて時間は縮んだ。鹿児島のほうには向かわないで小倉で乗り換えして特急 ソニックとにちりんで宮崎に向かうルートを選んだ。家を出てから11時間30分で宮崎駅に着く。  列車の中から便りを出そう。家でそらまめが受けてアップしてくれることだろう。  さあ!寝なくては。 

 那須省一 著『アメリカ文学紀行』  (2012年4月16日)

 「私はもとより、アメリカ文学の専門家ではありません。私なりの「解釈」で取材を進めてまい りました。今のアメリカ社会の「一端」は切り取ることができたのではと思っています。気軽に読 んでいただければ幸甚です   那須省一 」         同郷の友人の活躍は特に嬉しいものだ。那須省一さんは学生時代からユニークな人物だった。 長じてはウイットに富んだ話に磨きがかかり、引き込まれたものだ。顔は幼少の頃からあまり変 っていない。30年ぶりに会った時、すぐにわかったほど。現在もそのときから体重の変動くらい。 しかし、読売新聞の「号外」を手に持って仲間との約束の場所に現れたときは「記者」の顔をし ていた。   「2010年読売新聞社を退社してからは海外を「さるく」(歩く)旅を続けています」と便りに。 アメリカへ、そしてアフリカへと 彼の”さるいた足跡”は『二人の運命は二度変わる』『ブラッ クアフリカをさるく』と題して書肆侃侃房より発行。 (下記サイト クリック!)    http://www.kankanbou.com/kankan/?itemid=459    『アメリカ文学紀行』も私の癖で(本を読むとき)、「はじめに」そして「あとがき」を読んだ。 すると、<旅は体力!腹ごしらえをする著者(マイアミにて)>の顔写真が載っていた。  5月私は宮崎へ帰省する。新幹線の中でゆっくり『アメリカ文学紀行」を味わい、日豊本線あたり で食べ尽くそうと思っている。

 一人称 二人称  (2012年4月15日)

 この頃、テレビやラジオで昭和の歌を聴くことが多い。なかでも昭和30,40年代の歌 の歌詞には当時の「若者」が一生懸命に社会に立ち向かっている声が聞こえてくる。 「下町の太陽」は、下町を知らない(九州の山奥で生まれ育ったので)私には空を歌うとい う光景が描けなかった。もっとも幼かったこともあるのだが。 今聞くと歌詞の言葉にけなげさが伺える。美しく清潔で明るい。貧しさに太陽の光が希望を 持たせる。そのように感じられる。  昭和30年代、私の村では各地区で小中合同の自治運営の集まり(会の名前が思い出せない が定期的にあった。その集まりのときは、宿(やど)(会場は各家が当番だったのか?)の部 屋のふすまを広げて50名くらいの小中学生が議長席に向かって正座していた。議長はリンゴ 箱に手をついて、本日の議題を説明していた。そしてみんなで話し合うのだった。オブザバー で父兄(死語)が数人居た。会が終わる頃に中学生が立ち上がり、スクラムを組んで歌った歌 があった。私は今でも諳んじて歌える。  しあわせはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが  流れる汗に未来を込めて 明るい社会を作ること  みんなと歌おう しあわせの歌を  ひびくこだまを 追って行こう  しわせはわたしの願い あまい思いや夢でなく  今の今をより美しく つらぬき通して生きること  みんなと歌おう しあわせの歌を ・・・・・・・・・・  しあわせはみんなの願い 朝やけの山河を守り  働くものの平和の心を 世界の人にしめすこと  みんなと歌おう しあわせの歌を ・・・・・・・・・・  どのような経路で村に入ってきたのかわからないが彼らはとても明るい表情で歌っていた。  当時の歌や会話は二人称で”我々は”というものが多かった。議論が好きな若者が多かった。  平成の若いひとたちは「私的には〜」「僕的には〜」と一人称で語尾を上げて話す。情報が 多すぎて、知ったつもりになって未来にしらけきっているのではないだろうか。未知のものが あるということが人を謙虚にし、ポジティブにさせるのではないだろうか。

