私の曽祖父幸見は大変ユニークな人物だったそうです。 幼いころの私はよく隠居部屋に行っていました。 亡くなってからも私の中の隠居爺さんは日向ぼっこの爺さんでした。 爺さんを思えばにおいと笑い顔が浮びます。 村の人たちが教えてくださる隠居爺さんは一味も二味も濃く深く柔らかくて温かい人物です。 私はいよいよ記録せんといかんばいという思いになってここに記したくなりました。 (明治5年1月6日生。昭和43年1月23日没 享年96歳)
昔、銀鏡神社大祭の夜は、たいへん人出が多かった。何しろ現代のように娯楽のなかった時代のことであったから、 待ちに待ったお祭りであったことは言うまでもあるまいが、その上に敬神思想は現代よりさらに深く祭見物というよ り神参りといった観念が強く、この両面の理由から参拝者が多かったものであろう。
幸見氏は蕎麦が好きであった。或年の例祭の夜、神事の合間を見計らって婦人会茶屋の腰掛に腰を下ろして蕎麦を食 べておられた。寒空の冷え切った体に炭火で暖をとりながら食べる手打ち蕎麦の味は、幸見氏ならずともこたえたに 違いない。 蕎麦好きの氏は二杯、三杯とおかわりをして唯黙々とひたすら箸を運んでおられた。とそのとき、外の方から大声で 怒鳴る声がして、入墨をこれ見よがしにちらつかせた愚連の親分顔した男が数人の子分を連れて茶屋に入って来た。毎 年のようにやって来ては客や茶屋の婦人達に言いがかりをつけて、酒や食べ物にありつこうとする何所にでもいる連中 である。 そのことを承知の客たちは早々逃げてしまった。幸見氏は唯一人残って平然としているので、その態度が気に入らな かったのか、又は、内心いいカモと思ったのかもしれないが肩を大きく左右にゆすりながら直ぐ目の前に来た入墨野郎 が「お前が幸見か」と怒鳴るが早いか足を上げて胸板を一撃した、と、その瞬間悪党は幸見氏の右手にすくわれ後ろ向 きに一回転し、茶屋の柴垣を打ち破って下の傾斜した竹薮の中を二転三転して木の根方で腰をしたたか打ったらしく身 動きができなくなりうづくまっているところを、子分どもに助けられて逃げ帰ったそうである。当の幸見氏はと見ると 左手の蕎麦椀は持ったままであったので、何事もなかったかのように食べ続けられたという。 幸見氏は前述した様に柔道家であり、その上、合気道の修練も充分心得た強者であった。「盲目蛇におぢず」の諺を 地で行く様な話である。
このことは、目撃していた八重(地区名。はえ)の一古老がよく人に語っていた話であるという。その時の幸見氏の 服装は、羽織袴に下駄ばきであった。 (『東米良村史』より転載)
爺さんはときどき銀鏡銀座の商店でお買い物をしていた。通い帳みたいなものがあってあとでまとめて支払う買い物 なので小額でも積もれば大変になるという図式もなんのその。お菓子とか果物とか草履とか靴とか服とかお肉とかお魚 とか積もりに積もって・・・。そんなふうなことだった。自分用にというよりは誰か家族が「着ますわい」「食べます わい」といった感じでそこにモノがあれば「ちょっとお願いします」とニコニコ持ち帰って(いえいえ断って)きてい たのだった。わたしたちひ孫に「はい。はい。」と渡すときのニコニコ顔が思い出される。家に帰ってくる間に、よそ の子供に会えば「はい。はい。」とあげていたそうだ。 嬉しい話だとしみじみ思う。
或る日のこと。爺さんは80歳過ぎても裏山を2キロくらい登って焼畑の作業を監督していたそうだ。そんなある日、 山火事になった。このときのことを私ははっきり覚えている。隣のさよちゃんのお家でさよちゃん、つよみさんと遊ん でいたら「カンカンカン」と半鐘が鳴った。私は「どこねえ」と思った。さよちゃんが大人に混じってバケツを持って 山に駆け登っていった。私は「山ねえ」(米良の言葉で「あんまり驚かない感じの「ねえ」)と思った。そしてつよみ さんにバイバイして家に戻った。火事の場所は我が家の山だと分かった。庭に出て山のほうをみたら真っ赤に燃えてい た。「ガンガンガン」と半鐘の音が変わったような気がしたことも覚えている。静まって、夕暮れになってから爺さん たちが帰って来た。しょんぼりしていた。いつものニコニコ顔ではなかったがそのうちシャキンとなって元に戻った。 だから私は「たいへんじゃあないんだなあ」と思った、のだと思う。それからのあとの記憶はない。
