くろまめのをりをり9(2011年1月から)


         毎日のようにベランダから富士を眺めています。よく晴れた日は
         丹沢が見えます。太陽が少しずつ移動してゆくのを見ていると
         今日の日を残しておきたくなります。

 

 クリスマスイヴに孫がやってきた (2011年12月26日)

生後12日目の孫がやってきた。しばらく我が家で母子が暮らすことになり、たくさんな荷物 を運び込んだ。私はタンスの引き出しを空っぽにして孫と娘が使えるようにした。小さく可愛 い肌着などが引き出しに収められていくのを見て、34年前、生後10日目の娘を抱いて産院を退 院した日のことが映像になって浮かんだ。  今は赤ちゃんのおしりは電気であっためられているフキフキシートを取り出して拭けばいい。 オムツは用便が済むとシートの色が変化してサインを送ってくれる。お部屋の温度・湿度・空 気清浄もきちんと管理できる。確かに便利になったが、授乳とおむつ替え、そのつど記録して いくことは変っていない。3時間おきにおむつ交換、授乳。泣かなくても起こしても飲ませて いる。授乳のあとは縦に抱いてゲップさせている。沐浴は毎日。これらのことが儀式の如く丁 寧に執り行われている。 今日で我が家に滞在三日目。今朝のご機嫌はすこぶる良し! カーテンを開いて朝の光をいっぱい入れた。眼をパチパチさせてお鼻の穴を膨らませてお口を 「ほぉー」としている。おしっこだなあとわかる。重たいおしっこだ。「栄養くん行き届け!」 とこころの中で言ってみる。  面白い。眠たいけれど面白い。娘に抱かれておっぱいを飲んでいる孫の存在になににつけて も感謝している自分がいる。オレンジ色のろうそく三本を立てて、クリスマスゾーンを作った。

 ゴスペル (2011年12月22日)

 本日、冬至。昼は短い上に太陽はすっかり隠れていて寒い一日だった。夕方友人と上野の 東京文化会館大ホールで、亀淵友香&VOJA 〜♪Christmas Gosoel Night 2011♪〜の舞台を 鑑賞した。私の体に中弛みが起きて睡魔と闘うこともあったが、やがてゴスペル独特のノリ ズムに睡魔から解放されて、手でリズム(生来リズム音痴の私)をとり、足でとり、首でと り、その姿はピノキオのようだったことだろう。楽しい。愉快。友人も乗っていた。大集団 (600人)のゴスペルに観客が立ち上がって踊っていた。ジャンプジャンプ! そういった 観客をオペラグラスで見たりしてこちらも楽しめた。シニア世代のなんと若々しいことよ。 マナー違反だがケイタイで写真を撮った。       パンフに書かれていた友香さんのご挨拶がこころに響いた。  Greeting  ”どんな時も、どこにいても、いつも貴方がそばにいる”    私達ボジャのレパートリーのゴスペルの一節です。    そして、”This little light of mine I'm gonna let it shine”    これも愛されているゴスペルの一節。    日本語訳すれば"この胸の中の小さなあかり、    それは自分の力で灯そうね"という唄です。    今年は"絆"の年でした。  ともすれば倒れそうになる私達の心、そしてつながり。  今日、この時間を楽しく、音楽で満たし、来年がよりよい年であるように、  一人でも多くの友達が、ニッコリ笑顔でお家へお帰りになる事を願いながら・・・。  どうぞ、静かな暖かい新年をお迎え下さいますよう。メリークリスマス。  亀渕友香

 ノスタルジア (2011年12月14日)

 アワ・ヒエ・ソバ・ムギ・イモ・マメ・ゴザ・ムシロ・・・・・・。畑に行くと妙にノス タルジックになる。畑が高台にあることがそう思わせるのかもしれない。そして、畑に面し た私道を挟んで、大事に代々守られている大きなお墓が建っていることにも関係が有るのか もしれない。お墓と畑と竹林のある辺り一面に私が幼いころに見たり聞いたり食べたりして いたことが美しい光景になって懐かしさを引き出してくれる。  私が生まれ育った家の裏のほうに地区のお墓があった。当時は土葬だったので埋葬すると きのことを覚えている。宮大工さんがこしらえたお宮の前で送る大人たちの悲しみと優しさ が皮膚に刷り込まれている。お墓の有り様を見てはそのようなことを思い出し、安心した心 持になれる。  故郷・銀鏡の話に戻るが、そのお墓のあるところから2キロ先に実家の畑があった。その 場所を「おんの」と呼んでいた。和紙の元になるミツマタの皮を煮るための大窯があった。 そばにはきれいな水が流れていて私はそこで指を入れたり葉っぱを流したりして一人遊んで いた。実家の焼畑が延焼し山火事が起きたのはもっと大きくなった頃か?。山が赤くなって いくのを家の庭から見ていた。今年収穫した大根は、実家の母から昨年の種をもらって撒い たものだが味わうと当時の焼畑の煙の匂いが感じられるのだ。この大根は、苦味と辛味が微 妙に入り混じっていて煮ると苦味が優しくなる。すき焼きにこの大根をそぎ切りにして入れ て煮るとその味わいは絶妙なのだ。私はそのように前置きをしてから人に差し上げている。 更に加えて母が畑で作った葱は長ネギではなくて緑の多い種類の葱だったことも言いたくな るのである。お互いのふるさとを紹介し合って話が深まることも嬉しい。  先日のこと、夫が収穫した里芋の寒さ除けにムシロを買ってきてくれた。値段(@2500円) を聞いて驚いた。なるほどそのムシロは、私が幼いころに祖父が編んでいたムシロより分厚く 出来ていた。ふるさとでは、ムシロは大いに活躍していた。アワ、ヒエ、マメを干したり選り 分けたり、ムギ味噌を作るときに麹菌を広げたりと暮らしに欠かせないものだった。  14日の今日は、銀鏡の夜神楽が始まる。ムシロの上で舞うのだ。今日明日とも天気良好。 昨年より暖かいとのことだ。 http://www.0503ak1025.net/siromi.html  12日に孫が生まれて今日で3日目。引き継がれるもの、引き継がれないもの。きれいな 瞳でときおりじっと見つめられているような気がする。   冬晴れの休刊日孫誕生す    くろまめ

 くろまめ騒動 (2011年11月30日)

 いただいた黒豆の種・2種(普通の黒豆と丹波の黒豆)から芽が出て、サヤが膨らんでき たのを見たときから収穫の期待が膨らんだものだった。実際にサヤから取り出してみると、 普通の黒豆のほうは虫も少なくて8割かた上手く出来ていた。丹波の黒豆は2割くらいか。  今朝はよく晴れている。天気予報は夕方から気温が下がり、明日は、雨模様になるとのこ と。であるなら、これらの豆をサヤから出して選別をしようとなって、夫と二人でサヤから 豆を出す作業に取り掛かった。普通の黒豆は、おおかたはサヤがはじけて豆が外に出ていた ので、そのモヌケノカラを撤収。サヤの先に抜け出せないでいる豆が鎮座しているのを、指 でポロンと撫ぜる。そして、保存容器に入れる。サヤの口が開いていないのを開くとき、親 指と中指で押すのだがこの感触で、豆のイイ、ワルイが分かる。ワルイの中の完全にワルイ 豆はサヤもろとも撤収。丹波の黒豆のほうも同じようにして選別していった。丹波の豆は太 くて艶がある。虫も大きいではないか。この虫には参った。這い出してくる様子は堂堂とし ていて、クネクネと顔面で存在をアピールするのである。黒豆の色素のアントシアニンをた っぶり食べて体が黒ずんでいるようだ。私は、ふんわりと抓むことが出来ない。ごめんなさ いと言いながら一気につぶさないと苦しむのではないかという強迫観念にとらわれてしまう のだ。さて、困った。  夫がいいアイディアを出した。「サヤと一緒に袋に入れて、畑の堆肥の中に捨てれば良い」 私が「袋の中で苦しむのでは?」と言うと「殻の中に居たものだから今までと同じ環境だし、 袋の中は空気があるから大丈夫」。先生が生徒の目の高さまでしゃがんで「これはねえ〜こ うなんだよ〜」と教えてくれた。あらら、安心。  まだまだ作業は続く。私は夫に実家での豆叩きのことを話した。柚子の木のある庭先にム シロを敷いて豆を広げていた。豆は大豆や小豆やウズラ豆などだったこと。曾祖母・祖母が 座って選別していたこと。選別するまでには干していたはずだがそこのところは話が出来な い。手ぬぐいを姉さかぶりにして、モンペに前掛けをして、長い棒でサヤの上を叩いていた。 カラカラ音を立てて豆が飛び出す。それを集めて大きな円形のザル(何て言っていたっけ? )に入れて、ザルを上下に揺っていた。立ってその作業をするので、辺りは埃やサヤのクズ が宙に飛び出した。舞い上がった埃に太陽の光線が差し込んで美しかった。  ああ〜 今ここに妹たちが居れば、私の記憶の間違いなど指摘されるかもしれない。いえ いえ、一連の作業を思い出すことが出来るかも知れない。  丹波の黒豆はお正月用に保存した。虫に食われたりしたのはもち米と一緒に炊き込もう。 普通の黒豆は煮てから実家に送ろう。そして今夜、不良豆のふっくら煮が上手に出来た。

 「故郷の便りを届けます」 (2011年11月20日)

 一筆箋の筆文字をじっと見た。10代の頃の彼女は長い髪をしていた。制服の着丈が隠れる くらい長かった。2011年現在も髪が長い。    届いた宮崎日日新聞には「茶の間」の受賞作品が一挙掲載されていた。受賞者のみなさん の文章を読みながらそれぞれの作品に宮崎を感じることができた。  時は流れても変わらない人の思い。時に思い出し時に振り返る。今を生きて今に感謝する。 普遍的なものへの思いに共感すること多かった。      http://picasaweb.google.com/yeziyezi55/ZPaDwK#  地域の話題「児湯・西都」の頁には銀鏡(しろみ)は見当たらなかったが、隣の西米良村 (にしめらそん)では、同村の写真家・小河孝浩さんが写真工房の一部を改装して「カフェ ギャラリー ラ・メール」として今月にオープンされていた。 (11月27日まで宮崎市のアマ写真家の個展開催中。午前9時〜午後6時)  

 立冬の日に (2011年11月8日)

 今日は何度も何度も”立冬”という言葉を聞いた。新聞からラジオからテレビから何度も 聞いた。朝霧は9時を過ぎた頃に晴れた。午後3時を過ぎると地表がうんと冷えてきた。  心温まることがあった。友人の竹中智恵子さんが宮崎日日新聞のお茶の間賞に入選!。  =以下、デジタル宮崎日日新聞・11月8日掲載より= 「第22回宮日茶の間賞」(宮崎日日新聞社主催)の特選、入選作品が7日、決定した。特選は門 川町の無職坂本玲子さん(56)の「小さな足の爪」、入選はえびの市の主婦福元良子さん(74)の 「大震災に思う」など6点が選ばれた。くらし面のエッセー欄「茶の間」に昨年10月〜今年9月 に掲載された約360点の中から、同賞事務局の本社文化部で選考した。表彰式は17日午前11時か ら宮崎市の宮日会館メモリアルホールで行う。=以上転載=      受賞作品『あのころを忘れない』(2011年6月15日掲載)          2010年「新春茶の間賞」では『青春時代』で特選。  https://picasaweb.google.com/yeziyezi55/OqdaEC#5623631295560155202  それからもうひとつ、私が高校時代に下宿していた家の奥様が100歳の誕生日を迎えられた そうだ。電話応対もしっかりされているそうだ。家で和裁教室をされていた頃の奥様しか知 らない私だが100歳とは! うれしい驚きだった。  そして、今日の終わりに故郷に繋がる友人のブログを紹介したい。    ARISANの「窓から見える風景」。    お父様の短歌集(「父のページ」)をぜひお読みください。  http://ha5.seikyou.ne.jp/home/ARISAN/index.html    私は毎朝こちらのサイトに訪問している。

