くろまめのをりをり3(2005年)
毎日のようにベランダから富士を眺めています。よく晴れた日は
丹沢が見えます。太陽が少しずつ移動してゆくのを見ていると
今日の日を残しておきたくなります。
2005年「銀鏡まつり」 (2005.12.30)
毎年、12月14日の夕方から15日の午前中にかけ、宮崎の山村で夜を徹して三
十三番を舞い納める神楽がある。祭りの終わりには幸御霊(サチミタマ)のイノシシ
の粥が観客に振舞われる。白い息を吐きながら粥の湯気の中に顔をうずめて食べてい
る観客の顔は紅潮してゆく。外国からのお客様もちらほら見受けられる。おかわりの
列に並ぶ人が多い。
今年は、しし粥の光景は見なかった。午前2時過ぎからすさまじい冷えを感じてと
うとう続けて見ることができなくなった。駐車場になっている中学校まで数分なのだ
が膝が伸びきって坂を上がるのに大変だった。しかし空は素晴らしく美しかった。月
の高さの高いこと!。兄と妹と空を仰いだ。夜の空は遥かなる宇宙となり一村を浸し
てくれる。エンジンをしばらくふかす間、今夜の神楽の印象などを語り合った。
「照明の明るさが気になったなあ。」というのが一致した意見だった。カメラポジ
ションはマスメディアの指定席になっていた。本来は、「神屋」(斎場)の四角い土
俵のような舞台に、むしろを敷き詰め、ていねいに綴じ合せ、注連縄を張って結界と
しているわけだが、今年は注連縄の外に竹垣が無かった。また、一部未完成だが観覧
席の庇が短いために照明が天蓋に届いていてこの小さな穴から遥かなる宇宙が高く広
く筒抜けて行きそうに見えた。篝火は現代の照明に完全に負けていた。観客が暖を取
る薪のパチパチはじける音も負けていた。舞う人(「祝子」ほうり)の顔は照明に照
らされている。年々舞う人は年を重ねて行き継承が危うくなっている現状をしみじみ
感じずにはいられなかった。しかし、天蓋の真下の半畳のゴザの上で舞うお面様の舞
は照明が素晴らしく生きた。国の文化財と県の文化財に指定されているお面の形や色、
金糸銀糸の衣装の文様は薪能のように気高く神秘的に感じた。ゆったりとした動きに
ゆったりと光と影が現れるからだろう。それでも私は、篝火だけの中で白装束の白足
袋の白い息の揺れ動く斎場だけを静かに静かに見たいと思った。
笛の音と太鼓の音は、まったく変わっていなかった。そして方言も里の蕎麦もいり
こ出しの汁も変わっていなかった。サチミタマの猪頭は6頭並んでいた。里に下りて
きたのであろうか。山に追われて行ったのであろうか。子供の頃、狩猟する大人の印
象はとても残酷で嫌だったが、今はこの神楽が猪とともに孫孫と受け継がれますよう
にと思えるようになってきている。
15日、午後4時過ぎ、神々は散っていった。静かな村が残った。
友からのお土産 (2005.12.8)
友人は琵琶湖周辺巡りの旅から帰ってきた。髪を短くカットし、少年のような雰囲気で
やってきた。ヒョイと差し出された封筒の中に絵葉書が♪。裏には、印象派の画家の名前
、まったく知らない画家の名もあった
マティス「窓辺」は、窓辺に佇み海を見ている後姿の女。季節は夏で研茶色(とのちゃ)
の両肩両腕を出した白いワンピースの女はお尻のあたりでゆったりと手を結んでいる。そ
の手の中になにか?をもっているように感じられる。ただ両の指先で遊んでいるようにも
感じられる。ゆるいウエーブのショートヘアーは桑染色で襟足が短い。なで肩。腕は太く
筋肉質だ。右手首には赤い珊瑚かな?ブレスレットをしている。腰の位置が高い大柄な女
性だ。海は桑の実色。浜辺は柑子色(こうじ)に淡葡萄色(うすえび)。色調は、日本の
伝統色に準えて言い表すのにもっともふさわしい気がする。灰色がかった世界。潮騒が聞
こえてきそうな・・・。1918年頃の作。
今、上野で開催中の「金魚」の絵には、時を思いっきり遊んだ”今”を感じたが、この
絵には悠久の時を感じた。
ブーダン「さくらんぼのある静物」は、白木綿のテーブルクロスの折れ線がとても美し
い。布の厚みを感じる。布に光が当たってさくらんぼの赤が豊作を暗示させる。傍らにお
酒の瓶や壜が置いてある。パンの表面が固く乾いて食事の終わりを暗示させる。陰影が強
烈だ。繊細でとても美しい。脳外科の医師の白衣のようなインパクトがある。
1853年〜56年。
ルノワール「字を書くココ(ペンを持つ少年)」は、髪飾りのようなものをつけている。
副題の少年が少女ではないことを教えてくれる。友人が「少年だってねー」と笑った。小
公子のセドリック君が浮かんできた。シンプルな木炭画の中の少年の目がすごく印象的だ。
左手の人差し指が唇に触れていて一生懸命さを感じさせる。家庭教師が通って来る上流階
級の少年。少年老い易く学成り難しか・・・。1905年作。
ふんわりとしたタッチのこの絵に、ふと、いわさきちひろ想った。
ルノワール「カップ」は、女性だったら大方の人が「好き!」っていう。私の反応に友
人は「で、しょう!。そういうと思ったわ」と。白い陶磁器の花柄のカップと深みのある
ソーサーが一客。テーブルの角に置いてある。太陽と青い海が浮かぶ。白い壁の街のカフ
ェテラスで光と風を受けながら飲んでみたくなるようなカップだ。カップの縁と取っ手と
ソーサーの縁の青い螺旋模様が利いている。赤いお花は揺れている。白の美しいこの一客
は、大きな絵の中の一部だけを印刷したものだそうだ。1916年頃の作。
ことこと左様に女は可愛いものが好き。私は数年前に、このカップの図柄にとてもよく
似たマグカップをデパートで(イタリアの輸入雑貨フェア)買った。今年、5月、妹にあ
げてしまった。
絵が好きになってから、印象派の画家の絵ハガキを使わずにファイルするようになった。
自由鑑賞ができてとても楽しい。学芸員や美術評論家の解説や観賞文も楽しい。いただい
た絵葉書には、モダンアートというようなテーマが書かれてある。ユニークな展示品の数
々を見てみたいと思った。
函館スケッチの旅・・・最終日 (2005.11.5)
10月28日、2日目の夜はYさんの乾杯の音頭で始まった。席の顔ぶれが昨夜とは若干違う。
互いに個性がわかりあえてきているから会話も食も食食よくすすんだ。ホテルの壁の額絵が話題
に。「トラピスチヌ修道院」「ハリストス正教会」「夕日」「夜景」、特に油彩の「夜景」には
みんなが注目していたようだった。
合評までに40分ほど時間があるので温泉に入る人もいたが私はヘタな絵が気になって仕方な
かった。お風呂に入るの余裕はなかった。全員が時間厳守でいちばん広い部屋に集まった。窓側
に椅子が一脚置かれ、その上にはスタンドがスポットライトになる準備中。円陣に座る。窓を少
し開けて風を入れる。波の音が緊張感を呼び覚ます。M会長の挨拶、先生の挨拶のあと、「では、
どういうふうにしましょうか。」という呼びかけに、前会長のW氏が一番名乗りを挙げた。この
ようにスムースに流れる道筋に「画友会」みんなのひとつのこころを感じた。
「駒ケ岳」に「作者の主張はなんですか。」と先生。W氏は応える。主張を言える人は構図が
決まっている。近くに木の幹あり。枝あり。島あり。小船あり。山全体あり。椅子の上に作品が
上がる。同じ見た景でも個性が出て面白いと先生は言われた。そして先生の問いにそれぞれがよ
く応えている。私は、ちんかんぷんだから、遠近、光、影、消失点、地平線、などなど聞き漏ら
すまいぞと聞いた。T氏が構図や色などについて率直に質問をしている。自由に質問する流れに
なってきた。「立待岬」の絵に「構図もいいです。遠くの水平線の色をもう少し薄くするともっ
といいですね」と先生。Kさんは「遠くが晴れていたから濃く見えた」と云う。「相対的にみれ
ばそういう場合も稀にあるかもしれないが空気の層を通ってくる景色は薄くなる。」という答え
だった。「トラピスチヌ修道院」が上がった。ダントツに上手い!K氏の絵に座は締まる。マリ
ア像の影が27日に見た記憶に重なる。構図は空高くして修道院の丸みのある屋根が記憶と一致
する。M会長は「五稜郭の松」を出した。松が好きでここに来るなら松を描こう!と決めていた
のだそうだ。
ホテルで朝の浜辺を先生、K氏と3人で描いていた。M会長のデッサン力を先生は高く評価され
た。氏は画友会に入会してからスケッチブックを離さない考えでいてそれを実行し今回で3冊目
のスケッチブックになったそうだ。
講評会は深く学ぶことができた。他の人の作品をこんなに時間をかけて見る機会が得られて本
当に良かった。閉会は、先生の絵(色紙)のあみだくじで大いに盛り上がった。
翌29日は雨。駅前の朝市に立ち寄る。私は200円の傘を買っただけ。買い物が終わった人
は、青函連絡船記念館摩周丸(資料館)の喫茶店に集まり私は函館のアイスクリームを味わった。
空港近くで給油して、さあ!空港へ!!