 「ゆっくり歩けば元気で遠くへ行ける」  (2012年4月10日)

 新聞か?なにかの本か雑誌かで目にした言葉だろう。古いノートの表紙の裏に「ゆっくり 歩けば元気で遠くへ行ける(イタリアのスローライフ」と書いている。  今年に入ってから少しずつ古いものを整理しているのだが、ノート類は一枚一枚読まないと 気がすまない。しかしひどい字だ。走っていたり飛んでいたり斜めから入り込んでいたりして 忙しい。「ゆっくり・・・」は丁寧に書いている。「イタリアのスローライフ」は、ハートマ ークで括っている。感動したはずの日の日付を入れていない。よっぽど感動したからだろうか。  昨日は友人たちと我孫子周辺を歩いた。ひとりがボランティアガイドをしていることもあっ て私たちをガイドしてくれた。足を止めては、ベンチに腰をおろしては、また歩き出し、そう やって道草をしながら歩いた。西洋タンポポが道々に咲いていた。日本タンポポを保護しなく てはいけないねと誰かが言った。手賀沼の遊歩道でひとりがシロバナタンポポを見つけた。そ こだけに一輪咲いていた。ここに囲いをすれば保護できるかもねと友人。 歩くこと15000歩。食事をして2時過ぎ解散。程よい疲労感が実に良かった。  さて、「ゆっくり歩けば元気で遠くへ行ける」は、ゆっくり歩けば多くのモノが見えてくる、 とも言える(と思う)。車で観る景色とは違う世界が見えて、想像力も広がり愉快になれる。 一緒に歩く友がいれば尚楽しい。  ランニング用語にある「ロング・スロー・ディスタンス」はゆっくりと長い距離を走れば持 久力がつくという意味だが同じ意味合いだと思う。歳をとって体力がなくなってくると、この 「スロー」でも良いという言葉がことさらに元気づけてくれる。  歳をとると動きはスローになり、見えてくる範囲は狭まるが、長年の経験で「感受性」が高 まっているので、入ってくる「情報量」はむしろ増えていると思われる。私には先のことのよ うにも思えるが今のことのようにもある。 ま、ゆっくり行こう。

 ゆるい時間  (2012年4月3日)

私はコーヒーが好きだ。日に5杯以上は飲んでいる。豆はアメリカン用に煎ってもらっ ている。豆に拘ったりしていたこともあったが今は買いに行けなかったりすると、いた だいていたインスタントコーヒーを飲む。3杯目あたりからは「美味しい」と感じる。 「ねばならない」ということが年とともに少なくなってきている。そしていろいろ面白い と思うことが増えてきた。なにが面白いって一番は人間だ。面白い人間の手工芸品、文芸、 舞台、畑、音楽、美術など。アイディアのある人間は面白い。そういった人たちのトーク を聞いたり、隅のほうでちょこちょこっと話に参加できる隙間があったりするとえらく嬉 しい気持ちになる。  なかでも年配の方が好きだ。一人の人間の何十年もの経験が脳の中に凝縮されている。 そして熟成されている。ポツポツ語る中にキラキラとした実体験がヒョイと現れる。 私は前のめりになって拝聴する。難聴なのでかなり接近する。仲良くなれる。楽しくなれる。 そういった方たちとコーヒーを飲みながらゆるい時間を楽しむ。

 歌「♪妹よの妹」  (2012年3月27日)

 何十年も昔によく歌っていたフォークソングのひとつはかぐや姫の「妹よ」だった。 先日、お風呂に入ろうかと思う時間帯にテレビで昔の歌が流れていた。懐かしい思い になったがお風呂に入ることにした。湯船に浸かって「妹よ」「木綿のハンカチーフ」 を歌った。 「あいつは俺の友達だから」「あの味噌汁の作り方を書いて行け」「どうしてもだめ だったら帰っておいで」「都会の絵の具に染まらないで」「涙ふく木綿のハンカチー フください」・・・・・・とあの頃の歌詞は文学的に青春を代弁していたと思う。 「さだまさし」の歌は人間味があって好きだ。例えばこうせつの「妹」が「関白宣言」 の妻になっていたらどうだろう。  あの歌のあの登場人物があの歌のあの登場人物だったら?   コントができそうに思えるのだが。

