くろまめの銀鏡2

故郷の銀鏡(しろみ)は霧深い山肌とV字の谷間に在ります

平成24年7月 『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』 (弘文堂)
         著・濱砂武昭 / 写真・須藤功

平成25年3月 「第23回宮日出版文化賞」受賞

「銀鏡神楽」は昭和52年5月17日に「国指定重要民俗文化財」の指定を受けました。 所在地は宮崎県西都市銀鏡(旧東米良村)です。 銀鏡地区は九州山脈に連なる龍房山を背後にひかえた山村です。

12月12日 門注連祭(かどしめさい)
12月13日 二十八宿祭(にじゅうはっしゅくさい)
12月14日 宵祭(よいまつり)
12月15日 本殿祭 
12月16日 ししば祭 

14日の夜〜15日の朝にかけて徹夜で舞通します。 式33番の神送りは本殿祭終了後に行われます。

 

いのす  (2013年12月22日)

 同郷の友人がエライ懐かしいもんを届けてくれた。 宅急便のお届け票に受領印を押す。そのときだった。品名記入欄に「いのす」。 「いのす」・・・? い・の・す?? ああ〜〜 いーのーすー〜〜〜〜。 贈り主の名前を見て笑った笑った。彼らしい遊び心と親切心が感じられた。 「いのす」とは、ユズのこと。 銀鏡では「いのす」と言っていたなあ。  今日は冬至だ。いただいたユズを湯船に浮かべると、ぜいたくな香りがゆらり ゆらりとひろがる。じさんばさんのおりやったころの冬至の日のことを想った。  五右衛門風呂の頃、私と妹は父と入るのがとても嫌だった。湯船の中で数を数 えることからして嫌だった。背中が熱くなって早く外に出たいのだった。体を父 が洗ってくれるのだが、それは”擦る”のだ。痛かったが痛いと言えなかった。 どこかで愛情を感じていたからだろう。お湯が冷めると父が薪を炊き、お湯が熱 くなると、父がバケツで水を運んで入れてくれていたからだろうか。そのような 環境でも、毎日お風呂に入っていたので、今でもそうしないと気持ちが悪い。 じさんたち(曽祖父と祖父)は、嬉しそうにお風呂場に行っていたなあ。ばさん たち(曾祖母と祖母(60歳くらい?)だったかなあ)は、孫たちのあとに入って いた。母は仕舞風呂だった。やがてお風呂は家の中になり、そして最近、「お湯 が沸きました。お風呂で呼んでいます。」ボタンひとつで操作ができ、アナウン スを聞いてから「わいたごとあるばーい」とニコニコお風呂場に行く母を見てい ると、幸福感に満たされる。  家の水道の歴史を語ると長くなるので割愛しよう。いやいやどこかで書いてい るかも知れない。現在はおおかたの家の蛇口からお湯が出てきている。  そう。「いのす」を届けてくれた友人のお母様(故人)は、友人が孝行してお 風呂場を部屋に設えた最初の日に最初に湯船に浸かったそうだ。そのときのお母 様は嬉しさの極みにあり感動を短歌にしたためられたそうだ。以前その短歌を教 えてもらったことがる(メモしておけば良かった・・・)。今一度聞いてみよう と思っている。  「ゆのす」は、ユズ酢のこと。銀鏡では「いのす」と「ゆのす」は、冬、女た ちが台所で惜しみなく使っていた。都会では、今時期、1個300円前後で売られて いる。美しい肌は高級だが、ややあばたこそ極上なり。人もそうだとしみじみ思 う。ふるさと・銀鏡で、自分の見たこと聞いたこと感じたことは、よどみのない 清水だ。

銀鏡神楽 無形文化遺産登録向け始動 (2013年11月12日)

「東京銀鏡会」総会で配られた新聞記事を紹介したい。     総会の後の二次会でも話題は、やはり銀鏡のこと。思い出に浸る時間よりも極めて深い。   他にも情報あり。(クリック!)←こちらもご覧下さい! *東米良通信(発行:東米良地域づくり協議会) 2013/9月号・10月号をアップしています。

カワウソ (2013年11月11日)

 昨日、「東京銀鏡会」総会に初めて出席。 会場へ向かう電車の中、私は「銀鏡っぽい顔」を捜して楽しんだ。骨格に特徴があるのだ。 先祖を辿れば、親戚なのかも知れない。がぜん親しみが湧いてくる。  さて、会場に入れば、みな銀鏡の人、人。懐かしい感情がメラメラ燃え上がってくる。 会員に同級生が3名もいるので席を同じくすることもできた。  初参加者の自己紹介・・・困った。幼稚な言葉で短く紹介してしまった。司会者が補 足してくれた家庭菜園についても「今 植わっている野菜は?」と問われて、あれれ? 出てこないぞ。コレ! どうした! 普段草むしりに勤しみすぎて全体像を掴んでいない。 とりあえず、冬の野菜たちの絵を思い浮かべて紹介した。  実際は、紅菜苔(コウサイタイ)・からし菜・スティックブロッコリー・芽キャベツ ・ターツァイ・紫タマネギ・ホウレンソウ・人参・ニラ・春菊・ゴボウ・長ネギ・里芋 ・ラッキョウ・大根・ニンニク(ホワイト六片・紫ニンニク(←実家の母から貰った) ・フキ。ミョウガ・ショウガ・バジル・ピーマン・シシトウの夏野菜は未だ健在。 あらら、こんなに自慢できたものを(笑)。  銀鏡の人は、歌が上手い!(定説なり)。私は「園まりの逢いたくて逢いたくて」を 歌った。懐かしい顔の前では、それほど恥ずかしくはない。テンポは大きく外れて、歌 詞のマーカーは次の小節をなぞっていた。  歓談。いい時間だ。  現72歳の男性の話。東京の大学を受験させてくれた両親の思い(子に遺せるのは教育) その当時、上京に20時間も掛かったそうだ。交通費も多大だ。帰省はめったにしなかっ が、山道を登って登って実家に着くと、両親・兄弟・姉妹たちが「帰ってきたねー」声 を次々とかけて出迎えてくれたそうだ。  現64歳の男性の話。銀鏡祭が近付くと、中学男子生徒だけが銀鏡神社の竹を伐る。学 校に持ち帰り、女子生徒も一緒になって「竹かご編み」(製作)。それを祭の夜に売っ た。売上金は「学校教育費」になっていたそうだ。 (なんとも大らかな? いつから廃止になったのか?)  話は、こうしてああして・・・派生して行くのである。   学校のトイレの話。排泄物を生徒たちが捨てていた。方法は、肥桶(コエタンゴ)と を天秤棒で担いで捨てに行く。前の人と後ろの人の”力のバランス”をとりながら運ぶ のであった〜。衛生基準からしても大問題と思われるが、あの頃は問題外。「人力」が すべてであった〜。捨てる場所は大きな穴の中に(大人たちが予め掘っていたのか??)。 その周辺には、石ころや矢じりなど、いわゆる考古学的に考察すれば、大変”貴重な資料” が”肥”と同居していたことになるのか。そういった箇所もあっただろう。他にもあちら こちらにも点在していて、考古学的資料がちらりだったり、堂々と覗かせていたようだ。 これらの資料となるものと目の遭った子供たちたちも多々いたのである。高校に入ると、 「郷土史研究部」という部活に入部するものもいたのである。  こんな話も出た。祖父から「『ここん川には「カワウソ」がおったとど』」と。 私の好奇心は、帰宅してからの検索なのだ。  以下、ウィキペディアによると、「ニホンカワウソ Lutra lutra whiteleyi は、 ユーラシアカワウソ Lutra lutra の1亜種(独立した種とする考え方もある)である。 かつては北海道から九州まで、日本中に広く生息していたが、乱獲や開発による生息環境 の変化で激減。1974年7月に高知県須崎市で捕らえられ、1975年4月に愛媛県宇和島市九島 で保護されたのが最後の事例。1975年3月5日に高知県佐賀町(現・黒潮町)の国道56号で 自動車に跳ねられた死体を回収した。そして1979年夏の目撃例が人間に目撃された最後の 例となっていた。2012年8月、環境省のレッドリスト改訂で正式に絶滅が宣言された。」                         (以上、ウィキペディアより引用)  現「東京・銀鏡会」の会員は、昭和10年代生まれから20年代生まれが多いようだ。東京 23区、千葉、埼玉、茨城に住む銀鏡出身の方は多いのではないかと思う。会員が増えるよ う呼びかけていきたい。    今回、初めて出席して思うことは、あの銀鏡で(さまざまな家庭環境)子どもたちが健 やかに育っていけたのは”何”だろうか。それは、共通して、ご先祖様を大事にしている ことではないだろうか。みんなのこころの拠り所は銀鏡神社なのだ。曽祖父・曾祖母・祖 父母・両親がしてきたこと(有形・無形)を、聞き、見る。そして伝え、継承し続けてい ることが体に浸透しているからではないだろうか。そういった積み重ね(形式・型式を崩 さずに継承している)が、向上心・向学心を育て、親孝行の礎となっているのではないだ ろうか。            贄の猪十頭並び里神楽     くろまめ       *銀鏡神楽の祭殿には、1週間以内に獲れた猪の頭を奉納します。  

