くろまめのをりをり4(2006年)


         毎日のようにベランダから富士を眺めています。よく晴れた日は
         丹沢が見えます。太陽が少しずつ移動してゆくのを見ていると
         今日の日を残しておきたくなります。



 小中合同運動会 (2006.12.26)  昭和30年代、村には子供たちがあふれていた。文化のない貧しい村に明るい声が満ち満ちていた。学校の行事には どこの家でも一家全員が参加した。運動会は小・中合同大運動会だった。分校の子供たちも参加した。教師と生徒の真 っ白な体操服が紺碧の空に反射していた。お年寄りの観覧席は雛壇だった。半分は紋付羽織の黒い塊に見えた。銘々が お重箱に稲荷寿司、巻き寿司、ぼた餅、団子、柿栗みかん梨ぶどうなどの豊かな秋の実りも包んでいた。全員参加型の プログラムなので羽織を脱いで袴の裾を上げて走った。誰も転ばなかった。圧巻は地域対抗リレーだった。私の地区は ダントツに速くて毎年優勝した。私は放送係りだったのでマイクの前で声援を送った。「威風堂々」という言葉を知っ た。  応援合戦は戦国時代を思わせた。父は旧制応援部だったことでメアガッテ(調子に乗って)グランドの中央に出て来 て音頭を取った。日の丸の扇子、日の丸印の長い白鉢巻、赤たすき、笛、羽織袴に高下駄のときもあり学帽の時もあり 、腰にはお決まりの手ぬぐいがぶら下がっていた。私はそれでもマイクで「引っ込んでくださ〜い」とは言えなかった。    応援歌は、「♪銀鏡神社の神主がおみくじ引いていうことにゃ〜今日の運動会は白組の勝ち勝ち♪」というように親 しめる歌もあった。 メアガリ父が(米良の言葉でちょっと調子に乗っているというような感じ)入院した。  大祭が済んで翌17日の午後7時、ヘルニアの痛みに耐えている父を見た銀鏡神社の神主さんが救急車を呼んでくだ さった。救急車が到着するまで1時間、搬送先病院まで2時間かかった。家を出るときの血圧は180だった。病院で 待機している間、お神楽を舞っていたときの父に感じた“死”を覚悟できた。母は父が舞う時間帯にカラスの集団が家 の前にいるのを見て大変心配していた。隣家の人は、父の祖父が夢枕に立ったそうだ。祖父は40年前に亡くなってい て以来初めての祖父の夢だったそうだ。村の人たちは「もう亡くなる」と思ったそうだ。  日頃父は台所をウロウロしながら作り置きの唐揚げなどカラスの好物を取って行くので、母に盗み食いをした子供並 みに叱られていたそうだ。外に出て向かいの山に♪カアーカアーと叫ぶとカラスが即答して餌をもらいに飛んで来るの には惚け爺さんか鷹狩りのようだったそうだ。その父も27日は退院予定。家族はまたひとつ心配の種が増えた。                 寒烏V字の谷に社家のあり   くろまめ
 2006「銀鏡まつり」朝霧・・・ (2006.12.24)  家の前のメタセコイアはひと月遅れて紅葉していたが幹がやせ細って見えた。そして枝の隙間からは痩せた山肌が見えて いた。朝霧はゆっくりうえに上がってなかなか晴れなかった。なにか不吉な予感がしてきてならなかった。午前10時を過 ぎた頃、雨が降っていた。 この日、12月14日は村のお祭だ。この日までどれほどの時間をかけて舞の練習をしてきたことだろう。勤務を終えてか ら夜に集まり練習をしてきたみなさんのお気持ちを思うと背中が寒くなってきた。幸いにこの雨は生温かいやわらかな雨だ ったので止むことが予想できた。しかし神事の執り行われる銀鏡神社に移動するのに歩いてゆくわけだから大変だ。道のり は約2キロのところをわずかな距離だけがアスファルトなのだ。ぞうりと足袋の替えを持って行列は発った。午後4時、ほ ら貝が谷間に響いた。  プロ、アマチュアのカメラマン、お面の研究家、郷土を愛してやまないこの日に合わせて帰省してきた人たちが後をつい て行った。猿や鹿や狸たちも見送ったことだろう。私は行列が村の橋をひとつ越えたところで家の中に入った。白南天がや けにさびしく見えた。今年は村の家々に不幸が重なったと聞いた。入院された方、お亡くなりになった方々が多かった。老 齢化が進み神事はより大事に継承されるようになってきた。雨はやはり止んだが、神屋にビニールシートを広げ、その上に 筵(むしろ)を敷いた。天蓋(てんがい)の上にビニールシートを張った。神に奉げる猪の頭は5,6頭に見えた。   12月12日から16日にかけて執り行われる銀鏡神社大祭の前夜祭がいよいよ始まった。式33番の舞はこれより15 日の朝にかけて徹夜で舞い通されるのだ。・・・続く まんさくや谷に三社の御神面  くろまめ
  八十爺の小槌と孫の手・・・銀鏡と繋がって(2006.11.20)  16日、快晴。ベランダからお花屋さんを見るとお客様が続々入って行った。飼い犬のご機嫌の良いこと。  ”この客何の客って感知できる”名犬なのだ。私はこれからお出かけ、久しぶりにスカートを穿いた。そんな中、宅 急便が届いた。arisanからの小包だった。  私とarisanとの出会いは、arisanのお父上の短歌集『八十爺の路傍の草』を読んだことからだった。どうしても感想 をお伝えしたくてメールをした。お父様の短歌の中に私の故郷が詠み込まれていた。故郷は、春から初夏にかけて、そ して晩秋の頃がとても美しい。冬には氷柱が下がる。霜柱を踏んで学校へ通っていた。夏は川や谷で泳いでいた。日照 時間が短い。冬と夏は気温が極端にアップダウンする。歌は春から秋にかけてもっとも詠われているように感じた。お そらく3000首以上それ以上詠まれているのではないだろうか。感動で胸が一杯になった。  arisanのブログのリンク集「八十爺の気まぐれ工房」のなかで次のように”父”を語っていた。 「持病と加齢から体力が落ち、自由な遠出が叶わなくなり『することがねえ』と口癖の父が、ここ数年小物作りに凝っ ている。某健康誌の記事を参考に、廃材を使った木槌を作った。シンプルな小槌はそのうち、表面にカラー糸を丹念に 巻き、カラフルな小槌になった。やがて真鍮製の釘を打ち、幾何学模様の派手な小槌となった。それでもなお改良の余 地ありと、その釘山を広げ、梅の花に見立てた柄入に仕上げた。こうなると少々やり過ぎの感ありだが、ああでもない こうでもないと、日がな一日にわか工房に座る。無名な年寄りの自己満足に他ならないが、地元のTV局も取材に来た 小槌作りは身内のひいき目でみてもユニークかなと思う。難聴が進み、電話の会話ができなくなったここ数年は、言葉 遊びを交えた愉快なファクスが届く。物事を深く見つめ、意外と繊細な父は『ものを書くことで、心を整理できるんだ』 と言い、日記代わりの短歌などを綴る。そんなつぶやきを少しずつ紹介する父のページです」と。 そしてお父様のお写真が載っていた。    小包を開くと美しい小槌と棒が現れた。「棒は背中を掻くのにどうぞ」と優しい文字で書かれてあった。 棒の先には500円玉サイズほどのアルミが通してあった。もうひとつの方は、5円玉そのものが通してあった。 この丸い縁で掻くと気持ちがよさそう。早速使ってみた。どちらの縁も当たりが優しい。血行が良くなると思った。 痒いとき痒くないときもこれはいい!!。しかし、あまりにも美しい。 「小槌は足の裏をトントン叩くのにどうぞ」ということだった。トントンやってみた。これは勿体無い!!と思った。 帰宅した夫にも使ってもらった。夫はいわゆる孫の手がないと困る体質で必需品である。やはり勿体無いと言った。 でも使わなければもっと勿体無いのではと私たちは思った。トントン、カリコリ、トントン、カリコリ この冬の血行促進に大いに活用しようと思った。使うときだけ壁から外して、指定席は白い壁と決まった。        郷愁の募る思いを断ち切りて哲学の書を繙きてみる        諸人に踏まれて生きる路傍の草枯るることなく花の咲きたり        鶴の舞う形に似たる寒ランの花優雅なる香り漂う        三日月を拝みてありし亡き父の面影浮かぶ三日月見れば        山間の蔭りも徐々に濃くなりて冬の日早も夕暮るるかな        天性の器用を背負い生まれしは一代この身の幸とぞ思う        障害に硬ばる手指解しつつ寒夜の床にまどろみており        赤ヘルの乙女香りを振りまいて吾が横を抜け遠くなりゆく        見た夢の数多の物を叶えつつ年老いゆくも尚を夢見る        出征の決まりし彼の日忘れざり山桜花の散る絵描きしも        生け垣の樹々の間に紫陽花が玄関覗く形で咲けり                      『八十爺の路傍の草』短歌集より 
 村の鍛冶屋さん・・・銀鏡の頃(2006.11.5)  「まんまテットォ〜まんまテットォ〜」3歳に満たない妹がたんぼにいるみんなに「お昼ご飯ですよ〜」と呼びかけて いた。妹の手を引いた曾祖母の顔もコロコロとしていた。真っ直ぐにのびた30mほどの道を嬉しくてたまらないといっ た調子の歩きで繰り返し呼んでいた。  道の傍らに村に一軒の「鍛冶屋さん」があった。我が家と同じ敷地の中にあったので親戚とばかり思っていた。私は小 学2年生だった。学校から帰ると鍛冶屋さんに入り浸っていた。隅っこにしゃがんでじ〜〜っと見ていた。おじさんは二 人いた。火がごうごう燃えるのを見ているとワクワクしてきた。フイゴの風の音が地中から吹き上がってくるように感じ た。火花が散った。辺りもおじさんたちの顔も真っ赤になってどんどん赤くなって橙色になったり黄色くなったりまた赤 くなったりした。おじさんが真っ赤な塊を出すと私は額が痛くなってきた。おじさんが叩くと塊は一瞬灰色になって少し ずつ赤みがうすれていった。水に浸けるとジシシャーンという音が冴えて聞こえた。私は両手を地面に突いて立ち上がり たくなってきてよく叱られた。次はどんな形の物を造るのだろうかと想像しながら見ていた。一人でおじさんたちの仕事 を見るのが好きだったから誰も誘わなかった。  父、母、祖父母、曽祖父母は黙っていたがここに来ていることを知っていたのだそうだ。どうも私は妙な子供だったよ うだ。おじさんたちは子供の私が怪我をするのではないかと心配していたのだそうだ。時々もらった大きな飴は、口の中 で転がらないサイズだった。声も出せないし動くと飴が張り付くのでじっとしていた。  あれは私をおとなしくさせるための策だったのかも知れない。二人のおじさんは黙々と働いていた。鉄を叩いて裏に返 して形を読んでいたのだろう。そのときの目はとても鋭く見えた。汗がすごかった。ねじり鉢巻が濡れていた。タオルが 黄色くなっていった。汚いとか思わなかった。もうめちゃくちゃかっこよく見えたはずなのに日記に「赤鬼さんが金棒を 振り上げている」と書いた。強くて優しい鬼さんに申し訳ない印象を書いたものだった。  鍛冶屋のおじさんのお母さんは(お歳を召した方に見えた)盲目だった。着物を着て前掛けをしてきちんと正座をして 縫い物をされていた。針に糸を通すとき舌を出して舌の先に垂直に針を立てスイと通してスイスイと縫っていた。私はこ の手品のような技もジーッと見ていたのだった。誰にも似ていない品のよい方だった。「もう一回してみて〜」とお願い していたのではないだろうか。  夏、おじさんたちが井出水の流れているところで顔を洗うことだけが嫌だった。友達とめだかすくいをするために堰止 めているところに顔をつけてゴシゴシ洗うおじさんたちの後ろからじーっと見ているだけだった。前の道に出て、深呼吸 をしている時のおじさんたちは気持ちがよさそうに見えた。川幅は広いが岩が多いため流れが急であったので水の音がど んなに気持ちよかったことだろう。山は青々としていて岩肌などひとつも見えなかった。猿や鹿やイノシシも平和に暮ら していた。  おじさんたちはいつごろ村を離れていったのだろうか。作業場と住まいのあった場所は、母の畑になり、フイゴのあっ た所は堆肥でこんもりとしていてガスを抜く筒が立っている。「まんまテット〜」と妹が呼びながら通った道も畑になっ ている。水路とたんぼは3年前の大雨ですっかり流されてしまった。果樹も花木も流されてしまった。コンクリートの大 きな筒が継ぎ足し継ぎ足しの継ぎ目をあらわにして川に伸びている。                 煮凝りや忘れかけたる人に合ふ   くろまめ 
 横浜へ・・・お墓まいり(2006.11.1)  10月30日、月曜日の朝は快晴。ベイブリッジにさしかかる。眼下に一気に海が広がる。遠くの坂や丘の多い街並みが” 横浜に帰ってきた!!”という脳内チャンネルの切り替わる瞬間だ。家族全員がこの感じになったというから面白い。  カーラジオは「必修科目をやっていない高校がこんなに多い」とか、「価値基準が問題なのだ」と問題にしていた。わから なければわからないままに終わってどうなっていたのだろうかと思った。新しく起きた問題を徹底的に叩くマスメディアだが そのうち新しい問題が起きればガムを噛むようにただ噛むだけでおしまいになってしまう。このまま聴いていても解決しない のでチャンネルを音楽に切り替えた。    「お墓参りに行きましょう」と話が出てから早一月、それぞれの時間がなかなか合わずご先祖様を待たせてしまった。お墓 は横浜にある。ご先祖様に外国航路の船医をしていた人やパーサーをしていた人がいる。海賊はいなかったが海にかかわる仕 事をしていた人が多い。そういうわけではないと思うのだがお墓は港を向いて建っている。前方にランドマークタワーが見え る。お茶屋(お墓の管理事務所)で台帳に名前を記していただく。線香に火をつけていただく。お花と桶を持って坂を下る。 風で線香に炎が立つ。あわてて消すと煙がたちまち胸部から頭をかけ上る。私はこの匂いが顔中にかかる位置に持ち上げる。 今回もそうした。  お参りを済ませて、他家のお墓を見ながら坂を上る。このぼちぼち歩むのが実にいい。お茶屋の方が「お帰りなさい」と戸 を開けてくださる。茶の皮の長椅子に腰掛けてお話しを伺う。毎年のお決まりだ。少しのお話しから沢山の情報が飛び出して くる。元禄時代の商人の話し、大正の芸者さんの組合の話し、篤志家の話に進んだ。関東大震災でお亡くなりになった身寄り のない芸者さんたちのお墓を建てたというある女性の話を前にも聞いていたので、より印象が濃くなった。  光と陰に生きた名も無い女性がいた証を胸を広げるようにして墓石がそびえ建っていた。大きな平たい石の下方の右下に名 前が彫られていた。  この夜の宿泊は横浜インターコンチネンタルホテル。窓に海が広がる。見下ろすと「ぷかりさん橋」の全景が見えた。12 年前の10月、私はこの緑の屋根のレストランで妹たちと赤ワインで乾杯をした。港が見える丘公園から元町、中華街、桜木 町、馬車道を歩いて、このレストランでイタリアンを食べた。その時お客様は私たち一組だけだった。丁寧なサーブにお名前 を聞いたことまで思い出した。それからシーバスに乗って羽田で見送ったのだった。    暮れてゆく速さに記憶の蓋をゆっくり閉じて、ディナーの席に着いた。ベイブッリジに灯りが点った。ジェットコースタと 大観覧車に灯りが点った。海上に船にも。私たちの席はこれらのすべての灯りを目にすることができた。上弦の月もまだまだ 視界にあった。 白ワインに似合うお料理だったが赤もいただいた。よく気配りができていてゆったりとサーブしてくれた。 2時間ぐらいは居たかもしれない。夜の海は、たらいの中の7分目くらいの水に感じられた。  翌31日やや曇り。私はご飯をお替りした。9時、箱根へと出発した。高速道路から景色を観ながら横浜での思い出に浸っ た。途中から国道1号線に入る。箱根駅伝のルートを走りながら山に入っていった。紅葉にはまだ早い。ポーラ美術館へ行こ うと全員一致でそうした。  ドガの「休息する二人の踊り子」のパステルの黄色がとても魅力的だった。当時のブルジョア階級の鑑賞したバレーは踊り 子の鑑賞でもあったようだ。明るい光の入る喫茶コーナーでハーブティーをいただいた。ハーブの香りが体の組織の隅々まで 行きわたった。帰路、富士を見た。  湿気のある10月の最後の夕、やわらかく優しさに満ちたドライブとなった。                                  