 畑、あれこれ (2011年11月2日)

 もう11月。そして2日目。そして午後の時間をベランダから見えてくる交差点の車の動きを 眺めている。ラジオは国会中継。空はうす曇。窓を開けてもほとんど音が入ってこない。    今年の4月、それまで30年間借りていた畑が地主さんの事情で使えなくなった。新しい畑を 探していたら、それはもうすぐにご縁つながりでお借りすることができた。幸運な春を耕し始め てからも百坪は広すぎるかなあという気持ちがあるにはあったが、今ではちょうど良いスペース だと人にも言えるようになってきた。と同時に畑に行く時間も少しずつ変化してきている。午前 6時に畑入りしていたのが最近は9時から10時入りになってきている。早朝に人工授粉の必要 な野菜が一段落したのと涼しくなってきたからだ。ほぼ2日おきに午前中に畑を済ませる点は、 まだ変わっていない。  先日、趣味の仲間から便りが来た。「畑にはよく行かれているようですね」。当サイトを読ま れているらしい。私はといえば最近は畑以外の趣味の集まりに欠席しがちである。 タクマシイイデタチノワタシハハタケニシンシュツキボツシテイル。仲間の懸念ゴモットモである。  昨日はひんだれた(←宮崎の方言。とても疲れた〜の意)。サツマイモの収穫の終わりにツル をロール状に巻いて三箇所にまとめた。私の身長(151cm)の高さに積みあがったツルの山でしば らく体を休めた。それからツタンカーメンのエンドウマメを植えた。ツタンカーメンのお墓から 発見されたエンドウマメとくれば、文化の日と植える日を決めていたのだったが、11月1日も 覚えやすい日付だ。   家族との話題は「次は何を植えようか? 何を撒こうか?」と楽しい。テレビで畑の産物を見 ると「あれもいいわねえ」と楽しくなる。達子さん(義母)の畝と私の畝をそらまめ(夫)がこ しらえてくれる。「これ、どっちだっけ?」と鍬を振るそらまめが二人に声をかけてくれる。ち ょうど良いスペースと思えるようになってきたのはこういった理由もあるのである。みんなで作 ってみたいもの、これは自分が責任を持って育ててみたいもの、これは実験的にやってみたいも のなど、ちょこちょこっと出てきている。  さて、明日は午前中に菜の花の種を蒔こう。

 リストの♪ラ・カンパネラを聴いて (2011年10月12日)

 いつもより早く夕食の支度に取り掛かった。聞き覚えのある「ラ・カンパネラ」のメロディー が聴こえてきた。蛇口を止めてテレビを見ると、ラ・カンパネラを女性ピアニストが弾いている。  何年か前に家族と上野の文化会館でフジコ・ヘミングのラ・カンパネラを聴いたことがあって、 彼女のCDを買った。以来よく聴いているので音痴の私でもなにかが違うことが感じられた。今日 見て(聴いて)知ったことだが、リストはこの曲の作曲者・パガニーニのバイオリン曲をピアノ 用に編曲したのだそうだ。リストはこの曲を三回作り直している。初期のものは、”技巧のひけ らかしが多い”との解説だった。聴いてみると確かにそう感じた。しかし、二度目三度目になる と、リストが演奏家から作曲家へと軸足を移したこともあり永遠に残る洗練されたメロディーが はっきり感じられた。  若いころは面取りされていないので、大人から見るとなににつけても表現が荒削りで「青い」 と思えるのだろう。ああ〜自分もそうであったかと赤面することがたびたびある。ようやく最近 になって若いころには見過ごしてしまっていたような事にも深く感動するようになった。私の心 の中の感受性の物差しのメモリが細かくなってきたようだ。年と言えばそう言えるかなと思う。

 ノートパソコンのリカバリ  (2011年10月2日)

 東芝・dynabookの動きが遅くなっている。取説の表紙に書いてある日付(2006/8月/12購入) が妙に目につく。ダイナ君をスリムにしたくなった。  只今リカバリ中。  ロッテ・ラミーチョコを夫に差し出す。  私はダイナ君の調子をときどき見ながら、こちらのデスクトップで今日の日を更新している。 ダイナ君を診ているのは夫なのだ。    ラジオはユーミン。達子さんはマンションの老人会へ出かけた。  ダイナ君は買った当時の状況に戻れたが、空白の5年間が浦島太郎状態になっている。基本ソ フトをアップデート。これをしないと最新のアプリケーションソフトがダウンロード出来ない のだけれどー。しかし時間がかかる。  時間待ち。夫はベランダに出て体操をしている。   うす曇。シロバナタンポポは閉じている?      写真は、今朝撮ったシロバナタンポポ。      コーヒーを淹れ、ラジオをクラッシクに切り替えた。    インターホンが鳴った。  出ると「選挙・・・ご挨拶に・・・」市議選の候補者の顔写真がプリントされているチラシ を私は手に受けた。  ずっとお話を聞いた。  それから10分も経たないうちにピンポーン。こんどは夫が出てくれた。 「さっき・・・はい。ええ」先ほどいらした方たち?。私が出たときは、背の高いメガネの女 性がお話をされて、後方に小柄な女性が立っていらして時々顔が見えた。夫が出たときは、小 柄な女性が説明をされて、背の高い女性が後に控えていらしたそうだ。いつもなら候補者の実 績などしっかり読まないのだけれど・・・・・・読んだ。  達子さんが帰ってきた。  今日は、ハーモニカの演奏つきで合唱したのだそうだ。歌詞は「故郷の廃家」「埴生の宿」 「旅愁」「叱られて」「船頭小唄」「七つの子」「中国地方の子守唄」(♪ ねんねこしゃっ しゃりまーせ〜)。  私も歌ってみた。  ♪青い山脈とか♪汽車の窓からハンケチ振れば〜って歌がいいなあと思った。    セキュリティソフトがうごきはじめた。     友へ、ダイナ君からメールが出来るまでにはまだ少し。  戴いたジャガイモを焼こう。       紫は、シャドークイーン。 赤はノーザンルビー。  

 九月尽  (2011年9月30日)

9月が終えた。ラジオのから流れて来るのは津軽弁で歌うジャズ「Fly Me to the Moon」。 ゲストが「あずましい」と言っている。津軽弁で“心地よい”ということらしい。宮崎弁で 歌うとどんな感じになるのだろう。訳詩を打ち出して宮崎弁で歌ってみた。「だからなんね」 って感じになってしまった。抑揚の違いがジャズになるか民謡になるか、なかなか面白い。  さて、この9月は残暑が厳しくて、畑に早朝行くことが多かった。車から外に出るとセミの 声が一斉に降って来た。朝日が広がってくる中で草を抜いた。種も蒔いた。落花生が地中に 入ろうとするところを見た。いつしかセミの声は弱まり、秋の虫たちが大合唱で迎えてくれ た。そして今はコオロギの独壇場だ。  今夜は東京からの帰りの車中、チューリップの曲を聴いた。43,4年位前?に彼等は大ブレ イクした。♪「心の旅」。高1の私は宮崎の小さな町で下宿のご主人と奥様と一緒にテレビ を観ていた。歌番組のタイトルは忘れたが司会者が「ミキアイロウでございます」と言った っけ。彼らの曲が似合う国道を過ぎ、中島みゆきが似合う町に入った。みゆきがシュピレヒ コールのフレーズを優しく歌う。コントラストの強い街に出たときに♪「LOVERS ONLY」を。 「♪町中が今夜だけのために〜♪メリークリスマス メリークリスマス〜」と過ぎ、片道一 車線の国道365号線に差し掛かった辺りで音楽を止めた。片側の窓を開けて虫の声を入れ る。清清しい虫の声に言葉を忘れる。  さあ〜 明日から長袖だ。気温はぐんと下がるらしい。

 ヘアースタイルで変わることって?  (2011年9月18日)

     あるんだなあ これが。 @ ああ〜さっぱり。 顔も引き締まったような? A テレビ「人生の楽園」の主人公のヘアースタイルが気に入った!      すぐにお風呂場でチョキチョキ切った。      アッ! 左右のバランスが崩れた。   短いほうに合わせたら、ションション立った。      後ろは虎刈りになっていた。    B それは酷い虎刈りだった。   ヘアーワックスで誤魔化して出かけた。   後ろの正面が怖がらないように大判のスカーフを巻いた。       暑かった。とても。      写真は撫で肩になっていた。    顔は中心寄りに写っていた。 C 思いきり 人前に出なければならなくなった!    美容院へ行くしかない。   担当の方が「アッ!」とした目で、そして先のお客様の髪を持ったまま手が止まった・・・。      私の順番になって     「ど、どうなさったのですか!」わけを話すと、   「一番短い髪に合わせますね」と髪をつまんでいる。   「後ろは・・・」   「お任せします」 としか言えなかった。    秋が深まるころには、和田あき子からは遠のくことだろう。       嗚呼!   

     畑の抜き菜はてげ美味しい ♪  (2011年9月13日)

               ↑今朝7時過ぎに抜いた大根葉の塩もみ    昔から私は好きだった。大家族で育った私は、お漬物を切るのを率先して手伝っていた。 沢庵も高菜漬けも大きな重石の隙間から引き抜いて、独特なあのにおいを嗅いで、鼻の穴を 大きく開いて、口を結んで切っていたんだと思う。(他のことは怠けて手伝っていなかった)。 中でも大根の抜き菜の漬物が大好きだった。これだけで良かった。そのうち刻んだショウガ を混ぜていただいていたが、最近は卸ショウガをのせていただいている。(てげウンマイ!)  実家では大根の抜き菜のことを大根葉(ダイコンバ)って呼んでいた。炒めたり、お味噌 汁の具にしたりしていた。こちらでは「おろぬき大根」と呼ばれている。つい先日、農産物 店で買って漬けてみたが、青い味も辛い味も薄くて弱くてがっかりした。  写真は、実家の母が畑で採取した種を、我が家の畑に撒いて育てたもので、茎が赤いのは、 生長すると大根の首の周りが赤くなるらしい。    双葉から本葉が伸びてきたところで間引きした菜は、胡麻和えにしていただいた。三本立 ちにするために間引いた菜は、お浸しにしていただいた。今日は1本立ちにするために間引 いた菜を塩でもんで即席漬けにした。  昔からの野菜(母から種をもらったのだが学名不詳)を二本立ちにするために間引いた。 抜き菜は今夜野菜室で眠っている。甘いか苦いかは明日の朝の楽しみだ。

     重陽  (2011年9月9日)

 「9月9日は重陽の節句ですから、きっ と良い知らせがあるでしょう」。友人がそう言った。  今日、術後の診察と詳細な病理検査結果を聞いた。「悪性細胞を認めず」。腫瘍ではなかった。  医師が面談表に文字を書き図を描くのを見ながら、モニターの肺のX線写真を見ながら、問題点 の無いことを確認できた。部屋を出てからは体中の力が抜けて行った。  帰りの空に飛行機雲を見た。    

     ああ〜 勘違い  (2011年9月3日)

午後4時半、台風12号の強い雨が止んで青空が見え始めた。カナカナが鳴いた。 私はレース編みの手を休めてしばらく感傷に浸った。 そして家族に「カナカナが鳴いているわよ〜」と知らせた。 テレビでゴルフを観ていた夫が「秋だねー」などど答えながらチャンネルを変えたら、鳴き止んだ。 試しにチャンネルを元に戻すと、また鳴きはじめた。   カナカナは岐阜県のゴルフ場で鳴いていたのだった。   ベランダに出て耳を澄ますと、クマゼミとツクツクホウシが鳴いている。    近頃のマイクロフォンとスピーカーは性能が上がったのか? ?? 騙されてしまった。  