 第11回 ピンクリボンウォーク2012  (2012年3月25日)



 日比谷公園9時より受付。早めに行ってスタート地点を撮った(写真左)。 会場の更衣室からピンクのTシャツに着替えた人たちが吐き出されてくる。笑顔とともに。  友人と落ち合う。10時より開会式。ブレストケアトーク(写真右)。 島田菜穂子医師×倉田真由美/漫画家。空は青く暑い。話は面白いがとにかく暑い。下を向 く人たちが増えてきた。歩くコースは2キロ(丸の内コース)、5キロ(皇居一周コース)、 10キロ(外堀コース)。私たちは10キロを歩いた。  園内のチューリップは芽を出していた。桜は遠目に枝の辺りがピンクを帯びていた。例 年に比べて開花が遅れている。歩いているうちに列の間が少しずつ開いてきて自分たちの 歩幅で歩けるようになった。こうなってくると実に楽しい。一緒に歩く友人は、横浜の公 園でベビーカーデビューをして以来の友だ。会うときは必ずプランに歩きが入っている。  帰りは有楽町に出てアールグレイの香りに包まれて小一時間ほど豊かな時を過ごした。 歩数21759歩。  歩いたことで特筆すべき出来事があった。  ピンクリボンのバッジををリュックにつけた女性が私たちの前を歩いていた。リボンは ハートのマークになっていた。「ハートの形をしたバッジもあるのかしら?」「2個をハー ト型に並べているのかなあ?」と話していたら、リュックの連れが振り向いて「2個です」 と答えてくれた。「○○ちゃん!」と私が問うと「えっ?」と応えた。私は日除けに頬被 りしていたタオルを取った。「4婆の旅」の仲間だった。6月2年ぶりに四婆の旅を再開する ことになっている。

歌の力 洋服の力  (2012年3月23日)

 先日、同級生の智恵ちゃんがCDを贈ってくれた。宮崎県西都市妻(さいとしつま)の 西都原(さいとばる)をテーマにした歌で美しく澄んだ声が風に乗って西都原を旋回して いるように感じた。曲名は「私のパワースポット西都原」「西都の風にさそわれて・・・」。 インターネットの時代に生きる私たちは実際に楽曲にふれることができる。まるで旧知の 友のようにこころをかよわせられる。音楽はいい。  朝ドラ「カーネーション」の主人公(糸子)の言葉には洋服力が発揮されている。 デザイン力。コーデイネート力。着る人の潜在力を引き出す力。体型、年齢、体況にあわ せて着る人を輝かさせる力・・・。今朝は末期患者と糸子がこころをあわせた場面が印象 にのこった。最終章にあっていよいよ糸子の言葉を聞き漏らすまいぞと思った。  夜はNHK BSプレミアム「沢田研二 ザ・タイガースを歌う〜40年ぶりに日本武道館でスペシャル・ライブ」。 彼らがGSをリードしていた頃、派手な衣装を着た彼らのポスターを私は下宿の部屋の壁に 貼っていた。机に向かい顔をあげるとすぐそこにタンバリンを持ったジュリーがステップ を踏んで立っていた。赤い衣装だった。肩章に白い房が垂れていたことを思い出して、テ レビのジュリーを目で追った。歳月は私にも彼らにも容赦なく形を崩し彫りを刻んでいる。 水分と脂肪を必要としない部分にこれでもかというくらいの量を盛っている。メンバーの 中でただ一人ジュリーがぷっくりしていた。しばらく経つと目が慣れてきて、ぷっくりは 気にならなくなった。動く。流れる汗。連続して歌う。弾く。叩く。会場のご婦人たちの 声援でエネルギーが再生されていくのであろう。 私と同年代のご婦人方にライトが当たるとファッションがよくマッチしているのが見て取 れた。過去に思いを馳せているらしい? 涙しているご婦人がいたり、ポワンとしたまな ざしで舞台を見ている男性もいたり・・・。時間の重なりは面白い。タイガースのみんな が白髪まじりで好感が持てた。  ステージのさいごの30分ほど観たのだが長い時間を感じた。メンバーのひとりが参加して いないことをジュリーの説明がなければ気づかないことだった。