 裏磐梯・スケッチの旅 (2006.10.27)  午前9時、大雨の中をバスは出発した。18名はこれから向かう裏磐梯高原も雨と分かっていた。仲間はインターネットで気 象情報を追いかけて来ていた。私は一番前の席にひとり座った。後部座席のサロンは、男性の憩いの場となっていった。  五色沼では雨脚が激しくなってきて撮影ポイントはすっかり煙っていた。雨で葉が膨らみ厚く色濃く見えた。煙が晴れた瞬間、 一斉にシャッターを切った。気温は16度くらいではなかったろうか。バスの中で温かい缶コーヒーを飲んだ。「ハァーフゥ〜」 という声が聞こえてきた。地元のビール工場で昼食を摂り、隣接するガラス館でお土産を買った。  宿泊地(レイクランドヒバラ)に入る道は広かった。自然の道はでこぼこがはっきりしていた。バスが大きく傾き頭上の荷物が 落ちた。午後4時過ぎ到着。高原は見事に紅葉していた。トレーラに2名から3名単位で入り、夕食をセンターで摂り、それから みんなで語らった。だるまストーブの上では南部鉄瓶がシュンシュン湯気を立てていた。照明をランプに変えていただき山小屋の ともし火の雰囲気に。  S氏がハーモニカを吹いた。効果は一層高まった。彼のハーモニカはシンプルなものではなくて半音下がったり上がったりの操作 の出来るものがついていた。BGMとなっていった。  人にはそれぞれの人生がありそれぞれの信念(幹)がある。こずえの先にひとりひとりが止まっては語った。友の背の向こうが 暖かい色に見えてきた。そして太い幹となったような気がした。「絵が好き。観ることも描くことも好き。仲間が好き。この会の 先生に出会えてよかった!!」という共通の思いを感じた。私はこの夜、「はじめに言葉ありき」なのだと強く感じた。  翌、朝日が明るかった。リスを見たという話を聞いたが私はとうとう一度も見ることがなかった。朝食にジュンサイのお味噌汁 が出た。レンゲ沼から中瀬沼展望台まで歩いた。雲の動きが早くて磐梯山の峰が出たり欠けたりしていた。湖面のコバルトブルー は観ることができなかった。帰路、山葡萄の葉っぱを摘んだ。オーナーは毎年この時期に自分の敷地で、はしごをかけて採り、自 家製のワイン、ジュースを造っているそうだ。色づかない白柳という名の木は、紅葉の美しさを一層引き立ててくれていた。猿梨 (さるなし)という実の生る木も見ることができた。  センターに戻って、昼食。それから真正面の桧原湖を描いた。夜はそれぞれの絵を観ながら先生のご指導をいただいた。翌日の レンゲ沼のスケッチに大きく反映していたことはいうまでもない。  2泊3日の旅の終わりは、「道の駅」でお買い物をして磐梯山をズームインしたりズームアウしたりと秋を捲るスペシャルコー スに切り替わった。窓外はぐるり桃源郷。私はまだこの酔いから醒められない。                  十月の公園の影むらさき    くろまめ
 モヤの晴れた日(2006.10.13) 11日午前10時、上野公園口の改札は静かだった。  公園では都の条例で餌を与えられなくなって久しい鳩たちが数羽意外に元気に朝の散歩をしていた。都立美術館、東京芸術大学 美術館の方向へ進むうちにひとつの傾向がひとつになった。群れて進むとさらに群れの固まりの方に身を置き流れてゆく。私自身 も群れの目的がはっきりと見てとれ気持ちは群れ人になっていた。ブルーテントの住人の目覚めは体力温存なのか静まり返ってい た。  『NHK日曜美術館30年放送記念』の大きな看板が見えてきた。チケット売り場に向かう人よりも会場に入って行く人のほうが多 い。杖をついた人も手を引かれた人も団体さんもそう若くはない。会場入り口で少し目を上げているのが面白い。穴に入る前に天 井の高さを確認するあの心境か?。私は仲間の一人を待つ間、観察を続けた。手荷物をロッカーに入れない人が多いのは小さなバ ックだからか。男性は連れ合いに従順だ。婦人が行けば”僕もワシも”。妻が指差せば”ハイ”。  作品の脇に放送時のゲストの鑑賞文が添えてあった。500円の音声解説は長かった。 音楽家は音色で表現し詩人は空気を詠い小説家は物語を綴り作品に惚れ込んでいた。作家の境涯から離れて鑑賞するゲスト、接し て鑑賞するゲストのいて面白かった。たくなっていった。絵画、陶磁器、漆、版画、彫刻、すべての作品が作家の無心の到達点だ ということがはっきり感じられてきた。NHK賛歌したくなるのだ。  月一回参加しているhttp://www.shirakaba.ne.jp/白樺派文人関係の軌跡をたどる『葭の塾』で名前の上がった作家の作品を観る ことができた。富本憲吉、高村光太郎、浜田庄司、小川芋銭、そして棟方志功。志功作『二菩薩釈迦十大弟子』は池田満寿夫氏が” 枠ぎりぎりいっぱいに彫っているリズム”を称えていた。今年5月栃木・益子の浜田邸に塾のみんなと見学していたことがよかっ た。”流しがけ”の大きなお皿を前にしたとき、『みんなは15秒でできて簡単すぎるというが60年と15秒かかっています』 と応えた浜田の澄み切った自信ぶりを呼吸を整えて反芻してきた。とにもかくも芸術は粘りのある精神とシンプルすぎる省略とひ とつのこだわりと呼吸の総合作品なのかもと思った。  都立美術館では、日展入選者を輩出している著名な美術協会会員の作品展を開催していた。100号の油彩がずらり壁を高く高 く立ち上げていた。中にユニークなタイトルを見つけた。  『じじばばの合コン』は、剣玉やおじゃみや糸電話や竹馬が人物のあたりにかくれんぼのように見え隠れしていた。糸電話の糸 がゆるまずピーンと張っていて手に持たれていたのが印象に残った。絵が上手いとはどういうことだろうか。観る側に”力”と” 和らぎ”を送ってくれる、そのような余韻の長さだろうか。それぞれが思い出すシーンの合わせ鏡のようなものか。ムニャムニャ ・・・とにかく私はこうやって美術館にいつでも来れる距離に住まっていることが幸せだと思った。
 富士山と大花火の夕(2006.10.10) 8日、午後4時過ぎ、雲が重たく垂れ込んできた。車の流れは溜まってきた。のほほ〜んとしているようにも見えていた ススキの群生。せわしない空気を払えたまい払いたまいと払っているようにも見えた。風当たりの強いところのススキは クインクイ〜ンと振っていた。    6日の強風は宮城県沖や茨城県沖で座礁事故を起こしてしまった。低気圧の発達の速さに人の予測が追いつかなかった のか、残念でならない。  5時40分、夕日が雲を照らし富士の稜線を浮き上がらせた。ベランダから夫が続けて撮っている。「あの鉄塔がなけ ればという私に『あれが目印になるのよ〜』」と義母が云った。夫は無言で撮りつづけていた。 被写体が完全に幕を下ろすまで3人は見ていた。そしてカーテンを引いた。それぞれが次の動作に入っていった。夫はPCに 写真を取り込む。私はキッチンの後片付けをしていた。義母が新聞の切抜きを見て作る予定の食材を取出そうと冷蔵庫を 開けたとき・・・    ドドドーンドカーンという鈍い音がした。キッチンのガラス戸に もやもやと灯りが迫って消えた。大花火が咲いた!!  次を期待して夫を呼ぶ。 「これを撮らずにどうするの〜」と脅しながら私も撮った。竹林の竹の先が赤々して風の強さがいよいよ増しているのが 分かった。しかし、なぜ?今夜、花火なの? 西空にドーン 間がチョット、咲いた。そんなに遠くではない。なんの祭りだろか?広報誌を探したがもうゴミに出して いた。ドアを閉めてちっちゃな窓から覗いた。檻の中のゴリラさんとオラウンターンとキリンさんは、チョットチョット 〜って観ていた。  私はこの流れて消える花火の一瞬の色彩を「秋雨前線」と名付けた。
 秋の日に届いた「本」と「本」(2006.10.05) @あつ子さんを羽田へ迎えに行く9月30日晴天。  駅で小説家宇尾房子さんと出会った。互いに時の経つのを早い早いといいながら電車の中でゆっくりお話をした。81歳 現役小説家は、市の「メルヘン文庫(注)」の審査委員もしている。今年も10月から審査が始まると云っていた。 <注:2001年誕生の全国小・中・高校生の童話創作作品入賞作品>  いつどこでお会いしてもおしゃれな方である。紅葉し始めた柿葉色のジャケット、亜麻色のスカート、プレスのきいた白い ブラウス、細いゴールドチェーンに下がるペンダントトップは四角い透明アクリル樹脂で中で極小のクリスタルビーズが数粒 エメラルド色を転がしていた。足元もめがねもピカピカ。本日は、目黒で とあるゼミの日なのだそうだ。まだまだ不思議を学 ぶ彼女から昨日本が届いた。    『メルヘン文庫』 カバー絵・本文挿絵 長縄栄子 我孫子市教育委員会発行   『小説集 姥ヶ辻』宇尾房子、他共著  作品社発行     かつて「老いる」という字を見ただけで恐ろしかった。暗くて憂鬱、ひとりぼっち。  身を竦めて暗い穴蔵の中に入っていく想像にとらわれた。  けれど、いよいよその時がきてみると、想像とはまるっきり違う明るさ、広さに驚かされる。  その広がりは現世ばかりではなく死の世界にもつながっている。  しかもひとりぼっちどころか、姥言葉をもつ友人たちと時には化かしたり、化かされたりの  楽しみもある。・・・・・・ 「あとがき」より  @あつ子さんを成田に見送る10月2日小雨。あるご家族様から昼食のお招きをいただいていたのでそのお心遣いにありがた く出かけていった。老舗の料亭で色とりどりのお品に染まっていった。あつ子さんはみなさんとは1年半ぶりの再会となった。 「一期一会」という言葉をおっしゃった。そして「本」とにおい袋を下さった。雨はやんでいた。  『小林研一郎とオーケストラに行こう』 旬報社発行    別々の時間に別々の方からいただいたご本はどれも私の気持ちにぴったり響いてきた。当サイトくろまめの「ビタミン愛の部 屋」に集うみなさまにも紹介したいと思った。私自身は、漫画シリーズ『のだめカンタービレ』を途中まで読んでいたので、世 界的指揮者”炎のコバケン”が現れたのには驚いた。  台風が近づいている。西陣織の”におい袋”の香りが居間に流れてきている。  
 同級生・・・銀鏡中学校 (2006.9.21)  9月10日付 「をりをり」に中学校の校庭の松の木のことを書いたが、あのときに浮かんだ同級生の訃報が届いた。 「相変わらず生意気な顔ばしとるなあ」と賀状をくれた富士夫さんが8月に・・・・・・。  彼は次回の同窓会をとても楽しみにしていたそうだ。必ず治ると信じて抗がん剤、放射線治療を何回も受けたそうだ。 9月17日故郷へ納骨に・・・とあった。  わたしたち同級生は小学校から9年間一緒だった。山の子供たちはみんな貧しくてみんな仲良しで学校が楽しかった。 広い世界をなにも知らなかったから比較することをしなかったから村の端から端が広い世界だった。遊んでも遊んでも 日が暮れるまでまだまだ遊べた。春夏秋冬一生懸命遊んだ。家の手伝いも遊んだ。なんでも遊びに変えれる知恵を持っ ていた。  2003年6月に同級生3人(私、つよみちゃん、三千代ちゃん)と旅をした。旅の終わりに三千代ちゃんが富士夫さんと 携帯で話をした。私もつよみちゃんも彼と話をした。私は難聴だからとても困った。彼の関西弁の語尾だけが残った。 それから一年後、いちばん長く彼と話をした三千代ちゃんの訃報を私は富士夫さんにメールで知らせた。とても驚き残念 がっていた。それから間もなくして「東京にいくかも知れないのでそのときは同級生たちと会いたい」とメールがきた。 しばらくしてから「東京へは行けなくなりました」とメールがきた。また会えるから、またそのときに、という気持ち であっという間に年を越していた。きのう、矢も楯もたまらなくなって富士夫さんにメールをした。それが・・・まさ か・・・ 「思う気持ちばかりではいけないなあ。ノックしよう・・・」友人のarisanがブログでつぶやいていた。  「難聴てかいなあ。しょうないなあ〜」と・・・私はふじおさんと話しらしい話をしていない。会いたかった! (2008年追記:富士夫さん 2006年8月永眠しました。享年54歳)
 一期一会 (2006.9.15) 長野は雨だった。滞在中に忘れられないシーンがいくつかあったがその中で二人の女性の印象が特に強い。ホテルフロン ト係りの気配りと目配りに“ふくろうさんのようだなあ”と思いながらカウンターを見ていたらなんと、ふくろうの置物が 置いてあった。置物の眼鏡の奥も優しい待ち姿勢の目だった。懐かしさを覚えたなにかがあったのかも知れない。また来よ うと思ったとき、もしかしたら会えないかもという思いがよぎった。  時間と距離の関係が一瞬だったり、一日であったりする「一期一会」、人や物との出合いを私は大切にしていただろうか。 人生を“もし”という言葉で消していったら、悲しい寂しいではないか。なるほどなるほどと改めて思った。人、物、自然 に挨拶しながらゆっくりゆっくり山を下りて行った。  絵葉書をホテルから出したくてフロント係りに尋ねたら「ここは山ですから二日は余分にかかります」という答えだった。 昔、絵も文字も雨水に溶けて誰からの便りか判らない便りを無事に受け取った友人がいたことを思い出した。ワイナリーに 立ち寄ったあと、小諸へと向かう緩やかな下り坂の角に小さな間口の郵便局を見つけた。私はこのタイミングの良さに嬉し くなってきた。 「こんにちは〜。郵便局を探していたのです。よかった〜」 「東京に出したいのですが」 「東京には明日着きますよー。あ!もう一度良く見てみますねー。そうです、 明日です」と嬉しそうに応えてくださった。 「ありがとうございます。ご親切にありがとうございます」と云って外に出 ようとしたら大きな声で呼び止められた。 「ちょっと待ってまって〜〜。ここに寄ってくださってありがとうございま す。これをどうぞー」って白い箱をビューンと窓から出してハイ!!と私の 手につかませて下さった。 このときの気持ちは音でしか伝えられない。ウウウキキキーウキーがいい。 互いに顔を見合った。懐かしい顔だった。 私が興奮した顔で白い箱を振りながら車に向かってきたのを助手席から見て いた娘が「なにかあったのね〜あれは普通ではない」と言っていたそうだ。 確かに普通ではなかった。義母と同時に出た言葉は「一期一会だね〜」だっ た。箱の中身は丸型ポストの貯金箱。あつこ@カナダさんにお土産がにわか に降ってきた。
 
