友人への手紙2003年8月15日 (たんぽぽ)
今日は、銀鏡のHPをありがとう。今まで訪問していました。帰国してもなかなか行けない銀鏡の
様子が写真などを通して分かりました。「懐かしい」という言葉につきますね。あれから何年経つの
かしら...なんて思いながらでした。
素直で可愛かった私たちの中学時代は、遠くへ遠くへはるかかなたへと流れていったようですが、
思い出はこうして蘇ってきます。
昔からのしきたり...夜神楽など本当にあの時代はあのまままのあの世界がすべてでした。
自然の中で、今の同じ年齢の子供たちと同じように勉強をして部活をしてほんのりとした淡い心に
出会ったりもしたものです。でも、いったい今...何が、その時と違うのでしょう。きっとあまり
にも溢れる物や情報でしょうか。
考えれば、勉強をしながら学ぶものは学校の教科書からだけでした。だから、その時代、学校は学
びの場として素晴らしい所だったのです。それぞれの一冊の教科書から学びながら社会へと目指した
のです。それで十分でした。今は、それでは物足りなくて学校が終ってもまだ学ばなければならない。
子供たちはそれではきっと疲れてしまいます。私たちの疲れは、遊び疲れ、部活での運動疲れだった
ような気がしますね。
銀鏡のHPを拝見しながら、昔のように自然の中で学んで過ごす生活に、生き生きとした我々の
時代が蘇っているように思います。素敵な企画をされた銀鏡のみなさんに遠くからエールを送りた
い思いです。
そして、そんな故郷で生まれ育った心や精神は今も私の中で生きていると信じています。
からすみ 2003年6月1日 (UO座)
いただきモノのからすみを食す。ぬるま湯に2分浸し、皮をむく。
焼酎を表面に塗り軽くあぶる。焼きたらこのにおい。ボラの卵だから
似ていても当然か。薄く切り、長ねぎの白い部分と一緒に口に入れる。
絶妙な組み合わせだ。焼酎がうまい。
長ねぎは畑から採って来たばかり。絹さやえんどうも収穫したばかり
のものを茹でてたっぶりと皿に盛る。そのままでもうまいので調味料
は要らない。
よくイギリスの食事は工夫が無いとの例えで、毎日「茹で野菜」と言
うが結構おいしい食生活なのかも知れない。
芋焼酎霧島 2003年5月26日 (武ちゃん)
去る土曜日、国道7号線、101号線を走って日帰りで、青森県境の海岸端、波打ち際に
源泉を引いた「不老不死温泉」の露天風呂に浸かり日本海の水平線をボーっと眺めながら、
「贅沢ぜいたく、極楽極楽」と心で唱和しながら、浮世の雑事を洗い流してきました。
日曜日には、ウオーキングで空腹感を作り出し、得意の「何でもフライパン料理」で野菜
類を中心に摂取、加えて薄味の「具沢山これでもか味噌汁」をいただき、たんぱく質が足り
ないことに気づき、当地名物の檜山納豆を辛味の強い大根おろしで一揆流し込み。最後に芋
焼酎霧島で舌を整えました。健康であることを実感したものです。
1万数千羽の海鳥とともに一夜を過ごして(武ちゃん)
天然記念物の島、日出島に、渡ることができました。この島は、鳥に興味のある者にとっては、
あまりにも有名な島で、ごく限られた者しかいけません。「浄土が浜」の近くにある小島で、クロ
コシジロウミツバメとオオミズナギドリの一大繁殖地です。
特に絶滅危惧種の天然記念物、クロコシの方で有名。オオミズナギドリは1万3千羽と言われてい
ますが、3万羽に近いという人もいます。夕方、6時半頃から沖合より、近くの海に群れ集まった
オオミズナギドリが島に帰ってきます。海上での飛行は実に鮮やか、波間を滑るがごとく軽やかに
飛び回る飛行の名手ミズナギドリですが、着地は実に鈍重、不恰好でドスッツ、ボト、ボテッツ、
ボタと地面めがけて重やかにして愚鈍に大きな音を立てて勢いよく落下してきます。見るからに滑
稽で気の毒です。
夜の11時になってもまだまだ帰島はやみません。島中を産め尽くすほどの鳥鳥鳥です。
足の踏み場もないくらいでした。テントの頭の近くにやってきてものすごい声で鳴きまくり、さな
がら拡声器のラッパの中に頭を入れて寝ているがごとくでした。うつろうつろとしているうちに朝
を迎えました。午前3時半頃から沖に向かって飛び立ちます。飛び上がってから水平飛行に移るの
ではなく、高いところに歩いていって落下しながら飛び去っていきました。海を背にして立ってい
る小生の方向に向かってぞろぞろ、とことこ、ささっつとやって来ては、気にすることなく通り過
ぎ、断崖から右記の方へと落ち飛んで行きます。午前4時48分には完全に島から1羽もいなくなりま
した。断言はできませんが。それまでの拡声器のボリュウムが次第に絞られたように鳴き声が止み、
潮騒や木々のゆれる音が取って代わりました。実に静か。忽然と見事に消え去りました。
神隠しか鮮やかな手品を見たような気分でした。天然の仕組みの偉大さに感じ入りました。毎晩、
毎日、繁殖期にはこの光景が繰り返されてきたのでしょうが、驚異・畏敬の一言に尽きます。
縄文食その2 (武ちゃん)
工夫を重ねながら日々味わっています。野菜や生姜を入れておじやにしたり味噌汁に入れて
縄文風猫飯としたり、いずれも美味しいです。海藻にに卵に納豆は毎食欠かさないようにして、
夜にはキムチを添えてなどなど、一日の必要熱量・微量要素・ビタミン類の供給と毎日のジョ
グ・ウォークによる消費とのバランスを考えながら、嬉嬉として細胞改造計画に勤しんでいます。
脳のよろこび (UO座)
人の脳は断片的な記憶が結び付いたときに嬉しいと感じるらしい。
今、経験して居ることが、昔に見聞きしたことと「一致」することが嬉しい素と思う。
テレビのクイズ番組を見ていても自分の想定した回答と解答が一致するのが嬉しい。
音楽を聴くのも自分の頭の中を流れるメロディーと実際に聞えてくるメロディーが重
なり合う嬉しさ。あまりにも前衛的でメロディーの先が想像できないのは不快だ。
年末の忠臣蔵も決まっている筋書きどおりになっていく安心感。
村の祭の式次第も年々変わっていくのでは落ち着かない。
アンアンとかノンノとかいう雑誌で紹介される例えば信州の民家や店を尋ね、そこに