  Amazonより到着!   (2012年3月22日)

 「銀鏡(しろみ)」という文字が表紙に出ている。      嬉しくて文字の上を指で撫でた。      本を開く。目次を見る。   100P見開きに祝子(ほうり)全員が載っている。     銀鏡では舞う男の人のことを祝子と言う。        夜を徹して舞った祝子さんたちの顔だ。        (以下、本文より)   銀鏡神楽とはいかなる祭りか   350カ所以上の村々で神楽が行われるといわれる宮崎県。   なかでも山間部で行われる夜神楽の   高千穂神楽、椎葉神楽、米良神楽は   古来の姿を今に伝えるものとしてよく知られている。   その米良神楽の中のひとつ、銀鏡神楽を体験する。           目的は神様に喜んでもらうこと     銀鏡の名前の由来     星と舞う夜     夜を徹した神楽のはじまり   (以上、文と写真=赤坂友昭)                     (以下、見出しより)  「闇をことほぐ」     宮崎県「銀鏡神楽」の神々と精霊に出会う旅               対談 鶴岡真弓×山口智子                  (以上)    私は読み終えて、朝霧の立つ庭の赤い鳥居を思った。  曾おじいさんが叩く太鼓の音を聞いて育ったことを。そして祖父の太鼓を。そして父が叩く太鼓の音を。  今でも太鼓の音を聞くことがある。聞こえてくるのだ。  嗚呼、あそこが私のふるさとなのだ。

 雑誌『SWITCH』特別編集APRIL2012( LISTEN. 山口智子)  (2012年3月20日)

 「ビックリです!!ぜひ読んでみて! 銀鏡神楽を女優さんたちが熱く語ってます」。  同郷の友人が知らせてくれました。  本は、3月10日に発売されていました。早速アマゾンに注文したところです。 そういえば、昨年の12月14日の銀鏡(しろみ)祭りに女優の山口智子さん。鶴田真由さん。 多摩美大教授(ケルト芸術研究家)の鶴岡真弓さん。他、数名の方がお神楽を観にいらし たという話は聞いていましたが、それがどのような事情でいらしていたのか私には皆目わ かりませんでした。ネットでレビューを読んで納得!。  ご興味のある方は、下記サイトを覘いてみてくださいね〜。  銀鏡に関する記事は、頁087〜紹介されています。 http://www.switch-pub.co.jp/switch/2012/03/074121940.php  

  テレビ 「とくせん お宝映像」を見て  (2012年3月14日)

1975年の映像だった。伊勢正三が「♪なごり雪」を歌っている。歌にも”りきみ”が出ている。 彼は1951年生まれだから当時24歳。  つい最近、現在の正三が「なごり雪」を歌う「いるか」の歌い方を褒めていた。「当時から 力を抜いていて歌っていてやわらかく響いてくる」というようなことだった。そういう正三も 物腰も口調もやわらかくて静かなムードをかもし出していた。61歳の正三はなかなか味がある ではないか。  数日前、ラジオ深夜便で加山雄三が語っているのを聞いた。 いろいろあった今現在。今を好奇心を持って力まず油断せず 急がずに微妙な按配を保ちつつ 感謝しつつ暮らしている様子が伺えた。力みのない正直な語りに次回続きを聞きたくなった。  今日は10ヶ月ぶりに絵の教室に行った。家を早めに出て美容室で髪をカットしてもらうこと にした。駅のホームで俳句の仲間と9ヶ月ぶりに出会った。私たちが並んで座れるように席を 譲って下さったご婦人が私たちの話の中にちょこちょこっと入ったり出たり(笑)。そのうち 私たちは近況交換。朝のドラマが15分でも「長編」になるように私たちもそうなった。かくし て明後日の句会に出る約束をして分かれた。  美容院では予約はしていなかったがいつもお願いしている○○さんがいらした。彼女には私 のデーターがきちんと頭にインプットされていた。近況を語るときスムースにアウトプットが できて実に心地良い。50歳にはまだまだ先のある彼女の対応に優しさが伝染してきた。  絵の教室でも力まない面々と再会できて、時間が一気に埋まった気がした。今夜の「とくせ んお宝映像」を見て、今日の一日を振り返ってみた。  さあ、今月の句会の兼題「蜥蜴出ず」「牡丹の芽」。始めよう。