 校庭の松の木・・・銀鏡の頃 (2006.9.10)  6日、中学時代の後輩たちと40年ぶりの再会をした。このプランの発起人T.Kさんは先に来ていた。おしゃれな 雰囲気の紳士が片手をついてこちらを振り向いた。 「まあ!お元気〜」「おう〜ゲンキドォー」もうこれでバッチリ近づけた。これまでのあれこれ、あの頃のあれこれ が入り乱れて混ざっては飛んだ。操縦する者のいない話の運行はほろ酔い気分をうんとうんと長持ちさせてくれた。 遅れてもう一人の後輩S.Nさんがやって来た。 「帰ってきたねー乾杯!」「すごい歳月じゃねえ〜乾杯!」 刷りたて英字版の”号外"(秋篠宮家男子誕生)を持って現れた新聞社勤務の彼に「お疲れ様〜乾杯!」を重ねた。  私と@あつ子さんはお店までタクシーで行った。雨も降っていたので運転手さんに行き先を告げたら「すぐそこで すよー。そこのそこのその先ですよー」と指し示す辺りは見える距離だった。「ドライブしましょう」とお願いし店 の裏を大きく回り路地に入って広い通りに出で降りた。凝縮も凝縮のドライブになって良かった。  T.Kさんが選んでくれたお店はホテルから近いという理由以外に特別な気持ちが込められていた。掘り炬燵、宮崎 の地鶏と焼酎の旨いことで有名な木造りの粋な店。カナダに30年暮らす彼女が東京で故郷の味と故郷訛りを思い出 し、ゆるやかな時の流れも同時に味わうことができたらいいなあという心遣いからだった。    私は中学時代の写真を出した。それぞれの記憶の断片が線になり大いに笑った。  写真の背景の松の木のことをT.Kさんが懐かしそうに見ていたが私にはどうしても思い出せなかった。部活は彼らは 剣道部と柔道部。私はテニス部、彼女はバレーボール部。お人形さんのように可愛らしかったが強かった。可愛らしさ の片鱗は会話の度に目元口元に現れていた。  彼らは新校舎卒業の一期生だそうだ。私は旧校舎の古い古い木造校舎から卒業して行った。・・・休み時間、旧校舎 の廊下にパラパラと出てきた中学生たちが校庭に飛び出して来るのがみえてきた。昼休みは中庭でバレーボールをして いる。鉄棒をしている。石蹴りをしている。教室に戻るとき中庭の隅っこの水道の蛇口をひねって手足を洗っている。 パタパタ廊下を駆けて行くゴムのスリッパの音が消えた行った。後輩も彼女も生徒会で活発だった。私はわけの分かる ことにも反抗していた。イカンばい。  今日になって松の木の場所が浮かんできた。中庭にテニスコートが一面、その向こうの空が広がる辺りにバレーボー ルのコートが2面あった。松の木は境界としてあったのか?木の後方には針金のネットだったか?竹の柵だったか?壁 となるところの中央部分に松の木は立っていたような・・・。土煙が上がる日は薬缶の水でオバQを描きながら水を撒い たものだった。M.Hちゃんもこの水絵が得意だったなあ。コートに入ったボールを松の木を避けた辺りから投げ入れ合っ た。根方の土が風にさらわれてヒリヒリしているような赤い砂はザラザラしていた。    冬になると、松の木のある校庭に大きなドラム缶が置かれていた(と思う)。私とS.Hさんが当番の日、「みんなが よーあんたのことを『めあがっちょる。好かんおなごじゃ〜』っていっとるけんどよー僕はそげんことおもわんばい」 と慰めてくれた。8年くらい前の同窓会に欠席をしていた男の子から届いた年賀状に「相変わらず生意気な顔ばしちょ るなあー」と大きな文字で書いてあった。    このたびの再会で故郷の活性化はどうすればなっとかなあと話題になったとき、標高400m〜600mの谷の村が 縮まないようにと思った。それぞれの魂の故郷、ここは宮崎県西都市銀鏡(しろみ)である。              法螺貝の谷間にみつる里神楽   くろまめ (2008年追記:あつ子@カナダさん、たけふささん、しょういちさんとの時間はまこてえかったばい)         
「おじいさんおばあさんは家の誇りです」 (2006.9.5)  宮崎県西米良村の村長の言葉に感動した。「ほおずきとゆずの中武ファーム」のHPに昨年の「敬老会」の 様子が写真とコメントで紹介されていた。私の故郷はすぐお隣だ。この村と行事や長老様を敬う気持ちなど 同じなので心が温められた。「子供は家の宝です。お母さんは家の光です。お父さんは家の柱です。おじい さんおばあさんは家の誇りです」と村長は50代半ばに見えた。少子化と過疎化と高齢化をマイナスに思わ ない自信にあふれた希望の言葉だと感じた。  先月読み終えた「注;『小説 島津啓次郎』」は、明治の宮崎旧砂土原藩藩主の第三子の話だった。いつ の時代もそうであったように少年は現体制に古さを感じ世界地図の小さな一点をぼんやり見ては果てしない 広い強い力に押しつぶされそうになっていたようだ。アメリカ留学を5年体験し「人間平等と自由」がどれ ほど大事であるかということを形に描けるくらい理解して明治9年4月1日に帰国している。西洋の風を地 方の小さな藩に吹き込もうとする時代変革のうねりの中に青春を駆けていった彼、彼ら私学生たちはかつて の村の青年団に重なった。  啓次郎は遊撃隊の総裁となり再び立ち上がり明治10年9月に死んだ。享年21歳。                       (注;榎本朗喬著、『小説 島津啓次郎』鉱脈社発行)  私の曽祖父は明治5年1月生。明治30年に三つの村の小学校校長をつとめている。「西郷どんを見たど」 と云っていたが「まあたぁ〜もう何回も聞いちょるよーほんとう?」と関心を持たなかった。それは本当だ った。明治10年7月、西郷隆盛は不利な形勢の中、人吉から宮崎に向かっていたのだった。西米良と東米 良の青年たちは遊撃隊士になっていたのだろうか。  『村史』にこう記されている。東米良は西郷軍に加担して77名の米良隊が勇敢に戦ったそうである。米良 地方第一の激戦天包山(あまつつみやま)の戦いは7月22日であったという。西郷どんは敗走の途中、東米 良のあるお宅に一泊されもうしたそうである。村の多くの男が軍用品の運搬などのために臨時徴用されたらし い。正規軍もいたらしい。人夫の賃金は、全部か一部かは定かではないが”西郷札”で支払われたようである。 官軍から「チャンは(お父さんは)どこいったー」と事情聴取を受けてハラハラしなさったおなごん(ご婦人) ひとたちがいたそうである。このとき曽祖父は6歳であった計算になる。 私の実家の裏には追い込まれた西郷軍の墓が何基かあった。恩師の本と、隣村の村長の言葉はイコールとな って曽祖父の時代あたりまで遡って知りたくなってきた。                新任の先生のゐて村祭り   くろまめ 
かぼちゃ騒動 (2006.8.30)  福島に帰省していた友人から大きな南瓜をお土産に貰った。ご実家のお母さんの畑で採れた他の夏野菜た ちも見事だった。先ず茄子を焼いて冷やした。ピーマンとニガウリを八丁味噌と九州の白味噌をあわせて赤 唐辛子を入れ油で炒めて上に大葉をちらした。炊き立てのご飯に白ゴマを混ぜてお握りにし塩漬けの大葉で くるんだ。冷えた茄子の上に摩りおろしの生姜をのせた。生協のインスタント卵スープに熱湯を注いだ。  日曜日の昼下がり、誠に贅沢な満腹時間だった。  我が家の家庭菜園は草の生きたいようにしているので、キュウリ、ピーマン、シシトウ、インゲン、モロ ヘイヤなどはよく目を凝らして採るようにしている。モロヘイヤは硬くなってきてもまだ採って食べている。 先々週から2回総出で草取りをした。ミミズがにょきにょき這い出してきた。「オットー失礼しましたー」 と声をかけるがもう間に合わない。許しておくれ〜。草を抜き土をさくると根がプチプチ切れる音がした。 さくさく土が軽くなってきた。真っ赤なミニトマトを義母が配給してくれた。旨い!!私はそのうち青いの も採って食べた(野生の猿に戻った)すぐそばの自販機から夫が給水してくれた。右手の薬指の付け根に豆 が出来ていた。(普段のたたたりだぁ〜)  やがて南瓜のあたりに居た義母が喜びの声を上げた。「2個かと思っていたら3個もよー」と。
この南瓜は昨年の福島の南瓜の種から育ったもので同じ色と肌をしていた。
「じっくり育てましょう」と云いながら義母は南瓜のお尻を抜いた草の上に置いた。
ここの土は、我が家の残飯が堆肥となっている所でほこほこしていた。
のん気な我が家の草取りはこおろぎの鳴き声に手を休めたり語ったり、お隣の
畑に感心したりとなにかと休む。お日様が頭上にさしかかる頃に引き上げた。

←9月3日、とうとう一個だけ収穫した(追記)
←
福島の南瓜を食材図鑑でお勉強した。
義母と一緒に読んだが写真と文章と私たちの脳がなかなか一致しなかった。
「西洋かぼちゃは栗かぼちゃ。東洋かぼちゃは水っぽい」では、切り口を見た。
煮方は私にお任せ〜と自信を持って煮た。ほくほくとした甘い南瓜だった。
もう半分残っているのでパイにしようか、プリンにしょうかと考えている。

     西洋の南瓜の届く日曜日     くろまめ

「あつ子@カナダ」 IN 宮崎 (2006.8.25) 9月、カナダの友がやってくる。今回は、お父上の13回忌の法要ということもあって特別の感慨があるに 違いない。2年前の成田空港で彼女とお嬢さんを見送るとき、「また帰ってくるよー」と応えてくれた彼女だ。 もう、もうすぐ現実になるのだ。カナダに移住して30年、私たちには分からないいろいろなことがあったと 思う。先頃のサッカーW杯のことに触れて彼女は投稿の中で子供たちに対して「融和」という言葉で結んでい た。  カナダの移住者協会のもっとも大きなイベントは「紅白歌合戦」だ。今年は12月9日開催と決まったそ うだ。「芸能愛好会」の事務局もしていて今年は協賛というかたちで参加をするそうだ。明日は移住者二世 の方達70代〜)と寸劇「水戸黄門」の中の茶屋の娘の役を演じるそうだ。  「日系人文化会館」がこの先もずっと移住者の皆様の心のよりどころとなって二世三世の方々が、日本の 文化を(言語、四季折々の行事など)暮らしに取り入れて次世代につなげて行けたらいいなあと、楽しい企 画の中に織り込んでいるように感じた。「ご高齢の方は帰りたくてもなかなか帰れないの・・・」と彼女の つぶやきが思い出された。  私のもうひとつの楽しみは、彼女と一緒に中学校の後輩二氏と会うことだ。 「こんときは 米良(メラ)弁で語るとばい!!」と後輩から条件が出た。お店のご亭主は宮崎出身だそうだ。 「私はタバコの煙をちょっとでも吸うと声帯炎になっとよ。上品な人がかかるごとあるばい。声が出んごとな  ってしゃべれんと。二人とも吸わんって聞いて安心したばい。今年になってから米良弁を勉強しとっとよ。  忘れたごとあるから先輩の書きやった本を読んでいろんなシーンを思い出したとよ。妹に話したら、『まっ  たく新しい米良弁ですねー。どこの人ですかー?』っていうっちゃがぁ〜。しんきなばい」というようなこ  後輩にメールで返事をしたが彼に正しく伝わったかどうか?  現在の彼らの社会的立場をとっぱらってこんな愉快なメールができて嬉しかった。あつ子@カナダさんにと っても私にとっても40数年ぶりの再会の日となる。                 十七の私がみえる夏の雲    くろまめ
 和田正美先生の大きな手  (2006.8.08)  水墨画展会場のガラス窓の奥から98歳の先生はゆっくり私の方を振り向かれた。  車椅子を入り口に向けてくださるご子息様、傍らにご子息様の奥様がいらした。今年3月以来お会いする 先生はとてもお元気そうだ。私は駆け寄って握手をした。大きく力強い手だ。この手で外国の論文を翻訳し タイプを打たれていたのである。多くの諸外国の方と握手を交わされたのだ。海外視察の折はジェスチャー 交じりの指がしなやかに円を描いていたことだろう。長い間、大学教授として研究一筋だった。70歳で退官 されてからは地元の美術協会に所属し、日本画、水墨画を楽しまれている。俳句も書も素晴らしくて仲間の 皆さんは「先生」と呼んでいる。私は句会で93歳の先生に初めてお会いしたのだった。ご自分で運転をして 句会場にいらしていた。「更新しましたから96歳までは運転できます」とおっしゃって短いドライブをご一 緒したことがある。若葉の頃、木漏れ日の中をゆったり走った。話はふと亡き奥様と軽井沢でサイクリング を楽しまれたことなどに移った。70歳を過ぎてサイドに奥様が乗られて実に楽しかったと。なんと穏やかで 愛に満ちた方だろうと思った。コーヒーショップで乾杯をした。カップにちょっと触れて「かんぱ〜い」が 大好きで句会の時も連衆とお茶で乾杯をし合った。レディファーストがすんなり身についていらっしゃる真 の紳士である。大変威厳がおありで周囲を圧倒させるものを備えていらっしゃる。それは現在もまったく変 わらない。  この日の「水墨画展」には80歳の頃の作品「虎(クリック)」を出品されていた。 日本画の描き方をご自分で研究してまとめていらっしゃるそうだ。先生の「虎」はすごい迫力だ。  大きな手で90歳を過ぎてからパソコン教室でマウスと遊ばれたそうだ。 「マウスがピョンと逃げましてね〜」 と笑っておっしゃったことがあった。お兄様は103歳の現役のお医者様だそうだ。先生は「兄に負けない ようにしたい!」とおっしゃる。毎日のようにリハビリに取り組んでいらっしゃる。なによりリハビリテー ションの文献に貢献したいとおっしゃって研究熱心さも健在だ。来年の1月には先生99歳、お兄様10 4歳になられる。  この夜、3箇所の会場から1万4000発の花火が上がった。瞳を輝かしてご覧になっていたに違いない。  今、白と赤のワインを寝かせている。この日ご子息様からいただいたワインのラベルにはお名前と漢詩、 和歌が書かれてある。翌日に飲もうとしたが”なにかの記念”に飲みたいと思い直した。9月、カナダから 友人が帰って来るのでそのときに開けよう!!。先生のこと、ご一族様の手厚い看護、そして漢詩、和歌 を話題にしよう。               刈り跡のいしぶみ光る今朝の秋    くろまめ  (2008年追記:和田正美先生は2007年6月に永眠されました。享年100歳)