東京は晴れ。まだ旅は27日の朝に集合した駅まで続く。全員が座れた。
函館スケッチの旅 パートU (2005.11.1)
10月28日午前11時50分過ぎ立待岬を後にした。車窓から見える啄木一族の墓標の白がやけに
寂しい。二十間坂下の「五島軒」本館の奥は資料館になっていて当時の社交場の様子を写真や洋食器な
どで紹介していた。廊下の先の別館がレストランになっていてサラリーマンのランチタイムと重なりに
ぎわっていた。上質なるカレーとは辛口が限度なのか?。先生のお薦めは中辛だった。私は辛口イギリ
ス風ビーフカレーを注文した。H氏は海鮮カレー。F婦人はシェフお薦めの五島カレー。Kさんはチキン
スープカレー。辛口甘口談義で楽しいお昼となった。
満腹ご一行様たちは、二十間坂とチャチャ登りの中間辺りの丘に停まった。大三坂に繋がるチャチャ
登りから坂下を眺めると石畳は乾いた灰色に少し紫がかかって見える。両脇には赤い実をつけたナナカ
マドの木が立ち並んでいる。やがて紅葉し尚一層坂の美しさを引き立てていくことだろう。もう少
し坂を上がる。平らなところをすこし歩くと木のベンチがあった。先生は「ここからの眺めはどうでし
ょうか。この辺りはどうでしょうか。」スケッチの場所が決まった。
午後1時、何人か下っていった。私たちは函館ハリストフ正教会と、カトリック
元町教会を描いた。私はお水を補給するのに教会の庭に入った。赤や黄色のバラを撮り、司祭の庭の蛇
口を無断でひねってアーメン。
午後2時半、教会の正門を出て八幡坂の方へ歩いた。通りの石垣は真っ赤な蔦で覆われている。葉は
大きくて茎がすごく長い。赤、緑、黄の3枚をいただいてアーメン。
八幡坂に続く道を越え日和坂に続く道を越え元町公園の中に入って旧函館区公会堂を見た。黄色い建
物はこれからの季節によく似合うと思った。以前はブルーだったそうだ。海側に下る道は基坂。函館の
道づくりの基点となったところから名づけられたというモトイザカ。帰りに元町教会の正門を撮る。東
本願寺函館別院の裏を歩いていたら鉄の柵に大量の大根が干されている。
次は最西端、魚見坂へ。外国人墓地はひっそりとしていた。15時48分落日を撮った。次は、べイ
エリアでお土産を買ってライトアップを見ながら帰りのプランを立てた。私は粘りのある食品を主に買
い、六花亭のマルセイバターサンドを買った。外に出ると赤レンガ倉庫群の壁が大きくせり出して見え
た。光を受ける側の美しさは月に似てると思った。
17時ベイエリアを出た。今夜は全員集まって先生からスケッチの講評をいただくことになっている。
・・・つづく
函館スケッチの旅 パートT (2005.10.31)
27日の朝は雨。修理をしたはずの折りたたみの傘は完全ではなかった。下がろうとする骨を抑
えて駅に向かった。6時41分発なら集合駅まで余裕の一番乗りだと思っていたら先生とW氏がすで
に来ていた。皆はコンパクトに荷物をまとめている。私と先生のは持ち込めないタイプだったので、
空港でM会長からチケットを受け取り手荷物を預けてさっさと搭乗手続き口を通過した。決まってブ
ザーの鳴る私なのだがこの日は鳴らなかった。出発ロビーでコーヒーを飲んでみんなを待ったが来
ない。 どうしてみんなは来ないのだろう?
ようやく現れたF氏から「先生たちがあなたを探していましたよ」と聞き驚いた。次に現れたK氏
にバックを預けて(この中にチケットを入れていた)コーヒー片手に急ぎ引き返した。H氏が一緒に
ついてきてくださった。私を探してくれていた女性3人の不安げな姿に声をかけ詫びた。蛇腹の向
こうに先生とT氏が見えてきた時からこれまでの時間の魔法が解けていった。私は単独行動をしてい
たのだった。先生が通過しT氏は靴を脱がされ触られそれでもブザーが止まない。ポッケのすっみこ
に自転車の鍵が入っていてそれが原因で鳴っていたのだった。T氏は私がお手洗いで倒れているの
ではと思い中に入ろうとまでしてくださったとか。先生は呼び出し放送をかけてくださったそうだ。
嗚呼!!