     昨日今日と  (2011年8月31日)

      昨日の朝、窓の外のニガウリが熟して半身落ちていた。秋を感じながらケータイで撮った。  今日は、3箇所に掛けてあるカレンダーの「8月」を剥がした。大判のものは、ペーパーカッタ ーでカットして、裏の白紙の部分を俳句の短冊にするのが毎月のお決まりにしている。今年はやた らメモ書きが多い。空白の日はほとんどない。31日間、いろんなことがあったんだなあと思った。  冷蔵庫の野菜を整理したくなった。キュウリ、ピーマン、シシトウ、キャベツ、ネギ、ショウガ、 ニンニク、トマト、ナスと彩りの美しい野菜たち。焼き物に炒め物に漬け物にと三種の献立が決ま った。すべて我が家の畑で採れた野菜たちだ。主菜はステーキに決定。お米を洗って、ベランダか ら陽が沈むのを見た。竹林の中を這うようにして沈んだ。ウロコ雲を見て、上空には既に秋の冷た い空気が来ていることを感じた。      

     青い桃太郎  (2011年8月20日)

    退院2日後の17日の朝7時、畑に行った。朝露をコロコロ動かしていた芋の葉っぱは、日照り続きで すっかり乾いていた。ナス科、ウリ科の野菜を収穫した。  まだ本調子ではないので、カボチャの姿を見つけて夫に報告。夫が熟れ具合を確かめてから私にカット させてくれた。6個収穫。夫が運んでくれた。ニガウリは葉っぱに隠れて陽が当たらず色がとても薄かっ た。ナス、シシトウ、ピーマン、シュンギクは面白いくらい採れた。  トマトの葉が茂り過ぎて、風通しが悪くなって来ていたのを夫が大量にカットしてくれた。ミニトマト の千果とフルティカは、どちらもびっしり生っていた。桃太郎はすっかり葉に覆われていたせいで青いま まだった。ふと、幼い頃に食べていた青いトマトの味を思い出した。その頃は、ミニトマトはあったのだ ろうか? 私の記憶の中のトマトは大きくて中に種がいっぱい入っていた。小さな口でガブリとカジルと 汁がピューッて飛び出して、顔中が種だらけになってもムシャムシャ食べる私を見て、大人達が笑ってい たものだった。青いトマトの味をまた味わいたくなった。  持ち帰った桃太郎には種はほとんどない。芯まで無事に食べられる。青い味は昔の味を再生してくれた。    退院してから青い自分をしみじみ感じている。新しい気持ちでいる。

     8月15日退院  (2011年8月17日)

 5月、掛かりつけの病院で上腹部CT検査。「背骨と右肺の間に影あり」。     その日のうちに、国立がんセンターに紹介状(CD)投函。  6月、センターで胸部CT、MRIで精査。採血。「病的なものではない可能性もあり」。  7月、「何であるかははっきりしない」。胸腔鏡下生検を受けることにした。  8月3日、胸部CT、痰検査、心電図、採血、呼吸機能検査。  8月9日入院。 入院受付で「お見舞い」と記された封筒をいただく。8階の部屋に入る。           下の写真は、持ち込んだ愛用の小物たち。                  看護士が来て、体重、身長、体温、採血、血圧、検温。         下の写真は、体調チェック表と体温計。(自分でできる場合)           担当医師より手術計画書の説明を受ける。  手術名:胸腔鏡下縦隔腫瘍生検(切除) 実施予定日:8月11日。同意書提出。    特定生物由来製品の使用に関する説明を受ける。同意書提出。  胸のレントゲンを一枚撮る。    先が決まると、院内探検をしたくなる。エレベータホールはとても広い。東側西側にテー ブルと椅子が4脚。東西の大窓からの眺めは緑が多い。1階の売店で、冷蔵庫にストックす る飲み物などを買う。パン工房が入っている。「当店一番人気メロンパン」と書かれてある が食べ物は買わない。お隣の理容室で髪を切る。 「ボブの変形でお願いできますでしょうか?」「男性の方が多いですので、特にスタイルブ ックはおいていないのですよ」とやわらかな対応。スタイルを説明したら、ニッコリされて、 どうぞ〜って示す先に券売機が。券をお渡ししてからは、速いのなんのって! 2,5aほ どカットしてボブから坊やスタイルかな?。私に似合っている。  入浴。夕食。就寝(22時消灯)。  8月10日、「手術前日の荷物チェックをいたします。術後は、こちらのお部屋には泊ま りませんので、次の物をご用意ください」。てきぱき看護士さんは、私が昔入院した所で産 声を上げたとのこと。足りないものを買いに売店へ。パン工房でアンパンとアップルパンを 買う。    午後9階展望浴場 入浴(180度の展望)  夕食後、麻酔担当医師から麻酔の説明を受ける。硬膜外麻酔は創部により判断。同意書提出。 事前にパンフレットを用いて、手術当日の手術直前から手術終了までの一連の流れを説明した ものをもらって読んでいたので、「私は気管支拡張剤にアレルギー反応が出たことがあるので、 不安に思っている」ことを薬の手帳を提示して伝えた。(問診時に記入済みの事ではあったが)  これまで三種類の同意書を提出しているが、そのいづれも医師に対して信頼が深まったこと を記しておきたい。  8月11日 午前9時点滴開始。 午後予定の時間を過ぎても声がかからない。看護士さんが申し訳ない顔して、「手術着は呼ばれ てから着替えてください」。いよいよ声がかかった。点滴(医師はお友達と一緒に来て下さいと 言っていたなあ 笑)と手を繋いで歩いた。4階エレベーターを出て、夫が握手して見送ってく れた。これからどういったところを通ってどういった雰囲気の中で始まるのだろうかと見てみた いという思いが強くなってきていた。  狭くて長い廊下を行く。医師団が居る。よろしくお願いしますとご挨拶をする。看護士から壁 際の椅子に友達を連れて腰掛けるようにと促された。先のオペが終わるまでの待ち時間であろう か? わからない? 視線を下に落としたら、医師の足の指が見えた。きれいな指だなあと妙に 感心した。と、「行きましょう」と医師が背中に優しく手をあてた。そこから私の手術がなされ る部屋まで歩いた。(一体手術室は何箇所あるのだろうか?)  緊張のせいで、わあ〜。ほう〜って声が出てしまう。見たさ知りたさは緊張していても抑えら れない。白い小さな寝台が見えた。「あそこの階段から上ってください」。不謹慎だが、とって も不謹慎だが思ってしまったのだ。罪びとが看守に呼ばれて、ハッとしていたであろう一瞬の時 を。  酸素マスクを着ける。頭上のライトに自分が見える。医師3人、麻酔師、婦長?、もうお一人 いらしたような? 目を閉じてからは一切記憶がない。  私は4階では泊まらずに8階に戻ってきた。短く浅い呼吸の苦しみを味わった。看護士さんの 度々の訪問がありがたかった。  術後夫が担当医師から聞いたことは、 「3時間半の手術の予定が2時間半で終わった。組織は脂肪が毛細血管で覆われた様子。採った サンプルの術中迅速病理診断の結果、良性で悪いものではない。正式な判断には1ヶ月ほどかかる」。  8月12日 お昼を楽しみに待てるほどに快復。 しかし、食事中の姿勢が悪くて、夫に整えてもらったりしながらして食べた。食後、背中から肩 から激痛が。一体どの場所が痛いのかを伝えられない。痛みで息ができない。酸素吸入、痛み止 めの点滴とそれはもう文字にはできない痛みだった。原因は、私が無理な体勢をとった事だった。 痛みが去り、バルーンが外され、点滴も外された。身体を拭いていただき、着替えた。零時回っ てからどれくらい寝たのだろうか?  8月13日午前3時、寝ていられない。 開放感から興奮していたのだと思う。廊下に出て歩いた。ホールの大窓から空を見たら、まある いお月様。スケッチしたくなり、部屋に戻りハガキとエンピツを持ってまたホールへ。     午前5時、同室の方がホールにいらした。ご自分から「肺がんです」と。緊急入院してから5 時にはここで陽が昇るのを見ていらっしゃるのだそうだ。「今日は雲がかかっているわねえ。そ れもいいわねえ」と。私たちは目はお日様を見ていた。私はスケッチした。  午前9時 胸のレントゲン撮。   夕方、色鉛筆を買う。夫が持って来てくれていた我が家のトマトを描く。  そして夜、他の部屋の方たちとも一緒に花火を見た。椅子に掛ける人がでてきた。すかさず看 護士さんが「座布団を持って来ますね〜」と持ってきてくださった。座るとベランダの手すりに 花火が隠されてしまう。患者さんに「あれは取手市の利根川大花火だよ」教えていただいた。    8月14日 レントゲンの結果、15日退院本決まり。 入浴(シャワー)。  お風呂場の鏡で手術の跡を見た。四つの穴。そのうちのどの穴にバルーンが付けられていたの かが分かった。 「新しくテレビカードを買ったら、ヒマワリは一輪でした。ヒマワリが並んでいるカードはもう なくなったのかしら?」とお部屋で話していたら、一緒に太陽を見た方が、『私ヒマワリ大好き! 。緊急入院したので、お見舞いのヒマワリのカードを持っていないの。自販機のは一輪なのよ』」。  聞いて良かった! 話して良かった! 差し上げたら、まこち嬉しいお顔をされた。       ↑自販機で購入したカード。      8月15日 午前5時台、陽が昇るのをその方と一緒に見た。                   朝食をいただいて、午前中に退院。   夫と9階のレストランでお茶をした。  私は小さな旅の途中で出遭ったさまざまなことを反芻した。  家族にもみんなにもありがとう。

  ほおずきの灯り  (2011年7月27日)

 我が家では今週一週間の予定で、リフォームの工事が始まっている。初日は天井の吹付け と洗面所の壁の取り外しと打ち付け。2日目はクロス剥がしと床にシート張り。三日目の今 日は、玄関周辺の整え中。午後からクロス張り予定。作業の音が捗っていることを感じさせ てくれる。冷たいお茶を差し出すと、スカッと一気に飲み干してくださる。お昼になると「 お昼を食べてきます。行ってきます!」と声をかけてくださる。さて、本日の食事はなんだ ろうか?と思う。我が家は畑のアンデスレッドを蒸し焼きにしたものと畑のトマトジュース。 なんだか食がすすまない。湿度68%。しかし湿度のせいだけではない。親しくさせていただ いていた方が昨夜お亡くなりになった。釣りがご趣味で釣果を我が家へも届けてくださった。 青空のように晴れ晴れとしたお声と笑顔でご自分のほうから声をかけてくださる温かいお人 柄の方だった。残念でならない。      玄関でピンポーンと音がする。「郵便局です」。頼んでいた本が到着するのも今日なので 印鑑を持って出ると、長い箱が二つ。箱の長さで「中武ファームのホオズキ」と分かった。  風が出てきて曇ってきたので、ほおずきを風にあてた。涼しげに揺れているのを眺めなが この灯りを届けようと思っている。  私の遠縁にあたる中武ファームのホオズキには形容しがたい優しい灯りがある。魅せられ て6年、友人達に届けているが、みなさんがそれぞれの感想を伝えてくださる。大きなハー トの形と鮮やかな赤に真っ先に驚き、それからは長く鑑賞(愛でる)できるように工夫しま すとおっしゃってくださる。体調や気温や天候によって受け取ったときの喜びは様々なよう だ。”ほおずき”の魅力は奥が深いなあと改めて気付かされた。今回も生産者の中武洋文さ んにみなさんからの感想をお伝えしよう。 (下のほおずきハウスのお写真は中武ファームのお便りからコピーしました)    

