里津子の窓6
人生で大切なものは”孤独の引き出し”です。家族や友人も知らない一生自分しか開けない
引き出し。それぞれが、整理したり何か彩を加えたり要らないものを捨てたりする。ある人
はその中に絵や歌や詩やゲームやメールや様々なものをしまっておくのは言うまでもありま
せん。何も置かないすっきりした空間で安らぐ人もいるでしょう。そこはとても大きなパワ
ースポット。自分の心の中の引き出しです。
******** 「里津子の窓1」の下段に「写真ギャラリー」を移設しました。********
星に届いて欲しい投稿マラソン (2013年9月23日)
多発性肝嚢胞の穿刺治療後1年9か月を過ぎて去年の自分と比べてみると
今年は意外と体調が落ち着いているのかも知れないと思います。投稿マラソン
をしていますので過去を遡ることが出来て有難いことです。ほぼ1年間は
カロナールと胃薬(数か月前から市販XC+)を1日1回から2回と言うパターン
で凌いでいます。特にこの2か月は朝晩飲むという状態です。夏場で疲れが
出やすかったのかいつもより右腹の張り感が強い日が続いたからです。
運動を増やして体重をもっと落として理想体型になりたいのですが老犬とヨロヨロ
散歩30分(運動とは言えない)以上にならず、秋風が吹けば時間を増やしたいと
決意。ここぞという時は方道2時間でも厭わない力は十分にあります。
XCは歯茎の脹れや肩掛け鞄ですぐに脹れる肩の傷やその他粘膜系などに
有効で意外とよい発見かと思っていますがドクターに聞いてみないと解りません。
栄養剤は飲まなくなりました。総合ビタミン剤も2,3回しか飲んでいません。
風邪薬は時々飲みますがカロナールと重ならないように注意しています。
整腸剤は良く飲みます。犬に1錠自分に3錠と言う具合です。最近試している
シウンコウは白斑症のごく初期(しぶき状態)にはとても利くような気がします。
しかしすでに真っ白状態数年のところの変化はまだ不明です。頭皮全体は回復
不可能です。でも白髪染めはいろんなタイプが出ていますので悩んでいません。
又自己防衛能力か(陽射しに対して)毛髪の量が増えてきた気もするのです。
嚢胞内にたまった水のようなものが自然に抜ける方法が早く発見されると良い
のですが。自分の体調、自分の病の事しか注意が向きませんがこんな投稿で
何か役立つことが在るとすればとてもうれしいです。世の中には多くの病気が
存在しますがどれも自分が体験しないと深く理解できないと思います。そういう
難しい世界に住み病人と同じ時間を生きるドクターの存在は希望の星です。
夏のお疲れが出ません様にちゃんとオニギリを沢山食べて頑張ってください。
夢の時間との再会 (2013年9月22日)
偶然六本木ヒルズでインドネシアフェスティバルが土日にあることを知った。身内が
ブースに立つとのことなので遠路だが出かけてみた。いつも美術館周辺から足を
伸ばしていないのでヒルズは20年以上のご無沙汰だ。全くのおのぼりさん状態。
昔は異国のような雰囲気を持つこの街を神谷町地下鉄から坂を上り城山ヒルズを
右に見てビルの中を突っ切ってショートカットしたり道に作られた登りエスカレーター
を利用しながら頂上に一つ目立っていたこのビルを目指したものだ。今ではビルが
複雑に入り組んで増殖しているので良くわからないし探検意欲も湧かない。
洗練されているが値の張るショーウインドウの中の品やおしゃれな若いカップル
はまぶしい。ほかに比較する地を知らないのでついシンガポールと似ているなあと
思ってしまう。この頃坂の多い街と言うのは若い人向きなのかも知れないと思う。
イベントではJKT48代表3人娘が大張り切りで特技を披露してくれた。こういう舞台
を見るのは初めてだが家人もノリノリで滞在するインドネシア人も多く集まり静かに
