くろまめのをりをり5(2007年)


         毎日のようにベランダから富士を眺めています。よく晴れた日は
         丹沢が見えます。太陽が少しずつ移動してゆくのを見ていると
         今日の日を残しておきたくなります。




 御用納め (2007.12.28)  朝日新聞小説の『宿神』もいよいよ最終回を迎えようとしている。題字の神の字に物語の中の蹴鞠 の存在を感じる。出家前の話が長かったことも面白かった。おどろおどろしい画の色調も春霞のよう なやわらかな色調にも人と自然のうごめきが感じられて物語の筋が落ち着いて理解できた。絵本を開 いたときの子供のように最終回の画を楽しみにしている。( 画・飯野和好1947生 )  今日は、午後から気温が上がってきたので暖房を切った。窓から差し込む日が暖かい。御用納めと いう言葉を家に居る私にも義母にも当てはめてしばらく家事を納めよう。義母は講談社から出ている 『漢字館』を開き、めがねを調え消しゴムをにぎりしめた。「うーん。えーっと」ウォーミングアッ プの意気込みかな。去年からの繰越のナンクロにこうやって挑戦し続けている。「昨日三つ分かった のよ。今日分からなくても明日になったら分かるのよー」と鉛筆を動かした。「ひなたぼっこしてし あわせだわ〜」って消しゴムが動いた。ときどき立っては2時間ほど続くのだろう。私は時おりベラ ンダに出たり北側の壁を触ってきたりして温度差を感じている。  私、コーヒー。義母は紅茶にしようかホットミルクにしようか迷っている。紅茶にミルクを入れま しょうか。おやつにはまだ早い。郵便受けには夕方行こう。夕食の支度までゆっくり過ごしましょ。  実家の今日はお餅つきだ。母は正座して丸めたことだろう。もう”もろぶた”に並べてあるのかも しれない。平たい長方形の箱(お盆)のことを「もろぶた」と呼んでいた。何枚も重ねて置いてあっ た頃のことが浮かんでくる。母は、四人のお年寄り達を見送り、わたしたちこどもが巣立ってからは 毎年1人でお餅をつき、私たちに送ってくれていた。大家族の杵つき餅が機械つきに変わったのはそ の頃だった。当時、電気屋さんから二升つきを薦められたけれど1人ではちぎっている間に冷めてし まうので仕方なく一升つきにしたのだそうだ。お供え用とお雑煮用とそしてたっぷりのつぶしあんを いれたあんこ餅。よもぎ餅。搗きたてのあんこもちが食べたいなあ。翌日に焼いて食べるともっと美 味しいのだ。冷凍しても美味しいのだ。門松と注連縄は父が丁寧にこしらえたことだろう。 註:夕方郵便受けを覗いたら実家から護符が届いていたので夕食後に電話でお礼を言った。お餅のこ   とを聞いたら、「昔に比べて少なくなったとよ。5升じゃが。御鏡も大きなものをこさえていた   けれど今じゃひと回りばかし小そうなってなあ。9組じゃが。あとはお雑煮用とお客様用と自分   達用で餡子は入れんかったば〜い」と母。    父も母も甘みを控えることをしっかり守っているようだった。   手伝いに行ってきた妹は、「母はまるで職人の手さばきで最後のひとちぎりまで量ったような均   一大のものにしました。私は、ツルツル&アツアツ&ふわふわ頭を、ただ申し訳程度に2〜3度   撫でて並べただけでした」「お供え前にお暇したので飾りを撮れなかったのがうっかりでした。   換気扇などを丁寧に磨いて来ました^^/楽しいひと時でした。 良いお年を!!」     12月16日、5日間にわたって執り行われた大祭は無事に終わったそうだ。その後、父はやはり ヘルニアの手術をしなければならなくなっていた。昨年の大祭の後、2時間かけて救急車で運ばれ手 術をした経緯があったので心配していたが今回は反対側の部位を七日過ぎに手術と決まったそうだ。 大祭はその年不幸のあった家は御参りも舞いもできないことになっているので代わって何人かの人が 舞われたそうだ。父は三回舞ったそうだ。限界集落の祝子(ほうり。舞う人のこと)に限界がきては ならないと話はそこに落ち着いた。  4時過ぎて空が白くなってきた。富士山もりんかくがつかめない。お花屋さんに明かりが点った。  気温11度。  註:現在21時55分。11度。外は雨だ。
2007年「銀鏡まつり」(2007.12.14) 毎年、12月12日から16日にかけてふるさとの神社の大祭が行われる。今年は観に帰らなかった。 舞う人たちは「祝子(ほうり)」と呼ばれる。銀鏡では祝子をつとめる家は代々世襲で男児が10歳 くらいになったら古老が教えていた。今は山村留学生の男児にも舞を伝承している。継承していかな ければという思いがひとつになって行われている。祝子は、神楽の準備から奉納、後片付けまで一切 を取り仕切る。 12日、門注連祭。神々のお迎えをするため、注連縄を編み、御幣をつくる。斎場となる「神屋」に 注連縄を張って結界とする。陣屋の正面に赤、緑、黄、白の御幣「おしめ」を立てる。神々がここを 目印にして降臨されるのである。13日、しめつくり、星祭り。 14日から翌15日の朝にかけて徹夜で舞通す。祭壇の猪の頭は濡れている。観客は毎年増え、祝子 は年齢を重ねて行く。山村留学生も舞う。 毎年12月14日が近づくと夜神楽の場景が浮かぶ。漆黒の中を神楽囃子の音が聞えてくる。 笛、太鼓、鈴、竹のこすれる音がしのびよってくる。焚き火のパチパチとはぜる音も。笛の音の細く 伸びてちょっと切れてまた伸びる。太鼓がドドドーンドンドンドドドードドンドン、ピーヒャラヒャ ラヒャーラーヒャーラララヒャーラ、竹の笹がこすれ、霧が立つ。冷たい水蒸気につつまれる。イカ 焼きのにおい、星屑、月、電球。白い息。足裏がジンジンしてくる。山肌がうっすら見えてくる。銀 鏡に育ったみんなみんなの体の記憶だと思う。 私は小さい頃から「(おしめ)」が好きだった。斎場のむしろも天蓋も大好きだった。空の青、青竹 と笹の葉と榊と御幣の緑黄赤白の色彩とが微妙に揺れていたからかも知れない。 白衣と白袴と白足袋 の祝子さんたちのぱきぱきとした所作が清潔な風を起こしていたからかも知れない。 今夜から明日の朝まで気温は何度くらいになるのだろうか。零時過ぎてからマイナス3度4度のとき もあったそうだが。父が無事に舞い終えますように。
「小堀の渡し」利根川南岸から北岸へ(2007.12.09)  12月7日(金曜)晴天なり。絵の仲間8名と歩きながら歴史的風景を楽しんだり、スケッチをした り、酒造りの現場を見学した。  10時半過ぎ出発!歩き始めてすぐに知らない道に入った。古い家並みの間に入るとおばあさんたち が家の門のところで商いをしていた。立派な門の奥は一見して大農家だと分かった。売るというより日 向ぼっこするならせっかくだから裏の畑のお野菜でも見ていただきましょうかねえといった感じで棚に 並べてあった。次にH家大長屋門を通り抜けて茶畑に出た。茶畑の面積はさほど広くなかったが霜除けの ためのプロペラが回っていた。お茶製造所の庭先の柿の木はすっかり枯れ果てて烏瓜と柿の実が似たよ うな形でぶら下がっていた。庭に千切りにした大根と輪切りにした柿の実が(網戸を水平にして上に) 干されていた。  足尾山神社も面白かった。出羽三山に登った人が昭和初期に建立した石碑が一基。健脚の祈願に参拝 されたのであろう松葉杖とか杖とかわらじとかがお宮の壁に掛かっていた。熊手も同じ場所に掛かって いた。ここの巨大な無患子(むくろじ)の木に実が生っているのを見つけたがどうやっても手が届かな い。M氏が松葉杖や熊手で落としてくれた。7名は散り散りになって拾った。私は6個手にしていた。中 の黒くて硬い実は羽根突きの羽根のオモリに使われているのだそうだ。耳元で振るとカラコロカラコロ 鳴った。M氏は神社の方から八朔をいただき、私は野生の南天(と思って)を無断で頂戴した。  古利根の沼辺で昼食。テーブルも椅子も置かれてあった。8人掛けの大きなテーブルだったのでみん な笑った。F氏が持参の林檎を剥いて切り分けてくれた。8分の1の林檎と八朔は味も香りも最高だった。 誰もスケッチをしようとしなかった(やや問題か)。  小堀の渡し場までゆっくり歩いた。この辺りは人家も多く、火災警報用の半鐘はちゃんと釣ってあっ た。土手を越え草原を抜けると小堀の船着場に到着。  船が出るまでスケッチ。午後2時出航。客は私達のみ。船賃100円。甲板に立ち利根川を360度 見回す。風は凪。雲ひとつなし。鳥が一羽スーイスーイ  茨城県取手市「ふれあい桟橋」着岸2時35分。旅をしてきたという実感がわいてきた。河川敷を歩 く。旧取手宿本陣染野家住宅は解体復旧工事がなされて平成9年から一般公開となったそうだ。ホット カーペットの上に全員並んで現在の建物になるまでの様子をビデオで観た。庭のロウバイが数輪ほころ んでいた。そして酒蔵見学し試飲しお土産を買い取手駅で乾杯♪   5時半解散。気持ちの良い一日だった。来年は千葉茨城の札所巡りをしてみようかな。 (2008年追記:旧取手宿本陣染野家住宅に2008年4月6日再訪。わら屋根の葺き替え工事の最中だった)
「どげんかせんといかん」(2007.12.05) 宮崎県知事の発した言葉が今年24回目の「新語・流行語大賞」に選ばれた。4日付けの朝日朝刊で 目にしたときやはり嬉しく思った。  今夜、テレビで歌を聴いた。作家新井満さんが石川啄木の短歌集(煙、句集「一握の砂」)に曲を つけて歌う「ふるさとの山に」と私のふるさとがそ〜っと重なった。 ♪ふるさとの やまは ありがたきかな・・・。本当にそう思う。目を閉じれば山、川、谷、お日様、 裏のお墓、裏の山に駆け上った日、兄とけんかして山にあがって泣いた日。お墓の柿の木に上って柿 をちぎってくれた隣の中学生のお兄さんのこと。お兄さんは落ちて墓石に頭をぶつけた。しばらくは コブが目立っていたこと。ふるさとのことを語りだしたら止まらない。毎日新しい出来事が起きてい た。子供たちは小学生から中学生まで縦社会の中で遊びを学んでいた。学びの成果も失敗も村じゅう にもれなく口伝で迅速に配信された。「てげえ はずかしいもんじゃ〜」「どうしたけがじゃろかい」 とかいうような親はいたのかどうか? むしろ笑って「これでつようなっちゃろう」「おおものじゃ」 って褒められて同じことを繰り返すような子供もいたかも。私の家の隣近所には中学生のお兄さん達も お姉さん達もたくさんいたので安心して暗くなるまで遊んだ。ふるさとはありがたく不思議と安全なと ころだ。帰省すれば「○○ちゃんねえ??」昔お姉さん、お兄さん達にそう呼ばれると「はい」って明 るく上を向く。お互いに年を重ねて面影は乏しいのに不確かな覚えの中から話していくうちに昔に戻れ る。幸せになる。  「なんとかせんとどうにもならんごとなる」というのが現実の村だ。「限界集落ばなんとか生き返ら せんと」というようなテーマで協議会が開かれたようだ。ふるさとの新聞をネットで読めることは嬉し いことだがその内容は切なく「どうかならんとじゃろかい。どうかなっとじゃねえかしらん」という思 いになる。ちょっと昔、日本の木は切り倒されてどんどん建物が建った。村の杉は運び出すのに時間も 労力もかかるのだった。外材がどんどん入ってきて村の杉は価格に負けた。それでも山は細った。どう すっと。山に村に人が暮らしてこそ日本の山川谷が生きると思うとっとよ。どうすっとね。    12月、今、限界集落の村々では夜神楽の練習の総仕上げに入ろうとしている。舞う人はみんな村を 「なんとかせんといかんばい」という思いを持って練習に励んでいる。山村留学生達も、20代の青年 達から40代、50代の会社勤めの人たちも休日を返上して練習している。村に生きる40歳台、50 歳台、60歳台、70歳台、80歳過ぎても同じ。昼間は畠や山で働き”だりやめ”を返上して遅くま で練習している。「こん神楽を継承していかんといかん」という精神は尊く厳しい。みんなが夜を徹し て舞う日は近い。12月14日の銀鏡神楽に東国原知事がおみえになるらしい。気温2度の地に立って 観ていただきたい。そういうお方だと思っている。  
「宮崎・田舎直行便」冬号(2007.11.30)  昨夜から雨が降り続いている。湿度たっぷりの温かい部屋でコーヒーを飲む。新聞を読む。今日で 11月もお終いだなあと新聞を畳む。11月の始めに届いたカタログ「田舎直行便」を開く。
      すぐに干しぜんまい、干したけのこ、千切り大根を親戚 に贈ったのだった。それはそれは喜んでもらえたのだっ た。そうだ!友人にも贈ろう。 宮崎県北、児湯、県中央、日南・串間、きりしまの地域 生産者が写真とコメントで紹介してある。送料がお安い いのが嬉しい。選ぶのはもっと嬉しい。 椎葉村の蜂蜜は「気絶するほどおいしい」幻の蜂蜜とか。 ごま油、ねむらせ豆腐。この3点、どうしても欲しくな ってきた。 高崎町の「かからん団子・けせらん団子」にも惹かれた。 けせんの葉(宮崎、鹿児島、沖縄にしか育 たない肉桂の木)に包んである。シナモンの移り香を一 緒に食べてみたくなった。  もしかしたら幼い日の祖母の団子を包んでいたのはカシ ワの葉ではなくてケセンの葉だったのかも知れない。蒸 された団子をアフアフほおばってあんこと湯気のにおい のほうが強かったのかもしれないと思った。  清武町の石山製茶の「星野原」も味わってみたい。 綾町の「あくまき」は、人気商品第1位だそうだ。 他にも満載!!(「ふるさと通販」←検索)
カタログには載っていない「都農ワイン」について、嬉しい情報を得た。 明日、BSフジ12月1日22:00から22:30 「辰巳琢郎のワイン番組」で都農ワインが紹介されます! 12月1日(土曜日)テレビで放映!!
晩秋の手賀沼(2007.11.27)  11月20日、「葭の塾」閉塾。お昼過ぎから白樺文人の住んだ跡地を歩むことになった。塾長の ガイドで我孫子駅(南口)を出発。  (この塾のことは、をりをりの2005.8/9付「白樺文学館を訪ねて」に書いています)  常磐線は、明治29年に開通しここ我孫子の停車場は、志賀直哉の小説『和解』に登場。駅弁の店「 弥生軒」に青年時代の山下清画伯が寄食。画伯の絵は駅弁の包装紙となり好評だった。街は少しずつ 変わってきて平成になってからは大きく変わった。市民との協働で、自然と文化が調和する街づくり、 水辺づくりをめざしている。手賀沼は2001年、ワーストワンを返上し、2004年、2005年 と2年連続して”全国水質改善ベストワン”を実現した。  明治の末に、加納治五郎が天神山に別荘地を取得し、大正3年に甥の柳宗悦、その妻兼子を招き、 4年に志賀直哉夫妻が、5年に武者小路実篤夫妻がやってきて、同じく5年にバーナードリーチが宗 悦の庭に窯を築き作陶に励んだ。彼らの住まいは山にあり、森にあって朝に夕に手賀沼を眺め名画を 鑑賞するように書き綴っている。宗悦の民芸運動の発信地となり、多くの白樺派文人、民芸作家達が 我孫子駅に下りたったであろうことが想像できる。 (ご興味のある方は塾長のブログ『葭の塾』を読んでいただきたい)  私たちは、曇り空の下、武者小路実篤邸跡に向かった。途中の山で(現在は住宅地)めずらしい花 を見た。Mさんから名前をおしえていただいて全員が納得。名は、「皇帝ダリア」。  実篤邸跡は森にあって広く、庭も木々も素晴らしく手入れがなされていた。テラス状の広い庭が沼 に向かって切れ込んでいる。下りて行くと英国の貴族が狩場にしているような地形になっていて、そ の先の細まった所に船着場の門が見えた。来た道を引き返すとき、庭までの長い距離を感じた。樹木 は当時のままなのだろうか。落葉した木々の間から空をみることもままならないほど高くそびえてい た。私はイロハモミジと大きな葉っぱ(ヤツデの仲間か?)とシロヤマブキの実をちょっといただい た。実篤が「新しき村」をもとめて宮崎県木城村へ移る日、50名を越す文化人達が見送ったそうだ。  柳宗悦の邸宅跡「三樹荘」には、居宅名由来の椎の三大木が当時のままに沼を見下ろしていた。こ の木の椎の実はとても大きかった。敷地内は未公開なのだが私たちは特別に入れていただけた。バー ナードリーチが窯を築いた場所は数本の竹が伸びていた。沼に向かって建物があった。(ここが宗悦 の書斎だった所かどうかを塾長に聞くべきだった><)    リーチがスケッチした「書斎の宗悦」の絵は、市の中央図書館の入り口に(ガラスケースの中)展 示してある。私は図書館に行くたびに見ているので書斎の宗悦をイメージできた。棚にロダンの彫刻 や宋の壺などが置かれ、机の上にスタンドが。ロッキングチェアに着物の体を預けている。葉巻をく ゆらしていたような?。我孫子の思い出の中に灯っている明かりはランプと沼の光と虹と太陽と月と 空の色だったのかも知れないと思った。  嘉納治五郎別荘跡は三樹荘の向かいにあった。嘉納行楽農園を開いたほどの広大な土地。その一部 に立ち、ここが山であったことがよく分かった。治五郎は一回りほども年下の杉村楚人冠(朝日新聞 社幹部。「アサヒクラブ」草案者でジャーナリスト。本名は杉村広太郎)を朝食に呼ぶほど親しくし ていたそうだ。二人は若き白樺派文人たちのことを話題にしていたのだろうか。  長い階段を下りて少し先を行くと志賀直哉邸跡だがここは、白樺文学館の裏手にあるのでよく見て いたこともあり寄らずに(宗悦が「オーイ志賀」と呼べば聞えるところに邸はある。)手賀沼公園入 り口に向かった。空は晴れ暑くなってきた。ところどころに畑があって大根やカブが植わっていた。 公園は秋の化粧。市の鳥のオオバンが白鳥とユリカモメの間をゆるゆると抜いていた。我孫子がこん なにすてきな街とは!!           冬晴れの筑波見ゆ洪いなる空  楚人冠