古事記の世界を歩く 九州3日間 (2013年10月18日)

   〜神話と伝説のふるさと宮崎へ〜    パンフレットを入手しました!!  以下、ご紹介します。   内容詳細は「写真投稿」のコーナーでご覧いただけます。   

  

おもてなしの郷土料理 (2013年10月09日)

 先日、朝のNHKで「イギス豆腐」という名前の郷土料理を紹介していた。瀬戸内海地方の 郷土料理で、海草と生大豆の粉を入れて煮溶かし醤油などで味をつけて冷やし固めたものだ そうだ。  (注:「イギス草」は、ところてんの材料となる「テングサ」に似た海草)  海側は、夏場に採った「イギス海草」(表記はNHKはカタカナだった。)で、   山側は、晩秋に拾った「樫の実」で「樫の実ギャー・樫の実コンニャク」だなあ。  細長い日本列島であるから春夏秋冬「おもてなしの郷土料理」が、必ずあるわけだ。特に 驚くことではないけれど、その料理の形状や食感から「郷土料理」の名前を付けている点に 興味を覚えた。他にも共通して言えることは、「祖母の味」「盆・正月に田舎に帰ったとき に必ず出てきたことのある料理です」と懐かしさを込めた返事が返ってくることだ。    昔ながらの素朴な味わいは、「おもてなし」の言葉にピッタリ当てはまると思う。 需要と供給のバランスを論じてなんになる。海があって海草が採れる。照葉樹林があってドン グリが落ちる。採る。拾う。循環して行く。  これからの若い人たちが「あなたの生まれたところの郷土料理は?」と問われたとき、直ぐ 「○○」ですと答えられるのだろうか。この料理の、このお菓子の材料の中に、「私の故郷の ○○が入っています!。使われています!」誇りを持って答えて欲しいと思う。  私自身は、昨年の9月、祝いの膳のお品書きに「樫の実ギャー」を見てから、そこからが出発 だった。遠い昔に見たことのあるような? 食べたことのあるような??・・・??そうだった。 それからは、「樫の実粉・ドングリ粉・ドングリパウダー」と名前を変えて使っている。100% 原料だと「樫の実ギャー・樫の実コンニャク」である。  私は勝手に「第四の粉」と呼んで、たとえ少量でも、この樫の実粉が、なにか人の体に良い 働きをしてくれないものだろうかと思っている。ネット検索している。道は遠いかも(笑)。 「どんぐりの粉」について、話がわかる(想像と理解ができる)のは、昭和10年代の戦争を知っ ている人たちだ。先月、「我孫子ガイドクラブ」に参加して、森林公園を歩いたときに、リーダ ーの方が「樫の実粉」を作ったことがあるとおっしゃった。食したことがあると。 私はすかさず、銀鏡の樫の実粉のことや「樫の実ギャー」についてお話をした。「ギャーとは」 からが面白いのだ。公園を抜けたときは思わず樫の木を振り返って仰ぎ見た。     同郷のありさんと互いにいろいろ試してHPで紹介しているが、私は「おひとつ 召し上がれ」 とおすすめしたい思いもあるにはある。  10月、銀鏡は青柚子の収穫だ。そして「神楽習い」だ。    12月14日は土曜日。銀鏡の夜神楽を観にいきやらんですか?   以下、銀鏡情報はこちらをご覧下さい   「かぐら里」(クリック!)  柚子生産者のブログ(クリック!)  

どんぐり粉で「ゆでだご」 (2013年10月06日)

 同郷のありさんオリジナルの「ゆでだご」を紹介します。 前回は、焼き菓子(「くろまめの銀鏡」9月16日紹介しています)でした。 今回は「だご」です。銀鏡では団子のことを「だご」と言います。    以下、ありさんのレシピです。  今回の団子でつかった材料。 栗(茹でて中身を取り出した正味)100g 砂糖50g 白玉粉70g 樫の実粉35g     1. 潰した栗(写真上、左)に、砂糖と水を大さじ1を加えて練る(写真上、右)。 2. 白玉粉と樫の実粉に、水130ccぐらい(記憶が不確かです)を少しずつ加えて   手で混ぜ、栗を加える(写真下左)。 3. 丸めて沸騰湯でゆで、団子が浮き上がったら出来上がり。     「反省:2.の水の分量段階で、後で練り栗を加える計算をすればよかった。 タネが柔らかすぎて団子状に丸められませんでした(苦笑)」。  このようにおっしゃっています。ありさんの試作は続いていくんだろうなあと 私、くろまめは大いに刺激をいただいています。   ありさん ありがとうございます。  

『幸せの残像』 著者:パリヌッシュ・サニイ 翻訳: 那須省一 (2013年9月28日)

   発行:書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)(クリック!) 私は那須省一さんの著書全てを読んでいます。今回も心待ちしていました。本書の舞台 は、私自身、新聞・テレビなどの報道の枠の中で見聞きしていることでしか(それさえも わからない)世界です。ひとりの女性の半世紀から伝わってくることを感じたいと思って います。    