『タロー、気合い負けしちゃあいかんよ』 (2006.8.04)    榎本郎喬(あきたか)著『軍国少年日向タロー』を読んで  昭和15年、小学2年生になったタローの父親が教頭として転勤することになった。タローは元教師の母親に 連れられて父親と同じ小学校に転入した。この日からタロー少年の物語が始まる。  教室の外までついてきた勝気な母親は別れ際にタローをぐっと睨んで気合いを入れた。「タロー、気合負け しちゃあいかんよ。下腹に力を入れて大きい声であいさつすっとよ。分かったねー」それでタローは敵地に乗 り込むような緊張した気分で教室に入った。「日向太郎でーす。○○小学校から転向してきましたあー。どう ぞ、よろしくお願いしまーす」タローはどきどきしながらも、教室中に響き渡るような大声で自己紹介をした。 一瞬、ざわめきが起こった。自己紹介した後、腹が据わったタローは教室中を眺めまわした。教室中の好奇の 目が教壇の上のタローに注がれた。(第一章、転校より抜粋)  私は一気に引き込まれて読み進んだ。女の子の目と男の子の目は違う。男の子同士は”力比べ”が必ずある ものだと分かる。昭和15年太平洋戦争勃発の頃ならこの睨みあいは激しく態度に出ていたことだろう。案の 定そういうシーンが出てきた。漱石の『坊ちゃん』と重なる爽やかな反骨精神のタロー少年の態度は痛快でな らない。思わず応援している女の子の私がいる。肥後の神(ナイフ)で格闘するあたりはドキドキした。喧嘩 して成長して行く少年タロー。遊びは科学する心はあってもモノが揃わないから結果笑いになって行く。戦中 の過酷な環境下にあってもメチャクチャ明るい。食が乏しくても健康だ。海軍を夢見て少年はうっとりする。 その頭の中は勇壮な軍人となっている。タローのはっきりとした目標に対して両親は否定しない。「そうか」 と云って話を聞く。隣人たちも見守っている。少女たちは清廉で美しい。周囲の大人の女性に学んで成長して 行く。少年少女は戦中から戦後にかけて青春をすべて国家に向けひたすら向けている。現実を一生懸命に生き ている。タロー少年はどの町にもどの村にもいたことだろうと思いながら読み終えた。    納得不納得と少年少女に深く考える隙を与えないくらい戦局は激しく・・・そして敗戦を迎えた。軍国少年 は文学へと目覚めて行った。次から次と新しい知識を文学書の中から吸い取って行った。(本文より)  著者は1932年生まれ。榎本郎喬(あきたか)  榎本先生は中学の恩師です。先生は、「戦争体験を風化させないために、戦中に生き、軍国少年となった少  年たちの生き様を今日の少年たちに伝え、戦争とは何であったのかを考えさせる縁にしたいと思う」と記さ  れています。  私は読み終えて今の若者たちのことを思った。モノがありすぎて使い分けが出来ない。流れてくるものを掬 っているだけ。どれもこれもと使う。そして飽きて捨てる。なにも生まれていない。想像力、創造性が育たな いのは苦労する必要が無いからか。愛も恋もプロセスを大事にしない、時間を保てない。結論を急いで大切な 人のこころを切り捨てている。痛みがわからないのか・・・。ばか者!!  昨今の新聞記事は少年たちの事件の連続に批評家が嘆きを書いているがそれを読みながらなんで?どうして? と思っていたものだが、この本に出合って答えを得たような気がした。来年から団塊の世代が700万人くら い退職し第二の人生を歩み出すがこれらの人に、「何がしたいか」とアンケートをとったら男女とも「ウォー キング」がダントツ一位だったそうだ。戦後金屑を拾ってお小遣いにしたという60歳の男性は自転車で旅を したいと言っていた。  私の父も軍国少年であった。学徒動員で「敵機襲来!!」と叫んだり起床喇叭を吹いたそうだ。この時代の 話をしたとき父は力を入れて涙を止めた。話は一度きりだった・・・。旅に出て美しい景色を双眼鏡で観る父 の足と肩は「敵機襲来!!」のポーズになっている。              遠き日の秘密の基地や草いきれ    くろまめ
 そして高校1年生 (2006.7.27)  高校に行くのは家出の実現とも言えた。家出が出来たのだった!  下宿先は小学時代の校長先生のご自宅だった。私は毎日緊張で痩せた。テニス部に入部したものの町で 育った少女たちは長い髪を結ばないで美しいフォームで乱打して優雅だった。私は「水を飲むなー」って 叫ぶキャップテンの命令に従って真っ黒く干からびていた。髪をウサギの耳のように高くあげて結んでい た。  夕食は午後7時と決まっていたのでキャップテンがバイクで送ってくれたことがあった。「腰に掴まれ」 と云われても出来なくて砂利道に落ちた。手のひらと膝をすりむいて帰宅したら大騒ぎになった。  お買い物を手伝う時は自転車に乗れるので楽しくてと回りをした。上手に乗れなくてふらふらしても楽 しかった。スーパーでは珍しくてグルグル店内を回った。帰りが遅くなってよく叱られたものだった。  部屋は2階の小さな部屋で窓から校長先生の勤務する小学校のグランドが見えた。とにかくとにかく独 りになれる時間が嬉しくて面白かった。  私の前にこのお家に下宿していた男の子は美術部で油彩F10「花」を壁にかけて残していたので私は勝手 に外せなくて困っていた。机の真正面に飾ってあったのでそれは困ったのだった。先生も奥様も絵を褒め ていたが私はどうしても好きになれなくて困っていた。それでその上にA1サイズのタイガースのポスター を貼った。小型ラジオを同じクラスのIさんが「よかったら使って〜」と貸してくれたので(イヤホーンが ついていなかった)耳にくっつけて聴いていた。階下から呼ばれると音を小さくしていた。階段から落ち て、バナナの皮をむいたあの姿になってしまったことがある。先生が必死で起こしてくださった。階下は 着物着付けと和裁の教室になっていて生徒さんが10名くらいいた。香水のことを奥様に注意されている 人もいた。階下からなんだって聞こえるのだから面白かった。  テニスは1年の夏に退部した。学年の臨海学校は参加しなかった。下宿代も掛るので帰省することにし た。山に帰る4,5日前に大学生の息子さんが帰って来た。初めて見た息子さんは沢田研二(ジュリー) に似ていた。ある日、二人だけになり階下から呼ぶ声にすまして降りていったらカルピスを「ハイ!」っ て差し出してくれた。大きなグラスにストローが入っていてグラスには霜がついていた。グラスが落っこ ちそうになったが一気に飲んだ。ストローはくるくる回っていた。  「お替わりは?」って云われたが黙って首を振って2階に上がった。    銀鏡に帰ってからカルピスを同じようにして飲んだ。ゆっくりストローで味わったのだった。私の場合、 単に幼稚で単純明快な幼児性でしょうか。懐かしい〜〜〜〜            自転車で家出してみる夏休み   今夏のくろまめ
 中学生の頃 (2006.7.27) 今朝も田舎の新聞をネットで読んだ。茶の間の蘭は故郷言葉が出てくるので朝のリズムのリハビリになる。 投稿『泣きたいとよ』は、中学生の娘の云ったこの言葉に「ハァ〜ッ?」と反応した母親だった。でも「 自分はその頃どうだったのかなあ」と娘と向き合うあたりがなんとも明るくて楽しい。  昨日は『よんで、よんで』だった。末の子に余裕を持って絵本を読み聞かせしている投稿者(母親)。今 は自分自身がわくわくしながら読んでいる。上の子供たちもわくわくしながら聞いていたのだろうか。暗誦 している母親の声はどうだったのだろうか。あの頃もっと絵本を読んであげれば良かったなあとちょっぴり 後悔している。親が成長してから思うことは共通していると思えた。  さて、私の中学時代。7年前に同級生39名が集まった。「明るさがうらやましかったとよー」とUちゃん とMちゃんが云った。「Kさんに好きって送るサインが透けてみえたとよー」とTちゃんが冷かした。「あんま り変わっとらんなあ。太ったなあ」とSさん。私にも「泣きたいとよー」の頃があったとよー。涙が簡単に出 てきて涙の顔が可愛いなあと鏡を見ていたとよー。大家族の中の私ではなくて独りだけの私になりたかったと よー。使われていない井出の細長い管の上にダンボールを屋根にして寝そべってノートに知っている限りの悲 しみを誘う言葉を書いてそして泣いたとよー。疲れて眠ったりもしたとよー。家出をしたくなってトイレに隠 れたとよー。」  匂いの強烈な田舎式のトイレで家出の方法を考えた。バスがそろそろ下ってくる頃だけれどお金が全然無い。 父の激しくノックした。そして外に引き出された。ワァ〜ンって泣いた。  反抗期とは違う、ただただ自分がそうしたくてそうしていた冒険・・・。   ・・・つづく  
 第4回女4人の旅を終えて (2006.7.24)  22日の朝、雲を押し上げながら高速を走った(私は助手席)。合流地点の友人宅から4人の旅が始まった。 パン屋さんで「これからどこへ行こうか?」と相談しあった。昨年は帰りの電車の中で地震に遭い、もう一泊を 友人宅にお世話になった。今回は宿を決めることだけにして行程はその都度相談することでOKと相成った。  「里見八犬伝」の城山公園に行くことにした。ナビ付だから会話も弾む。ここ館山城跡はお城が分館、本館は 博物館になっていた。道の脇の野あざみ、どくだみ、つわぶきの終わりの静けさがとても涼しく感じられた。布 袋草の花が咲いていた。土地の人で毎朝ここに登って来ているという男性に写真を撮ってもらった。お礼にキャ ンディーを1個差し上げた。他の地元のグループの方たちにも1個づつ差し上げて束の間の交流を楽しんだ。  天守閣から館山市をぐるり一周し、博物館へと長い道を下った。紫陽花がまだまだ咲いていた。振り帰ると桜 並木から木漏れ日が鈍く射していた。  九州の雨のことが気になりだした。民族展示室の農具を見ていたらまた田舎が気になりだした。「不便な暮ら しが温もりをくれるんだねえ」とまた気になりだした。展示品の電光マップを押していた友人が偶然に次の行き 先「県指定無形文化財・唐桟織(とうざんおり)」を押した。4人が同時に興味を持った。 http://furusato.awa.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=242  技術保持者であった亡き斉藤光司様の奥様から直接お話を伺うことが出来た。高機(タカバタ)の椅子に掛け させていただいた。椅子は亡き人のお尻の形になっていた。私は今のこの時間を簡単に見過ごしてはバチが当た るような気がしてきてどうしてもその作品を見たくなってきた。

試行錯誤を繰り返しながら結実した作品 の数々の柄に触れることができた。 女優の山田五十鈴が舞台で着用したこと から「五十鈴織」と呼ぶようになった縞 は縦糸の赤がやや広く濃かった。婦人雑 誌の表紙の五十鈴が粋に着こなしていた。 (雑誌が大切に保存されていた) 森重久弥が舞台で着たという着物は縦糸 の青が細いので薄かった。縦糸の幅で色 のトーンが違って見えるのだ。 私は巾着を買い求めた。 「変わり赤唐(あかとう)」と名づけて くださった。私のお願いをニコニコ聞い てくださりそして作品を見せてくださっ た奥様はとても気さくでこの織物を愛し ていらっしゃることを強く感じた。 普段は猫が私を襲うのだが猫の居るお部 屋で猫ににらまれないで過すことが初め て出来た。

 ペンションに到着。駐車場からすぐお隣のお花畑が見えた。あまりにも美しいので荷物を持ったまま見ていた ら菜園から熟した小粒のトマトを両手に抱えた男性が現れた。「女房に叱られるからこれくらいねー」といっぱ いいただいた。夕食はお魚とお肉の料理を2種類づついただいた。お風呂から上がっておしゃれな話などした。 部屋に鏡が無いからいいかもねーとみんなで笑った。ときおり激しい雨嵐の音が聞こえたが眠りのじゃまにはな らなかった。  翌朝も雨。車で4分くらい下ると伊豆半島が見えるのだがあきらめた。安房神社に参拝することにした。真っ 白い鳥居の下から遥か向こうの本殿の裏山が見えた。青く霧が立ち上っていた。おみくじを初めて引いたら「小 吉」だった。次に亜熱帯植物園の南房パラダイスでお買い物、蝶と花を見て2時間ほど過した。私ともう1人の 友人は鷹匠ならぬ腕に布を巻いて南国の派手な鳥を止まらせた。怖さと初体験で実際の体重の1キロよりうんと 重たく感じた。外はまだ雨。  次は最終「くじらのたれ」(鯨の肉を醤油タレに漬け込んで乾燥させたもの)を求めて普通のお魚屋さんを探 し、ここでも店主と話が弾んだ。  行きに立ち寄ったパン屋さんで遅い昼食をいただきながら「土地の人と触れ合うことの出来た旅だったネー」 とみんな一様の感想だった。雨上がりの高速はスイスイ流れて無事家に着いた。  実家は台風14号の時よりは被害は少なかったそうだ。両親は山側には寝ないで川側に寝たそうだ。  夫(そらまめ)は土曜日にぎっくり腰になっていた。
 予報 (2006.7.22)  今朝も雨。これほどの水はどれほどの力を持って悪さをするのかと思わずにはいられない。九州 全域が真っ赤になって雨の攻撃を受けている。毎朝九州の新聞をネットで読んでいるのだが記事よ りも先に天気の蘭にジャンプする。何誌かあるうちの最初に読むのが実家の購読しているM新聞だ。  中学になってから自分の地域が淋しい場所だと知ったものだった。地名が載っていないのだった。 日々変わらない暮らしの中にあっても銀鏡(しろみ)の夜神楽は学校が休みになるほど大切な行事 だった。12月は、夜神楽を撮影する報道関係者達が観覧席の前に陣取るので闇が明るくなってし まったものだったが。夏には銀鏡の子供たちにもスポットが当たってY新聞も地名を載せているが。 明日から夏休みだというのに水増した川は遊ぶには危険が過ぎると思った。  さて、明日の朝から恒例の「女4人の旅」が始まる。3年前は、綿密にプランを立て1泊の前と 後ろにいろいろ遊びを入れたものだった。料理に例えれば、種類の多い夏料理といった具合だった。 時間をかけて食べて笑ったものだった。2年前は涼しい夏料理に近づいた。音や匂いを感じながら 胃にも優しい料理をいただいた。そしてゆっくり温泉に浸かったものだった。  去年は手作りのお弁当のような感じに仕上がった。片道3時間の電車の中の会話、車窓の景色に 目も口もよく働いた。そしてよく歩いた。お弁当は宿に着く頃にはカラカラ乾燥して鳴った。途中 下車して美術館でピカソの絵を見たときは離れたり近づいたりしながらそれぞれの鑑賞時間が続い たものだった。あれから二人の友に孫が誕生した。孫たちは同級生となる。第1回目の安房に戻っ て今夏の夏料理を食したい。         道訪へば日傘をたたむ安房のひと (2003年7月女3人の旅にて くろまめ)    
 続・色の記憶 (2006.7.19)  私は4階席の中央に腰掛けていた。安田講堂は収容1144席。約300名の老若男女が石仏の シルエットに変わり動かない。プロジェクターの大画面にテーマの「暦」の文字がゆっくり回り始 めた。パソコンの画像を直接投影している色の重なりが波打っていて素晴らしく美しい。ここは東 大なのである。灯台の灯りがくるくる回ったのではなかった。横文字縦文字アラビア数字、知らな い文字数字がデザイン化されたように回り始めた。そこへ男性の研究者登場。ペンライトがピョコ ピョコ光った。  蛍が飛んでいるように見えた。あー!消し忘れているー!気になって仕方なかった。陰暦陽暦、 エジプトに行ったり来たり蛍はパチパチ点滅した。終了までの全五回の課程を完了できるのだろう かと不安になってきた。3階の中央より離れたところに移動したら面白くなってきた。2階の中央 寄りに移動したらスクリーンと目線の高さが良い関係になってもっと面白くなってきた。内容はデ ジュメで十分。スクリーンの動きに断然興味がわいた。  休憩時間に回廊を歩いた。テーブルの上にも壁にも講堂の縮小模型が幾パターンも展示してあっ た。ここは色で言えば琥珀色の世界だった。石仏さんたちも動き出した。どうやら講座の退屈は遠 ざかったようだった。一日目終了、拍手喝采。聴衆はいい加減なものである。  全課程終了日に「三四郎池」に行ってみた。漱石の小説のタイトルで呼ばれていることにも興味 があったが別称「心字池」なら心が読めるかどうかみて見たかった。そうみればみれるというくら いの印象で終わった。自然観察保護をしているのだと思うがあまりにも自然で心の文字を隠してし まう葉っぱがわあわあと垂れ下がっていた。スケッチの人、お弁当を食べている人、俳句の仲間ら しい歩く人たち、佇んでいる人、腰掛けて句作しているひと、この池の人たちは時間を繋ぎ合わせ ているような感じだった。私はうつむいて歩いた。  団子坂に出て猫に出合った。猫と私はどうもうまくいかない。猫は私をじーっと見ていた。あの 頃にデジカメがあったら私はここに江戸弁で活劇風の動画を載せたくなっていたかも。(おわり)           子規の忌や谷中の団子食べ歩く   くろまめ  