最終章「旅の味」(2007.11.21)  10月27日快晴。夫は昨夜鹿の鳴く声を聞いたそうだ。村所を出て隧道を抜けると西都・妻に行 く道が延びている。左側に木製の看板が立っている。矢印の先に銀鏡という文字が見える。ここ合流 地点にガソリンスタンドが在る。銀鏡に入るとガソリンスタンドがない。ガソリンはまだ余裕がある ので通過した。  戦後、銀鏡の青年団は道普請でこのあたりまで9キロ〜10キロくらいの道のりを歩いてきて”道 さらえ”をしていたそうだ。1962年、西都市と合併してバスが開通した。ダムが出来、道路の事 情が素晴らしく良くなった。開通したバスを利用して町の自動車教習所に通う人も出てきた。初めて 見た信号機などの話題がしばらく続いたものだった。それから東京オリンピックの時代が来て一斉に テレビが普及した。谷間の上のほうに共同アンテナを建てた。テレビ一台の値段よりもアンテナ代の 方が高かったそうだ。こうやって村に文化がやってきたのはバスが開通してからもずっと後であった。 今年両親はデジタルテレビを据えて3局だけのテレビを観ている。インターネットももうすぐだ。私 は急カーブの道を右に左に見ながら自動車免許を持たずに80年近くを生きている父と母の暮らしを 思った。  車は村が最も栄えていた頃の「銀鏡銀座」に入ろうとしていた。右の山の上は銀鏡神社、銀鏡中学 校、川を挟んでクリーニングやさん、旅館、床屋さん、パチンコ屋さん、食堂、薬屋さん、瀬戸物屋 さん、駄菓子屋さん、パーマやさん、酒屋さん、郵便局、駐在所、衣料品・タバコ屋さん・・・。ゆ っくりと銀座通りを抜けた。道のふくらんだところから銀上小学校の石垣が見える。校舎の壁の時計 が見える。桜の木と垣根が見える。石垣の下の6レーン25メートルのプールを過ぎようとしたとき ここで娘と夫が泳いだ日のことを思い出した。ある夏、娘も夫も川で泳ぐのを楽しみにしていたが小 学校前の水泳場だったところは川底が見えないほど深く日の当たるところは流れが早くあたりは石が ゴロゴロしていたので娘が怖がった。父が先生に頼んでくれた。先生はカルキの塊みたいなものを投 げ入れて「いいですよ〜」と。他に誰も居ないプールで持参した浮き輪とビーチボールをおもいっき り使えたのだった。  校門の階段はほとんど変わっていない。階段を上ってさらし縁を越えると池があって池の中の小さ な島に二宮金次郎の銅像が立っていてその向こうは花壇になっていてウサギ小屋があって足洗い場が あった・・・。運動場で素足で遊んでいた頃が懐かしくよみがえってきた。  実家が見えてきた。ここの地区はとても仲が良かった。例えば修学旅行の時は隣近所のおばさんた ちがバス停で餞別の封筒を渡して見送ってくれた。互いの子供に餞別をあげることが儀式のようだっ た。私は宿に着くと「多大なご餞別をありがとうございます」という出だしの言葉を親に教えてもら った通りに書いて出したものだった。相互扶助のようなやりとりがおおらかに等しくなされていて明 るかった。今は、山村留学生が里親の家族と打ち解けて叱られ褒められ、厳しさも優しさもよく分か るようになり家の手伝いもお勉強もしっかりやっているそうだ。  家に到着すると先ずご先祖様に「帰りました」と報告。母はせっせとお茶の用意をし、父は昔の写 真を説明し法螺貝を吹き剣道の木刀で構えをして自分で自分の頭頂部にオメンをした。庭に出るとま だ日が高く光がいっぱいだった。人がこちらに向かって来る。下の家のマサエさんだった。「帰って きたとねー。そうやあー」と云ってエプロンのすそを広げて椎茸をくださった。「今、そこでとった とよー」と。そこは10メートルほど先の椎茸栽培をしている場所だった。義母がお幾つですかと聞 いたら、「たったの90」とひょうひょうと答えた。若い頃から会話の楽しい人だった。思いがけず 娘や義母を紹介することができた。  西米良から運んできたおにぎり弁当を持って川原に下りた。暑くてみんな木陰に寄って食べた。台 風4号は山も畑もたんぼも川もすっかり形を変えたが、台風5号はそれほどひどくなかったそうだ。 こうして鳥が鳴き川のせせらぎを聞いいていると何事も起きなかった昔の川原に見えてきて幼い頃の 川遊びを思い出した。石飛という遊びで瞬時に次に飛ぶ石を選んで向こう岸まで早くに着くのが嬉し いだけだった。臆病な子供はいなかった。思い出に浸っていたら、突然父が石飛をして川向こうまで 行った。その背を見て父も思い出したんだろうと思った。父は行きはサンダル、帰りは素足になって いた。娘が「落っこちたら風邪ひいちゃう」と心配していたがやはり危うい瞬間があったのか。  川原を引き上げて父が柿をとってくれた。柿の木のそばのビワの木は今年最高に実をつけたそうだ。 「ここん石垣にマンジュシャゲが咲いたときは見事なもんじゃったとよ〜」と嬉しそうな顔の母。台 風4号被害の土砂崩れ跡はすっかり補強されていた。傾斜地に母が木を(ハナミズキ、シロカシ、カ エデ、キョウチクトウなど)植えていた。もう数年経つと見事に育っているだろう。「向かいの○○ さんの山のメタセコイアの種が風に乗って飛んできてこんげなったとよー」と母が示す先に高さ40 センチくらいのメタセコイアが支柱に守られていた。お墓の周りにも花木が増えていた。数十本のフ ヨウが枯れ花になっていた。サルスベリ、ツツジ、ツバキなどなど。挿し木、接木したりして増やし たものだ。キンカンが生り始めていた。柚子の木は伸びすぎて実に棹が届かなかった。シロナンテン、 アカナンテンにムカゴが絡まっていた。  父ひとり家に残り私たちは銀鏡を出た。父は腰に手を置いてダンスのポーズで見送ってくれた。  西都で時間があったので武者小路実篤の新しき村だったところに行った。実篤の碑を見るのは次回 にして『絵本の郷』に行った。ここにもまた来てみたいと思った。日が沈み宮崎市内の目抜き通りを 抜けて旅が終った。翌朝、快晴。九州の山並みを見ながら車で一路博多へ向かう。  これまで両親と東京横浜鎌倉箱根京都奈良伊勢などを旅したが、今回はこれまで以上に喜んでくれた。 私も私の家族もそうだった。みんなが年を重ねたからかも知れない。きらびやかに装飾した街中や観光 のための形を整えた地形や建物や過剰なまでのサービスは、”よそに来た”という実感は残るが、心に 響く人情や食の味や歴史の中に感じるご先祖様の尊い精神などを感じることができたのは故郷の土地だ ったからかも知れない。             山柿や隣の菜の分かる村      くろまめ
パート W「旅の味」 (2007.11.17) 10月26日の朝、41階の部屋から空を見た。朝日が雲に見え隠れしている。天気が気になったが徐々 に明るくなってきた。日向灘は凪。両親の部屋をノックすると父が出てきた。「おはよう〜。よく眠れた 〜」と入って行くと「明りぃとねむれんちゃわい。眼鏡ば貸してくれんかい」と読売新聞を広げて云った。 (眼鏡を紛失して旅の間中私の老眼鏡を使っていた。母は、眼鏡のツルが広がるので困っていた) べッドのライトが点いたままで枕がスタンドの笠に立て掛けてあった。母はお風呂もベッドも快適だった と云ってくれた。枕を上手にずらして寝たので気持ちがよかったとも云った。昨夜、寝る前に「分からな いことがあったら私の部屋に電話をしてね〜」と言ったら「大丈夫じゃわい。ハワイでわかっちょるから」 と設備の仕様は分かっていると云った父だったが。今回は文字が小さくてめんどうで回したり押したりし たようだ。(私も老眼になりまこち分かるとよ。もういいとそれ以上努力をしなかったのかな><) 20年前両親は20日間くらいハワイに行った。ある日、父は1人ぶらりと外に出て、あちこち歩いてい る内に戻れなくなったそうな。日本語の分からないタクシーの運転手さんにうろ覚えのホテルの名前を告 げてそれで無事に帰れたことに”話せば分かるか?歌えば分かる?身振り手振りで?”そういった成功体 験からこれ一本やりで今の今に至っている。 「眠れんかったわい」という割にはデニッシュやクリーミィーなものを食べて今日の行程にわくわくして いた。みんなゆっくりしっかり朝食を摂って9時にホテルを出た。出るとき、父は読売新聞を手に持って いた。全国版はやはり面白いようで「まだ全部読んじょらんちゃ」と。 ルンルンちゃんたちと合流し、途中、カナダ@あつ子さんをピックアップ。西都のスーパーマーケットで お弁当を買って『西都原』へ。ここでは「西都ふるさと産業祭り(10月28日開催)」の会場を設営し ているところでテントの中にテーブル、椅子が運び込まれていた。私たち9名はテーブルを起こし椅子を 広げて真正面に広がるコスモス畑を見ながらお弁当を食べた。 そして、『西都市歴史民族資料館』で銀鏡の「コバ焼き」(焼畑)のビデオを観た。観終わったとき全員 が拍手した。未開地の国では焼畑農業は植林をしてこなかったので地球環境の見地からは深刻な問題にな ってきているが、銀鏡のコバ焼きを見ていたらそれは丁寧に先のことを考えて手当てがなされていて美し い(肉体的には大変な労力だが)と思った。食に対する敬虔な儀式を見てそう思った。 そして次は↓『森の空想ミュージアム』に再訪。横田康子さんにお話を伺うことができた。 杉安橋を越えすいすい走っていたら通行止めに遇った。バックして1時間あまりを喫茶兼古道具兼農産物 屋さんで休憩した。父や母と店主さんはよく話が通じてその話を脇で聞きながら楽しむことができた。面 白かったのはバナナの木に緑の実が房になって生っていた。 聞けば「おいしいですがね〜」(美味しい です)ということだった。通行止めも悪くないなあとみんなで笑った。 今夜のお宿の『民宿いっせい』に到着。先ず「ゆたーと」の湯に入ってそれから夕食をいただいた。送迎 のバスは真っ暗闇の中を走った。車のライトがカーブの度に山肌を照らすのがとても楽しかった。お湯は やわらかく優しく、同じアクセントの米良の言葉を交し合うのも楽しかった。母は運転手さんになにやら 聞いていた。この地に誰やら知っている人が居るらしかった。夕食は変更をお願いして「山菜料理(米良 ご膳)」「猪鍋」。芋がらの胡麻和え、自家製の生姜の味噌漬けなど。そして近くの川で釣ったばかりの 「天然の鮎の塩焼」。黒霧島焼酎。すべてがコクのある”ひなたの味わい”がありシャリシャリとした触 感ありで素晴らしく美味しかった。みんな我が家の夕餉のような雰囲気の中でよく語った。父はすべてを 平らげて思い切り声を出して「刈干切唄」を歌った。店主の坂口さんも一緒に話に加わって唄も聞いてく ださった。 27日、気持ちの良い朝だった。 7時半ごろ彼らが店主に深く礼をしてバスに乗り込むのを見ていたら中学の頃の運動部ジュニア大会のこ とを思い出した。私たち部活のみんなはバスで西都に出た。何十人の部員の中の代表選手と戦った。私た ちは部員のほぼ全員が選手だった。勝ってもて負けても交通手段がバスしかないため2泊していた。2泊 の予算は大変だったろうと思う。親たちは、栄養補給(今現在もやっているのだろうか?)で支援してく れた。放課後の連日連夕方の練習に婦人会のみなさんが栄養バランスを考えた献立で食事を用意してくれ たものだった・・・。朝もやが晴れてきた。彼らが去って行き私はご飯をお代わりした。 ここ村所には保育園も介護施設ホームも病院もある。若い人たちが根付き始めていると思った。村が細り かかってきても青年団のひとたちの若い情熱と親世代の経験と知恵が”なんとかせんといかんばい”とよ く話合っていることを『中武ファーム』の管理人hiroこと中武洋文氏や農園主の勝文氏の記事を読んで感 じていたが、ここに合宿でやってきた生徒達はいい空気を吸い、山道をランニングして”力”を溜めて帰 って行ったことだろうと思った。 宿を出て10分くらい走ったところにある『菊池資料館』へ行った。9時開園ということに感動した。ほ うきの掃き目のある階段をあがるとまだ清掃の途中だったがお屋敷の中に案内してくださった。芳名帖に 名前を書き入れそれからは感動感動の連続だった。第41代の菊池武夫男爵の在りし日の写真や手紙など などの資料がたくさん展示されていた。その写真の中に知っている方たちの顔や言葉や日付が父と母の記 憶と一致する箇所が何箇所もあってそのたびに「まああ!ありゃ〜!おおう〜!」と声が上がった。まだ まだ新しい発見が西米良にも旧東米良村銀鏡にもあると思った。 天空の農場「中武ファーム」の新米を持ってきてくださったときはもうたまらんかったばい。 よしえちゃん、農園主さんありがとうございます。武夫男爵の銅像の前で一緒に撮ったよしえちゃんの笑 顔がまこち気持ちよかったとよ〜   さあ!いよいよ銀鏡へ・・・続く
パートV「旅の味」 (2007.11.15) 10月23日、銀鏡から宮崎の家に移動する朝・・・ 私は鹿の肉と大根の葉っぱとお魚や山菜の煮物、果物などを持って行く用意をしていた。夫は石臼が大 変気に入ったようで母にいろいろ聞いていた。「昔はこうして両手でひいていたもんじゃが」「小豆の 香煎がおいしかったがなあ〜〜」と父に同意を求める母。「そうじゃった。じゃったねえ」と父。「今 夜みんなで作ってみましょう」と夫が云い、「ジューサーミキサーはどげじゃろかい」と戸棚から抱き かかえて膝の上に置いた。布で巻いて更にビニール袋がかかっていて黄色いおリボンで蝶々結びだあ〜。 (♪たまげたばい こんなに大切に使ってるぅ〜)「長いことジュースを飲んだっちゃけどね〜。今は なんでも自然のもんが買えるから〜」と。電源を入れたら動いた。「まだ使えるばい」と。(ああ〜後 始末が大変だったんだろうなあ。それにしても笑える〜) でも歯が欠けたら大変なのでコーヒーミル で挽くほうがいいかもね〜と提案したら「じゃが じゃが」と決まった。「蜂蜜をかけるとおいしいと ばい。持っていこうや」と母が言ったが「そのままを食べてみたいから」と断った。(反省!!) ケイタイ電話のつながる杉安橋(西都)までおよそ40分位走ったか? 車にも人にもあまりお目にか からなかった。この橋の入り口を左に入れば『森の空想ミュージアム』に行けたのだったが橋を越えて からもかなり走ったとき「あ!こら違うぞ。うん。違うごとあるがねえ」と父。カーナビは案内をやめ ていないのでドライブの距離を伸ばしてみた。真っ直ぐな道の両脇の草花にも話題がいって楽しめた。 集団下校の小学生6,7人が一列縦隊になって歩いて来るのをみたときなんとも形容しがたい感動を覚 えた。すれ違うときゆっくり感じた。 『森の空想ミュージアム』のことを知ったのは、2003年10月、東京駒場の「日本民芸館」で『九 州民族仮面展』を見たときだった。藍染のシャツに赤いバンダナをした男性が300点のお面の収集家 であることを民芸館の館長さんが教えてくださった。私はそれらの中の天狗のお面についてお尋ねした。 会話はそれだけだった。夜は、銀鏡神楽の舞が披露され、アメリカ領事のご家族や関係者の方々、一般 の方たちで満席だった。その年の12月14日の銀鏡神楽にこの日の民芸館が縁で15名が観に来たそ うだ。 「森のミュージアム」訪問は26日に予定していたが父も母も以前から行ってみたいと思っていた所だ ったので初めての訪問となった。旧校舎の前に着くと、巨大な楠の木が頭を出していた。屋根は苔むし ていて童話の世界に踏み入ったような穏やかな空気を感じた。「ご自由にお入りください」と黒板に書 いてあった。奥のほうからご婦人が出ていらした。靴箱に学校の名残があり廊下を進むとスリッパの音 が粉っぽい音をさせ、教室に入れば壁に仮面が飾られていた。館長の高見乾司氏は不在で、お面はどこ とかの美術館に展示中であるということだった。それでもいくつも飾られていた。窓の外には薬草が干 されてあった。運動場跡をそのままにして薬草や雑草も一緒に成長していた。ご婦人は染色家の横田康 子さんで自然をとても大切に紡いでいらっしゃることが感じとれた。また明後日にまいりますと言って 教会のほうへ移動。高見氏の油絵や県外の方たちの絵も展示してあった。テーブルにノートとクレヨン が置いてあったので「訪問して点が線になりました。ありがとございました」と書いた。 「ああ〜これが天然の繭玉からこんなふうに〜ええ〜すごいもんじゃ。う〜〜ん」とシンデレラ 24日、娘と義母が宮崎空港に到着。花柄のフレアースカートに今年流行の鉄色のジャケットを着た娘 がこちらへ向かってくるのを見ていた父は真昼の太陽を見るように額に手をかざして「ほぅ〜〜」と言 った。義母を見て「おぅ〜元気なもんじゃ。よかったよかった」と義母の手をとってエスコート。るん るんちゃんは娘から離れなかった。 お茶して会食の場所へ。 お料理は品目も量も多かった。食べ切れなくてドギーパックをお願いした。にぎやかになってきて父が 歌い出した時は、お隣のお部屋の方にご迷惑がかからないかと気になったが給仕の方も一緒に楽しんで くださった。(宮崎の人はまこち親切ばい)父の歌を「どれも浪花節じゃがなあ」と言う人がいたが確 かにそうだった。るんるんちゃんが顎のあたりで手を組んで聞いてくれた。プレゼントの交換も楽しか った。家に戻って、「香煎」の体験レッスン♪ 母が講師になってみんな一回はすり鉢で摺った。コー ヒーミルとすり鉢で時間をかけて出来た。母の「あんたたちは努力するねえ」のひとことが嬉しかった。 25日、朝食に大根の葉っぱのお漬物をいただいた。青臭さの程よい新鮮な味だった。朝刊の地域の話 題を読んだりしてゆっくり午前の時間を過ごしてからるんるんちゃんのお家へお邪魔した。ピアノの演 奏会と午後のティーを楽しんだ。クラシックもポップスもアニメもとても上手だった。るんるんちゃん は全員に物語の人物の名前で呼んでくれるが、ルミエールだけがこの日からルミエール様に昇格してい た。夫は喜んでいた。       王子の弾き語り♪                 妖精のおばあさんは元先生♪     シェラトンへ向かうときは霧雨。夕食は和食。(宮崎はやっぱ焼酎ばい)でも私と娘は白ワイン、母と 義母は日本酒。それぞれのお酒で共通の話題が膨らんできた頃、父が給仕の方に「歌ってもいいですか」 と言った。(宮崎の人は分かりやすいばい)「あ、あ、はい。ええ、どうぞ」と口元がキュッ。「申し 訳ありません。ご遠慮願います」とはおっしゃらなかった。父は「よ〜し」と気合が入って「ふ〜っ」と 息を吐いて続けて2曲、浪花節調の「正調刈干切唄」「ひえつき節」にみんな感動した。給仕の方がテー ブルにきて「お上手ですね〜」と。雨は止んでいた。 宮崎県民謡 「刈干切唄」            ここの山の刈干しゃ すんだヨ 明日はたんぼで 稲刈ろかヨ もはや日暮れじゃ 迫々(さこさこ)かげるヨ 駒よいぬるぞ 馬草負えヨ 屋根は萱ぶき 萱壁なれどヨ 昔ながらの千木(ちぎ)を置くヨ 秋もすんだよ 田の畔道(くろみち)をヨ あれも嫁じゃろ 灯が五つヨ 「ひえつき節」 庭の山椒(さんしゅう)の木 鳴る鈴かけてヨーホイ 鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー 鈴の鳴る時ゃ 何と言うて出ましょヨーホイ 駒に水くりょと 言うて出ましょヨー おまや平家の 公達(きんだち)流れヨーホイ おまや追討の 那須の末ヨー 那須の大八 鶴富捨てて(おいて)ヨーホイ 椎葉たつ時ゃ 目に涙ヨー
パートU「旅の味」 (2007.11.12) 22日、時間を少し戻して続けます。 『西の正倉院』の受付で「どちらからですか?」と聞かれ「東京からです」と父が答えた。 「そうですかあ〜それはどうもぅ〜」と男性の方が伸びやかな声でおっしゃりどうぞどうぞと門まで出 てこられた。わたしたちはひっそりとした庭に立って建物の外観に驚嘆していた。そこへ再び現れて解 説をしてくださったのであった。元村長さんのただならぬ熱意が奈良の正倉院と寸分も変わらぬ建築様 式をもって百済伝説の残るこの地に実現させたという時間と労力の話には全員が感動した。庭に立つ全 員の影は短かかった。すぐに木陰に入るよう促してくださったのでそうしたが解説をしてくださる方は 動かずに太陽を額に受けて切々と語ってくださった。写真に収まっているこの場景をこれからも思い出 すことだろう。(ぜひ、宮崎に行かれる際は、ここにお立ち寄りくださいますよう。) それから『高千穂峡』までは遠かった。宮崎の高千穂峡と知れ渡っているこの場所を、私と母は初めて だった。山並みは紫がかっていて雲がわいていた。鉄道の跡を見下ろした。絵葉書によくある場所でア リバイ写真撮影(笑)、絵葉書に紹介されていない場所でしみじみとした写真撮影。どちらも満足げな 表情をしている。お土産を買う時の母は、「あん人は漬物(つけもん)が好きじゃから」「あん人んと こは家族が何人じゃったが」「あん人はやわらかしいもんがええがあ」などと日ごろお世話になってい る方たちの顔を思い浮かべて確認するようにして買い物を楽しんでいた。父は、解説の札を読んで咀嚼 していた。じっと見てもう一度見て、くるりと向いて説明してくれた。ときどき詰まって「うーむ」と 思い出しそうなるとひらめいたように目が輝いてより詳細に説明が続いた。楽しい時間だった。ボート は二人乗りなので二人二人で乗れるのだが不器用な私はぶつかることを想像して「あそこは寒いちゃね えと」と言って乗らなかった。真名井の滝に下りて行くとき父は両手を後ろに組んでトントトンと下り て行った。「あぶねえがあ〜」と母は思ったに違いない。私が声に出して注意をしたら余計にトトトト トーンと加速がついて危ない危ない!! あ〜よろけた!! やれやれ、五体投地に至らないのが不思 議。天安河原(あまのやすがわら)では解説に力が入った。わたしたちは、川原の木々のむき出しの根 に生命力を感じて何度も立ち止まってはさすった。清い空気は気持ちが良い。全員が姿勢正しく歩いて いる写真になっていた。 復路、カーナビのルートは二通りあった。来た道と違う道を(父が7,8年前に来た時の道が正ルート で今現在は道路工事中だったことが後に分かったのだが)選んだのであった。「恋人の丘」というロマ ンチックな名称の休憩の丘で父たちご一行様はトイレタイムをとったのだそうだ。そういう記憶がよみ がえった父は「おお〜ここじゃったがねえ〜。間違いねぇど」というので、間違っていない道だという 認識で進んだのであった。ほの明るい道も進む内に闇に変わり細く細く奥の方へ奥の方へと進んだ。前 方に巨大な物体が見えた。ヘッドライトに照らされた黄色いショベルカーは完全に道を塞いでいた。夫 は冷静だった。母が「大丈夫じゃが。幅があるばい」と言った。 そもそも道の入り口の隅っこに「工事中」の札が立っていたことから、ほっぽらかしてある感じに見え たことから「大丈夫じゃわい」のムードになって進入して行ったのであった。もしその看板が道の中央 に立っていたなら、その先を進むことは無かったと思う。ターンしてからも多重音声放送は止まず、よ く笑った。「面白れえわい。まこて」と父が言った。全員が不安な気持ちは飛んで行っていたのであっ た。百済の里に戻って、さつまいもパンやお水やチョコやおにぎりなど食料を調達し、ルート設定しな おして出発したとき、父の感動の声を聞いた。「いものパンがうめえかったわい」子供のように言うで はないか!! 「あんひとはこればい」と母が迷わず選んだパンだった。引き返してまたお芋のパンを 買えばよかったのかも。まったくもって笑えるのであった。 四頭目の鹿にあったとき、車を止めた。鹿は百獣の王のような面構えをしてフロントから前方3mほど の所でゆっくり止まった。スローモーションの動きに、みんな鹿を称えた。山を知り山に長く生きてい る両親は真っ暗闇の細い野道を走っていても落ち着いていた。私も夫も安心して帰り着くことができた。      母の居て父の居るなり里の秋 23日、目覚めすこぶる良し。電話が鳴る。夫が出る。「午前着は無理でして午後2時ごろになります。 今、村所ばまわっちょります」と宅配便の人。「午後から留守しますので西都の営業所に持ち帰ってく ださい。25日に受け取ります」了解してもらえた。銀鏡には「午前中着便」の希望はなかなからしい。 「オーイおるやあ」と裏から人の声が。なまあたたかい鹿の肉と焼畑でとれた大根を持って来てくださ った。同級生のお兄さんで包丁の鹿の柄もこの方の作品。コスモスのお花の種もいただき母はきれいに 咲かせていた。母とこの方との語らいを聞いていたらゆったりとした気持ちになっていいなあと思った。 母から愉快な話を聞いた。それは西郷隆盛どんのことだった。銀鏡の村に西郷さんが一泊したことは那 須省一さんがコラムにも書いていたようにこの事実とその薩軍の通った道を辿りたいという個人や団体 がこの村にやってきたことだった。今年西郷隆盛130年祭(9月24日)ということで鹿児島では大 イベントがあったそうだ。銀鏡のみんなはのん気だが世間は注目をしてくれたようであった。その中の お1人に母がお茶を差しあげ「テレビでみたような気がしますが」と言ったら「はい。俳優の榎本孝明 です」と丁寧に答えてくださったそうだ。そしてスケッチブックを見せてくださりスケッチ入りのカレ ンダーをくださったそうだ。母は「もしかしたら銀鏡がテレビにでっかもしれんとよー」と嬉しい顔し て教えてくれた。      柿の実や村に俳優来るうはさ 昨日、私たちは『西郷さんの道』の西郷さんの歩いた道をドライブしていたのだった。 山道が壮大な歴史の時間を案内してくれていたのだった。・・・続く 註)『西郷さんの道』、ネットサーフィンしていて出会ったサイトです。大変面白いです。      