しかしとても楽しんでいる様子だ。日本のコーヒールンバ&ダンス(ダンドウット)や
美空の歌などを上手に歌っていて可愛らしい。ハラルの屋台風車も出ていてあちらの
焼きそばやラーメン、唐揚げなどと唐辛子ソースの香りで一気にお国気分満点。
出店していた国立銀行のオジサンとぺちゃくちゃ話した。あちらの国でよく見かける
丸顔丸体系丸い優しさに魅かれて家人も交えてお決まりのあちらの渋滞問題や
日本のバイクや車の素晴らしさの話題で盛り上がった。会話はまだ大丈夫そうだ。
外人に対して人見知りしない国民性(内面は解らない)笑顔は素晴らしいと思う。
ヒルズの高額高層アパートに住むと思われる英系&中華系家族がベンチで涼んで
居るのをみて今では日本のあちこちでこういう光景が見られるようになっているん
だろうねと家人と話した。サンダル履きの中華系のおじいさんが景色とマッチして
いて複雑な気分になった。家人が1本だけビンタンビール(あちらの薄味ビール)
の小瓶を買って私のバッグに突っ込んだので心もち重いバッグになる。たまには
こういう刺激も良い。街は沢山どこにでもある。足を向ければ違う世界が見える。
以前は解らなかったことだがこの頃は理解できる様になった事、少しずつ知らない
方向に動いている日本の姿が垣間見れてスリリングだ。
化粧室専属のひと (2013年9月21日)
ジャカルタ滞在生活で強く印象に残る事の一つに化粧室(ピンからキリまで在る)に
必ず居た専属の人。噂ではそこを経由して他の仕事に回されることは少ないらしい。
街中のデパートや近所の巨大ショッピングモール以外の小さな店や郊外などでは
チップ箱というものが入口に置かれていて日本円で10円(あちらではゼロが2個多い
ルピアだ)20円など喜捨するという風だ。ハイウエーを利用するときは特にポケットに
ティシュー&チップ紙幣を入れておかないと後悔した。今ではどうなのか不明だ。
大型店などでは盗難防止という仕事も担っているのではないかと思えた。本屋の奥に
在るところではあまりにじろじろ見られるのでちょっと気分が悪かった。しかし以前は
絶対ペーパーがないと思われたところも数年の後には用意されたので刻々と進化
していることは確かだ。特にエアポートは進化が著しく今では割合と安心できるはずだ。
日本にはペーパー用木材が沢山輸入されたのにお膝元では事情が違っていた。
これは生活習慣による違いからだが。あちらではペーパーではなく水で流すのだ。
化粧室のインテリア、デザインはびっくりするくらい立派なところもあった。アンバランス
なのが玉にきずなのだが欧米の影響だと思う。そういうところでは制服姿の専属の人
がにっこり微笑んで送迎してくれるので思わずテリマカシ(ありがとう)と言ってしまう。
チップも要らない。とに角笑顔が素晴らしい人々なのでこちらもつい笑顔が多くなる。
帰国する前移動時には化粧室に走っていた。街中の場所は市民専用。最近でこそ
そういう習慣から解き放たれたがこれは結構重要な問題であった。当たり前な事が
当たり前でない海外生活と言うものはどれほど沢山存在するのだろうか。この事も
ゆるゆると日本の心地よさに浸りだんだん記憶の彼方に消えてしまうに違いない。
レモンの輪切り、スダチのひとしぼり、グレープフルーツの切り口、&濃いジャワ
コーヒーの香り、おまけに朝日に揺れるジャスミン、丸まると太って風の中で遊ぶ
オリーブの実とレモンバームとバジルの葉のハーブシャワーで思考をリセットする。
ありがとうと言う言葉と笑顔がこの頃とても少なくなってしまったので反省。
期待とハズレと満月 (2013年9月20日)
期待して訪れた遠方の公園は経営状態、植栽や人気のなさに幻滅してしまった。
