『殿様と製粉機』(銀鏡)


 旧東米良村(現 宮崎県西都市銀鏡(しろみ)と現西米良村のお殿様(第41代 菊地武夫男爵)は、
 西米良村に住まわれていた。この別邸は両村民が建てた。
 
 旧東米良村の青年達が一生懸命に考えて行動した話である。
 
  出典『おらが殿様』
  著者 中武雅周(なかたけ まさちか)
  西米良村大字村所在住 
  郷土史研究家(他、多数の著書あり)





  ちゃんとしもた

昭和22年の夏、まだまだ食糧難の時代が続いていた。米良の住民達はもっぱら焼畑や炭焼きに 従事していた頃で、東米良銀鏡地方ではまだ電気が無く不便なランプ生活が続いていたのであっ た。こんな不便な生活を解消するために、若者が集まって連日連夜協議に協議を重ねたあげく、 自家発電を企画してバッテリーを買い入れて各戸に電燈をつけようということになったのである。 発電所を設置する場所は、M砂武昭所有の土地を無償で提供することで話はとんとんと進んで行 った。  仕事は材料集めから製材等いっさい出役でまかない、かんじんのバッテリーは穂北の押川氏か ら譲り受けて来た。機械のすえつけから水路作りなど、仕事は共同作業で順調に進んでいった。 次々に仕事が進んで各家庭に配線工事が終わって、遂に待望の電燈をつけることが出来た。この 時から長い間のランプ生活に終止符がうたれ、実にご先祖様米良山入山以来の出来事でありよう やく文化のともし火がここにもともることができたのである。  この時の点燈バッテリー組合員は、征矢抜(ソヤヌキ)の8戸の他に川の口(コウノクチ)集 落の10戸に古穴手(フランテ)の数戸を加えて19戸であった。その19戸に、電燈を付ける ことが出来た。それは昭和24年に九州電力によって点燈が開始されるまで、その間征矢抜バッ テリー充電所の仕事は続いた。  22年に開始した発電事業が続いたその翌年、昭和23年の夏、古穴手の浜砂重久氏(故人、 時の村会議長)が殿様から製粉機を借りて来たのである。つまり精米と製粉をしたならば、食生 活の上でも改善がなされて都合が良いだろうと言うのであった。それは良いこと一石二鳥という ので、喜んで製粉機をすえつけることにした。シャフトからモータにベルトをかけて、発電機や 製粉機を動かしてトウキビ、麦、小豆、大豆、米等の製粉を始めることにした。それは戦後の食 糧難の時代を乗り切るために、製粉の便をはかって多少なりとも各家庭の台所をうるおすことが できたのである。  6月のある日、武昭が昼飯に戻っていると、「おーいっ、うっ止まったどう機械が」こうおら びながら覚が息せききって武昭の土じ(ドジ)に飛び込んできた。

  機械が止まったどー

「何ちて、機械が止まったあー」 「武昭よはよ来て見てくれやり、どうもこうもならんど」 武昭は昼飯を食うておるさいちゅうだったが、飯を食うのをうちやめて覚の後について機械小屋 に飛び込んだ。 武昭は「こらどしたことかい」 機械は止まり、ベルトは外れてぶら下がってごとんごとんと水車とモータだけが回っているでは ないか。 覚が水門の方を指差して「武昭はよいたて水門をばしめてくれやり」 覚が顔(つら)真っ赤にしておらんだ。 武昭はすかさず小屋を飛び出して、水門の処へつっぱしって水門を閉めた。やがて覚が言うには 「いんまさきじゃったがトウキビの粉をばひいていたら機械の調子がおかしいもんじゃから、こ ん中に何か詰まったっちゃわいたんしてドライバーを突っ込んで中をかき混ぜてみたところ、ド ライバーの先が歯車の歯にあたっとじゃがな。そうすっと『ごとごと』と手ごたえがしたと思っ たらなにが歯車の歯がとれて、そのかけらが、次々にほかん歯にひっかっかってぐわらぐわら歯 がとれて、とうとう機械がうっ止まったとじゃもんな」 「そうかあ、そういえばいんまさきおりが飯ば食うとき太え音がしたとじゃが、それがそっじゃ ったとじゃろ」 武昭と覚はこのままではどうにもならんので、機会を分解してみることにした。分解してみると あんのじゅう、製粉機の歯車の歯が7枚もかげているではないか。 「やいやい、こらちゃんとしもた。どうにもこうにもならんどこん歯車は。こら鋳物じゃから接 ぎもどうもならんど」 武昭は覚の顔を見ながら叫んだ。 「こらえれこっちゃわい、どげしゅかいね」 さあ大変だ、1年半も機械をただで使って殿様にはなに一つお礼もせんままじゃったっちゃが、 覚は顔色さえ失ってそこにつくなってしまった。  それからひと月もたっただろうか、重久どんを通じて殿様から、その機械を返してくれんかと 言うことだった。それは殿様のご子息様が、竹材の加工工場を作られるのでその工場に取り付け て、製粉をするからと言われるのであった。しかし何もかにも知っている重久どんは『機械が故 障したので、宮崎で修理をしてからお返しします』 と言って戻ってきたのだと言う。だがあれこれいびくり回しているうちに、とうとう半月も経っ てしまった。  ところが今度は銀鏡神社の宮司正衛どんが、殿様からの葉書を持ってわざわざ征矢抜までやっ て来た。それには 「そちらで故障がなおらなければ村所まで持って来い、こちらで修理をするから」とのことであ った。さあ大変いよいよ絶対絶命の時がやって来た。