パートT「旅の味」 (2007.11.09) 「好きな季節は5月と10月です」と答えははっきりしている。20代の中ごろまでは8月が大好きで ガンガン太陽に向いていた。シミシワタルミなどという言葉は耳に入ってこなかった。太陽に近づいて 夏山をよく登った。海にも行った。冬は太陽に近づいてスキーに行った。秋も山に行った。春はテニス、 ウッドラケットで珍しがられていた。遊びの記憶は太陽とセットになっている。あれからそれからそれ から、7,8,9月はエネルギーを消費しているのが自覚できるほど暑さに弱くなった。「暑いから欠 席します」という理由を「了解!!」していただいたことが数回あった。 このたびの10月の帰省はやはり良かった。先に夫が 『そらまめ日記』を公開しているので、私は“ こぼれた話”を拾って行こう。  20日、清掃係りの方たちがホームに入ってくる新幹線に斜め45度に向かい横並びに立っていた。 ピンクのユニフォームがとても清潔に感じられた。午後、同郷の友人と再会。昨年は悠仁親王誕生の号 外を手に現れた。読売英字新聞九州発、コラム 『英語でさるく』(ディリー・ヨミウリ連載中)の筆者 那須省一さんはとても温かく私たちを迎えてくれた。真っ青な空の下、東京青山通りのようなケヤキ並 木をゆっくり歩いて福岡城、大濠公園、浮御堂の中で夕日を浴びた。多謝。     商人と武家分くる町天高し        21日、北熊本インターで「いきなり団子」(生協で注文できるそうだ)を買い、その懐かしい味に興 奮した。西米良村村所の『民宿いっせい』に26日の宿泊夕食の件でご相談したく訪ねたら集会所に行 っているということだった。山菜料理などの”米良御膳”をお願いしたら快諾してくださった。集会所 には『中武ファーム』の農園主と妻のよしえちゃん(親戚)に会うことができた。農園主とは初対面 なのにファームのブログのおかげですぐに打ち解けた。私と夫は農園主に許可をいただき、天空の農場 へ登った。登り口で農家の方に道を聞いたら、ご夫婦で仕事の手を休めてとても丁寧に教えてくださっ た。私がよく理解しないのでご主人が小石を拾って道路に書いて教えてくださった。登って行くうちに 理解出来た。途中、2回左に入る道があった。ここからは入らないように出れんばいということだった のだろう。農場は米良三山の胸の高さに在った。刈り跡の田んぼに立ったとき言葉を失った。絶景なり。   秋晴れの米良三山に敬礼す        22日、「今夜もたっぷり話せるねえ」「うれしいばい」と母。そこへ夫が出かけようと言う。「そり ゃあええこっちゃ〜」「じゃがじゃが」と即決。銀鏡の朝食は早い。洗濯掃除も終えようとしていた。 山を越えるのでお握りと水筒とみかん、りんごを持って出陣!!  父は、「百済の里」にも「高千穂峡」にも出かけていたが母は初めてだった。父のガイド付きで車は 走った。しかしこのガイドは雑音がひどくてなかなか静まらない><。カーナビのアナウンスと同時に 雑音が入るのだ><。そのうち音声多重放送になり、私の通訳で夫に伝えたりしてにぎやかな車中であ った。途中の山道では母が辺りの山々をとても分かりやすく鳥獣被害対策のことなどを教えてくれた。 『東米良村史』の中で紋付姿の元市どんは篤農の人として紹介されている。私の記憶に無い祖父のこと を母に聞くことがスッポリ抜けてしまった。両親は、車がないので、山に居てお隣の村やその向こうの 村やそのまた向こうの村を知らない。父さえも数回しか行っていないので山越えのドライブはとても楽 しい時間だった。ひとつ山を越えた頃に父が母に言った。 「こん道ば4人で歩いたとをおぼえとるかい?」 「ああ〜おぼえとるわあ〜。〇〇あんちゃんが魚をいっぱい抱えてなあ。義姉さんとけんかしてなあ。 しんきなかったば〜い」と母が答えた。 それは、戦後間もなく義姉のご実家にみんなで出かけてその帰りにそれはたくさんのお土産をいただい たのだそうだ。お魚、果物、お米、お菓子など贅沢なほどの食糧をどっさり背負って坂をふうふう上っ て来たあたりで義姉のご機嫌が悪くなって〇〇あんちゃんも不機嫌になって口喧嘩になって、とうとう 〇〇あんちゃんはその食料をポイポイポーイと谷に投げ捨てたそうな。父も母も手も口も出す間もなく 食料は消えたそうな。こんな山道を往復してそんなことで喧嘩になってゼロになってしまった話には申 し訳ないけれど笑った。笑っているうちに父や母、おじおばたちの戦後のゼロから出発したなんともや りきれない腹立しさを思った。そうこうしているうちに「百済の里」に到着。駐車場はとても広かった。 「西の正倉院」では元村役場の職員さんが受け付けにいらして丁寧に案内をしてくださった。見学者は わたしたちともう一組で若いカップルだった。父の興味がより詳しく解説を引き出してくれたので案内 の方も喜んでくださった。坪単価1000万円の「西の正倉院」は日に焼けていい色を出していた。 ・・・・・・続く
「旧東米良藩(菊池家)に伝わる元服式について」 (2007.11.08)  銀鏡神社の祭神は、磐良姫命、大山祇命、懐良親王の三柱である。  南北朝時代、肥後の菊池氏が九州における唯一の朝廷(南朝)方の豪族として勤王の旗印を掲げていた 時、征西将軍の宮懐良親王は幼少にして大命を拝し肥後の地にお下りになったのである。弘和年間頃から 肥後に於ける菊地氏の勢がだんだん弱くなり南朝方の勢力も遂に落目を見る程に至った。正平、天授、応 仁の時代にかけて南朝の末裔即ち懐良親王(または良成親王)及び公家武将方が相次いで米良山に入山さ れたと伝えられている。それは敵の目を避けて山中に入り、名を変え跡を隠し極秘のうちに入山されてお りこのことは、米良勘助の系譜にも残っている。 (以上は、中武雅周著『伝承米良神楽』より引用)  そのため、菊池姓を秘して米良姓を名乗り、米良藩を統治して居られたが、明治4年廃藩に依り鹿児島 に引き上げられ、その後ご一門の方々は、東京に住んでおられる。  註] 旧藩主則忠公は、明治元年7月14日願に依り勅許、氏号を菊池に復す。名を二郎と改む)   大正時代には菊池武英(たけふさ)様、昭和の代には、長男の武則様、平成の代には、その長男武洋(た けひろ)様が銀鏡神社に菊池御一門11名の方と共に東京からはるばる参拝され、時の宮司が烏帽子親を つとめ、祝詞奉上、烏帽子狩衣姿で旬を手にして古式豊かな作法で見事な元服式を挙げられたのである。  武洋様は、当時中学2年在学中であったが非常に体格の良い方で約50分余りの儀式に正座をくずさず 端然として着座して居られたのに列席していた地区民の者も流石に菊池の殿様の子孫だと言って感心した ものである。その武洋様の長男さんが中学生になられると、古くからの仕来りを守り、銀鏡神社で元服式 を執り行われるわけで、5百年以前から綿々として続けられている米良藩即ち菊池家に伝わっている大事 な行事で如何に世の中が開けても永久に続けられるであろう伝統的な行事の一つである。  西都市文化財保存調査委員 濱砂武昭 (稿)
『殿様と製粉機 (機械に強くならんといかんど)』完(2007.11.06) 実は今日は殿様に大目玉をいただく覚悟でご訪問申し上げたのに、おしかりどころか、寛大な思いやりの あるお言葉までいただいてその広いお心にふれ、一同は感激して帰路についた。  殿様も奥様も廊下までお出でになってお見送りいただいた。銀鏡から持って来た竹の皮包みの握り飯を 食いながらの殿様との昼飯は日本一の会食であった。 「どげしてもどっとかい」 「山越えでもどります」 「そっちはバス道じゃが、山はあっちど」 青年たちはしばらく休憩をしたあげく、山越えからバスに予定を変えて村所を後にした。先にも後にも無い たったいっぺんぎりの日であった。[完] 武昭は帰り着くなり祖父の幸見に殿様とのことを語ったら幸見はとても喜んだ。あの時から、もう数えて 40年にもなろうとしている。そのことがよほど大きな想い出となって武昭の心の一遇に宿っているので あろう。想い出話をする武昭の目は輝いていた。そして言うにはあの時の気持ちは肉親のおじいさまにお合 いした気持ちであった。と、 (武昭氏は、当時19歳であった。ちゃんとしもた製粉機のことを振り返って以上のように記している) *お殿様は、第41代 菊地武夫男爵です。    出典『おらが殿様』 著者 中武雅周(まさちか) 西米良村大字村所在住 郷土史研究家(他、多数の著書あり) 私(中武雅周)は、或る時、菊池男爵からお借りしていた「製粉機」のことを旧東米良村の武昭氏から想い 出話の中で聞かされたことがあった。終戦直後の頃の話だが、米良らしい場景がなまなましく、お互いが精 一杯に生きて来た姿が感じとられたので、寄稿をお願いしたのである。        殿様はものの道理をわきまえ、自ら責任ある行動をとった者はけっしてとがめられなかった。この日の銀 鏡の青年諸君がとった責任ある行動に、殿様は潔しとしてお許し下さったのであろう。殿様は機械について もご関心が深く若者は新しい時代にいつでも対処できるように望んでおられたことを思い出した。それは今 から50年前つまり昭和13年の秋、私が県立妻中学校の4年生の時だった。時局講演会が妻尋常高等小学 校で開かれ、中学校の職員生徒も全員これに参加して講演を聞いたことがあった。『今だから話す』という 演壇に我々若者の気を引いたのは、その当時90歳を越えたという幕末に活動した勤王の志士の講演であっ た。彼は吉田松陰や橋本佐内等と共に、勤王の仕事にたずさわってきたと云う。そして最後の別れ際にこう 約束しあった。「○十年無事でいたなら、われ等が当時どのようにして事を起こしたかなど一切を話そう」 と言う事であった。  この講演会で、次に演壇に立たれたのが、我等が殿様菊池閣下であった。話の詳細については覚えてもい ないが、その中に「何時の時代も、若者が世の中を造る大事な仕事をしてきた。これからは科学の進歩によ って様々な機械が造られてくるが、そん為にゃ研究も必要じゃがもっと大事なことはその機械を使いこなす ことじゃ。わしの長男は、大学生じゃが今自動車の免許を取らせておる。これから先は、若い者は誰でも自 動車ぐらいは運転がでけんにゃいざと云う時にゃ役に立たん。そうでなけりゃ機械にも関心が無く、世の中 の進歩にもついては行けんごとなる」  銀鏡の青年に「機械に強くならんといかんど、科学が進めば機械が多なってくるからね」と、かんで含め るように諭された場面を想像して私は、忘れかけていたあの時の講演のことを思い出したのだ。大学生で自 動車の免許が取れるという殿様の一語には、中学生どもは少なからず関心を持った。さすがに自ら砂鉄会社 をつくって、その経営までやっておいでになった殿様だと心の底から敬服申し上げた次第である。  殿様の講演に出てきた話題の主は武英(たけふさ)様で、そのころ東京帝国大学に在学中の頃の話であった。   
『殿様と製粉機 (かくかく申し上げます)』そのー4(2007.11.04) 「殿様、機械が故障しましたので修繕をしなければいけないと思いましてあちこちに頼んでおりますうちに 、お詫びに上がりますのが遅れまして誠に申し訳ありませんでした。今日は青年たちを連れまして、お詫び に参りました」 みんな手をついて、いつ殿様の雷が落ちるかと思ってびくびくしておると「機械はどりか、こけ持ってきて うちくえた原因をば説明して見よ。あれほど石やなんきゃ入っとらんか確かめてから動かすように言うとっ たとじゃがどぎゃしたとか」  しまった、早くこれを申し上げにゃいかんかったのに、殿様の方から先に口にされてしまった。ところが 肝腎の理由を説明申し上げる役割を決めていなかったことに気がついた。すると次雄が 「覚がそのときの事は詳しく知っているのですが、妻が亡くなって今日は来ておりませんのでー」と続いて 言おうとするのを、これではいけないと思った武昭がすかさず「私が、ご説明申し上げます」と言って、前 に体を乗り出して「しばらくお待ち下さいませ、機械を持って参ります」  武昭の声にわれにかえった一同は、武昭に付いて分解して持ってきた機械を殿様の前に並べた。武昭は覚 の次にこの機械について精しく知っていたので、丁寧に説明をし始めた。武昭の説明はありのままで整然と したものであった。しかし居並ぶ面々は武昭がつまらんことば言うて殿様のご機嫌をばそこなうものならそ れはまた一大事とばかり、冷や汗をかきながらじぃっと聞き入っていたが、その説明のあざやかさに一同は ほっとした。  「その日は、覚がバッテリーの充電と、とうきびの製粉をしていました。昼になりましたので、覚はそこ から40メートル離れています自宅まで昼飯に帰りました。私もその時には家で昼飯をとっておりました。 ところがいつもと違った機械の音が、15メートルほど離れた私の家まで聞えてきました。私はその音がい つもの機械の調子とは違うぞと思って飛んで行きました。そしてびっくりしました。見ますと、水車がフル 回転しておりモーターがうなりながら回っていました」 「それでどぎゃしたか」 「はい、私はすぐにそこから10メートルほど離れた水門まで走って行って水門を閉めました」 「ウーン、そうか、水力発電じゃから水車は止めにゃいかんがうろうろせじ水門ば閉めたとはあっぱれじゃ」 「そして私は覚を呼んできてその原因を調べました」 「どげなことじゃったとか」 「それは機械の始動中、シャフトからシャフトにかけてある幅の広いベルトの継ぎ手の小さいカスガイ一本 がはなれて製粉機の中の歯車の歯を次々といためてしまったのであります」 「ん、機械は融通がきかんから細かいとこまで注意せんにゃいかんがそのベルトは中古品じゃったとかい」 「はい、中古品でした。新品がなかなか入りませんでしたので」 「そうか、これからの世の中は機械に強うならんといかん。科学が進めば機械がおおなって来るからね。こ の製粉機の一分間の回転数はどれくりゃあっか知っとるか。ただはげしゅう回せばええっちゅうもんじゃねえど」    武昭は、びんたをくらったようだった。今まで自分でも機械を知っておるつもりであったのが、殿様の質問 の機械の回転数をちゅうに覚えてはいなかったのである。こりゃぼくじゃと思った武昭は、機械のどこかに書 いてあるもんだがと思ってそーっとのぞいたら、機体の赤枠の中に小さな字で書いてあった。武昭はすかさず 「はいっ、一分間の回転数は○○回転であります」 「よしよし、中古ベルトの継ぎ手の点検が出けとらんかったとが原因じゃね、こりからは気を付けんにゃいか んど」 武昭は、ほっとした。これで殿様のお許しが出たのだと思ったとたん外から吹き込んでくる風の涼しいのに気 がついた。やがて奥様からお茶をいただき、そしてやさしくご接待にあずかった。殿様もご機嫌よろしく、巣 鴨での戦犯容疑生活のお話をされた。一同は身を乗り出してその話に聞き入った。殿様は「あすこじゃね、お りこりまでやったわい」と、殿様は両手を前に出して雑巾で便所の床を拭かれる真似など。一同は何ちゅうこ とばおっどんが殿様にさすっとかと思い、話が面白いどころか腹が立って腹が立って来た。武昭の横に居た次 雄が、武昭を指して、「閣下、これは浜砂幸見さんの孫です」 「おお、おまえが幸見ん孫かい。盃ばとらすど、こっちへ来い」 「はい。ありがとうございます」 武昭は盃を押しいただいて感激して頂戴した。その感激は一生涯忘れることはできない武昭であった。武昭の 祖父の母キサは、乳母として殿様へお乳をさしあげたことがあったのである。・・・続く  次回は、最終章です。
『殿様と製粉機 (山越えしてお侘びに参るどー)』そのー3(2007.11.02) それから関係者が武昭の家に集まって、徹夜で協議をしたあげく故障した機械を持ってご別邸にお伺いして おわび申し上げることになったのである。しかし当の覚は、妻が亡くなったため村所行きができなくなった。 それで村所に行く顔ぶれは浜砂次雄、河野重信、浜砂武昭、浜砂武俊、浜砂重富、尾崎日吉の6人でご別邸 を訪れることになった。  一行はヒエ、アワ、麦、トウキビ、小豆、米、焼酎など手土産などをあちこちからかき集めて4人がかり で棚倉峠を越えることにした。残りの武昭と日吉は、自転車で国道を二軒橋から村所へ分解した機械を自転 車に積んで行くことにした。おわびに行くのであるから、何としてもその誠意を尽くさなければならないと 思ったからである。そしてそれはあとになって分かったのは、こうした行為が殿様の心に触れて良い結果を うんだのであった。武昭と日吉の自転車訪問はなかなかこたえたのなんの、国道とは名ばかり道路は凸凹、 中古車の後ろタイヤはこれが又石ダイヤときているので2人はえらい目にあった。  峠ごえもたいへんだった。真夏というのであるから昔からの話に「先アブ後ビル」と言って、前の者はア ブに取り付かれ後の者はヒルに悩まされると言った夏山歩きの言い伝えさえある山越えであった。とにかく 茂るに茂った草を踏み分けて、彼らは棚倉峠と天包山を越えて村所へと急いだ。 「ごめんくださいませ」 山まわり組と、自転車組みとがやっとのことであらかじめ打ち合わせておいたご別邸前で合った。その足で ご別邸を訪れたのである。次雄が前よりもやや大きい声で、しかもおそるおそる「ごめんくださいませ」 次雄の後ろには、汗を拭きながら残りの5人が横に並んで立っている。 「はーい」障子が開いて、奥様が出ておいでになってこのありさまをごらんになり、しばらくじいっと見て おいでになったが「銀鏡の者でございます」 「まあまあお疲れのこと、どうぞ足をすすぎになって」 奥様は、お気軽に一行に木のたらいに水をそそいで下さって殿様のお部屋にご案内下されたのである。殿様 は、布団を敷いて休んでおられた。 「おお、来たか、きゅうどま来るじゃろとおもとった。ちっとだれとったもんじゃから、寝とっとじゃ」 殿様は手を出して、奥様の介添えで起きられた。みんなは遠くの方で、かたく小さくなって座っている。 「遠慮せんでこっちに寄れ、まっとねきまでずーーっと」 みんなは一緒にごそごそと前に出て座った。そして武昭の右隣にいた次雄が、おそるおそる申し上げた。 ・・・続く       次回は、お殿様があれこれお尋ねになります。乞うご期待!!