  暑中お見舞い申し上げます  (2011年7月18日)

  風鈴や雨の匂ひのしてをりぬ くろまめ     今朝は初めてセミの鳴くのを聞きました。ニュースは大型台風接近! なでしこジャパン優勝!    いよいよ熱中症にご用心くださいませ。  

 フォト五七五  (2011年7月13日)

  漏れ聞こゆ予報に坊主うなだれる   池松洋輔さん(福岡県)7月12日放送の殿堂入り 昨日のことでした。外出先から帰宅した私に夫(そらまめ)が「面白い番組を観たよ」と言 うのです。写真を見て作る俳句番組のことでした。夕方には畑に行く予定でしたので、あま り熱心には聞いていませんでした。  今日は車で外出。長距離ですから音楽を聴いたり話もします。フォト俳句のことを聞きま した。お題があり、それを読み込んで17音に詠むのだそうです。ゲストの人たちがあれこ れ鑑賞するのもなかなか面白いのだそうです。写真の画像からいろいろな言葉が生まれてき て、それぞれの17音の句になっていると言うのです。例えば、どんなのがあったの?って 訊きましたら、すぐに出てきたのが、『もれ聞こゆ予報に坊主うなだれる』でした。  お題の写真はどんな写真だったの?と訊きましたら、『てるてる坊主がうなだれているん だよ。そばにもう一ついたなあ』」となかなか詳細。くろまめ展示室の四コマ写真もなにか 17音にしてみようかってなりました。  帰宅して話に聞いた写真をイメージしながら「こんな感じかなあ?」とぺインティングの ソフトで遊んでいましたら「遠くて近いかな」と覗いて言うのです。このときの番組を見て いた方は、おそらく遠すぎて笑えないことでしょう。番組に投稿された方の17音のセンス の良さに感心しました。  面白いです。ひねりも楽しい。素直に喜ぶ。字余り字足らずそのときの気分で。なるべく 17音にしてあそびたくなりました。  NHK BS「カシャッと一句!フォト575」 ←こちらです。   

 草取り  (2011年7月9日)

 早朝といっても6時過ぎだが畑に行くとしっとりとした空気が気化していくのを感じること ができる。サトイモの葉に朝露がころんとしている。キャベツには水玉が粒をなして付いてい る。私は決まってこの辺りから草を取り始める。    4月はまだ草といえるほどのもは少なかった。5月はイネ科の草とワルナスビが目立ってき た。ワルナスビの白い花が可愛くて数輪持ち帰ったこともある。6月はスベリヒユが肉厚の葉 っぱをたくさん付けて地を這っていた。そして7月、スベリヒユは立ち上がってそこらじゅう に繁殖の勢いをみせている。鎌の先で根っこをグイッと抜く。あっけなく倒れる。ちょっと哀 れを感じてしまう。イネ科の草はしぶとい。倒れてもヒゲ根は地の中に残っている。抜き取っ た草を熊手でかき集めると、イネ科の草が根っこを地中に残して五体投地する。それらを手で 抜こうとすると抵抗するのだ。ヒゲ根の強さに感心してしまう。シュンギク、インゲンの脇の 草は見つけにくい。1時間半ほど草を取り続けていると草が目に入ってきて草退治夢中症にな ってくる。夢中から恍惚状態になって行くのだと思う。ここからはミズスマシの恰好で両手が 草を捉えるのである。抵抗していたイネ科のヒゲ根はヒュ〜っと抜けるのである。滑らかな連 続運動が脇腹の筋肉を動かしてくれる。私は地を泳いでいる。  夫が「オーイ、帰るぞー」と言うのだ。言わないで欲しいのに言うのだ。選挙カーの中から 手を振っている候補者や応援者が農道から田んぼで作業している人たちに手を振るようにして 言うのだ。ああ〜、もう帰るのか・・・。私は「もうちょっと〜 待って〜」と言うのだ。抵 抗なくスポッと抜ける草を抜いてから引き上げるのだ。畝の中の草は10分もあればスイスイ 抜ける。そして草を集めた場所に木々の下の腐葉土をたっぷり振りかける。おしまいとなる。  小中の頃、夏休みになると曾お爺さん(隠居じさん)が竹を削ってこしらえた草取りベラを 曾孫の私たちに持たせてくれた。背戸の石垣の間や庭の固い石と石の間や道の両脇の草を面白 がって抜いたものだった。お墓の周りは家族総出で抜くのが恒例だった。

 「あの日は心の中に」 (2011年6月29日)

 25日の銀鏡(しろみ)神楽の太鼓、鉦、笙の笛は翌日も私の鼓膜を震わせてくれた。朝食 にジャガイモを蒸かした。まず、そのままで食べてみる。3種とも(キタアカリ、アンデスレ ッド、インカのひとみ)味や舌触りに明確な違いが感じられて満足することができた。そんな 日曜日の朝、電話が鳴り、知らない宮崎市外局番号が点灯した。    最初は誰だかわからなかった。難聴なので姓名を正しく聞き取ることができなかったからだ が久しぶりに聞く友人の声だった。私もそうだが、昔交わした手紙やいただいたモノなどを見 ていて”会いたい”という衝動に駆られることがある。でもすぐに行動しなければそのときの 感情は薄まっていくことを知っている。電子メールで近況を語り合っている内に、彼女が新聞 に投稿をしていることがわかった。くろまめの仲間にも読んでもらいたくHP掲載の了解を得た。  どうぞクリックしてご覧下さい。

「銀鏡神楽(しろみかぐら)」観てきました! (2011年6月25日)

 地下鉄半蔵門駅下車、出口1番を出て数分。国立小劇場の正面で銀鏡の人を発見。ホールに 入ると西都市市長・橋田和美氏を発見。お名刺に『ふるさとの心』と赤く印字されていた。 「銀鏡神楽」は私のふるさとの心である。同級生知人にも出会えて故郷が一気に近づいた。  演目の写真は撮ることが出来ないので、クロッキー帳を持参。灯りが手元に届かない。暗が りの中では描けない。しかしこの日はもう来ない。これも残すことにした。  句友の高志さんとみちさんも楽しんでいただいたようだった。字幕解説は、お二人の古典好 きになんらかの影響を与えたに違いない。願わくば、銀鏡の所在地と物産も伝わって行くとい いなあと思っているところである。   さて、本日の銀鏡神楽公演の画像などこちらへ載せています。(撮 そらまめ) 追記:シャンソン歌手の浜砂伴海さんがブログにアップしています。

国立劇場 6月25日「銀鏡神楽(しろみかぐら)」上陸!    (2011年6月19日)

 「銀鏡」と書いて「しろみ」と読みます。「なぜ? そう読むの?」とよく聞かれます。  とってもとっても簡単に言いますと神話からです。 「オオヤマツミノカミがニニギノミコトに、娘(姉妹)を一緒に嫁がせようとした。ニニギノミ コトは姉イワナガヒメのルックスが気に入らず親元に帰してしまった。イワナガヒメは白銅鏡に 映る顔を見てショックのあまり鏡を遠くに放り投げた。鏡は龍房山(リュウブサヤマ)の木の枝 に引っ掛かった。白く輝いて見えたところから「白見」。それから後の後に「銀鏡」となったそ うな」。  「銀鏡(しろみ)」を覚えていただきたいなあと思います。宮崎県西都市銀鏡です。  「銀鏡神楽」・・・雅な舞です。荘厳な舞です。空気が揺れます。篠笛の音が細く長く響きます。   6月25日(土)国立劇場にて「銀鏡神楽」公演。  劇場では字幕にて解説をいたします。  パンフレットの写真は、「ししとぎり」です。古い狂言の名残を伝えています。 「ししとぎり」は、1977年、宮崎県内の神楽で初めて国の重要無形民族文化財に指定されました。  6月25日の神楽を舞う舞台(外神屋(そとこうや)もご期待下さい。 「外神屋(そとこうや)」を組み立てるため、「ヤマ」と呼ばれる垣や、その中央に建てる「シメ」 という柱の建材は地元からトラックで運んでくるそうです。ただし、神社主神の「西之宮大明神」、 「宿神三宝荒神」の面は門外不出のため、代用を使うそうです。       ↓↓↓クリック 銀鏡神楽の画像を閲覧できます。各画像をクリックしますと、銀鏡(しろみ)神楽とは? 答えが見つかるかも知れません。

6月25日「銀鏡神楽(しろみかぐら)」公演! in 国立劇場  (2011年6月17日)

 銀鏡(しろみ)は私の故郷です。時々Google画像検索で銀鏡神楽を見て懐かしんでいます。 高千穂神楽も有名ですが、「銀鏡神楽を観ずして神楽は語れない」とまで言わしめる伝説の お神楽です。ぜひ、お写真からでもその”空気感”を感じ取っていただけたら嬉しいです。

  「畑からやってきました くろまめです」 (2011年6月16日)

 5月の或る日、ひょんなことから私は中学2年生の俳句学習のお手伝いをすることになった。  「1回だけピンチヒッターをお願いしたい。心配いりません。僕がやりますから」というM氏 の言葉に「ウーン。1回だけなら行きます」と応え、そして行った。    「今日は〇〇さんが来ることができなくなったので代わって私の友人にお願いしました」。  「こんにちは。畑からやって来ました〜くろまめです」。ドッと笑いが起きた。カスリと刺し 子の入ったモンペによく似たパンツ、白の綿シャツ。生徒たちに受けたことが嬉しかった。  この日生徒達で初めての句会を行うということだったので、二班に分かれて、それぞれが2句 短冊に書いて出句、3句選(互選)、選評という段取りだったが実際は選句までしかできず6月 の今日、その続きをするために出掛けて行った。選んだ俳句のどこが良かったかを発表し合って いる時に、ふざけて話を聞かないでいる男子生徒数人がいた。  「私は難聴です。大きな声で発表してください。お願いします」と言ったら、おとなしくなり またふざけていた。そうこうしているうちに句会は終わった。選に入った人も入らなかった人も、 選句選評の面白さを感じてくれただろうか。  最後にグランドに出て、M氏が季語探しのヒントを話した。「今日でくろまめさんとはお別れ です」と生徒に告げた時、ひとりの男子生徒が前に出てきて「ありがとうございました」と顔を 赤らめて声を大きく出して挨拶してくれた。私は両手で握手した。目頭が熱くなってきて「世界 ウルルン滞在記」のお別れのようにウルウルしてきてならなかった。2回受け持った生徒の名前 は覚えられなかったが顔は忘れない。  

  紫陽花の季節 (2011年6月11日)

 桜、ツツジが終わって紫陽花の季節に変わった。自然のカレンダーの正確さに驚くばかりだ。  雨のち晴れの午後、れいこさんからすてきな絵葉書が届きました。    我が家の畑に移植した紫陽花はまだ小さい。青葉が幾分か増えてきているように感じる。  

 「温楽会」のち「句会」 (2011年6月5日)