祖母が母が、大豆・小豆・トウキビを挽いていた石臼 (2013年9月24日)

   昭和30年代の私の記憶にある石臼は、母が妹に母乳を与えている姿と重なる。石臼を 挽く作業を休んで、妹を抱く母。私はすぐそばで見ていた。授乳を済ませると母がまた 石臼を挽くのがわかっていたから。石臼を回す母の手はとてもゆっくりとした動きだっ た。授乳の時間は長い。疲れるはずであるが・・・。幼い私には、丁寧な動きに見えた のだ。思い出は、まことに切なくもあり、ありがたさが強くなるものだ。    写真の石臼を実家で見たとき、母に記憶に残るそのシーンを話した。母は、うっすら 目を潤ませていた。庭に運んで写真を撮っている私と夫を見て、母が笑ってくれた。  最近の報道番組で、「大豆粉は第三の粉」という言葉を聞いて、スーパーの棚の粉を 見て回ったが「大豆粉」には出合えなかった。なければ、きな粉で代用しようと思って いたところ、無添加食品や輸入食品の専門店で売られていた。        『かぞくの時間 2013・秋号』の中の「基本のドロップクッキー」を参考にして、この 大豆粉と銀鏡の樫の実粉でクッキーを焼いた。(分量はそれぞれ基本の2倍)。     大豆粉150g + 樫の実粉50g  = 200g  砂糖・・きび砂糖   油・・・酸化ブロック製法の油使用  他、材料は基本と同じ。     粉の割合がうまくいった。干しブドウもコーンフレークも難なく混ぜることができた。     焼き上がり写真左、電子オーブンレンジ150度で30分。   写真右、平たく伸ばして、180度で20分。 我が家は、旧式レンジなので温度調整はこれ以下もこれ以上も失敗が考えられたので、 この温度で焼いた。結果、どちらも上手に焼きあがったと思う。 味も香りも良好。コーンフレークと大豆の風味が先に立ち、口中でサクッと音がする。 干しブドウがシナットしてほの甘い。(控えめに☆四つ)♪ 「ステラおばさんのクッキー」のコーンフレークのクッキーと比べてもいいくらい♪。 菜種油系は、口当たりがさっぱりとして重たくない。 樫の実粉「ドングリパウダー」は、”材料をつないで包み込む”力を発揮してくれた!  次回は、「ドングリパウダー入りのドレッシング」を作ってみようか? 大豆や小麦 などの食物アレルギーの方たちが使えるドレッシングができたらいいなあ。  昨年の9月、銀鏡に帰省したことから、「樫の実ギャー」を『銀鏡神楽 −日向山地の 生活誌』出版記念祝賀会のお祝いのお膳でご馳走になったことから、前年の銀鏡産樫の 実粉、そして昨年の銀鏡産樫の実粉を続けて須藤功さんが送ってくださったことから、 私の樫の実粉への興味は広がり、今年、同郷のS.N(ニックネーム ありさん)さんにお すそ分けして、互いになにかを作ってみましょうとなり、彼女はそれは素晴らしい焼き菓 子を作ってくださったことをあらためて感謝したい。 樫の実粉(ドングリ粉)については、戦中、戦後、多くの方が食べていらしたようだが、 今では、とても珍しい存在であると思う。懐かしさを通り越して、平成の今、価値ある 食品になるのではないかと思っているのだが。どうだろうか。

あれから一年 租霊祭 そして『銀鏡の本ー日向山地の生活誌』出版祝賀会 (2013年9月23日)

 それは昨年の9月22日(秋分の日)のことだった。あの朝、朝霧の中をゆっくり車を走 らせて銀鏡神社に向かった。銀鏡橋を越えた辺りから彼岸花がポツポツ見えてきた。背が 低く感じられたのは固まって咲いていなかったからだと思う。彼岸花は立ち位置にしっか り根をおろしていた。とても静かな朝、「租霊祭」が始まろうとしていた。   租霊祭の後に『銀鏡の本』の出版祝賀会が開かれた。私と夫は、前から予定していた9月 帰省を、それならばと日程を変更して帰ることにした。まさかの出席が叶い、この幸運を とても感謝している。  「租霊祭」(以下、『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』(弘文堂)より抜粋) 「先年の祖霊祭以後に亡くなられた人を祖霊社に合祀する祭事である。祖霊社は長享三年( 1489)に建造された最初の銀鏡神社の社殿で(西都市指定文化財)、なかにこれまで亡くな られた方々の霊牌が安置されている。」。(以上、『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』(弘文堂)より抜粋)    昨年の「くろまめの銀鏡−1」ぜひ読んでいただきたい。      2012年9月22日付に写真で紹介←(クリック)  銀鏡は今年も10月から神楽習いが始まる。太鼓、笛、鈴、鉦の音が谷あいを這うようにして、 その日の仕舞いをやわらかく告げることだろう。  皆が仕事を中断しての練習なのだ。勤めの人は休日を返上しての神楽習いなのだ。12月14日の 「銀鏡神楽」へと、こころがひとつになって行く。  離れて暮らす銀鏡出身者たちの間でもそうだ。「まつりに帰ってくっちゃろ」「帰ってきないね」 とメールや電話で連絡し合うのだ。私にもそろそろ来る頃だ。断定、命令形で言うてくっちゃろう。       鳥おどし百十一戸の朝ぼらけ   くろまめ             ふるさとの秋の実りを想いながら

銀鏡の「樫の実粉」で焼き菓子 (2013年9月16日)

     大阪在住のS.Nさん(ニックネーム ありんこ)は、銀鏡出身です。  感想をこうおっしゃっています。 「毎年リンゴの時期につくっているカントリーケーキを参考に試してみました。食感は、 ドングリのもっちり感がある気がしました。今回は、卵と乳製品は使いませんでした。 孫クンも食べられるかなぁと。。。」。    2012年産の銀鏡の「樫の実粉」を彼女におすそ分けしました。 「お互いになにか作ってみましょうよ!」半ば強引にでしたが、ありんこさんは頭で思 い描いている時間も楽しみながら、焼き菓子に仕上げてくださいました。  材料   樫の実粉 70g   サツマイモ(茹でてマッシュ)100g   その茹で汁 50cc(サツマイモを滑らかにするため)   サラダ油 50cc   砂糖 40g   さんさリンゴ(正味)100g   イチジク果酢 大さじ2(リンゴの酸化防止も兼ねて刻んだリンゴにまぶしました) サラダ油と砂糖を混ぜて溶かし、マッシュサツマイモを加えて練る。    リンゴ、クルミ、ナツメヤシを入れ、塩少々とシナモンを振り入れ、     樫の実粉を入れて粉っぽさがなくなる程度に混ぜて、天パンに広げ、     170℃で25分焼きました。        

第三の粉? パン業界では「大豆の粉」に注目しているらしい (2013年9月10日)