『殿様と製粉機 (機械が止まったどー)』そのー2(2007.10.31) 「何ちて、機械が止まったあー」 「武昭よはよ来て見てくれやり、どうもこうもならんど」 武昭は昼飯を食うておるさいちゅうだったが、飯を食うのをうちやめて覚の後について機械小屋に飛び込ん だ。武昭は 「こらどしたことかい」 機械は止まり、ベルトは外れてぶら下がってごとんごとんと水車とモータだけが回っているではないか。覚 が水門の方を指差して 「武昭はよいたて水門をばしめてくれやり」 覚が顔(つら)真っ赤にしておらんだ。武昭はすかさず小屋を飛び出して、水門の処へつっぱしって水門を閉 めた。やがて覚が言うには 「いんまさきじゃったがトウキビの粉をばひいていたら機械の調子がおかしいもんじゃから、こん中に何か 詰まったっちゃわいたんしてドライバーを突っ込んで中をかき混ぜてみたところ、ドライバーの先が歯車の 歯にあたっとじゃがな。そうすっと『ごとごと』と手ごたえがしたと思ったらなにが歯車の歯がとれて、そ のかけらが、次々にほかん歯にひっかっかってぐわらぐわら歯がとれて、とうとう機械がうっ止まったとじ ゃもんな」 「そうかあ、そういえばいんまさきおりが飯ば食うとき太え音がしたとじゃが、それがそっじゃったとじゃろ」 武昭と覚はこのままではどうにもならんので、機会を分解してみることにした。分解してみるとあんのじゅう、 製粉機の歯車の歯が7枚もかげているではないか。 「やいやい、こらちゃんとしもた。どうにもこうにもならんどこん歯車は。こら鋳物じゃから接ぎもどうもならんど」 武昭は覚の顔を見ながら叫んだ。 「こらえれこっちゃわい、どげしゅかいね」 さあ大変だ、1年半も機械をただで使って殿様にはなに一つお礼もせんままじゃったっちゃが、覚は顔色さえ 失ってそこにつくなってしまった。  それからひと月もたっただろうか、重久どんを通じて殿様から、その機械を返してくれんかと言うことだった。 それは殿様のご子息様が、竹材の加工工場を作られるのでその工場に取り付けて、製粉をするからと言われるの であった。しかし何もかにも知っている重久どんは『機械が故障したので、宮崎で修理をしてからお返しします』 と言って戻ってきたのだと言う。だがあれこれいびくり回しているうちに、とうとう半月も経ってしまった。  ところが今度は銀鏡神社の宮司正衛どんが、殿様からの葉書を持ってわざわざ征矢抜までやって来た。それには 「そちらで故障がなおらなければ村所まで持って来い、こちらで修理をするから」とのことであった。さあ大変い よいよ絶対絶命の時がやって来た。・・・・・・続く 註)写真は、西米良村「菊池資料館(殿様のご別邸)」にて許可をいただき撮りました。 第41代 菊池のお殿様(男爵)、奥様                    昭和15年当時、銀鏡延命寺墓地の調査
『殿様と製粉機(ちゃんとしもた)』そのー1(2007.10.29) 昭和22年の夏、まだまだ食糧難の時代が続いていた。米良の住民達はもっぱら焼畑や炭焼きに従事していた 頃で、東米良銀鏡地方ではまだ電気が無く不便なランプ生活が続いていたのであった。こんな不便な生活を解 消するために、若者が集まって連日連夜協議に協議を重ねたあげく、自家発電を企画してバッテリーを買い入 れて各戸に電燈をつけようということになったのである。発電所を設置する場所は、浜砂武昭所有の土地を無 償で提供することで話はとんとんと進んで行った。  仕事は材料集めから製材等いっさい出役でまかない、かんじんのバッテリーは穂北の押川氏から譲り受けて 来た。機械のすえつけから水路作りなど、仕事は共同作業で順調に進んでいった。次々に仕事が進んで各家庭 に配線工事が終わって、遂に待望の電燈をつけることが出来た。この時から長い間のランプ生活に終止符がう たれ、実にご先祖様米良山入山以来の出来事でありようやく文化のともし火がここにもともることができたの である。  この時の点燈バッテリー組合員は、征矢抜(ソヤヌキ)の8戸の他に川の口(コウノクチ)集落の10戸に 古穴手(フランテ)の数戸を加えて19戸であった。その19戸に、電燈を付けることが出来た。それは昭和 24年に九州電力によって点燈が開始されるまで、その間征矢抜バッテリー充電所の仕事は続いた。  22年に開始した発電事業が続いたその翌年、昭和23年の夏、古穴手の浜砂重久氏(故人、時の村会議長) が殿様から製粉機を借りて来たのである。つまり精米と製粉をしたならば、食生活の上でも改善がなされて都合 が良いだろうと言うのであった。それは良いこと一石二鳥というので、喜んで製粉機をすえつけることにした。 シャフトからモータにベルトをかけて、発電機や製粉機を動かしてトウキビ、麦、小豆、大豆、米等の製粉を始 めることにした。それは戦後の食糧難の時代を乗り切るために、製粉の便をはかって多少なりとも各家庭の台所 をうるおすことができたのである。6月のある日、武昭が昼飯に戻っていると、「おーいっ、うっ止まったどう 機械が」こうおらびながら覚が息せききって武昭の土じ(ドジ)に飛び込んできた。   ・・・続く [註]旧東米良村と現西米良村のお殿様(菊池男爵)は、西米良村に住まわれていた。この別邸は両村民が建てた。 旧東米良村の青年達が一生懸命に考えて行動した話である。ある本に寄せられた菊池のお殿様との思い出話より。
九月尽(2007.9.30)  朝から雨。午前8時、気温17度、「歩こう会」をキャンセルした。 「いにしえの道を辿りながら市の自然を体験しませんか」という市の広報誌の見出しに惹かれて参加を申し 込んだのが2週間前、夏空が続いていた。今朝は長袖に靴下を履いて丁度良い。一緒に歩く予定だった友人 が福島のお土産を持って来きてくれた。予定通り温泉へ出かけた。  ここは、とても若い町で次々と高層マンションが立ち並び、大型のショッピングモールが数箇所に出来、 遊園地なみの施設とショッピングセンターが建ち、買い物帰りに夕日を追いかけて走る距離が伸びた。今日 の冷たい雨の中、温泉の入り口は若い家族が傘立てに群がっては中へ消えて行った。わたしたちはここでお 昼をいただいた。いつもと反対側の道路側のショッピングセンターで甘いものを買った。しょっぱい味に弱 くなってきていることが可笑しくてならなかった。  「日曜美術館」を観た。平山郁夫氏のシルクロードに魅せられた。  一昨年の3月、箱根のポーラ美術館で親戚や家族と一緒に観た絵は画面には出てこなかったが、あの時、 母が「わたしは こん絵が好きじゃ〜まことええなあ〜」と言って、しばらくその絵の前に立っていた姿が 浮かんできた。今夜、私もそう感じた絵があった。氏の言葉がまさしくそういった気持ちになさせることを 証明してくれたと思う。「たしかなる営みのあった・・・跡の・・・」。  作品の中にそう言われるところの“確かなる営み”を想像することができた。もうひとつ感銘を受けた言 葉(意味合いにおいて)は「悲惨な出来事を美しく描く」。被爆体験者である氏は、平和への切々たる思い を、蓮の花に例えて語っておられた。「蓮の花は、泥の中から清らかに開く」と。平山郁夫氏の思いを感じ ることができて良かった。  確かなる営みの跡や影を、今を生きるひとたちが絵から受信できることは本当にしあわせなことであると思う。
 十五夜さま・・・銀鏡の頃 (2007.9.25)  今宵の月を外廊下から見上げてはまだまだまだまだだと言いながらキッチンに戻ってハンバーグを焼いた。 丸いハンバーグに義母が笑った。夕食の後片付けを済ませてベランダへ出て東の空を見上げると、出た出た 月が♪。マンションの屋根を越えてベランダ側に出てきていた。義母は手摺から頭を出して見上げている。 それからわたしたちは何度も空を見上げた。11時過ぎになると、お隣も下の階も上の階も、みんなで月を 観ているようだった。(子供たちの声がなんともうれしそうでいい感じ)    一週間前くらいまでは、上弦の月が太陽を追いかけるように西の空に沈もうとしていた。色は橙色で疲れ たように見えた。今夜の月は、零時過ぎているのに天頂あたりにいる。午前様で帰宅した夫は、愛用のカメ ラを持ち出して月を撮ろうとしたが雲に隠れていて残念がっている。しぶとくねばって撮影に成功したよう す。動画も撮ったようす。写真はこれからアップすると言っている。  遠い昔、故郷の縁側で曽祖父母、祖父母、父、母、兄、妹達と見上げていた十五夜さまのことなど義母に 語った。義母の思い出と重なる月見の風景は少し違っていたが楽しくて笑いあった。かすれた記憶の中の匂 いと色を描いてみた。どうも落ち着かないので妹に確かめてみた。 「縁側に直径30cmくらいの竹で編んだ笊に栗・柿・梨・早生みかん一升瓶にススキそして母の手作りの 団子。先日母に聞いたら葉っぱは柿の葉ではなくて何とかの葉だと訂正された。その何とかが思い出せない ・・・私は柿の葉っぱだとばかり思っとったけど。柿の葉だとくっついて駄目なんだってね」ということだ った。 そうだった!! 母の団子には漉し餡が入っていた。(お供え物の中に大豆もあったような?未確認><) ↓みんなで静かに月を観る。大人たちはなにやら話し始める。 私たちこどもはだんだん退屈になる。団子に目が行く。 すぐには食べられない団子だった。          ↓妹から送られてきた宮崎の月(23時撮影)     銀鏡(しろみ)の村のどこの家もそうであったと思う。龍房山が青く見える頃まで月を観ていたのだと思う。 今夜、父と母は、昔通りの月見をしたのだろうか。 日付は26日の午前2時になろうとしている・・・
 白黒写真・・・銀鏡の頃 (2007.9.20) 敬老の日に間に合わせたいと思ってから「写真捜し」を始めたのだったが今日もまだ出てこない。特に母 の小学生の頃の写真(カシミアノコートヲキテイルボウシノオンナノコ)が出てこない。 「篤農の神様 元市どん」(5/28付)と題して、祖父(母の父親)のことをここに書いたことで、母の良き 時代の写真のことを思い出したのであった。我が家にあるはずという思いから兄が持っているのではと気が 緩んだがまだ聞くのは後にしようと思えるようになってきた。 子ども会日帰りバス旅行(私6年生・青島こどもの国)、銀鏡大祭(母、兄、妹、私)、小学入学式(隣の つよみちゃんと)3枚の写真の出現で昭和30年代の村の思い出に飛び火して行った。大祭の写真の私は5歳で 肥満も肥満。黄緑のボックス型のオーバーコートを着ている。ポケットが二つあって黒猫のアップリケが付 いていた。私はこのポケットに手を入れるのが大好きだった。色の記憶は可笑しくもあり切なくもあるもの だ。生地の薄くなったこのオーバーコートを妹が着て、村の記念祭の日に写っている写真を妹からのメール 添付で見ることができた。妹も友達もみんな素晴らしくいい笑顔をしていた。貧しくとも豊かな笑顔をみて いたら思い出が深くなった。青島は、別の地区の子ども会の主催だったのだが、バスの席が空いているとい う幹事さんのお誘いで行くことができたのだった。兄は中学生だったので参加していない。父の照れた顔と 母の太陽のような笑顔が白黒でもよく分かる。  実家からこれらの写真を両親に内緒で持ってきたのはよほど気に入っていたからだろう。縁側で写ってい る兄と私(2歳)の写真もまだ出てこない。  写真と手紙を一緒に入れていた箱を整理し、両親からの手紙は大きなお煎餅の空き缶に移し変えた。母が孫 (私の娘)に平仮名で書いてくれた手紙をスキャナーで取り込みファイルした。語りかけてくる母の言葉を空 き缶にしまっていてはいけない。可愛いお年玉の袋がまとまって出てきた。袋の裏に「500えん。おばちゃ ん。」と4歳の娘が書いている。5円、1円、10円が嬉しくて足し算をして書いたのだと思う。「355えん。 まま。」「432えん。ぱは」「1001えん。おじちゃん。」「10000えん。おじいちゃんとおばあち ゃん。」書初めも出てきた。娘4歳「しつこくしない」。私は「克己心」。似た親子である。
 北の丸公園吟行 (2007.9.15) 秋天や・・・土曜日の東京駅は思っていたよりも空いていた。待ち合わせ場所の地下一階「銀の鈴」周辺 は工事中でとても狭くてベンチに腰掛けている人たちは帽子の人、扇子を使っている人が多かった。端っこ に仲間の二人を発見。次々現れて1時ちょっと過ぎに出発。計7名の吟行会となった。吟行会は、出欠の有 無を幹事に伝えなくて良いことになっている。この日初めてお会いした方に「はじめまして」とご挨拶をし ながら地上に出た。  丸の内ビルを抜け大手門から入って行った。銃眼の開いた白壁にメモを取る人。私は日陰の方へ方へと足 が向き仲間は幹事の向かう方向へついて行った。見失っては問題!!。「皇居正門石橋旧飾電燈」が一基植 え込みの中に置かれてあったが近づくのは次回にすることに。歩みは東御苑に向かうのだった。ここは昭和 天皇の大切にされた雑木林とあって自然も自然、林の中に山鳩か?? ツガイでのんびりの様子。キノコは 背高く堂々としていた。カヤツリソウを見て「昔遊んだねえ」と実際に裂いて大喜びするみなさん。私が遊 んだことが無いと言うと「冗談でしょう?」と。 カヤでは遊ばず裏山の大樹のツルでターザンをしていましたとは言えなかった・・・。  句歴の長いみなさんの話を聞きながら涼みながら指差しながら歩けば「これは季語です」「これには秋を つけるといいですね。秋の○○というふうに」と”歩く植物図鑑”さんが続々。「草花のハンドブック」を 携行しなくては・・・。林を抜けるまで私たちの前にも後ろにも人はいなかった。  石垣と黒松林と法師蝉と蜻蛉と、天高き青空。ヤマボウシは色づき始め、曼珠沙花は数株が芽を出していた。 天守閣跡には、方位を刻んだ石とベンチだけが置かれてあった。焼け跡の残る石垣が空気を縦に切り取ったよ うにそびえ、炎が走ったあとの黒い線はまあるくまあるく這い上がっていた。歴史を囲った盾に向かいしばら く体が固まって行くのが感じられた。  「お濠」を渡り北の丸出口を出て吟行終了。清水門に出るまでの道も良かった。階段に差し掛かるところの 左手に曼珠沙華の花壇があった。やがて群生となる開花期を待って手入れがなされていた。よく見ると数株に 蕾がついていてその辺りはニョキニョキと芽が、茎が伸びつつあった。この門を出るまで味のある閑寂さに浸 ることができた。この日の拾い物?失敬?をした記念に記したい。エンジュの鞘、ヤマボウシ、ハゼの実、茶 の実、風に吹かれて足元に来た葉っぱちゃん。ゴンズイの花。ゴンズイの花を始めて知った。  
 午後のコンサート (2007.9.09)  土曜日、コンサートが午後だったので、畑の作業は朝早くに済ませた。台風9号の影響で、トマト、キ ュウリ、ニガウリの支柱は倒れかかっていた。支柱を直そうとしたが、ツルの先端が複雑に絡み合ってい てブチッときれる音がした。ナスはとても元気で鈴生りだった。  シャワーを浴び、コンサートの会場へ(開館一周年を迎えたばかりの12階建て多目的市民プラザ)向 かった。「入場者先着50名様にCDのプレゼントがあります」と案内にあったがそのシステムは分からな かった。私は44番の番号をいただいた。すぐ後ろに並んでいた夫が手を出すと「ご一家で一枚です」と 言われた。傍から見ても夫婦らしくみえたのだろうか。551席を占めるホールはかなりの観客で埋まっ ていた。  吹奏楽プロ集団の演奏は、ラデツキー行進曲から始った。バッハ、ホルストの曲と続き、楽器の紹介が あった。それぞれが楽器を手に舞台の前に出てきて説明をするのだが、これが実に個性味の感じられる説 明であり、聞かせる音色であったので会場から笑い声や拍手が起こり舞台と観客がとてもいい呼吸になっ ていった。クラリネットだけの演奏で「鈴懸の径」を聴いたときは、その特徴や他の楽器との違いを平行 して感じることができた。途中から打楽器も加わって「マンボ」など。そして後半は「トップオブザワー ルド」「シング・シング・シング」などあって第1部を充分堪能できた。  第2部も素晴らしく且つユニークな企画だった。それは「我孫子オーディオファンクラブ」主催による 『オーディオの聴き比べ』で、デジタル録音された第1部での演奏を即再生し、同じスピーカを使いそれ ぞれの装置で(超ど級60`アンプと軽量1500cの会員自作アンプ)音の違いを感じることが出来る かどうか? という狙いだった。  プロ吹奏楽の音は大きく響いて難聴の私にはきつく感じられたが、そのあと、アンプ所有者が持参して きたCDで聴き比べるとそれぞれの特徴がはっきりと感じられた。私は軽量の基板のアンプに繋いだスピー カーから流れるジョン・コルトレーンのサックスに酔った。しかし、次に、超ど級のアンプと繋いだスピ ーカーから流れてきた亡きパヴァロッティのテノールにも酔った。「ボーカルは60キロの方かな? 楽 器なら1500グラムかな?」聴き比べから機器比べの結論が出た感じがした。  プレゼントのCDは番号順に残った中から選ぶようになっていた。ジャズが残っていたらいいなあと思 っていたらその通りになった。   
トンボの台風(2007.9.07)  今朝は早くに目が覚めた。外は激しい雨嵐。ブクブク水の湧いている音がする。サッシのレールに雨水が 勢いよく吹き込んでカーペットの上に流れ出ている。タオルをレールに差し込んで応急措置をとる。トンボ は、もう片方の窓の水の湧かない場所に避難している。こんなに音がしているのにうるさくないの?「トン ボさん、オハヨウ〜」するとトンボの頭はコクン 羽根はヒョロロ〜ンと挨拶しているよう。雨水のほんの すこし溜まっている場所に気持ちよさそうに頭をつけたり上げたりしている。トンボにとっては洗面器半分 くらいのお水かも知れない。苦しそうには見えないのでいい環境なのだろうと安心して掃除機をかけた。  トンボはびっくりしたように飛んだ。あ!!これは?覚えがある。赤ちゃんが掃除機や冷蔵庫や洗濯機の モーターの連続した音には平気で眠り続けているけれど、短く太く一気に出る音には反応が鋭く泣く行為に なって親を求めたりしていたような。トンボにとって掃除機の音は相当なショックだったのだろう。聴覚は どの程度なのだろうか?   掃除機をかけながらトンボを探す。こんなところに!! 壁の額縁の上のほうに止まっている。「そうか そうか、もう見ないようにするからね〜」と掃除機を片付ける。部屋に戻ると、また窓の下の水あるところ に移動している。戸を開けたいのだがトンボがまたショックを受けるとかわいそうなので妻側の戸を開けて 花屋さん、駐車場のあたりを見回した。勤めに行く人が車のドアーまで歩むがそれは難儀な動きだこと。車 が走り出すときは憤慨して去って行くように見える。お花屋さんの陳列棚が丸裸になっている。植木鉢は棚 (植木台)の下に避難している。これまで幾度も嵐の時があったのに私はなにを見ていたのだろうか。この 風景を撮らずにいられようか。   午後、雨上がる。吹き戻しの風が猛烈に吹いてきた。その中を買い物に出た。帰宅してみるとトンボはいな くなっていた。西の空が夕焼けているのを見ながらトンボには天気が分かるのかも知れないと思った。
くろまめの日(2007.9.06)  今日9月6日は、くろ(96)まめの日だそうだ。他にも語呂合せで“黒、くろ”のつく日としてご商売の ほうもなかなかしっかりしている。私こと、くろまめとしては何らかの記念日にしたいなあと思いつつ今日 を過ごしていた17時過ぎ、遭遇!!  私の小さな部屋の窓の外はベランダでそこに植木鉢をいくつか目隠し代わり兼観賞用として置いているの だが、ここのシュウカイドウの支柱の先にトンボを発見したのだった。台風9号が館山を襲っている頃、我 が家もいよいよ雨脚が強くなり風も出てきたので植木鉢のお引越しをしなくてはと窓辺に近づいた時、トン ボが東南向きに止まっていた。よく見ると風と闘っていることが分かった。ガンバレと小さく声を掛けた時、 クイッと真西に向いた。バランスを崩しかけたがすぐにトンボらしい止まり方をした。 チャンス!!描いた。 すぐにPCを開き羽の色で検索。「熨斗(ノシ)イトトンボ」だと思えた。そっと外を見るとシュウカイドウ の支柱にはいなかった。風に吹かれたのかと見回したら壁際のクジャクサボテンの支柱に移動していた。そ れから1時間後、それから30分後も居た。そして9時過ぎにも居た。9時半、暴風雨になり鉢を入れることに。 トンボはどの鉢にもいない・・・。入れ終わって夫が最後に部屋に入ってきたとき白シャツの胸にしっかりと しがみついているではないか!!もう嬉しくて嬉しくなって記念の写真を撮った。
