くろまめの銀鏡4

故郷の銀鏡(しろみ)は霧深い山肌とV字の谷間に在ります

平成24年7月 『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』 (弘文堂)
         著・濱砂武昭 / 写真・須藤功

平成25年3月 「第23回宮日出版文化賞」受賞

「銀鏡神楽」は昭和52年5月17日に「国指定重要民俗文化財」の指定を受けました。 所在地は宮崎県西都市銀鏡(旧東米良村)です。 銀鏡地区は九州山脈に連なる龍房山を背後にひかえた山村です。

12月12日 門注連祭(かどしめさい)
12月13日 二十八宿祭(にじゅうはっしゅくさい)
12月14日 宵祭(よいまつり)
12月15日 本殿祭 
12月16日 ししば祭 

14日の夜〜15日の朝にかけて徹夜で舞通します。 式33番の神送りは本殿祭終了後に行われます。

 


 「東米良通信」より  (2018年2月12日)  

東京銀鏡会より会報が届きました。 東京銀鏡会会長・平岡氏のご挨拶がなんとも心にしみました。 宮崎日日新聞の社説に載りました。(H30.1.1 掲載) 銀鏡地区 人口193名  世帯数 108戸 (H29.10.1 現在)

 空  (2018年1月19日)  

一月やV字の谷のVの空 くろまめ 人間が初めて月面着陸に成功した写真を新聞で見たのは小学校の低学年の時だった。 大人たちはこのニュースに大変興奮していたが私にはこの成功がスゴイコトダとは 皆目わからなかった。曽祖父の幸見(よしみ)爺さんが庭で『「宇宙とはこんげこん げでこんげなところで月は地球のこんげこんげの位置にありますわ」』と木の棒で 描いて教えてくれた。私はただ聞いていた。下駄履きの着物の裾を帯に引っ掛けて 前のめりでの難しい言葉と、爺さんの爺さん特有のニオイと、ときどき石ころを棒 の先でかき飛ばしながら絵を描いて説明をする爺さんだった。そのような爺さんか ら離れたらいけないような気になって、爺さんの動きに遅れをとらないように動き、 これはいつ終わっちゃろかいと思っていたに違いない。そして空を見ていたに違い ない。 実家の庭に立てば四方が山々。耳には川のせせらぎが届くほど迫り立つ山肌。田畑 が三角に広がり家が点在していた。空は手が届きそうで、雲ひとつない空の時は高 さにも広さにも果てがあった。雲が流れても流れて行く先の空を想像することはな かった。果てしない大空を見るまで私の空は果てのある銀鏡の空だった。 あれから半世紀以上になる。故郷の空を見ると幼い頃の幼稚な感情が湧き出してく るのである。幸福に包まれる。

 正調米良弁  (2018年1月11日)  

記事は2007年「トロント宮崎県人会会報」に投稿したものです。友人の 「あつ子@カナダ」さんが喜んでくれたことが嬉しくてなりませんでした。 タイトルが「正調」ですが自信はありません。銀鏡在住者、銀鏡出身の方 に方言の間違い探しをしながら懐かしがっていただけたら嬉しいです。

 「セピア色」の写真  (2018年1月10日)  