  色の記憶 その1 (2006.7.13)  昨日、サークルの仲間が「ウォーキングとスケッチ」と題し、ブログに記事を書き、歩く道々の 写真をウェブリアルバムに載せた。東京生まれの東京育ちは、幼少期〜学童期〜青年期〜今の今を、 半世紀以上の時を、画像でヒョイと見せてくれる。歩くコースは大江戸界隈。ガイドブックにはな い自由な歩幅と目線だからとても面白い。私は勝手に見て勝手に記憶の中のその時と遊んでいる。  記憶と一致したときはマウスをぐるぐる回して見る。モヤが晴れないときは悔しい。「脳は思い 出そうとジタバタするときに若返る」のだそうだ。ならばとジィ〜っとアルバムの中の”色”を見 ていたら、その奥に自分が出てきた。人の服装とか風景の光とかではなくて”色”がヒントになっ て思い出せた。匂いと色の記憶室のドアが開いたのだ。リアルバムは東大の赤門だった。安田講堂、 そして三四郎池と続いていた。  皇太子妃雅子様が東大卒業記念の写真を撮ったという写真館は、間口の狭い古い写真館だった。 写真には 「ご婚約おめでとうございます」と添えられていた。私は14,5年前にあそこに行ったのだ。安 田講堂の前庭には、木製の3人掛けのベンチが2箇所、離して置かれてあった。草の手入れはこれ からもなされないだろうと思った。石の建物は鉛のように沈黙していた。激しい攻防戦のあった、 あ、そ、こ、はすっかり風化していた。    学生生協でお弁当を購入。店はデコボコとした土間だった?。文房具に興味があったのでしばら く見て回った。今の100円ショップで売られているような品揃えであった。レジスターは旧式で 一押しするのに力が入っていた。学生たちは愛嬌なしのオシャレ気なしの声の小さい実質陶治を見 るようだった。私は建て付けの悪い戸を閉めて出た。私立大の自動ドアー、この手動ドアーを出入 りした人間のその後の足取りは軽い、重い、あったことだろう。  東大安田講堂での一般公開講座に応募したのは単に東大を見たいだけからだった。上野駅で降り、 バス乗り場に行列が出来ていた初日は雨だった。講堂の入り口で出迎えたのは東大講師や助教授、 修士課程、博士課程の生徒が胸に名札をつけて傘入れのビニール袋を持って歓迎してくれた。私は 岡本太郎になった。    な、なんだ!!これは!!おおげさな!! 一般募集の講座ではないか!!   な、なんだ!! 学長の挨拶は まるでお経ではないか!!  な、なんだ!! 聴衆はマーラーの交響曲に目をつむっているではないか!!    講座が始まると遮光カーテンがいっせいに引かれた。    つづく
 ほおずき・・・銀鏡の頃 (2006.7.04)  七月の思い出は赤色に繋がる。金魚さん、金魚の絵の描いてあるブリキのちっちゃなちっちゃな ままごと道具。浴衣の赤い花や水玉模様さんたち。赤い鼻緒の下駄、肩上げの女の子の傍には、お 姉さんたちが居たなあ。お姉さんたちはほおずきをグーグー鳴らしていたなあ。    村のどこの庭にも畑にも緑色をしたほおずきがまっすぐに立っていたような?紫蘇の紫と少し離 れたところに植わっていたような? 青紫蘇と緑の紫蘇が隣り合うと緑は紫づいてきて美しくなか った。紫、緑、そしてほおずきも青かった。やがてほおずきが真っ赤に熟れて垂れ下がってくると そこの辺りは昼間は湿度を帯びた暑苦しさがあり、夕暮れ時は幻想的で体温が下がるような感じが した・・・。覚えている。それを両手に包んで高く持ち上げて透かしてみるともっと美しかった。 夕陽の色や夕焼けの色よりもっと鮮やかで素敵だった。沈咳、利尿剤として大いに役立ってくれた ほおずき。昭和30年代、子供にとっては時間がとてつもなく長かった。その頃の話である。  間もなく東京浅草観音の「ほおずき市」がやってくる。浴衣を着た若者たちでさぞ賑わうことだ ろう。私は今様の楽しみ方を知りたくなってウェブサイトを覗いてみた。  本日偶然に出合えたサイトの鬼灯は作り手の思いが画像の中にいっぱい感じられた。 下記サイトは、宮崎 西米良村の「中武ファーム」です。 ほおずき、柚子、お米など素晴らしいです。農園主の「だりやめ日誌」もおすすめです。 http://www2.shintomi.ne.jp/~nakatake/index.htm
100円ショップ(2006.6.22)  週末の買出しの楽しみにアイディア商品の発見がある。最近オープンしたショッピングセンター には100円ショップの全アイテムが取り揃えてある。赤色に白抜きの”100円”のロゴは私の 目にインパクトを残しそして財布の紐を緩ませる。損得の分岐点はコストパフォーマンスとアイデ ィアで差し引きプラスに大きく傾く。  ふらふら見ながら立ち止まっては眺めて触れてみる。「これはこんふうにしてこんなふうにも使 えそう〜。この素材は別の棚の別物になっているからあんなふうにして使えるんだあ〜。あれを捨 ててこれにしようかなあ・・・」と使う場面を思い描き自分に相談してみる。実際のお試し期間は 結構長いからまことに結構なのだ。  二人三人でアイテムを眺め触れたりすると感嘆符の連続でカゴはあっという間に満杯になり直ぐ にお勘定となったりする。「ねえ、みて〜。わあ〜すごいね〜〜これもいいわね。きっと誰かが使 うわ」となってしまう。100円ショップは断然ひとり遊びのゆったり空間なのだ。  「本日もご来店いただきありがとうございま〜す。当ショップでは御ひとり御ひとり様が楽しく お買い物いただけますよう〜ベンチをご用意させていただいておりま〜す。日々進化しているアイ テムの数々・・・。皆様の暮らしのヒントになりますようどうぞごゆるりとご相談くださいまっせ 〜」と我が耳に聞こえてくるのだ。  ふむふむ相談の最中にまた眺めて触ってみる。そうやって壊したことがある。平謝りして買おう としたら逆にお詫びを言われて困ったことがある。ゆがみを残したこともある。小物のワイヤーは 難ありか。デザインと思えばそう見えるから面白いと思う。このショップには喜びと驚きと戒めと 悔いがあって日々好日なのだ。  夫(そらまめ)のことを本屋さんで私と同じように楽しんでいると思っていた。最近は楽器屋さ んのほうへ行っているようだ。ギター爪弾き70年代のフォークソングを歌っている。傍らで義母 は「♪バラが咲いた」を弾けるようになりたいと20年前にも言っていたことをいよいよ始めた。  それぞれの自由な時間。100円ショップと本屋さんと楽器屋さんはななか味のある空間だ。
 続・『米良の子と婆』・・・旧東米良村 (2006.6.17)  友人たちと会うと必ず中学時代のクラブ活動の話になるのだ。学校(がっこう)を村の人はみんな ”グヮッコウ”と云う。小学校を、”ショガッコ”と云う。また、崩ゆ(くゆる)、転す(こかす)、 退る(しさる)、毀つ(こぼつ)、段(きだ)、背(そびら)、叫ぶ(おらぶ)という和語も自然に 使われている。またこの村の方言には独特なイントネーションがある。美しい響きと言い切っても他 に誰も否定はしないと思う。すぐ近くの町村とは異なる感受性から発した神秘的な言葉も数多い。言 葉は人が暮らしてこそ残るものであるから村の人たちは「昔からの言葉を残そうや〜いかんばい」と いう運動を起こしてそれを実行している。大人に限ってはテレビの影響は皆目受けていない。  中学校の先輩が平成9年に、「方言を使おう!のこそうや〜」という一念のもとに、村民の協力を 得て方言を収集し、一冊の本を発刊した。言語学者や民俗学者の耳にはおよそ届かない深い深い暮ら しの歴史がこの本に遺されている。  『米良の子と婆』(米良の言葉)は、使っていたに違いない言葉をほとんど忘れていた私だったが、 懐かしい風景に出合うとふと言葉を思い起こさせてくれている。ほんの少し前まではこの本を書棚に 預けていたままだったが、同郷の人と交流するようになってからバイブルに変わった。微妙な感情が なかなか言い表せれない時、この本はすごい言葉を運んでくれる。そして淡い淡い匂いや音も運んで くれる。   ”背丈はあまり高くないが肩幅の広い背筋の真っ直ぐな丸顔の視力のとても良い米良の人たちの昔語 り”を平成の携帯時代に引き上げて大変素晴らしく編集されている。同郷の人にこそ紹介したい本で ある。
『米良の子と婆』・・・旧東米良村 (2006.6.17)  毎年12月になると夜神楽を観に帰省している。10日間くらい滞在する中でいろいろな出合が ある。祭りは12月14日と決まっているので勤め先に休暇届を申請して帰ってくる人にとっては 心苦しい点があるようだ。「親族に不幸が・・・」という理由を書いてきたが、同じ理由はね〜こ んどはなんちゅうて理由をいおうかと考えるとよー」と真顔で話す同級生に再会したことがある。    普段はとても静かな村がにわかに活気付いてきて夜ともなれば昼間の顔と違う顔ですれ違うので 互いが誰それと気付かないままのときもしばしばである。翌朝おまいりしてあの人この人と懐かし い顔を発見したときは、もう嬉しくて言葉よりも手のほうがバタバタ動いている。けれどもすぐに 近寄れない微かな距離を感じてしまうこともある。    「かえってきたとね〜」と電話が鳴る。  「かえってきたよ〜」と応える。それからプツンプツンと会話が続く。私は難聴気味であること を説明するが向こうは「そうね〜ふぅ〜〜ん、そんでねー」と返してくる。聞こえようが聞こえま いがどっちでもいいのだ。なにか優しいニュアンスが伝わりあって心地よいのだ。「今なんばしち ょっと?。」 「大根干しよー。切干大根を干すとじゃがー。忙しいと。土産にもっていかん?」 「また太ったよ〜恥ずかしいばい。たるみにシワいっぱいだし、もうたまらん。いやだよねぇ〜」 「まあ〜私もよ〜相撲取りじゃが〜ギャハハハハ」 「あのうちょっとまってね〜あえるかも〜」と言って母と代わると「そうば〜い。そうじゃが〜。 うんうん、じゃがじゃが〜。は〜いそれじゃ〜いうとくわ〜」カチャリ。  母の会話のリズムと結論の運びに毎度まいってしまう。間が空くのは方言が薄れていっているか らだろうかと思ったりもする。・・・つづく  
 餅つき (2006.6.10)  「4月17日製・蓬」と書いてある平たい袋を冷凍庫から冷蔵庫へ移した。つぶ餡をこしらえた。 桜の花の塩漬けを小さな瓶に移し変えた。今朝はやや薄曇りだったが午後から気温が上昇するらし い。洗濯物を干し終えて友人宅へ餅つきに出かけた。  駐車場の脇の老人施設から車椅子が2,3台と杖をつた男性が園内のベンチに向かっている。先 に来て腰掛けている人たちはみんな女性だ。みんな帽子を浅くのせてお日様をみている。「おはよ うございま〜〜〜す!!」と挨拶したら、ヘルパーさんが代って返事をしてくださった。小さな声 がしゃわしゃわ聞こえてきた。お日様とどんなお話をしているのだろうか。いろとりどりのペチュ ニアが揺れていた。ひまわりの花が咲く頃になると、ベンチは南西の角の畑に向けられる。  餅つき機はキッチンの床に丁寧に用意されていた。もち米七合を二回に分けて搗くことにした。 「白餅は具沢山のお汁にいれようね。他にきな粉まぶしと餡子餅にして〜蓬はきな粉と餡子でいた だきましょう」と段取りが決まった。私の家族は機械で搗くことも初めてなので蓋を開けては覗き、 写真にも撮った。友人からいろいろ教わった。もち米の状態を見て粘ってきたら脇から少し水を注 いだ。そうするとくるんと回転してくるんくるんとしてお餅の肌があらわになってきた。まるで全 自動式洗濯機ではないか!  友人は出来上がったお餅を素早く取り出し、くっつかないように水を入れておいたボールに入れ た。左手で伸ばして握ってニュンと押し出す。まあるい団子になって顔を出した。それを右手で取 ってはお汁のお鍋にポーン。きな粉にチョン。餡子にチョンと載せた。私は具沢山のお汁でいただ き、お汁だけをお代わりし、きな粉餅、餡子餅をいただいた。みんなもよく食べている。一休みし てから蓬餅にとりかかった。  蓬に鼻を近づける夫と友人は匂いがしないと言った。私も嗅いで見たがあまりしない。これは茹 でたときの強烈な匂いがまだ記憶に残っているからかも知れない。解凍が進みすぎて香りがしない のか? 不安になってきた。茹でたときは強く匂ったのだからあれは蓬だったのだ。そうだそうだ と作業に取り掛かった。蓬をちぎって入れると淡く緑の色が出てきた。友人は「ん、匂うよ、匂う よ」と云う。  夫もなんとなく感じているようだ。義母は大丈夫〜と云う。私は濃い緑にしたいと思ったが、も しかしたら雑草が混じっているかも? お腹を壊すかも?・・・薄緑が少し恨めしく思えてきた。    出来上がった蓬餅は白餅よりやわらくてぬめりがあった。来年は半解凍のままでついてみよう。        時の日や水槽の藻の揺れてをり  くろまめ
 続・ 蚊帳のあった夏・・・銀鏡の頃 (2006.6.09)  夏の夜は8時位からが面白かった。隠居じさん、隠居ばさん、おステばさん、ドンじさんたちの蚊 帳は重たくて緑色をしていた。私達の蚊帳は水色で裾のほうが白くぼかしてあった。入る時は兄の号 令に従った。蚊が入らないように上手に入るには最後に入る私に責任がかかっていた。蚊帳の長い裾 を右手に手繰り寄せて握って背中を包み込んで入り手を離した。蚊帳の中ではなにもしないうちから 可笑しくなってきて大きな笑いになっていった。お腹がよじれるくらい可笑しくなっていった。普通 の状況でなくなる不思議な世界だった。母は、五右衛門風呂の仕舞湯から上がってきた。青に白の花 柄の浴衣は柑橘類の匂いがした。みんなで入りやすいようにしてあげた。生ぬるい風が入道雲のよう にわいてきて静かになってまた笑った。母が横になるとみんなで横になる。天井にビニールのボール を転がして蹴り合って遊んだ。しりとりゲームはいちばん面白かった。文部省唱歌もよく歌った。父 はドカドカ近づいてくる。誰も蚊帳を揚げない。身長ほど揚げてちょこんと頭を下げて入ってきた。 すると荒々しい風が起きた。浪花節を歌う。「♪吹けば飛ぶのは誰や〜?」ちて母が笑う。みんなで 笑った。  時々じさんばさんのところで寝たこともあった。  「うそをつくと地獄にいくっちゃげなば〜い。先生のいわることをまもって正直にしとっと天国に いくっちゃげなば〜い」ちて始まる話は、いっぱい正直な人が出てきたのでいい大人がいっぱいいる と思っていた。祖母は頑張ってよく我慢して正直に生きて死んだ。綴っていた日記は天気と畑と田ん ぼのことだった。私達孫のことも書いてあった。  曾祖母は「バナナに蟻がいっぱいたかっちょるがぁ〜」ちて払いのけるしぐさを布団から手を出し てしていた。草刈をするしぐさもよくしていた。最期は「まこちきれいじゃ〜。牛車がとまっとるば 〜い」とうっとりと宙を仰いだ。隠居じさん、ドンじさんが亡くなってからはもう蚊帳は吊らなくな った。部屋の四隅には蚊帳吊りの金具の跡がある。  あの頃、自然の音に一睡もできなかった都会の人たちは、今は里の自然に浸りにやってくる。 「蛍狩り」「紅葉狩り」「きのこ狩り」ちて村も変わった。民宿、民泊は予約でいっぱいだ。         縁側に父母のゐて夏座敷     くろまめ
