くろまめのをりをり2(2004年)
毎日のようにベランダから富士を眺めています。よく晴れた日は
丹沢が見えます。太陽が少しずつ移動してゆくのを見ていると
今日の日を残しておきたくなります。
2004「山村留学」と「銀鏡まつり」 (2004.12.26)
12月13日晴れ。小さな町を三っつほど過ぎ、新しく開通した道路に入る。走る走る。山が優しい
稜線を見せる。青みがかった紫がかった山々は美しい。二つの橋を渡り上流へ上流へと登って行く。
長いくねくね道は運転する人も同乗者も疲れるので一休みの場所が数カ所に出来ている。
見えるものはダムの水と山と空。膨らんだ場所には石のテーブルと石の椅子が3脚こしらえてある。
まるで天上桟敷だ。特上の幕ノ内弁当を広げた。580円。信じられないほどおかずの種類も多くて、
甘いお醤油味が特徴だ。お米は少し粘りがあって懐かしい。空は青く山は漆が真っ赤に燃えていた。
8年前から毎年12月に帰省している。故郷は過疎化の進む集落である。若返ることのないこの村
は、山村留学生を募っている。未来の光をいっぱい持っている若いエネルギーをこころから受け入れ
育んでいる。今年4月、地元から小学校に2人の新1年生が入学したそうだ。現児童数13名中、留
学生5名。中学生は11名が留学生だそうだ。小学1年生からパソコンを1人1台使え、興味があれ
ば高度なこともできるように指導しているそうだ。年間の学校行事は郷土色をたっぷり採り入れてい
るのでユニークで生涯忘れられない思い出作りになっているそうだ。希望する留学生には神楽を伝承
しているそうだ。留学生も家族の一員。家の手伝いなど積極的に行っているらしい。
14日は大イベントの夜神楽のある日だ。朝はもやっていたがしだいに明るくなってきて青い空が
見え始めてきた。静かな1日の始まりだ。白から黄土色、そして青紫、そしてオレンジ系へと色替り
して山が現われてくる。毎年思うのはこの1時間ほどの変容が遠い昔、祖父母や曽祖父母と一緒に暮
らした頃のにおいを思い出させてくれる。ひなたのような囲炉裏の埋もれ火のような、黄色く焼けた
障子のような・・・。そんなにおいがしてくる。
この日の朝もたっぷり満たされた気持ちになった。お昼前にみんなで家の前の川原で小石を拾った。
乾いた石のひとつひとつが上流から流されてきたことを物語っていた。面白い文様の石など数10個
拾って記念に持ち帰った。川むこうのメタセコイアは黄葉していて美しかった。
冬の空メタセコイアの細き幹 くろまめ
どこからか法螺貝がこだましてきた。いよいよ夜神楽の準備が整ってきたようだ。夜になり神社へ
行き明け方の2時頃まで観覧した。観客の中には留学生の卒業生達が真摯な態度で神楽を観ていた。
例年よりも暖かいとはいえ白い息は天蓋を見上げる度に途切れては消えて行った。
(2008追記:宮崎県西都妻〜穂北〜杉安橋〜米良街道〜日向の奥地の銀鏡へようこそ)
成田山公園の紅葉狩り (2004.11.28)
土曜日、友人と一緒に成田山新勝寺にお参りし、裏の公園の紅葉を見ながらゆっくり歩いた。丁度一
月前の今日は、上野公園から明治公園まで15キロ歩いた私たちだった。今回も歩きましょうよ遊びまし
ょうよと脚力と食欲と感動を求める風物探訪の遊び方が移行してきている。互いに歳とは言いたくない
が実際はそうだと思っている。
「さて、どこへ行こうか?」とくれば「今なら紅葉かな」となりネットで検索してみたら成田公園は最
盛期。日が短いので早くに出発し午前11時には成田駅到着。わたしたちは近道コースを歩いた。1組の
家族が歩いていたので、どちらからおいでかと聞いたら栃木からだった。おじいちゃん、おばあちゃん、
小さなお孫さん2人はお参りは初めてではないようだった。こういう出合いは本当に楽しい。短い時間で
も笑える話題が尽きない。本通りに出ると米屋羊羹本舗のお土産屋さんは改装して立派になっていた。
緩やかな坂を登って行くと妙齢のご夫人2人が店先で立ち止まった。甘いお醤油の香りを風が運んでく
る。当然わたしたちも立ち止まり焼きたてお醤油垂れ浸けのおせんべいを求めた。1枚百円はお高い。友
人に奢ってもらった。「美味しいけれどもねえ〜百円は高いよねぇ。25円くらいだよねぇ。」と言って
振り向くと、頷いたのは見知らぬ男性だった。男性は「う、うーん、そうだねぇー」と。
境内に入るとお線香のにおいが立ち込めていた。頭、胸に煙をいただいた。わたしたちはず=っとお賽
銭を入れずにここまで来ていたのだった。頭も胸もジンジン。
公園に回る。奉納の大きな石搭が二十搭ほど建っていた。小泉首相一族の名も彫ってあった。ある石搭に
は真っ赤なツタウルシが絡まっていてなんとも美しい。角のドウダンツツジは真っ赤でそれは見事だ。右手
の丘公園には大きな銀杏が黄葉し散り始めていた。、ウリハダカエデ、イタヤカエデなどのカエデ科の植物
が赤黄色に色付き散り始めていた。こんなに美しい葉っぱを散らせるのは口惜しいので散る前に少しいただ
くことに。最初は遠慮がちにやがて大胆にいただいた。宝石のような葉っぱをきれいに揃えてティッシュの
ビニール袋に差し込んだ。
「これをきれいに洗って水気を取り真空パックにし冷凍庫に保存し、おもてなし料理の彩りに使うといいの
よ」と友人が教えてくれた。おしゃれなアイディアをいただくことに。積極的に少なく失敬した。下ると道
脇に笹が植わっていた。こちらも頂戴した。帰宅して調べたら「オカメザサ」だった。
ブナ林は素晴らしく黄葉していた。池が見えてきた。琴の音も聞こえてきた。2メートルほどの高さのオ
リーブの木が池の縁に。隣の柳はすっかり葉を落とし林の中の薄のよう。桜の季節にまた友人と行こうと思
っている。
石榴の絵を描きたい気分になったので描いてみた。実はすっかり熟していて取り出してみたらカップ二杯
分くらいの量があった。
「TOKYOわいわいウォーク2004」15キロ完歩 (2004.10.20)
17日の日曜日。朝日の当たり始めた車窓はまぶしくて友人と私はブラインドを下ろした。同い年の彼女
の家に前日から泊まり翌朝7時20分に家を出た。乗車1時間ほどして上野駅に到着。お弁当の重量は軽め
がいいよねと「小さなおにぎり5個パック」を買い、集合場所の上野公園噴水広場前へ向った。
受付開始まで時間があったが人がたくさん並んでいた。三つのリュックに背負われるようにして手書きの
案内札が地面に置いてあった。「事前申し込み(私たち)」「当日参加」「大会協賛招待」。自然に一列縦
隊になって並んでいったので驚き感動した。並ぶ顔、顔は…なるほどなるほど。私たちが"上野コース"では