幼なじみのヨウコチャンから写真コピーが届きました。 時代は、映画『ALWAYS三丁目の夕日』の頃でしょうか。 昭和30年代の「村祈念」の時の写真です。 村祈念は集落により1月、3月、5月、9月の4回、あるいは3月と9月に あったそうです。まわり宿で、銀鏡神社の宮司が宿の床の間で祝詞を奏上し、 魔除けとして戸口に挿すカドバライという小幣を手渡します。それが終わると 私たち子供は、お決まりの五目ご飯のへそ飯、けんちん汁、果物、菓子などを 食べることができました。おとなの人たちは賑やかに直会(なおらい)となり、 歌や踊りを披露し合いました。焼酎は一升瓶がポンポン空いていくのでした。 おとなの笑い声が太陽のように明るくて子供たちもハシャイデモリモリオカ ワリヲシテイタヨウナ。食べることに飽きた女の子たちはチリジリになった りカタマッタリしてアソンダリ、オシャベリシタリ。男の子たちはケンカシ テイタヨウナ。写真はケンカの後かしら(笑笑) もうひとつの写真も同時代。銀上(しろかみ)小学校全児童と教職員。 ハマスナの姓がほとんどでしたから下の名前で呼ばれ呼び合っていました。 イトコハトコたちは顔も体型もよく似ています(笑笑) 撮影日は朝日が眩しくて顔がゆがんで見える子が多いですねー。夏になると 全児童が裸足で運動場に出ていました。朝礼の時間もそうでした。朝礼台に 児童会長が上がって体操始め。写真には朝礼台が写っていませんが私には 定位置にある朝礼台が見えます。朝礼が終わり 解散しますと、足洗い場に 走って 行き、足を洗い手を洗い、さーっと拭いてからサラシエンを渡って 教室に戻っていました。 足洗い場はいつもきれいな水が流れ溜まっていま した。低学年の子のスネあたりまであったような。 小中合同の大運動会の 時は足洗い場の中に中学生を見たら、洗い終わるまで外で待っていました。 大きい体格の人と一緒に洗い場に入ると水の勢いが激しくなって水に押し 流されるような怖い思いがしていました。 二枚の写真が走馬灯のように回って止まりません。 歳月を感じると共に豊かな思い出に感謝しています。 追伸 現在は、小学校と中学校が統合され「銀上学園 」 となり、山村留学生と 共に学んでいます。学習環境については、IT時代ですから大変良好と言え ると思います。ご興味のある方は、「銀上学園」で検索 願います(^ ^))。

 「M砂姓なぜ多い」  (2017年8月31日)  

宮崎日日新聞(平成29年8月27日付け)掲載

 「農家民泊しよう!銀鏡の魅力」  (2017年8月2日)  

出典:MRT宮崎放送  農家民泊しよう!銀鏡の魅力 

 「神山を寿ぐ」  (2017年6月12日)  

出典:MRT宮崎放送  その1 
 その2 
 その3 
 その4 

 「祝いめでた」  (2017年6月11日)  

宮崎日日新聞(平成29年6月11日付け)掲載

 銀鏡・村おこし  (2017年4月19日)  


 滝一郎の「ひとつせ」  (2017年3月30日)  

    <広報さいと 2017年 1月号掲載>     <広報さいと 2016年 12月号掲載>     <広報さいと 2016年 11月号掲載>

「米良(銀鏡)神楽」をアップ (2017年2月13日)   

出合いは実に新しい発見がある。今年知り合った友人から「米良神楽」 と銀鏡神楽」は同じですか? と訊かれた。 「同一です。宮崎県下で一番先に国の重要民俗文化財に指定された時の 呼称が米良神楽で銀鏡神楽のことです」と答えた。民俗学が好きだとい う彼女の質問はとても新鮮で地理に至っては地図の苦手な私には銀鏡の 所在地を言葉で示すのに難儀した(笑)。  宮崎県文化財課からの「米良神楽(めらかぐら)」をリンクしました。 平成9年のものです。 ここをクリック

寄り合い (2017年1月23日)   

新しい年が明けて、日本全国の正月行事などがテレビやラジオで紹介され ているのを観たり聴いたりしているが、ご年配の方たちの語りにはホロリ となる。言葉だ。深くて味がある。村が小さくなって行くのを静かに慈し みながら語る人もあり。なんともホロリとなるのである。 つい先日の事。母の携帯に電話したら風邪は治ったと聞き、ひとまず安心 することできた。1時間以上話をしているとこの日のこの時間の風の冷たい 風景まで見えてくるのである。電気コタツ、電気毛布、ヒータの温度やお風呂 に入る時間、食事のことなど知りたくなるのである。畑の野菜が鳥にやられな いよう工夫していることや、コンポストを二つ置いていることや、黒いトンネ ルの中(ビニールで覆っていることを楽しい表現してタカナも作っていると。 野菜はよく出来ていて食事には欠かさないでいると。暮らしの様子などが見えて くるのである。「今夜は常会じゃが。私んとこは前回終わったからTさんとこ じゃが。回り宿じゃからな」と母。「帰りのことも考えて、うんとあったかく して行くように父に伝えてね〜」と私。「あんたんとこの達子さんが編んでくれ やったマフラーもそれからまだ三本もあるばい。靴下もいっぱいあるから。着る ものも」。母は可笑しいらしくて笑うこと笑うこと。私も子供になって笑った。 電話を切ってからの私は、夫に私が覚えている、また聞いたことのある「常会、 寄り合い」について話したくなり話した。覚えているのは、村全体に囲炉裏 のある暮らしがあった頃の事。集まりの宿になった家の子供達は、囲炉裏の辺り に居て、会の終わりを楽しみに寝ないで待つのである。お菓子や果物を頬張りな がら大人たちの笑う顔を見ては笑っていた。踊る人や歌う人、演歌、浪曲、民謡 なんでも楽しいのである。聞いた話の中に、タップダンスの上手な人がみんなに 披露することになって畳の上では感じが出ないので家の戸板を外して、それから は戸板が割れようがタップの音に酔い知れる者、一緒にステップ踏む者、飛び入 り続出。宿の長老が「ええですが。ええですが」と答えたので数枚の戸板が台無 しになったそうな。それでもみんなは笑い合って実に楽しい宴会になったそうな。 誤解を承知で言うなら、明るい貧乏人のコミュニケーションの達人があちらにも こちらにもたくさんいなさったことがよくわかるのである。 「コワサ」がウリの秋田の「ナマハゲ」だが近頃は「やさしいナマハゲ」になった のだそうだ。過疎化、少子化でで若者が減少し、なまはげに扮する役が老人たちに 回ってきたのだそうだ。なまはげを迎える世代は老夫婦二人暮らしが多く、優しい なまはげと歓談したがっているのである。お接待の食べ物などを用意して話がはず むのであるそうな。怖がらす相手の子供たちも孫のようなもので、つい優しい対応 になってしまうのだろう。なるほど〜。 しかしそういう現実であっても、行事は続いて行くのである。 埋火や村の寄り合ひ回り宿 くろまめ