そういえば、こんなこともあった! 爺さんはいろんな歌を歌っていた。これらの歌は重複して紹介しているかも知 れないがここにまた紹介したくなった。東米良村史編纂にあたって取材をされた「次雄氏」が紹介してくださっている。
作業中には声高らかに・・・
ありがたい ありがたいにて 世に住めば 向かうものごと みなありがたいなり
就寝の時には、しめやかに・・・
ありがたや 今日のつとめを 成し終えて 眠りに就くぞ 楽しかりける
起床の時は、明るく大きく・・・
太陽の波長にふれて 起き出づる 嬉しや 今日も 上天気なり
「喜寿を迎えられた翁は次のような歌を詠んでおられる・・・。」
何のいさおも立てねども せめて長寿の 名をぞ残さん
「又同じく喜寿の年、昭和23年12月25日当時の心境を歌に託されたものを後日何回となく聞かされたが、その歌 いっぷりは全く独特のもので天真爛漫の中に感じのこもったところ、又飄々たるところもあり、人生を超 越した仙人の 声とも聴こえる翁ならではの声と節回しであった。
爺さん亡き後、直筆のものがでてきたそうだ。大事に保管してある。
以下、菊池のお殿様と隠居爺さんの間で起きたあるエピソードを記したい。
閣下が米良に見えるときは、中原か三浦に宿が決まっていた。その日も中原に見えていた閣下は、客人(東京の偉い 学者)に宿神面を見せたいとの意で正衛さん(爺さんの姪っ子の婿養子、後の銀鏡神社宮司)を使いに出した。正衛さ んは緊張した面持ちで我家の玄関口に立って趣旨を伝えた。私の父は小学校4年生で学者とは一体どんな人を言うのだ ろうと緊張した。 爺さんは「馬鹿者! 菊池さんと宿神様とどっちが偉いか! 出向いてくるのが筋だ!」と一喝した。正衛さんはあ まりの恐さに後じさりして帰った。
閣下一行がやって来た。「お〜幸見達者だったか」
「はい、達者でした。菊池さんも達者でしたか」
みんなが閣下と呼んでいたけど爺さんだけはこうだった。
「これが宿神面だ。とくとご覧あれ」と閣下が学者に勧めると学者は宿神面に一礼して「閣下なら宜しいいでしょう」
と言って自らの手では持たなかったので閣下が手にとって面の表も裏も徹底して見せてあげられた。
この日は無事済んだ。そして日を改めて・・・今度は、三浦に宿泊された閣下に爺さんも招かれて行った。
「幸見、キサの命日はいつだったか」との問いに、「はい○月○日です」
「それは違う、親の命日を忘れるとは何事だ」と閣下が。
「親の命日を忘れるほどの馬鹿ではない!」と爺さんは譲らなかった。
そのうち話は色々飛んだとみえ不穏な空気が・・・
「ええ〜い幸見下がれ下がれ下がれ〜」と閣下は激怒し、お膳の吸い物椀を爺さんの紋付の家紋に投げつけた。その声
は淳校長宅にまで聞こえた。
「家紋を汚した責任をどう取られますか」と爺さんは詰め寄った。
皆はブルブルと何も出来ずに・・・そこへ三浦の女将お静さんが爺さんの胸元を拭きながら「どうぞ心を落ち着けてく
ださいませ」と哀願された。
爺さんは翌日、三浦まで閣下を見送りに出向いた。
爺さんが閣下の傍により「気をつけて帰りなされ」と言うと「おお幸見、仲直りしようや」と手を差し出された。閣下
と爺さんは固く握手をした。
昨夜の宴会に出席した有志の人達や近くの村人達大勢が籠で西米良の別邸に帰られる閣下御一行をとどろもと(地名)
まで行列を作ってお見送りした。村所に二泊、銀鏡に一泊されて、東京にお帰りになった。その頃バスの通う二軒橋ま