  山越えしてお侘びに参るどー

 それから関係者が武昭の家に集まって、徹夜で協議をしたあげく故障した機械を持ってご別邸 にお伺いしておわび申し上げることになったのである。しかし当の覚は、妻が亡くなったため村 所行きができなくなった。それで村所に行く顔ぶれはM砂次雄、河野重信、M砂武昭、M砂武俊、 M砂重富、尾崎日吉の6人でご別邸を訪れることになった。  一行はヒエ、アワ、麦、トウキビ、小豆、米、焼酎など手土産などをあちこちからかき集めて 4人がかりで棚倉峠を越えることにした。残りの武昭と日吉は、自転車で国道を二軒橋から村所 へ分解した機械を自転車に積んで行くことにした。おわびに行くのであるから、何としてもその 誠意を尽くさなければならないと思ったからである。そしてそれはあとになって分かったのは、 こうした行為が殿様の心に触れて良い結果をうんだのであった。武昭と日吉の自転車訪問はなか なかこたえたのなんの、国道とは名ばかり道路は凸凹、中古車の後ろタイヤはこれが又石ダイヤ ときているので2人はえらい目にあった。    峠ごえもたいへんだった。真夏というのであるから昔からの話に「先アブ後ビル」と言って、 前の者はアブに取り付かれ後の者はヒルに悩まされると言った夏山歩きの言い伝えさえある山越 えであった。とにかく茂るに茂った草を踏み分けて、彼らは棚倉峠と天包山を越えて村所へと急 いだ。 「ごめんくださいませ」 山まわり組と、自転車組みとがやっとのことであらかじめ打ち合わせておいたご別邸前で合った。 その足でご別邸を訪れたのである。次雄が前よりもやや大きい声で、しかもおそるおそる 「ごめんくださいませ」 次雄の後ろには、汗を拭きながら残りの5人が横に並んで立っている。 「はーい」障子が開いて、奥様が出ておいでになってこのありさまをごらんになり、しばらくじ いっと見ておいでになったが 「銀鏡の者でございます」 「まあまあお疲れのこと、どうぞ足をすすぎになって」 奥様は、気軽に一行に木のたらいに水をそそいで下さって殿様のお部屋にご案内下されたのであ る。殿様は、布団を敷いて休んでおられた。 「おお、来たか、きゅうどま来るじゃろとおもとった。ちっとだれとったもんじゃから、寝とっ とじゃ」 殿様は手を出して、奥様の介添えで起きられた。みんなは遠くの方で、かたく小さくなって座っ ている。 「遠慮せんでこっちに寄れ、まっとねきまでずーーっと」 みんなは一緒にごそごそと前に出て座った。そして武昭の右隣にいた次雄が、おそるおそる申し 上げた。       