"最年少"かと思えた(笑)。
大会の趣旨は、昭和39年10月17日、東京オリンピックの最中の東京で発足した日本ウォーキング協会が40
周年を迎えたので、ゆかりのある東京・神宮外苑を舞台に楽しく歩こうというものだった。コースは東京オ
リンピックの50`競歩及びマラソンコースの復路を再現する7コースを設定し、5`〜30`を歩き、ゴールは
明治公園というものだった。上野コース15`は、噴水広場〜上野駅〜神田明神〜神田川〜江戸川公園〜早稲
田記念会堂〜聖徳記念絵画館〜国立競技場〜明治公園。受付で参加者バッジと抽選券とお土産引き換え券と
芋煮食事券をもらった。初参加の彼女は9月誕生、私は10月誕生だから意味のある記念バッジとなった。
上野出発コースの参加者は約500名くらいだったそうだ。
9時40分出発!上野駅のエスカレーターを使う人が続々続いたのには笑った。神田明神は裏から石段を
上ったので登り口で平次親分の碑を見ることができた。鳥居は太く高く赤く空はどこまでも青かった。社殿
の金箔も美しかった。鳥居を見上げている友人は黒い上下にサングラス。デジカメを忘れたことが悔やまれ
てならなかった。神田川は気温が上がってきたせいか臭いを感じた。風のない真青な空の下を川はゆるやか
に流れ人々も流れて行った。早稲田演劇部の発声練習の声が響いてきた。なにやら資格試験があるらしくて
受験会場の門が開かれようとしていた。真面目に学問する青年はまぶしくみえる。テクテクテク…歩く歩く
・・・。
バスの旅に出ている友人夫妻から彼女のケータイにメールが届いた。お互いの秋晴の旅を中継した。「葡
萄畑で食い放題〜このあとは昼食会」だってー。「馬肥える秋とは言えどもそんなには食べることはできな
いよぉーー!」食べる話題が多いんだなあ(笑)
木陰を歩き路地に出て公園を抜け日向の通りに出ると残すところ4キロ地点。地図の読める彼女に付いて
歩く歩く。どこからも見える大きなアーチが飛びこんできた!太鼓が鳴る唸る。ゴール。12時35分。
完歩証明書、お土産の緑色ナップザック、今後の各都道府県大会案内リーフレットをいただいた。そして
山形遊佐町名物・芋煮鍋を食べた。おにぎりも食べて、彼女の残したおにぎりも食べて、あんまん1個を食
べて、焼き蕎麦を食べて〜ようやく満腹。この異常な食欲はきっと疲れている証拠だと思いながら3本目の
ペットボトルをゆっくりと飲み干した。ふぅーー
府中出発の30`コースが完歩するまでの間、「武蔵流東松山太鼓」を聴いた。白狐、赤青黄緑の鬼のお
面をつけた青年男女の叩く連太鼓は素晴らしく威勢がよかった。15時に抽選会が始まった。友人はANAの
ロゴ入りTシャツが当たった。本大会の参加者は5000名くらいだったそうだ。
信濃町から電車に乗り帰路に着いた。彼女からのメールは「また行こうよ!」という誘いだった。
秋天や妻恋坂は青信号 くろまめ
日向(ひなた)の香り (2004.10.9)
金曜日。午後からは雨になるという予報を聞きながら外出の支度をしていたら宅急便が届いた。配達の
方が「午前のお届が遅くなり申しわけありません」と丁寧なご挨拶をされた。友人夫妻(HさんKちゃん)
から届いたダンボールの箱を台所へ運び、ベランダでお花を撫でている義母を呼んだ。
「まあ!なあに?なんですかぁー?」って近づいてきたところで箱を開いた。蔕を上にしてきれいに並べ
られた柿の実と紅色のさつま芋(宮崎では"からいも")は、色形ともに素晴らしく美しい。柿のヘタの切
り口は丁寧にカットされていて葉っぱもついいていた。
手紙には「この柿の実はきのうの朝、採りました。庭の2本の柿の木に40個ほど実をつけました。唐芋
は知合いから送ってきたものです。日向の香りをどうぞ。」そして、友人宅へなかなか遊びに行けない私達
に「小鳥の餌にならないうちにと思って…」と書いてあった。友人の手紙はいつも優しく心のこもった内容
だ。
わたし達はこの18年ぶりに実をつけたとい柿の実をしみじみと鑑賞した。そして仏壇にもお供えをした。
土曜日の今日は、台風情報を聞きながら蒸かした"からいもをいただいた。蒸かした直後はやや水気を感じ
たが(とにかく食べたくてふうふういいながら食べた)30分程経ってからいただいたら、芯が固く絞まっ
てコクのある日向のような匂いと味がした。最近のお芋は切り口が黄色くて甘いものが主流だがこのお芋
やや白っぽくてしっかりとした味がした。お日様に当てたらどんなにかおいしい干し芋になるだろうかと
想像した。義母と私は食べることに一心でついに仏壇にお供えをすることを忘れてしまっていたが間に合
って良かった。
柿を剥くのは私の得意技。ヘタを包丁でくるりと抜き取る。それから剥き始める。実は懐かしい硬さで味
は青っぽい甘さがした。宮崎の太陽を浴びて育った苗木から18年経過して実った柿の実は日向の土とその
木に触れた人たちのいろいろなものが染み付いていて実にありがたい。ありがたい柿の実を食べながらテレ
ビの台風情報を観ていたが、しだいに”この柿の実”を描いてみたくなってきた。焙烙に柿を三個載せて、
空の渦を背景にして…空を飛ぶ柿のイメージが浮んできた。
台風情報を朝から聞いていたせいだろうか。
友訪へば日向の国の柿たわわ くろまめ
(2008年追記:Kちゃんと毎年女4人の旅に出かけます。Hさんはその時期を毎回予告してくださいます)
曼珠沙華 (2004.9.27)
幼い頃の思い出の中に美しい景色がいくつもある。中でもれんげ畑と曼珠沙華は鮮明で強烈だ。
6才くらいから…縁側に立って西側の遠くを見ると赤い花しか見えないが、庭に出て幾枚も続く段々田ん
ぼを見下ろしてその先きの小学校に焦点をあてると左目寄りに一塊の真っ赤な曼珠沙華がすっく
と立ちあがっているのがよく見えてくる。田んぼの入口近くにある石仏のある場所だ。すぐ傍には川が流
れていて、ゆるく蛇行しながら川幅を広げて行く大変美しい場所だ。この村の稲は二期作なので二回目の
稲が青く伸びてきている。真っ赤な色は緑の絨毯に牡丹を刺繍したようにみえたものだ。光沢のある絹糸
で刺繍をしたようなこの花は子供ごころにも妖しく切なく映って見えた。と思う。
秋の水はキラキラ照り輝いていた。茫然自失の状態で大きな天然の絵の中にいつまでも入って居られた。
中学になっても嬉しい光景に変わりはなかったが、詩的な気分に浸っていたことだと思う。
ふるさとを遠く離れ、やがて結婚し当然のようにお彼岸の頃になれば嫁ぎ先の家の墓前で手を合わせ行
き帰りに彼岸花を見て帰った。曼珠沙華は梵語で赤い花という意味があるらしいことも知った。白い花は
なんというのだろうか。