 蚊帳のあった夏・・・銀鏡の頃 (2006.6.09)  あの頃、庭に蛍がいた。家から見下ろすところには田んぼがあって道があって、その向こうに川が あった。向こう岸は田んぼと山。明かりは星と月と蛍。縁側で祖母と曾祖母が正座していた。蚊がい た。竹のうちわで浴衣の胸の辺りを扇いでは膝をたたき、肩をたたいていた。  私も兄妹も浴衣を着て縁側に居た。足の裏がキュキュウと鳴って乾いた。寝転ぶと汗が浴衣に吸い 込まれていってヒンヤリしてサラサラしてきてせせらぎが高く高く勢いよく聞こえてきた。生乾きの 髪の毛がゴニョゴニョしてきてそれは蚊が闇の中の細い糸と闘っているのだった。粗熱がとれてくる と兄妹とふざけ合ったものだった。 「あぶねえがぁ〜ほらあぶねぇがぁ〜ああ〜ほら!しんきなもんじゃ〜ほらほら あぶねえがぁ〜」 と曾祖母は縁側に片手をついて団扇で払った。それが可笑しくてもっとふざけたが誰も落ちたことは なかった。隠居ばさんは、三人の子供を幼くして亡くしてから実の妹を養女にしていた。子供が怪我 や病気になることを恐れていたのだった。  「蛍がとんじょるよ〜。きてみなーい。こっちの水は甘いぞ〜」ちて(と言いまして)祖母はゆる ゆる団扇を蛍たちに向けて仰いだ。先祖のお墓が庭先にあったのでお墓と蛍の関係がとても近いもの だと思っていた。    祖母はどくだみのような匂いがした。曾祖母はキャラメルの匂いがした。二人の間に腰掛けて私も 兄妹も足をぶらぶらさせて黙って蛍を見ていた。「ぼちぼちねんと」ちておステばさんと隠居ばさん は黄色い明かりの部屋に入っていった。 兄妹と私は蚊帳の世界に入っていった。  つづく・・・
 思わぬ拾い物 (2006.6.02)  思いっきり本を捨てることにしたがこれがなかなか捗らない。そこで衣替えに切り替えたがこれも 捗らない。天気が良い日は衣服の整理をし、そうでない日は本の整理をすることにした。 先ず、取捨条件を書き出した。 1、懐かしがらない。 2、おしゃれなボタンは取って保管。 3、図書館で読める本は捨てる。 4、兄妹父母の顔を浮かべない。 5、直感を信じる。でも繰り返し見てしまう雨の5月。  直感を裏切りそうになったときは「♪フニクニフニクラ」を歌った。「♪家の前の図書館は〜私の 〜本棚〜行こう行こう図書館へ♪」勢いをつけてくれた日もあった。文庫本はポ〜イポイ。ハードカ バーは値段タイトル著者順にポイ基準ができあがってきて情けない。100円のナイロン紐は積んで ある本の上をなんども転がっていた。  一方、晴れ間の少なかったぶん集中することができた衣類の整理は、キョンキョンの「♪なんて〜 たってや〜せない!なんてたって や〜せない!なんてたってや〜せない!私はやせない」断言、そ うなのだポポ〜イのポイ。筋肉トレーニングはとにかくやってみようと思った。  ・・・ようやく解放された先日、雑誌『サライ』(2004年2月号)からこころに沁みてくる言葉を 拾った。福岡市「しいのみ学園・園長、f地三郎97歳」のインタビュー記事より以下、抜粋。 「”定年後は余生”などと言いますが、人生に余りがあるはずないんです」 「水と光があれば必ず芽を出す。そんな椎の実に願いを込めて、妻と一緒に名前を決めました」 「昭和12年長男が1歳になったとき脳性麻痺になり医者から見離されました。でも、私達夫婦を支えた のは”科学には限界があるが、愛情には限界がない”という信念でした。この子を必ず歩かせるという 一念で歩行器を使って訓練を続け、満5歳になったときに歩けるようになりました。学齢に達しても学 校に入れてくれない。  2年の就学猶予を経て入学した学校では苛めが始まった。ズボンを下ろされたり砂をかけられたり。 中学では突き落とされ前歯を8本も折りました。次男もその頃脳性小児麻痺で、兄弟が不自由な体で労 わりあっている姿を見るうちに苛めのない学校を自分たちで作ろう。そう決心しました。」 「ある方からは、学園の後援会を作って会費を集めてはどうかとも勧められました。でも妻は、”障 害児を自立させるための学園が、人に頼っておカネをもらっていたら自立じゃないでしょう”と。で すから、寄付金は募らない。その代わり、誰からも監督されないでやってきました。現在のように、 3歳から6歳までの幼児を対象にした社会福祉法人に切り替えたのは、昭和54年に養護学校が義務化に なってからのことです」 「長男が17歳のときに「しいのみ学園 小使」という名刺を作り、”僕の手はまだ動く、始業時間に 鐘を鳴らすことができるから、用務員にしてほしい”」と申し出ました。同じ病の子供たちのために 堂々と胸を張って仕事に励んでいました。37名の子供たち一人一人に聞こえるように、始業の鐘を37 回鳴らします。不自由な体で歩いてくる子供たちが見えます。その様子を見ながらゆっくり鳴らすの です。37回目は最後の子が門を入った時にカンと鳴らすのです。そうしたら誰も遅刻にならない。そ の長男も昭和51年、39歳で亡くなりました」 「妻は平成6年に82歳で亡くなりましたが、生前、故郷・岩国の生家が見える小高い丘に埋めて欲し いといっていました。故郷に向かうとき、”おまえの作った学園の見納めだよ”というて、園内にひ とつ落ちていた椎の実をポケットに入れましてね。それを妻が入る先祖の墓に、一緒に収めてやりま した」 「障害者を特別扱いして欲しくない。介助せざる介助、無関心の関心。つまり周囲の人が、さりげな く手を差しのべること。それが障害を持つ二人の子と生きてきた、私の願いです」    小さきは小さきままに 折れたるは折れたるままに コスモスの花咲く  f地 三郎  我が家では、『サライ』を創刊号から購読しているが全部を読んでいない。これまで勿体無い話を 捨てていた。養護学校の先駆け、しいの実学園物語は、昭和30年に映画化されていた。この映画を観 て以来、園長先生の生き方にあこがれているというariさんから、2006年1月のインタビュー記事が届いた。 園長先生100歳。見事である。  (2008年追記:ariさんは、当サイトリンク集の「窓から見える風景の」アリさんです。         「朝日天声人語」や教科書、図書などなどの点訳をされています。
「言葉」(2006.5.30)  雷が鳴ってきたが私はいっこうに気にならなかった。しかし留守宅の義母の慌てぶりを想像した。 でもこういうことは幾度もあってなにも起きなかったから大丈夫だと結論を出した。そして話に参 加しよく笑った。話というものは聞き手の力でこれまで一切話さなかったことを、「あらまあ!い っちゃったぁ〜っ」てなるものだ。今日、そうなってしまった。  久しぶりにそう感じたことが不思議でなんでだろうか?と考えてた。愉快だからでもなく取材に 応えたわけでもなくなにかその道筋にのっかっちゃったようなあれよあれよとなっていたのだった。 それは自分がそうしたのだとよくわかった。  以前、友人から言われたものだった。「あれ?なんで話したんだろう?そういうつもりはなかっ たのに?・・・」と。そういわれてもこちらは聞き返すわけでもなくただ聞いていたのだから、そ う言われても困惑した。もちろん嬉しく互いがより親密になれたことは実感できた。言葉を選ばず 率直に話すとき勢いが付いて一気に吐き出すのか。無意識だからこの感覚は後では説明しにくい。 言葉を借りて自分を紹介しているのだと思う。だから恥ずかしさとすっきり感が同時に感じられる のだと思う。  あいだみつをの言葉に再会した。初めて出合ったのは1992年、『一生感動一生青春』だった。 それから銀座に行くたびに出合った。移転してからは一度も行っていない。今夜使った桜の入浴剤 の箱にみつをの言葉が書いてあった。        本気    なんでもいいからさ    本気でやってごらん    本気でやれば    たのしいから    本気でやればつかれないから    つかれてもつかれが    さわやかだから      みつを
ブランコ (2006.5.27)  26日、歩きたくなって家を出た。お花やさんの前を過ぎようとしたら子犬が足元に寄ってきた。 しゃがんでお相手をしていたら店主が「まぁ〜ごめんなさ〜い」って抱っこして奥に入っていった。 ここのワンちゃんはお花を買う人と買わない人が分かるらしい?本当かも。角を曲がろうとしたら どくだみの花が金網からはみ出している。特に白いこの花が好きだ。チョンチョンと触れて鼻先で 嗅いだ。新道に出たら雨粒が。このまま行くと濡れるので回れ右して神社の森に向かった。学童4, 5人とすれ違った。「こんにちは〜」と声を掛けたら怒ったように一斉に「コンニチワァー」って 返ってきた。  小学校のグランドの続きにある神社には誰もいない。裏の竹林から下るとメタセコイアが7,8本 立っている。楠の木、樫の木、ケヤキ、竹林、桜並木、池、青萱、水田、めだか池、長いくねくね 道の先が公園。誰もいない。雨は止んでいるし〜うふふふふ。ここの遊具で遊ぶことにした。滑り 台2機、鉄棒2箇所、ブランコ2機3っつ。ジャングルジムふたつあった。 丸い石の椅子の腰掛ける面に「♪げんこつやまのたぬきさん」、「♪ちゃつみの歌」、♪セッセッ セーのよいよいよい」の歌詞と手遊びの絵が彫ってあった。歌いながら手を動かしてなぞっている うちに懐かしくて大きな声で歌った♪〜ま〜た明日。  滑り台は10mはあったと思う。ナイロンパンツはよくすべるのだった。3回続けたら頭がフラ フラしてきた。もうひとつのは脚を伸ばしたらツーストン。脚を上げてみたらキューンストン。繰 り返しキューンキューン。ジャングルジムは単純で一回でおしまい。鉄棒は甘かった。考えが甘か った。回転する樽が横向きになって浮いている。ここに上がって鉄棒を握ると回転して尾てい骨を したたかに打った。悔しがってどうするのだ。やってみるのだ。また打った。平衡感覚も鈍ってき ている。 最後にとっておいたブランコは直ぐに乗るには勿体無いからプラプラ周辺を歩いた。上り電車が カンカンカン。景色が11両の窓を抜けて流れて行った。皮の椅子に座ると、すっぽり包まれて漕 ぎ難い。体重のせいなのだ。縮んで伸ばすチヂンデーノ、バ、ス・・・なんとか振れ始めた。窮屈 だけれど上がってきたぞ。着地はお尻が離れなーい。両手を着いてバイバイ。さて、残りの二つは 思いきり出来そうだ。自分がとても愛しくなってきた。  その昔、村の小学校だけにブランコがあった。山の子たちは山で蔓を結んで遊んだ。ブランコは 取り合いになっていた。休み時間も放課後もそうだった。日曜日もそうだった。私はこのブランコ が好きで好きでたまらなかった。自分の番が回ってきたときは、キャンディーを口に入れて転がす ように丁寧に漕いだものだった。縮んで伸ばさない、チヂンデ、ノバサナーイ・・・ゆっくり縮ん で伸ばす、ゆっくり上がっていく。キャンディーが溶けて甘くなってくるように上がる上がるのだ。 桜の木の上を私の足先が触れんばかりになって上がった。そうすると怖くなってきて胸の中を風が 抜けていくような感じになったものだった。それに慣れてくるともっともっと高く漕ぎたくなって きた。そして怖〜〜〜いの繰り返しがきて、また上がって行く。・・・懐かしい懐かしい思い出が 揺れて上がっていった。   あの時、かねのりさんの額にぶつかったこと。かねのりさんはどうしてぼんやりそこに現れたの か?私はあっと思ったが間に合わなかったのだった。そしてもう一回当たってしまった。かねのり さんは泣いた。先生と生徒が円陣を組んでかねのりさんを抱えて・・・。でも私はまだ止まれなか った。悲しい思い出だった。・・・はずが今、とても可笑しいのだ。額のコブが赤くなってそれか ら数日後紫になってそれから茶色になってきてそれから小さな点になって平たくなって・・・かね のりさんの額に目が行かなくなるまで2週間くらいは経ったのだろう、と思う。   8年前、同窓会に出たとき、私はかねのりさんの額を見た。横に数本シワが入っていて笑うと素 敵な笑顔になってシワが深くなる。私に「なあーに?」って目で問いかけていた。覚えているのは 私だけだった・・・。
 ラムネ (2006.5.20)  麦はまだ青かった。川は連日の雨でゆたゆたしていた。オオバンは見えない。川鵜が東空を 眺めている。人は釣り糸を垂らしている。私たちは土手に平行して成田方面へ走った。今日の ドライブは来週のスケッチの下見を兼ねた「房総の村」の見学。普段から気に入っている我が 家の”遊び場所”は着いたら晴れ。とたんに気温が上がってきた。  駐車場は休日とあっても空いていた。天気予報は人の行動を制するものだが今日は予報に反 して晴れ間が早くにやってきた。門を入り進むと江戸の町並みが見えてきた。お弁当を売って いる婦人に写真を撮ってもらった。出来上がりを見ると皆の影が短く地面に映り初夏の強い日 差しを感じさせるものであった。  農家の畑では芋床があり蓋を持ち上げ中を覗くとさつまいもの苗の茎が太く赤紫に育ってい た。そばの花が咲き、茶畑ではスゲの笠を被った婦人が茶摘をしていた。農家の土間では昔な がらの手法の茶揉みをしていた。裏庭に回ると木のお風呂があり、軒先には乾燥したヘチマが 吊るされていた。このノスタルジックな一角は絵心を誘うものがあった。  太鼓の音が聞こえてきた。橋を渡ると赤松のそびえ立つ広い芝生の中に大きな農村歌舞伎の 舞台が見えてきた。大太鼓を叩いている小さな男の子と小太鼓を叩いている小さな女の子と両 親が舞台にいた。近づいても人物は小さく見えた。青い空と緑と藁葺き屋根だけがそこにあっ た。「自由に叩いてください」と立て札があるので私たちは自由に遊んだ。回り舞台の上に立 つと歌舞伎役者のような気分になれるから面白い。ウィーンの森の公園ではヨハンシュトラウ スの曲が流れていたそうだがここの太鼓の音はより自然で美しいように感じると連れのご夫人 が言った。緑のシャワーを浴び日を浴びそろそろ休憩だ。  茶屋は白い芍薬と野アザミが入り口を飾っていた。全員がラムネを注文した。栓が押し込ま れると懐かしさが一気にアワとなって弾けた。乾杯!!  ゆるやかな風が心地よい。汗がだんだん引いていった。どこからか鶯と春セミの声が聞こえ てきた。縄で拵えた結界の下をくぐって村を出た。続く公園には新しくレストランが出来てい たのでそこで食事を摂った。写生の日にはお弁当は持参しなくても良いと思いながら、この村 名物の花寿司弁当や農家のお野菜を添えた野菜カレーなどを味わった。ラムネからの郷愁は尾 を引いて昭和30年前後の子供の遊びの話など話題は尽きない。  帰り、蓮と睡蓮の池を見学した。浮橋を渡り、蓮の池を一望した。 蓮の葉が風に押されて 裏返る瞬間はとても美しい。あそこもここもと指を指しながらしばらく見ていた。Yさんは、” 蓮の葉の風のバレエ”と表現していた。 風上では水面に光が細かく反射してキラキラキラキラ 輝いていてこちらも美しい。  房総の村の周辺にはスケッチのポイントが幾つも幾つもあることが分かった。これからやって くる季節が楽しみだ。