仲間たちは飛行機に乗っていた。私のチケットも一緒の機内に行っていた。チケットはなかなか
戻って来なかった。私は出発時間を15分も遅らせてしまった。
教訓:荷物を他人に預けるときは貴重品は手に持つこと。早合点をするな確認せよ。肝心なとき
の言葉足らずは大きな迷惑を招く。
函館は予報通り晴天だった。紺碧の空とはまさにこういう空だと思った。
レンタカー4台でトラピスチヌ修道院へ向かった。日本百選の赤松並木通りを縫って走る。虫除け
の藁を巻く作業を今の今始めたところに遭遇した。林の頂はツンツンとしていて五分刈の頭に似て
いた。黄葉あり。紅葉し始めあり。緑の濃さが目立つところは格別に美しい。車窓の景色は記憶に言
葉が重なっていく思い。修道院の駐車場は工事中。白樺の木が横並びに立っていた。信州の白樺とは
違う幹の白さに目を奪われた。マリア像の立つ所をスケッチした。ここから函館山を見て園内で昼食。
次は大沼公園へ。観光客の中国人のみなさんはすっかり真冬のコートを着ていた。駒ケ岳を一望で
きる場所でスケッチした。鴨が番で寄ってきたりと愉快なスケッチになった。3時半頃にぐんと気温
が下がった。(鹿の皮が沢山売られていた。)宿泊先へ一直線に向かう。夕ご飯を食べてからバスで
夜景を観に行くことに決定!!。運転から解放される4人の方にこころから感謝した。夜の函館は昼
間を宇宙に引き上げたような感じがした。バスのガイドさんは「雨や霧で4日に1度の割でしか美し
い夜景は見れませんが今夜は特別に美しいです」と興奮気味に言った。漁火は点々と散らばっていて
星くずのよう。目に映る灯りの黄、橙、が発光ダイオードの青になったらどんな感じになるのだろう
か。今見る灯りが減ることなく変わること無く地形もかわることなくあってほしいと思った。行きも
帰りも重複して案内していただいた。バスを降りて数人と固まってホテルに入った。ロビーのお土産
やさんの規模が違う。私たちはすぐお隣の立派なホテルに入って行ったのだった。・・・
28日、曇り時々晴れ。五稜郭に向かう。写生はなし。代ってレンズで捉えたコマをそれぞれが記
憶に残した。タワーから五角形を観ずに地を歩いたので歴史を感じられて良かった。
やがて町にビルが建ち歴史を葬ると思った。抗う意味を知りながら価値のない戦を知りながら新しい
夜明けを見ることなく散っていった若者たちが哀れでならない。松ぼっくりを拾って出た。
10時過ぎ、私たちは立待岬(アイヌ語)に立った。ここでは写生中ずっと晴れていた。波は静か
で海の色は薄かった。私は一枚描いて、ハマナスの実を一個描いた。ここを出るときに先生から白い
花の咲く場所を教わった。
・・・つづく
(2008年追記:「写生画友会」の宿泊スケッチは、この年から毎年年一回続けています)
続・私の村に子供会があった・・・銀鏡の頃 (2005.9.27)
学芸会と運動会は小中父母青年団が協力し合っ大イベントとなっていた。舞台の音響、
照明、背景の絵、衣装などは中学生と教師とPTAの手作りの発表会ともなっていた。観客
は村人全員出席。運動会の観覧席はおじいさんおばあさんの座るひな壇造りから始った。
紋付袴のおじいさん。着物のおばあさんたち。いっぱいお年寄りが見に来ていた。紅白に
分かれて2列縦隊の行進は圧巻だった。東西の赤組と白組が交差するときのドキドキ感を
忘れない。
先頭の主将、副主将の長い長い鉢巻の裾は土の校庭を均していった。小学1年生は後列
でもじもじしながらついて行った。観客は声援を送る。父は旧制中学の制服と学帽で応援
の旗を振ったり、三三七拍子で盛り上げてくれた。お兄さんたちの応援合戦はスターの競
演のようだった。ランニングシャツと短パンと小麦色の肌と丸坊主の頭を忘れない。
お母さんたちの踊りはおじいさんやおとうさんたちの目をを釘付けにしていたに違いな
い。お母さんたちは平均年齢が35歳くらいだった。中学生のお姉さんたちの走りは爆弾
のような勢いがあって怖かった。お兄さんたちの足が長くみえた。フイナーレは地区対抗
リレー。村の青年団の人たちと小中学生の選手と速いと認められた父、母たちが混じって
本気で走った。わたしたちの地区はよく優勝をした。紺碧の空に万国旗が翻る「小中合同
大運動会はこうして終わった。
車はほとんどの家になかったのでみんな歩いて帰った。帰りの道々、今日の日のあれこ
れを再演して大人たちは笑っていた。私も嬉しかった。家族に背負われているおじいさん
おばあさんも笑っていた。
♪コドモカイダ コドモカイダ ボクタチハ コドモカイノサダメヲ ツクリマショウ
♪コドモカイダ コドモカイダ オクタチハ コドモカイノサダメヲ マモリマショウ
子供会の歌を思い出した。あの頃みんな美しい目をしていたのだと思う。「みんなの
目がキラキラしています」と新任の先生はそのことを特に強調して言っていた。真実そ
うだったんだろうと思う。
私たちは、夢や希望を具体的に描くことはできなかったけれども、子供会のあった頃は
とても濃かった。
(2008年追記:現在の銀上小学校、銀鏡中学校は、山村留学生を受け入れています)
村に子供会があった・・・銀鏡の頃 (2005.9.27)
「2007年には団塊の世代が退職をする。」という見出しをよく目にする。あの頃、
山の子だった中学生のお姉さんたち。お兄さんたちは丁度そういう年頃だ。小中合わせて
350名くらいいたあの頃。お兄さんお姉さんたちはとても明るくて優しかった。わたし
たち小学生の世話をしてくれていた。兄弟姉妹も多く家族は3世代で暮らすのが当たり前
だった。
「道徳の時間」(ホームルームになって今はどうよばれているのか?)に、先生が家族の
人数を聞いた。「9人の人は?」「はーい!」と半分以上が挙手する。「11人?」私ひ
とりだった。お勉強の答えを言うときよりも挙手に力が入った。ひとり残るということが
すごく誇らしかった。
あの頃のみんな今頃どうしているのだろうか。
毎月、第何週だったのだろうか。日曜日だったと思う。「子供会」は夜に開かれていた。
子供たちの顔が灯りに照らされてオレンジ色だった。会の場所は当番で回る。その家の大
人顔は赤かった。野良仕事のあとのダリヤメ(ご苦労さまの焼酎をいただく)のせいだっ
たのかも知れない。幼稚園も保育園も必要のなかった村だったから小学1年生になると誰
もが祝福の言葉をかけてくれた。そして子供会に入会する。全校児童会とは別に地区ごと
の児童会が開かれていた。学校で決めたことを同じ地区の中学校のお兄さんお姉さんたち
に報告するのは「子供会」の場であった。あの頃の中学生は大きく見えた。態度がとても
立派で大人だったから私たちは素直に従った。縦の社会が自然とできていた。親の言うこ
とよりもお兄さんお姉さんたちに従っていた。
私の妹の子供会デビューは斬新だった。テレビ時代の妹は、都はるみの「あんこ椿」を
大変上手に歌った。木の箱に上がって「アンコ〜〜」と唸った。誰の印象にも残っている
らしい。お兄さんお姉さんたちはスクラムを組んでなにやら労働歌みたいな歌を合唱して
くれた。地区の行事の担当の割り振りなどてきぱきと決めていくのでカッコヨカッタ。
・・・・・・つづく
「川井郁子 コンサート・ツアー2005」 (2005.9.13)
9月9日「松戸・森ホール21」にて、川井郁子のヴァイオリンを聴くことができた。
待ち合わせの新八柱駅では森のホール行きのバス停を確認し乗車賃170円。駅の改札
口から勤め帰りの人達が吐き出されこぼれ出てくる。二つほどその波が過ぎてから大月
茂子さんが顔を出した。懐かしい笑顔だ。互いに「ハーイ!」で会えなかった空白が縮
んだ。知らない町を歩くのが好きだし食べれる所で足を止めるつもりで相談したら”さ
っぱり系で行こう!”となった。
バスを待つ人の列は長い。私たちは丁度大きなケヤキの木の傍に立つことになった。
この木の上の雀の囀りは尋常ではない。目の前で語る彼女の声は聴こえない。バスを降
り地下道を抜けると大ホール。席は1階S席ー14列。終演まですべて良い位置だった。