先日、友人宅近くのお寺に曼珠沙華の群生を見に行った。赤い花も白い花も天上に顔をさらして咲いて
いた。蘂は思いっきり腕を伸ばし広げている。茎は白い花のほうが緑濃くて赤のほうがやや薄く感じた。
地上に緑の角のようにして高さ1cmほどの芽が生いだして冬眠の身支度をし始めている。赤白群れずに離
れて咲いているのは子孫が混ざらないためなのだろうか。しかし、花の終りはあらわで哀れだ。茎だけを
束ねて寝かせてあるのはまるで無縁仏を弔っているようにも見える。
遠くに重機を運ぶ長いトラックが見えた。刈りあとのたんぼはとても広大だ。
村ひとつ塊て咲く曼珠沙華 くろまめ
(2008年追記:曼珠沙華の咲いていた田んぼはもう田んぼではなくなりました)
おじいちゃんと犬 (2004.7.31)
平日の朝は6時15分過ぎに起きて窓を開ける。それから朝が始まる。6時半過ぎに食卓につき朝食をい
ただく。南西の4階の窓から外の景色を眺めるのがたまらなく楽しい。朝曇していた頃が懐かしく思えるほ
ど今は光で満たされていてまぶしいほどだ。
遠くから光りをしょってやって来る影は、O脚のいかり肩のおじいちゃんと柴わんちゃん。横断歩道を横
切るとき、その影はくっきりと色を出し、赤いキャップはすばやく横切る。着地点まで測ったかのように前
屈みのままツツツツツツーと実に素早い!
渡りきると、とたんにゆっくりゆっくりと歩き始める。呼吸を整えているようでもあり、一気横断に成功
したことに満足をしているかのようにも見える。トーストを半分くらい食べ、ヨーグルトにスプーンを入れ
たあたりが渡りきったあたりなので目が離せない。柴はというと、おじいちゃんを見上げ「まだ散歩はでき
るな。フムフム よかった」って感じ。お互いに顔を見合わせお互いを思い合っているようにも見える。柴
は草むらに顔を突っ込む。けっこう長い。おじいちゃんは好きなようにさせている。柴のこころのままに動
いている。これには感動だ。柴もゆっくりゆっくり散歩を楽しんでいる。
図書館にさしかかってきた。
図書館の後ろを回る日と、回らないで素通りする日がある。
私はここでも感動する。回る日はすばらしく美しいカーブを描くのだ。ゆっくりとリードが張るのではなく
リードが開くという感じなのだ。その先でどんなことをしているのだろうか?おしこだろうか?うんちだろ
うか?想像はこれしかないから余計に感動する。回らない日はツツツツツーってリードは張っているように
見える。「お互いに鍛えましょう!ついておいでなさいましー」みたいな感じがしてならない。柴は決して
振りかえらない。前向き犬生!♪
おじいちゃんは柴ちゃんにひかれて朝の散歩励行で健康が続いているように見える。秋になると自転車を
押すおじいちゃんと、自転車の回転の速さを読みながら柴はトットトーーーって感じで向ってくる。この3
年間、季節は変わっても変わらないおじいちゃんと柴わんちゃんはゆっくりゆっくり歩いている。
マグカップを手にベランダへ出る。図書館を過ぎ、踏みきりを超えたところに住んでいるのだろうかと
いつも私はそう思う。
(2008年追記:おじいちゃんと柴君は今も変わらぬスタイルです)
三千代ちゃんと大学ノート (2004.7.21)
2004年5月20日午前5時10分。三千代ちゃんは黄泉の国へと旅立った。享年51歳。
19日、雨は降り止まず悲しい別れのときを細く長く刻んでいた。今日が最期になるかもしれないという
思いで、手を握り、振り絞る自発呼吸の音を聞きながら目を離さずに見ていた。彼女の目は煌煌と見開いて
いて、瞳は動かない。もうまぶたを下げることはできない。呼吸の荒い音だけが命の脈を打っている。
「三千代ちゃん、もうがんばらなくていいよーゆっくり休んでね」と呼びかけた。分っているような気がし
てならなかった。緩和ケア病室を出た。雨脚は強くなっていた。
翌朝、5時過ぎに電話が鳴った。「三千代は…たった今亡くなりました」…と。
「○○ちゃんは身内のようなものだから」って会うたびに言ってくれた三千代ちゃんの甘ったれたような、
語尾を伸ばすあの声を私は何度も反芻していたように思う。
膵臓ガンだった。闘病2年。三度の手術と抗がん剤の治療は彼女をとことん苦しめた。
昨年の12月は銀鏡の夜神楽を観たがり、「連れて行ってー」と懇願されたが、寒さを理由に断った。し
ばらくしてから「セカンドオピニオンのことを主人と考えています。今すぐにということではないのよ」と
不安交じりの便りが届いた。祭から帰って来ると再入院をしていた。
そして4月、緩和ケア病院に移った。ここではご家族様と穏やかな語らいが出来たと聞いた。5月の若葉の
風を全身に受けて痛みのない日々の中で生を感じている様子が伺えるような明るい声を何度も電話で聞いた。
21日お通夜。きれいにお化粧をしていただき、いい夢を見ているような穏やかな顔をしていた。ご主人
様は「結婚式の時よりもきれいです。惚れなおしました。」と言って棺の扉を開いて見せてくださった。お
子さん二人は「お母さんのお化粧をした顔を初めてみました。」と言って、顔を撫でていた。身内の席に幼
馴染のつよみちゃんと並んで座った。遺影の左肩には、彼女の好きな色の紫のカトレアが飾られていた。
祭壇はいっぱいのお花が飾られていた。『白い巨搭』のテーマソング(アメイジング・グレイス)が流れ
る中、献花は長く続いた。この夜、ご主人様から詳しく「遺言ノート」のことを聞き、この2年間、彼女と
語った様々なことが大きな意味を持っていたことに気付かされた。近くのホテルに泊まらせていただき彼女
と初めて出合った小学3年年生の頃に時間を巻き戻して行った。そのシーンに身を置いて彼女を感じた。記
憶は薄らいでいたりまた鮮明になったり…朝を迎えてもまだまだ弔辞の推敲を必要としていた。
三千代ちゃん、ごめんね。
22日告別式。朝、ご主人様から一冊の大学ノートを手渡された。表紙には「みんなに作ってほしい料理
のレシピ」と書いてあった。中を開くと、私もご馳走になったことがあるご実家のお母さんの手料理。彼女
の開拓した洋風の煮込みなど、イラストもついていた。「"ぼた餅"」もあった。
昨年の11月、彼女の誘いを受けて三人(私とつよみちゃん)で食事をしたとき、手作りの"ぼたもち"を
手作りの布袋に入れて、「はい!好きなのをとってー」と歌うような声で差し出した。つよみちゃんはブル
ー系の花柄の袋を、私はオレンジ系の花柄の袋を選んだ。一箱に8個入っていた。早くから起きて、蒸篭で
蒸し、つぶしあんでくるんで・・・。それはどんなに時間がかかったことか…!。