銀鏡神楽、吉村作治さんも鑑賞 (2016年12月16日)   

ここをクリック:宮崎放送

山村留学生と12月14日の「夜神楽」 (2016年11月27日)   

毎年のことです。11月も終わり近くになると、同級生のSちゃんが「神楽観に帰 って来っと?」訊いてきます。懐かしい声に「うん」って答えたくなります。 農家に嫁いだ彼女は「切り干し大根」の作業で早朝から夕刻まで大忙しなのです。 お祭りを楽しみにしている気持ちがジンジンと胸に響きます。そうやってもう何 年になるかしら?  銀上学園・山村留学の小中男子学生たちが舞う、式三番「花の舞」は素晴らしく 美しいです。昨年私は女子留学生たちと先生の席のすぐそばで観ていました。生 徒も先生も真っ直ぐに「花の舞」に目を向けていました。私は観客の児童・生徒、 先生たちの写真を撮りました。いつか彼ら彼女たちが銀鏡にまたお神楽を観に銀 上学園を訪ねて来た時に、あの年のあの時の写真がそこにあって見れたら、なん て思っています。保存しています(笑)。 先月、お寺で篠笛の演奏を聴いてから銀鏡神楽のお囃子がときおり風に乗って聞こ えてきます。法螺貝、太鼓・鉦・篠笛。徹底した刷り込み現象と言い切れます。 さて、宮日新聞の切抜きですが、アップして紹介したい気持ちになりました。  宮崎日日新聞「響き」文化部 三輪誠 (11月12日付)   

 滝一郎の「ひとつせ」 第4回 尾八重一本杉 (2016年10月8日)   

宮崎県西都市『広報 さいと』連載中!! 第1回は「銀鏡(しろみ)」。下段、第1回より順に読んでいただけましたら まこと嬉しいです。 「広報さいと」 ← クリック    <広報さいと 2016年 10月号掲載>

 滝一郎の「ひとつせ」 第3回 米良桜   

    <広報さいと 2016年 9月号掲載>

 滝一郎の「ひとつせ」 第2回 アケボノツツジ

  <広報さいと 2016年 8月号掲載>

 滝一郎の「ひとつせ」 第1回 銀鏡(しろみ)   

   <広報さいと 2016年 7月号掲載>

 「わけもん」盛り上げ (2016年10月2日)   

宮崎日日新聞 (平成28年10月2日付) 掲載

 宮日ふるさと便り (2016年7月30日)   

宮崎日日新聞 (平成28年7月17日付) 掲載 *** 河野司さんは2016年11月26日にご逝去されました(享年73歳) ***

 銀鏡神社で挙式 (2016年6月17日)   

宮崎日日新聞 (平成28年6月8日付) 掲載

 宮日ふるさとレポーター  (2016年4月1日)   

さて、どんな新しい発見があるか、新しい切り口で紹介してくださいね〜〜

 トップランナー 農業生産法人「かぐらの里」  (2016年4月1日)   