 台風・・・銀鏡の頃 (2007.9.05) 9月と聞けば台風。こおろぎの鳴き音に秋を感じ一昨日の夕焼けに秋を感じ昨日の朝の澄んだ空気に秋を感じ 昨夜の大雨に秋を感じ今朝の湿度の高さに台風の進路は予報通りになるのだろうかとそんなことを思った。局 地的に雨が降っている。稲刈り半ばのところも、これから実るところも気の毒でならない。    私の遠い記憶の中に、台風の最中に、たんぼを前にして仁王立ちしている父の背中がある。そしてわたした ち子供は無邪気に真っ暗な部屋で遊んでいた。雨戸を閉めると、しりとりゲームやトランプの七並べや、歌や 昔話の始まりになって、ろうそくの炎がみんなの息で揺れていた。夕方になると祖母が(磨いて磨いて磨いて 神経症のように磨いていた)ランプをぶら下げてくれた。わたしたちは落ち着きを取り戻していた。 大人の心を知らず・・・。  10月、帰省しようと思っている。山に入ってみたい。木馬路(キンマミチ)だったところはどうなってい るのだろうか。道路が出来たということを何年も前に聞いたがそこを抜けてその先に行って見たい。小学生の 私が台風の日に雨合羽を着て妹と二人で柿を千切ったあの場所はどうなっているのだろうか。田んぼがあって 作小屋があって傍に水路があって、さらさら流れていた。細い道の途中の道にもここにも彼岸花が咲いていた。  こちら正午、28、2度、湿度79%   関東はこれから激しい雨となるもよう。海はシケとなるもよう。
 お盆・・・銀鏡の頃 (2007.8.26) 猛暑日と言う言葉が誕生したこの夏、我が家は仕方なくクーラーを使った。  自然の風がいちばんいいねえ〜と(暑くとも)暢気に言ってはいられないほどの白南風が幾日も吹き続いた のでとうとう使ってしまった。毎日のように温度計と湿度計を見て暑さを乗り切ってきたのだったが、少しの 隙間にうなりをあげて風が入ってきた。クーラーの温度設定を30度にしても涼しく感じられた。28度にす ると寒いくらい。風がようやく止んだかと思うとまた猛暑日がやってきた。クーラーを休めせることにした。  ベランダら見える花屋さんは、お盆用意の頃、入り口の引き戸をこまめに管理していた。買い物をするかし ないか客を見極められるワンちゃんの声はときどきしか聞こえてこなかった。私はお盆に帰省しなかった。御 供料に手紙を添えて送った。 先日、帰省した妹が実家の様子を「避暑地の気分です」と写真添付で知らせてくれた。 「お風呂場から見える景色は山肌と星空…。湯上がりにビール。おソーメン・ぜんまいと筍の煮付け・胡瓜と 若布の酢の物・小魚の甘露煮。空気や風が全く街と違います。父と母は70数年フィトンチッド吸いどおしと 笑っています。」 「写真は、朝露の残る草花越しに竜房山を撮りました。包丁の柄が傷んだので鹿の角を取り付けてくれた人は 〇〇ちゃんのお兄さんだそうです。まな板は(くろまめが)勤めていたときのだそうです。母には思い入れが あるみたいよー。」  このまな板は、私が社会人になってアパート住まいを始めたときに、お祝いに母が買ってくれたもの。そして それを今でも母が使っていることが嬉しい。帰省のたびに見ているまな板。母は一度も自分が買ったとは言って いないけれど私は覚えている。とても上等なまな板を選んで買ってくれたこと。一生懸命考えて選んでくれたま な板だ。母にまな板に感謝の気持ちで胸が熱くなった。  包丁の柄の立派なことに驚いた。私の中学同級生のお兄さんが作ってくださったと言う鹿の角の柄。鹿が鳴く たびに猟師さんたちに見つかるがあ〜と心配している母。「庭先まで出てきた鹿が窓から部屋を覗くもんじゃか ら私と目がおうて(合って)なあ。せつないもんじゃ〜」と言っていた母。鹿の角は、大事にこれからも使われ てゆくに違いないと思った。  実家のお墓は、20年位前にたくさんのお墓をひとつにして先祖代々のお墓にして供養した。傍らには西南の 役で無縁仏になった兵士さんたちのお墓もまつってある。  土葬が条例で禁止されてからどのくらい経っているのだろうか。お盆が近づくと、曾祖父と祖父の手作りの竹 のヘラを小学生だったわたしたち兄妹は受け取って、家の周辺、お墓周りの草むしりをしたものだった。鎌は危 険なので竹を削って薄いヘラにしてくれていたのだった。私は石垣の間の草がスポ〜ンと抜けるのが面白かった。 地面にへばりついている草はかなりがんばらないととれなかった。たやすく抜ける草に出会うと嬉しくて、そう でない草にぶつかるといい加減に途中でむしりとって叱られたものだった。曾祖父母が80代、祖父母が70代、 両親は30代だった頃の夏休みのひとコマが浮かんできて報告の便りは文字が躍りっぱなしだった。  便りを読んだ両親から電話があった。「こっちも元気だぞ。ご先祖様にしっかり報告するから」としっかりと した声だった。父78歳。母76歳。二人は数年前から通院している。今夏の台風4号、5号の時には、しっか りお薬を余分にいただいていたことにまだまだ自己管理の行き届く父と母だと思ったことだった。 (2008年追記:薩軍の兵士のお墓については、明治時代にご遺族の方がいらして大事に持ち帰られたそうです)
カーラジオから流れるフォークソング(2007.8.18) 週末の買出しに出かけました。久しぶりの涼しい空模様に景色がすっきりとみえます。朝、FMの番組表を見ると、 「今日は一日フォークソング三昧」で13時間放送するとのことでした。1969年から聴きました。あの頃は、 ギターが流行っていて男の子達は無理してギターを買っていたようです。先輩達が弾く歌の中で、面白いと思った のは、高石ともやの歌う「受験生ブルース」でした。団塊世代の受験が始っていた頃だったように思います。  途中、畑に寄り、ミニトマト、ナス、とり残していたかぼちゃをとりました。これらを親戚に運びました。夏の 名残のおすそ分けの最終日、信号待ちで「トアエモア・♪ある日突然」がかかりました。義母も一緒に歌いました。 次々とラジオから流れてくるメロディーにハンドルを握る夫と共通した時間が戻ってきました。1970年前半は、 知人友人の部屋のスピーカーは本棚の次に高さのある家具でした。ラジオもよくかかっていました。  陽水、拓郎、みゆき、ユーミン、チューリップ、かぐや姫、さだまさし、彼ら、彼女たちの歌詞と曲は、それぞ れの主張がそれぞれのファンを集めるすごい力を持っていたことを思い出しながら聴きました。13時間にわたる 生放送に1363通のメール、FAXがあり、155曲が流れたそうです。私は、聴いたり聴かなかったりした間に、 加藤登紀子、拓郎、チューリップを2回聴き、「イムジン川」(フォーククルセイダーズ)を3回聴きました。  
「千の風になって」(2007.8.15)  きのうの朝、テレビで秋川雅史さんが「千の風になって」について、多くの方がこの歌に惹かれているというこ とはどういうことなのかと感じたことを率直に語っているのを見ました。先ず、どのように歌ったらみなさんのこ ころに伝わるだろうかと考えたそうです。”リズムを付けない歌い方”にたどり着いたときの喜びはその表情から 読み取れました。  2年前、私は妹と飫肥城に行きました。宮崎、青島方面から国道220号線を日南方面へとドライブしました。 お城の大手門は見事でした。近くに苔博士(故人)の「服部亭」があります。広い庭園を眺めながら、懐石膳をい ただきました。他にお客様はお一人だけでしたから、「どちらからですか?」と声をかけました。お近くにお住ま いというご婦人は、「ここの庭がとても好きなんです。お食事も美味しいですし・・・よく来るんですよ」とおっ しゃって庭に目を向けられて・・・。 私と妹は、庭には出ませんでしたが廊下をぐるりと廻ってお庭を見ました。お屋敷のお部屋はいくつも仕切られ ていてそれぞれのお部屋でお祝い事がなされているようでした。部屋に戻ってくるとご婦人は庭をみてらっしゃい ました。「ここは、千の風が・・・」と続けてお話しをしてくださいました。「地元で教職を退いて間もなく夫を 亡くしました。寂しくなったらこちらに来て竹林の中に立つんですよ。竹のこすれる音が千の風を起こしてくれま す。あの詩を感じることができます」と。妹はご婦人のお気持ちに寄り添って話を聞いていました。  私は、このときはまだ(妹から聞いてはいましたが)詳しく知ろうとはしていませんでした。作者不詳の詩を新 井満氏が日本語に訳され、メロディーをつけられてからというもの多くの方々が楽曲をもとめられて、今ではセレ モニーの斎場で流れているそう。  そして今日、終戦日。 テレビで又印象深い言葉を聞きました。 「君は現実を生きて生きてほしい。僕は現実には生きられないけれど生きている」婚約者に宛てた最後の便り。 80代のご婦人が画面に映し出されていました。 「しあわせです」とおっしゃっていました。   「千の風になって」 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 秋には光になって 畑にふりそそぐ 冬はダイヤのように きらめく雪になる 朝は鳥になって あなたを目覚めさせる 夜は星になって あなたを見守る 私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 死んでなんかいません 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています 千の風に 千の風になって あの大きな空を 吹きわたっています あの大きな空を 吹きわたっています 明日は、送り火ですね。お盆と言う行事がとても大切に思われます。思う気持ちが風になるような気がします。
 茂子さんと「金子みすゞ」 (2007.8.10) 「夏休みの宿題は、『金子みすゞの詩の書写』です」というお便りが届きました。私の小さなお友達から でした。「それは、どんな詩ですか?。教えてください」と返事に書いて出しました。  3年ほど前でしたか、友人から分厚いお手紙が届きました。金子みすゞさんの詩に絵を添えた手紙でした。 絵と詩のほのぼのとした雰囲気がなんとも素敵でした。私は裏打をして額に入れ居間に飾りました。   小さな友達のお便りから大きな友達に繋がってびっくりしました。 当サイトの『しげこさんの絵手紙』の大月茂子さんからでした。 しげこさんに出会ってから7年になります。
 届いた暑中見舞い (2007.7.30) 「懐かしき笑顔の奥に時節(トキ)巡る」と友人から暑中見舞いの葉書が届いた。彼女と私はそうとう昔に、 ある広告会社の同僚だった。通勤電車が一緒だったこともあり、若かったこともあり、仕事と”さぼり”のぎ りぎりの口実で外国の会館に観光資料を見に行ったりしていた。実は、人のあまり居ないここでお茶をお安く 飲めたからであった。  営業(取材)の女性チームの第1期生の二次募集で幸運にも採用され、入社したものの戦場のような職場の 雰囲気にも、仲間達のアフターファイブの乗りの良さにも、なかなか乗れない堅物(それは言いようであるが) のわたしたちであった。標準語が話せない二人は素朴さが売りだった。  先輩たちが受注してくる仕事は、カラー刷りのトップだったり、長期掲載だったり、企画特集だったりと、 華々しいデビューを飾っていた。そんな成功体験まっしぐらの職場の中で、よくぞ耐え、よくぞさぼり、よく ぞ名刺を捨てずに配り、開拓取材に立ち向かって行った事か。    朝、出社するとすぐにコーヒーを片手に新聞を読んだ。紙面の中から匂いを嗅ぎ取るや、先輩たちは飛び出 して行った。私たちは嗅ぎ取ることは出来なかった。今は勉強中なのだからいいのだと思って、ゆっくり 読んだものだった。(上司はやがてやがてはと期待をしてくれていたのだと思う)彼女は英字新聞を読んでいた。 私は日経、産経を斜めに読んで疲れていた。やがて私たちにも仕事の喜びを体験できる日がやってきた。ちょっ とちょっとじわじわと広告のスペースも大きくなってきた。その頃は、ポケベル時代だったので管理はしっかり していた。鳴れば、「クライアントからかも」と期待するのだったがそういうことは少なくて、庶務からの連絡 事項だったりした。受注を報告して、帰社すると、「おめでとう〜○○社受注」垂れ幕に花が付けられ、拍手で 迎えられたものだった。当時、割付はコンピュータ化されていたが、紙面の構成は一切手作業だった。締め切り 間際の取材記事を製作チームに渡すと、キャッチコピーがつけられ記事が出来、写真またはイラストがつけられ、 クライアントの担当者と製作チーフがFAXでやり取りをしていた。締切日の夜は零時過ぎてもゲラ確認の電話が 入ることもあって気が休まらなかった。製作チームには、よく迷惑を掛けたものだった。その頃、「ビジュアル に訴えましょう」と提案していたものだった。今や、ノートパソコンで瞬時にビジュアル化できる。通信も迅速 に出来、紙の時代はとうに終わった。  彼女は故郷へ帰り、そしてあっという間に私達は歳を重ねた。「オリンピックイヤーのようなときを経た電話 での語らい、幸せなひとときでした」とユーモアがあふれていた。難聴になった私を案じてゆっくりとはなしを してくれた。故郷でドイツ語と英語の講師をしてもう20数年になるという。家庭菜園を楽しんでいること、昔 話を方言で起こして本にしたことなど4年前の電話では語られなかったことだった。私はすっかり忘れていたが、 「赤プリで(赤坂プリンスホテル)食事をしようね」とは私たちの話だった。再会が近い。
「中武ファーム」のほおずき (2007.7.27)   宮崎県・西米良村(にしめらそん)の(クリック) 「『中武ファームのほおずき』が届きました!!」と 親戚のK.Tからお礼のメールと写真が届きました。 私も昨年の7月に届いた時は、その見事な色と形と量 (一本の枝にたくさんの大きなハート型の実です)に 驚いたものでした。 今年はお世話になっているみなさんに実際に見ていた だきたくて贈りました。 日曜日から立て続けに驚きと感動の感想や写真が届い ています。(掲載の写真は、K.T氏によるものです) 福島の友人は、簾に挿して和の風情を楽しんでいるそ うです。そして、お友達におすそ分けをしたら、驚い て、それはすごかったと喜んでおりました。 我が家にも着きました。ご仏前に飾り、残りは花瓶に。そして3本はドライになるまでをゆっくり眺められる ように日中は居間の日の当たらない場所に吊るして目線をあげては楽しんでおります。 網ほおずきに、真っ赤なリボンをつけて横にしてボードの上に飾りました。   ”おすそ分け”いいですね。 私もそうします。
 彩り (2007.7.25)  さて、本日は梅を大きなザルに移し替えました。湿度が高いけれど干しました。お出かけするけれど雨は心配 ないから干しました。友人宅に仲間8人が集まって、コレクションの即売会の日です。 「一品持ち寄り」となり、私は”ところてんの特大タッパー”を風呂敷に包んで電車に乗りました。友人手作り の日傘も(7/14記)持って、スカートにスニーカーで行きました。  写真は、自分用に買った花瓶と鉢です。香合は、色、形、そして、あの人この人に<どうかしら>と楽しんで 選びました。私の思い描く友人たちの好みが一致するとよいのですが。     香合写真上左端から、京焼<手書きの絵は、平安神宮のしだれ桜の枝>(京都府)、内原野焼<造形の面白さ> (高知県)、江戸切子ガラス<墨田区錦糸の広田ガラスの作>(東京都)。 下左端から織部焼<モチーフは竹の子>(岐阜県)、小代焼 しょうだい<硬質な輝き>(熊本県)、中国、 下右の上部から、韓国、銅蟲細工<銅蟲本舗・伊東久芳堂の作。厳島神社の鳥居>(広島県)、備前焼<かわせみ >(岡山県)、雄勝硯<宮城野萩と金華山の鹿の浮き彫り。自然石小型硯をそのまま香合にしている>(宮城県)、 高岡銅器<富山県の県鳥・雷鳥>(富山県)、出西焼<装飾をつけず、黒釉をかけただけの素朴な六角高台つき> (島根県)。  こんなに美しい夏料理が揃いました。お皿も熊笹も自宅から持ってきていた友人もいました。 デザートも、全部手作りでした。水羊羹、カルピスムース、ワインババロア、果実ジュース(ブルーベリー)などなど。 ところてんを突くのが大好評♪ 色も色々、話題も色々、天窓からいい風が流れていてとてもいい日でした。       
第5回「女4人の旅」(2007.7.23) 私は地図が苦手だ。通行中の人や交番で尋ねることが常なのだが、今回は、人に頼らないで集合場所まで行き たいと思った。案内の通り、駅舎の下に交番があるのを確認。コンビニでお昼のお握りとお茶を買って、交番を 背に直進。左手にデパート。右手にケンタッキーの看板(案内の地図にはマークがない)が。ピリカラチキンと ビスケットとメープルシロップとコーヒーの香りが付いて来る。次のブロックに銀行、信号機、正面が集合場所。 旅の格好をした人たちが集まっていた。Yちゃんが先に着いていた。「おはよう〜。お弁当は?」「お肉が食べた くてカツサンドとお赤飯のおにぎりよ。そしてお茶」「私もよ。ケンタッキーがあったのね〜。おにぎりとお茶よ」 と見せ合いっこ(笑)。後悔するより行ってみようと行ったが開店5分前「準備中」の札が下がっていた。バスは まだ来ないのに。お肉を食べたいのに。コーヒーを飲みたいのに。これから出発という逸る気のせいか?肉に傾く のは・・・?!  定刻を少し過ぎてバスが着いた。今回は車も電車も使わない気楽に楽しめるバスの旅にしたの だった。行き先は湯西川温泉・伴久ホテル。外はポツポツ降り出した。 山へ山へとバスは曲がり曲がり上った。平家の落人伝説が残るこの里山は、宮崎奥日向の村とよく似ていた。 山がぐんぐん迫ってきた。今宵も「竹宵まつり」で道の両脇の竹の筒に灯かりが点るのだそうだ。       宿のサービスに「女性客に1200種の浴衣を用意しています。着付と番傘を持った記念撮影(4ポーズ)をプロが お客様のカメラで撮ります」とあった。私たちはのんびりと部屋で着ることにした。撮影の段になって私が左前に 着ていることがわかってプロから着付けてもらった。帯がもっと濃い赤になり、文庫結びの位置がもっと高くなり、 後姿は6頭身の少女のよう?   「左手をここについて〜指を立てて〜左足は、後ろにずらして〜右足は横にずらして〜はい。動かない!!」 「上体を前に倒して〜ハイ。動かない」「右手を上げて〜そこで止めて〜」と番傘の柄を親指と人差し指の間に挟む プロ。人差し指を立ててプロは静かに言った。「この指を見て〜顔を右に傾けて〜はい。にっこり。真っ直ぐ立てて 〜はい。にっこり。こころから笑って〜」私は、ニイ、ニイってこころで言ったが、プロは「ダメ、こころから笑っ て〜」と厳しいのだった。ハア〜〜イってにっこりするものの、ハア〜〜イを認めてもらえなかった。(4婆は20 年前ならニッコリうっとりできていたのでございます・・・。)それでも、文庫結びの4婆は、強いライトに照らさ れて「もう、恥ずかしくて 出来ないわよね〜」といいながらもプロの強制ギプスで決まっていったのであった。    他のグループを遠めに観察してみていたら、カップル達は、男性が正面に腰掛けて女性が男性の右脇に立ち(これが 基本姿勢らしい)、男性の肩に左手をそっとのせていた。そして女性の目を男性が見る(完結となるらしい)。プロが 人差し指を少し倒して、「はい。笑って〜」と言えば、ニッコリとなった。4婆よりも少し年上の、かなり年上の方た ちのお顔に”こころからの笑み”が生まれていた。夕食の席で、文庫結びの赤や黄色や緑や橙色がとても可愛らしく 感じれた。自分の姿を想像しても可愛らしく感じれた、のだった。       翌朝、「平家の里」へ。行きはバスで帰りは歩いた。「平家の里」で小雨に合い、止んだあとにカナカナが鳴くのを 聞いた。道草をしながら歩いていたら数年前に家族と来た「花と華」のすぐ側を通ったので、ここでお茶をすることに 。三人がクリーム餡蜜、1人がコーヒーを。山肌を水平に見て、川のせせらぎを底から聴き、4婆だけのフロアーで体を 休ませた。それからもうひとつ橋を渡って宿に戻った。いよいよ宿を発つとき、2本の幟を大きく振って見送られた。  龍王峡に立ち寄り、五十里ダムを左手に見ながら山を下った。  今日の宮崎、都城(ミヤコンジョウ)と西米良村(ニシメラソン)は、36.4度だそうだ。   