 3月の地震で3月の「温楽会(おんがくかい)」は6月5日の今日開催となった。私は午後から句会があ るので、午前の内に出かけた。自宅から25分くらい車で走るとそこは森の中のお花屋さん。9時開場の ゲートに早!4列縦隊の列ができていた。お花屋の「果凛」さんは、空き地を手作り作家さんたちに発 表と交流の場として提供している。口伝えで物づくりに関心のある人たちが集まってきている。私は近 くに住んでいながらこの企画を知ったのは昨年の10月だった。たまたま知り合いが出展するということ で行ってみて、それぞれの作家さんたちのオリジナりティーに感心したものだった。  本日は39店。布、金属、木工、天然石、ガラス、ビーズ、リボン、レース、麻紐、皮、染物、織物 等がおしゃれな作品となって展示販売されていた。私は知り合いからアイリッシュレースのピアスを買 った。ピッタリ気持ちと合ったときの嬉しさは若い頃と全く同じだ。いろいろ買っちゃった。  夫はガラス(ランプワーク)作家の男性と話していたようだった。若い人たちも我々世代の人たちも 自分の趣味に合うお店で作家さんたちと交流していた。  花壇のそばのベンチでシナモンパンと珈琲をいただいてしばらく休んだ。ベンチもテーブルも柔らか い草の上に置かれていた。小さい子供達にとってはこの場所はそれほど魅力がないのだろう。騒いでの ちは泣いていた。  家に帰り着いたのが12時前。12時20分には家を出なくては句会に間に合わない! かなりハードであ ったが夫が送ってくれた。会場で句友に(男性)会った。私の様子に(服装から)嬉しいことがあった ことを察知されてしまった。句友は畑を楽しまれているのでしばらく畑のことなど話が弾んだ。  句会は互選が醍醐味だ。共感できる俳句に出合えると嬉しい。共感していただいたときも嬉しい。       頬に触るる風に五月を惜しみけり   かおる      茄子の花明日の予定は何もなく    二郎  耳にある黒人霊歌茄子咲けり     男行   紫蘇の香や日暮れて空の低くなる   しろみそら

 絵と音楽と (2011年6月2日)

    5月の終わりに届いたすてきなお便り。メッセージが優しく伝わってきてあたたまった。我が家の畑で 採れた紫タマネギを差し上げたら「はがき絵」のお便りを下さった。切手はハートの形をしていた。  ありがとうございます! れいこさん!  先週関東も入梅した。宮崎が入梅して翌日くらい?に関東も入梅したように思う。人間の皮膚感覚は面 白いものでもうそろそろだなあと感じていたがやはりそうだった。我が家の日常は時々畑、時々ドライブ・ 買い物、時々電車で外出とそれぞれの時間と一緒の時間がカレンダーの中で待機している。ここのところ 家では音楽を聴いたりしている。  4月にプラシド・ドミンゴが来日公演をした時は、我が家のみんなそのことにあまり関心を持っていな かった。ドミンゴがアンコールで「故郷」を日本語で歌ったというニュースをテレビで知ったときは「聴 きたい」という思いになった。久しぶりに再会したKさんから日本公演のときのDVDをいただいた。中に新 聞の切抜きが入っていた。     Kさんはテレビで「美の巨人」「小さな街」などほとんど欠かさずに見ていらっしゃる。我が家は時々見 落としている。このたび再会してこのようなことが話題に上がりDVDをいただいた。居ながらにして素晴ら しい絵画を見たり、世界の風景・街や歴史に触れながら音楽を聴ける喜びを感じている。  Kさんありがとうございます。

 三冊の本 (2011年4月12日)

 今朝の余震にはこれまでと違う強い揺れを感じた。小さな地球儀が落ちないように先に下ろした。パソ コンの周辺装置にも注意がいった。壁の額縁はもう傾くままにした。毎日余震が何十回も起きるが、今日 のには緊張が高まった。揺れが止み、北側東側の部屋の被害を見て回った。モノを積み重ねていない(モ ノが少ないから)ので、異常なし!! 鎮静剤としてお茶をいただいた。なにか落ち着かない今日のスタ ートになった。  午後の時間、さて、どれから読んでいこうか。この4月に3人からプレゼントしてもらったそれぞれの 本はどれもワクワクさせるタイトルだ。       『ブラックアフリカをさるく』那須省一著                     『句集 花を流るる刻』鈴木桜子著                       『私の俳句修行』アビゲール・フリードマン著  中野利子訳                 

 4月3日(日曜)のこと (2011年4月9日)

 友人とJR日暮里駅で落ち合ったのが午前11時過ぎ。予定通りであれば、今朝は9時過ぎに日比谷公園 で待ち合わせていたのだった。地震の影響でピンクリボンウォークラリーが中止になった。参加料は被災 地の方々への義援金になるとのこと。しかしこのまま会わなければまたいつになるかという互いの思いが 一致して、谷中歩きが実現した。  「夕焼けだんだん」には直行しなかった。お寺が多いところなので桜を見ることができる。入り口の立 て札を読むのも楽しい。互いの近況報告をし合いながら迷い道に入って行った。路地でお掃除をしている ご婦人に幸田露伴邸の跡地を訊ねると、小首を傾げて「さあ、私には分からないです」とすっきりとした 答えが返ってきた。次なるご婦人は「ああ、あそこには石碑だけが残っているだけですけどね」と前置き して「ここから抜けてお行きなさい。この先みぎひだりその先の奥のすぐそこですよ」と見送ってくださ ったが見つけることができなかった。そこへ自転車の男性が角からひょっこり現れた。「こちとら江戸っ 子でえ」って感じのお江戸顔。「ああ、ええ知ってます。ちょっと待ってくださいよ。うん。この辺りな んですがねえ。ええーっと。出てこないなあ。思い出せない。忘れちまったなあ」。    途中、鴎外記念館の案内板が見えた。坂を上がると、朝のお買い物の帰りらしく? 半透明のビニール 袋に入ったモノを手の上に乗せているご婦人とすれ違った。体ごと私たちに向きなおって道を教えてくだ さった。「鴎外館は工事中です。あの薄茶色のレンガの建物が図書館です」と。少し前を歩かれて立ち止 まり指を指して「お天気が良い日は図書館とその隣の建物の間にスカイツリーが見えるんですのよ」。  図書館の一角に鴎外の写真や家系図などがガラスケースに展示されているのを見ることができた。父鴎 外が子煩悩だったということを末の息子の類だったか? 長女の茉莉だったかが書いていたのを読んだ覚 えがある。私の記憶違いかも知れないが、その中のエピソードを友人に話したくなった。  「・・・不機嫌な類と散歩に出た鴎外と類は、小高いところで夕焼けを見た。鴎外はしゃがんでゆっく り見ることをすすめた。『どんなときでも美しいものを美しいと思うことが大事だよ・・・』と。「『そ のときの夕焼けの美しさは忘れられないものになっている・・・』」といったようなことだった。やはり 彼女もなにかでそれに似たことを読んだような気がすると言った。私たちは記憶があまりにも曖昧なので、 鴎外の立派な態度と、受信するこころを幼い頃に感じ取った鴎外のこどもたちのことを話題にした。  谷中墓地にも迷い込んだが五重塔を見そびれてしまった。谷中銀座通りでは外国の方に一人も出会わな かった。「ツーリストインフォメーションやねせん」には出合えた。ガイドの男性がお一人いらして寂し い風情だった。商店は入り口に張り紙をしていた。節電して営業していることが書かれてあるのだが、遠 目には休業しているようにも見えた。  上野に出て遅いお昼を。ここは以前友人と食事をしたお店だった。上野の桜がほんのり見える場所でゆ っくり過ごした。それから「みはし」のあんみつに並んで、いただいた。お店を出るともう5時を回って いた。15000歩強。上野の桜トンネルを抜けて別れた。帰宅8時過ぎ。  美しいものを美しいと感じたこの日のいくつかのシーンを辿って車中うたたねしていたようだ。  

 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」其の八十九 (2011年4月2日)

 実は今日、雑誌類を処分したく束ねていたら、その中にあった一冊。他に「サライ(夏野菜特集)」も 残した。   Wikipediaによると、『谷根千(やねせん)とは東京の下町として有名な文京区から台東区一帯の谷中・ 根津・ 千駄木周辺地区を指す総称である。もしくはその地域を扱った谷根千工房が発行している地域雑 誌を指す。 谷根千とは、谷中・根津・千駄木の頭文字をつなげたものである。  1984年10月15日創刊。その後全国各地で誕生した同種のリトル・マガジンのお手本となった。若者が集 まるところでも開発が進むわけでもない、ごく普通の3つの地域の歴史や文化などの話題や生活の直接の 情報を掲載して、地域おこし、地域を新しい価値観で見直すことを提唱したものである。同地域を中心に 主に売られていた。2009年8月10日に予定していた終刊号(93号)を刊行したが、収録できなかった記事が あったため、特別編集した「94号」(8月20日刊行)が最終号となった。』とある。  内容についてはよほど興味のある人でないと(笑)、と思ったが、一緒に頁を開いてみましょう。 おっ ほう〜 これはちょっとここに書き残しておきたい。    時には昔の話をー 『下宿東台館 そして、谷中五重塔が燃えた日』   関 達夫さん(谷中6丁目)    「昭和32年(1957)7月6日の明け方でした。火事というので谷中墓地にかけつけたら、燃えているのは 五重塔。まわりに人家もないし、燃え移る心配はないので慌てる人はなかった。家にカメラを取りに戻っ て撮ったのがこれです。塔には緑青があるでしょ。銅の燃える色が、とにかくきれいでした」。 (写真は著作権があるので割愛しますね)  関さんは昭和13年生まれ。五重塔が焼け落ちた時に19歳。言間通り(ことといどおり)に面した関写真 印刷のご主人である。  「谷中に住みはじめてうちの子で五代目。お祖父さんが東台館っていう下宿屋を始めましたが、戦争中 の強制疎開で建物を壊してやめました。しばらくは跡地を畑にしていたかな。僕はずっと長野に疎開して いたんです」。    下宿屋の見取り図が残っている。入り口は言間通りで、洋服屋と魚屋の間を入ると玄関。池のある中庭 を囲むように部屋が並ぶ木造の二階家。芸大の油絵科の学生が多かったという。  「お祖父さんから聞いた話で、大きな火事や流行り病で大勢が亡くなったとき、火葬が間に合わなくて 土地の空いたところに遺体を仮埋葬したそうですよ。そんな土地はたいてい教育施設用地になった。土地 が売られてマンションが建ったとき、基礎工事で人骨が出たって、騒ぐけど、あたりまえのことですね。 いま谷中では、五重塔を宗教的な意味を無くして再建する話が出てるでしょ。私はどうも。やはり五重塔 は死者を供養するもので、名所として建てるのはうまくないと思います」 (以上、本号24頁より転載)  4月1日(金)上野動物園再開。同日付け朝日天声人語に「途切れた日常が、遠慮がちに戻りはじめた。 月が替わり年度が改まるこの機に、せめて気持ちだけでも切り替えたい」。終わりの行に「被災者と心を 一つにし、日本を必ず取り戻す」と。筆者の思いがそのまま私に握りこぶしになって伝わってきた。  明日、私は友人と谷中を散歩します。日暮里駅で待ち合わせて、夕焼けだんだんから下りて行きます。

 指編み (2011年3月25日)