かれこれ25年以上前のイメージがそのまま維持されているはずもない。
家人とやはり違う公園を訪れてしまったのかもしれないねと話し合った。期待を
裏切られて行動半径を狭くしてしまうかも知れないこれからに注意だ。見慣れた日常
というものから離れて常に冒険を続けてきた10年余り、すでに感覚が違う方向に
進化してしまい昔には戻らないのだ。それが良いのか悪いのかわからないが
見当が付かない場所に放り出されてしまったという悩みがある私たちだ。
気を取り直して沿道の食べ物屋に入った。竹林が多い土地なので春先に沢山筍を
収穫して料理に利用していると見えて筍メニューが多くやたら筍を勧める店主。
筍を冷凍保存したり塩蔵すると味が落ちるのは知っているのでざるそばと筍ごはん
にした。早めに出てきた筍ごはんは白ごまがたっぷりかかり筍の姿はない。家人が
筍の汁で炊いたのかもしれないよジョークのようなことを言った。ミョーガの梅酢漬け
少々、しょうがの千切り少々、卵焼き1片、黒っぽい痩せた柿半分。そばつゆは辛目。
全部庭先から来た素材らしい。野生の梅漬けはタッパーに入れられていて味見した。
最後に抹茶茶碗に入った渋茶が出てきてその渋さですべてがリセット。ひなびた料理
という感想を持つ人も居るのだろうか。往来の激しい車道わきの店だ。新米2キロと
野生の梅漬けを購入してしまった。長靴を履き藪をかき分けて採ったと言う話だ。
ススキと庭先の花セットの花が1本すぐ枯れた。帰路若葉マーク脱出の家人の車内
で初めて爆睡。夜半9時建物の真上から移動して鏡の姿を現した満月はクール、
何も語らず何も諭さない。次回は直行、勝浦朝市だねと気持ちを切り替えた。
これもあれも変化していて出会うものも様々で当然なのだ。ちょっと気持ちが弱く
なったと反省。朝方見た月もただ白くぽっかりと浮かぶばかりで今の自分を映す。
月にどんな姿を映し何を見るのかは自分次第だ。もうウサギの餅つきは見えない。
ボゴールのラワンの板根 (2013年9月19日)
ラワンの故郷はアフリカ大陸でインド大陸プレート移動で東南アジアに広まった
らしい。種類は5百程もあり大半はマレー半島、インドネシア,フィリッピンと検索。
地図で見るとアフリカはインドネシアの横の彼方なのでヒトや植物等いろいろな
モノが移動した歴史が良くわかる。しかしこれは自分の経験から生まれた興味だ。
ワタシも移動してみて初めて様々な事に気が付き対比してみることが出来るのだ。
軽く硬質でラワン合板材として有名になり森林伐採問題や森林破壊問題になった
事を想い出した。今ではマレーシア辺りでしかその森に出会えないらしい。
インドネシアの植物園でラワンの大木とその板根に出会った。公園でラワンの大木
が在る一角はワタシの好きなコースから外れていてウイークデイは車で目的地まで
行き急いで写真やスケッチをしていたので最初の1,2回しか対面していない。
いくら有名な公園でも昼間でも特に1人で行く時は注意警戒怠りなく無駄な行動は
一切避けた。友人たちと行く時は入口から徒歩で入り探検三昧、興味津々。
そのラワンとの最初の出会いは大木すぎて板根しか目に入らずその記憶しかない
のだ。それがフタバガキとも呼ばれていること、そして今目の前にある友人から
もらった羽子板の羽根の形の種がその大木から舞い落ちた一つだということに
改めて感動している。スマトラ松の実は何回も拾いに出かけたがこんな種が落ちて
いことに気が付かずウカツだった。種などを絵にしたいと思っているがそれが放つ
大きなエネルギーに圧倒されてしまいこちらの気持ちを整理しないと仕事に取り
掛かれない。あんなスゴイ板根を持った親の子孫だから当たり前なのかもしれない。
種や実の事を考えると記憶の中の丸い穏やかなやさしいエネルギーに包まれる。