次の頁には子供達へ語りかけていたり、次には子供の似顔絵をイラストタッチで描いていた。また次の頁
には知人友人に宛てたお礼の言葉が書いてあった。このノートは枕の下から見つかったそうだ。生前、ご主
人様が何を書いているの?と聞くと「別にー、見たらダメよ!」って怒ったそうだ。思えば、今年の2月、
いつもは涙を見せない彼女がそっと涙を拭いた。かなりナーバスになっていた。そんなことがあった。あれ
から彼女はゆっくりと死を受け入れ、終り方を考え続けて生きてきたのだと思う。
最終頁の5月17日付に、自分の葬儀の演出を遺言していた。鉛筆で丁寧に書かれていた。
弔辞は4つのテーマが書かれてあって読む人をテーマごとに指名してあった。
無宗教で執り行う
「白い巨搭」のテーマソングを流す
献花
弔辞
@幼い頃のこと
A青春
B結婚
C職場
野辺送り 保育園の運動会で歌った『ヤーレンソーラン節』を流す
彼女は20才から保育園に勤め、子供達もその保育園に通った。結婚が遅かったのでお子さん二人は歳若
い。働き尽くめで子供達に自分のことを語ってあげる機会があまりにも少なかったことを後悔していたから、
弔辞のテーマは子供達への遺言でもあった。子供達は葬儀のあとに「母は立派でした。誇りに思います」と
参列者の皆様に深深と礼を述べていた。それから私ともう一人の友人の前に来て「お母さんの話をまた聞か
せてください」と言った。三千代ちゃんがこの遺言ノートに書き記した文字は、我が子、夫、家族のみんな
に、そしてお世話になった方々へたくさんのメッセージを残した。
献花は延べ500余名だったと後に知った。
三千代ちゃんの歌う正調ソーラン節は、とてもエネルギッシュで最も健康で充実していた頃の声だった。
アメイジング・グレイス 黒人霊歌 訳詞】山ノ木 竹志
1.海に生まれ 旅をつづけた
みどり深き 森を抜け
幾千万の月日 重ねて
我ら 人類(ひと)と 成りぬ
2.人間(ひと)に生まれ 旅をつづけた
果てなき荒野 さまよい
幾千万の生命(いのち) 流れて
我ら この地に 在り
3.畏れ知らぬ 愚かな旅人
戦(いくさ) 憎しみ 涙
幾千万の試練 超えて
我ら 共に 立つ
4.恵み深き みどりの大地
惑星(ほし)よ 海よ 森よ
幾千万の生命 育み
救いたまえ 我ら
幾千万の生命 照らして
共に 歩みたまえ
(2008年追記:三千代ちゃんのことを知っている人にも知らない人にも知ってほしいと思うのです)
かなとこ雲 (2004.7.8)
ゆうべは天の川が見れず残念だった。昼間はそれでも少し期待していたのだが気象予報通りだった。電子
メールで友人に今夜は空を見ようよ!とはしゃいでいた私は、なんとかお星様を見つけてウインクした。
七夕の夜だから空を見ても違った感慨がある。満月の夜は毎月あるけれど(笑)、十五夜の月は違った感
慨があるように、ゆうべはヒンヤリとしてふんわりとした空を感じた。
6時過ぎいつものように散歩に出た。西の空はまだ太陽が残っていて目にまばゆい。ひまわりは今日一日
の活動を終えようとしている。畑ではまあるいお尻を高く上げて草を取っているおばあさんが居る。糸瓜の
棚を作っているおじいさんが居る。お庭の花々にお水をかけている人もいる。畑の案山子のキューピーちゃ
んが帽子を被っている!。連日の暑さに家人が気の毒がって日除けにかけてあげたのかも知れない。
少し光りが鈍く感じてきたので顎をあげて西空を見上げたら、かなとこ雲が見えた。6時34分。
続・不快指数が消えた日 (2004.6.28)
4月8日〜5月24日までの間、あつ子@カナダさん親子は日本に一時帰国した。
彼女はカナダ在住29年の宮崎県出身。そしてわたしとは同級生。お嬢さんはカナダで生れ育って現22歳。
大学を半年繰り上げて卒業した聡明で美しく大変魅力的な女性だ。親子はそれぞれ東京、東北で過ごしそして
、東京で合流し宮崎へと発った。
彼女は宮崎で大事な仕事が控えていた。カナダ宮崎県人会を代表して『第55回植樹祭』に招待を受けてい
たので、その前後はかなりハードな動きだったことを後に知った。天皇両陛下を迎えてのレセプションでもカ
ナダをしっかり紹介し交流できたとメールで知らせてくれた。県庁に表敬訪問をしたり市内観光などハードな
スケジュールの中をよく頑張ったものだと思った。地元の新聞やテレビで彼女らしい発言や表情を見せていた
よと地元に残っている友人達から聞き、私は誇らしく思った。
彼女は生れ故郷の山河を一望できる場所へ行き、娘に「ここがこの土地が先祖代々の土地よ」と言って見せ
たそうだ。お嬢さんは奇跡の人、ヘレンケラーが”水”を感じたときのように声を出しその感動を全身で表わ
したそうだ。
お嬢さんは大都会のファッションやライフスタイルに関心があり、これから学ぼうとしているようだ。今回
の帰国は、父母の母国語「温故知新」の意味を体で感じ取ったことだろうと思わずにいられなかった。
そして6月には入れ替わって次男(15歳)が、日本語学校生徒研修生として横浜に来ている。
「父の登った富士山に登るのが楽しみです!」と日本語で作文に書いていたというから、実現できてどんなに
嬉しかったことだろう。 彼女の3人の子供は日本人の精神や文化に興味と関心を持ち日本語も話す。日本語
で文章を書く。子供達も両親もどれほどの時間、努力を惜しまずにやり続けてきたことであろうか思わずには
いられない。
(2008年追記:カナダは州立法で子供が12歳までは母親は働くことを禁じられています。あつこ@カナダさ
んは悪天候であっても土曜日の日本語学校に子供達を励まし送迎してきました)
不快指数が消えた日 (2004.6.28)
今日は特に蒸し暑い日だった。湿度80%。一歩も外に出ずに開け放した窓からの風を団扇で扇いで攪拌し、
冷して我が顔を撫でていた。暑いはずである。そして更に熱い紅茶を飲む。午後もクーラーを使わずに通した。
7月に入ったら使うことに決めている。だからしばらくの間は振り返ってこんな時代もあったねと思うときの
ためにこの微妙な不快感を大事に愉しむことにしよう。
午後5時40分過ぎ、いつもの散歩コースを歩き始めた。新道の入口には一週間くらい前からひまわりの花
がわぁわぁ咲いている。直径25cm高さ2mくらいのひまわりは頼もしく美しい。私のひまわりちゃん元気かい
と声をかけてスタスタ歩く。
畑も田んぼもまだまだ人のシルエットが揺れている。立ち葵の花、合歓の花、のうぜんかずらの花は遠目にも
いやおうなく入ってくる。低い西の空が高く見えるのも当たり前だが面白い。1時間約7000歩。
郵便受けを覗くと黄色い封筒が見えた!! あつ子@カナダさんとお子さん達からの便りだ!