私は、創業者である、現社長のお父さまから、「これが商品です」と最初」 の加工食品を見せていただいたことを思い出しています。瓶詰めのラベル。 賞味期限、消費期限についてなどお話を伺いました。あれからもう40年近 くになるとは驚きです。 写真:宮崎日日新聞 2016年(平成28年)2月29日(月) 

 旧銀上小校舎の再利用公募!!  (2016年1月30日)   


 山村留学生の今、  (2016年1月30日)   

2016年1月1日付 宮崎日日新聞 「ひと」 掲載  

 「ししば祭り」(動画)  (2015年12月25日)   

2015年12月16日の銀鏡の神事「ししば祭り」の動画です。

 銀鏡 我がふるさと  (2015年12月21日)   

 銀鏡神楽を観たあと数日実家に滞在しました。滞在中に替え歌のことを 知りました。  作詞:M砂 孝行 (現:西都市・妻・岡富神社宮司)      「♪柿の木坂の家」のメロディーで  ♪「ああ上野駅」のメロディーで  ♪「青い山脈」のメロディーで  注)欄外に書いてあるのは、当時の場所などです。  注)歌のタイトル「青い山脈」を「あおいやまなみ」と読ませています。 今回の帰省では感動することが多々ありました。 「銀鏡山村留学第一号の○○です」爽やかな青年が実家に立ち寄ってくれま した。高校、大学と進学し、社会人となって今年も銀鏡神楽を観に来たのだ そうです。里親さんは今年もまた会えて(帰ってきて)どんなにか喜ばれた ことでしょう。銀鏡山村留学生たちは、銀鏡の伝統行事、学校行事などで村 の人たち全員と交流しています。彼らは卒業してからは銀鏡を第二のふるさ とだと言ってくれています。 追記:私が会った山村留学第一号の青年は吉永圭助さんです。2016年元日・ 宮崎日日新聞『ひと』の欄に紹介されています。

銀鏡神楽  (2015年12月20日)   


 宮崎のテレビで放映  (2015年12月11日)   

UMKテレビ宮崎の「ぶら金」で銀鏡が紹介されました。 前半: 後半:

 ミラノ万博 宮崎館 動画 (2015年9月8日)   

銀鏡神楽も登場します。  → https://www.youtube.com/watch?v=T3QsfBeC6n4

 ミラノ万博 銀鏡 (2015年9月5日)   

   

 あくまき (2015年6月5日)   

 この「あくまき」は妹からお土産にいただいたものです。       孟宗竹の皮に包まれています。 値段が消されていないことも嬉しいことでした。サイズは、私が知っているものより小さ 目です。シールからいろいろな情報が得られます。そういった情報も美味しくいただきま した。    「あくまき」には、切ない思い出があります。 かつて銀鏡に帰省した時のこと、「○○ちゃんね〜」と声を掛けて下さった初老の男性が いらっしゃいました。数日後、自家で作ったという大きなサイズの「あくまき」を持って 来てくださいました。昔ながらの作り方で、わざわざ作って下さったのでした。 それからは両親も加わって「あくまき談義」。その方のお母様も「あくまき名人」だった そうです。 話を聞いていくうちに食べたくなりましたが、とっておきのこの1本。宮崎を発つ時にしっ かり手荷物にして持ち帰りました。 家族に自慢して披露しました。竹の皮を開き、切り分けてお皿に盛り付け、きな粉と蜂蜜を かけて出しました。家族にとっては初めて見る・食べる「あくまき」です。私の説明下手が 「灰汁」というイメージを植えつけてしまいました。みんなは食べました。それからはパソ コンで検索。それからは、味わって食べていました。 銀鏡には昔から樫の実粉(ドングリ粉)で作る「樫の実コンニャク(ギャー)」があり、現 在は普段でも膳にのることがあるようです。製造工程は進化した道具で時間も労力も軽減さ れました。 「あくまき」も昔ながらの作り方ですと、それはどんなに大変なことか。 私に「あくまき」を作ってくださった、その男性は、嵐の日に亡くなっています。人助けに 一生懸命なられる素晴らしい方でした。 家族で味わった感想を、直接お伝えできなかったことが悔やまれてなりません。 もっと時間をかけて「あくまき」についてのエピソードをお聞きしたかったです。お母様が 作ってらした頃のこととかも聞きたかったです。   「あくまき」については、ウィキペディア《フリー百科事典)で知ることができます。 →(クリック)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8F%E3%81%BE%E3%81%8D