畑が語るさみしさ (2013年9月18日)
抽選割り当て畑に繁っていたムクムクラーメン状シソや栄養失調のキンレンカ、
一人勝ちカボチャはなんだかさみしく夏の終わりを迎えている。カボチャは自家受粉
もしなかったらしく実がないまま畑の片側に吹き寄せられている。ほかに1本の雑草も
無い所が不気味なのだ。なんだかシュールな絵を見せられているようだ。
これに比べてサツマイモは一部の隙間もなくはみ出したツルもカットされて葉が山盛り
のご飯状態だ。これもまた立派に社会派の絵だ。リンゴや枇杷やほかの果物の樹も
植えられているが必死で生き延びている様子に心が痛む。しかしいくら問うてみても
期待されていない畑たちが語ることは皆無だ。
嵐が来て我が家のベランダの鉢植えの半分は部屋の中に避難して他のものは柱
の陰にくくりつけられた。この頃嵐をオビエル家人は管理能力を発揮していろいろと
指揮するが部下は居ないので自分で働いてもらう。ウン十年の間一人で嵐などと
戦ってきたので今更助けられてもと困惑するワタシだ。
とうとう収穫最後になったブルーベリー2個の大きい方を老犬にあげて小さいのを
食べた。二鉢に沢山のプレゼントをもらった夏だ。ハチのお母さんは一度裏側の
駐車場の方に飛んでいく姿を見かけた。嵐を避けてどこかに巣を作ったのだろう。
近所にハチは数えきれないほど暮らしているはずだが知っているハチは彼女だけだ。
ゼラニウムの枯れた葉や茎を取り除きながら先日購入した早咲きクロッカスの
植え時だと気が付いた。色はブルーパール、春に次々と花を咲かせる球根らしい。
カラス軍団と白いプードル (2013年9月17日)
近所の公園でカラス軍団に遭遇した。何かポリ袋の中のモノを夢中で漁っている。
その数は5,6羽。黒い頭と鋭い口ばしと賢しげな目。見張りもちゃんといて
少し離れたところで全体を見渡している。わっと脅かしてカラス軍団を蹴散らして
みたいが勝ち目はなさそうだ。その横をそそくさと通り抜けた。
突然後ろからワワーンと大声で吠えながら犬が突進してきた。見ると中型の白い
プードルがリードなしで走ってきてカラス軍団を蹴散らした。追いついてきた主の
若い女性はリードをつけながらゴミを拾い集めて公園の端のゴミ箱に捨てた。
かっこいいな。物事はこうあらねばならないのだと深く感動しながらよろよろとしかし
一生懸命歩くわが老犬嬢を見下ろす。嵐が去り空も空気も透明なブルーの朝だ。
ヨット、ボラ、連凧の海岸スケッチ (2013年9月15日)
イナゲ海岸の砂浜はきれいだとは言えない。満潮時で日よけ小屋のすぐ前まで
波が寄せていたがその色も人を喜ばせる青ではなく優しげでもない。遠景に
横浜方面のビルの頭やガントリークレーンの影、中景にアクアラインの海ホタル、
左に木更津の工場群が隙間なく並び右のヨット溜まりからは次々にヨットが繰り出され
トレーニングに忙しい。漁船も通過していく。もっと沖には遠洋航路の船やタンカーが
停泊していて結構混雑した景色だ。十数年前に比べるとヨットの数が多い。
ぴょんぴょんと手前の浪間を飛び跳ねる魚は多分ボラだ。干潟や海岸付近に多く
見られこの魚の結構巨大なのが運河を遡上するのも見たことが在る。カラスミは
口にしたことが有るだろうか何時なのか想い出せない。ここで二十年以上前に家族で
潮干狩りをしてアサリやマテ貝を取った記憶はある。日よけ小屋のプラスティックの
波トタンは三分の一以上はがれていて雨除けも出来なさそうだ。地方財政の厳しい
状況を垣間見たが海岸一帯にゴミの姿はなくこれは過去と比べて気が付いたことだ。
海岸線は震災もあり復旧に力を入れてきている。その傷跡などを見ると心が痛む。
家人がアクアラインを試してみるかと問うが残念ながら海底や高所暗所が苦手