舞台に現れた郁子は白いパンツにゴールドラメ入りのタンクトップ。髪は長く一見モ
デルのような歩きで中央に立った。テレビで見るよりもっとスタイルが良い。大変美し
い人だ。前半と後半をパッションとスピリチュアルでお届けしたいというような挨拶を
した。ピアノ、ギター、ヴァイオリンのトリオで始まった。難しいことは分からないが、
曲調はドラマがありそれは彼女自身の内面の燃え滾る精神性を表現しているように感じ
た。
この日私の一番の感動は『大気』(他のタイトルがついていたが忘れた)脳天が引っ
張られていくような恍惚感を覚えた。背景は空と雲だけだった。”レッドヴァイオリン”
と銘打ってデビューしたほど赤のフレーズが似合う人だと思った。
話す言葉は柔らかくこころは熱く曲は甘く切なく熱い。そして激しい。『嵐が丘』は、
黒人のダンサーが歌い踊る。最初は驚いたが自信を感じた。演奏曲と挿入歌とダンスは
長編小説の最終章のようなうねりと静寂を感じさせてくれた。郁子は自分の音楽と馴染
むソロの演奏家を発掘し共に高め合うことを喜びとしている。今回のトリオの持つ力を
素人のわたしに音色で示してくれたように思う。
曲はどうやって出来あがっていくのだろうかと知りたくなったがこれはなかなか分か
り得ない分野なので、彼女の語る言葉や書いた文章で知りたいと思った。ドレスを着た
彼女はまさしくミューズ。詩を奏でてくれた。
CDを2枚購入。サインをしてもらった。
「すべてが素晴らしかったです。有難うございました。」と伝えて握手をした。憂いの
ある瞳が私をじっとみてくれたような気がした。
手作りのブローチと指輪 (2005.8.21)
土曜日の午前11時に友人はやってきた。「そのうち夫の休日にお昼を一緒に!」と声を
かけたとき即OKをもらった。前日には軽井沢から夜遅くに帰宅した彼女だったが元気の良い
顔をしている。首には夫(そらまめ)の手作りのトンボ玉を手持ちの石と上手に組み合わせ
て飾っていた。千歳緑色の無機質の石を中央にしてサイドに萌黄色のトンボ玉を並べ、黒い
紐を通して後ろで結んでいる。そらまめも気づいたに違いない。
私達3人は隣町へとドライブがてら移動した。休日にはきまって買出しに出かけるお店の
2階、イタリアンレストランでランチを愉しんだ。夏休みとあって子供たちの声も聞こえて
いたが気にならなかった。私は運転ができないから夫も友人もアルコールを飲むことはご法
度だ。アイスティーとコーヒーでも舌は滑らかになって話題も膨らんだ。手作りの話しは特
に愉快。先日、彼女からお手製のレースの花瓶敷きをいただいたときに、亡きお母様もレー
ス編みが好きで大窓のカーテンを編んでその重さにご本人がおどろいたことがあると聞き、
手編み鉄人のDNAを継いでいるのだなあと彼女のレースを見て思った。小物を取り出すたび
に中指がレースの縁に触れるのがいい。
昨日は、思いがけなく亡きおじい様手作りの木彫りのブローチをプレゼントしてもらった。
極細モヘア糸を2本どりにして編んだお花のモチーフの袋はやはり彼女の手編み。中から出
てきたのは、3個の木彫りのブローチだった。袋の亜麻色と形にも魅せられた。ブローチは
数多く在ったのだそうだが、知人友人達に使っていただきたくて差し上げたのだそうだ。素
敵な話である。
ひとつひとつ鑑賞しながらおじい様が彫っていらした時のモチーフのことや、おじい様の
お人柄を感じるエピソードなどもっともっと聞きたくなった。材質はシナノキだそうだ。手
触りがとても柔らかい。葡萄の葉っぱだけに色がついているところがモダンに思えた。
裏に補強の金属(銀)がつけられているものもある。「たぶん、ここが割れて・・・」と彼
女はその部分を撫ぜながら、「昔の人は物や道具をとても大事に大切にしていたんだねー」
と。
指輪は亡きお父上の手作りだと聞き驚くばかりである。川の石?海の石? 彼女は知らな
い。磨いて形を整えるまでどれほど時間がかかったことだろう。その石はやがて妻の指のサ
イズに合うようにあつらえてプレゼントされたのだそうだ。金の台にしっかり固定されたそ
の石は海松茶(みるちゃ)の色のように感じた。ひし形で暗いオリーブ色は彼女の白い肌に
実に似合っている。光が当たるとうっすら細い縞が縦に出て美しい。
彼女は「やってみたい(作ってみたい)ことがいっぱいだあー」と言った。山の子育ちの
私も思う。オリジナルは愉しい。どんなものもどこかが美しくしっくりマッチするから。根
底に愉しい楽しい面白いが涌いているからまだまだ楽しいと思う。
我孫子『白樺文学館』を訪ねて (2005.8.9)
北の鎌倉と呼ばれていた頃の我孫子(アビコ)には、白樺派の文人たちが移り住んで来て
貴族趣味の暮らしをしていたことだろう。そんな漠然としたイメージを持っていたが、今日
は、この文学館のコミュニティルームで「柳宗悦はなぜ我孫子にやってきたのか?」という
テーマでお話を聞く会を知り参加した。
1910年(明治43年)『白樺創刊』・・・論点は、宗悦と嘉納治五郎との姻戚関係から出発
した。叔父である治五郎が最初に我孫子に住んだという事実を軸にして、たまには我孫子に
訪れていたであろう新婚当初の宗悦に、1911年(明治44年)に別荘を建てた治五郎が移住を
誘ったのではなかろうかということだった。1914年「ここへ来たことはいい決行だった。」
と宗悦に言わせるほど”一大決心”だったようだ。大正3年12月号の『白樺』に我孫子讃歌
としてそのようなことを載せている。夫妻は、不便な田舎暮らしに戸惑いながらやがて新し
い発見や感動を暮らしにとりいれていったようだ。真の芸術家を発掘発見支援し、民芸運動
へと発展させた功績は偉大だと思った。
しかし、当時の我孫子は、度重なる水害に困窮していて、村民は、芸術だの文化だのと生
活に無関係なことに興味を持つわけはなく双方の交流は通じ合わなかった様に思われる。当
然ながら、都がどれだけ近いか考えることもなかったことだろう。
「上野まで1時間と15分で来る。直通の列車は僅か40分を出ない。」
(「我孫子讃歌」抜粋)
列車の運賃は一等、二等、三等と格差があったようだ。宗悦にとって、東京ー我孫子間を
短い時間で移動できるということがなにより豊かな暮らしを育んでくれたのだろう。
「・・・愛を受けるべき自然の美と、交通の便を持ちながら、今も尚人から忘れられている
のは此土地だと思う。・・・多くの人は此沼が秋から冬にかけて富岳の姿を映す事を知らな
いでいる。凡て沼の特質はそれが限りない静穏を示す時に見出されると思う。・・・静けさ
を恋う人々には此処は恵まれた土地だと思う。・・・東京を離れてここへ来てから学んだ第
一のことは自然の複雑な移変に外ならなかった。自分が自然を愛する心を学んだのは年々遊
んだあの赤城山においてだった。然し、ここに来てから自然が親しく生活の一部を形造る様
になった。」
(大正4年9月号「我孫子讃歌」抜粋)
「・・・自分が来てから一年の後、志賀がここに移り、又1年して武者、リーチが加わり、
それから木村(荘太)、清宮、その他の画かきや創作家が度々ここへ住んだ。自分は殆ど顔
を合わせない時がなかった。吾ゝはよく一緒に食事をとった。・・・思想の暗示やその発展
に、自分はどれだけ此我孫子の自然や生活に負うたことであろう。静かなもの寂しい沼の景
色は、自分の東洋の血に適い、又東洋の思想を育てるに応しかったと自分は思う。余の思索
に何か静かな一面があるなら、余はそれを主として我孫子の七年間に負うていると思う。・
・・夜な夜な字を照らしてくれたランプも余の親しい友達の一人だ。それも東京に一緒に行
きたいと思っている様に思う。・・・私は私の愛する我孫子をいつ迄も忘れるまい。
(大正14年4月号「我孫子讃歌」抜粋)」
1921年(大正10年3月)柳夫妻、我孫子を去る。
1923年(大正12年3月)志賀夫妻、我孫子を去る。
(9月、関東大震災起る。)『白樺終刊』
聞いてみたい知りたいと思っていた私の思いは裏切られなかった。本日、点と点が繋がっ
て線になったことを実感することができた。来月も又あの席で、どんな点がポロリンと剥が