 つくば市 『茶房・翠泉』(2006.5.13)  朝から雨。友人に誘われて午後のドライブに出た。田園風景をひとつふたつ過ぎ、橋を越え、 利用客のほとんどいない石油スタンドをいくつか見ながら、どうしてこんなにスタンドが競合 しているのか?そしてこんなにロケーションの悪い場所を選んで営業しているのか?と分から ない者同士で話題にしながら走った。やがて長い長いユリノキの並木がまっすぐに伸びている 筑波学園都市に入った。電柱が見えないここは景観をとても大事にしている。  団地を過ぎ路地を抜け、酒屋、クリーニング店、スーパーが見えてきた。暮らしの見える中 に公園があった。ひとつ道路を挟んで三角屋根した山鳩色の建物があった〜!車中友人は少し 前に来たことがあるこのお店のことを話してくれた。私たちは車を止めて階段を上がった。 ドアを開けると柔和なご婦人が出迎えてくれた。テーブルが五卓、程よい間隔で配置されてい た。漆喰の壁にはちぎり絵が掛っていた。漆喰の天井は高く梁が黒い。窓は広く雨の日も明る い。席に着くと高さ10メートルくらいの樹木がすっぽり見える。公園は大きな額絵だ。テー ブルセンターは、利休茶(黄身の鈍いオリーブ色)の麻布だ。  日本茶、中国茶のリストが置いてあり、ランチのメニューは別にあった。日本茶・中国茶の なかでも評判の高い茶葉を厳選し、最適に抽出したお茶をゆっくり楽しめるようにと4月にオ ープンしたのだそうだ。中華がゆセットとシーフードピラフは想像していたお味より優しく上 品で薬膳のようで温まってきた。  茶葉は、数十種類もあり選ぶことから会話が弾む。茶葉の生まれた土地気候などの特長が分 かりやすく解説してあった。友人は八女茶という日本茶を。夫は奥久慈茶を。私は杭州の龍井 茶(緑茶)をたのんだ。想像していた堅苦しさはなかったが普段の飲み方とはやはり違うので 簡略ながらも手続きがあった。オーナーからそれなりのお作法を習って銘々が煎れた。オーナ ーにそしてそれぞれにも味をみてもらった。味の感想を言い合っていたら意外やオーナーはオ ドロキの表情だった。私達3人は初心者にしては味のききわけができる手ごわい客人となった ようであった。  正直コツを取得したのは、日本茶は二煎目にしてからで温度が大事なので砂時計付。中国茶 は茶葉が沈んでからの時間が肝心で砂時計は使わなかったが日本茶よりは時間が長く掛った。 お茶の色ではなくて茶葉の開きようが目安だった。要領を三煎目で取得し四煎目には菊花茶( 花茶)を混合して飲んだ。小豆の半分サイズに乾燥しきっている菊花が開いて元の姿を見せた とき大いに盛り上がった。菊の花の匂いが完全にしたのだ。味は少しムワンとした。お茶の時 間は1時間は経過したように思う。ジャマイカコーヒーの好きな私は完全に中国茶のお作法に はまり、ダージリンティーの好きな夫は日本茶の煎れかたにはまりトロミ好きになり、玉露の 好きな友人は八女茶の甘みが好きになり外に出たときはいっぱしの通人になっていた。    昨日は空気の乾いたとても良い天気だったので八重桜の塩漬けを干した。今それを瓶詰にし ている。今度は我が家に友人を誘って桜茶を。
「母の日」・・・銀鏡の頃 (2006.4.22)  昔、かなり昔、私が初めて母にプレゼントした品物は、シャンプーとカミソリだった。シャンプーは 白い粉だった。香りはかなり強くて、いつまでもいつまでも匂いが残るものだった。パッケージは四角 い緑色で、今のシャンプーのサンプルのような袋に入っていた。そして二袋続いていて中にミシン目が 入っていて切り離せるようになっていた。もっと続いていたのかも知れないが予算の関係でそうしたの だと思う。カミソリは今でもある婦人用のカミソリでピンク系の柄がついていた。  ラッピングというおしゃれな言葉は当時聞いたこともなかったし、考えにも無かったのだと思う。そ のまんまを習字紙に包んで、手紙を添えて母に渡した記憶がある。母は、そのとき28歳だった。嬉し い顔をして受け取ってくれたことも覚えている。村の店には子供の目からみても美しいものは置いてい なかった。けれども一生懸命考えた。母の日が近づく数日間を一生懸命考えた。そして、母がきれいに なるだろうと思って決めたのだった。  母は手作りのヘアーバンド(幅広、中、)をしょっちゅうつけていた。姉さんかぶりのときはしてい なかった。参観日の日には、いつものヘアーバンドとは違う黒と茶色のビロードのヘアーバンドのどち らかをしていた。まるで帽子の代わりのように。お化粧も念入りで頬紅もつけていた。黄緑の手製のス ーツを着ていた。まるで制服のように。左の襟には銀色の花のような実のようなブローチをしていた。 まるでバッチのように。靴は黒のビニール靴。エナメルなんてとんでもない経済だった。バックはバス の車掌さんの持つ形にとてもよく似た黒の皮革製品だった。えくぼのはっきり出る母は子供心に可愛い と思った。他所のおばさんたちと話すときも楽しそうな顔は素敵に見えた。    カメラなんて贅沢品の時代に、村の分限者さんが集まりの時などによく撮って下さったようで、その 中に参観日の母の顔がある。そして同級生のお母さんたちの若い顔がある。2,3人で写っていたり5, 6人で写っていたりしている。母親同士が同級生の人とはもっと仲良しさんの顔で写っている。背景は 校舎の杉板の壁や二宮尊徳像だったり桜の木の下だったりする。学芸会や運動会の写真は制服を着てい ないが、ヘアーバンドはしている。  2回目の母の日のプレゼントは覚えていない。大人になってからはラッピングしたりメッセージカー ドを添えたり目録にしたり旅にしたり食事にしたり花や樹木にしたりと母の嗜好を一生懸命考えてプ レゼントをしている。受け取る母の笑顔は見れないが声は聞ける。時々元気を知らせる写真が送られ てくる。母は既製品のカチューシャをしている。帽子はピンクのときもある。帽子の下にカチューシ ャをして撮っているのだそうだ。おしゃれごころは健在だ。錯覚と勘違いで楽しんでいることは私と 同じだ。
 24年前の版画の賀状 (2006.4.15)  最近観たテレビ番組は、家族との版画時代を思い出させてくれた。  番組では、昭和50年前後の新潟佐渡の版画の村を紹介していた。山の村、海の村はそれぞれに 版画の素材が違っていて面白い。山側は農閑期に,海側はシケで漁が出来ないときに版画を彫って いる。この地に移住してきたプロの版画家が、指導したのだそうだ。  版画家はここの風景に魅せられてこれほどの素材は無いと村の人達に一緒に彫りましょうと勧め、 村の壮年、青年たちは一生懸命に学び、やがてそれは生きがいになり次の世代に継承されつつある。 女性は、古布れを裂いて織物をしていた。画面は現代に移って、織物の取材をしていた女性はこの 地に嫁ぎ、はた織りの指導をしていた。暖房の行き届いた家で版画の構想を練る人、棚田を飛翔す るトキをついに完成させた人の笑顔で終了した。  見終わってすぐに納戸の箱を引っ張り出した。中には、彫刻刀、版画絵具、バレン、ゴム板、中 途半端の版木が数枚。1976年、夫作の木彫りのブローチ未完2個。1982年作の家族の版画、 戌からの始まりだ。1997年まで彫ったり彫らなかったりしてそのままでいた。書初めも同時期 で終わっていることがわかった。私の戌は猪だ。  娘は3歳のときからから参加し、あられちゃん、ゴマちゃんなど。小学高学年では「HAPPY  NEW YEAR」と彫っている。ゴム版のほうが上手に出来ている。パソコンを使うようにな ってから家族のそういった時間もなくなった。箱の中の思い出を拾い上げてはその頃の話になり、 また版画をやってみようかとなった。彫刻刀を研ぐことから始めなくては。  23年使った冷蔵庫がとうとう壊れた。ワインレッドの冷蔵庫はその頃の私の好きな色だった。 明日届くのはマスタードイエロー。タイミングよく雰囲気が変わる。昔の思い出の時間を天地返し していろいろなことを再現して楽しんでみたいと思った。  NHK「新潟の版画の村」を観てから丁度一週間経った。 今日も観たくて観た。「薩摩の養蜂業」。それからBSで「春 里山の音景色」を観た。草野心平の 詩の朗読が気になった。     春うらら うらうら どなたさんの顔もうらうら
 手作りのぬくもりの中で (2006.4.5)  今朝は慌しく始まった。いつもより1時間遅く夫が出社するのでその前に支度を しようと頭の中の準備は出来ていたのだが、目覚ましをセットし忘れてとうとねぼ うをしてしまった。天気予報は雨となるらしい。空を何度も見上げたが雨粒は降っ てこない。本日の野外スケッチがあるなしに係わらずお弁当を作ることにして和と 洋の食を平行して仕上げたとき、嗚呼!降っているのだった。  連絡網が電光のごとく中止を告げてきた。そして女性だけで茶話会をやりましょ うとなり、”お宅訪問”の日に変わった。  そこは、花々がそれぞれに最も似合う鉢に育てられていた。雨粒もひときわ光っ てみえるから嬉しくなってきた。ミモザの花に触れながら玄関に入った。そこから は手作りのものにかこまれた主の暮らしが見えてきた。物に対する概念は人さまざ まであるが、私は、実用から離れて物を眺めたときに本来の物の質が浮かび上がっ てくるものだと思っている。ここの主もそのように感じられた。古き置物を仕舞わ ないで古いままに置き場所を換え、またあるときは少し手を加えて実用性を高め利 用頻度を上げ、いつもそれぞれの物に居場所があるように大事に大切に愛用し、愛 玩し、鑑賞していることが感じられた。  半世紀を過ぎれば、人は、衣食住のバランスがとれてくるものだと思う。しかし そうであっても、比重はどこかに傾く傾向にあるように思うが、主は、本日の旬を 感じられるこころのある人だ。同席する人との交流がなにより五感を楽しませてく れることを知っている。わたしたちはそのような時間の中でよく笑った。    
 蓬餅 (2006.4.2)   28日、風のやわらかい良いお天気。2年ぶりに自転車に乗った。  どこまでも続きそうな長い長い自転車道を走りたいと思った。リュックの中に句帳、三色ペン 、眼鏡、タオル、テッシュ、ウエットテッシュ、小銭をを入れた。服装は、手袋帽子サングラス、 ヤッケ、体操選手のような上下に更にマスクをしてみたが、これでは完全に怪しい人物になるの でマスクだけを外して玄関を出た。  途中、コンビニでパンとあったかいお茶を買った。自転車道まで田んぼ道をボコボコ走った。 折たたみの自転車のサドルは小さくてクッションが無いのでボコボコ振動が伝わってきて痛い。 土手に上がって自転車を西へ向ける。幾つもの橋を越えれば手賀大橋に出る。今日は慣らし自転 車の初日なので適当なところでターンすることにした。右に田んぼ。左は川。左岸の畑では野焼 きの煙が上がっている。田んぼは土が掘り返されていてところどころが乾いている。畦は焼け跡 で黒くなっている。田の中ではカラス、サギがしきりに虫を食べている。橋をひとつ越えた。  自転車を止めて川に下りた。葦の芽か?ツクシのような形をした濃い緑色だった。春の水が優 しく流れている。釣り人が等間隔に腰を下ろして釣り糸を垂れている。オオバンが数羽。北へ帰 るのを怠ったのか?白鳥が数羽浮かんでいる。鵜は杭に止まり、ジーッと東を向いている。静か で平和だ。わんちゃん連れの人達とすれ違うのも楽しい。  大きな橋を越えた。ここからは沼が一望にできる。遊歩道が延びている。自転車を押してしば らく歩いた。沼に向かってベンチが置いてあり腰を下ろしている人が数人。沼はキラキラ漣を押 しては返していた。公園を過ぎて広い原に出た。カラスエンドウの紫の小花が見える。ツルは蓬 (ヨモギ)の群生の中を這い回っている。数日前に畑の近くで蓬摘みをしたが、すでに摘まれた 後で産毛のある若い葉を捜すのに苦労した。  ツクシを採っている男性に声をかけて蓬のことなどを尋ねた。「50cmくらいに成長し4月中 でもお味噌汁や天ぷらにして美味しくいただけますよー」と。私は嬉しくなって腹ばいになって 摘んだ。ひとやま摘み終えたら移動し(ナイロンパンツだからスルスル自在)気がつけば自転車 からずいぶん離れていた。袋はパンパン♪。自転車にぶら下げて帰る時の嬉しいこと。  帰宅してすぐに茹でた。半日、水に入れてあくを抜き、軽く絞って刻んでパックし、ラベルに 日付を入れて冷凍庫に保存した。再来週は友人宅で蓬餅を作る予定だ。母の味に近づきたい。祖 母の味も曾祖母の味も再現したい。このごろ強く思う。  クローバーは白鳥の雛が食べるそうだ。この日、出合った親切な男性は「もうそろそろ雛が孵 りますよー」と嬉しそうに教えてくれた。           はこべらやかすかに立ちぬ日の匂ひ     くろまめ
 初の吟行会 (2006.3.17)  この日は予報通り寒かった。11両編成の電車は人の厚みで息苦しかった。毎日この電車でそら まめは勤めに出てゆく。私は見送り掃除洗濯家事を終える。とりあえず終える。それからは長かっ たり短かったりする時間を過ごす。そんな中、初めての吟行日がやってきた。    仲間が日暮里駅に集まっていた。集合時間を過ぎたら出発するという決まりだと知った。参加の 有無を問わないのはそういう理由からだということもわかった。初めてお目にかかる方たちにご挨 拶をする余裕がもてたので初参加者としては順調な滑り出しとなった。  吟行コースは、谷中霊園→子規庵→旧寛永寺表門→休憩→清水寺→彰義隊碑→無縁坂→湯島天神 →解散(地下鉄湯島) 参加人員14名。  御殿坂→「ゆうやけだんだん」は、昔、夕焼け、冨士が見えたという階段のある高い場所だった。 猫がだんだん階段に寝そべっていたが人の通りの邪魔にならないように身を寄せていた。二つのお 寺を過ぎるまでに寒椿、蝋梅、黄水仙をたっぷり見た。梅はやや赤い。谷中霊園はからすが異常に 鳴いていた。烏の巣があるのだろうか?。  羽二重団子屋さんにこっそり寄り道してお土産を買った。お店の前には小さな赤い鳥居があった。 子規庵までちょっと恥ずかしい感じのホテル街を通過するので皆は無言でかたまって抜けた。しか し子規庵には上がって見学する時間はなかったので外から覗き見た。ジャンプすると、有名な糸瓜 の棚が見えた。病床にあった子規は庭を眺めるしかない、血を吐きながらも余命をひたすら俳句に 向けていたと思うと哀れでならなかった。    輪王寺の庭には杏の花が赤い色をつけていた。紅梅として季語になるということを教わった。黒 門に入ってすぐ右手に大きな石文があった。少し離れて正面に牡丹の芽が赤黒くねじれて身を畳ん でいた。そこに西日がかかっていて戦死した隊士の魂のような感じがした。上野文化会館までもう 少し。クスノキ、ケヤキの大樹が裸になっても大きいことに驚いた。グリーンセンターで休憩し、 皆は一句を投句していた。私は後日出すことにしてカレーを食べ、、ココアを飲んだ。上野の山で 抗戦した彰義隊の悲惨な最期を知らぬ者にさえ冷たく刺さる冷えを感じた。大根の花とどこか響き あうような感じがしてメモし、無縁坂を右手に見て湯島天神へと向かった。  男坂を上り境内に入ると受験関係の絵馬が渦高く重なっていてその様はとても乱暴に見えた。恋 みくじもあり。で、肝心の梅の開花はまだまだこれから。猿の曲芸を見ている人達の顔は猿を見て 人を見ていた。女坂を下り、そして解散。約、3時間の行程のなかで俳句の材料はあまりにも多く 整理が出来ていない。 「ゆうやけだんだん」「寒カラス」「羽二重団子」をどうしても詠み込みたい。             黒門に残る日のあり牡丹の芽   くろまめ