なのだ。時間がずいぶん短縮されるらしい。足元を眺めてみると黒っぽい湿気った
砂の上に海藻が干からびているのが見えたが貝の姿はない。温暖気候はこの海岸
の貝の生態にも影響しているに違いない。砂に足を取られながら近くの公園を
目指した。ポンポコポンポコと軽快な南国調太鼓の音が近くなり打ち手を探してみる
と木陰に年輩男性が一人CD音楽とコラボして演奏中。思わず笑顔で会釈した。
午後からの野外音楽祭に向けて屋台が色々と準備されていてマラソンマンや家族
サイクリングと台風前の賑わいを見せている海浜公園通りだ。
昔と同じ場所で連凧を揚げている人達も見た。家人が数えると60枚。昔に比べて
さらに軽くデザインも工夫されている。丸いエイのような凧を一人で揚げている
男性は風が強いのでヨロヨロと前進して凧に負けている。公園を突っ切り最短距離
で駐車場を目指した。すでに陽射しが強くなり若者の時間帯なのだ。
スジ雲&台風日和 (2013年9月14日)
あっという間に消えてしまった雲。朝5時から10分くらいの間の事だった。
1本の長いきれいな飛行機雲のようなものを見上げてアッと思い良く観察してみた。
広い場所で見ると海の方から放射状3本の長い線型雲が埼玉方面に伸びていて
カタチとしてはずうーっと彼方で収束している。瞬く間に朝日が満ちてきてその雲は
ゆらゆらした塊にほぐれて薄く小さく散乱してしまった。そしてただの薄青い秋風の
空に戻ってしまった。方向としてはこれから台風が来る大島辺りからなのだろう。
このところ肝機能が良くないと言える状態になり朝晩カロナールを飲んでいたが
とうとうやたら怠く目がくぼみ、あるのは普通の食欲のみという情けない姿。しかし
わが老犬はゲーゲー作戦に出た。引っ越してから落ち着いていたのに夏の疲れが
出たのか。ポメラニアンは食道が細いらしくそこが原因だと思う。主に気合を入れて
いるとも考えられるので一応感謝もする。うかうか寝ていられないので困るのだ。
今日こそ断食作戦に出ないといけないと決意する。主は何とか普段通りに戻ったが
やたらと右わき腹が張るときは体がどんな状態なのだろうか。あまり計らない熱を
測ってみても平熱。肝臓はぎりぎりまで頑張る。繰り返して弱っていくのだろうか。
ベランダでコーヒーと新聞、犬は角風というパターンを楽しんでいると空に又1本の
はっきりしたスジ雲が現れたが、建物の上にまあるい円を描いて飛ぶ飼い鳩の群れ
に目を奪われている間に消えてしまった。鳩の円は少しゆがんで斜めになりながら
海側に去った。嵐の前の静けさというおだやかな水色の時間が流れていく。
クロアゲハ、蝶柄バティック (2013年9月11日)
ベランダのスダチと山椒の鉢木の周りを大きなクロアゲハがふらふら飛び回っていた。
時々ちょんちょんと葉に接触しているので多分産卵しているのだろう。憂鬱だ。
この二つを購入するときに覚悟はしていたが毛虫やチョウチョが苦手なのだ。
山椒は月見草に負けそうになりかろうじて葉を残しているだけだしスダチも背丈の
割には何の変化もなく貧相な葉をつけたままなので来年に期待している。
枯れてしまい切り戻したバラ同様お引っ越し疲れでまだ環境に慣れていないのだろう。
バティックの模様にはチョウの模様がとても多い。部屋の隅にかけてある布は
ナナス(パイナップル繊維)で作られたものだと思うが(かたくて薄いのでわかる)以前
から鳥が飛んでいる模様だと思っていたのに少々体調不良で臥せっている暇時に
良く見てみるとなんと全部蝶でしかも蛾だ。普通の蝶より蛾の方がさらに苦手なので
ええーっと思い愕然。ムスメはワタシより嫌いなので教えられない。鱗粉やぽってりと
したお腹がダメなのだ。薄茶色の地に白い線描きのろうけつ染めで一見おしゃれだ。
しかし自然豊富で観察力抜群の現地の方は表現力豊かで特徴も見逃さない。