 届いた手作りの日傘 (2007.7.14)  台風4号の接近してくるのを、気象レーダーウェブで動きを確認したり、両親の住む市役所のHPで災害情報を 読んだりと落ち着かない昨日、今日だった。  テレビのニュースは、宮崎県内の様子を映し出していた。川が決壊して3000余名の人たちが避難したとい うではないか!!。心配でいたたまれなくなって実家に電話をした。  2005年の台風14号の時は、実家のすぐ脇に土砂が流れてきて、上の家の豚舎の豚さんたちが押し流され、 田畑が削り取られてしまった。村の各所で土砂災害が起き、家屋が崩壊した所もあった。市は迅速に工事に着手し、 地盤の緩みを防ぐ強固な壁が今年完成したのだった。母は、とても落ち着いていた。大丈夫だと思った。  ほっとしたところに、小包が届いた。  細長い形状の包み・・・あ!以前、予告を受けていたTさんからだった。 「はぁ〜い。お待たせしました。手作りの日傘、やっとできました。今、伸縮性のある生地を使ったソーイング 教室に通っています。その中で、傘を作るのを習いました。2年間通ってみようと思っています。後はアレンジで 作って行けたらと思っています」とメッセージが入っていた。  とてもとても丁寧に縫ってあった。表と裏がそれぞれおしゃれ〜 お花が表から見える♪ クルクル回してみた。 大きさも柄の長さも重さも素晴らしくいい!この夏はスカートにサンダル?スニーカーにスカート。楽しみ〜       
コレクション(2007.7.08) 久しぶりに友人の家を訪ねた。坂下の大きな桐の木はなく、戸建住宅が立ち並んでいた。時間はズンズン 進んでいるのだった。  部屋には、イギリスのムアクロフトの陶器が置かれ、傍には、和の「香合」が置かれてあった。聞けば、 これらの品々は、知り合いのコレクションということだった。1928年にメアリー女王から「女王の陶工」 の称号を与えられたウィリアム・ムアクロフト。そして、父亡き後、長男のウォルター・ムアクロフトも 女王より同じ称号を与えられたのだそうだ。このようにムアクロフトの作風は、見事に受け継がれ今日に 至っているのだそうだ。形状とデザインの見事な調和に多くのコレクターがいるとカタログに明記されて いた。私は色彩と図柄の大胆さに驚嘆した。じっと見ていたら、しだいにこころが落ち着いてきてゆった りとした気分になってきた。絵柄は、フィンチ(アトリ科の小鳥)、キイチゴ、キンポウゲ、アネモネ、 モクレン、チューリップ、スミレなど。  香合も知り合いが日本全国から集めたものだそうだ。陶器、竹、桐、鉄、銅など、和紙貼り、漆塗り、 下絵付け、上絵付け、角、丸、平べったいもの、高さのあるものなどなど数多く置かれてあった。茶道に 使うだけではなく、自分流に暮らしの中に取り入れたら面白いだろうなあと思った。友人から活用のアイ ディアを聞いた。薬味、アクセサリ‐、白粉、お塩、お砂糖、茶筒、楊枝入れなど、ター、ジャム、蜂蜜 などを入れたら、と帰宅してからも使い方を考えている。朝の食卓にこのような小物が二つ三つ並んだら 気分が良くなりそうだ。 「並べて友人たちに見ていただきましょう」ということで、ディスプレーのお手伝いをした。久しぶりの 訪問で気づいた水彩画(作者不詳)には、1904年11月6日と記されていた。   美しいものを見るのは楽しい。その鑑賞を伝え合うことも楽しい。  彼女の手芸品なども見るだけでは満足できなくなって、譲っていただいた。

七夕 (2007.7.07) 今夜の空を どれだけの人たちがどんな思いで仰いだだろうか。午後10時過ぎ、私も仰いだ。 星の見えない空。ネオンライトが雲にうっすらと紅をさしていた。流れて行く雲をみていたら、 胸の上を風が刷毛で撫ぜて行った。さわやかな気持ちになって行った。   短冊に書いていた頃の幼い日、私はなにを書いていたのだろうか。雨、曇り、晴れ、どんな空 でも晴れているのだと分かってからなにを書いていたのだろうか。夢は描けるものだと分かって からは何を書いていたのだろうか。「思うことが実現する」ということが分かってからはなにを 描いてきたのだろうか。  何十回も七夕の夜を過ぎてきて、今夜は、2007年7月7日で三つ、七が並んだ。夜空が日 日捲りカレンダーになって捲れて行って、今夜は大切な大切な人に出会った。ベランダの手すり がひんやりしてきた。ふと、駐車場を見ると、防犯のためのライトが煌々としていて、車から降 りてくる人の靴音が高く響いてきた。花屋の店先の花々に、駐車場の灯りが薄っすらとしていて とても静かだ。竹林の向こうは時々走る車のライトで竹山の形をくっきり現していた。 今日は、筑波の喫茶店で友人とランチをした。ここのミニギャラリーでは、水彩の静物画が10 点余り展示されていた。桃の絵の前で匂いを感じた。とんぼ玉のネックレス、ビーズのブレスレッ ト、イヤリングなど きらきらきらきらとてもやわらかかった。
「いとこ会」(2007.7.04) 7月1日出発。曇り。恒例の「いとこ会」を伊豆で開いた。 落ち着いた雰囲気の中で美味しいお料理とお酒があればいい。語り、歌い、そして、面白いところを見てみたい という8人全員の希望から伊東泊,修善寺泊となった。  横浜を通過。途中、熱海で「MOA美術館」に立ち寄った。能舞台と黄金の茶室と、メインロビー(標高260m) からの眺めに全員が和んでいた。揺らぐ空気の層の先に空が見え、日本庭園の緑は滴れていた。 特別展では、ガレ、ラリック、ドームのガラス工芸品を展示していた。昆虫や植物の繊細な形状をどのように して織り込んでいるのだろうか?   宿泊先で定時に合流。和の趣のあるお宿で語るほどにみんなが若くなっていった。翌、修善寺へ。照り曇りの 中、シャボテン公園でチンパンジーの未完の演技を見た。果たして未完か?演技か? 手話を交えて演技の説明 をする係りの人は熱演だった。120歳のシャボテンの前で全員が、そして横で銘々が記念撮影をした。85歳 の義母がひとり寄り添った時の写真が一番美しく撮れていた。これは一体、なん、なん、なんだろうか?  次は、天城山のイノシシ村へ。雨脚が激しくなってきたので浄蓮の滝は取り止めた。”競馬のような”「いの ししレース」が始まろうとしていた。入り口で番号の印刷してある三角くじを受け取った。「本日は雨ですので 連勝複式です」とアナウンスが流れた。私は1−4。仲間の3人もが3−5、5−3。観客30数名の歓声が上 がった。  選手6頭は、全部若い雌とのこと。顔見世が特に面白かった。コースの半分(観客の前)を走り、体調の良さ を見せてくれた。体に比べてみんな足首が細かった。私は、走り方と尾っぽの状態を観察した。おっとり走りの 尻尾はチュルリンクリン。セクシー走りは水平尻尾。ドカドカ走りはピーンと立っていた。内股走りは垂れてい た。ジャンピング走りはツンツン尾っぽ。トコトコ走りは揺れ揺れ尾っぽ。どの選手も健気で一途な走りをして いた。観客の皆が笑った。私は涙がでるほど笑った。私の「1ー4」は、おっとりさんとセクシーさんだから完 全に期待薄と見て取れた。 「3−5」は、内股さんとどかどかさんでなにやら力強い。選手たちがゲートに戻るとき私も一緒になって走っ た。みんなが笑ってもかまわない。もう可愛くてたまらなかった。ゲートに戻ってからドカドカ選手とジャンピ ング選手が興奮して今にもゲートから飛び出しそうになっていた。開いた!! すごいいきおいで山をかけ登っ て行く!! それぞれの尻尾は動かない。無駄な動きはしないのだ(たぶん)。早い早い!!。1番のしとやかさも4番のセ クシーも消え失せて猪になっていた。「3−5」は強い強い。ブンブン飛ばした。カッコが良くてそれこそセク シー。3人だけが 大当たり〜。賞品交換所でいのしし人形を受け取ってからまた不思議が!!。  3頭の背番号が3、5、7だった。保管されている中の商品を渡すとき、「非売品ですから」と言われたが、 そのことよりも、偶然に当たり番号だったことが嬉しかった。私たちは笑って笑って手を叩いたのですっかり 疲れ果てていた。温かいおそばを食べてようやく正気に戻れた。(と思えた)  それから、明徳寺へお参りをした。印鑑の押してある下着が売られているそのわけを聞いて、親しい方たち へのお土産にしたくなった。父へ母へにも。計10枚買った。  夜は、修善寺の宿のレストランで懐石とお酒。落日を見ながらゆっくり過ごした。翌、雨の朝食。窓外のゴ ルフ場を見て次回は、ここでプレイしょうということになったが・・・。三島駅でお別れして3時頃帰宅。
詩人・茨城のりこ(2007.6.18)  今日もよく晴れた。一昨日漬けた梅酢が6割方上がってきていた。朝刊をゆっくり読んだ。雑誌の広告もゆっくり 見た。7月号『いきいき』の広告をみていて、茨城のり子さんの写真に目がとまった。美しい意志のあるお顔だ。 ああ、このような眼差しの方だったのかとしばらく見入っていた。我が家の前の図書館は7月1日で開館20周年に なる。7,8年前にこの詩人の詩集を借りて読んだことがあった。      「自分の感受性くらい」 ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ
 時の日の『堀 文子展』(2007.6.11) 日曜日、雨の降らないうちに家を出るつもりでいたが、テレビ「新日曜美術館」を見ていたら、”堀文子展開催中” を知った。日本橋高島屋なら句会場の京橋の次の駅だ。もう雨でも雷でも行くのだと落ち着いた気持ちになってきた。 じっくりとテレビ「波乱万丈」を見てしまった。  案の定、雨は降り止まず途中の駅で電車が止まった。日比谷線に振り替えて京橋へ。京橋の次は日本橋なのだから 笑みが出てきて仕方なかった。京橋駅下車。いつもは明治屋の中に入るのだがそういう時間は使い果たしていたから とにかく急いだ。句会に遅れた理由が「テレビ」また「テレビ」とは言えなかった。句会終了の午後5時まで私は縮 みっぱなしだった。 堀文子さんの絵を初めて見たのは、2004年(H16/8/創刊『サライ』)の「命というもの」の挿絵からだった。 当時文子さんは86歳。まろみのある命と、燃えて朽ちゆく命のモチーフは、邸のお庭の木々やお花やお野菜だった。  昨年私は、積んでいた「サライ」や他の雑誌などを整理した。をりをりの「思わぬ拾いもの」(2006/06/02)の中に 書いている。残念だが文子さんの絵も文章ももう戻ってこない・・・。  展示会場では、DVDで現在の文子さんを紹介していた。藤棚をスケッチしながら「こうやって対面して」とお顔を上 げたり下げたり「語らないとダメねえ。昨日と今日は違うし今とさっきは違う。変わる様子を見て描きたいわ」という ようなことをおっしゃっていた。 文子さんは、現在、89歳。常に新しい。                『堀 文子展』開催 日本橋高島屋6月6日〜25日            京都・高島屋8月15日〜20日            大阪・高島屋9月12日〜24日            横浜・高島屋10月11日〜22日  
 「銀上小学校のグランドピアノ」(2007.6.6)  久しぶりに故郷・宮崎の新聞をネットで読んだ。橘公園でブーゲンビリア満開という写真が出ていた。過 去の記事を捲っていたら、『「昭和の音色」酒蔵で復活 美郷町でピアノコンサート』 という見出しが飛 び込んできた。”昭和の音色”って?どういうことだろうかとにわかに気になってきた。 ↓以下、2007年5月28日付、掲載記事抜粋。    製造から50年以上が過ぎ、廃品寸前だったグランドピアノをよみがえらせる「酒蔵コンサート」(同実 行委主催)は26日、美郷町北郷区の甲斐酒造であった。戦前に建てられた昔ながらの酒蔵で音色が共鳴し、 訪れた地元住民ら約250人は酔いしれた。  グランドピアノは1953(昭和28)年に製造。昨年7月まで西都市の銀鏡小で使われていた。珍しい 丸足のこのピアノは、大半の部品が故障。直すには数十万円の予算が必要だったため、廃棄処分の予定だっ た。  西都市教委から相談を受けていたピアノ調律師太田守人さん(57)=宮崎市佐土原町=が引き取って自 費で修理。鍵盤を張り替え、表面も黒く塗り直して再生させた。  知人の縁で、甲斐酒造の酒蔵を会場にしたコンサート構想を持っていた太田さん。ピアノの復活とあわせ、 同酒造の甲斐文代さん(58)に開催を呼び掛けて実現した。 (注:銀鏡小→銀上小のこと) 【写真】復活したピアノによる酒蔵コンサート    私は、この写真を見てすぐに思い出した。講堂(死語になってしまったのか)の舞台の左下に据えてあった このピアノの姿だった。黒のベルベットのカバーがかかっていた。広い講堂の中でも大きく見えたものだった。 ここでいろんな歌を歌った。全校生徒に歌集(B6サイズで文部省唱歌がガリ版刷り)が配られていて集まりの 時は必ず歌集を持って集合していた。タンタンタヌキノ・・・♪♪♪とか、ネコフンジャッタネコフンズケタ ・・・♪♪♪の行進、退場の区別があったような??。声に出して笑いながら講堂に入り出て行っていたよう な??。ピアノを弾いていた先生のお顔も??だったような確かなようで不確かな思い出が浮かんできた。学 芸会のときは、ピアノの周りにも家族の席が出来て、幕の内弁当ならぬお弁当の交換の場所にもなっていた。  このピアノは、妹が5年生のときに発表会で弾いたことがあった。指が長いという理由で選ばれたのだそう だが・・・お嬢様になった気分がしたそうだ。  昨年の7月までよくぞ持ちこたえてくれたものだ。引き取って自費で修理をしてくださった調律師・太田守 人さんに感謝したい!!と思った。
 続「輪ゴムと飴の思い出」・・・銀鏡の頃 (2007.6.6)  飴といえば、昭和30年代はおばあちゃんのアクセサリーだった。子供を見ると他所の子にも「はい。ええ 子じゃねえ〜」(いい子だねえ)と頭を摩ったり手を撫ぜたりして渡していた。そこは、縁側や囲炉裏の端や 枕元だった。私は曾おばあさんが寝ているところに、こっそり行って、お決まりの棚に置いてある空き缶を開 けて失敬したことが何回かある。キャンディーボックスは、ミルクの空き缶だった。一個一個をシャラシャラ 紙で包んであるキャンディーはフルーツの味がした。琥珀色の五厘玉やきな粉芋飴、豆の入ったやや黒味がか った飴などがガシャゴシャグァラグァラ入っていた。そしてそれは日が経つとネチネチベチャベチャとなって いたのでもう失敬はしなかった。手に受けたとき「おーきん」と言っていたはず。「おーきに」だったかも??  あの頃、村の年配の婦人は、みんなみんな手首に輪ゴムをしていた。祖母と曾祖母は左右の手に数本の輪ゴ ムをしていた。お風呂に入るときもしていたのだろうか?。輪ゴムと輪ゴムの間には衣類から出る綿ぼこりな どの白っぽい塊りがついていた。手はとても大きく長かったような気がする。指がゴツゴツしていて静脈の浮 き出た手の甲が懐かしい。掌はとても柔らかかった。祖母は末の妹(私の)を背負って髪の毛が妹の顔にかか らないように手ぬぐいでアップして「○○ちゃんはいいこだ〜ねんねしな〜」と歌いながら縁側をソロリソロ リと歩いていた。曾祖母は着物に長い前掛けをして滑るように縁側に出て来て、チョコンと正座をしていた。 祖母も曾祖母も私も、飴をゆっくり舐めて薄く薄くなるまで舐めていた。私はガリガリカツカツとすぐ噛んで いたのでよく二人から注意されていたのだった。  前髪を下に下に引っ張る癖が抜けなくてこのことも注意されていた。それから「うそ〜ほんと〜〜ほんとや 〜」って聞き返すことも注意されていた。飴がとりなすひとときは幼心にもゆったりとした湿っぽさを吹き込 んでくれていたように思う。
 輪ゴムと飴の思い出 (2007.6.6) 農園のおばあちゃん(90歳)にイチゴジャムのお礼に黒飴を買った。今年のは、甘さ控えめ酸味がやや強い。 「おばあちゃんのジャムを熱い紅茶にたっぷり入れて蜂蜜を入れて飲みました。バニラアイスクリームの上に載 せていただいたらイチゴアイスクリームになって贅沢な気分になれました」とご報告をしよう。先日もおばあち ゃんはジャムをタッパーに入れて「コレが無くなったらまたコレを持ってくればいいよ」と喜んで畑に運んで来 て下さった。コレに黒飴を並べておリボンで結んだ。  畑を丁寧に食べているからこんなにお元気なんだなあとおばあちゃんの畝を見てそう思う。おばあちゃんは、 500本のイチゴの苗を植えたそうだ。そのうち200本は息子さんが「これだと畑に居る時間がのびるので 心配だ」という理由からおばあちゃんと相談して土を被せてしまったそうだ。息子さんは敷地内の事務所から 朝昼夕に畑を覗いて母親の様子を見ている。おばあちゃんは大きな丸い目覚まし時計を置いて、テレビ「おも いきりテレビ」の時間がくるとお家に戻って行く。夕方、我が家の畑の義母の白い椅子に腰掛けている。ある 日、おばあちゃんに椅子をすすめた義母だった。以来、義母が居ても腰掛けている。義母が木陰に腰を下ろし たら、おばあちゃんが強い握力で引っ張り起こしてくれたそうだ。わたしたちは畑に二つ椅子を置いた。その 内一つが壊れた。そしておばあちゃんはパイプ椅子を置くようになった。が、やはり白い椅子のほうが心地い いようだ。(つづく)  
 続「篤農の神様 元市どん」・・・「東米良村史」(2007.5.28)   「不断から奥さんの内助のお陰であると言って、オナカさんを連れて伊勢神宮参拝をし、そのほか各地を旅行 して妻の労を労われた。旅行から戻られると地区の人々を招待してお祝いをされたそうである。また新しい話 し(昭和)では地区に始めて電灯が点ることになったが、九州電力は、「戸数が少なくて然も家が散在してい るので採算がとれない」との理由で直配してくれなかったそうである。そこで、「電気組合」というものを結 成して自費で設備一切を負担したのであるが、その経費は地区の責任に於いて共同で木炭を焼いて拠出金を納 入することになった。そのとき自分が手塩にかけて育てられたクヌギを木炭原木として無償で地区に提供され たのであった。元市どん程の愛林家にとって木は我が子同様に大切なものであったことだろうがこんな場合に は、進んで投げ出される。此の事実は、当時同組合の会計の任に在った小生が周知しているところである。」 (以上、「東米良村史」より)  「村史」に載っている元市どんの写真は、紋付袴姿で五分くらいの頭髪の眉の太い目の大きい皮膚の厚そう な小柄そうに見えるそうだが、最後の行に、 「こん人は、山栗の実が路上に落ちていたのを拾って帰られたが入れ物が無いので褌を(ふんどし)外してこ れに包んで肩に掛けて帰っておられた。常にパンツを履いていなかった。他にも精進振りやエピソード等は枚 挙に暇の無いほどであるが篤農家としての元市どんはひとまずとめ置きとしよう」(以上「東米良村史」より) 大工の元市どんは?気になってきた。「三塚」という地区名に手がかりがありそうだ。資料によると、三塚 には大正昭和に水力製材所があり奥には広い面積の山林があったげな。業者が次々と入山し収出された木材は 此処で製材され、初期は馬の背や川流し、中期頃になると水練式トロッコ、後期は軌道に依って搬出されてい たと記されていた。 「『「銀上小学校」の建設時に、棟梁として西洋建築の校舎を建てらいたっちゃげな』」という(母から聞か された)ことは記されていなかった。  総棟梁を努められた福松どんを「日和を食はる福松どん」と人物伝に記されてあった。朝、村の人たちに会 うときまって「これはまあ、うまい天気でありますなあ」と挨拶をする人であったげな。  村史に登場する人物はとても愉快だ。深いのか浅いのか(こちらはないと思うが笑)私は『東米良村史』を いよいよ読まなくてはと思っている。    今回、母方の祖父のことを知ったことで、いよいよ探さなければと思った物がある。それは、昭和初期に三 越デパートから取り寄せた末の娘(母)の帽子、フード付のカシミヤのコート、革靴姿である。帰省する度に 母から「あん写真はどこに行ったちゃろう?あんたたちはしらんねえ?」と言われているからである。