 ふと思った。避難所で、指編みをしたらどうだろうか? 編み棒やかぎ針は危険だけれど、指編みは4歳くらいからできる。男女みんなができる。 ネックウォーマ、アームウォーマ、レッグウォーマ、肩掛け、帽子、耳あてなどの小物 を編んだら。    想像してみた。子供達、お年寄りの方たちの笑顔。編むことができない方々に編んで差 し上げている様子。ボランティアの方々に編んで差し上げている様子。編む人は自分も身 に着けている。首周り手首周り足首周り、膝、肩が温まっている。肩が凝ってきたら皆で 体操をする。そしてまた一心に編んでゆく。 長いのは踏まれたり踏んだり、転倒したりするので注意しよう。そして一心に、ただ一心 に編んでいる。指と脳が仲良く遊んでいる。疲れたこころが忘れられる瞬間。みんなで一 心に編んでいる。そのような時間の中で時間が少し過ぎてゆく。たとえば並太の毛糸があ ったら。  今後のこと、生活支援について、政府が異例の救済措置をすすめているということだが、 政府からの具体的に希望の光がみえるニュースが聞きたい。  ここ我孫子の社会福祉協議会は、第一募集受付(25日〆)、福島県相馬市への救援物 資を募集している。【ご自宅にあるもの】でご協力を!と呼びかけている。 第一募集品目:缶詰め(おかずになるもの)・レトルト食品・カップ麺・水・タオルケッ ト(新品のみ)・布団セット(新品のみ) *賞味期限が2011年10月以降の物(半年以上保存可能なもの) *品目は随時変更されます。 *直接、受付場所までご持参ください。なお、できる限り宅急便等での送付はご遠慮くだ さい。    以下は、今朝の朝日より。 朝日新聞社と朝日新聞厚生文化事業団が12日から呼びかけている「東日本大震災救援募金」 の受付額が24日、10億円超えた。全国各地や海外から事業団に届いた善意の寄付はすで に3万3000件に上っている。このうち朝日本社は1億円を寄付した。 事業団は24日、日本赤十字社に2億円、被害の大きい宮城、岩手、福島、茨城の各県社会 福祉協議会にそれぞれ一億円ずつ計6億円を第一次分寄託することを決めた(以上、転載)。  友人からのメールにこうあった。「毎日のニュースに言葉が出ません。一緒に泣いてると、 息子が『泣いても何にもならんし、募金だろ』と言います。そんな事は分かっています。娘 も私もそうしました」。  

 暖かな色と光と烏の巣 (2011年3月19日)

 一週間の時間の重さを感じる昨日だった。    昨夜は満月だったのですね。友人のすみれちゃんが「停電になっても月が応援します。く っきり美しい月です」とメールしてきてくれたのを読んだのは今朝だった。満月を見れなく て残念に思った。    昨日はいくぶんか風が和らいだのでシロップ漬けにしていた日向夏の皮を半分ほど煮詰め て、干した。そして午後から病院へ。病院は節電を徹底していた。検査技師とも担当医とも 「地震は大丈夫でしたか」「そちらは?」「先生は?」とお互いの状況を伝え合い、これま で以上に近しい気持ちになれた。患者さん同士が話していることもそうだった。日本中が優 しくなっている。  さて、今日から三日連休。テレビで見ていた通り、ガソリンスタンドの列は長かった。私 達は半日の外出をした。春の光を仰ぎ見ていたら、電柱にカラスの巣を見つけた。2羽のカ ラスが枯れ枝を運んできては、枝を体で押し下げたり、くちばしで枝の向きを変えたり、せ わしない動きで巣作りをしていた。帰宅して調べてみたらハシボソガラスのオスとメスだっ た。私も夫もカラスの巣作りを見たのは初めてのことだった。達子さんは89歳の誕生日に 初めてみることが出来てそれは喜んだ。  連日の強風にシロバナタンポポの綿毛が飛んで行ったが、隣で新しく咲いている。

 野菜サポーター (2011年3月17日)

 今朝のNHKテレビをみていて、被災地NGO恊働センターのことを知った。  画面では宮崎の新燃岳噴火で被災された農家のお野菜などを買い付けている様子を映し出 していた。痛みを経験した土地からの支援だった。    今、多くの人たちが、今、すぐにできることから、燃料全般の節約、買出しの自粛などを 実行している。共感という繋がりがまっすぐに東北にのびている。    被災地NGO恊働センター 追記:「2011年3月21日付・朝日朝刊掲載」貼付          

 道路と情報(2011年3月16日)

 避難所でレポートしているマスコミの方たちが一様に言っていることは「情報不足」。 彼らが使っている交信の装置は? 自家発電しているのだろうか?  私の素人考えだが、各避難所に向けて、現況を常に放送することはできないのだろうか? 例えば、自治体の広報車とか選挙カーのようにスピーカーで声を届けることができるのでは? 自動車のバッテリーや小型発電機でもって、できるのでは? 道路の交通事情が悪くなっていくことは、ガソリン供給が十分に出来ないからとは言っても、 不必要に供給する人たちが多いからで、かといって、そういう人たちを識別することはでき ない。しかし、良識があれば、買い出しも灯油もガソリンも電気もガスも最低限にとどめよ うという思いになるはずだと思うのだが・・・。    (追記:2日後にどうしても外出しなければならないことが出来たので、近くのガソリン スタンドに給油が出来るかどうか電話で聞きました。最初の所は「整理券を出しています」。 次の所は「今の状態だと列の途中で完売になります」。最後に聞いた所は午前8時〜午後 8時まで営業しているところです。返事は「今、200台ほど並んでいます」。午後17時 半過ぎに問い合わせましたら、そのような状況でした。)  11日、義母の達子さん(88歳)は午前8時過ぎから家に一人居て、その夜も一人になっ てしまった。交通が麻痺して、夫も私も帰れなくなった。達子さんの無事は災害用伝言掲示 板で知ることができたが、達子さんは私達の無事を知るまで長い長い時間がかかっていた。 達子さんは何度電話をかけても不通なので、電話番号の見間違いなのではとおもったのだそ うだ。そのうちテレビで”電話回線が混雑していて繋がらない”ことが理解できたのだそう だ。地震発生直後に私の妹や義姉が電話を入れてくれていて声の励ましをもらっていたこと がそれから後の一人の不安を頑張れたと言っていた。編み物を編み続けて気を落ち着かせた そうだ。余震は何度も襲ってきてそのたびにトイレに入ってジッとしていたのだそうだ。  夫、孫、私と連絡が取れたとき、声が大きな励みになったそうだ。達子さんは「私は大丈 夫よ〜 また声を聞かせてね〜」と言った。達子さんは本当によく頑張ってくれた。電気が 切れなかったことがどんなに助かったか。  私の住んでいる地区を広報車が巡回している。炊き出しや給水の場所を知らせている。半 壊した家屋や傾いでいる家屋が見受けられる。マンションでは湯沸しタンクがずれて階下に 水漏れが出ている。(その後、同地区は被災地に認定された。道路が液状化している)  今思うことは東北の避難所を暖めてほしい。温かい食事をとれるようにしてほしい。暖か い衣類を届けてほしい。灯油を満たしてほしい。自衛隊の炊事班の人たちが行ってくださっ たらどんなにいいでしょう。調理された食事をみなさんが等しくいただけるようにしてほし い。  避難されている方たちが自主的に工夫しながら助け合いながら乗り切ろうとされている。 行政は手続き一辺倒の融通のきかない機関であることは確かだが、このような非常事態にお いては、一刻も早くライフラインを確保してほしい。

 計画停電 (2011年3月15日)

 「輪番停電」という言葉は、すぐに「計画停電」に変わって定着した。そして計画停電は、 無計画停電になりかねない失態も起きた。千葉の避難所が停電になった。マニュアル通り( グループ分け)に実施されてしまった結果だったとのこと。あまりにも哀しい。  一方、私の住む地区は、昨日も今日も実施されなかった。被災地のみなさんのことを思え ば、停電も節水も節ガスもお店から食料品が消えていくことも気にならないことだった。通 電している間に食事を済ませたりしていたので、実施されなかったことが申し訳ないような 気持ちになった。  手間をかけた食事を作る気にはならない。冷蔵庫にも冷凍庫にも食材はあるが、お味噌汁 と常備菜と他ちょっとあれば、それはとても美味しい。暖かいところで食べていることが申 し訳ない。ありがたい。洗物も少なく片付ける時間がとても短い。  節約のことは当然のことだ。我孫子市の公共施設「我孫子市民プラザ」と「アビスタ」が 3月末まで閉鎖されることになった。  今日も通勤電車が運転見合わせになり、夫は会社を休んだ。ガソリンを節約して普段は行 かない近くのスーパーに日用品と野菜と根菜を買いに行った。大きなレジ袋を持った人たち が続々出て来た。レジは長い列を作っていた。スカスカの棚が余計に緊迫感を誘っていた。  ガソリンスタンドがこの先にある道路は渋滞していた。渋滞に我慢できなくなった車が脇 道にハンドルを切ると、後続の車も次々と脇道に逸れて行った。給油のための渋滞が、プロ の運送車の迷惑にどれほどなっていることか。  避難していている子供達に感動した。窓からの明かりをとって(机を窓に向けて)勉強し ていた。食住の環境に「大変なときなので我慢しないといけないと思います」と答えていた。  

 東日本巨大地震の波紋 (2011年3月14日)

 3月11日、地震!津波!恐ろしい事態が発生した。映像に目を覆った。言葉を失った。そ して、交通網、通信網が大混乱した。私は災害用伝言掲示板で家族の無事を知った。 親戚が伝言を残してくれていたおかげで安心を得たもののその後の様子をお互いが知るまで 7時間ほどかかった。ケイタイメールはリアルタイムに送受信することができなかった。  物流の脆弱さが露呈した。工場の機械が止まり、生産が止まると、とたんに店の棚からモ ノが消える。お肉も生鮮野菜も棚から消え、鮮魚売り場では見慣れない冷凍の魚や干物が並 び、数の子がリバイバルしている。地場の農産物の売り場が閉鎖している。スパーマーケッ ト、コンビニの食品の棚からモノが消えている。宅急便は通常の配達時間では届かないと言 う。  一般人の撮影した映像を見ることができるのはエレクトロニクスの進化がカメラを小型に し、安価にすることができた結果だ。停電になると、電話は電子化されていて使えなくなる。 ガソリン、灯油は「完売」の看板を出している。機械のひび割れとかの危険を回避するため であろう。ガスを使う売り場では「点検のため閉めています」と看板が立っている。  原発事故によって、本日、東京電力は「計画停電」実施を発表したが、今朝から二転三転 している。私の住む町は第2グループに入っている。実施するとしたら、18時20分から 22時の間の3時間ほど停止される可能性があると修正発表された。しかし、大事なことは、 節電をすること。ガスを節約することだ。家から出ないことだ。 東北電力の停電で被災者の方々がどれほど辛い思いをされていることか。せめて電気の明か りの下で、暖を取り、温かい食事を摂ることができますよう。そして体を休ませることがで きますよう願わずにはいられない。幼子を連れた方たちは子供達の声や泣き声にどれほど神 経質になっておられることか。個々に休めるスペースがあったらばと思っている。  映像を見て、水の力の強さ、人間の絆の深さを感じた。人間が謙虚になっていくようだ。

 太陽がいっぱい・シミいっぱい・笑いがいっぱい (2011年3月5日)

 BS「映画音楽に乾杯!」<最終>(総集編)を途中から見ている。達子さんは編み物 のゲージが整っていよいよ編み始めた。ケイタイで写真を撮る。パソコンに取り込んで達 子さんに見せた。「まぁ〜シミがひどいわねえ」と言った。とそこへ映画音楽がかぶって きた。「太陽がいっぱい」なのだった。笑わずにはいられない。「アランドロンね」と達 子さんはテレビの方を向いている。テレビとパソコンの間を中継しながらここにアップし ようと思ったが、私もテレビの方を向いてしまう。映画音楽があまりにもすてきで聞かず にはおられない。歌唱力のある歌手達が歌っている。夫が台所でトントントントンし始め た。メカブをマナイタの上で叩いている。ウン?音楽に合わせて叩いている。いい調子だ。  淀川長治の映画評論は良かった。テレビで「さいなら さいなら さいなら」とバイバ イをしていた氏の評論は、平明な言葉であってその内容は洞察が深く文化を語っていたよ うに思う。今はインターネットでストーリーから、かかわるスタッフの紹介からと下調べ が整うのでそれはそれで便利で良いと思う。  さて、達子さんは編み物図から覚えとして注意点を書き出していました。 写真のセーターは7,8年前に達子さんが自分で編んだものです。私もピンク系が好き になってきました。 追記:2011年6月22日 出来上がりました。下の写真を「達子さんのちぎり絵」に載せています。