  桃の節句  (2012年3月4日)

 3月3日、両家の親族が娘夫婦の家に集った。このような行事があることの意義をしみじみ と感じた一日だった。  桃の花と蛤のお吸い物、ちらし寿司、白酒。赤いマットにお祝い箸を並べると、もうここは 可愛らしい世界。赤に桃色に菜の花色。淡く優しい春の色は雛あられのよう。  親王飾りの前に、たくさんのぬいぐるみが並んで楽しいひな飾りになっている。そしてみな さんからの手作りの小物(精巧にできた貝の男雛女雛従者。見事な刺し子のお雛様マット)な ども並べられていてアットホームな初節句となった。


 真っ赤な縮緬袖なし被布(ひふ)がひよこまめちゃんにとても似合っていたことを写真で自 慢したいところだが(笑)。試着することなく本番で見事に着こなしてくれた。  この日のみんなの表情をCDに焼いた。親戚の小さな男の子と女の子の愛らしいしぐさが輝い ている。来年の今頃は、ひよこまめちゃんとこの子達が一緒に遊んでいることだろう。

  あきれた話パートU (2012年2月22日)

 ラジオから流れていた評論家のコメントにがっかりした。  評論家 「政府の対応が悪い。”何を”なすべきか早急に対策を提示すべきである。」  聞き手 「粛々と受け止めたいと思います。ありがとうございます。」    えッ  もう終わり?   評論家の考える「何を」の内容はなあに?   具体的なアイディアを言えないのにいかにも自分の意見もどきのことを叫んでいる評論家と  その「何を」が聞き出せないインタビュアー。  時間内に番組は終わっても確信の具体的アイディアもなしに周辺で騒いでいるだけの番組で  は明日からは何も新しいことは発生しないのでは。  

  あきれた!  (2012年2月20日)

  今朝外出のさいにカーラジオを聞いてあきれた。  「大学で友達が出来ないために休学する学生が数万人いる」  「こういった生徒達を支援するNPO団体ができた」   私は支援する側に対してもあきれた。優しいのもいいかげんにしてもらいたいと思った。  友達は出来るものではなく作るものだ。自己発信ができない待ち受け状態の若者(ばかもの)  に、どうのような支援をしようとしているのか? 報道を聞いていても理解できなかった。    おかしいぞ。オカシイゾ。幼稚すぎるぞ。(立派な青年もいるが)憤慨なり。  そういえば、一人でご飯を食べているのを見られるのが嫌で、トイレの中で食事をする学生  もいるとか。    中島みゆきのCDをかけるのだ。  ♪縦の糸はあなた〜横の糸はわたし〜織り成す糸は〜   NHK朝ドラの主人公の糸子もいいよねー(拡大解釈すなり)。  今朝のストーリーは、おっとり三女が母親の糸子に「こうありたい」本気を態度で示した。  本気をキャッチした糸子。そして姉二人も明確な意思を持って支援することになった。明瞭  爽快に解決していくまで摩擦に亀裂も起こる。人生の何合目においても簡単に登れる道はな  いのだということを「友達できないから休学します〜」の生徒たちは理解できるのだろうか。  まったく あきれて ウ。ウ、ウ、ウー  そして、目的地が近づいてきた。  道路工事中の交通整理をしている人が旗を出した。助手席の私は、この旗をどう受け止めて  よいのか迷ってしまう。わたしが運転しているのではないけれどどきどきしてしまう。夫は  上手に止まったり進んだりするのだが、私は「あれでよかったのかなあ〜」って思うのだ。  「行け!」「待て!」の二つがあいまいに見えてならないのだ。  あらら、あきれられるのは私の方かも。