れて転がって行くのを迷いながら行方を追うのが愉しみになってきた。
白樺文学館・公式サイト
http://www.shirakaba.ne.jp/
続・「第3回女4人の旅」箱根1泊の旅は地震で2泊 (2005.7.25)
翌朝霧雨。10時過ぎにタクシーで強羅公園へ向かう。料金は800円と表示されたが1220円
を請求された。公園では屋内施設の亜熱帯植物園でブーゲンビレアの赤ピンク白の大歓迎を受けやや
興奮気味。ハーブ園に入ってクールダウンをする。
外はまだ雨。紫陽花、山百合、薔薇、カサブランカが咲き、香りが高い。噴水は低く上がっている。
茶苑の門の風情にひかれてお抹茶をいただく。田舎家の席は『いろり』に縁なしの畳。略式であっ
ても畏まっていただいた。飲み終わったところで掛け軸とお茶花の脇に座り一人ずつ記念の写真に収
まった。こういった場所は年齢が如実に出るものらしい。一人一人が、たおやかな顔をしていた。
濡れ縁に腰掛けて靴ぬぎ石に足を揃えて写っている友人は実に美しい。懐かしさはまた違った表情を
生むのかも。庭で黒揚羽がくもの糸に羽の自由を奪われているのを見た。友人が払ってあげると、た
ちどころに葉っぱの下に入って静かに羽を畳んだ。茶苑のご亭主がその様を見て「こんなこと初めて
です。」と言った。
体験工芸館でガラス細工の工程を見た。作る人もインストラクターもギャラリィーも真剣だ。夏
休みとあって小学生の子供の作品を一緒になって眼で参加することにした。出来上がった時に皆で
拍手をした。やがて彼らに届くマーブル模様のマグカップを、どんな時間にどのように使うのだろ
うか。
さあ!一行は旅の最終章に向かう。湯本へ出て無料バスでベゴニア館へ行き大輪の枝垂れのベゴ
ニアに酔った。2月になれば現在の大きさよりも倍近くの大きさになるというのを聞き、私はそれ
は美しくなあい!と言葉に出した。帰りのバスの中、「お花があんまりきれいでドキドキしました。
妹や姉達と一緒に来ました。」と隣の席のご婦人が感想を語られた。
かまぼこ、温泉饅頭をお土産に買い家族の待つ家に戻るのだ。電車は相模大野辺りで停止。地震
があったための停止だと放送をしたそうだが私は寝ていてそのことをまったく知らなかった。都心
の交通機関が麻痺したので2泊目は友人宅にご厄介になった。いろいろなことが起きたが恒例の旅
の最高に印象に残る旅となったことは確かだ。
秋にまた強羅公園のドウダン躑躅を見て、あの茶苑で過したいと思っている。
「第3回女4人の旅」・・・箱根1泊の旅は地震で2泊 (2005.7.25)
22日、恒例の女性だけの旅は小田原駅から始まった。4人の合流駅は箱根湯本駅。
登山電車に乗れば外国からの観光客が紫陽花や山百合をうっとりと眺めていた。スイッチバックに
興味深々のようだ。一方、日本人観光客はただただ移動をしているだけのようにしか見えない。勿体
無いと思った。
「彫刻の森美術館」下車徒歩2分。美術館は4人それぞれの思い出のある場所でそれぞれが思い思
いに丁寧に観て回っていた。私は1981年の初冬に家族で訪れたのが最初だった。今回は3回目だ
ったがアートは季節や天候や体調や年齢で幾通りにも鑑賞ができるので新鮮に感じた。
眺めの良いレストランの窓からは霧雨の振りかぶる伊豆の山が遠くに見える。飲茶をいただき、お
土産のショップを見ながら外に出て・・・コーヒーを飲んでいたら雨がまた降り出した。ピカソ館へ
15分ほど歩いて移動。「人は特に絵を理解しようとするが、私はただ日記を書くように描いている
だけだ。」というようなことをピカソは言っている。なかなか深い言葉を遺したものだ。
館内からタクシーを呼ぶのは無料。宿泊の宮城野では湯三昧し、懐石風の膳を味わい少しアルコー
ルを口にした。朝食はお粥を全員が注文した。コストパォーマンスの良い旅もわたしたちの第一条件
なのだ。・・・・・・つづく
人形作家の住む家 (2005.7.20)
土曜日のお昼近く、そこの門は大きく開かれていた。今年の1月以来2回目の訪問となった。
親戚の住むこの町は、10数年前までは杉林と畑と田んぼのある広い農地だったところだが、
もはや元の姿を想像するとはできない。
新興住宅地の中に一軒のログハウスが建っている。この家の主が丸太を主軸に流木を拾い集
めたりして家族だけで遊びながら時間をかけて建てた家なのだそうだ。外観は、いわゆる暖炉
のある家のように見えた。煙突があったかどうかは記憶していないが大きい平屋だ。ここは人
形作家の母と娘と服飾デザイナーの父の親子3人の工房だと聞き、にわかに興味がわいてきて
今年の1月に初めて訪れた所だ。その日は営業日ではなかったが、快く娘さんが案内してくだ
さった。テディベア作家として内外で大きな賞を獲得した実績のあるベアをダッコさせてもら
った。一体が約4万円。リアルな重さと温かく柔らかい感触にいつまでも抱いていたくてそう
できて嬉しかった。
ポンポンと置かれてあるベアもいる中でマレーベアがガラスケースに収まっていて恨めしそ
うにみえた。「どうぞ!抱いてください」にはアッパレ!マイッタ!。
知る人ぞ知るベァ作家はポパイの恋人のオリーブにそっくりの不思議な魅力を持った女性で
あった。お名前は、金井二一奈さん。
さて、今回はどなたに会えるかと楽しみに訪れたら二一奈さんのお母様だった。うさちゃん、
猫ちゃん、アン&アンディーや女の子、男の子の創作人形作家だそうだ。
ベアは母親の初めてのハワイアンパッチワークの上に展示されていた。新しいベアたちの中に
は「人間が初めて飼育に成功した白熊くん」がいた。なるほど優しい眼をしている。二一奈さ
んは第13回日本テディベアコンベンションに出すベアも見せてくださった。お母さん作の人形
は専門誌に載っていると伺ったが出版社と図書名をメモをとることを忘れていた。
私はお母さん手作りのトートバックと古布パッチワークの小物入れとお父さんデザイン縫製
のシルクのブラウスとニ一奈さん手作りのサロンエプロンを購入した。お母さんが手作りのサ
マーニットの黒の帽子(キャスケット)をプレゼントしてくださった。ニコニコ笑顔の柔らか
いお人柄のお二人に出会えて最高の休日となった。
こだわりのおしゃれな暮らし「手工芸フェスティバル」
会期:2005年7月21日(木)〜7月26日(火)
会場:東武百貨店 船橋店 六階 イベントプラザ
山の子の夏・・・銀鏡の頃 (2005.7.10)
私が泳げるようになったのは、小学1年生の夏休みだった。父が私を蛙のように水に浮かせて、
手脚をバタバタ動かすように言うので言われるままに動かしていたら進んだ。次ぎに顔を水に浸
けて手足をバタバタ動かすとかなり進んだ。もうこれでビギナーズレッスンは終了となった。
毎朝、小学校の校庭に集まってラジオ体操をし、出席の○印を子供会の会長(中学生)に押して
もらい、家では「勉強中」と書かれた厚紙の札を縁側の柱に掛けて、宿題「夏休みの友」を学習し
た。まとめて数日分を済ませた日などは、札を裏返しして「遊び中」にして同級生のツヨミちゃん
達の遊ぼうコールを期待したものだった。
午後1時に白旗が揚がる。水泳開始の合図だ!。ツヨミさん達が声を掛けてくれる。お家が我家
のすぐ上だったので、「オーイ」と下から呼ぶこともよくあった。男の子も女の子もみんな格好は
水着の上に簡単な服を着て、胴体には浮き輪をし、タオルを肩にかけ、川まで小走りだった。
家から約500mほどの距離にある川は「水神淵」と呼ばれていて緑色の水。水深2m以上もあ
るところで中学生のお兄さんお姉さん達が得意になって素もぐりをしたり、崖から飛び込んだりし
て華麗な技を競っていた。
川デビューからまだそんなに経っていない私たちは浅いところでウォーミングアップをしたもの
だが、そこでおぼれる者が出たりして、監視役は(常時大人2名体制)居眠りなんかしていられな
かったはず。
私は一度だけ溺れて中学生のフクオさんに助けてもらったことがある。それは、いい気になって
浮き輪をせずに向こう岸へ斜め泳ぎをして行ったら疲れて中休みがしたくなり立ったところが!