 銀鏡神楽 ミラノ万博へ (2015年5月17日)   

 宮崎日日新聞 2015年5月17日(日曜日)掲載 5月15日の朝日新聞・宮崎版に掲載されました。 銀鏡神楽については下記HPをご参照ください。↓ クリック! http://homepage3.nifty.com/mori2/up/siromi.htm

 M砂英一さん 銀鏡に恩返し (2015年4月24日)   


 銀鏡滝行 復活! (2015年4月17日)   

次回は6月21日(日)  申し込み・問い合わせは ↓  (NPO)@さいと・まちづくり事業部 0985−89−4230

 山里に学ぶ 山村留学20年 (2015年2月7日)   

宮崎日日新聞に掲載された記事です。ぜひご一読ください。 <里親> <第二のふるさと>  下記の記事も宮日に掲載されたものです。 <家族三世代林業励む>

 銀鏡の動画      (2015年1月27日)   

2014年12月の銀鏡神楽の動画です。

  「ごめんくださいませ」  (2015年1月19日)

私がまだ小さかった頃、村には子供がたくさんいて「子ども会」があり、子供たちが決め たルールを大人は見守り支え応援していた。おじいさんおばあさんの同居は普通のことで、 我が家は三世代が同居していた。選挙のときは、おじいさん・おばあさんをおんぶして投 票場に来ているひとがいた。子どもの私は両親についていったことがあり、そういった投 票場での大人たちの真剣な姿勢を見て覚えている。 小中合同の大運動会では赤軍と白軍に分かれて運動場を何周かして、そのたびに赤と白の 長い列が交差した。先頭の数名は鉢巻の端が地面すれすれのものを着けていた。威風堂々 の行進とはこういうことを指すのではないだろうか。東京オリンピックのときに日本の選 手団が整列して入場行進していたのを「懐かしの映像」で見るにつけ、あの時代も銀鏡の 小・中合同大運動会の行進はそうであったと思うのである。 運動場には、ひな壇が設けられていて、おじいさん・おばあさんが座って応援していた。 プログラムは村人全参加になっていて、おじいさん・おばあさんたちもハッスルしていた。 お弁当は、巻き寿司・いなり(三角形で中の具は五目寿司)・おはぎがポピュラーだった。 海苔は紫めいたり、緑めいたものがポピュラーだった(当時はその種類しか村には出回っ ていなかったのかもしれないが)。季節は秋。山の果実もいろいろあった。焼酎でほの赤 くなった大人たちが話しては笑い合っていた。運動会の最後の出し物の「地区対抗リレー 」こそは、村民の幸福感の結集と言いたい。我が家からは母と妹が選手になって頑張って いた。運動会が終わってからも勝者も敗者も幸福感が続いていたんだなあと、あの頃がス ライド写真になって蘇る。 教師の指導による学芸会も青年団の自主製作のお芝居も脚本、衣装、舞台、照明、音響な ど手作りだった。昭和30年代の後半になると、ミュージカル形式のものが導入されて行 き、昭和40年代の後半になると授業には県からの視察が入るようになり、生徒たちは未 来の自分の姿を思い描くことのできる情報を広く得られるようになっていった。教育の世 界が変わっていくのと平行して村の人口が減少し始めた・・・。 昨年12月の帰省では、このような、振り子が小さく振れていた頃の尊い幸福感から、振り 幅が広がって行く過程を時の流れなのかと、しみじみ振り返って思うことだった。それは 銀鏡で偶然に出合った人から引き出された大運動会の行進のシーンからだった。会ったそ の日からしばらく経って後、それもふいに、行進の先頭にいた中学三年生だ!と。それか らはツルツルとスルスルとシュルシュルと思い出されてたまらない。人の顔や姿勢は誠実 さを凝縮して私の脳のどこかとんでもないところに金粉のようにして潜んでいるのかも知 れない。また「ごめんくださいませ」と浮かんでくる日を楽しみにして。

  銀鏡が好き  (2015年1月1日)

新しい年。 新しい朝が始まり、新しい夜が来た。 今年も銀鏡に帰ろう。 銀鏡は自然に囲まれていて昔ながらの生活が残っている。 人と人とのつながりが濃い。 これからも銀鏡のことを紹介したいと思っています。