「篤農の神様 元市どん」その1・・・「東米良村史」(2007.5.28)  こん人は、元市どんと呼ばれていた。西米良の小川から三塚に養子に来られた大工さんじゃったが、篤農の神様とも 謂うべき人で大変な努力家じゃった。奥さんはナカと言う人で元市どんはオナカヤンと呼んでおられたそうな・・・。  人物伝記などが収められている『東米良村史』は、九州の奥日向の銀鏡(しろみ)が舞台である。 「村の成り立ち」「暮らしと(農林業)生計」「しきたりと伝統芸能(神楽、記念祭、祝い歌、民謡」「言語(米良弁 )」「人物伝」などを後世に遺そうと発起人、河野開・浜砂次雄氏の情熱で10数年前に成されたのであった。私は実 際の本を読んでいない。納戸の整理していたら「村史」の元となった原稿(ガリ版刷り)が出てきた。おそらく資料の 一部に関わった人たちに青焼きをして渡したものであろう。原稿は、両氏が60歳前後の1970年頃から数年にわた って調査加筆がされている。その中に私の母方の父、つまり祖父である元市のことが記されていた。祖父の記憶は私に は無い。母から聞くことも無かった。祖父が「どう生きたか」を知ることができて嬉しかった。  元市どんは、毎朝前の川まで洗面に行き必ず石垣にする石を一つずつ担いで帰り、そん石を積み、田を開きやったげ な。又、三塚の奥にハタノヤマと言う所があり、そこにも元市どんの開田に依って新田がでけたげな。野の草を刈って 堆肥にしたり、落ち葉を集めて堆肥としたりして管理しなさったげな。そん努力は大したもので文字通り朝は明星、夜 は夜星と言ったところであった。又、こん人は、たいへんな愛林家であり若い頃から育林の必要性を強調されていた。 或る年に村の地区祭がありましたときに杉の苗木を持って、出席区民に対して育林の重要性を説かれた。そのようにし て自分が実践するに止まらず他人にも大いに奨められることを忘れなかったお人じゃった。説明を終わった苗木を帰り に道端に植えて帰りやった。又或る時は、造林の楽しさについて、「杉の造林地に行(いっ)てなあ。石の上座って見 れば杉のセビが風に吹かれてナミナミ(波が寄せて来るように)してなあ。日暮れえて見とってもあんどせん(飽きな い)もんよ」と言っておられた。  或る時、村の道路整備の作業(共同作業の道普請)があって元市どんも出役された。作業中に道の邪魔になる石を下 に転がされたところ杉の木に当たってしまった。じっとこの木を見ておられたがやおら鍬をそこに置いて、木の傍まで 降りて行き傷ついていないかどうかを確認されたそうである。辛抱家で且つ自給生活に徹する人で常に何かを考え即実 行に移す人であった。ガリガリの人ではなかった。お金を貯めて”尺祝い”というお祝いをされたことがあった。「尺 祝い」とは、紙幣を積み重ねてその高さが一尺(33cm)に成ったことを祝う行事である」 (以上、「東米良村史」より)  (つづく)
畑日和(2007.5.20)  青葉茂る桜並木を車でゆっくり走って畑に到着。私は昨日買った長靴に履き替え、これも昨日買った吸湿性の良い 手袋をつけて、小さな橋を渡った。農園の持ち主のおばあさん(90歳)が休み休み土を掘り起こしていた。    昨日の雨は我が家の畑を想像以上に水浸しにしていた。ネギ、サヤエンドウ、インゲン、ミニトマト、ナス、キュウリ、 アスパラガス、ニラ、ズッキーニーは被害なし。ジャガイモは端っこに水が溜まっていたが異常なし。カボチャは危うし。 わたしたちは溜まった水を近くの小川まで流すことにして水路を掘った。粘土質の土と張り巡らされた草の根で土がビク ともしない。夫がスコップやクワを使って道筋を作ってくれたけれど水路になるまでそれはとてもハードだった。 2時間ほど続けていたら少し水が動いた。しばらく様子を見ていたら水の動かない場所が分かった。そこを掘ると動いた。 面白くなってきた。  給水タイムを取り、私は草の上に座ってポカリスエット500ccを一気に飲んだ。夫は立ったままホット煎茶を飲み飲み、 「草の上に平気で座れるのはやはり山の子だなあ」と感心?喜んでいるではないか!!可笑しくて大笑いした。義母は、 指定席の白い椅子に腰掛けてホットミルクティーを飲んでいた。その背中がキューんと折れて「お蛙さん」と声がした。 山の子は「カエルなの?」と聞きながら近づいて行くと、そこにはたっぷりの湿気の中で元気にしている青蛙がいた。 「そう、お蛙さんよ」と義母はしげしげ見ている。一緒になって見ていたら「あら?あなたたち、なによ〜ん。珍しい 顔して〜貴方たちの方がよっぽど珍しいわよ〜ん」っていうような顔で(美川憲一かい?)私たちを見たのであった。 それからまた1時間ほど掘った。しばらくは大雨が降っても安心だ。義母は、私たちの”水普請”の間に、モロヘイヤ、 オクラ、青紫蘇、インゲン(2度目)の種を撒いていた。    本日の収穫  キヌサヤとアスパラガスと試し堀りしたインカのめざめと白い花。  キヌサヤは、人参と一緒に煮びたしにしていただいた。  アスパラガスは、茹でて、そのまんまいただいた。  インカのめざめは、茹でたのを三等分して(約1センチ)いただいた。 引き締まったコクのある味がした。  花の名前は分からない。
「昭和の日」(2007.4.29)  平成19年4月29日。祝日。 定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ということだそうだ。  今日は朝からよく晴れていた。20個ほどある植木鉢をベランダに出して水をあげ、夏野菜の種苗を買いに出かけ た。園芸店の庭の肥料置き場は暑さのせいで臭いが立ち上っていた。花々はそれぞれの買い物カートの中で揺れてい た。買い物客は団塊の世代らしき人たちが多く見受けられた。日陰で園芸家が肥料や水のあげ方を講習していたがこ こでも熱心にメモをとるのは団塊の世代だろうかか?。    苗も日陰で売られていた。茄子、きゅうり、ミニトマト、唐辛子、かぼちゃ、ピーマン、ズッキーニー、ししとう を買った。種は、いんげん、にがうり、青ちりめんしそを買い、お花も植えましょうとなってヘリクリサムの種を買 った。明日は畑で半日励むとしよう。  レストランでも趣味のコーナーでも団塊の世代らしき人たちが目立った。色鉛筆と塗り絵のセットや水彩画の本な どがよく売れていた。私は色鉛筆を買った。  ネットで面白い記事を読んだ。それは、YOMIURI ONLINE(読売新聞)の『写真今昔』の中の「昭和39年九州発」 だった。         http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/showa39/sh_index.htm  ここには、懐かしい宮崎があった。大淀川や宮崎駅、旭化成など当時の写真が映し出されていた。福岡、佐賀、長崎、 熊本、大分、宮崎、鹿児島、山口と情報が満載だった。  昭和39年といえば、第18回オリンピック・東京大会開催。歌謡曲では「♪愛と死を見つめて」。書籍ベストセラー は、『愛と、死を見つめて』。テレビでは「逃亡者」が流行っていた。  もうひとつ、ユニークなコラムを紹介したい。筆者自身の海外での経験を活かした英語についてのコラムだ。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/eigo/                                八ミリの編集なかば春夕焼    くろまめ
夕焼け(2007.4.28) 金曜日、北鎌倉駅から150mほど歩いた所にある「鎌倉古陶美術館」へ行った。戸塚で乗り換えた辺りから外の景色 が目に入ってきた。北鎌倉駅のホームは牧場の木の柵のような感じがした。降りると女子高生が集団で列の先頭を塞いで いた。SUIKAのカードを読み取る機械が独立した場所にあってその機械におば様軍団が割り込んでいたのだった。小 屋のような駅舎のゲートは人を止めるためのハネがなかった。マナーの悪いおばさま軍団の一人が「あら、並んでいたの ?ごめんなさい」と女子高校生たちに詫びていた。女子高生たちは無表情でどうってことない様子。降車するとき混んで いてもグイグイ周囲の体を押して押して出て行くあの態度と同じだった。おば様たちは「すいませ〜ん。降ります。ごめ んなさ〜い」と声をかける軍団だった。  今回の企画展「高橋まゆみ創作人形展」は、『故郷からのおくりもの』  先ほどのご婦人たちも一緒だった。10時開場を10分過ぎた頃だったのでゆっくり見ることが出来た。人形のモチー フは、日本の農風景。おじいさん、おばあさんたち、幼子たち、大家族、朝、昼、夕の時間。作家は独自の世界を展開し ていた。  
 おじいさん、おばあさんの額のしわは深くて濃い。腰は曲がっていても伸びている。太陽のような笑顔。顎は、どの子 もどの大人も”シャクレ”ている。衣装や小物は手作りかどうか分からないが、昔の布のリサイクル。今にも会話が聞こ えてきそうなリアルな表情としぐさに皆涙して見ていた。二階の展示室では、黙ってお酒を飲むお父さん、黙って穴を見 つめるおかあさん。花火をしている家族。花火を見上げているカップル、親子、夫婦、老夫婦のお人形が並んでいた。炬 燵に対面して座っている老夫婦は同じ空を見ている。お葬式の遺族の席で皆が泣いている中にぽつねんとしているおばあ さんが居る。なにもかも枯れ果てた表情・・・。  大家族の食事風景。囲碁をするおじいさんと孫は、孫が強い。にらめっこするおじいさんと孫は、おじいさんの勝ち。 おばあさん二人が畑で一休みしている。その目は遠い昔や今の景色を見ているような。学校帰りの子供たちを見ているよう な・・・。書置きをして家出するおばあさんの背負っている籠から鍋釜傘などがはみ出している。「お世話様〜。嫁と話を するくらいならプンプン」と頑張っている。雪の中おばあさんを探し出して一緒に帰ろうと肩をすっぽり抱いているおじい さん・・・。みんな優しくて温かい。切なくて温かい。    展示室は、人でいっぱいになっていた。人は重なるようにして人形を見ていた。男性もちらほらいた。みんな黙って見て いた。戦前はどこも農家が多かった。戦後は初めて農業をする人がいた。曾祖母を見て父母を見て育ってきた子供たちには 孫が居たりしている。そういった世代の子供時代の春夏秋冬の風景が思い浮かんで寡黙になっているのだろう。私は大家族 で育ったのでおじいさん、おばあさんの表情がぴったりあてはまっていたのでもうたまらなくなってきた。  作家の創作過程をビデオで見た。「これからは障害のあるお年を召した方たちを表したいです。みなさんはとてもいい表 情をされます。いろいろ気付かされます」と言っていた。そしてお人形が完成したときに彼女は赤ちゃんをあやすようにし て胸に抱いて背中をさすった。ビデオを見ていた人たちの中から「わ〜」って声が上がった。私も同時に声が出た。感動も いろいろあるがこれほど感動したのは久しぶりだった。   
 カレン・カーペンター (2007.4.22)  先日テレビで見たリチャード・カーペンターの話を聞きながらいろいろ思い出されることがあった。  彼らが来日したのは、過去3回(1972、1974、1976年)だそうだが、私は1974年の武道館でのライブ を兄の寮に遊びに行っていた時に偶然に見ることができた。カレンは、ブルージーンズに白い綿シャツで舞台の端から端 を飛び歩いて歌っていた。ジーンズの裾にミッキーマウスのアップリケがついていたことも思い出した。    その日は土曜か日曜日だったはず。兄の同僚たちが洗濯機を回していた。兄の部屋の天井には対角線上にロープが張ら れていた。靴下や下着が掛かっていた。「妹だからまあいいかあ〜」と兄は愉快そうだった。部屋の中は、一番大切にし ているかのように見えたレコードプレイヤー、虫の標本、書棚など、壁際に3mほどの太い青竹が”生えて”いた。兄は、 「♪ミッシェル」を聴いていたが中断してテレビをつけてくれた。カレンとリチャードのサウンドは明るく甘くそして洗 練されていてどこまでも青春性の広がりがあった。  その頃のアメリカは、ロックとヒッピーの文化の中にあった。日本ではロングヘアーにラッパズボン、バミューダショー ツ、マキシスカート、靴底の高いコルクのサンダルなどが流行っていた。私の友人の三千代ちゃんは(2004年5月20日逝去) ベトナム反戦集会に出てシュプレヒコールを挙げていた。彼女に誘われて映画を見たことがあった。タイトルは忘れたが、 あれほど辛い映画は二度と見たくないと思っている。もうひとつの映画『追憶』は、ウーマンリブのはしりと思われる内 容で男女の20年の歳月の出会いと再会そして別れに感動し、ヒロインのバーバラ・ストライサンドのアルトの声と、ご くごく普通の容姿に驚いたものだった。映画は日本では1974年に公開されている。1975年4月30日ベトナム戦 争は終わった。  カレン・カーペンターもアルトだった。陽気に笑う大きな口がとてもチャーミングに映った。カリフォルニア生まれの おおらかさを感じたものだった。(しかしこのときすでに摂食障害、拒食症が始まっていたとは・・・。)私はこれまで 彼らの楽曲を買うことをしなかったが、今回、リチャードが語ってくれたカレンへの思いに引き込まれて彼女の声が聞き たくなってCDを買った。「♪青春の輝き」「♪愛のプレリュード」「♪トップ・オブ・ザ・ワールド」「♪雨の日と月曜 日は」「♪遥かなる影」「♪あなたがすべて」など、訳詞を読んでいてくすぐったくなってきた。カレンの声は無理のな い素直な伸び伸びとした青空のように澄んで若い。リチャードが苦心したという楽器の少なさがカレンの声を一段とひき 立たせてくれている。音量を”3”にして繰り返し繰り返し聴いた。 カレンは、今、生きていたら56歳という。
 続「ふるさと広報誌」・・・宮崎県西都市 (2007.4.16)  昭和30年代、杉の山も竹の山も田んぼも畑も、村にいっぱいにあって空は狭く高かった。  その頃、赴任されてきた滝一郎先生は、理科の先生で(後に植物博士)職員室の前庭に百葉箱を設置された?ように記 憶している。兄が百葉箱の観測記録係りになって休まず観測を続けたことを憶えている。幼い頃の興味と歓喜は成人して から後も続くものらしい。兄は確かに気象観測に長けている。    先生は、休日になると、野草、草花、樹木、花木、苔などに名札(木の札に大きな墨文字)を歩いて付けておられた。 名前にルビが振ってあったので、私は声に出して読み上げていたが興味は先細りになって・・・いまだに図鑑がないと始 まらない。  さて、この度の「ふるさと広報誌」の読者の声の蘭に、「『滝先生の”一ツ瀬植物夜話”を楽しみに待っています!!』 」というファンの声が複数寄せられていた。あのメガネの先生のことだ!! 私は背表紙を見た。読んだ。シリーズ第43 話は、「茅葺きの家」についてで、先生のご体験をふまえて叙情的に話をされていた。(*〜*r抜粋) **************「屋根の葺き替えは、すべて組中の共同作業であった。そのために集落毎に世話役を置き、 普請組合が作られた。葺き替えの順番が来た家は一生に一度の大行事であった。集落は毎年大量の茅を必要としたので、 春の野焼きや草刈など、協力して原野を育てた。宮崎県地名大辞典を見ると、一ツ瀬川流域に茅原、茅生、茅場、立野と いう地名がある。これがススキを育てた茅山である・・・。」**************************  米良の茅山、「立野」の写真一葉。銀鏡(しろみ)の「茅葺屋根」(昭和35年撮)の一葉。動かない歴史の一端に触 れて昔の村が形になって浮かんできた。 今、村のどこにもわらぶき屋根の家は???  さて、二千円(笑)、4月号が私のこころをまだ掴んでいる。              げんげだやあの子がほしい花一文    くろまめ
 「ふるさと広報誌」・・・宮崎県西都市 (2007.4.16)  14日は県内各地で青空が広がり我孫子市では25度を記録する夏日になった。  丁度1週間前に見た、”満開の今井の桜”は、青空を透かして水路に太い幹の影を映していた。地べたに張り付いていた タンポポの花は茎を伸ばして陽光を燦々と浴びていた。スギナは丈を伸ばし、オドリコソウはよく太り領域を押し広げてい た。長い一本道は、わだちの筋をくっきりと見せていた。梨畑は白い花の盛りに入っていた。  故郷・市の「広報誌」が届いていた。首都圏で暮らす本市出身者に「ふるさと情報サービス」を開始したとのことであっ た。「4月号をサンプルとして同封しております。年間二千円です・・・」とある。  カラー刷り中綴じA4版を開いた。『学校の話題』のコーナーに母校・銀上小学校が写真入りで紹介されていた。    2/13「村所小の全児童61名と銀上小の全児童10名とが交流学集会を開催」対面式の後、なわとび大会を行い、バスケ ットボール、掛け算パズル、言葉遊びなどした。 2/23「椎茸の植菌(駒打ち)の体験学習」小・中合同50人が1人1本のクヌギ原木にドリルで(駒を打ち込むための) 穴を掘り、その後、穴に駒を手で打ち込んだ。  「50本の原木は小学校で大切に管理され、秋の収穫を待ちます。」と締めくくってあった。 校庭の芝は枯れ果て、半袖短パンの体操服姿で手袋らしき白い塊が少女の影の外にちょこんと置かれてあった。皆、素手で 無心に作業していたのには驚いた。   3月4日は、「第2回 尾八重・有楽椿まつり開催」尾八重神楽が披露され、地場特産品の即売など大盛況の様子だった。   (つづく)
一夜明けて本日晴天なり (2007.4.05)  昨日、東京は雪になり千葉は雷雨に変わった。ちょうど雨脚が激しくなったときに私は駅に着いた。ユニクロのヤッケが 傘の役目をしてくれたので大きな荷物も気にならなかった。外の雨に義母は気付いていなかった。実は昼間の曇っていた時 にベランダ側の窓ガラスを覆っていた不透明ビニールシートが撤去されたので『慌ててカーテンを引いた』からだった。 夜8時過ぎテレビに映し出される若者たちは悴んだ手をさすりながら笑顔で寒い寒いと言っていた。 気温は5度になっていた。   今朝6時気温3度。お昼過ぎて15度。湿度は65%から55%に。本日もストーブは休まない。ここ10日ほど白濁した 窓ガラスを見ていたので今朝はとてもまぶしく感じた。外壁大規模修繕工事の垂れ幕は4月末でに取り外される予定だ。レ ースの幕を通して桜、人、ワンちゃん、田んぼの土色がうっすらと見えてくる。洗濯機を廻し、植木をベランダに出し、窓 ガラスを拭き、竿を拭き、掃除機をかけ、キッチンの片づけをし、洗濯物を干し、植木に水(はまだ寒い)    お布団を干したい!! 「工事中の干し物についてはルールを守ってください」と回覧板が回ってきたばかり。回覧板には、ベランダ側の作業の関 係で各棟の洗濯モノ干し日とお布団干し日が○×で表示されていたのだった。  私の棟は〜本日は〜「洗濯物〇」「お布団×」ではないか!!。  左右上下の手すりにはなにも下がっていない。みなさんルールを守っていらっしゃる。  干したい!!ちょっとだけなら〜どうかしら〜手すりの内側に長く垂らして干した。  お昼過ぎても2時過ぎてもなにも起こらない。太陽は優しく揺らいでいた。  3時過ぎてヘルメットの上のまあるい部分がツーッと見えた!!と思ったら消えた!!   いよいよ作業の人が来たかと窓辺に寄ってみたら、工事の人が(ヘルメットは手にして)顔をしっかり出して大きく両腕 を交差させた。(×ですよ!)  私はベランダに出て、深く頭を下げた。  工事の人は「すいません。上で作業しますので」と先に言葉を出した。  私には気恥ずかしさが残った。    冬の夕陽は居間の中央まで温めてくれる。春の夕陽は差し込んでこない。ずいぶんと日が高くなってきたものだ。西側に ある竹林の裏を赤くすること20分余り。竹の先はかすかに揺れていた。6時10分、11,2度、湿度58%。             消しゴムの丸くなりたる日永かな      くろまめ (2008年追記:マンションの大規模修繕工事で目の前が晴れない日が長く続いていました。窓ガラスを覆うビニールが取り        払われたときはすぐく明るく感じましたがすぐに慣れて次はベランダ側の足場を覆う布が取り払われること        待ちました。取り払われたときはそれは嬉しかったです。)
 春の嵐 (2007.3.31)  30日の夕暮れは赤く染まっていてとてもきれいだった。窓ガラスが赤々ゆらいで見えたので外壁工事の幌の隙間か ら西空を見た。せつなくなるほど赤が細くなって消えていった。 今朝は雲。テレビでは花見客の様子を映し出していた。3月の最後の今日ということもあって遠くまで花を追いかける ことにした。3箇所巡ったがどこも枝が黒く伸びていた。西行の「願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月の 頃」のような桜にはまだ少し時間がかかるようだ。帰りに菜の花の群生を見た。黄色は脳をすばやく覚醒させると聞い たことがあるが確かに私は覚醒した。白い辛夷、白木蓮、雪柳などはゆっくりと覚醒するそうだ。桜の花もそうかも知 れないと思った。  一昨年の3月、実家の母や妹たちと小さな旅を楽しんだ。3月8日は箱根で初雪が降った。箱根に住む大涌谷の人たち が驚くほどの積雪だったが母は見晴台まで喜び登った。途中、馬酔木(アシビ)を見つけて教えてくれた。中国人の観 光客の方に写真を撮っていただきお礼を述べていた。とにかく深々と冷えたので黒卵の熱を手の平にあてがってから食 べた。  ポーラ美術館ではモネの「ジヴェルニーの積みわら」を見て、「蟻塚じゃろかあ〜?」って喜んだ。名画よりも喫茶 コーナーの天井に流れる水とガラスの建物と百日紅の木肌の見事さに感動していた。東京へ戻る道で富士山を見たとき の輝く瞳は園児のようだった。六本木ヒルズが見えたときは「あ〜あれは〜ヒルズじゃねぇ!!ホリエモンはえらいも んじゃねえ〜」と知っていた。  私たちは、ホテルニューオータニに気張って宿泊した。ラウンジでお茶をいただいたとき「こげ大きなケーキは体に 悪いから半分こせんねえ」と促された。母と私は糖と脂質の代謝がはなはだ悪いのだった。広く長い通路の豪華な絨毯 の上を歩いて部屋に入った。「しんきなねぇ。あんたたちは双眼鏡ば持ってこんかったとね〜。立派なビルがみえんも んね〜」と嘆いた。  右手を指して「ほら、あれが映画になった回る帽子のレストランよ」と言ったら、「え〜?そりゃあなんね〜?知ら んばい。私にはシーツを干しとるように見えるばい。洗濯しちょっとね?」と。そのように見えないこともないがカウ ンター辺りのガラス板が反射して白いシーツに見えたのだった。翌朝 母は謎が解けた顔をしてバフェを食べながら高 層ビルを眺めていた。  もし桜の頃に上京していたらどのような反応をしていたのだろうか。