深かった〜。私はタツノオトシゴのように沈んでいったのだった。もがいてもがいて上がってプワ
ーっと息を半分も吐けずまたズボズボ沈んで、またもがき、上がって、アップアップ。苦しかった。
おじさん達が私の顔を覗き込んでいたこともしっかり覚えている。鼻の奥がじんじん痛かった。
いつまでも痛かった。それからはなにがあっても大丈夫と自信がついてきていた。
流れの速いところでは浮き輪を上の方に投げて目測で飛び込む。浮き輪の中にスッポリ体が入っ
たときの爽快感もしっかり覚えている。
男の子たちはチョス(竹にヤリの先をつけた手作りの道具)で魚を獲っていた。水中眼鏡をして
いる子、していない子も川底にはりつく様にしてチョスを片手に持ち魚を追いかけている。その姿
を見ながら私はスイスイ泳ぐ。
女の子たちは、白い色の石や緑の石などを上流に向かって投げ、その石を拾いに川底を泳ぐ「石
拾い競争」の素もぐりのときは、ワンピース型の水着のふりふりがとてもきれいだった。
やがて小学6年生くらいになった頃、もう男の子たちのいる場所では休憩をとらなくなっていた。
大きく離れた場所の大きな石の隣のやや低い石の上で甲羅干しをしていた。耳の水を抜くために温
かい石を耳に当ててとっている女の子もいた。川の水はさらさらひんやりとしてあくまでも清流だ
った。
川魚はいまでも食べれない。飛び込みはもう出来ない。石拾いの素もぐりはきっとできる。
村の子供会は地域別に夏休みの遊び計画を立てていたものだった。親子で参加する海水浴日帰り
の旅はバスの旅。海の水は生温くて気持ちが悪かった。すまし汁の中に海草が浮かんでいるようだ
った。波に任せて無抵抗に浮かんでいた。遊びのないぼんやりとした感じ。波の音も波の高さにも
最初は驚いたが、すぐに飽きた。
浜辺で貝を拾うのは好きだが、汐の匂いはいまでも好きになれない。やはり川が好き。
足裏の白さ自慢の川遊び くろまめ
「鎌倉文学館」へ小さな旅 (2005.6.30)
28日の午前10時、気温がぐんぐん上がってくるのを感じながら駅に向かう。11両編成の
電車の席がみるみると埋まっていく。平日なのに、一体みんなはどこへ向かうのだろうか。お中
元のお買い物か?。
日本の夏はお中元から始まる。商戦たけなわの中を泳ぐようにして人は好みのタイプの方へと
流れていくのか。目的地の鎌倉まで、それらしき人達を見て想像してみた。
「”お熨斗”はいかがなさいますか?」
「外側にお願いします」
「内側にお願いします」
といったやりとり・・・長い電車の旅のはずがまったく退屈を覚えない。
鎌倉駅に到着。ロータリーは静かだ。人々は今日の暑さに耐え切れなくて、涼を求めて避難し
ているのだろうか。バスに乗って「海岸通り」下車。徒歩3分。
5月上旬に訪れた友人は、バラの最高に美しい時の庭園散策と「漱石展」と半々を過したので
満足が中途に終わってしまったと嘆いていた。私は偶然にも頃合いの良い時に来れたことが嬉し
くなってきた。
「漱石に会いに来ました〜」とチケット販売所のおじさんに告げた。
「ゆっくり会ってください。ありがとうございます」って応えが返って来た。
あれ?お顔が漱石先生に似てるぞなもし。ウインクしたくなる心地。すればよかったかも。
靴を脱ぐ。文学館にはスリッパは置いてない。館内はクーラーがほどよく効いていて良い。展示
室は古びたふすまの匂いがした。漱石の顔写真は目がやや左を向いている。なにかを思い出したよ
うな、ウムと納得したかのような、いや、疑問がわいたような目だ。
この写真の解説を自分で想像するのも面白い。40歳で教職を辞め職業作家となってからのエピ
ソードがいたるところにこぼれていて実に楽しい。有名な3部作の自身の評価など新しい感覚で見
ている。漱石好みにしつらえられた書斎を、”漱石山房”と呼ばれていたことは皆が知るところだ
が、実際に使われていた紫壇の机はあまりにも小さくて信じがたい。写真が漱石の体格をサイズを
示していた。原稿、手紙、書画、俳句、愛用品などなど・・・資料が豊富なので時間が足りない。
竜之介の「鼻」を漱石が絶賛しているので、読み直そうと思った。ショップに展示品のカタログ
が置いてあったので当然購入。
庭園に木陰が出来ていて紫陽花は精気を取り戻していた。バラは日の当たる場所であえいでいる
ようにも見えたが、スケッチしているご婦人の顔はうっとりとしていた。
生の麩饅頭をお土産に買いたくて雑誌などで紹介しているお店に立ち寄ったら4個しかない!。
この日私が最後の客になったようだった。午後7時頃、駅の構内で雷、停電、大雨。気温33℃。
今夜は、カタログを見ている。旧前田侯爵家の別邸に展示されていた1点ものが全てこのカタロ
グの中にあるのだ。足が浮くような感じになる。行って見てきて本当に良かった。
(7月3日まで開催中)
心に沁みた言葉 (2005.6.9)
私が好きな季節は初夏。5月のある晴れた休日に友人夫妻(KちゃんとHさん)と再会したことから、
素敵な言葉を聞くことができた。私たちは小さな喫茶店の中央にある大きなテーブルに席をとり、彼
らが来るのを待った。
外の喧騒はこちらには聞こえてこないが、彼らはその中を歩いてくるのかと思うと申し訳無くて何
度も立ちあがって外を見ていた。もう1年も会っていないからどきどきしてきた。やがて、ドアーが
内側に開かれて白い光がさーーっと伸びた。風が足元を流れた。ドアーの方へ駆け寄る。
「ワァー来た!来たのね!ワァーキャー元気ねー。元気よー!」と体に触れながらご挨拶。テンシ
ョンの上がった私たちは伝えたいことがいっぱいあってまとまらずもうパクパクし合って金魚だぁー。
店内のお客様完全無視ゴメンあそばせ。
「やあ!」と手を挙げてKちゃんの頭ひとつ上にH君の顔が現れた。そう!あのポーズ。変わらない
笑顔だ。嬉しいなぁ。席に着いてそれぞれ顔を見合わせてしみじみご対面をした。顔を見てはうなず
き合う。女同士は7月の旅のことを相談し合ったりしてお茶をいただいた。外はまだ十分明るいが次
の予定があるので別れた。
Hさんから届いたメールに私も夫もしばらくなにも言葉が出なかった。
『わたしたちの付き合いは時間の長さではなく瞬間の居心地の良さにある』と書いてあった。
私はあれからずーーっとこの言葉が頭の中心部に張り付いて消えない。生涯忘れることのできない実
感の言葉だ。
ゆるやかに風わたるなり今年竹 くろまめ
(2008年追記:Hさんは今年も女4人の旅のことなど予告してくれました。)
「母の日」関東と九州の奥地 (2005.5.8)
午後10時45分に娘より「無事帰宅しました。みんなによろしく!」と電話が入った。
午前11時、駅のローターリーを足早に近づいてくる娘を迎えた。車中では、毎日の食活のこ
とや仕事の話など聞かせてくれた。桜の花の季節から青葉の季節になるまでのほんの短い間に、
親も子も変わっていくものだと話を聞きながら思った。それは私自身に重なり遠く離れて暮らす
両親のことに繋がっていった。そして、こんなふうに微妙な親子の境を越えてそれぞれの心地よ
い場所探しをしながらゆっくりゆっくりと落ち着いていくものなのかなぁと娘の将来を想った。
交差点で車を止め、さて、どっち周りで帰ろうか?と後部席から問えば、「うーんこっち!」
って指す方向は住宅街。私は、田んぼと川を見ながらゆっくり家に向かいたかったが、少しでも
早く我が家へたどり着きたいのかもと思った。ハンドルを握る夫はなにやら嬉しそう。
コーヒーを飲み土産のケーキを食べながら話は続く。お風呂に入る。長すぎるのではと気にな
って、夫、義母、私が声をかける。出てきた娘は「みんなそんなに短いの?」と。実際は1時間
くらいのお湯だったから爆笑。
今夜はてんぷら。自慢の腕を振るうのは義母。「何が食べたい?てんぷらが食べたい。」・・・
日帰り帰省を心待ちしていただけあって、揚げたての味はいつにも増して美味しい。ワインを飲み、
普段の様子などまた聞いたり話したり尽きない。
「母の日ありがとう!」と受け取った包みはとても軽くて軽くて一体なんだろうかと想像してみ
たけれどわからない。悔しいなぁ。当てたいなぁ。時間がかかり過ぎ。ウーーム。もう降参!