 今夜たまたまテレビを見ていたら、大豆の粉を使った「大豆パン」が話題になっていた。 大豆は、小麦に比べて糖質は六分の一。食物繊維は六倍ということだった。美容と健康に 関心の高い女性ならではの発想で生まれた「大豆パン製造機」のことも紹介していた。    「ドングリパウダー(樫の実粉)」のことを「くろまめのスローフード」に前日書いたばかり。  嬉しい情報でした。 「大豆の粉+樫の実粉(食感を変える)」で試してみようかしら。  大豆の粉が見つからなかったら、黄な粉で試してみようかしら。  名付けて「里山っ粉」     そのこころは、「山のドングリと里の大豆」                  『ちゃんとしもた』の頃の時代背景が浮かんできます。虫の声が一層そうさせます。      

 戦後の銀鏡地区で起きた騒動『ちゃんとしもた』 (2013年9月8日)

「『2020オリンピック / パラリンピック開催地は東京』に決定!!」  今や世界のニュースはインターネットでその瞬間を見ることができる。 今朝の朝刊には、決定瞬間の記事は書かれていない。  本日、日曜日のテレビ番組は、1964年の東京オリンピックのことに差し替えられ 昭和30年代からを笑顔で懐かしむ話題満載である。  私はと言うと、梨(幸水)を食べながら、後方のテレビの音声に耳を傾けながら キーを打っている。そういえば、私があの頃食べていた梨は、裏山の梨「石梨(イ シナシ)」だったなあ・・・。 隠居爺さん(ヨシミじさん)を訪ねて来たサダミじさんが石梨を食べていて、こん なことを語っていたことを思い出した。 「ナシを食うと歯がきれいになりますがなあ」  舌にのせるとザラザラしていたからなるほどなあ。あの頃に食べていたナシとト ウモロコシが無性に食べたくなる。  さて、銀鏡の話に戻ろう。場所は、上揚(かみあげ)地区。当時は比較文化なんて 考えにも無い(なかったと思われる)。情報ははなはだ遅れて届く。情報を得るため の財も智恵も余裕が無い。V字の谷で一生懸命に農に生きていた若者たちの話である。  詳しく記録されているのがこちら↓です。    『ちゃんとしもた』(クリック!)  尚、この記録は、隣の村の西米良村在住の中武雅周(まさちか)様によるものです。  西米良は2013年4月より光回線が整備されて、村内のテレビ電話開通、村内通話無料 などの環境が整いました。ネットも光通信になりました。    「西米良村公式サイト」(クリック!)   小河写真館の「小河孝弘」氏のブログも見逃せません。(クリック!)

 銀鏡発! かぐら里は、ゆずの村・自然の村 (2013年8月31日)

 銀鏡の柚子加工食品を紹介します。ゆっくりご覧下さい。    「かぐら里」(クリック!)  柚子生産者のブログ(クリック!)    

 焼畑 (2013年8月7日)

   この本は、宮崎県椎葉村・尾向(おむかい)小学校の児童たちの学校生活の記録です。 編集後記に「写真詩集」と須藤功(民族学写真家)氏の言葉があります。 学校生活では、全児童の「焼畑体験授業」などがあり、写真から、子供たちの言葉から、 椎葉を誇りに感じていることが伝わってきます。  8月3日(土)に向山日添の山で「火入れ」が行われたそうです。 尾向小学校のヤボ焼きは延期になり、大人の体験は天気に恵まれ予定通り決行。  さて、焼畑ですが、『銀鏡の本ー日向山地の生活誌』によると、ナツコバ(夏に行う焼 畑のこと)は、椎葉村の民宿「焼畑」の経営者の山と尾向小学校児童の父母の家の山の2 箇所で今も行われていると書かれてあります。  私の記憶のコバ焼きは、火入れのときに実家の山が家事になったこと。風向きが突然変 わったのか?どうかは知りませんが、当時の火事はバケツリレーでした。半鐘がカンカン 鳴り、村の人たちが山に向かって走りました。家から2Kくらい上にある場所だったことを 知ったのは、かなり後のことでした。 今ではゴミを燃やすことも消防署の許可なくしては出来ないことですが、あの頃は生活そ のものが自然でした。足りないことは相互扶助で労力と智恵を出し合い、誠実に暮らして いた図式が浮かんできます。  銀鏡のコバは、コバの復活を試みた方が不慮の事故で平成23年にお亡くなりになりまし た。銀鏡の事業のひとつとする夢を抱いて夢半ばにして・・・。  注): ヤボとコバは同義語。

 蔓性植物のカゴ (2013年8月4日)

   上↑の写真のカゴは、銀鏡の「しろみ 山の駅」で買ったものです。  400円前後だったような?  この蔓はアケビでしょうか? 安定するように底がしっかり編みこまれています。 壁に掛けることも出来ます。デザイン性と機能性に優れています。  作者は私が知っている人なのだろうか?  他に、山ブドウ、アケビ、山クルミ、沢クルミの皮で編んだりしていないのだろうか? (しろみん人で作者を知っとりやるなら、メールで教えてもらえんでしょうか)      写真↑は、プロのカゴ作家の花篭です。山ブドウの皮です。 お値段は、3000円前後だったような?  蔓そのもので編んだカゴも、皮を剥いだ後から時間のかかる工程を経て編んだカゴ も美しいと感じます。どこに置いても、その場所に溶け込みます。主張しない自然の 美だからでしょうか。    今では、若い方たちにもカゴバックの人気が広まっているようです。お値段はお高 いですが、親子二代にわたって使える丈夫さ。使うほどにつやが増し、あめ色になる。 四季、場所、服装を問わない(使えるシーンが多い)ところが人気のようです。    ところで、焼畑で「ヤボ伐り」という大変な重労働があります。焼畑をする山の草 木を伐り払うのですが、木に絡まった蔓を切るのはなかなか時間がかかるそうです。 そんなときに「蔓が欲しい」なんてとても言えません。 焼畑については、次回にご紹介したいと思います。

 「五郎ヶ越(ごろんこえ)」 (2013年7月29日)

 「五郎ヶ越(標高760米)」の名は、江戸時代後期についたらしい。明治時代には西郷隆盛が 戦いに敗れて鹿児島の城山に帰るとき(1877年8月25日)に「五郎ヶ越」を越えている。 8月26日の早朝、まだ雨の降っている中を、西郷は輿に乗って銀鏡を出ている。  私は9月24日に城山で自刃するまでの西郷の身を思うとき、哀しくなる。    注)「五郎ヶ越」は 別称「五郎ヶ峠(ごろんとうげ)」。      

 銀鏡神楽も視野に!! (2013年7月26日)

    県が神楽の学識者委員会発足「神楽の世界無形文化遺産登録を目指す」 25日、「みやざきの神楽魅力発信委員会」(委員長・小川直之国学院大教授)を立ち上げた。 県内外の学識経験者ら10委員で構成。本年度から3年間にわたり各地域に残る神楽の調査・研究 を行い、記録映像をまとめる。映像は県のホームページ(HP)で公開し、神楽の魅力を広くアピ ールする。 (以上、宮崎日日新聞(7月26日付)掲載より抜粋)    ******************************************    「いよいよじゃなぁ。嬉しいばい」(こげなときはやっぱ米良弁じゃがな ^^)。  さて、先日(18日)は、『鏡神楽 -日向山地の生活誌』発刊一年の談笑会が開かれたそうだ。 この日の写真が届いたので紹介したい。 (写真:民俗学写真家 須藤功)  「祝いめでた」をM砂武畩(たけげさ)さんが歌っていらっしゃいます。みなさんじっとして います。        新しい案内板は、銀鏡が好きで来ていた人のご厚意によるものだそうです。