  かくかく申し上げます

「殿様、機械が故障しましたので修繕をしなければいけないと思いましてあちこちに頼んでおり ますうちに、お詫びに上がりますのが遅れまして誠に申し訳ありませんでした。今日は青年たち を連れまして、お詫びに参りました」 みんな手をついて、いつ殿様の雷が落ちるかと思ってびくびくしておると 「機械はどりか、こけ持ってきてうちくえた原因をば説明して見よ。あれほど石やなんきゃ入っ とらんか確かめてから動かすように言うとったとじゃがどぎゃしたとか」  しまった、早くこれを申し上げにゃいかんかったのに、殿様の方から先に口にされてしまった。 ところが肝腎の理由を説明申し上げる役割を決めていなかったことに気がついた。すると次雄が 「覚がそのときの事は詳しく知っているのですが、妻が亡くなって今日は来ておりませんのでー」 と続いて言おうとするのを、これではいけないと思った武昭がすかさず 「私が、ご説明申し上げます」と言って、前に体を乗り出して 「しばらくお待ち下さいませ、機械を持って参ります」  武昭の声にわれにかえった一同は、武昭に付いて分解して持ってきた機械を殿様の前に並べた。 武昭は覚の次にこの機械について精しく知っていたので、丁寧に説明をし始めた。武昭の説明は ありのままで整然としたものであった。しかし居並ぶ面々は武昭がつまらんことば言うて殿様の ご機嫌をばそこなうものならそれはまた一大事とばかり、冷や汗をかきながらじぃっと聞き入っ ていたが、その説明のあざやかさに一同はほっとした。  「その日は、覚がバッテリーの充電と、とうきびの製粉をしていました。昼になりましたので、 覚はそこから40メートル離れています自宅まで昼飯に帰りました。私もその時には家で昼飯を とっておりました。ところがいつもと違った機械の音が、15メートルほど離れた私の家まで聞 えてきました。私はその音がいつもの機械の調子とは違うぞと思って飛んで行きました。そして びっくりしました。見ますと、水車がフル回転しておりモーターがうなりながら回っていました」 「それでどぎゃしたか」 「はい、私はすぐにそこから10メートルほど離れた水門まで走って行って水門を閉めました」 「ウーン、そうか、水力発電じゃから水車は止めにゃいかんがうろうろせじ水門ば閉めたとはあ っぱれじゃ」 「そして私は覚を呼んできてその原因を調べました」 「どげなことじゃったとか」 「それは機械の始動中、シャフトからシャフトにかけてある幅の広いベルトの継ぎ手の小さいカ スガイ一本がはなれて製粉機の中の歯車の歯を次々といためてしまったのであります」 「ん、機械は融通がきかんから細かいとこまで注意せんにゃいかんがそのベルトは中古品じゃっ たとかい」 「はい、中古品でした。新品がなかなか入りませんでしたので」 「そうか、これからの世の中は機械に強うならんといかん。科学が進めば機械がおおなって来る からね。この製粉機の一分間の回転数はどれくりゃあっか知っとるか。ただはげしゅう回せばえ えっちゅうもんじゃねえど」    武昭は、びんたをくらったようだった。今まで自分でも機械を知っておるつもりであったのが、 殿様の質問の機械の回転数をちゅうに覚えてはいなかったのである。こりゃぼくじゃと思った武 昭は、機械のどこかに書いてあるもんだがと思ってそーっとのぞいたら、機体の赤枠の中に小さ な字で書いてあった。武昭はすかさず 「はいっ、一分間の回転数は○○回転であります」 「よしよし、中古ベルトの継ぎ手の点検が出けとらんかったとが原因じゃね、こりからは気を付 けんにゃいかんど」 武昭は、ほっとした。これで殿様のお許しが出たのだと思ったとたん外から吹き込んでくる風の 涼しいのに気がついた。やがて奥様からお茶をいただき、そしてやさしくご接待にあずかった。 殿様もご機嫌よろしく、巣鴨での戦犯容疑生活のお話をされた。一同は身を乗り出してその話に 聞き入った。 殿様は「あすこじゃね、おりこりまでやったわい」と、 両手を前に出して雑巾で便所の床を拭かれる真似など。 一同は何ちゅうことばおっどんが殿様にさすっとかと思い、話が面白いどころか腹が立って腹が 立って来た。武昭の横に居た次雄が、武昭を指して、 「閣下、これは浜砂幸見さんの孫です」 「おお、おまえが幸見ん孫かい。盃ばとらすど、こっちへ来い」 「はい。ありがとうございます」 武昭は盃を押しいただいて感激して頂戴した。その感激は一生涯忘れることはできない武昭であ った。武昭の祖父の母キサは、乳母として殿様へお乳をさしあげたことがあったのである。  