リボンを丁寧に解きながらまだまだ考えたい。「早くはやく」と声がする。見ると色合いもサイ
ズも風合いもデザインも全部私好みのバック。早速入れ替えて使用開始の母の日となった。義母に
は大きな変わり品種の額アジサイを夫から。淡いピンクの小さなお花も挿し木になるところも母の
好みと一致して喜んでもらえた。
「石鹸が一個なくなりかけた頃にまたおいでね」と見送った。なんとも歯切れの良い今日だった。
昨日は、実家の母から観葉植物のお礼の電話が入った。70数年も目に入るのは山々というよう
な谷間で暮らす母に、部屋で観葉植物はどうかなぁと思ったが、母の好きそうなベンジャミンの大
鉢を届けた。「さっき着いたが。今夜はこれを見ながら夕飯を食べるのが楽しみばい」と。配達指
定時間は午前中でお願いしたのだったが午後6時過ぎ着とは・・・(ウーム・・・?)
「もしもし、午前中配達指定となっている母の日プレゼントを預かっていますが、3時頃まで待
ってからそちらへ向かいます」と配達係りの方から懇切丁寧なお詫びの電話があったのだそうだ。
なるほど〜
100キロ近くをたった1個の荷物を運ぶのには人的燃料的時間効率がさぞ悪いことだろう。その
時分、私はインターネットで伝票ナンバーを入力して追跡していたのだった。長いこと”配達中”
だった。電話を切ったあと、画面を見れば、”配達完了”となっていた。
つり革の夏夏夏と夏に入る くろまめ
遺された絵画展『無言館』(2005.3.18)
17日雨。前から気にかかっていた絵画展へ行く。東京丸の内中央口を抜けると雨は止んでいた。
東京ステーションギャラリーの入口はグレーの色合いをかもしだしていた。傘置きに群がる人の頭
髪の色だった。チケット売場もグレー。人の流れはゆっくりと整理されて行った。受付でリーフレ
ットを貰い2階へと階段を上がる。第一展示室に入る。照度は足元がようやく見えるほどで絵画に
優しくスポットが当てられていた。
最初の展示作品は、「祖母の像」。歯のない口元は少し開いていて目は画家のすべてを見ている
よう。膝におかれた手は、なにか言葉をかけたがっているよう。羽織っている袖なしには仕付け糸
が付いたままだ。
『ばあやん、わしもいつかは戦争にいかねばならん。もうばあやんの絵もかけなくなる。』
昭和20年7月フィリピン・レイテ島において戦士。享年22歳。在りし日の青年の写真は爽やか
で眩しい。
「元気な家中の皆様の写真を送ってください。」(軍事郵便)
目が大きくハンサムでシャンソンやタップダンスを愛好していた青年は、召集令状が来たとき、
『俺もお嫁さんが欲しかったなぁ』と母親に言ったという。描かれた「婦人像」はとても若い。
享年24歳。
結婚直後に召集され妻子をのこして出征。昭和20年の軍事郵便はさぞかし検閲が厳しかったこ
とだろう。妻に宛てた便箋には抑止した言葉が綴られている。享年32歳。「婦人像」は妻。
昭和16年熱烈な恋愛で学生結婚をし二男が生まれる。美術教員として勤務。17年応召。19
年戦死。享年28歳。戦死公報が届いた翌年、妻も病没。「屏風絵」「茄子」。
戦争で未来を断たれた青年たちが無言で”今に生きるわたしたち”を見ている。
展示室は四室あった。テーマは、「家族」。「時間」。「姉妹」。「妻」。「夢」。「生きる」。
「祈り」。観客はとても丁寧に丁寧にみている。とても飛ばしては進めない。とても申し訳なくて
しっかり見た。彼等の魂が歓迎をしてくれているようにも感じる。声を漏らす人などいない。涙ぐ
んだりしている様子が伝わってくる。ここには戦争を離れて深い海の底にいるような風のたたない
静寂がある。靴音はたっても聞こえない。しっかり対峙して語ろう。
美術館を出たのはそれから3時間後。曇っていたが明るく感じた。山手線の若い人たちが恐ろし
く無邪気にみえた。先ず家族を誘って長野の『無言館』の門をくぐろうと決めた。
↓以下、リーフレットより抜粋
「平成17年(2005)年は終戦から60年となります。戦争中、数多くの若い生命が戦地に駆出され、
戦場のツユと消えました。そうした中には、画家になることを一心に夢み、生きて帰って絵を描きたい
と叫びながら死んでいった一群の画学生たちがいました。戦没画学生慰霊美術館「無言館」は、そうし
た画学生たちが遺した作品と、生前の彼等の青春の息吹を伝える遺品の数々を末永く保存・展示し、今
を生きるわたしたちの精神の糧にしてゆきたいという画家・野見山暁治氏(東京芸大名誉教授)の積年
の希いをもとに、平成9年「信濃デッサン館」の館主・窪島誠一郎氏が、その分館として全国3000
余名にもおよぶ協力者の芳志により開館したものです。作品は、資料など併せ600点を超える。今回の
東京展示では、58名の約130点の日本画・油彩画・彫刻などの遺作と遺品資料を展示します。
3月21日(月曜) 絵画展は最終日となる。
「紙芝居」のおじさんを知らない (2005.2.26)
小学1、2年の頃、「道徳の時間」によく紙芝居を読んでもらった。
”観たというより読んでもらった”という印象が強い。
この村では紙芝居のおじさんと呼ばれる商い人はやってこなかったので”街の空き地”での懐か
しい話のことなどは知らない。教壇の机の上に立てた四角い飾り縁の舞台と舞台袖に手を添えた弁
士の先生が観客の生徒に向って「始まり始まりぃー」と始まっていった。
茂山久先生は22歳。生徒に一番近い若さとエレガンスファッションセンスと明瞭なお声の持ち
主で、今で言うなら民放のアナウンサーっていう感じの方だった。私は『ジャンバルジャン』がも
っとも好きだった。入学当時は『桃太郎』『猿蟹合戦』『雀のお宿』『花咲じじい』などなど御伽
草子が続いていた。3学期にもなると『ジャンバルジャン』登場。レースや出窓や燭台や石畳など
背景がガラリと変わってそれはとても新鮮な驚きだった。私は夢中になっていった。劇団四季のミ
ュージカル『レ・ミゼラブル』の舞台ような音響も照明もなかったが、あの教室での紙芝居の時間
は最高にワクワクしていたように思う。
『ああ無情』でもなくて『ジャンバルジャン』なのがいい。罪深き男はやがて更生し市長になる
ところで話は「おしまい」。複雑な感情は子供なりに分ってきて涙が滲んでくる。そういった場面