 「還暦同窓会」   (2013年7月2日)

 私よりひとつ下の学年の同窓会があったちゃげな。その様子を那須省一さんのブログで詳しく 読む(見る)ことができた。昨年私は「還暦同窓会」に出席したこともあって、同じような感慨 をもったことを思い返している。  みてくだされ(米良弁で「ご覧下さい」)。     「さるくは小休止でござる」←(クリック)

 その昔、生活に竹が使われていた   (2013年6月10日)

 探し物をしていたら、数年前まで所属していた俳句結社の俳誌が出てきた。付箋が付いている?。 私は阿波岐滋氏の随筆を読んで、「かけい」から流れ出てくる冷たい水の感触を思い出していたの だ。銀鏡は昭和37年に西都市と合併(旧東米良村から銀鏡に)。       続きは、「写真投稿」←(クリック)    全3頁を載せています。  読み返すほどに、良い思い出が浮かんでくる。哀しいことや怒りもあっただろうに貧しかっ たはずなのに、年寄り親たち隣のおじさんおばさんお姉さんお兄さんたち、先生もお巡りさん も明るかったなあ。そういえば、先生たちのほとんどが銀鏡生まれの銀鏡育ちで、退職される 頃には銀鏡に戻っていらしていたこともあって、生徒たちの家の事情をよくご存知だったから からだろう。横並びに仲良くされていたのだと思う。子供たちは縦社会の中で知らず知らずの うちにルールを学んでいたように思う。  平成になり、西米良村も銀鏡も子供たちがよく学び、医師、小中高校教諭、大学教授、公の 職業に就いている者が多い。文芸・芸術の分野で活躍を期待できる後輩たちがいる。村のシニ ア世代はそれぞれの分野で匠の技を身につけている。自然をご先祖様を敬愛し次世代へと繋い でいる。

 米良弁・銀鏡弁   (2013年6月3日)

 6月2日付の「朝日天声人語」を今朝移動中の車中で読んだ。この名物コラム「天声人語」を 長年点訳している同郷のありさん「窓から見える風景」←クリックは、どのような感想を持っ ただろうか。そのようなことを思いながら故郷の米良弁のことを思った。  コラムのテーマは「方言と訛り」について。  寺山修司の歌を引用して、筆者は続けて云う。  <ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし>   『「故郷の青森と東京が今よりずっと「遠かった」時代である」』。   『「歌には、ふるさとの言葉への愛憎が微妙に行き交う。そして標準語がそぎ落としたものへ の哀惜が、歌からにじんでくる。共通語では言い換えのきかない方言と訛りは、陰影に富ん で、懐が深い」』。  そしてこう結んでいる。 「『ふるさとの言葉は、よく使い込まれた道具のように心を語る。戦後の列島は均質な金太郎飴 となった。そして今、グローバル化が席巻する時代である。土地土地にこんもり茂っていた「 方言の森」が枯れてしまえば、日本語はなんとも平べったくなる』」。                        *  *  *  *       「米良弁をわすれんごつみんなでつかおうということになったとよ」。8年くらい前に帰省し たときに母から聞いた。「ヘ〜 そうなの? いいことだね〜」とこたえたものだった。親世代 のひとたちが、人口減少に伴い米良弁までも減らさないようにと日常、非日常も米良弁を使うよ うに努めている。  「まこてやあ。そりゃあ たいへんじゃったなあ。きいつけなさらんといかんですが」。  母親の話す正調米良弁(だと思う)は、気持ちが伝わってくる。イントネーションは陰影とな り、少ない語彙で悲しみ喜びの振幅が心のひだにしみこんでくるのである。わたしたち世代の村 を離れて県外で長く暮らしている者は、どうしても米良弁を忘れて行く。ふるさとが遠くになれ ばなるほど微妙にイントネーションが変わって行く。ふるさとに帰ってもなかなか元の米良弁が 出てこない。出てきてもそれは、もう違う。似ちょらん。なんか妙なのである(らしい)。  ノスタルジーではない。米良弁は銀鏡の魂だ。

 樫の実粉ってすごいんですね!   (2013年5月27日)

 縄文時代の主食源であったこと。安全食であることは知られてはいるものの、 こと現代にあっては、なにかと食物アレルギーに弱い子供が多いので私自身、 この点が気になっていました。  それで、図書館に行ったり、インターネットで調べたりしていました。  結果、参考にしたいと思えるサイトに出合うことができました。  安曇野発です。(↓クリック)  http://camp-fire.jp/projects/view/338              いよいよ面白くなってきたぞー(おらびたいとよ ^^)    銀鏡の樫の実粉の入った袋を撫ぜながら、イマジネーションが湧いてくるのを待っています。  

 隠れ里「銀鏡」に きやらんね   (2013年5月15日)


   隠れ里「銀鏡」は、宮崎市から車で90分。西都市からは 219号線を北西に約40km離れた一つ瀬川の上流、九州山地の 奥深くにある自然豊かな山里です。  銀鏡・上揚地区が有する自然環境の保全、良好な景観形成、 銀鏡神楽の伝承などの多方面かつ歴史的な文化遺産は、地域 住民の暮らしを支え、都市住民の心の故郷および最上の癒し の場となっています。  ここ銀鏡を訪れたあなたは、 もうすでに感じていらっしゃるかも知れません。 特別な「気」の流れ、不思議な時間の感覚・・・。 文明文化から隔離されて守られてきた風土。 人々が自然という神々と 強く結びついて生きていた頃からの 時間が降り積もった空間。 「それは何故なのか?」 銀鏡ナビは、それを見付ける道案内です。
 ルートマップは(↓クリック!)   https://picasaweb.google.com/yeziyezi55/ZPaDwK#/              

 くつぬぎ石の風景   (2013年4月29日)