写真と同じ店があって喜ぶのも「一致」の喜びか。
相撲でまわしのポケットからドラエモンのように、その都度いろいろな凶器を取り出
して闘ったとしたら落ち着かない。
やはり脳も断片的な情報が増えてくると整理・整頓がつかなくなって不快なのだろう。
関連付けて体系付ければ情報のアクセスもはやくなる。
スカートと思っていたら実はキュロットだったり、女子のフィギュアスケートで素肌と
思っていたのにアップになったら肌色のシャツだったりすると嬉しくない。やはり「一
致」していなかったせいであろうか。
いつも歌があった (UO座)
ラジオから毎朝流れていた「ペルシャの市場」、「田園」のメロディー。
「カッコーワルツ」で全校生徒が講堂へ向かって廊下を行進。
「とんとんとんまの天狗さん」「アハハウフフぼくらはお笑い
三人組」「スターダスト」がテレビから流れていた。
「ランランランランランデブー」が、だいだい色の街灯に降りしきる、
じっとりとしたボタン雪のなかに流れていた。
まこ、あまえてばかりでごめんね、みこはとっても・・・
の「愛と死をみつめて」には泣いた。純なものには当時から弱い。
ザピーナッツが洋風の「可愛い花」を歌えば、こまどり姉妹は
「津軽の海を越えてきた」と歌う。近所の焼き鳥やのオバさん
は同じ北海道が田舎で、こまどり姉妹の大ファンであった。
三橋美智也が「とんびがくるりと輪をかいたー」、「都へ
積み出す真赤なりんごー」。あの頃は都、東京は今よりずっと
遠い町で、憧れであった。布団袋も駅からチッキで送った。
賠償千恵子の「下町の太陽、山田太郎の「新聞少年」が健康的に
巷に流れる。
ブラスバンドで「錨を上げて」、「星条旗よ永遠なれ」などの
行進曲で行進し花見を盛り上げた。
ビートルズが登場、金持ちの友人が持っていたオープンリール
のテープレコーダに録音して遊んだ。
修学旅行のバスの中で「あの日の海は二人のために輝き・・」
と合唱、このころ7000円でギターを買った。
「黒猫のタンゴ」、「夜明けのスキャット」。
「神田川」のような生活。井上陽水、「知床旅情」。
サイモンとガーファンクルは英語の勉強になった。
岸洋子の「夜明けの歌」、「希望」も良かった。
中島みゆきの歌とのつきあいも長い。最近は車の中では
もっぱら中島みゆきの世界に浸っている。
食欲は・・・ (UO座)
「食欲は食事の時にやってくる」を座右の銘にしている人がいる。
太古の昔、地球上にアメーバーが発生してクラゲ、魚、爬虫類、鳥、
哺乳類と進化を続け、ネズミ、猿、人間と脳の大きさが大きくなって
きたのであるから、人間の精神活動こそが進化の最前線なのであろう。
脳が楽しいと思うか、ストレスを感じるかは考え方しだい。
人は言う。
悲しいから泣くんじゃない、泣くから悲しくなるんだ。
労働が苦しいからつらいのではなく、つらいと思うから労働は
苦しいのだ。
好きだから恋人にするのではなく、恋人にしたから好きになって
しまうのだ。
冬近し (UO座)
また寒い季節がやってきた。
街路樹は葉っぱを落とし、夏には隠されていた枝の複雑な構造をあらわにしている。
根から吸い上げた水分を葉の末端まで供給する、枝の造形だ。地上に落ちた葉達は不思
議とほとんどが裏返っている。
乾燥した空気で微妙に反り返り具合が違うからとは思うが、秋の道端には、ハデな赤が
少数派のほうがバランスが良い。
寒くなるうえに昼が短くなるのだから一段と気が滅入る。
ただ夜が一番長い冬至から2ヶ月ぐらいしてから一番寒い日がきて、一番寒い頃は日差
しが伸びて春分の日が近いという自然の巧みなズレは気持ちを少しばかり楽にしてくれ
る。
人類はアフリカで生まれたので生物学的に寒さが嫌いとの説もある。だから寒い季節が
来ると景気づけに歳末大売出しをしたり、クリスマスの飾り付けをしたり、忘年会をや
ったりするらしい。
外気が6℃ぐらいになると、毛皮を捨てた肌との温度差は30℃にもなる。厚さ1セン
チぐらいの衣服で温度傾斜は30℃を保つのであるから衣服の調節機能はスゴイ。熱が
逃げていくのだから、やはり腹は減る。自分の体の温度を下げて餌を食わないようにす
るカエルやトカゲはエライ。カエルどもの暦は3月から始まるのであろう。
関東平野は寒い冬は晴れが続き、木の枝も葉を落とし、太陽の光が地表を暖めてくれ
る。ありがたい。空気の澄んだ寒い日は燃えるような夕焼けだ。夏の間は見えなかった
低い山々がシルエットになって見える。
閉所恐怖症 (UO座)
イギリスの地下鉄はチューブと呼ばれているらしい。穴を掘るコストを節約するためか電車の
車体とトンネルの壁が接触しそうなほどすれすれとのこと。考えただけでゾゾッとする。
以前、山の中の林道をドライブしていたら小さなトンネルにであった。車1台がやっと通れる
幅だ。中を覗くと漆黒の闇。もちろん出口は見えない。入口に「先入車優先」の看板。闇の向こ
う側にヘッドライトがチラチラしていないことを確認して意を決して走りこむ。
こんなところではちあわせになったらバックできない。
早く抜けたくて加速する。無事通過。
ミミズの気持ちがよくわかる。土の中で淋しくないのか。
このような時は脳の無い(?)のが幸いである。
いくら掘り進んでも周りの景色が変わらないのだから
進んだという達成感には欠けるのだろう。
鍾乳洞や洞窟探検でヘルメットがやっと通るぐらいの岩の隙間をくぐりながら奥へ奥へ入って
行く場面を見るが、見ているだけで胃から出血しそうだ。
新幹線でも簡単に日除けを下ろしてしまう人が多いが外の広々した風景も見ないで外界と遮断
された単なる箱と化した乗り物が時速250キロぐらいで進んでいくのも気持ちのよいものでは
ない。
昔、東京に出てきた頃に地下鉄に乗るのが怖かった。崩れてきたらどうするのだ。あるとき地
下鉄の工事現場を見ていたらUの字に穴を掘って上にフタをしていた。フタであればなべと同じ。
道の脇の下水溝と同じ。崩れるわけが無い。それ以来気持ちは楽になった。
縄文を食らう (武ちゃん)
ここのところ五穀飯(実は11穀ですが)に入れこんでいます。黒豆、大豆青豆、丸麦、はと麦、