での先生の声は少し低くなりあまり感情を入れずに静かに読んでくださる。物語の構成は登場人物
を極力少なくしてあって短い会話で展開するので会話を想像させ膨らませて聞いていたように思う。
絵の人物の表情を百面相のように変化させて観ていたように思う・・・。観客の想像力は何百枚も
の長編にさせて拍手喝さいで「おしまい」となっていったものだった。
紙芝居がきっかけとなって、『漫画で読む日本伝記物語』を読んだりしたが、どうも湿った窮屈
な感じになり貧しいって悲しいなァという感じになったりしていた。ルビの振ってある「”西洋”
の偉人伝」は、渇いた自由というか世間を気にしない明るさと希望が見えてきて読後感が爽やかだ
った。貧しさと不幸は違うんだなぁとぼんやり感じていたような・・・気がする。
今日、図書館の児童書コーナーを見てみた。紙芝居が置いてあった。デジタルの世界で育ってい
る子供達が借りていっているのかと思うととても嬉しくなった。赤いカーペットの敷いてある丸い
お部屋で、母親が読んであげていた。子供は身を乗り出して聞いていた。
紙芝居は読み手から少し下がって座って耳で聴いて絵を観て次の次を想像させるスゴイものだと
思った。こどもらしいようすをみながらふと小学時代のことが浮んだ。
トンボ玉 (2005.2.19)
休日は決まって遅く起きる。じっくり睡眠がとれて気持が良い。
今日は雪にかわるかと思っていたが終日雨だった。結露した窓ガラスを拭き、掃除機をまあるく
回してブランチ。
居間の水槽のグッピイーは品種改良で大きくなった尻尾を持て余しているようだ。餌をあげて
も意欲のない泳ぎをしているようにみえるが・・・水槽の世界の朝が始まった。
テレビでは音楽のある風景を写し出している。レクレイムの曲はあまりにも悲しい。そう思い
ながらも食は進む。時間も進む。そして買出しへ出かけた。
渋滞もなくこころは軽い。ゆっくり見て回る。花屋ではバレリーナーという名前のチューリッ
プやストックや菜の花などが外国の花市場のようにびっしり並んでいる。 ハンドクラフトのお店
ではトンボ玉の体験コーナーが設けられていてもう10分待ちで始まろうとしていた。
講師の若い女性が1個の玉が出来上がるまでを実演して見せてくれた。
ガスバーナーでガラス棒を熱し、蕨(ワラビ)のように曲ってきたら上に向け、また曲ってきた
ら上にと繰り返す。直径1cmくらいの大きさになったところで別の熱した棒先にゆっくり熱しなが
ら巻きつける。このとき両方の棒を水平にしてゆっくり回転させないと中心に穴が決まらない。丸
くなったら火から離して更に30秒ほど回転させながら形を整え冷ます。そして徐々に熱を冷ますた
めに砂の鉢に入れて30分ほど待つ。引き上げて水の中で棒を抜く。
体験は2個の玉作りだったので、無地の玉と模様入りの玉を作った。模様入りの方は巻き付けの
整えの時に手が傾いていたため中心より外れたところに穴ができた。模様も温度差が出たために溶
けないまま埋もれているビーズがピエロの涙のように見えた。体験料1050円。明日は革ヒモを
通してブレスレットにしようか。それともネックレスにしょうか。ビーズでつないでみるのもいい
かもと手の平で転がしながらトンボガラス玉をカチカチとしてみる。それにしてもいびつだ。失敗
だ。
私がトンボ玉を初めて見たのは山梨の「一竹会館」だった。ここではアフリカ原住民が首飾りと
した原石も飾られていてその美しさに驚嘆した。土産に小さな緑色のトンボ玉のネックレスを買っ
た。次ぎに見たのは益子の作陶家の個展の初日。その作家は深紅のトンボ玉の首飾りをしていた。
紐は細い糸で幾重にも組んで青く太かった。私がこのトンボ玉に衝動的に触れようと手を伸ばした
とき、はっとして引っ込めたとき、作陶家は大変喜んでそのトンボ玉をいじりながら「1960年
代ヒッピーだった頃、インドの人からいただいた大切な友情の玉です」と教えてださった。
次に見たのは地元のギャラリィーの「トンボ玉作家の展示販売会」で貴金属と同じ扱いで販売さ
れていた。見るは易し買うは難しだった。私はカタログを(作品と手作りの工程写真)見ているう
ちに作ってみたくなった。
それにしても作陶家が身につけていた”赤いインドのトンボ玉”は見事だった。
(2008年追記:私はこの日限りで、夫(そらまめ)は道具一式を購入し作っています)
買出しは止められない (2005.1.29)
今日は土曜日。久しぶりに友人をお昼に誘った。ペペロンチーノをベースにアンチョビーを加え
て熱々のスパゲティに混ぜる。上にパセリのみじん切りをふりかけて出来上がり。はなはだ簡単な
食事で申し訳ないが、夫の茹で加減はアルデンティで確かだ。友人が義母に靴下の編み方を(実際
に片方を編み上げた!)教えくれた。3時過ぎ外はどんよりとしている。
「さて、今夜はなにを食べましょうか?。」義母に問う。
「土日はお二人に任せます。」「あまりたくさんは買ってこないでね〜。」と後々残り物処理係
の心配で念を押す。「あんまりたくさんは買わないでねと言っていたからお刺身がいいかもね。」
と車中私と夫の意見が一致。いつもの食料品売場はお魚お肉お野菜の宝庫と言っても過ぎない規模。
回転率が高いのでなんでも鮮度ピカピカ。買出しはやめられない。
お刺身選びは夫におまかせして、お野菜は私が。からし菜があればお漬物にしたいが売り切れ。
菜の花ゲット。蕗ゲット。山ウドゲット。里芋ゲット。お芋。苺。イカの沖漬け。それから毎食必
需品のお漬物、乾干しジャコ、納豆、アロエヨーグルトどっさり。プレーンブルガリアヨーグルト
大ふたつ。本日のお会計は6795円也。
蕗を煮付けるときの私は嬉しい顔をしているそうだ。山ウドは香りが高いので若芽を少なめにし
て酢味噌和え。お刺身は切って並べるだけ。お刺身は大の苦手の私はこれらの山菜をもりもりいた
だいて、熱々のご飯にジャコと焼き海苔と白ゴマと一味とお醤油ちょこんとかけて一膳のご飯をき
れいにいただいた。
明日は里芋とイカの沖漬けを煮付けて、菜の花のお浸しをしよう。畑の大根と芽キャベツと人参
とはうまく組み合わせられないからまた買出しに行こう。それにしても自然界のフキノトウはまだ
見ていない。