での16キロはトロッコ道だった。
当時のことを知る人はもう誰もいなくなってしまったがその噂は語り継がれたそうだ。お椀を手でヒョイと受けたと
かヒョイと払ったとかいう話も生まれていたようだが、後に爺さんは家のものに「あの時おシズさんが俺の胸元を拭い
てくれらいてなあ・・・」とニコニコしながら語ったそうだ。
追記:
爺さんは命日を証明するのに母キサの位牌を取りに行かせたのでした。現代のように車社会ではありませんから 中原(なかばる)まで徒歩で往復すると急ぎ足でも30分は掛かったと思われます。その間、宴席ではどんな空気が流れ ていたのでしょうか。おのれの勘違いを率直に認められ、握手を求められた閣下の寛容さと古武士の風格に「やはりおら が殿様だ」と皆感心したそうですが、私は、乳母兄弟の閣下と爺さんの言動がよく似ていてなんともほほ笑ましく感じま した。
この稿を記すにあたって、再三再四訂正しました。検証に検証を重ねた結果ですが、ますます隠居爺さんが好きになって きています。
曽祖父について続編を書こうと思う。しばらく休んでいたのは、私の記憶の内で深いのはノミとしらみに関することと、 宇宙についてよく語ってくれたことや、亡くなるまで裸眼で文字を読み、歯医者知らずで、老衰で亡くなったこと。そし て、お葬式の時に親戚のおじさんが弔辞をとても怖い声で(それは泣き声になるのを必至にこらえていたのだと思う)、 家の屋根が抜けるのではないかと思えるような声でおらびやった(古語「おらぶ」で、叫ぶの意)ことである。
前回までの「隠居爺さん、パートT〜W」(2008/02/01付)は、村史編纂の基になった原稿から抜粋してきたが、今回
は、『村史』濱砂次雄氏の稿を紹介したい。以下、******
『徹人 幸見翁を語る』
「徹人という言葉が辞書の中にあるかどうか判らない。それでも敢えてこのような文字で表現してみるより他に
なさそうである。というのは幸見なる人物は、先ず偉い学者であった。教育者であり、神学者で哲学者でもあった、又あ
る面では良い意味での奇人でさえあった。ユーモアあり底知れぬ寛大さを持っている面も多分にあり、あらゆる面に徹し
切ったというよりむしろ全てを超越した人物と言ったほうが至当なのかも知れない。そこで徹人という文字を表題にした
訳である。」(中略)・・・
性質実剛健、若くしては剣道・柔道を盛んに行い心身を鍛練された、特に柔道は確かな腕前で、加納治五郎の講演を聞
かれたなかに、善人の標準というのがあり、「エネルギーの善用利用」ということを話された。その一節に「物質皆活動
す、活動は天性なり、エネルギーを善用する人が善人なり、悪用する人が悪人である」というのがありよほど感銘された
らしく筆者も何度かこの話しを聞かされた記憶がある。柔道の実技の方は、加納治五郎の師範代から直接手をとって指導
してもらわれた事もあったと言い、村の青壮年達を集めて教えておられたそうである。又教育者であられた頃は選抜され
て学事視察のために東京へ派遣せられたこともあり、当時手当て五十円を支給せられた記録が残っている。
因みに校長の月給八円也の頃であった。現代から考えると外国への学事視察以上のものであったのだろうと考えられる。
幸見翁は晩年に至るまで宗教関係に就いては、自宗他宗の別を問わずよく研究され、特に銀鏡神社に伝わる唯一神道に就
いての造詣が深かった。そのほか哲学・天文学等まで勉学の範囲は非常に広かったようである。昭和43年1月23日、
96歳の天寿を全うされるまで文字通り百年一日の如き日々を送られたのである。
******
私は、またここで、「何故?」と思った。爺さんの熊本第五高時代に触れていないのは何故だろうか?
講話は第五高の嘉納治五郎校長の時代だったのか? 夏目漱石先生との接点はあったのだろうか?