ワォー ひまわりの絵柄のグリーティングカードが入っている。ひまわりを象ったカードには英語と日本語で
丁寧に心のこもった文字が言葉が書かれている。またひとつ宝物ができた。
(2008年追記:「あつこ@カナダ」さんのお子さん達は日本語の読み書きや日本の文化を大事に受け継いでいます)
春時雨・・・二つの出会い (2004.4.14)
花曇りの朝、カナダからの若いお嬢さんを迎えに成田空港へ行った。私の写真を持たせてくれた友人の気転で
お嬢さんはすぐに私をみつけてくれた。遅延のため、16時間も機内に居たとは思えないくらい元気な表情だっ
た。私の差し出すお水を「飲みたかったー」と飲んでいる様子に、しだいにゆるんでくる安堵感が伝わってきた。
池袋行きのバス停に並び乗車を待っているときに「あたたかい」って両の腕で自身を抱くような恰好でそうつぶ
やいた。
カナダはまだ雪が降ったりしているという。皮膚が敏感に感じるのだろうか。なるほど生温かい、春時雨か・
・・見送り終わってしばらくは「あったかぁい」という詩的な言葉の景色の中に閉じこんでいるような気分にな
っていた。
帰宅してみると、テーブルの上に美しい写真が置かれていた。それはウエディングドレスの制作発表の案内状
だった。ひんやりとしているような、しっとりとしているような深い緑色の苔生した木の根方に、大きなドレー
プの白いドレスのトルソーが置かれてある。右側には日の高い草原の中に、赤い花びらを散らばせた緩やかなラ
インのドレスのトルソーが置かれてある。二つのドレスは、アイルランドの伝統的な編み方をしたレースのドレ
スであることが分かった。可愛らしい花びらも一針一針編まれている。膨大な時間を想像し、またその美しさに
も驚嘆した。花びらの中心にはパールのような光沢のある気品が感じられる。
彼女らしい天性の美のセンスが感じられた。そしてなによりも優しさを込めて紡いであると思った。シンプル
ライフ 美しいものをこよなく愛し大切にするひと。時間を大切にし手作りの人である。
↓アイリッシュ・クロシェレース
Sakiko . Yoneya
アイリッシュクロッシェレース ウェディングドレス
開催期間:2004年5月7日(木)〜11日(金) 9時半〜17時 入場無料
開催場所:山手111番館・港の見える丘公園
住所:横浜市中区山手町111
電車:みなとみらい線:元町・中華街駅(5番出口)より徒歩6分
JR:石川町駅(南口)より徒歩15分
バス:横浜駅東口より20系統, 桜木町駅より11系統、 「港の見える丘公園」下車徒歩1分
鈴木桜子 著 詩集『ひぐらしの鳴く刻』 (2004.4.4)
22年前、身内の結婚披露宴の会場で、著者、鈴木桜子さんのスピーチを聞いた。小首をちょこっと傾げ、
たおやかな言葉で語られていた。お名前と佇まいの美しさが合わさって印象に残っている。22年後の春に
この詩集を読むことを誰が想像できたことでしょう。歳月の不思議なプレゼンとをまた感じた。
「丹沢の四月」
パチ パチ パチ パチ
ものの一せいにはじける音
ここ丹沢の
四月の
草つき斜面
眞青の空と
すきとおる陽光
生まれたばかりの草々と
そこに立ちつくす私
パチ パチ パチ パチ
それはかたく結んでいた
草の芽の太陽にはじける音
無数の生命の
誕生をつげる音
ああ私は
限りなく 打ちならす 生命の讃歌に
万感の思いをこめて
拍手を送ろう
「原始の森」 −檜洞丸にて−
ブナの森に
霧は流れ
原始のままに
時は止まる
喘ぎながら登りたつ
山頂に
ブナよ
おまえは
厳然と聳え立ち
つめたい しずくを
私の髪に 頬に
したたらせ
両腕に抱こうとすれば
霧にぬれた お前の肌は
つめたく
抱きとめられぬ お前の年輪
ブナの森に
霧は流れ
原始のままに
時は止まる
著者あとがきより
「思いがけず詩集「ひぐらしの鳴く刻」を自費出版することになりました。事故後の1年、私は命の哀しさ、
いとおしさを我が身を通して痛切に感じるようになったからです。怪我が私を一歩、踏み出させ、詩集をま
とめる決断をさせたのです。
この詩集は、若い時に書いたものから、現在に至るものをまとめ、大体、時の流れに沿って編集しました。
山や花や小さな生きものとの出会いと別れが、私の心の奥深く刻みこまれなかったら、この詩集は生まれて
こなかったでしょう。」
鈴木 桜子 略歴
1930年4月 横浜に生まれる
全労働省組合神奈川支部書記局勤務。
母の病気を契機に職場を退職。主に冤罪事件の救援活動を行う。
1990年 丹沢ブナ党(自然保護団体)の結成以来、自然保護活動を行い現在に至る。
(2008年追記:鈴木桜子・画 葉書「野の花・山の花」(還暦ー第1集、喜寿ー第2集))
『おばあちゃんの恋文』 74才から始まる恋もある (2004.3.30)
永島トヨさんは現在84才現役の料理研究家。ご主人様63才お琴のお師匠さん。この春、お二人はご結婚10
年目を迎えられている。本書では、足掛け4年にまたがる215通の往復書簡の中の思いなどを爽やかな語りで
ご披露くださっているので、深い愛を追いながら一気に読み上げることができた。
読み終えて、このような生きかたもあることを知り、よもや生をおろそかにするまいぞと思った。人との出会
いはもちろんのこと、自然もモノも音も・・・聞こえる、見える、見えない、聞けない、言えない、言わない、
しない、できない・・・ないないはもうどこにもないことを実感した。あるのは”自分の心”にだとはっきり感
じることができた。
この本との出合いは全くの偶然だった。 図書館に本を返し、ふらりと伝記ものの棚へ行ってみた。その中の1
冊を手にとり、表紙絵のおばあちゃんのモンペ姿に惹かれ、タイトルを見た。ここからが読みたいという欲求が
わいてきた。
82才の義母に紹介した。(編物の手を止めないで聞いている)
「明日テレビにその方が出るんですってよ」と翌日の番組を教えてくれた。本とテレビの連動したマスメディ