「円盤」(2007.3.15)  今日、15日付けの朝日新聞「天声人語」を読んで思い出したことがる。 「『FD(フロッピーディスク)、MO(光磁気ディスク)の中に膨大な情報が蓄えられる。小さい体に大きな記憶を 載せた電子の円盤だ。この軽くて持ち運びにも便利な円盤が絡む情報の流失が後を絶たない云々。新しい円盤を巡 る、矛と盾の攻防だ』」と問題提起をしていた。  私にとっての「円盤」は、映画のフイルムくらいの大きなリールと厚みのある重たいテープの巻物だった。しか もそれは捧げ持って銀行員の方に手渡し、銀行員の方は白い手袋で受け取る大事な円盤であった。    私は、日本で一番最初にコンピューターオンラインシステムを導入した会社の中央電算センターでオペレーターを していたことがあった。「CPU」という大頭脳の仕組みもよく分からずにモニターの前でモタモタしていた。  JOB(コンピューターで処理作業の単位)の内容は、人事、総務、財務全般だった。JOBの優先順位を上げたり割り 込ませたりしながら処理をしてゆくのだがコマンドを入力する数秒の遅れが納期を遅らせたりすることに繋がること があった。データーを読み書きしていた装置は、高さ160センチくらい?のタワーだった。「ROM」、「RAM」とかの 言葉は耳心地が良かった。月初、月中、月末の処理が済んだときの開放感はとても爽やかで昼休みのテニスプレイに も興じることができたが、入力上のエラーが出たときの処理は手作業で数字を追って行かなければならなかったので とても大変だった。いずれにしても出力したデータのチェックは人が確認をしていた。プリンターを信用していなか ったのかも知れない。重役や全社員の給与や賞与などなど情報が漏れたことはなかった。社会も会社も社員も取引先 も誠実で勤勉だった。   PC、エレクトロニクスはますます小型化してきている。たまに田舎に帰ると小型化とは無縁のアナログ生活がスゴクイイ。 (2008年追記:大方の企業がお給与を封筒に入れて支給していました。 銀行振り込みになってから女性の就業も総合職になってきたように思います。 男女均等に扱って欲しいという女性の意識が潜在化してきていました。        大中企業は女性の事務派遣のシステムを考えるようになりました。        自社の事務派遣会社を起こす会社も出てきました。そうなってから終身雇用制が崩れ始めました。        そしてコンピュータのオンラインによる経理事務の集中管理が進んで行きました。        私は昼休み時間は男性に混じってテニスをしました。ITという言葉が生まれるうんと前の時代のことです。
 お皿とマグネット(2007.3.8)  粥を炊きながら今夜のメニューを考える・・・。そういった日々が続いていたが3月に入ってからは家事から少し離れて 過ごせるようになった。久しぶりに絵を描いた。未完成のままの絵に彩色。それでも未完なのだが友人たちに近況報告がて らホームページに載せた。友人たちは孫の卒園、受験合格、卒業、就職とめでたい。あつ子@カナダさんは春の歌祭りのス テージに向けて練習をしている。インドネシアのりんごさんはお引越しが終わって絵を描く気分になっている。それからす ぐに洪水、地震、飛行機事故とインドネシアは大変な3月となっている。    今朝からとても天気が良い。ラジオを聴きながらキッチンを片付けている。サンドイッチ用のお皿を濯ぐ。このお皿は友 人夫妻の結婚式の引き出物でいただいたものだった。形もデザインも彼女らしいセンスだ。渋谷のカテドラル教会で二人は 輝いていた。新郎も新婦も出版広告関係の社事に就いていて二人とも毎年のように受賞していた。  結婚して翌年彼女は退社して出産した。そして3年後二人目の赤ちゃんが生まれた。我が家の居間でおもらしをしたりオ ムツを替えたりお風呂上りに天花粉をたたいたりしていたものだった。子供たちはバレエのレッスンに通い彼女は送迎に忙 しくなっていった。  私たちと市民マラソンに参加し始めたのは桜の季節からだった。やがて彼女は子供の手が離れてからは介護について語る ようになってきた。その頃はまだ「介護」という言葉は学術的な見地でしか語られていなくて行政は皆目動いていなかった。 彼女は学び直して、ケアマネージャーの仕事に就いた。その矢先、定期健診で乳癌の告知を受けた。日ごろから「告知、セ カンドオピニオン、ホスピス」について見知っていた彼女だったが”告知”を受けたときはどれほどショックだったことか。 私は電話でそのことを聞いてからすぐに彼女の家に行った。渋谷で好みのお弁当を聞いて持って行ったが食は進むわけはな い。以前はピッザとスープを子供たちと一緒に私の目の前で作ってくれたものだった。母としても妻としても職業人として も聡明な女性だった。  入院してから数日経ち「会いたいわ」と電話があった。そして数週間経ち「もうこなくていいよ」と電話がきた。そんな ことがあって暫く行かなかったら「ねえ、いつきたかしら?」と電話がきた。私は彼女の問いに答えることがとても辛くな ってきた。ご主人は最期の日まで彼女とずっと一緒だった。強い愛を通したご主人である。この春、彼女の次女は美容師を 目指して短大に入学する。長女は美大の3年生になる。    久しく使っていなかったお皿さん、ごめんなさい。冷蔵庫の買出しメモ紙に「サンドイッチ材料」と書いた。細長いマグ ネットには彼女が制作チーフをしていた頃の雑誌の名前が書いてある。残りの時間がわからないことは幸せだ。 (2008年追記:今年5月ビデオをデジタル化し始めました。我が家でくつろいでいる一家の映像が出てきました。        子供達はママの手作りのワンピースを着ていました。)
第19回文化フォーラム「人生後半の生き方を考える」(2007.2.26)  2月24日、日比谷公会堂は2000人の聴衆で沸いていた。昨年は、男性が非常に少なかったが、今回はご夫婦 での参加が目立っていた。聴衆の笑う声は混声合唱団さながらの調和のとれたものだった。  講演の模様は、NHKラジオ第二放送(693KHZ)「文化講演会」で次の通り放送される予定。  内館牧子氏 3月25日(日)午後9時〜10時  嵐山光三郎氏 4月22日(日)午後9時〜10時     内館牧子氏(昭和23年生) 演題「学び直しのススメ」    彼女が舞台の袖より登場してくると「すてきね〜」とガサゴソザワザワ声があがった。着丈の長い黒のオーガンジイ のジャケットの下にコバルトグリーンのブラウス。ブラウスの胸元と袖口にはメキシカンルック調の大きなフリル。黒 いパンツ、黒のパンプス、髪は赤系色に染めてロングソパージュ。映画『フラッシュダンス』のヒロインめいていて小 顔。話すほどにチャーミングになっていった。  牧子氏は54歳のときに東北大学大学院文化研究科に入学した。「なぜ女は土俵に上がれないのですか。男女平等、 男女共同参画の時代に、なんだかおかしいではないですか」という日本の文化を揺るがす問題に、「あがれない」とい う答えをみつけに行ったのだった。   著書『女はなぜ土俵にあがれないのか』(幻冬舎新書)   著書『養老院より大学院』(講談社) 「世間の奥様方は、夫の定年後の趣味を心配して、『そろそろ趣味を見つけてください』と言うらしいが、それは定年 後でも充分間に合いますよ。先々を心配するあまり今を楽しまない人を知っています。先々のために蓄えてばかりいて( 笑)元気なうちに使いましょう!!」というように明るい希望の話から「『若い学生たちの中にいると若返るでしょう』 と言われますがそれは、実社会では『不要』な新しい知識を得た喜びが若返らせると思うのです」とスリリングな日々を 語った。座右の銘は、「出たとこ勝負!!」とか。     嵐山光三郎氏(昭和17年生)演題「下り坂繁盛記」    私は氏に対して個人的に大変興味があったので登場から見逃せなかった。下駄、赤いマフラー、ソフト帽を片手に現れ た。かつての「太陽」の編集長は、大いに照れての登場だった。「人生は7年周期でいろいろ起きるものでありまして〜 49歳のときに血を吐いて倒れてからは体力を大切に〜今は文化的体力で〜下り坂をゆっくりと愉しんでいます。ひなび た温泉で自炊して〜自転車もいいですよ〜」というような流れであった。 「長く生きてきたものは知恵がある。武器だって作れる」と老人力を大いに語った。 下るときは道草をしながら、疲れたらタクシーに乗ったりしているらしい。そして結果『本』になるわけだと私は納得し た。  私は昨年から氏の『文人暴食』を読んでいる。面白すぎて何度も繰り返しては読んでいる。(おすすめです^^)    私と友人は、プラタナスの裸木を仰ぎ、恋猫とすれ違い、有楽町の喫茶店で両氏の話を反芻した。 (2008年追記:絵手紙講師の茂子さんからお誘いをいただいて2回目の講演会となりました)
 JUKIミシン・・・銀鏡の頃 (2007.2.20)  昨夜は零時過ぎてもテレビをつけていた。41歳のボクサーをカメラが追っていた。「現役に拘る彼の信念に感動 と勇気を貰っています」と応援し続けているご夫婦がインタビューに応えていた。ご夫婦は仕立て屋さんだった。” JUKI”という金文字がハッキリ読み取れた工業ミシンをご主人が踏んでいた。遠い昔、母が夢中で踏んでいた家庭 ミシンもジューキミシンだった。  母が28歳の春、ミシンがやって来た。セールスマンはネクタイをしていた。廊下にミシンを据えて実演してみせ くれた。軽やかな音とあざやかな仕上がりに明治生まれと昭和生まれの三世代一家は驚嘆し拍手した。母だけがミシ ンの構造について質問をしていた。古い”てぬぐい”で試し縫いをした。ミシンを起こすところから針の取り付け、 糸の巻取り、下糸と上糸の調節、糸目の最小から最大まで試し、直線縫い往復縫い廻し縫、糸の始末をしてミシンを 収めた。セールルマンはそれから2度ほど実演にやって来た。売るほうも買うほうも必死だった。  置き場所は南に面した縁側の戸袋のある所だった。使うときは明るいほうに移動して踏んでいた。野良着のままで 踏んでいたこともあった。終わると必ず針を外して専用のカバーを掛けていた。厚地の黄金色で房も黄金だったから 学校のオルガンの黒いベルベットのカバーよりもうんと立派なものだと思っていた。母は家事の合間に『婦人雑誌』 の服飾パターンを見ていた。雑誌や本は親戚の先生からお借りしたものであった。きちんとサイズを測ってから型紙 におこしていた姿を覚えている。  一番最初に縫いあがったのは、私と妹のチョッキで父の学生時代のマントのリフォームだった。デザインは襟なし のボックス型で着丈が短かった。裾ポケット二つ。真っ赤な大きなボタン三個。流行のギャザースカートに似合って いた。次はブルー系にピンク系の花柄の七部丈ブラウス。袖口に平ゴムが入っていてフリフリが嬉しかった。共布で 母はワンピースを。ブラウスに無地の大きな丸襟がついたときは赤と黄色と緑の糸のお花の刺繍がしてあった。 (糸はほぐした布団糸か?絹糸だったか?刺繍糸ではないと思う)スカート、シュミーズ、水着は地味な小花模様だ った。腹巻状態に平ゴムが縫い付けられていたのでその部分がとても気に入っていた。木綿なので水から上がると乾 きが遅いのでいつまでもじゅくじゅくしていた。当時は花柄よりも水玉模様が流行っていたがみんなと違うことが嬉 しかった。    夏は浴衣、冬はネルの着物を縫ってくれた。母はだんだんミシンの達人になってきていた。既製の服をみてパター ンをおこしもできるようになっていた。上質の布や発色のよい柄物は到底買えないので安価な木綿とネルをデザイン でカバーして楽しんでいたのだと思う。家にある古布や古いスーツや着物などのリフォームのセンスは光っていた。 (今にして思えばであるが・・・。) あの時分、保証期間というものがあったのだろうか?。町から往復250キロの村に「メンテナンスサービスの お伺いです」というような電話があったとは思えない。相談窓口に電話をしたところで間に合わない。  「何事も間に合わない!!」という強迫観念は普段の健康管理にも危機管理にも繋がっている。インターネット は、この村にはまだまだ間に合わない。ダイヤルアップ接続なので間に合わない。クーリングオフは買った責任で 断念するというくらい自己責任が強い。ジグザグミシンが出てきても気持ちは動かなかったそうだ。ジューキの部 品が調達できなくなるまで使い切った。母は今、卓上電気ミシンで自身の所属する老人会に雑巾や袋などを縫って いる。
 唐辛子・・・銀鏡の頃 (2007.2.17)  小一時間ほど経ってボールを覗くと、切干は思っていた以上に量が増えていた。干ししいたけと人参と揚げを 入れて煮物が出来上がった。余った切干は三杯酢に漬けてはりはり漬けもどきにすることにした。唐辛子の種を 取り除き一緒に漬け込んだ。手に張り付いた種を振り払ったら頬っぺたにくっついた。手の甲で払おうとしたら 目の近くに移動した。つい、人差し指で触れたら目に!!キイイイ〜ッツ鋭い痛みが走った。”カライ痛み”に 涙が出てきて一層痛みがカライ!!。  私は、生後10ヶ月の頃に7度の大火傷を負ったそうだ。その日は、一家総出で田んぼで作業をしていて、子 守を隣のお兄さんがしてくれていたのだそうだ。私はこのお兄さんにとても可愛がられていたそうだ。囲炉裏の 傍でなにか食べていたお兄さんが「アーンして」と私に「アーン」したときにころんと囲炉裏に落ちたのだそう だ。お湯をかぶり熱い灰の中に体を沈めたのでお尻と右腕が無傷だったそうだ。  当時、村には内科専門の医師がいた。人柄も技術も素晴らしくて村人の神様的存在だった。医師の第一声は、 「失明するかも・・・障害が残るかも・・・」だったそうだ。父は、なんとしても生きらせるぞ!!と泣いて叫 んで家に連れ帰ったそうだ。その日から約2週間、父と母は睡魔と闘うために目に唐辛子をすり込んで交代で看 病し続けたのだそうだ。看病のおかげでケロイドにならずに済んだ。小学校の入学式に上等の革のランドセルと 革靴が届いた。お兄さんからのプレゼントだった。得意顔で写真におさまっている私がいた。
FUNDOSHI・・・銀鏡の頃 (2007.2.1) ふと浮かんだ。友人が描いている絵の中の雲をみたとき、褌(ふんどし)が揺れたのだった。岩にぶつかる波、 大きな岩、岩の上の木々、向かいの山、広い海、青い空・・・それは遠い記憶の断片を繋ぐモチーフとなって海 面を漂っていた。  小学3年生の春、男の子と2歳違いの女の子の兄妹が転校してきた。男の子は私と同じクラスで地区も同じだ った。昭和30年代は全児童数の数がもっとも多かった頃で、他にも転校してきた子供たちがいたがみんなたちま ち仲良くなった。私はその少年のまあるい顔とニコニコ顔が可愛いと思った。男の子の家は、川の近くにあって 上の道からは屋根しか見えてこなかった。急な坂を駆け下りると庭が川に迫り出していた。洗濯物がいっぱい干 されてあってきれいだった。  金太郎が大人になったようなおじさんが居た。柔らかいお餅のようなおばさんが居た。男の子も女の子も居た。 「こんにちは〜」「オウー」太い声でおじさんが近づいてきて握手した。その力のすごいことに驚いて手を抜こ うとしたがまったく動かない。”人さらいされる〜”と怖くなってうつむいた。おばさんが頭を撫でてくれた。 男の子と女の子は手をたたいて笑った。そしてみんなで笑った。おばさんの手作りの団子は母の味とは違う新し い味だった。  夏が来た。ある日、「オーウ コッチコーイ! オモシレエモンバー ミセチャルゾーーー」と川から声が上 がった。私と男の子は素足で川に下りて行った。アチチチー小石が焼けている〜ピョンピョン飛びして近づくと おじさんはふんどし姿で仁王立ちしていた。手にチョス(魚を突く手作りのヤリ)を持っていた。私はおじさん のことを、のこぎり達人、薪割り達人と密かに尊敬していたので今度は魚採り達人だあー、と思ってワクワクし ながら次に起きる歓声を期待した。 「イイカア− ミチョケヨーー」スタンバイするおじさんのお尻はぴかぴかしていた。おじさんが大きな石の下 を覗き、!!はらり〜〜〜〜 白い帯が流れて行った・・・。幾筋も白い細長い布が視界から消えるまで漂って いた。  子供たちの目には褌は清潔でかっこいいものだった。筋肉隆々の男の大人にとても似合っていた。しかし外れ たあとの印象は全く違って思えた。子供心に見てはならぬものを見てしまったという申し訳なさがあって悲しか った。おじさんは豪快に笑い、男の子も笑った。おばさんはヒクヒク笑った。また団子を食べた。着替えていつ ものおじさんに戻ってまた竹の貯金箱を作ってくれた。    5年前、村のお祭りで男の子とおばさんに再会した。彼はおじさんにそっくりだった。声も笑顔も体格も。 「結婚が早かったもんで孫は5人おるとよー」と豪快に笑った。おじさんは亡くなっていた。とても幸福な人生 だったと。                 少年の石飛びわたる春の谷   くろまめ
 ラジオ (2007.1.21)  年明けてからなにかと用事の重なる日々の中でこれまでに感じなかったラジオの楽しみを知った。  先週のよく晴れた午後、食品の買出しに出かけた行きの車の中から始まった。NHKFMから1970年代のアメリカン ミュージックが流れていた。普段は、中島みゆきのテープを聴いているのだがこの日はラヂオをそのままにして 聴いた。ガソリンを満タンにする間もラヂオに耳を傾けた。  一週間分の食料をダンボールに入れて店を出たときは午後4時ごろだった。太陽は赤く大きくその輪郭を西空 に置いていたが私は裏道を通ることに決めた。いつもなら太陽を追いかけながら渋滞のなかであっても太陽のま ばゆい光りをサングラスと腕で隠しきれなくとも、この不便な格好で聴く”みゆきの世界”が良かった。太陽と 中島みゆきの曲と詩は壮大な物語性を持って終わるのだった。  裏道に入ると太陽は離れて行った。肩も手も腕もゆったりと自由にしてラヂオの続きを聴いた。お墓が見えて きた。お寺と神社が一緒になっているここのクスの大樹が枝を大きく伸ばしていた。木の下では曼珠沙華が冬眠し ていた。六地蔵さんの赤い布がさっと目の脇から逃げた。やがてススキの原に出ると道幅が広がった。  曲調は軽い遊びがある。薄暗い細い道を過ぎるまで愉快が続く。  突き当りを右折するとクラブ活動の中学生たちがふざけあいながら校門から出てきた。(彼らの両親はオールディ ーズを聴いたことがあるのだろうか。) 本通りに出て橋を渡った。  太陽が遠くに見えた。真ん丸く空に張り付いているようで冷めた感じに見えた。我が家のベランダから見る太陽 は鉄塔と富士山がそばにあるが、この太陽にカラスくらいの黒い雲がさしかかったとき日は消えようとしていた。   翌日、14年間使用していたCDラジカセが壊れた。その日のうちに買い換えた。           一月や乾びし道におのが影      くろまめ
 元日の朝 (2007.1.1)  暮れに夕日を見て朝日を見ずに元旦を迎えました。うす曇。 半月のお盆に御節を少しずつ小皿に乗せました。お盆の中心のお皿はひし形をしています。 このお皿は、数年前に実家から持ってきたものです。 明治5年生まれの曽祖父が30歳代の頃からあるお皿です。 田舎ではどこの家にも100枚単位でお皿がありました。 妹も私もこのお皿の絵柄と形が好きで持ち帰りました。 お祝い時に使われていたことが解ります。 我が家の食卓には似合いませんでした。 やはりお膳に似合うのでした。   本日、元旦デビューしました。嬉しい気持ちで一杯です。  皆々様のご健康をお祈りいたします。   くろまめ