 昨夜久しぶりに電話で父の声を聞いた。 「おぉい」(文字に表し難い)  「はぁーい 元気にしちょりやっごたあるね」と私。  耳の遠い親子同士はこれで話は半分は終わったようなものである。    「ええー そうね。そうや。ところで、うん。そうね」  「もう これで ええかい。きりがねえからきっど(受話器を下ろすこと)」  受話器を下ろしてから、しばらく受話器の向こう側の顔や声が響いてきた。 今日は親戚の家に向かう道すがら田植えの済んでいるところ、植えているところ を見た。小さな田んぼで老夫婦が手植えをしていた。すぐそばの広い田んぼでは、 息子さん?が手伝っているように見えた。ふと、実家の縁側とくつぬぎ石の記憶 がわき上がってきた。  昭和30年代、私は牛のお産を見た。牛が田んぼを耕すのも見た。田んぼに水を 引くときの「井出普請」(共同作業)も見た。田植えは家族みんなで、人手を要 するときは隣の人たちと互いの田植えを助け合っていた。田植えの時期は「家庭 訪問」と重なった。先生は縁側に腰掛けて、「くつぬぎ石」の上に靴を履いたま ま、田んぼのほうを見ているときもあった。先生は3年間の勤務を終えると転勤し ていった。在職中に3回、生徒の家庭を訪問することになる。山道を歩いてきて 「ほ〜っ」一息つきたいことも合ったと思う。太陽の傾き具合を見て、部屋に 上がるときもあり、そのまま縁側でお話をするときもあったと思う。これから もっと上の方へ行く時間を(気にしつつ)、すすめられれば焼酎を飲むことも あった(ようだった)。  今思えば、そんげな先生たち、親たちがおりやったことがまこち麗しく思える。  実家の「くつぬぎ石」は割と大きかった。いつのまにかなくなってしまってい るが。私はあの石に足が届かないうちから、あの場所が好きだった。足をぶらん ぶらんさせながらガリ版刷りの「文部省唱歌」を歌っていた。  ♪みぃかんの花がさあぁいてーいるー おもいでぇーのみちぃーおおかぁのぉー みちぃー♪♪♪   アゴを上げ下げして、あ・え・い・お・うーの口の形をはっきりさせて歌って いた自分。足の先には田んぼがあって、大人たちが横一列に並んで苗を植えてい た。その向こうに道。その向こうに川。その向こうはヒゲ先生(ヒゲを生やした 元教師)の畑と田んぼと山。ヒゲ先生はお昼になると我が家の縁側に腰掛けてお 弁当を食べていた。隠居じさんが話の相手をする。靴脱ぎ石は先生の定位置。晩 秋に入ると、隠居部屋で囲炉裏にあたりながら炭火で焼いたもの(あぶったもの )などをゆっくり噛んでいた。ヒゲが動くのが面白かった。  「くつぬぎ石」のある場所は、家の誰かがお茶を出す場所でもだった。「あがっ てお茶でも飲んで行きない」「おーきん(ありがとう)」。「足が汚れとるからこ こでええが」。半斜め掛けの人と一緒に向かいのほうを見ながら大人たちが語り合 っていた場所でもある。  2006年、銀鏡神楽を見に帰省した。私は庭で金柑を採っていた。母が烏帽子岳 の方を見て「しぐるるばい」ポツリと言った。慌てて縁側に金柑を置いてから 「くつぬぎ石」に上がった。振り向くと向かいの山肌がさーっと色を無くし、そ れからはゆっくりと明るみをもたらしてきた。   しぐるるやくつぬぎ石に靴二足    くろまめ (2006年)

 本が届いたどー   (2013年4月22日)

 『イギリス文学紀行』 那須省一 著    アフリカ、アメリカに続く三冊目の本。旅は、やわらかな緑の五月から始まっている。    『イギリス文学紀行』もまた「さるいた」土地での取材力に拍手を送りたい。文学が生ま れた土地に立つということは、作家に出会うことでもあるから、主観を抑えることに、筆者 の戦いもそこにはあったことと思われる。作家たちを客観的に真摯に伝えていることに感動 した。    省一氏の英語力とコミュニケーション力が、作家の魅力を打ち立てている。作家たちが推 敲を重ね重ねて生んだ「名フレーズ」が尊く感じられる。  省一氏は、「なお、この本で紹介している作品の文章の翻訳は断りがない限り、著者が 勝手気ままに訳したものです」と書いている。私はこのことにも魅力を感じた。省一氏の切 り口はまことにユニークである。  コーヒーブレイク的な目次「旅の途中」も見逃せないのである。聞き逃せないのである。 旅の途中のその場所のその時間を切り取っているのである。出合った人たちとの交流(対話) が、イギリスを自然体で紹介している。    とにかくおすすめしたい本である。     あとがきに『「さるく旅」は当面はこれで一応の終止符を打ちます』と書いてある。    近況によると今後は福岡をベースに活動するそうだ。大学などで英語を教えながら、翻訳 を含め、新たなスタートが始まったようだ。  「石部金吉の日々です」。なんとも気になる人物でもある。今後も注目していきたい。

 本がでけたどー  (2013年4月21日)

 那須省一 著 『イギリス文学紀行』    (↓クリック!)    http://www.kankanbou.com/kankan/    銀鏡の省一さんの本ばい。  もう少ししたら、こん 本が とどくと。     たのしみばい。  省一さんは翻訳もしていて その本は 進行中じゃげな。  これもたのしみ たのしみ♪  

 ♪ 小皿たたいてチャンチキおけさ〜 (2013年4月14日)

 先週のこと、カーラジオから三波春夫の歌が流れてきた。 「わびしい、やるせない、せつない、なみだで曇る」と歌っているが調子は実に明るい。 「小皿たたいて〜」 このフレーズが現実を軽くいなしているように感じさせる。隣同士笑顔になれる。  チャンチャチャン チャンチャチャン チャンチャチャチャチャンチャチャン♪   しだいに甘酸っぱい思いになってきたどー。  昨年の9月に帰省したときに、曾おじいさん(隠居じさんと呼んでいた幸見(よしみ) が健在だった頃の話を聞いていたからだと思う。昭和20年代?だったか30年代?だった かの村の祈年祭(豊穣を祈念する)では飲んで語り合い、アトラクションありで、それ ぞれのグループが出し物を練習して、祈年祭で披露する事がなによりの楽しみであった という。話は、私の実家が祈念の宿のときのこと。  村全体が貧しい、中でも明るい租矢抜(そやぬき)地区は、全員が芸能ごとが得意だ った(そうな)。中でも、次男どんはよく学ぶ人で、芝居の脚本も、演技もなかなかの ものだったそうだ。「♪ちゃんちきおけさ〜」の雰囲気は容易に想像できる。  宴は最終に近付き、そこで、タップダンスが始まったのだそうだ。次男どんは板縁で 下駄を履いてタップを踏んだ。それは素晴らしいタップだったそうだ。腰に両手をあて たり、宙に手を広げたり、バランス抜群。みんなは華麗なタップに大拍手。おそらく初 めて見るライブだったに違いない。次男氏はみんなが喜ぶのが嬉しくてたまらないのだ。 もっと、もっと、技を披露したくなったのだろう。  廊下だけでは狭い。だから、雨戸を外して畳の上に並べて、広く広く流れるようにし て楽しく楽しくタップを踏んだのだ。雨戸を踏んだのだ。強く踏めばヒビ入る。強く飛 べば割れる。割れる音はリズムになり、またまた拍手喝采となるのだ。  母は、割れていく雨戸の修理、代わりにどうすればええちゃろかいとビクビクしてい たそうだ。隠居じさんが ふ〜〜んわりと言わいたげな。 「ええですわい。おもいきりふみやれ。えらいもんですわ。じょうずなもんじゃ」と。  村のみんなは、気になりつつも、華麗な舞台をみちょらいたげな。隠居じさんの言葉 に、宴はアンコールで盛り上がり、祈年祭の記念の日となって思い出を飾っちょるちゃ げな。  祈年祭は今年の一月に廃止になった。  村の長老から昔話をもっと聞きだしたいと思う。銀鏡の本が評価されて、「しろみ」 とルビを振らなくても読んでいただけるくらいに知名度が上がってきたと思いたい。  村の人たちの根っこにある明るさから来るエネルギーだともいえるような気がしてい る。それぞれの根っこに、じさん、ばさんたちの笑いの渦がいまだに渦巻いていて、こ ころを支えてくれているようにも思う。  これからも 聞いた話など ここに紹介していきたい。