アの新聞広告を見落としていた私はこの日まで全く知らなかった。初版は平成15年、図書館に置かれているの
で読者層は幅広く、今の今の老人大国の負の部分を大きくカバーする”人物”の紹介本だと思った。
以下、トヨさんの言葉より
・・・私の「喜寿」はそれとはまったく別の感動に包まれたものでした。・・・・・・
「新しい人生への期待と、これからはひとりではないという安堵感のほうが強かったのかもしれません。これが、
考え抜いた末の私の選択、私が出した結論なのですから、後悔はありませんでした。」
「人生にはいろいろなことがある、先のことなど誰にもわからない、だから人生は面白いのよと、私は自分の出
した結論に満足していました。」
「女性の平均寿命はいまも延び続け、現代の日本は高齢化社会、長寿社会と言われています。高齢者の結婚も増
加しているとのことですが、私たちの経験が何かの参考になるとは思っていません。高齢者のエールになるなど
とも考えていません。でも、こんな生き方もあるのかとか、人生には予想外の楽しいこともあるとか、何かを感
じとっていただければ幸いです。」
みちのくからの便り (2004.3.20)
3月20日、今日は春分の日の暖かな陽気でした。約20キロ離れた父の実家に近い墓地に、一人で
彼岸の中日のお墓参りに行ってきました。雪の中に埋っていた葉っぱやゴミなどがいっぱいくっついてい
て固くてなかなか剥がれませんでした。すっかりきれいになるまで2時間ほどかかりました。
初秋の頃以降の良き日にまたお会いできれば嬉しいと思います。
山形の桜の開花予想 4月10日「涙そうそう」を聴きながら・・・
私には、春のやわらかな光を大事に抱え込んでお墓を洗われているご様子が絵のように浮かんできました。
みちのくの雪は長く、深く、重いのでは?ないのでしょうか。じっと耐えてきたお墓は、春の日差しにあた
ためられながらゆっくりと溶けていくのでしょうか。やがて頭が出て、胴を出し、台座を出してくるのでし
ょうか。その姿はとても哀れだけれども待ち望んできたまぶしい光を待つ時間のようにも感じられます。
”墓洗う”という言葉を歳時記にみつけました。秋のお彼岸にご先祖様のお墓へ詣でることだそうです。
墓地の清掃をし、墓を洗い、花筒や線香立てを清めるというふうに説明してありました。みちのくの今日は、
ご先祖様と一緒に春を感じながら丁寧にお墓を洗う人たちで村いっぱいに輝いていたことでしょう。私は昨
年の5月にお亡くなりになったこの方の奥様のこともまた思い出しました。
まもなく一周忌がまいります。コスモスのお花が大好きな方でした。
(2008年追記:当サイトの『順子さんの短歌集』をぜひご一読ください)
人生に幸せの種をまこう! 南千代著『自休自足』Vol.5 (2004.2.29)
春の号がでたので買いに行く。今日は少しひんやりする感じだったが、車の中はあたたかい。全体に春霞のかか
った田畑を見ながら走るのはたまらなく気持ちが好い。途中の渋滞もなんのその、土手のタンポポやからし菜を見
る事が出来た。
埼玉越生の龍ヶ谷に暮す南千代さんは20数年前に都心から移り住み、百年以上を経た民家を改築し民家ギャラリ
ー&喫茶「山猫軒」を営んでいる。夫妻はそれぞれ広告関係の仕事をしていたがフリーとなり、”暮らしを耕し食を
耕す”ことを求めてこの地に居を構えた。
・・・このことは自著『都市よ、さらば。』・『山猫軒物語』の中に詳しくルポ
している。第一線で働いていた彼らがなぜ?ここへ?ここを選んだのか?本書は、これからこの先の越し方を考え
る上で落ち着いた知恵を授けてくれる。
さて、待ちに待っていた雑誌 『自休自足』は私のこれまで知る「いなかのくらしを紹介した雑誌」とは異なった
エレガントな田舎が見て取れた。表紙の写真もタイトルの文字も新しさが感じられた。友人はこの本の中でエッセイ
「おいしい食卓を巡って」を連載担当している。実際に田を耕し、畑を作り、有機農法でうるち米、古代米、野菜を
作り、お味噌もなどなどの自給自足がすっぽり暮しに溶け込んでいるわけだから、読んでいてとても愉しく川のせせ
らぎが聞こえてくるようだ。鳥や動物や虫たちもそして裏山の木々や雑草や、庭の草花、全てが活きている。活きた
まま暮しに取りこんでいるからこその彼女らしい優しい目を感じた。春の陽光を受けた草花の美しい写真も見逃せな
い。今回の春号では「雑草を食べる」を書いている。
オオバコのおしゃれな炒め方、ハルジョオンの和え物、ボロギクの類のスープ、スベリヒユの和え物、炒め物、
雑草のお花を上手に色どりに、ゼリーなどなど・・・タンポポのコーヒーのはなしはとても微笑ましい。健康の面
では、つくしにスギナとおすすめのレシピが満載だ。彼女らしい優しい目は、一方では山や森で暮すマナーも忘
れてはいない。
越生の梅林は九分咲きらしい。早い春の訪れに千代さんは今頃、また生まれてきた雑草を摘んでどんなふうに
挨拶をするのだろう。
春の昼 (2004.2.16)
今日の午後、絵手紙教室の講師をしている大月茂子さんから「個展」の知らせが届いた。
『絵手紙で自分史を作る会』の会員となってから今年で20年目を迎えるそうだ。
茂子さんは、"自分に褒美を上げたい"という気持ちから「個展」をお受けしたのだそうだ。私は心から祝福を送り
たい気持ちで一杯になった。とにかく素晴らしいこの絵手紙展は多くの方に感動をしていただけるに違いない。ここ
連日、春の砂嵐が吹き荒れていたが、私の心にはさわやかな風がひろがっていった。
春はこのように、ふいに予定外のご褒美が届くものらしいことをこれまで何度も経験してきたが、なるほど友人達
のみんなみんな、好きなことを継続していて愉しそうに話題にしている。
ああ!我が辞書には継続という言葉はないと言っていいくらいあきっぽいわたしだから尚更そう思う。