もちきび、もちあわ、ひえ、そば、押し麦、白米をブレンドしたものを「ラ・クルーズ」の頑強な
がらも美的な鋳鉄鍋で炊き上げています。かまど炊きの効果を狙ったものですが、確かに成功して
います。あくまで甘く、粘りよく、香りよし。米粒も薄紫色に衣替え。
大きさと色の異なる11の個性が集まって、単体では決して出しえない、そこはかとない深い味
わいを提供してくれます。縄文の時空から届けられた味だと思うと一噛み一噛みの咀嚼行為が自然
のエネルギーの注入作業に思えて、ふつふつと喜びが湧き上がってきます。山菜と五穀、それに味
噌漬たくわん(一切れの、さらに5分の一程度でなければならない)を口に入れじっくりと噛み込
めば、なお一層、全ての素材が生き生きとして、惜しみなく自己の特質を発揮してくれます。その
とき、縄文時代の竪穴に座る自分を意識することができます。このエネルギーは大切にしなければ
と真剣におもっています。
食と自然 (武ちゃん)
土つくり⇒野菜つくり⇒収穫⇒料理つくり⇒大切に戴く⇒幸せつくり。
畑を訪ねてくる小鳥や蝶や虫、根の伸び具合、土の状態を楽しみ、
食ったり食われたりで成り立つ自然の摂理を思い「品の良いけちけち精神」で、
大量生産、大量消費を良しとせず、
これを21世紀を生きる地球人の心得とする。
だまされた (UO座)
昔から人にだまされたということがほとんどない。だまされていても気が付いていないのかも知れ
ない。最近では昼飯を食いに入った食堂でミックスフライを頼んだ。フライドチキンのような肉のフ
ライが5個に干からびたような鯵のフライが1個。2種だ。日ごとにある程度内容が変わるのはかま
わないが、4種、最低でも3種はキープしていないのであればミックスと言って欲しくない。
小さい頃、駄菓子やで甘納豆を5円で買っていた。袋の中にくじがあって、だいたいがはずれ。1
等、2等の景品がいつまでもぶら下っている。あるときアルバイトをして問屋さんから到着した甘納
豆の台紙を見たら1等、2等の当りの入った袋が台紙の後ろに分れてある。店の人はこれを引き千切
って店に出すのである。景品がいつまでもぶら下っているはずである。大人の世界のズルさをみたの
であった。
新婚の頃、妻は電気の検針に来たおじさんにお茶とお茶菓子でもてなしたそうだ。妻は田舎から出
てきたばかりで、田舎流でやったらしい。おじさんはとても恐縮していたらしい。ある日、カツギ屋
のおばさんが最後の1本といってファシアータという花を売りに来た。これが売れれば千葉まで帰れ
るとのこと。買った。あとで花屋さんでみてみたら3倍の値段であった。花も首から折れていたのを
挿しこんであった。
50年も前のことになるが、我が家は都会から田舎のほうに引っ越していった。村に男が鶏を売り
に来た。袋の中には鶏と、ごていねいにも卵が入っていたそうだ。私の母はそのとき鶏を飼いたかっ
たので卵を良く産む若い鶏と思って買ったらしいがその後は卵を産まなかったそうだ。今思うと老鶏
を若鶏と思わせるために、男が中に卵を入れておいたのだろう。
日本橋から上野まで歩きまくり…平成13年8月17日 (しろまめ)
地下鉄東西線日本橋で下車。普段日本橋には全く用事がないので来ることがないが、今回は高島屋で、
亡くなった皇太后の絵がみられるというのでぜひみたいと思い来てみた。平日なので人は少ないだろう
と思っていたが、じいさんばあさんでいっぱいだった。考えてみればこの人たちにとっては平日も休日
も関係ないんだった…会場は白髪頭だらけ、孫世代の私の黒い頭は変に目立つのであった。それはとも
かく、絵だけではなく写真もたくさんあった。人形を抱いていたり、ヴァイオリンを弾いていたり、数
多くの写真の中に「やんごとなき」人々の日常が垣間見られて非常に興味深かった。結婚のときに十二
単を着ている写真は美しくてお雛様のようだった。
さて、美しい絵と写真をみた後にはどこへ行こうかと考えたが、日本橋周辺には特に何もないと思い、
歩けるところまで歩いてみようと決めた。日本橋を渡ってひたすら歩く。途中、地下鉄の駅の入口があ
り、駅名を見て自分が今小伝馬町にいることがわかる。まだ歩く。馬喰町駅の入口も通り過ぎた。馬喰
町辺りは問屋がたくさん。服問屋がほとんどだが、花火やアクセサリーもある。どの店の入口にも「素
人お断り」の張り紙。人形やおもちゃの問屋もあった。
浅草橋を超えて浅草へ。
浅草寺を抜けて上野方面へ。
途中で河童橋へも寄ってみたが、ここまで歩いてきたらさすがにくたびれた。頑張れば日暮里まで歩け
そうだけれど、この日は上野をゴールにした。
丸井の横の岡埜栄泉で豆大福を買って帰った。
●本日の出費
東西線日本橋駅まで…190円
フルーツサンドイッチとアイスティー…千疋屋にて1470円
ペットボトル入りお茶…131円
切手…650円
岡埜栄泉にて豆大福購入…1250円
JR上野駅より…130円
「近美」そして裸の大将…平成13年8月11日 (しろまめ)
地下鉄東西線竹橋駅下車。東京国立近代美術館工芸館へ。美術館は改装中。今回、工芸館でみること
ができるのは「くらしをいろどる」展。館内は6つの部屋に分かれている。
1つ目は「装う」の部屋。着物と着物に関する絵や小物が展示されている。着物の柄がとてもよい。
帯留もいろいろ。もちろん絵もすばらしい。
2つ目・3つ目の部屋のテーマは「味わう」。野菜の絵やお茶の道具、茶室まである。驚いたのは茶
しゃくや茶せんまで美術品として展示されていたということ。単なる道具の茶せんと美術品の茶せんは
どこが違うのか?わからない。
4つ目と6つ目は「住む」の部屋。実用的とはいえないデザインの籠や時計があった。5つ目の部屋
は「こどものくらし」。子供をモデルにした絵や人形のコーナー。御所人形が気味悪い。それよりも岸
田劉生の「麗子肖像」があってびっくり!ここでみられるとは思わなかったので嬉しかった。顔も手も
でこぼこしていてリアルだった。嬉しくてしばらくみていたら、中学生ぐらいの女の子の集団がどやど
やと入ってきてギャアギャア騒ぎはじめて非常にうるさいので逃げるように出てきた。カラスの集団よ
りもうるさかった。私も中学生の頃はあんなふうだったのかもしれない。