  目録20世紀と映画のパンフレットと (2011年3月3日)

 片付け物をすると完全に捨てない限りは、片方はすっきりとなって片方にはモノが移動 してきただけの場合がある。「目録20世紀」のバインダーが一冊。飛び飛び読んだこと は確かだ。平成9年に講談社より毎週火曜発売。年代順に売られていないので予告内容を 見てから買っていたようだ。バインダー1冊に10冊保管できるようになっている。  1901年から2000年までの100冊は最初からそろえようとは思っていなかった が、手元にある分を写真を撮って残しておきたくなった。 「目録20世紀」アップしました。  目録と一緒に移動してきたものに映画のパンフレットもあった。これも写真で残してお きたくなった。女友達と銀座で待ち合わせて見た日のことや仕事をさぼって見た日のこと や偶然に舞台挨拶が見れた日のことや招待券を貰ったものの階段に並んで並んでクタクタ になってようやく見れた日のことなどがパンフレットを見れば思い出せる。映画観賞はひ とそれぞれだが徐々に感想等アップして行こうと思っている。  今は夫婦割引で@1000yen。好みも合うようになってきた。  「シネマ」アップしました。  20世紀もシネマも徐々に載せて行きます。楽しんでいただけたら嬉しいです。  

  昭和59年 新素材 (2011年3月1日)

  ↑実寸大 (見えます?)  寒さがぶり返してきた。昨日も今日も雨。風邪がなかなか治らない。マスクをつけると メガネが曇る。中近両用のメガネを外すと目元がヒンヤリしてきて目の周りの薄い皮膚が ピリリリとした。すれ違う人たちの顔が平面。(あ! 宮崎駿の顔ナシダァ)。  市の施設を利用するための申請日なのだ。受付に到着すると、7、8の団体の名前が書 き込まれていた。ここは2ヶ月先の会場予約を抽選で獲得する仕組みになっている。但し、 ダブルブッキングがなければ幸運を得られる。今日の私は幸運だった。インターネットで 施設利用申請のできる所は倍率がとても高い。受付で申し込むこの場所も、団体の数が増 えてきてそのため抽選やむなしという状況になってきている。  帰宅してみると達子さんが編み物の本を拡大鏡で覗いていた。「見えないのよ」。  私も見てみたが、これは疲れるはずだ。新しい本をすすめたが、このデザインで編みた いのだそうだ。サーモンピンクの中細の糸が巻かれていて準備OKなのだ。実際は並太がい いらしい。だが、わざわざ買うまではないのだそうだ。本も糸も、今あるのを使いたいの だそうだ。編み物の本は30冊以上もある。毛糸は、私の裂織に使いたいほどある。それ でも解いて編むことが楽しいのだそうだ。気持ちはよくわかるが・・・。  筆算の力強い筆圧をみて、達子さんは本を食べているのかも知れないと思った。  写真の本は、昭和59年発行。小さな字。ターゲットは30歳台の専業主婦だったのだ ろう。有名メーカーの素材で編んだデザインと風合いと色彩で競っている。なるほど肩パ ットが薄い。中には厚み(高さ)のある肩パッとも使われているから、この頃から働く女 性を意識してオフの日のスタイルを割り込ませているようにも感じられた。  糸は解けば、また違うものに変わる。編み物の魅力はここにあるようだ。  2011/03/02追記: ここを読んでくださったアリさんが「編み方の図を拡大して差し上げてくださ〜い」とお っしゃってくださいました。達子さんにそのことを伝えましたら、「ありがたいわねえ。 でもわかりかけてきたからだいじょうぶよ」ということでした。時間をかけて答えがみえ てくるときが快感のようです。編み始めましたらくろまめ展示室で発表したいと思ってい ます。感謝申し上げます。

  続・銀鏡(しろみ)神楽 (2011年2月26日)

 榎本朗喬著『カリコボーズ』を読んだという友人から先日FAXが届いた。『婦人画報・ 2010年10月号』掲載記事だった。彼女が関心を持って読んでくれていたことが嬉しかっ た。記事について全く知らなかった私にFAXでもって教えてくれたことに感激した。   ↓クリック 婦人画報の掲載記事「銀鏡神楽」にアップしました。  開いたら、ココをクリック            次に、ココをクリック        上下左右ドラッグしてお読み下さい。        ↓クリック            銀鏡大祭の演目(式1番から33番まで)と神楽舞の画像あわせてご覧下さい。

  探梅 (2011年2月23日)

 「三人で梅見に行こう! 水金以外なら何時がいい?」実に明快。候補日を返事したら、 21日の月曜日と決まった。三人で会うのは今年になって初めてだ。昨年の珍遠出を思い 出し本日のドライブはどんな珍が体験できるかワクワクしてきた。  「先週見に行ったときは未だだったよ。今どうかなあ?」「とにかく行ってみよう」車 は走り出し・・・「右?左? どっちがいい?」先週行ってきたという彼女は口ナビゲー タに早代わりして答える。運転の彼女は頭ナビで最新ナビの画面と照らし合わせて質問し ている。口ナビは承知で口を出す。目的地も聞かずに助手席にいる私のことも二人は楽し んでいる。難聴の耳で、聞こえたり聞こえなかったりする会話を繋ぎながら私はよく笑っ た。  ドライブが楽しいのにはこのように頓珍漢な話や道を迷うことを楽しがること。家の庭 先の花や実や梅のほころび具合を評し合いながら、竹林、雑木林の辺りに来ると、寡黙に なり、ゆっくりと通り抜けて行くのだ。共通して楽しめるのは、あるときは緻密に効率よ く計画し、あるときは、直感で行動し、あるときは不便を選んで時間自由に遊ぶこと。  目的地が分かってきた。人家の庭の梅の木は幾種類もあった。口ナビも頭ナビも物静か なご婦人に戻っていた。門が大きく開いていたので声を掛けて入った。背の高い老樹に自 治体の保存指定の看板がかけられていた。地面の苔が自然で美しい。遅く咲くのは、お日 様が届かないからであろう。枝を高く高く伸ばして、お日様に当たりやすいように剪定さ れていた。苔を痛めないよう注意して奥に進むと、そこは日差しが地にやわらかく届いて いた。咲いていた。無言で観賞。外に出てフェンスにもたれて観賞。(撮影 くろまめ)。   二人は写真がとても上手い。しかし蕾を見ている横顔を無視することができなかった。        ここを出てからはあらゆるものが躍動し始めた。行列のできるパン屋さんで並ぶ。黒オリ ーブバターと松の実とバジルのバターを買った(コレは手作りデキルかな^^)。次も食な のだ。和風バイキング。ファッション売り場では流行はレースと見た。最終は食品売り場。 共通して調味料売り場を面白がった。棚の前でそれぞれのレシピを紹介しあったり。私は 「大分産のフンドーキン九州そだち麦」を一押し。  帰路もナビ同士の会話を聞いたり聞かなかったりして外の景色を眺めていた。 次は桜だね。 そうそ。湖北のコッコパンもおいしいよ。 パンは生鮮食品だから、コッコパンは朝6時〜午後2時(日・月定休)。 こだわりが味に反映している。確かな味わいだ。 パンで花見もいいなあ。チーズとワインとアスパラと燻製と。

  出会い (2011年2月22日)

 2月18日お昼過ぎ。雨は上がっていたが風が冷たかった。病院行きのバス待ち、あと数分。 マンションのハワイアンキルト&フラのお店「ロコモコ」(フラ衣装、小物、キルトのお教室) に入った。 「いらっしゃいませ」 「ちょっと見せていただいてよろしいですか」 「ええ。どうぞ。ごゆっくり」。 声もお顔も優しいオーナーがニコッとされた。 「ありがとうございます。小物も置いていらっしゃるんですね〜」 「あ〜バスが、病院行きが来ました!。また帰りに寄ります。ありがとうございました〜」 ドアを開けて丁寧に見送ってくださった。  病院の帰りは風止んで青空。歩くべし! もう20分ほどでお店に着く。      にこやかに迎えてくださった。しばらくするとキルトの生徒さんたちが出て行った。ひとり 女性が椅子に腰掛けていた。オーナーと親しい間柄らしい。私は壁面のダンス衣装を見ていた。 我孫子はフラダンスの人口が増えているらしい。私も一時期加入しようかどうか迷っていたこ とがあった。手が上に横に揺ら揺らし始めた。他にお客様がいらっしゃらないんですもの。 ちょっと調子に乗ってフラフラ揺れていた。聞けばオーナーは奄美? 鹿児島?出身。フラ歴 は長いと感じた。椅子の○○さんは「この前 都城で火山灰を落としてきました」「みきちゃ んちにも行って、お母さんに会ってきて・・・。」(??よくわかんない)。「今井美樹のお 母さんに会ってきたのよ」○○さんは生活情報誌の編集長をされているのだそうだ。お店に置 いてある「北総ライフスポット」を見せてもらった。なるほど。取材が多方面にわたっていて 面白い。  ○○さんは、私と同年齢で誕生日がひと月しか違わなかった。ついに握手。先に握手してい ながら「離して〜」と私。「はい」と彼女。可笑しい。愉快。愉快。 閉店の時間が迫っていた。ご迷惑もだし、家のことも気になり出した。  次会える日が楽しみだ。  18日は私の勘違いで病院へ行ったのだった。予約をとっているので、順番待ちの方を次々 先に譲った。ようやく私に来て「血液検査は3月18日になっていますね。エコー検査結果も そのときに一緒に聞かれるのですね。」同情顔の受付嬢だった。私は朝食を抜いて来ているの で、もうかなりクラクラ。合わせてグラッ。 屋上のレストランでは、もう食べたいものは売り切れていた。普段は絶対に食べない塩ラーメ ンを食べるしかなかった。グレープフルーツゼリーとサラダを追加した。遠くに筑波が見えた。    間違えたことを義母に話したら、笑って慰めてくれた。夫が「病院はどうだった?」と聞い てきた。「すごい出会いがあったのよ〜。もうビックリよ」と答えた。   

  カリコボーズと銀鏡(しろみ) (2011年2月15日)

 昨日の雪に朝日が当たりまばゆい今朝の8時。スコップを持った男性のなんと逞しく見える ことよとベランダから眺めてそう思った。駐車場から次々とご出勤のエンジンがかかり排気ガ スが風に流れていた。ベランダのシバザクラが白とピンクの花を咲かせ、ジンチョウゲの香り はいつもより強く感じられた。  今日は私のエコー検査の日。送迎バスの止まるバス停まで徒歩2分弱。近いことがこれほど ありがたく思えるのは歳のせいもあるかも知れない。暮らしやすいこの場所に住んでもう30年 になろうとしている。  榎本朗喬先生が書かれた『カリコボーズ』は、かつての赴任地、宮崎県西都市銀鏡を45年ぶ りに訪問され、当時のことを想い出されている。訪問のきっかけになったのは市のボランティ ア”匠の会”の集まりで、かつて銀鏡で親しくされていた浜砂たけげささんに出会われたこと からだった。銀鏡(しろみ)に対する懐かしさと、当時からの「カリコボーズ」にまつわるこ とを詳しく知りたいという思いがひとつになって銀鏡に向かわれたことと思った。    プロローグ・・・ 先生が西都市から銀鏡へ向かわれる途中のトンネルの分岐付近の懐かし い描写。更に9キロ先の銀鏡へと向かわれて行く途中の描写。「おお、銀鏡じゃ!」と感動の あまり声を出された・・・。ここまで読んできて私は涙を禁じ得なかった。  45年前は、ほとんどの家が藁葺きだった。私の実家もそうであった。共同普請がなされて いた頃の村は貧しくても活気があり、子供達は夕暮れになっても家に戻らず、「そろそろ帰え ってくっが。せわ(心配)ねえ」と言う親たちが多かったように思う。私が誇りに思えること は、山で生まれ育ったこと。保育園も幼稚園もない村には信号もなかった。道は子供の大通り だった。お年寄りたちと一緒に育ったこと。村のみんなが大らかだったことである。    榎本朗喬著『カリコボーズ』を読んでからは、私の中に在る銀鏡イズムがなにやらムニャム ニャしてならない。    ”カリコボーズ”は、銀鏡に住んでいた人々(ご先祖さまたち)の自然への畏敬の念の現れ かも知れないなあと思った。しろみの言葉で、大事に語り伝えてゆきたいと思う。キーワード を”カリコボーズと銀鏡(しろみ)”にして。  榎本先生 ありがとうございます。