落ち着いて自分の好きな時間を大切に大事に使おうと思い始めている。茂子さんの個展の知らせに、奥に留まって
いた蕾らしき物が開花したような気がした。さあ!春の風に乗ってリセットしようかな。
雑誌『クロワッサン』時代 (2004.2.8)
情報誌『クロワッサン』の創刊号が出たのは確か1978年頃だったと思う。現在は中綴じの月2回の発行だが、発刊
当初から数年間は月刊誌の分厚い保存版型だったので大切に書棚に並べ背表紙の耳新しいタイトルにうっとりとして
いたものだった。
内容はニューファミリィ向けの洋式生活の紹介みたいなものだったように思う。1950年代生まれの女性にとっては
魅力的で経済的に自立した働く女たちのインタビュー記事が毎号のように特集を組んで店頭に並ぶので刺激的で夢を
見る事が出来た。一方では育児に必要な備品などのレンタル産業が注目されデパートや家具やさんの育児用品売場を
圧縮せざるを得ない社会的現象も起きていた。女性が働きだすと託児所も保育園も幼稚園も増え、マンションが建ち、
なにやら経済は”女と子供をターゲットにせよ!”とあらゆる産業業界や、サービス業界が活発に動き経済効果を出
していた。そこへきて、この情報誌はクラクラするほどの内容を提供し、眠っていた主婦層に新しい風を吹き込んで
いった・・・・・・ように思えてならない。
ファッションは、パンツスーツ、スカートはミデアム丈のセミフレアー、靴はパンプス、バックは大型のショルダー、
家事は短時間でホイサッサ出来る宅配惣菜(献立に合わせた必要な分だけの材料がパックで宅配される)の活用例あ
り。アメリカナイズされた夫のサロンエプロン姿などなど満載。暮らしは遊び化(ゲーム)され、”ニューファミリ
ィは夫元気で家事育児ともに一緒♪”のハッピーストーリーが着々と構築されているのを知ってか知らずか私はいよ
いよこのおしゃれな世界にスッポリはまって行ってしまった。
あれからウン十年、歴史は繰り返されている。現在の『クロワッサン』はあの頃の読者層が中高年〜壮年になって
いることを逃していない。
健康シリーズ、充分に間に合う美しい老いシリーズ、いざというときに役立つ恥知らず礼法シリーズなど、静かな
時間をより快活に健康で長く生き続けるにはどうしたらよいかなどというう嬉しい方法論ありあり。次なる情報が予
告に告いで紹介されているから、つい毎号期待し買ってしまうのである。
若い頃は掲載情報を暮らしの中に取り入れたり、自分なりに経済と相談して工夫したりしてそれらしいおしゃれを
感じながらうっとりとしていたものだ。嗚呼!今は健康一番!シンプルに行こう!なんて、言葉で怠けているような
気がしてきている。
あの頃のおしゃれな感覚をもう一度取り戻して手作りのお菓子やお裁縫をやってみようなんて思い始めている。
おや? 第2の大いなる転換期に入ってきているのだろうか??・・・無駄もおしゃれだと??
年を重ねるのもおしゃれだと・・・??!
もらいたる竜の玉と蛇の抜け殻 (2004.1.31)
私はとてもめずらしいものを俳句の大先輩からいただいた。出会いは一昨年の9月、句会で私の老眼鏡を見て、
「その眼鏡は度がはいっているのですか?」と尋ねられたので「弱い老眼鏡です」と応えたら、「最近のは安くて
いいですよね」と。
ユニークな方だという印象を持った。10月、「我孫子野外美術展」のオリエンテーションに参加したらそこへ
も来ていらした。移動する所まで車に乗せていただいた。お名刺をいただいたので裏に日付を記入しながらちょっ
と取材をした。80歳。句歴8年。クリスチャン。戦争中は結核で兵役につけなかったと静かなお声。毎年クリス
マスには教会のみなさんたちと市民プラザでクリスマスのチャリテーショーをされることなど楽しい話を聞かせて
くださった。
オリエンテーションの最終地は、川向の隣町を眺める河原だった。案内人の方から、昭和初期まではここを船で
渡ったという歴史を聞いてから、作品の「桟橋」を渡った。参加者は橋の中ほどに集って夕景を見た。ややプカプ
カしている橋の上で、遠い昔の話を聞くのは実にロマンチックでみんなの顔は夕日に赤く染まっていた。
場所と時間のせいか長い親しい時間を感じた。川原は自然保護の考えか伸び放題の蔓や木々や草がもうもうとし
ていた。枯れかかった草木さえも美しい自然の造形をなしていた。そこに烏瓜が真っ赤に熟していくつもぶら下っ
ていた。ご婦人方の目に止まり、とうとうお土産にお持ち帰りになってしまった。
「あ、あああ〜〜」もう間に合いません。早い早い、素早いこと。
私はこのことを余程残念がっていたのだと思う。それからしばらくして烏瓜の種と竜の玉が郵便で届いた。中に
お手紙が入っていた。「竜の玉は竜の髭という植物の実です。植物図鑑でみてください」と。小粒の真珠サイズの
青い実がフィルムケースに入っていた。烏瓜の種は撒いたけれど育たなかった。
すこしづつ日の退りゆく烏瓜 くろまめ
もらいたる牧師の庭の竜の玉 くろまめ
昨年の9月、螳螂(とうろう)の抜け殻をいただいた。句会の席で私は”とうろう”とかまきりが同義というこ
とを知らなかった。ある方の蟷螂の句を間違った鑑賞をして大変失礼をしてしまった。また”いぼむしり”とも呼
ぶということを知った。おかげさまでこの抜け殻を見ながら一句詠むことができた。この日の句会は欠席されてい
たので居心地が悪かった。
いぼむしり関節を病みゐたりけり くろまめ
今年の新年句会のおりには、マムシの抜け殻をいただいた。一メートルくらいある大蛇だ。句会で話題になった。
抜け殻はご自宅の庭に突風が運んできてくれたのだそうだ。幸運な抜け殻君(君かどうか定かではないが・・・)
を私に? って思ったが素直にいただいた。
お礼の句がまだできなくて困っている。パソコンのそばにはガラス瓶が3つ並んで飾ってある。ひとつは竜の玉。
そして蟷螂。そしてマムシ君・・・・・・。そのそばにはみみづくの置物。みみづくさん、いい知恵はないかい?