漱石ファンとしてはなにがなんでも五高時代のこぼれ話を拾いたいのであるが・・・。
私の記憶の中のワンシーンは、庭に出て、このように棒切れを持って、しゃがんで、どこの子にも「これが地球です。 太陽の周りを地球が回っています。地球の周りを月が回っています。」と地べたに書いて、それは丁寧な言葉で話して くれた・・・。 私は相変わらず「ホントゥ〜?」って言っていた・・・。 だから今でも頭はよくない。
少し風が優しくなってきた。まだ冷たい。真っ直ぐな道の両端にハコベラ、イヌフグリ、タンポポ、ホトケノザ、
オドリコソウなど小刻みに揺れている。柳の芽が光って見える。ふるさとのイベント情報を検索するのも楽しいも
のだ。24日は「東米良有楽椿まつり」(東米良グリーンツーリズム協議会主催。尾八重の眺峰館と有楽椿の里に
て開催)。
写真は、樹齢500年の有楽椿。
尾八重地区(八重は同じ)と私たちの地区は離れていたので中学校で初めて一緒に学んだ。ある冬の日、卒業生 数人で尾八重地区に遊びに行った。辺りの景色は私の地区と同じだったが少し小高い場所に人家があった。男の子 の家には黒い猫がいた。ふすまの向こうまで日差しが伸びていて猫は目を薄く開けてうっとりとしていた。隠居爺 さん付の黒猫にとてもよく似た猫だったのでそばに行って背中を撫ぜた。猫のこと好きではないのに自然に体が動 いてそうしていた。「○○さんとこから養子にもろうてきた血統書付きの猫じゃっとよ」「え〜っ!! うそう、 ほんとうねえ〜」(私はうそ〜、ほんとう?という癖から卒業していなかった)「○○さんとこと俺んとこは親戚 じゃげななあ。兄ちゃんが用事があって行ったときに土産に赤ちゃん猫ば連れて帰ってきたもんじゃからびっくり したとよ〜」ありがたや黒猫は宝物のように愛されていた。
隠居爺さんが明治30年に八重小学校他もう二つの校長をしていたことを前回書いたが、当時の様子がなかなか
分からない。埋まらない。以下の内容は断片的だが当時の人の気持ちがうかがい知れるかもしれない。
八重小学校時代は馬に乗って通勤していた。校庭の一角に小屋を改造した厩(うまや)があり、生徒たちが当番
を決めて喜んで草を切って養っていた。銀鏡小学校での教え子の中、傑出した人物に銀鏡小ヶ倉出身の黒木長太郎
氏がおられる(故人)。学校法人津曲学園鹿児島高等学校長、鹿児島経済大学長をつとめられ教育界にもその名を
知られた人である。爺さんの米寿の祝いの時、同氏から祝いの書簡が届いた。師を想う感謝の意が巻紙に綿々と書
き綴られている。その手紙を爺さんは押し頂くようにして何回も読み返していた。恩師と教え子の繋がりの深さ、
尊敬の念と師弟愛の情がひしひしと胸を打つ文章であった。
その頃も野道に有楽椿は咲いていただろうか。馬上から見えるところに咲いていただろうか。馬から降りて触れ
ていたのだろうか。子供達は教室で暖をとっていたのであろうか。隠居爺さんは学び舎の寒さ対策になにか行動を
起こしたのだろうか。知りたいことだらけでいっぱいだ。
昭和23年3月末頃、村のどの家でもヒエや粟、とうきび、麦を食していた。未だ燈火はランプの時代であった。
或る日、隠居爺さんが川上のほうの氏神祭をつとめての帰途、復員服に戦闘帽を被った40歳前後の男に出会っ
た。周辺には夕闇が迫っていた。男は爺さんに一夜の宿を乞うた。「よろしい」と言って連れて帰って来た。家の
者はさきほど宿を断った男を見て驚いた。
隠居爺さんは男の話をゆっくり聞いた。川下のほうの地区の家々に宿を乞うたが断られましたと途方にくれた
顔を上げて話し始めた。「山向こうの村に戦友を訪ねる途中です。朝から何も食べていません。村所から歩いて来
ました」と言った。(資料には距離は書かれていないが凡そ25`〜30`)男は垢染みた服を着ていた。中風か
と思えるような不自由な歩行と手の様子だった。言葉がはっきりしていなかった。