日比谷公会堂とプラタナス(2006.3.6)  2月18日、日比谷公会堂で秋山ちえ子氏と吉村作治氏の講演を聞いた。大月茂子さんから届い た葉書は抽選発表のコピーが貼ってあって「大当たりぃー!行きましょう!」と書いてあり、ラン チの予定も立っていた。日比谷公園内の「松本楼」のカリーだった。風邪が完全に治っていなかっ たのでどうしようかと迷ったが治せばよいのだと考え直して「OK!」と返事をした。そして予定変更 は「カリーは講演が終わったあとに」となった。  地下鉄の階段を上がると日比谷花壇に出た。一昔前はここのお花を買うこともいただくこともあ ったが長いこと公園にすら来ていない。ベンチが新しなっていた。鳩はいなかった。日比谷公会堂 の黄色い文字の看板が目に入ってきた。60年代のアメリカの映画のセットのようだ。通行人のエキ ストラの気分で歩いてみた。公園と公会堂の間にあるお店には、スナック菓子などが無雑作に置か れてあった。正門脇には樹齢何年だろうかと思えるほどのプラタナスが空に向かって枝を伸ばして いる。魔法使いのおばあさんのような指先(枝はまったくその感じだった)に茶色く変色した実が ぶら下がっていた。なにもかも末枯れた淋しい感じがただよっている午前11時30頃。人は並び、 係りは「500円切手をご用意ください。」とアナウンスしている。  500円切手持参だったのだ。私は帝国ホテルで買うことにした。長い横断歩道を渡り右折して ホテルのラウンジを横切った。本日の講演を聞くに違いないご婦人の群れが続々排出されて来る。 切手とキャンデーを買った。  プラタナスをなんども仰ぎ見ている友人を見つけた。彼女もこの建物が懐かしいのだ。開場まで 互いの近況を語ることが出来てよかった。席は演壇の真正面を避けて10列目あたりに着いた。6 0歳台が多いようだ。しかも女性が9割!!寿命はこういった場面にこそ顕著に出ているようだ。  秋山ちえ子さんは89歳。ゆっくりと演壇に進まれる姿はとても美しい。会場は希望と夢の花が 一気に咲いたようだ。ラジオの声と変わらない声で、公会堂のこけら落とし以来、今日は最後の講 演になるかも」と微笑まれ、縁あるエピソードを語ってくださった。    吉村氏は63歳。運動神経ゼロの少年時代があったから今があるという話に会場が沸いた。伝記 を読むことを勧めてくれた司書は、人の一生を10冊読めば10生ですよ!と教えてくれたそうだ 。探検家と冒険家の一生を小学3年生で全冊読んだとは!。  外に出ると完全に曇っていた。プラタナスはもっと不気味に見えた。記念に係りの方に写真を撮 ってもらった。ぶら下がる実の頑なな感じが気に入った。公園では恋猫の孕んだ姿をなんども見た が今頃は子猫がいっぱい育っていることだろう。
 打ち上げは「♪青い山脈」大合唱 (2006.2.17)  16日の朝は寒く感じられた。前日の4月上旬並みの気温に体はすっかり甘えてしまったのか。 外は雨。「第1回 画友会水彩画展」の搬出までまだ時間はたっぷりあった。コーヒーを飲みなが ら朝刊を読む。そうこうしているうちにポットが沸きあがった。ラジオは勝手に歌いおしゃべりし ている。主婦業を終えてもまだまだ時間はたっぷりある。なのに私は集合時間に遅れてしまった。 手賀沼入り口でバスを降りると雨は止んでいた。横断歩道は赤信号。塾に通う小学生がフードを目 深にかぶって自転車にまたがる。青で一気に渡る。靄の先に小学生3,4人が見えてきた。彼らは 塾に急いでいる。  搬出作業は終わりに近づいていた。皆は額縁からガラス板を外して壁に立て掛けている。先生の 黒いセーターが見える。みんなの額を点検している。そしてそれをM会長がジーっと撮っている。 終わると銘々が仕舞っていく。壁はもうただの壁になった。F氏とOさんは都合で止む無く欠席をさ れていた。F婦人が「初日集合写真」をF氏に代わって皆に届けてくださった。昨年の「函館スケッ チの旅」以来の再会に懐かしい気持ちになった。女性会員にお手製のハンケチブローチをプレゼン トしてくださった。画友会の特長は、このような親しみの感情に在るような気がする。会員のご家 族も仲間になっていく。ここで一旦解散し1時間後に打ち上げ会場に集合となった。  お店の前に集まって来る面々は近くても遠くてもまあるく膨らんで見えた。作年の忘年会の時と 同じお店なので手荷物は所定の場所に置き、席も決まり、着々と宴会ムード進行していった。歓声 の中、質問が出た。「絵を観た友人が入会したいと言っておりますが定員に枠があるのでしょうか 。」(規約第6条、会員は平等である。)よって会員で話し合うという図式が確立している。「先 生は今でも休憩をおとりになりません。お疲れになるのではと心配です。」と現状解析する意見が 出た。「ベテランが新人に教えることでそのことは緩和出来るように思います。」と先生は希望を 語ってくださった。研鑽すべしに尽きるのだ。新人歓迎の結論を得たところで、「ところで、入会 希望の方は女性?男性?何歳ぐらい?。」と矢継ぎ早に出てくる質問にみんなは大笑いした。     規約第10条、会友制度(野外写生会のみ参加できる制度)に話題が派生した。日常の中からで も旅先からでも手書きの絵葉書をいただくことはとても嬉しい。描くときもどんなに楽しいかを私 達は知っている。毎回の教室には出れないけれど描いてみたい!という人がいることも私達は知っ ている。バスやローカル線の車窓から春夏秋冬の風景を眺めたら素敵だろうなあ。「次の野外スケ ッチではそうしませんか?」と意見が出ていた。小鳥が囀るようにして候補地が続々あがってきた。    お開きは「♪青い山脈」の大合唱。タフトを振る先生、少年のような少女のような若い顔が同じ 方向を向いて歌っている。2番、3番、イントロのリズムに乗る乗る♪。画友会の歌の誕生記念日 だ。今回はS副会長音頭の「フレーフレー画・友」「フレフレガユウ」の番がちょとズレたが、あ とに残った若干名の人たちよ。エールを飛ばしたのだろうか。  想い出は若干のズレがあったほうがいいと思う。深く甘く残るに違いない。 (2008年追記:2007年第2回水彩画展より1人3点出品となり、第2回、第3回とも        600名以上の方にご来場いただきました)
 寒晴れの水彩画展 (2006.2.11)  午前11時頃ベランダに洗濯物を干した。気温11度。いつもより4,5度高い。 予報では日中は4月の陽気になるという。家族と一緒に春の息吹を追いかけながら 「第一回 画友会水彩画展」の会場に向かった。そこは、我孫子市手賀沼公園の入 り口に建つ生涯学習センターと図書館が並ぶガラス張りのモダンな施設だ。公園の 中の無料駐車場に車を止めた。電柱には太った鳩が10数羽とまっている。石焼き 芋屋さんの釜では太い木が燃えている。煙の匂いがたまらない。「い〜しやぁ〜き ぃ〜いもぉ〜」を振り返り振り返りボート小屋の前を過ぎると沼が広がってみえて くる。白鳥、おおばん、鴨、雁が浮かんでいる。ベンチいっぱいに光があたってい る。私は自転車とぶつかりそうになってしまった。公園の中を歩けば1分くらいで 会場に入れるのだが今日は勿体無い。15分ほどの散歩は昨日までの寒さをすっかり 忘れさせてくれた。  展示場はとても静かだった。先生の絵に立ち止まり指で光と影をなぞっている人、 下がっては見て近づいては見ている人、会員の絵の、風景、静物、人物、それぞれ の絵の前で静かに語り合う人、人。計18点の絵をみるひとたちはみんな優しい観 覧者だ。  展示会の開催期日が決まるとすぐに先生から、「展覧会出品の心得」と題した資 料が配られてた。額縁の選定、マットの色、吊り金具の位置など詳しく書いてある。 「感動を与える作品を描きましょう。それにはデッサンを沢山描くことです。常に 構想を練ることです。大事なことは、自分の絵を描くことです。描きたいのみを描く ことです。」この言葉に私はこころから発表したい!と思った。 みんなもそれからはますます熱心に描いていた。そして、ある日、水で拭いて色を 落としてまた塗ってまた落として汚くなって、デッサンし直して分からなくなった と嘆く私に「大丈夫です。」と励ましくださった。「壊れることを恐れたらいけま せん。絵は自分が描きたいものを描く事が大切でその為に時には絵が壊れる事もあ りますが壊すことを恐れていては絵は描けません。描いては壊すの繰り返しで作品 を完成させるのです。但し筆を止めるタイミングが大切です。」と一呼吸置いて見 てそしてアドバイスを得る呼吸のことを教えてくださった。 それぞれの個性や思いを第一に考えて励まし引き出してくださるので私達は勇気が わいてきた。戸惑いは希望に変わって頑張れた。今回の初めての発表会は自信の無 さからくる恥ずかしさを一掃して描く楽しさを本気にさせてくれた。  「絵が出来あがったら、先生や仲間にみてもらいましょう。必ず自分で気付かぬ アドバイスが得られます。そして額に入れて、もう一度これでよいか、念を押して 下さい。未だ未完かも知れないからです。」と心得にあった。仲間と一緒に額縁を 買いに行った日もよく晴れていた。  心得に基づいてお店の方と相談しながら選び、お昼を食べながら未完かも知れな い絵の話やサインのことなどを話した。それから数日後の2月1日、全員が額持参 で集合し教室の壁に並べた。私は最後の日になっても完全未完だった。乾かぬ絵を 扇いでくれる友、サインを入れて額に入れて並べて、がんばったねーと言ってくれ た友、友。「失敗を繰り返して絵の創作プロセスを体験できましたね。一枚の絵 には情熱が注がれています。」とおっしゃってくださった先生、みんなありがとう。    (2008年追記:「写生画友会・水彩画展」は、以降毎年開催しています)
 お初にお目にかかります (2006.2.6)  今年の寒は長い。「インフルエンザA型です。」と医師にさらりと言われたとき はショックだった。翌日の午後からはお粥から普通食。お粥の間は体重減したのだ ったが家族は誰もその現象を認めなかった。今、私は完全に元のサイズに収まって いる。  26日、宇尾房子さんに誘われて日本橋の「ギャラリィー白百合」に行った。 半年前からの約束のこの日も朝から寒かった。「種川とみ子 個展」は、モノクロ の作品(ミックスメディア、タイル画など)〜F50号まで30数点が展示されてい た。大病と二度の手術を経てから再び筆をとるようになり、鮮やかな色調からモノ クロに変化してきたのだそうだ。ベニヤ板にヤスリをかけてアクリルで描かれてい る。家族がテーマにあるように感じた。お話をされるたびに真っ赤なビーズのイヤ リングが大きく揺れて素敵だ。千葉県佐倉市在住。額縁はすべてご主人様の手作り だそうだ。  ここでもう一方紹介を受けた。絵本作家であり画家でもある長縄えい子さんは、 千葉県柏市在住。お元気でご活躍だった頃の小森のおばちゃまとスタイルも表情も 声も語りもとても似てらっしゃる。胸まで長いウエーブが金色に輝いている。トラ ンプのダイヤの絵柄のお名刺をマジックのような手際で下さった。絵のまったく分 からない私は3人の話を聞いていた。会場を出てから「銀座で軽くね。」と房子さ ウインクされて”お化けじみた話”(不思議な不気味な話など)して愉快だった。  外に出て、並木通りすずらん通りという歌が流行っていた頃の銀座とはまったく 異なっていることをなぜか思い出した。能面のような顔が私を過ぎてゆく、超えて 行くような不思議な感覚だった。  この日だったのかも?。インフルエンザくんは私一人だけを選んでランデブーし ていたのかも?。潜伏期間は、この日にぴったり当てはまる。房子さんもえい子さ んもお化けだ。今月の12日、えい子さんは柏市の中村順二美術館でプチファッシ ョンショーに出演する。金髪のロングヘアーはどのようなポーズで登場してくるの か楽しみでならない。  長縄えい子著(絵・文) 『TSUNAMI』              『すてきなうちって どんなうち』    たけしま出版発行 (2008年追記:宇尾房子さん、「我孫子メルヘン文庫」の審査委員。小説家。          長縄えい子さん、「我孫子メルヘン文庫」カット・表紙絵。絵本作家、画家)
 星回り (2006.1.18)    平積みされた細木数子の本を立ち読みする。先に知りたいから12月ごろに自分 の星座だけを立ち読みする。不運な年を迎えなければならない星回りであっても構 わない。一種の統計学として読む楽しみに変わるから構わない、・・・だった私。 今年は信じたい心境になっている。星回りがいいらしいのだ。  「10年に一度の幸運ですよ。さてどうするぅ〜。」と大仏のお顔サイズの細木 さんが黄色い光を背にして微笑んでいたからだった。立ち読みで分かることは頷き、 分からないことはパスをして、そうやって買わないのも楽しいものだ。やがて年が 明け、大仏顔はテレビで確信の実証をしてくれた。「努力をしないといダメねぇ〜 。」と帳尻の合う言葉を並べて首を小さく振るのである。いづれにしてもこの言葉 は真実だからそうありたいと思った。・・・そこへ努力するときがやってきた。 「みなさん、画友会の第一回展示会が2月に決定しましたー。」会長さんの発表を 聞いたとき、大仏お顔の頬が赤らんで小さく首を振ったような気がした。昨12月 に観た神楽をなんとか描き表わしたい。いよいよ次週の水曜日が最終仕上げだ。先 生に見ていただくと大きく変容してくるのがわかる。今日のひとつ、二つ、三つと 筆持つ先生の手に一点集中して睨んでいる。が、手が離れたとたんに「どうっだっ たけー〜?」となる始末だ。  星周りの良いこの1年のスタートは発表というキーワードで全身が奮い立って止 まない。  1月21、22、23日は、夕陽を富士山の真上に見ることがが出来るそうだ。 16時45分〜17時、刻々と陽の落ちるさまをカメラに記録しようと思っている 。運良くお天気もいいらしい。今夜は地球儀が大きく見える。