(2008年追記:現在85歳、好奇心旺盛な昆虫少年(ペンネーム)です。パソコン教室に通われています。)
「日加タイムス」新年号を読んで (2004.1.26)
カナダの友人から”創刊25周年”を迎えた日加タイムスが届いた。
表紙絵は、日塔富夫氏の「げんきに大空」のイラスト。鳥が舞い、星のきらめく大空に桜の花、お魚、アテネオリンピ
ックシーンなど歓喜に包まれた平和な地球が描かれている。
トロント芸能愛好会主催『トロント紅白歌まつり写真集』と題したカラー1頁が目に飛びこんできた。「今年のテー
マは”お国めぐり、日本の歌”で日本各地にちなんだ歌が次々とベテラン歌手たちによって披露され,会場をぎっしり
埋めた観客は大いに楽しんでいた。日系文化会館では現在工事中の新オーディトリアムが今年5月に完成する予定で、年
末には待望の『トロント紅白歌合戦』が復活すると書いてある。このイベントが終了した後に友人から届いたメールの
ことを思った。
「 素人が開催するイベントですけれど、それは、日本のどんなプロがやっても見えないところを、私たちはここに長
く住んでそれをはっきり見てお客さまに合わせて構成する事ができるという自負があります。それが、このイベントを持
続してくることができた大事な所以だと思います。23年続いた「トロント紅白歌合戦」の復活は、また我々移住者の歴
史を復活させるという大きな意味をもっているのです。だから、日系人の心のオアシスをこれからもつくっていきたいと
思っています。今回も、見知らぬお年寄りの方々から「ありがとう。楽しかったわ。」というお言葉をいただきました。
寒い冬には、特に部屋にこもりがちなお年寄りが、楽しみに来て下さることの意味を考えたりします。杖をついて、車椅
子で...その姿が本当にやってよかったという瞬間です。」
新聞の写真には名前と演目が書いてあるのでどんな歌やお芝居が繰り広げられたかよくわかって面白い。
♪女ひとり、浪花恋しぐれ、ブル−ライト横浜 波止場しぐれ、大阪ラブソディー、博多の女、浪花盃、ほたるのふる里、
霧の摩周湖、山陽道、和歌山ブルース、涙そうそう、大阪、六本木ララバイ、津軽の女・・・。
舞踊「佐渡情話」「無法松の一生」 舞踊 、スキット「街角インタビュー・東北を行く」
「宮本武蔵」などなど。
また「紅白歌まつり」純益金を椅子キャンペーンに寄付! という見出しも目に入ってきた。
寄付金は今春完工予定の日系会館内の新オーディトリアム「コバヤシ・ホール」の「椅子キャンペーン」に贈られるそう
だ。トロント日系会館館長のジェームス・ヘロン氏に寄付金を手渡している友人の写真は実に素適な笑顔だ。
他の紙面にはお相撲さんのインタビュー記事や、落語家の桂歌丸さんのお話なども大きく取り上げられていた。「日本
語にふれたり聞いたりして懐かしむこころはみんなにあると。今回、歌詞をローマ字で覚える二世三世の方がいらっしゃ
ると。母国語を話せない日系人が増えていると。そんな中、この紅白歌まつりはお国言葉の聞ける懐かしい時間である」
とも教えてくれた友人のメールをまた思い出した。新聞とともに送られてきた手紙には縦書きのそれは美しい文字と、美
しい日本語で優しい心が綴られていた。
異国の地に渡って28年を経た友人に私はいつも頭の下がる思いでいっぱいになる。
(2008年追記:友人は、「あつ子@カナダ」さんです)
「トロント紅白歌まつり」(2004.1.21)
2003年12月13日、トロント日系人の「紅白歌まつり」は大きな拍手に包まれて幕を上げた。それから3時間後、
より大きな感動の渦の中に幕を閉じた。イベントを企画し、協力し合った仲間のみなさんとこの日を迎えることが
できた
友人から無事成功したとメールが入った。その喜びようは私の胸を大きく揺さぶった。準備段階の頃に風邪をひい
て咳がなかなか止まらなくて苦しんでいたことも、本番を控える頃には親しい方との悲しいお別れがあったりと心
と体の疲れが一気に出てきて辛そうだったから本当によく頑張ったと思った。「他のみなさんもお仕事を持ってい
らしてその中で時間をやりくりしてみんなで頑張っているから私も頑張れるわ」と言っていたことを思い出した。
そこまでの原動力は一体どこからきているのか、その頃の私はまだ理解できないでいた。
7月に日系会館を会場に確保してから後の5ヶ月間は主催・協賛の協力依頼や出演募集や依頼や、舞台効果、
音響効果、演出、脚本、リハーサルの時のお弁当などなどボランティアで参加した人たち総勢70名からおおい時
は100名くらいのかたたちの力が形を成してきたのだそうだ。入場員数に制限があるので席を50席増やした3
00人のホールは満席。チケットは15ドルで完売。収益金は全額日系人会館に寄付をしたそうだ。友人は実行委
員会の役員をしながら、寸劇「宮本武蔵」の恋人のお通の役をしたり演歌の歌手になったりと着物を2度着替えるの
でその時間を何度も測ったそうだ。他の出演者のかたたちも予行演習の時は気を緩めることなく一生懸命お稽古を
されたそうだ。
メールを通じて少しづつわかってきたことは、異国の地に住む仲間の結束力は私の想像の到底及ばないものであ
ると。夕焼を見れば、風を受ければ、雨が降れば、お米を食べれば、お茶を飲めば、語れば、笑えば、歌えば・・
・・・・皮膚感覚と舌の感覚のように微妙な感触を消すことはできないのではと。このこころは紅白歌祭のときに
いよいよ一体化するのではと、おぼろげながらも感じられてきた。このことはどうしてもうまく伝えることができ
ないので誤解を承知で書いている。更に許していただけるなら、お祭りを成功させたいという心意気が会場を故郷
に変えて行ったのではないだろうかと思った。
70代以上の方たちの中には事情があって母国に帰れない方もいらっしゃると聞いた。なお一層郷愁を感じられ
ることだろう。けれどもそういった方々の笑顔にふれたとき、たまらなくこの時間を共有できていることに感謝す
るとも言っていた。またメールに添付してきた写真を見ていると、歌だけではなく寸劇、舞踊などなど芸達者な方
がたくさんいらっしゃるように感じた。衣装も素晴らしい。いろいろな分野で活躍されている方もいらっしゃるの
でそういったこともひとつの発表の場になっているのではと思った。素晴らしい企画だと思った。
間もなく友人から、この「紅白歌まつり」のことが載った日系新聞が届く。
先日の友人からのメールには、こう書いてあった。
「2回続いた「紅白歌まつり」も、今年は、「トロント紅白歌合戦」となりますので、期待も大きいようです。
そうなると、またボランテイア募集から、そして新人歌手を探したり、今から、そろそろ手をつけていかなければ
なりません。どこが主催になってやるのか、などからスタートです。開催日まで仕事は山のようにありますから、
本当に大変なことなのです。」
次の開催を誰よりもこころから強く望んでいることが伝わってきた。
(2008年追記:友人は、「あつ子@カナダ」さんです。)