 讀賣新聞朝刊(4月11日) 広告が載りました。 (2013年4月11日)


 明日11日(木曜)、讀賣新聞朝刊1面に銀鏡の本:広告します。  (2013年4月10日)

 弘文堂の三徳さまよりご連絡いただきました。  「須藤先生が銀鏡を40年にわたって撮影したように、韓国の一農村を40年にわたって 調査・研究した文化人類学者の民族誌が刊行 されたので、同時に広告することになりま した。 既刊なので小さい広告ですが、ご覧ください。この本が、さらに全国的に知れて 販売につながることを願っています」と。    私が三徳さまに初めてお目にかかったのは昨年の9月でした。出版記念祝賀会が銀鏡 で開催され、その折、実家へもお立ち寄りくださり、帰省していた私は庭先でお迎えし ました。庭に佇み、山を眺めていらっしゃいました。椎の花の真っ盛りでした。清々し いお顔をなさって「いいところですねえ〜」と。銀鏡のことをとても深くご理解いただ いていることを感じました。

 「東京・銀鏡会」会報  (2013年4月5日)

 宮日新聞に掲載された銀鏡の記事が届く。過去の記事だが、まだ紹介していないもの がある。    下の写真は「山の駅 銀鏡」です。  間口は狭いですが奥行きがあります。奥のほうで銀鏡川を眺めながらお茶などどうぞ。  山の恵みが品薄なのは、繁盛している証です。    平成24年の「樫の実粉」置いてありますよ。    今春の干しシイタケ、干しタケノコも並ぶことでしょう。  銀鏡の人たちの手工芸品など、手にとってみていただきたいです。  橋は、銀鏡橋。  中学校・小学校(同じ校舎で学ぶ「一体型小中一貫教育校」)へと続く道を上ると  銀鏡神社の鳥居が見えてきます。

 彼岸の中日(3月20日)銀鏡神社の春祭り    (2013年3月30日)

 この日は、宮崎市に出ている人も戻ってきて、豊作とみんなの安全、厄年の祓いなどを ともに祈願する。昭和40年代までは銀鏡の八集落を年番でまわり、中日をはさんで前後3日 間にわたって的射(まとい)が行われていた。現在はこの3日間を銀鏡神社の境内に設けた 的場で、彼岸中日に一日にまとめて行っている。その準備を当番の集落の人たちがするの は変わらない。(『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』より抜粋)  さて、今年は3月20日が彼岸の中日でしたね。  的射に参加された方からのお便りです。 「今年は桜がほぼ満開で山はさえていました。あいにく午前中は雨でしたが、午後からは 晴れました。この的射には厄年の人、還暦を迎えた人が祓いのために参加しますが、今年 は還暦の女性が多く参加したのでにぎやかな的射になりました。」    銀鏡の山桜が浮かび、可愛かった○○ちゃん、やんちゃな○○くんの顔が浮かんだ。 それにしてもみんな大きくなって〜 ワッ60歳! 「みんな 元気じゃったっちゃねー 」(← 正調米良弁になっとる?)  帰りに「山の駅」で樫の実粉を求められたそうです。 私にもおすそ分けしてくださいました。実は前回いただいていた樫の実粉は、勿体無くて、 あと2、3回ぶんをとっておいていたのでした。おかげで思い切りアレンジ(失敗も含めて) できます。いえいえ先ずは、きちんと「カシノミギャー」からですね。 「山の駅」のT子さんにも感謝したい気持ちでいっぱいです。  写真は、「樫の実粉」    「杉安橋のたもとの桜」     この橋を渡るといよいよ米良街道に入ります。  「西都原古墳群の春」     Sさん お便りありがとうございます。

第23回宮日出版文化賞 表彰式の写真  (2013年3月11日)

 表彰状の写真は、「銀鏡神楽伝承館」での祝賀会で撮られたものです。この日のお祝いは 村のみなさんがお集まりになったと聞いています。撮影してくださったのは須藤功さんです。 喜びの祝宴ですから焼酎もさぞ美味しかったことでしょう。「祝いめでた」のメロディーが 聞こえてくるようです。  私は昨年の9月の出版記念祝賀会の日のことをしみじみ思い出しています。 須藤さんが「銀鏡は第二のふるさとになりました」とおっしゃってくださったときの この言葉にあらためて感動しています。          写真手前左から 小河孝弘氏 「写真集 結いの村」          亀澤克憲氏 「哀調の旋律 柳田國男の世界」          濱砂武昭氏 「銀鏡神楽―日向山地の生活誌」

第23回宮日出版文化賞 表彰式  (2013年3月10日)

        宮崎日日新聞(3月8日付)   写真 後列左から M砂磐さん 須藤功(民俗学写真家)さん 甲斐優さん

第23回宮日出版文化賞 「選考委員書評」「受賞者の喜びの声 」(2013年3月6日)

紙面を縮小して載せていますので読みづらいかと思います。 *同受賞者の亀澤克憲様・小河孝浩様の喜びの声につきましても、↓こちらをクリックしてご覧下さい!                  https://picasaweb.google.com/yeziyezi55/ZPaDwK# *表彰式は3月7日です。(8日とあるのは誤記です)           写真は前列左から M砂重忠さん M砂武昭さん M砂修照さん M砂正光さん      後列左から M砂武畩さん 甲斐優さん M砂磐さん 永田菜穂子さん 甲斐セイコさん       新聞は、老境様(「榎本朗喬(あきたか)の老境庵」)がお送りくださいました。 「じっくりご覧あれ」と添えられてありました。ありがとうございます。     私は電子版の宮日を時々覗いていますが、電子版では詳細はわかりません。 書評に、喜びの声に、編纂委員の方たちのご表情に感動しました。清々しい。とても清々しい。  

  第23回宮日出版文化賞(宮崎日日新聞社主催)決定   (2013年2月21日)

   以下、宮崎日日新聞(2月21日付)   受賞したのは、  「銀鏡神楽―日向山地の生活誌」(濱砂武昭著、弘文堂)  「哀調の旋律 柳田國男の世界」(亀澤克憲著、本多企画)  「写真集 結いの村」(小河孝浩著、石風社)の3作品。  表彰式は、3月7日午後2時から、宮崎市の宮日会館で開く。 http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/?itemid=51810&catid=74&blogid=13

 同郷の田原数明様の短歌集   (2013年2月19日)