  機械に強くならんといかんど (完)

実は今日は殿様に大目玉をいただく覚悟でご訪問申し上げたのに、おしかりどころか、寛大な 思いやりのあるお言葉までいただいてその広いお心にふれ、一同は感激して帰路についた。    殿様も奥様も廊下までお出でになってお見送りいただいた。銀鏡から持って来た竹の皮包みの 握り飯を食いながらの殿様との昼飯は日本一の会食であった。 「どげしてもどっとかい」 「山越えでもどります」 「そっちはバス道じゃが、山はあっちど」 青年たちはしばらく休憩をしたあげく、山越えからバスに予定を変えて村所を後にした。先にも 後にも無いたったいっぺんぎりの日であった。                                  [完] 武昭は帰り着くなり祖父の幸見に殿様とのことを語ったら幸見はとても喜んだ。 あの時から、もう数えて40年にもなろうとしている。そのことがよほど大きな想い出となって武 昭の心の一遇に宿っているのであろう。想い出話をする武昭の目は輝いていた。そして言うにはあ の時の気持ちは肉親のおじいさまにお合いした気持ちであった。と、武昭氏は、当時19歳であった。 ちゃんとしもた製粉機のことを振り返って以上のように記している。   出典『おらが殿様』   著者 中武雅周(まさちか)   西米良村大字村所在住 郷土史研究家(他、多数の著書あり)  私(中武雅周)は、或る時、菊池男爵からお借りしていた「製粉機」のことを旧東米良村の武昭氏 から想い出話の中で聞かされたことがあった。終戦直後の頃の話だが、米良らしい場景がなまなまし く、お互いが精一杯に生きて来た姿が感じとられたので、寄稿をお願いしたのである。        殿様はものの道理をわきまえ、自ら責任ある行動をとった者はけっしてとがめられなかった。この 日の銀鏡の青年諸君がとった責任ある行動に、殿様は潔しとしてお許し下さったのであろう。殿様は 機械についてもご関心が深く若者は新しい時代にいつでも対処できるように望んでおられたことを思 い出した。それは今から50年前つまり昭和13年の秋、私が県立妻中学校の4年生の時だった。時 局講演会が妻尋常高等小学校で開かれ、中学校の職員生徒も全員これに参加して講演を聞いたことが あった。 『今だから話す』という演壇に我々若者の気を引いたのは、その当時90歳を越えたという幕末に活 動した勤王の志士の講演であった。彼は吉田松陰や橋本佐内等と共に、勤王の仕事にたずさわってき たと云う。そして最後の別れ際にこう約束しあった。「○十年無事でいたなら、われ等が当時どのよ うにして事を起こしたかなど一切を話そう」と言う事であった。  この講演会で、次に演壇に立たれたのが、我等が殿様菊池閣下であった。話の詳細については覚え てもいないが、その中に「何時の時代も、若者が世の中を造る大事な仕事をしてきた。これからは科 学の進歩によって様々な機械が造られてくるが、そん為にゃ研究も必要じゃがもっと大事なことはそ の機械を使いこなすことじゃ。わしの長男は、大学生じゃが今自動車の免許を取らせておる。これか ら先は、若い者は誰でも自動車ぐらいは運転がでけんにゃいざと云う時にゃ役に立たん。そうでなけ りゃ機械にも関心が無く、世の中の進歩にもついては行けんごとなる」  銀鏡の青年に「機械に強くならんといかんど、科学が進めば機械が多なってくるからね」と、かん で含めるように諭された場面を想像して私は、忘れかけていたあの時の講演のことを思い出したのだ。 大学生で自動車の免許が取れるという殿様の一語には、中学生どもは少なからず関心を持った。さす がに自ら砂鉄会社をつくって、その経営までやっておいでになった殿様だと心の底から敬服申し上げ た次第である。    殿様の講演に出てきた話題の主は武英(たけふさ)様で、そのころ東京帝国大学に在学中の頃の話 であった。