外風呂(その頃は未だそうだった)で手足を洗わせて中に招じ入れ、一緒に食事を摂らせた。その夜も野菜のた くさん入った雑炊だった。男はむさぼるようにして4、5杯食べた。爺さんが奨めてたらふく食べさせた。男は何 度も何度も隠居爺さんや家の者に礼を言った。その晩は霜が降るのではないかと思われるくらい寒かったが囲炉裏 の火で暖をとって生気を取り戻したようだった。物資不足のことだから布団も豊富にはなかったので隠居爺さんは 隠居婆さんの布団に一緒に休んで自分の布団に男を寝かせた。翌朝食後に、とうきび飯か麦飯だったかを飯盒に一 杯詰め込んで漬物、梅干をうんと男に持たせた。それから「衣食足りて礼節を知る」と言って、祖母に2合程の米 を布袋に入れて持たせるようにと言った。(資料には「言いつけて」と書いてある)男は何度も何度も頭を下げて お礼を言い、飯盒を紐で結んで肩から下げて、不自由な左足をひきずるようにして歩き出した。
翌日父は隠居爺さんと山の仕事をした。山から下りて来て隠居爺さんはいつものように先にお風呂に入った。お
風呂から出て「風呂の湯がえらい体に浸みて痒いがヒセンが出来ているのではないか、点検してくれ」と父に言っ
た。父は今流行のカイセン(ヒセンと同じ)ではないかと思って点検したが何も出てこなかった。もしやと思い隠
居爺さんの脱いだメリヤスのシャツを見ると案の定いたのだった。大小の着物シラミがシャツの縫い目にべったり
とくっついていて卵も出来ていた。一昨夜泊まった男の布団に寝た隠居爺さんに移っていたのだった。隠居爺さん
は笑い、そして言ったそうだ。
「人間社会では食糧難だが虫の世界ではそうではないと見える。えらい太っとるわい」と。みんなが着替えるよ
うにすすめたが、「このシャツのほうが分厚くてぬくいですわい。今夜一晩は抱いて寝ますわい」と言って歌を歌
ったそうだ。
のみしらみ音に鳴く秋の虫ならば我ふところは武蔵野が原
昭和23年、隠居爺さん78歳の出来事である。
一宿した復員兵が戦友に会って同じようなことが起きていたか
どうかまでは分かりませんでした。以後何年も退治できなかったのは男のせいではありません。あまり衛生観念の
なかった隠居爺さんの性格もあったと思われます。隠居爺さんは顔を洗うときさらりと洗っていました。「自然の
油が落ちますわ」と。歯を塩で磨いていました。亡くなる96歳まで丈夫な歯でカリコリカリコリ音を立てて美味
しい顔をしてなんでも食べていました。生死にかかわらないことであれば食にも挑戦していました。探求心からだ
ったのかどうかは分かりませんが頭の中は大変楽しい事を思っていたように思います。ニコニコしていました。
『村史』には、60歳前後の時のやんちゃぶりが書いてあります。記載されていない話など取材して見ようと思い
ます。
昭和30年代、私が小学校の低学年の頃も見知らぬ人が泊まっていました。朝食のとき「だれじゃろう?」と思 ったものでした。隠居爺さんが挨拶して、ひ孫達は併せた手の親指にお箸を渡して「いただきます」と言って食事 をしていました。貧しい中に笑いがいっぱいありました。
昨日は建国記念日。神武天皇即位の日を設定して祝日とした年と、隠居爺さんが誕生した年が同じ(1872年)
であることを思った。2月1日付けの「をりをり」に隠居爺さんのこと「隠居爺さん、パートT〜W」(2008/02/01付)を書いてから思わぬ方向へと進んだ。
針供養の8日、句会の席で元教師のある婦人に「オカリナは?」と吹奏の格好をして訊ねたら「続けていますよ
〜先日グループで「早春賦」を発表しましたよ〜。舞台が終わってほっとしていたら見知らぬ男性に声をかけられ
ました。」とそのときの様子をお話してくださった。
その方は、「早春賦の作詞をした吉丸一昌の孫です。祖父は熊本の五高に入学してから夏目漱石教授の授業を受
けました。漱石が東京大学に転任して行くと追うようにして東大に入学しました。校歌の詩をずいぶん書いたそう
です」と他にもいろいろ一昌について話してくださったそうだ。早春賦を演奏したことでお話が聞けてよかったと
いう婦人の話が周りの方たちにも伝わっていって早春賦の歌詞について話している人もいた。
私が面白いと思ったのは、熊本の五高と漱石と吉丸一昌だった。隠居爺さんは詩や歌をよく創作して詠じていた
のはもしや?