  ひよこまめです。もうすぐ2ヶ月になります  (2012年2月8日)




      毎週土曜日になると必ず会いに来てくれたパパ。ありがとう。       ほっぺを撫ぜ撫ぜしてくれてありがとう。       だいじにだいじに抱っこしてくれてありがとう。       ミルクを飲ませてくれてありがとう。       


             お部屋がお日様でいっぱいになるとお風呂だったよ。       ママがお顔とお尻をきれいに拭いて       それから体重を計ってくれたね。       おひげの人が大きな手で支えてくれたよ。       マスクの人とママが洗ってくれたね。       「きれいになりましたねー」って声をかけてくれたのは       大おばあさまだったんだね。              体重が4800グラムを越えましたー                      


             昨日はミルクもおっぱいも吐かなかったって。       6時間も寝てたので「起きないですねー」ってママが心配したんだって。       今日は親指をお口に入れておしゃぶりしていたんだって。       泣きながら そのうち スースー寝たんだって。              もうすぐ、お家に帰るんだね。 ワーイ  

  ひよこまめちゃん (2012年1月30日)

我が家はもっか生後ひと月半の孫(ひよこまめ)の育児に奮闘中である。生まれたばかりのとき はママの胸の上でうつぶせにされて片方の目を半分開いて私たち祖父母と対面した。みんなが「 生まれてきてくれてありがとう」と声を掛けた。  産院を退院したママとひよこまめはパパと一緒に自分たちのお家に帰った。それからしばらく してママとひよこまめが里帰りして来た。ベビー用品、ベッド、オイルヒーター、加湿空気清浄 機も運び込まれて育児環境が整った。 毎朝ベランダにパステルカラーの洗濯物がぶら下がる。三時間おきに授乳。ひよこまめはその時 間がくるとゆっくり泣き始める。舌でおっぱいを探る様子に変ると泣き声が強く高くなりビブラー トの効いた泣き声が広がる。飲んでげっぷしてねんねする。ふんわりやわらかい新生児微笑をみせ てくれる。 午後2時前後、お日様の差し込む居間で沐浴をさせる。レースのカーテンを通してやわらかい光 がほてった肌を柔らかく包む。ローションをつける。オムツを当てて服を着せる。ご機嫌はまだま だ持続する。ゲップもおならも元気が良い。毎日新鮮な笑いを誘ってくれる。  夕方になると「たそがれ泣き」が始まる。抱っこしてあげる。「切ないねえー切ないねえー」と 言いながら背中をさすってあげる。そのうち寝入ることもあるが大抵は長泣きする。  大人はひよこまめの適温に合わせるのでちょっと寒かったりもしたが慣れてきた。みんなよく手 を洗うようになった。そらまめは「普段の5倍くらい洗うようになった」と言っている。ひよこま めはミルクの匂いを放つようになり体重測定器から足がはみ出すようになった。

  寒中拝(カンチューハイ) (2012年1月21日)

 どうぞ 風邪にご用心くださいねー。

  勝ち勝ち (2012年1月19日)