   田原数明さまは 今年1月 ご永眠されました。(享年90歳)  残念でなりません。  私は7年前に田原数明様の短歌集に出合いました。  同郷ということもありますが それ以上に深くこころをゆさぶられました。 「父を失ってはじめてじっくり目を通し、齢とともに変わりゆく内面描写を知った。   まさか公の目にふれるとは思っていなかっただろう父は、きっと草葉の陰で苦笑していることだろう。」  ありさんは そうおっしゃって お父様の短歌集をウェブ上で公開されています。    ぜひ皆さんに読んでいただきたい思いでいっぱいです。    下記アドレスをクリックしていただきますと「第四歌集」が現れます。 https://picasaweb.google.com/ushikake/qnIcyD?authkey=Gv1sRgCMq8zPqNiY7RmgE#  下記アドレスをクリックしていただきますと「第五歌集」が現れます。   https://picasaweb.google.com/ushikake/uJtGyD#  
 

平成25年  NHK学園「学習の旅」 宮崎へ 銀鏡神楽へ  (2013年2月15日)

     同行講師の須藤功氏は『銀鏡神楽 −日向山地の生活誌』の編集者でもあります。  *お問合せ: NHK学園「学習の旅」事務局          電話:042−572−3151(代表)       (受付は祝日を除く9:30〜17:30まで)

銀鏡神楽 : 書評 梅原賢一郎  (2013年2月13日)

       2月11日発行 神社新報掲載。

「第23回宮日出版文化賞」の候補に!  (2013年1月28日)

   1月24日付、宮日新聞によると、 「第23回宮日出版文化賞」候補作11点の中に『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』が入ったとのこと。

山の駅「銀鏡」  (2013年1月27日)

   先日親戚から小包が届いた。中身は、銀鏡神楽のマスコット・干しタケノコ・柚子こしょ う多種・柚子入り油味噌などの柚子加工食品。山茶(焼畑に自生する)は在庫がないという ことだった。  これらの商品は、山の駅「銀鏡」で売られている。ここから発送もできる。市内、県外か らお越しの銀鏡神社ご参拝の方々やツーリストやシニア世代のご婦人方の友人・知人の”オ イシイ素材”がいっぱい並んでいる「山の駅」なのだ。山ブドウの樹皮やアケビの樹皮の皮 細工(カゴなど)なども売られている。他に日用品なども置かれていたりして、コミュニテ ィーの場としても提供されている。  大きなテーブルに着いて、見えてくる風景は山と川。銀鏡橋だ。銀鏡の人たちの会話を耳 にするのも楽しいことだろう。川瀬の音に耳を傾けるのもいいものではないだろうか。6月は 蛍も見れるとのことだ。  下の写真は干しタケノコ(ハチクを茹でて乾燥させたもの)。以前は細かくカットして袋 詰めにしているものもあったが、今も置いてあるのだろうか?  1袋(100g)500円。    柚子加工食品など(→クリック!)「農業生産法人 株式会社かぐらの里」で申し込むことができる。    下の写真、マスコットは3種類とも今は売られていない(@500円)とのことだ。     製作者を知らないが、神楽舞をこれほどシンプルにできるセンスに驚嘆した。 黒いお面の裏に「しろみ神楽 銀鏡神社 参拝記念」の印が押されている。   我が家では、交通安全のお守りの札として守っていただいている。目が合うのだ。 シャキリ! パチクリ!となるのである。  本日もありがとう!

十四日どし ナロカモチ モグラウチ  (2013年1月14日)

   今朝から関東は雪だ。降り続いている。  銀鏡は晴れのようだ。  さて、本日の銀鏡はどんな日だろう。『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』を捲ると、  「十四日どし」「ナロカモチ」「モグラウチ」      「モグラウチ」の行事はよく覚えている。モグラが出てこないようにと子供たちは各集落 の家々の庭を手作りの棒で叩いたものだった。叩くと、家の人がお礼に、お金や文具(半紙 が主)、キャンデーなど、みんなで分け易い数の多いものをくださったものだった。この行 事は夕刻に終わったので、夜は宿のおうちで中学生のお兄さんお姉さんたちがみんなに平等 にわけてくれたものだった。私自身が中学生の頃にもあったはずなのに、小さいころの思い 出のほうが色が濃い。  昨年度から銀上小学校・銀鏡中学校は、小中学生が同じ校舎(銀鏡中学校)で学んでいる。 「一体型小中一貫教育校」としてスタートしたのだった。山村留学生の生徒たちと共に村の 行事は続いている。  http://www.miyazaki-c.ed.jp/shiromi-j/     

今朝の朝日新聞「文化の欄」  (2013年1月9日)

   ハイテクな現代においてのローテクな思い・・・  「希望はローテク」と。   身体(舞)の表現者、黒田育世氏が銀鏡神楽を観に銀鏡を訪ねた経緯を知り感動した。  銀鏡神楽の舞を黒田育世氏は全身に焼き付けて消すことはないだろう。    彼女はこう言っている。  「毎年同じ舞を繰り返し、一生かけて次世代に伝える。共同体の中の踊りの浸透度が強い。  昔のままで踏みとどまり、生き抜く力を銀鏡神楽に見つけた」と。      まさしく今の銀鏡である。    次世代に繋げるための本を出そう! となってから2年がかりでついに出たのだ。  地元発信の『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』(発行所 弘文堂)なのである。  銀鏡神楽の伝承方法はローテクなのだ。  ローテクであることで懸命に神楽舞を習うのである。  毎年10月に入ると「神楽習い」が始まるのだ。  祝子(読み ほうり 神楽を舞うひとのこと)さんたちが懸命であることは誇りであることの  なにものでもない。形を変えてなるものか。    さまざまな思いを持って神楽を観て下さった方々に  銀鏡のみなさん、銀鏡出身者のみなさんが誇りを持って御礼を申し上げることだろう。  

 本年もよろしくお願いします  (2013年1月1日)

       今年初に煮ました。樫の実ギャーです。  銀鏡の方なら思い出されるあの味、あの食感を得ることができました。  昨年の9月、銀鏡で『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』出版記念式典が開催されました。  このときのお祝い膳でギャーに出合いました。  思い出すこと、曾祖母の顔、手作り食のぬくもり・・・  貧しいという概念はなかった子供の頃・・・  湯気の向こうにちらちら過ぎる割烹着や姉さん被りのてぬぐい・・・  実家でこのギャーを作っていたかどうかは覚えていないが、囲炉裏のそばの棚にあったような・・・    いつか作ってみたい! そう思っていたところに  24年産の”銀鏡の樫の実粉”を贈ってくださった方がいらして。  それは嬉しい嬉しいことでした。  レシピは『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』の一文を参考にしました。  昭和40年代までは石臼で挽いていたという実録写真と解説を読んでいて、  ”糊状、粥状になったら型に流して固める”のだなあと理解できました。    昨年末に作ってみましたがダマになりました。  水の量が少なかったようです。火加減がやや強かったようです。  新年に もう一度!  プルルン プルルン (^^/)  タッパーの底の波形も めでたいような (^^/)    銀鏡に思いを馳せて 今年も銀鏡につながる出合いを!  よろしくおねがいします。