漱石が最初に赴任したのが松山中学校で次が五高(現熊本大学)で明治29年29歳の時に中根鏡子と結婚して
いる。当時吉丸一昌23歳。隠居爺さん24歳ということになる。
いかめしき門を這入れば蕎麦の花 漱石 (五高赴任 句碑より)
いくつか隠居爺さんの謎が出てきた。
隠居爺さんの五高入学、卒業のことが抜けているのは何故だろうかか?
五高で吉丸一昌と漱石と会えていたのだろうか?
当時第一高(現東京大学)〜第八高まであったそうだが入学年齢はばらばらだったようであるからもしかしたら?
爺さんは、明治30年7月。11月に三つの村のそれぞれの尋常小学校の校長をしている。もし、吉丸一昌とダブっ
た時期があったら、小学校の校歌は作詞してもらえていたのだろうか?
隠居爺さんが校長をしたという学校は、銀鏡(しろみ)小学校上揚尋常小学校、小椎葉尋常小学校、八重(はえ)
尋常小学校と記録にある。私の母校の銀上(しろかみ)小学校に歴代の校長の写真が飾られていた。爺さんは初代
校長としてその位置に飾ってあった。明治9年創立の学校に明治5年生まれの人物の顔があるのは何故?
尋常小学校などの統合があり、その後、隠居爺さんは銀上(しろかみ)小学校の正式な初代校長となったのでは?
母校建設時の写真に、川から石を天秤棒で担いで行く人を西洋建築設計士と隠居爺さんが並んで見ているのがある。
そのときの石垣は少し低くなったものの美しい景観を今も保っている。桜の時期はお城の石垣のようだ。
追記:
銀上小学校の新築工事は、大正10年頃に行われたという資料を得た。隠居爺さんは家の事情で明治
41年3月に依願退職をしている。写真はただ見物をしているのかも知れない。
蚤しらみの話(2/1記)の続きは次回に。 まこておもしれえばい。
曽祖父幸見は1872年明治5年1月6日宮司の次男として生まれた。この年、明治政府は旧暦明治5年
12月3日を新暦1月1日として以後太陽暦を公式採用した。
私達ひ孫は曽祖父のことを「隠居じさん」と呼んでいた。新学期になると先生が家族構成を知るため
に人数を訊くとそれに応じてみんなが手を挙げてゆく。「○○人」と言うまで右手首を抑えていた。そ
うして最後に私は学習で答えを言うときよりも誇らしく手を挙げるのだった。三世代同居はめずらしか
った。
今年1月23日、幸見が亡くなって40年が経った(享年96歳)。隠居ばさんは翌月2月3日に亡
くなった。2人は隠居部屋で黒猫を飼っていた。私は猫が苦手である。でも小さい頃はこの猫を抱いて
寝ていた。艶のよい猫だった。隠居じさんはよく日向ぼっこをしていた。家から少し離れたところの田んぼの石垣を背にして眼鏡な
しで新聞を読み毛布の蚤とりをしていた。隠居じさんのニオイは形容し難い。とても懐かしい。
のみしらみかぞえながらのひなたぼこ くろまめ
隠居爺さんのことをよく取材してからここに書きたいと思っている。嘉納治五郎校長からか指南役からか
柔道のてほどきを受けたそうだが。宇宙のはなしなど幼い私たちや近所の子供達に教えてくれた。庭で
石ころや棒切れで図を描いて話してくれた。私にはさっぱりわからなかった。
どうぞ、みなさん、宮崎の山のそのまた山のその谷の底で生まれ育った青年がやがて東京に学校視察
に行かいたげなが(行かれたそうだが)、それから のみしらみの話で恐縮ですが、発生原因には隠居
じさんらしい人に対する優しさがありました。或るとき村にやって来た旅の人が・・・次回に書きます。
いろいろな伝説をどこまで検証できるか私自身楽しみでなりません。ひ孫から離れて追体験したくなり
ました。
次回は取材しだいですが乞うご期待♪