北の丸公園の中を通って九段下まで来て、地下鉄に乗って大手町で降りる。大丸ミュージアムで山下
清展をみる。今年で生誕80周年とのこと。とにかくたくさんの作品が展示されていた。ひとつひとつ
ゆっくりみたいが、人がいっぱいで後ろからは押され、前は詰まって進めず。展示の最後のほうには遺
品もあり、放浪するときに背負っていたリュックサックまであった。それにしても人が多かった。
JR東京駅より帰宅。
●本日の出費
東西線竹橋駅まで…190円
近代美術館工芸館にてポストカード購入…960円
半蔵門線九段下駅から大手町駅まで…160円
スパゲティとアイスティー…大丸東京“SABATINI DI FIRENZE”にて2047円
大丸ミュージアム入場料…700円
大丸ミュージアムにてポストカード購入…450円
JR東京駅から…160円
上野動物園…平成13年7月15日 (しろまめ)
地下鉄千代田線千駄木駅を降りる。目指す店はいせ辰。小さな店の中に千代紙や千代紙を使った小物
があふれている。来るのは2度目。1度目は迷って交番で道を尋ねなければならなかったけれど、今
回は迷わずに来れた。扇子を買うつもりで来たが、「いいお値段」だったので断念。おとなしくポスト
カードを選ぶことにした。暑中見舞いにぴったりの、金魚模様の千代紙のポストカードがあったのでそ
れに決めた。それにしても、いろいろな千代紙があって見ているだけで楽しい。
根津に向かって歩く。次なる目的地は武久夢二美術館。ここも2度目。武久夢二だけでなく、高畠華
肖など昔の挿絵画家の絵も展示されている。今回は、マンガもあった。あんみつ姫をはじめとする昔の
少女雑誌に載っていたマンガが、かなりのスペースをとって紹介されていた。どれもほのぼのしたスト
ーリー。セリフがいかにも昔っぽくて笑えた。ところで肝心の夢二だが、絵の中の人物の着物の柄や組
み合わせをみるのが楽しい。夢二デザインの千代紙もすばらしいセンス。夢二は雑誌の連載ももってい
て、読者から寄せられた日記を誌上で添削したり、デザイン画を募ったりしていたらしい。そんな雑誌
のページも展示されている。当時の女学生はリアルタイムで夢二と関わることができたんだなあ…うら
やましいかぎり。
興奮覚めやらぬまま上野まで歩いて来た。暑い。せっかく上野まで来たので動物園に行くことにする。
久しぶりの動物園。暑いけれど頑張って歩いた。全部みるまでかなりの行程。オカピがいた。前からい
たっけ?ズーラシアにしかいないのかと思っていたけれど。新しく爬虫類館ができていたが、パンダや
クマなど「むくむく系」がかわいい。
帰りはまたジョナサンへ寄ってしまった。ちょうど歩き疲れてお腹もすいたところにジョナサンがあ
るもので…。
谷中墓地を抜けて日暮里から帰る。
●本日の出費
千代田線千駄木駅まで…160円
いせ辰にてポストカード…630円
サラダ、スープ、ウーロン茶…根津駅前“モスバーガー”にて556円
武久夢二美術館入館料…800円
ペットボトル入りお茶…150円
上野動物園入場料…600円
スパゲティとドリンクバー…根岸“ジョナサン”にて1207円
雑誌…620円
あさがお祭…平成13年7月7日 (しろまめ)
地下鉄日比谷線三ノ輪駅で下車、台東区立一葉記念館へ。樋口一葉の自筆原稿、遺品が展示されてい
る。原稿は達筆すぎて判読不可能、それよりも遺された写真や身の周りの品々の方が興味深い。写真の
一葉は気の強そうな顔をしているが、遺品の櫛や紅入れからは女らしさが感じられる。一葉の作品その
ものには興味はないが、明治の東京の下町に生き、24歳の若さで亡くなったという、その生涯にはな
ぜか惹かれるものがあってこの記念館に来てみた。小さな記念館だった。
入谷まで歩く。この日は鬼子母神のあさがお祭。たくさんの人出。ゆっくり見物する気で来たけれど、
人を見るだけで疲れたので逃げるように上野まで歩いていった。せっかく上野まで来たので、数年ぶり
に国立科学博物館へ行ってみた。歴史ある博物館なので展示物にも年季が入っており、剥製はバサバサ、
ホルマリン漬けはふやけきっていてコワイ。そういえば昔、ここでやった企画展で夏目漱石の脳を見た
っけ…と、6年前を思い出したのであった。
そろそろ帰ろうと思ったが、今日はまだ「お茶」をしていないことに気づき、“ジョナサン”へ。な
ぜ私はこの時ジョナサンへ入ってしまったのか、下町の風情のあるところでお茶を飲みたかったのに!
でも歩き疲れていて、とにかく座りたくて、ジョナサン。そこでしばし休憩。
ジョナサンに別れを告げ、日暮里駅目指して歩く。桃林堂で五智果を購入。学生らしき女の子たちが
水羊羹を食べていた。今度は私もここで水羊羹を食べよう…鯛焼きもおいしそう。お店の構えが昔らし
くてよい雰囲気だった。五智果は以前から食べてみたいと思っていたので買うことができて満足満足。
谷中墓地を抜けて、常磐線日暮里駅から電車で帰宅。
●本日の出費
日比谷線三ノ輪駅まで…160円
台東区立一葉記念館観覧料…100円
雑貨屋にて石けん2個購入…650円
ビビンバセットとウーロン茶…上野“絵のある街”にて819円
国立科学博物館入館料…420円
レモンのケーキとドリンクバー…根岸“ジョナサン”にて577円
桃林堂にて五智果2種購入…1365円
北の雲水・どべっこ記
本州最北端に居を構え、時々中国への旅に出ます。
飛行機に乗るまでの国内の旅が長いです。
万里の長城
中国の人々は、一生に一度万里の長城に立つのが夢と聞く。
二十数年前、始めて万里の長城へ登った。朝、北京駅から
火車(フォーチョー・汽車)で3時間、途中、火車は前後を換え鉄路を
上った。八達嶺に到着、原っぱに降り徒歩で長城へ向かった。男坂・女坂、
中国各地から多くの人々で賑わい、その雄大な姿に深く感動した。
当時麓には唯一小さな売店があった。
十数年前、青森ねぶたに同行、北京に行き再び長城を訪れた。
山道をバスで2時間半、雄大な姿は変わらなかったが、長城の麓には
いくつかの売店が出来ていた。
一昨年三度長城を訪れた。高速道路で一時間と少し、途中大きな