  榎本 朗喬 著『カリコボーズ』(2011年2月11日)

 先日のこと、恩師より届いた『カリコボーズ』に感動でいっぱいになった。私はこれまで故郷の 銀鏡(しろみ)のことなど折りにふれ書いてきたが、それは家族と暮らした地区の中のことが大半 だった。村の記念行事や夜神楽のこと、運動会のことなど村全体をあげた集まりのことなど記憶に 触れるたびに書いてきた。  恩師の『カリコボーズ』は、昭和38年度から40年度の3年間の回想から平成20年晩秋の銀 鏡が書かれてある。45年前の先生と生徒。先生と村の大人達との優しい交流。自然の真っ只中で、 明るくのびのびと子供達が育っている背景(風土)が映像となって私の目の前をスライドして行っ た。知らなかったことがいくつかあった。川下の方では橋を渡って(教職員、PTA、生徒が竹で組ん だ橋)通学していたこと。釣り船があったこと。その頃はそういうふうなことがあったんだと驚い ている。私は何度も再生して見ている。遠い故郷が今となって戻ってきたように思える。  ぜひご一読下さい。 『カリコボーズ』(←クリック) 注:『カリコボーズ』は、宮崎県教職員互助会発行 文芸誌「しゃりんばい」第33号に収められています。
 

  NHK BSHi 特集「北海道 豆と開拓者たちの物語」(2011年2月2日)

必見!!(再放送)2011年2月6日(日) 16時30分〜 (NHK BShi) 89分  私は、1月30日(日)放送の全部を見ていないので、再放送で通してみてみたいと思っている。 二組の豆農家が登場していた。それぞれの農法で天気を読んで豆を植えていた。太くて潔い 精神を見た。 豆は多様で600種もあるそうだ。農業試験場の研究員の話も大変面白かった。 86歳の夫は豆を365日食べても飽きないと言う。90歳の妻はカラカラ笑って頷いていた。 番組の終わりのほうで2人の女性が自家用の豆の種を紹介し合って(交換し合う)いるところを 映し出していた。 90歳と70代(?)の女性の言葉がたまらなくいい。豆にぞっこんなのである。ぞっこん愛で ている。 「真珠豆」とも言っていた。小粒で真っ白。70代のかたの豆には黒い模様が入っていてこちら も美しい。在来種が残っていくのである。 私は故郷の祖母、曾祖母のことを思い出した。干しておいた豆を南に面した庭にムシロを敷いて ヨッコラショと座る。棒(名前が思い出せない)で叩く。トウミ(唐箕)にかけて振るい落とす。 豆を大きなザルに入れて、揺らしてゴミを飛ばす。時おり目をしばしばさせて、目を細〜くさせ て向かいの山を見たりする。パッパッツとゴミを振るい落とす。作業が終わると姉さん被りの手 ぬぐいを外して、パッと振るってまた被った。前掛けのゴミは手で払い落とした。ヨッコラショ と立ち上がり、ムシロをくるくる束ねて片付ける。立ち上がってからも動作はゆっくりだった。 私は終わる頃まで傍らでポワンとしていたのだろう。こんがりくろまめになったのはこのときか らの日光浴のたたりだろうか。豆が好きなのは、豆で育ったからだろうか。飽きないのである。

  亡き齋藤嘉久先生と真栄寺  (2011年1月26日)

   1月20日、千葉県我孫子市・真栄寺にて。  俳人 齋藤嘉久(ご本名 芳之助)先生のお通夜に参列した。    タクシーでお寺に向かう間中、先生のお顔が浮かんで消えなかった。十三夜の観月会、 鎌倉吟行、岩崎巴人の歓迎会、忘年会、新年会、例会、どの顔もどの顔も笑顔。8年前 に車椅子になられてからも飄々とされていた。みなさんに優しい笑顔を残されて逝って しまわれた。頑固で素直で面白いチャーミングな先生だった。  読経のあと、導師(ご住職)が「芳之助さぁん」と呼びかけられた。ご住職が我孫子に お寺を開かれたとき先生は総代をされ「子供達がいっぱい鐘を撞きにくるようなお寺に したいですねえ」とおっしゃっていたそうだ。先生とご住職の長年にわたるご友情を知 ることができた。「出合いについて」感動のご法話だった。  お通夜のあと、私はご住職の傍に行き「宮崎出身です」とご挨拶をした。「生前、嘉 久先生から『ご住職は宮崎のご出身だよ』と聞いていました」「宮崎はどこね」「銀鏡 です」「そうね。我孫子広しと言えど、しろみと読める人はこん住職だけじゃろう」と。 ご著書『ちょっといい出会い』をいただいた。 「明日も来(く)っちゃろ」「はい」    先生は真栄寺で安らかに眠りにつかれる。享年87歳。 合掌    ↓真栄寺住職 馬場昭道(しょうどう)様のお話です。 http://tut.konjiki.jp/beyond2/osho/interview.htm/ 注:HPの中で、お名前に誤り(入力ミス)と思われる部分があります。 岩城(誤) → 岩切(正)

  優しいスイートピー (2011年1月20日)

午前10時過ぎ。日差しがあたたかいです。 新聞も読みました。テレビ体操もしました。牛乳も飲みました。 植物も達子さんも日向ぼっこの始まり。 達子さんはVネックのベストを編んでいる。「キニクワナイ」と。 縄網で編んでいる。襟元で苦戦している。「キニクワナイ」と。 V字の襟にしたいのだ。すごい。 4本針なのでちょっと油断をすると・・・     あ〜はずれちゃった。がんばれ!      スイートピーをちょっと置いてみましょうか。         大寒の今日、優しい色にひとやすみ。  追記:1月25日達子さんはついに完成させました。♪     記念の写真を撮りました。     http://www.f4.dion.ne.jp/~yezi/tattyan-2.html/ 

  100本のスイートピー (2011年1月18日)

17日の朝、携帯の着信音が鳴った。ピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨピヨ<<<<<<< 「鳴いていますよー」と達子さん。 「ハァーイハイハイ」と私。 ヒヨコちゃんの鳴き声を気に入っているので最高に長く設定している。 前日に東京で会ったアリさんからだ! 「今日あたりにスイートピーが届くと思いますので、一足早い春を楽しんでくださいね〜」。 なんて粋なことでしょう! と同時に「ピンポーン」。 印鑑を持って一気にドアを開けた。
美しい!! お部屋が暖かいのでキッチンに移動してじっくり眺めた。 18日発表の芥川賞受賞者の女性が言っていたが、人は感激すると無言になるようだ。 とにかく嬉しい。もったいない気持ちになって写真に撮らなくてはとなって古いカメラ (普段そらまめが使っているカメラは私には扱いがわからない)で撮った。 たくさん撮ればどれか一枚は実際のスイートピーを映し出せるだろうと思って撮った。 お花は素晴らしいグラデーションになっている。 そのまま花瓶に活けられるようになっている。 崩さないようにして水揚げにとりかかった。 写メールでお礼を伝えなくちゃ〜〜!
お花の香りが広がってきて私達は、水揚げをしているところから動かなかった。 こんなにたくさんのスイートピーを前にして、どんなふうに活けようか互いの頭の中を 発表しないで見ていた。 二つの花瓶を用意して、こちらの担当は達子さん。 こちらの担当は私というふうに自然と花瓶の前に立った。 それからは開放された心持で自由に活けたのだった。 置く場所は、玄関に決定!! そらまが帰宅して喜んだ。 今日で3日目の夜。 香りもお花もイキイキしている。  追記:2011年1月23日。 写真は出荷してから10日目(22日撮)。    スイートピーは、宮崎県・西都市から3日間かけて届いている。

  寒中お見舞い申し上げます (2011年1月14日)



  新聞を読んで (2011年1月11日)

 年明けて11日目。今朝はこの冬いちばんの寒さだった。プランターの花や野菜は元気に育っている。 北半球と南半球の気象をテレビ・ラジオで聞くにつれ、ここ千葉の住み心地の良さをありがたくかみ しめている。2日に地元の神社に初詣をしたときは素晴らしく良い天気だった。私達は数年前から階段 を上らずに、裏の参道の小学校の校庭をすり抜けてお参りしている。理科室が透けて見えるので、必ず 覗いて通る。職員室の前にプランターが一直線に並んでいる。放送室の前に二ノ宮金次郎が立っている。 昨年と同じ光景だった。パンジーが背をそろえて太陽を受けていた。3日から普段の生活が戻ってきた。  7日からたまっていた新聞をまとめて読み終えたところにお日様が差し込んできた。両膝の辺りまで すっぽり包まれて暖かい。  9日、朝日新聞「天声人語」。川柳作家 古俣麻子 作 より。 「ポケットに無限をつめて少女羽化」   「ひとことを飲み込めばすむ皿洗う」 「この子抱く抱かれたかったように抱く」 「機を織る鶴にもなれず飛べもせず」 天声人語の筆者は述べている。 『昨今は「機を織る鶴」の志望者が増えているらしい。40代の「均等法第一世代」が男社会の荒野 に道をつけたのに、後輩たちにはなぜか、専業主婦への憧れが広がった。むろん現実は厳しい。専業 主婦の座を約束してくれる結婚相手はそうそう現れず、「ポケットの無限」はしぼんでいく。それで も明日成人を祝う世代には、うらやましいほどの時間がある。20代は自分を試し、磨く時だ。家事 労働は尊いが、皿洗いも子育ても、二人で繰り合わせる時代である。主婦にせよ主夫にせよ、「専業」 は結果であって、目ざすものではない。まずは飛んでみよう。』  10日「天声人語」は、音についての名言。 「絵は音楽に負ける」 洋画家・中村研一の言葉。 <音楽に涙する人は多いけれど、絵で泣いた話はめったに聞かない>と中村氏の言葉を奥村有敬(あ りよし)氏が説明している。 「イヤホン外して雑音聞こう」 女子学生(18歳)の投書より。 <時には街に出て、会話や小鳥に耳を傾けよう。知りえなかったことが見えてくる。> 「こころがうらぶられたときには 音楽を聞くな」 詩人・吉岡卓行(たかゆき)の言葉。 <空気と水と石ころぐらいしかない所へそっと沈黙を食べに行け! 遠くから生きるための言葉が谺 してくるから>  11日の「天声人語」は、アメリカの銃規制についてだった。私にはよくわからないが”現代の刀狩り” のようにも思えた。一斉に無くすことが理想であるが、難しいのであれば、”正しい人”が強力な力 で治安を維持していくしかないのではと思った。

  謹賀新年 (2011年1月1日)

本年もよろしくお願いします。