今朝のNHK「あさイチ」の中で ♪  宮島さんの神主が  おみくじひいて申すには  いつも赤(白)が、勝ち 勝ち勝ち勝ち  という歌詞の宮島に古くから伝わる歌を紹介していた。 「勝ち」というのに合わせて、しゃもじを「カチ」とたたいて歌っていた。 宮島ではこの歌を歌えない人はいないと言う。 広島カープの応援歌にもなっているそうだ。 私もこの歌の節回しと歌詞に思い出がある。 ふるさとでは小・中合同大運動会の応援歌として歌われていた。 ♪  銀鏡(しろみ)神社の神主が  おみくじひいて申すには   今日の運動会は  赤軍(白軍)の勝ち勝ち ♪  もしも白軍(赤軍)が勝ったなら  電信柱に花が咲く   絵に描いたダルマさんが  踊り出す踊り出す 村のみんなが総出で参加していた運動会の光景。 中学生のお兄さんお姉さんたちがすごく大人びて見えていた。 お年寄りたちの観覧席はひな壇だった。 銀鏡ではいつ頃から歌われていたのだろうか。 番組には北海道の人から意見・感想が寄せられていた。 「私も歌っていました。どのようにして広まっていったのだろうか」。

  「山の駅 銀鏡」完成 (2012年1月16日)

 ふるさと便りに乗せて、またひとつニュースが入ってきた。  昭和40年代前半まで”銀鏡銀座(しろみぎんざ)”と呼ばれていた商店街に「山の駅」完成!。  私が中学生の頃は、この場所は「タガ商店」だった。お薬、日用品、駄菓子を扱っていた。  部活はテニス部だった。帰りにみんなでちょこっと駄菓子を買ったものだった。  ここのご主人(たがじい)がとっても子供好きで、私たちを相手に楽しんでくださった。  やがてご主人は亡くなり、店を閉じた。  この店を左手に曲がると、銀鏡橋があり、この橋を渡って中学校へと歩いた。  毎年12月14日は、銀鏡夜神楽があり、この日は学校もお休みだった。  校舎に練習している神楽囃子が聞こえてきたものだった。  新聞に掲載された「山の駅 銀鏡」の記事を読んで脳裏をふるさとの今昔が行き交った。                        

 誰にも故郷がある 私の銀鏡(しろみ) (2012年1月6日)

 毎年、暮れになると銀鏡神社からお札(「日向国境 銀鏡神社守護」)が届く。そして実家からも お札が届く。額縁に三つのお札を並べてお祀りし、ご加護をお受けしている。結婚以来続いている我 が家の行く年来る年の慣わしになっている。  新婚時代は額縁が部屋の雰囲気に似合わないので気になっていたが、夫はありがたくお受けしてき ちんと御祀りしてくれたものだった。娘が片言の言葉を発するようになった頃、海外出張になり夫が この額縁に深々と頭を下げている姿を見た。仏壇の前でも手をあわせていた。家族はそれからもいろ いろなことがあったがその都度彼も私も手をあわせてきた。自然と娘もそのようにして成長してきた。  作年娘が出産した。その日は銀鏡の大祭が始まる日。退院はお祭りが終わりの日。実家の両親には 兄妹たちから伝えてもらった。両親にはこれからゆっくりと曾孫誕生の経緯を語ろうと思っている。  銀鏡は昨年数名の方々が亡くなったそうだ。人口はこの先も減り続けることだろう。村の時間は老 いを加速させている。80歳になってもまだまだ現役の村であったが年々細ってきていることを私は 遠くに居ながらにして実感している。  銀鏡のみんなが銀鏡神社を拠り所にしてきていることの意味をいよいよ考え、そこで”後世に文字 として残こさねば”ということになったと聞いている。 本編纂については、民俗学写真家の須藤功氏の協力を得て、”地元発信の民族誌”を目指している そうだ。     作年の大祭の折に、銀鏡神楽をご観覧いただいた不特定多数の人に配られたパンフをここに紹介し たい。      予告! 銀鏡神楽 −日向山地の生活誌ー             私は私の銀鏡の清楚な民の歴史をより多くの方々に知っていただけたらと切に願っている。

 謹賀新年 (2012年1月1日)

    本年もどうぞよろしくお願いします。    皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。   大阪の友人からいただいた京菓子(そらまめの形)。    とっても可愛くて福が福々笑っているかのように見えました。    今年も元気に道草を楽しみながらゆっくり歩んで行きたいと思います。    どうぞ皆様 くろまめの小さな展示室に遊びにいらしてくださいね。