ドライブインで昼食をとり長城へ向かった。大きな有料駐車場には
小さな売店が100店以上、映画館や有料トイレの客引きまでいた。
長城の登り口では、籠を担いだ一団が鉦や太鼓でお祭り騒ぎ、登ると
十メートルごとに物売りが立ち「千円・千円」と叫ぶ。息も絶え絶え
「不要(プーヤォ)・不要」、長城の頂(いただき)にも物売りは
待構えていた。万里の長城はいつも雄大な姿で迎えてくれるが、服務員の
呼び方も同士(トンジー)から小姐(シャオチェ)に変わり、中国は
大きく変わった。
しおがらさんぺ
下北(本州の天辺)の大畑漁港は、昔全国のいかの半分を水揚げしていた。大畑を訪れると
町は「いかのカーテン」で被われていた。前浜で夜に獲られたいかは、未明に港へ水揚げされ
出荷される。魚屋が早朝自転車で、「いかいがー!いかいがー!」と町を売り歩く。いかは朝の
食卓に刺身として出されるが、地元ではごく普通のおかずであった。刺身にすると足と耳が残る。
これを腑(ふ)を使い塩辛にするが、足の塩辛は生では堅く食べづらい、そこで七輪に銅(あか)がね
の小鍋をかけ焼いて食べた。じゅーじゅーと焼けて半生くらいが濃厚な海の味がして美味しい。
あまり焼きすぎると身が小さくなり、汁は煮詰まってしょっぱくなる。塩っけが強いので、たくさんの
大根おろしを加えて煮たものをしおがらさんぺ(塩辛三平)という。大根おろしでしょっぱさも
やわらぎ、鍋から直接これを真っ白なご飯にのせてかき込む。冷めたのもまた美味い。子供の頃
私達のおかずだった。いまでもときどき市販の塩辛でしおがらさんぺをつくり、食事の時や酒の肴
と重宝しているが、今つくるしおがらさんぺは、塩辛の添加物のせいか、昔なかった青くび大根の
ためなのか、子供の頃とは一味違う。
(北の雲水)
丁塚(ちょうづか)
下北(本州の天辺)には日本三大霊場の一つ恐山がある。子供の頃、小学校高学年の遠足は恐山だった。
曲がりくねり、上り下りの山道が13kmほど続く。この道沿いに石で出来た丁塚(高さ1m)がある。
街道の起点には壱百弐拾四丁の丁塚が立ち、歩くほどに丁塚が一丁一丁減ってゆき、それが歩く
私達の励みとなった。三分の一ほど進むと一目三望(ひとめさんぼう)があった。木組みの展望
やぐらは、南は陸奥湾、東は太平洋、北は津軽海峡を望むことができた。山道はきつくなり、
さらに三分の一ほどで「冷(ひ)や水」に着く、山の湧水でのどを潤し、アルミの水筒を満たした。
ここまで来るとあと一息、まもなく、急な長い下り坂となる。下って行くと強い硫黄臭がし、
宇曾利湖が目に入る。カルデラの湖水は PH 3.5と強い酸性だが、国内で唯一「うぐい」が生息する。
坂を下れば湖畔の平坦な道となり、やがて壱丁の丁塚が立つ菩提寺山門に到着する。
私達は本堂にはお参りもせず、お昼を食べると境内に四つある湯小屋へと走った。
境内のあちこちに噴気口が開き、私達はそれを地獄と呼んだ。恐山は5月に開山し、7月の大祭
には「いたこ」の口寄せ(亡き人の降霊)が行われる。
(北の雲水)
香爐峰
下北(本州の天辺)の夏祭りに、田名部まつり(むつ市)がある。昔の下北の総鎮守、田名部神社の
氏子が、ご神体を頂く五台の山車を曳き町々を練り歩く。二階建ての山車は、ご神体の下に
祇園ばやしの囃し手が乗る。この山車の中に香爐峯という”やで”(屋台・山車)がある。
高校時代、年を召した教頭先生が古文の授業で、枕草子の清少納言を取り上げ
「小納言よ、香爐峰の雪はいかならむ」と問う中宮に、清小納言は高々と御簾(みす)を巻き上げた。
という逸話を話し「新町の”やで”のことさ」と教えてくれた。
昨年、中国江西省へ渡り、廬山(ルーシャン)を訪ねた。省都南昌から車で三時間、古くから
仏教の霊山で、景勝地として有名な廬山の麓、正街に着いた。有数の避暑地で、亡き毛沢東や
蒋介石夫人宗美齢の別荘がある。如琴湖のほとりをぬけ、二時間のトレッキングで、幽玄の世界を
堪能した。廬山は「春山は夢の如く 夏山は滴の如く 秋山は酔の如く 冬山は玉の如し」と言われ、
古来より多くの詩人に愛された。下山の途中、淡水湖では一番の湖”ポーヤンフー”を望み、長江の
要港九江から船に乗った。廬山には、蓮花・双剣・天池・石耳・鶴鳴など九十九の峰々があり、
ここに香爐峰があった。
(北の雲水)
田植えもちつき踊り
大正月は男のものであり、小正月は女・子供たちのものである。小正月に限って行われる
下北(青森県最北)の伝承芸能に、田植えもちつき踊り(県無形民俗文化財)がある。
伝承芸能は、とかく男が中心で、暗く感じるが、この田植えもちつき踊り
だけは若いあねさま(奥さん)たちが踊り、華やかでその場をぱっと明るくしてくる。田名部
(現むつ市)近郊の農家のあねさまたちが、晴れ着に赤い腰巻をつけ、たすき・手甲と白い
鉢巻姿に、はなにおしろいを一筋塗り、小さな杵と臼をもち家々を巡る。一行は、唄かけ、太鼓・鉦
などのはやし方、踊り手
などに分かれ、かなりの人手となる。「そろた、そろうたト 餅つきぁそろうたー稲の出穂より
よーくそろた」あねさまたちは小さな臼をかこみ、えんどり(あいどり)と搗き手に分かれ、
餅をつく姿を再現しながらしながら愉しそうに踊る。「搗(つ)けたが搗けたがコリャサノサ」
と唄とりから合いの手が入る。真っ白な雪の街道で、艶やかな衣装のあねさまたちが踊る姿は、
小正月気分を一気に盛り上げてくれた。この日だけは、農作業や家事から開放され、あねさまたち
にとっても愉しいひと時であろう。
(北の雲水)
喜烟(シーイェン)
>昨年、中国の遼寧省へ旅に出た。途中瀋陽から150kmほどの本渓鍾乳洞へ行った。
本渓は満州族の本拠地。昼食の給仕をしてくれた小姐(シャオチェ)も
満州族の丸顔で可愛い娘だった。食後、鍾乳洞へ入り、ボートに乗り洞内を巡った。途中、運転
していた若者が私に煙草を一本差し出した。折角なのでこれを頂き、ポケットにあった日本の
煙草の封を解き箱ごと彼に返した。彼はポケットからキーホルダーの小さなナイフを私にくれた。
言葉は通じなかったが心は通じた。次の日、国境の街丹東から大連までバスで移動した。途中大きな
街のホテルで昼食となった。昼食を終え出口へ行くと、披露宴を終えたばかりの新郎新婦が、
喜烟と喜糖(シータン・飴)を配っていた。中国では結婚式で煙草と飴を配る風習があり、
出口へ行くと異国人の私にも手渡してくれた。謝謝(シェーシェー)とお二人にお礼を言い、
バスに乗り、車上からお二人の幸せを祈った。二十数年前、旅行が解禁となったばかりの中国を
友好訪中団の一員として訪れた。二週間旅をともにした中国国際旅行社の鄭さんが中国では
人とのつきあいに、煙草が大事な役割を果たすと、若い私に教えてくれた。
(北の雲水)
ねんぶつまわし
私達が子供の頃は、公園というものはなく、遊び場は神社の境内か街路だった。
車もほとんどない時代、特に街路は子供たちの格好の遊び場だった。
「たすけ、まるがっこ、ひゃく」や「パッチ(めんこ)、釘さし」など遊びの種はつきなかった。
夢中で遊んでいると、カンカンカンと甲高い鉦(かね)の音(ね)が聞こえてくる。私達は
遊びをやめ鉦の音に惹かれるように走り出す。鉦の音で近所の”ばっちゃ”(おばあさん)
たちが表へ出て来る。大きな数珠を抱えた”ばっちゃ”たちが鉦をたたきながら行列をし、
やがて道の辻で止まる。長さ10メートル、小さな団子くらいありそうな玉の数珠を囲み
ねんぶつまわし(百万遍)が始まる。念仏に合わせその数珠は”ばっちゃ”たちの手でくるくると
何回も何回も繰られる。当時よく見かける風景だった。百万遍は浄土宗(本山京都知恩寺)
に伝わる浄土往生を祈念するためのもの。昔、疫病がはやり、これを治すため七日間、百万遍の
念仏を唱えたところ、これが治まったという故事からはじめられたと言う。今では、自動車が
多くさすがに外で百万遍をみることはないが、お寺の”法会(ほうえ)”やお通夜の場で
行われていると聞く。 (北の雲水)
めんくい
そばが好きで日に一度は麺類を口にしないと”あずましくない”。「心地が良くない」の方言)。
”そばきり”といい、年の瀬には親しい農家の方から折箱(21個入)
に入ったそばが何枚も届いた。当地の年越しそばである。昔の人は折りで一枚・二枚と食べた。
青森県の北端、下北は”やませ”(低温多湿の偏東風)で ”けがじ”(飢饉)の常習地帯であるが、
そばは貴重な救荒作物だった。アジアは麺の宝庫、本家中国は言うまでもなく、東南アジアの国々にも
いろいろな麺料理があって楽しい。昨年ヴェトナム(南越)を訪れた。街には屋台のそばやがあちこち
にあり、現地のガイドに聞いたら一杯5000ドン(40円)。地元の人の多くは、朝、屋台でフォー
(米のうどん)を食べ職場へと向かう。ホンカイ(ハロン湾)のホテルに泊まった。朝食は洋式と
アジアンスタイルで、ためらわずアジアンスタイルを選んだ。ご飯、饅頭、お粥のほか中華麺や
フォーもあった。小肥りのおばさんにフォーを頼んだ。目の前でお湯でフォーを暖め、熱いスープの
中で水牛の肉をしゃぶしゃぶと洗う。パクチー(香草)や半切りのライムを添えて出してくれた。
地元の人は好みでニョクナム(魚醤)をたらす。(北の雲水)
どべっこ
今年の下北(青森県の最北地)は雪が多い。真っ白な雪が降ると、子供のころ母が作ってくれた
”どべっこ”を思い出す。おやつもままならない時代、一日中雪の中で遊び、疲れ、
冷え切った体を暖めてくれる美味しい飲み物だった。とはいっても特別なものではない。作り方はしごく
簡単、酒粕と砂糖を使っただけのシンプルなもので、即席の甘酒のようなものだった。甘酒は麹を使い
発酵させるが、”どべっこ”は酒粕を水に漬けふやかしたものに砂糖を加え、よくかきまわしてただ
暖めるだけ、貧しい東北の生活の智恵かも知れない。当時の酒粕は、何回も絞りをかけ、カチカチに
固く、茶色い酒粕が多かったが、母はあまり絞りをかけていない真っ白な酒粕が手に入ると、それを
とっておき、”どべっこ”に使ってくれた。”どべっこ”の語源は、どぶろく(密造酒)から
きていることはあきらかだ。真っ白でふわふわしたぼたん雪をみると、こんこんと燃える薪ストーブに
顔を焼かれながら、ストーブの鍋から茶碗に汲み、凍えた手で茶碗をかかえ、ふーふーしながら飲んだ
”どべっこ”のことが思い出される。(北の雲水)
謙さんの中国記
昭和32年正月の頃、地元の人が公園を造るために土地を提供してくれた。
近所の人達が総出で鍬、スコップ、鎌などを持って腰弁当で雑草と笹薮を開拓した。
やがてここは地元の花見の名所となった。毎年桜の時期になると当時のことを思い出す。
杜康酒 (トウカンチュウ)
戦前、私の家の向かいに「駒屋」という旅人宿(はたごや)があった。そこのご主人の
T・Yさん(故人)は書画骨董の売買を商売としていた。たまたま遊びに来て床の間の掛け
軸を是非譲ってくれと言う。当時としては、高い値をつけられたのでますます手放すのが惜
しくなり、今でもその掛け軸「竹林の七賢人」を大事にしてもっている。
ところがその後中国に転戦し、銘酒「杜康酒」を知り、その由来を聞いてびっくりした。
「杜康酒」は中国河南省汝陽県杜康村で造られる蒸留酒で、周の時代(紀元前、1200年)
酒造りの名人杜康がこの地で高梁を原料として造った”幻の酒”といわれ、地名も彼の名
に因み、杜康村になったという。
「竹林の七賢人」の1人、儒学者がこれを飲み、3年も酔いがさめなかったということで
、「一酔三年の杜康酒」と評され、幻の銘酒として古い文献にも書かれ、今でも広く愛用
されている。その人物がうちの掛け軸に描かれており人物の置物も、その儒学者だと鑑定
されたのであった。それ以来、その奇縁に驚き、ますます大事に秘蔵していたが今はない。
註)「竹林の七賢人」は、中国普代の隠士たちで俗塵をさけ竹林に篭り、放逸世に背きて
遊をなす、と称して清談を事とした。当時の儒学者たち。
註)日本で酒造りの職人を「杜氏」というのは、杜康の名に由来する。
老酒(ラオチュウ)
老酒には北と南の二つの系統がありいずれも醸造酒で十五度ぐらい。北方系は餅粟に
糀を加えて造り、古いほど良いとされる。色は茶褐色で一般に黄酒(ホワンチュウ)とも
いわれている。また魯迅の生まれた紹興は特に知られた名産地で紹興酒ともよばれている。
昔、紹興の習慣では子供が生まれると母親が乳を飲ませる前に「苦い、辛い、酸っぱい、
塩辛い、甘い」の五つの味を、順番に赤子の口の中につけた。これは人間の生涯は、この
すべての苦労を味あわなければ大成しないという戒めで、それから子供の誕生を祝い、
無事成長を祈る意味で、老酒を造り瓶に入れて密封し、土地に埋めておく。やがて歳月が
たち、子供が立派に成長して結婚する日には、土中から瓶を掘り出して、その酒でお祝い
をし、客に振る舞った。だから二十年はたっている。
古い思い出をたどれば、昭和十六年秋、中国北部の山西省離石県の方山鎮という
集落へ行った時のことである。集落に入って行くと赤い旗をたて赤い服を着た集団が、鉦
や銅鑼を鳴らしながらにぎやかにやって来るので、通行人に聞くと、花嫁行列とのこと。
真っ赤な棉襖(綿入れの上着)に緑色の棉褌(綿入れのズボン)、頭と顔は、これも真っ赤な
絹布でおおい、足には綉花鞋(赤い花柄の刺綉をした靴)をはき、手には秤(竿ばかり)を
持っている。赤系統の服を着た花嫁を取り巻く一団が鉦や銅鑼ではやし立てる。鳴り物入り
の景気の良い行列である。秋とはいっても、まだ暑い日差しである。綿入れの花嫁衣装には
驚いた。綿入れの衣装は、厚ければ厚いほど福があるとされ、夏の婚礼でも使用されるという。
中国では、おめでたい行事は紅事(ホンシー)といってすべて赤を用い、不幸は白事(パイシー)
ですべて白である。日本のように白無垢の花嫁衣装とは正反対で、習慣の違いには驚いた。
そこでご馳走になった老酒の味は、また何ともいわれぬ良い香りの甘ったるい味だった。
花嫁が持った秤は何のためか聞きもらしたが、多分、家事をうまくやるようにとのことらしい。
占守島
終戦の日。その時、私は日本の最北端、北千島占守島(しむしゅ)の警備についていた。
8月15日、停戦命令が出て、何だか急に体から力が抜けたようになり、不安なものが
胸をかすめた。
天気がよい日は、ソ連領カムチャッカ半島のロパトカ岬が肉眼でも見える至近距離にあった。
夏至は夜が二時間ぐらいで白夜を思わせる。冬至は昼が六時間ぐらいで夜は零下二十度にもなる。
兵舎は屋根だけ出した半地下で雪は九月末から降り、十月末、十一月は本格的な吹雪、
年中通してニ、三十メートルの強い風が吹く。吹雪の時は五十メートル離れた兵舎に行くにも
遭難者が出る始末で冬中は兵舎間にロープを張って連絡をとる部隊もあった。
名物の濃霧(ガス)は、五月から八月にかけて特にひどい。曇ガラスで目隠しされたようで
物の判別もつかない状態だが、七、八月の濃霧のはれた日は、高山のお花畑のように美しい。
ツンドラ地帯に咲いたヤマスミレ、野菊、アザミ、山百合、姫シャクナゲ、岩高蘭(雁紅蘭)、
その他名も知れぬ野花が一杯でまさに百花繚乱。風が年中強いので松も地を這っている。
六、七月は小さな川にも、鮭が群をなして上がってくる。島の周辺は戦前、日魯漁業の好漁場だった。
鮭、鱒はもちろん、足の長さが一メートル以上ある足長カニほか何でも獲れた。島の南端の長崎
には缶詰工場があり、四百人ほどの女工さんがいたが、終戦直前、内地に引き揚げた。
我々の食糧はその缶詰に頼るだけで、野菜不足が栄養失調を招いていた。
島にはネズミが多く、三十センチぐらいのものがざらだった。松の実を常食にしていたようだが
以前、銀ギツネを養殖していたそうで、その餌にしていたらしい。
鳥は雷鳥、白フクロウ、白ガラス等、フクロウは食べてもうまかった。冬は、海岸にトッカリ、
アザラシが時々上がった。春と夏のこの島は戦争さえなければ、ほんとうによい所だった。
その戦争が終わって十八日午前零時、突如、国端岬が艦砲射撃を受けているとの電話連絡があり、
続いて、竹田浜より数千のソ連兵が上陸を企画せる模様と伝えてきた。「断固反撃に転じ、上陸軍を
粉砕せよ」との命令が下り、我が方の火砲は一斉に火を吹いた。ソ連揚陸部隊は集中砲火を浴びて
大混乱に陥り、敵の死傷者は三千人をこえた。幌莚島から第七十四旅団などの増援部隊が到着し
一挙に敵殲滅と意気込んだ矢先、軍の停戦命令を受け、全将兵は歯がみしてくやしがった。
我が方の損害は戦死した兵員三百五十人、行方不明三百人、終戦になってからの尊い犠牲であった。
八月十五日の正午以降、アメリカほかの連合国軍は戦闘行為を停止したが、ソ連軍だけは武力行動に
出た。火事泥式攻撃を挑み、掠奪をほしいままにした。その国に三年、四年と抑留され、
強制労働と飢えと寒さで帰らぬ人となった同胞は数万人といわれる。
英霊のご冥福を祈りたい。
汾酒(フェンチュー)
中国山西省の首都、太原を少し南下したところに、汾陽県の都、汾陽がある。この町は昭和15年頃、
日本軍の旅団司令部がおかれて、周辺の町(離石、柳林鎮、平陽、霊石)は郷土部隊が警備しており、
治安も維持されていた。この町は周囲5キロ位の城壁にかこまれた、古くから栄えた所で、家屋は立派な
石造りが多く、叉女の人達も皆きれいな衣服を着て美人が目立った。特に我々をよろこばせたのは「汾酒」
である。これは、汾陽から3キロ位の杏花村が主産地であった。「汾酒」は最も古い「白酒」(パイチュー)
で「茅台酒」(マオタイ)「西鳳酒」の源流ともいわれ、一把柧という高梁(コウリャン)を原料とし、
麹を加えて地面に埋めた磁製の甕に入れ発酵させて造った蒸留酒(65%)で色、香、味は昔から三絶
とたたえられ賞味された。杏花村は唐代の有名な詩人、杜牧の「清明」と題する詩にもよまれた、汾酒
の名産地である。
「清明の時節雨紛紛 路上の行人断魂を欲す 借問す酒家何処にありや 牧童遥に指す杏花村」
汾酒の入った白磁のびんにも、この下の句二句と杏の花が描かれていた。
汾陽には立派なカトリック教会や学校等もあり、商店では日用品は何でもあったが、勿論中国向けで、
その中に唯一つ「ライオン歯ブラシ」と「歯みがき粉」があった。「ああ、異郷の奥地まではるばる
海を越えて、お前も来ていたのか」と、思わずなつかしさに抱きしめたい気持ちであった。
5個買い、本部の同僚に分けてやったのであった。
麻婆豆腐(マーボードーフ)
私たちは太原郊外の荘老人の邸に連絡本部を置くことにした。汾河に沿って柳の木に囲まれた
大きな邸であった。荘老人は四川省から移住し、石炭で一代で産をなした人だ、と後で聞かされた。
固く辞退したのだが、我々がおれば匪賊が寄りつかないということで、夜はいろいろ
ご馳走してくれた。それが何れも辛く、口ものどもやけるような料理ばかり。
麻婆豆腐も出た。「チーター・ツエンマ・ヤン=味は如何ですか?」、「チーター・ヘンハオ・シェ
シェ=とてもおいしい、ありがとう」、あまり辛くても、まずいとも言えない。この辛い味が
四川料理の特徴だという。麻婆豆腐について面白い話を聞かせてもらった。豆腐屋の陳家のお婆さんは
嫁いびりで町の評判になっていた。ある日、突然の来客にご馳走しようと思ったが、酒のつまみに
するものが何もなく、お婆さんは真赤になって怒った。それを見て隣の肉屋に逃げこんだお嫁さんは、
この際、思いっきり辛い料理を出して仕返ししてやろうと考えた。肉屋でくず肉をもらい、豆腐と
一緒に窓にぶら下がっていた真赤な唐辛子を全部油でいため、お客さんに出した。それが大層おいしい
と大評判になり、お陰で店も大繁盛。それから四川料理には欠かせない名物になった、という。
其の後お婆さんとお嫁さんが仲直りしたかどうかは聞かなかった。翌朝早くから老太太(ラオタイタイ
=老夫人)や女達が餃子(チアオウ=ぎょうざ)作りをしている。お祭りや何かお祝いごとがあると
たくさん作り、人々に振舞うのが習慣らしい。それも日本と異なりお汁に入れた水餃子である。
汁は消化を助けると言っていた。主人の食べ残しを、翌朝、使用人が捨てるのも惜しいと油で焼いて
食べたのが、焼餃子の始まりで、それが日本に伝えられたらしい。
洗臉不好(シーリェン・プハオ)
昭和十五年、大行作戦に参加して山西省平定県の娘子関を通過し、陽泉という町に入った時のこと
である。娘子関という関所は立派な城門で、中国の名関に数えられ、今もそのまま保存されている
ようだ。陽泉では、鄭氏の邸宅に連絡本部を設けた。翌朝、我々が顔をジャブジャブ洗っていると、
邸の主人が、「ニーツャオ」お早よう、と出てきて、「洗臉不好不行不行(シーリェン、プハオ、ブシン、ブシン)」
洗面はよくない、だめだめだ、とうるさくいう。よく聞くと当時の中国では、水は貴重で大事に使い、
顔を洗う時も、手を動かさないで顔を動かし、水をこぼさないようにして洗う。冷水(リャンスイ)
生水は絶対のまず、開水(カイスイ)お湯をのむ。ここでも習慣の違いを感じた。
私がトイレはどこかと、キョロキョロ見回しながら歩いていると「シャン、ナール、チュイ」
どこへ行くのか、と聞くから「厠所」(ツォースォー)と答えると、指さして教えてくれた。
何だか二階づくりで、下に黒い動物がいるようなのでためらっていると「那是厠所」
(ナーシーツォスォ)あれが便所だ、と指さす、それは二階づくりの便所で一階は豚小屋、
二階の穴から落ちた産物は豚の餌になる仕組みで、全く驚いた。下には真っ黒な豚がうごめいている。
あずましくないことおびただしい。「史記」によればこれは漢の高祖(紀元前200年)の時代
からの仕組みだと記されている。
罵街
(マーチェ)中国式けんか
争い事があると、日本人はとかく身内だけで収めたがり、匿しておく習性がある。
中国では古より、屋外に出て大衆に呼びかけ、相手と議論し、胡同(フートン=小路、横町)の
人々に訴えるーこれが伝統的な国民性であるらしい。私たちの本部の二、三軒となりに、
李夷簡と徐氏の中年夫婦が住んでいた。彼はなかなかの好男子で、県公社に勤めていると言っていた。
妻君もちょっと美形で、似合いの夫婦と見えた。ところが三日にあげず、派手に夫婦げんかをする。
朝八時頃になると始まる。道路に面した門から、妻君が顔を出し「うちの旦那は、夜明けまで
マージャンをやって、さっぱり私にかまってくれない。いつも公社から帰ると、
すぐ毛大人の家に行く。お金をもうけて来ると言いながら、持って帰ったことがない。
皆さん分かりますか?」 「ミンバイマ」大衆のうちの妻君の応援団は、約半数で
「ミンバイ」−わかったの大合唱。すると夫も負けてはいない。「月給が安いから、金もうけの
ために行っているので、遊びではない。それよりも私の留守中、お前はとなりの若者と、
三時間も話していたそうではないか。人に疑われるようなことはよろしくない。昔から李下に
冠をたださず、瓜田にくつを入れずと言うではないか」夫のほうの応援団も「シーアー」−そうだ
そうだの合唱。妻「毛大人の今度来た後妻は、まだ若く美しいそうではないか」「トイチーフ」
ー全くそうだそうだの合唱。夫「毛大人は私達を世話してくれた人ではないか。誘われれば
行くのが義理だ」「シュオダシ」−全くそうだそうだの大合唱。痴話喧嘩とどまる所を知らず、だ。
それに大衆も義理堅固くつき合っている。それでも、どちらも手は出さなかったようだ。
そのうちに二人去り、三人去って、いつの間にか散ってしまう。本人達も言うだけ言えば、
後は涼しい顔をして、家の中に引っ込んでしまう。作戦に出て、しばらく留守にして帰って
この光景に出会うと、何だか古巣に帰って来たようでほっとし、慰められたものである。
この夫婦は人の好い人達で、よく棗(なつめ)のあんこ入りの饅頭を、持って来てくれた。
裏庭に大きな棗の木があり、熟した実を練って”あんこ”にした甘ずっぱい、なかなかおつな
味である。唐の時代(紀元七五〇年頃)、玄宗皇帝の寵姫、楊貴妃がこの”なつめ”の
味が忘れられず、南の都、長安(今は西安)から、馬を夜に日についで走らせ、北の方から
わざわざ取り寄せた、と伝えられて、うまく得難い味がする。そもそも、この夫婦とは
ひょんなこと知り合った。それは正月に、「ショウハイ」−子供がニ・三人、本部の前で
マリ遊びをしていて、マリが本部の中に転げ込んだ。営門には、濃い髭づらのごつい男が、
剣付鉄砲で歩哨に立っている。子供らは入るに入れず、泣きべそをかいて立っているところ
に通りかかり、マリを取ってやり、家まで送りとどけた。その子供の一人が、李夫婦の
「ショウハイ」であった。