蝶が好きな人には天国だと思うが信州の山里で見たヤママユ蛾(オオヤマミズアオ)
が外の裸電球の光の中でバタバタしていた様子が甦ってしまった。子供の目には
バカデカイ蛾の姿でありモスラほどではないが迫力抜群だった。ヒメギフチョウという
可愛いチョウチョもいた。ウスバサイシンという植物に産卵してその葉を食べて成長
する研究をする先生2人に出会ったこともある。本も出していてその方面の権威
かも知れない。南国にはジャングルなどに青いきれいな蝶が居て良く額縁の中に
納まり売られていたが記憶に残るのはバリで見て写真に撮った黒地に白丸の蝶だ。
小さくて可愛い蝶。家人のゴルフ待ちで一人散策していて同じく一人遊びの欧米系の
男の子とニッコリコミュニケーションしながらカメラに熱中していた時の事だ。
絵の中に登場させて見たい。印象的なことを取り出して絵を作れる幸せに感謝。
ミニスカートと2匹のお散歩 (2013年9月10日)
ジャカルタ郊外の早朝犬散歩時に出会った面白いコンビの事です。モスリムの国でも
色んな人が住んでいますので今では珍しくもないのですが彼女は近所に住みこむ
お手伝いの若い女性でミニスカートをはいていました。一般的にジーンズとシャツが
主流の国なので目についたのです。特にお手伝いの人たちは主のお下がりや
路上で売られているごく安い衣料を着用している事が多い国でした。色んな良くない
考えの主から身を守ると言う必要もあったに違いありません。彼女の主は米国女性
でハイスクールの校長をしていると運転手が教えてくれました。この運転手の従妹は
オフイスで働いていましたし弟も運転手、のちには長男も働き奥さんも英国女性の
お手伝い(料理達人)というすごい一家でした。彼も英国人先生に長く勤めていたと
言うことで本格的なイントネーションの英語を話しました。
ゴールデンと大柄な地元ネコが若いミニスカートお手伝いに従って歩いていました。
彼女は主にそう躾けられていると思いましたが実に堂々と凛として歩いていました。
普通のお手伝いたちはやあー奥様、という低姿勢の人が多いのです。もちろんワタシ
も家人曰くメード頭(何人も雇う家では頭が居る)に見えたらしいです。何しろTシャツと
現地風古布スカート&ゴムゾーリは典型的なお手伝いルックでした。おまけに毎日
犬散歩しているのですから。普通は使用人の仕事なんです。そのコンビはブレーメン
の音楽隊という程ではなくても十分記憶に残るものでした。ネコなんか散歩しない
ものと思っていたので1人と2匹がぐるっと散歩して家に帰るまで一緒なんてスゴイと
眺めていました。そこが好きで長く滞在する諸外国人が多いと感じました。
彼女の主は仕分けのゴミ箱を家の前に用意していました。これは何でもいっしょくたに
捨てると後々色んな人が仕分け処理してくれる国なので、珍しいというか新しい試み
なのでした。もちろん敷地内専用のトラックがゴミ収集に来て持ち去るときはすべて
一緒に放り込むのでどうなのかとも思いましたが。私が帰国した隣人にもらった
自転車もうっかりしていて持ち去られそうになりました。ゴミとしてではなく使用される
為にです。諸外国の長期滞在者は結構いろんな試みや教育に燃えていることなどを
見聞する機会でもありました。
その校長先生の家の前庭にはカカオの実が生っている木がありいつも羨ましげ
に眺めていましたがのちにカカオの実は処理しないと毒があると聞きなるほどそれで
採られないまま(他の動物たちにも)になっているのかと納得。正しい知識かどうかは
不明です。マンゴーなどもいろんな種類があちこちの庭先に在り我が家にはなかった
ので羨みましたが散歩時にいろんな動物がその実を食するためにやってくること
を知り後には無い方が良かったと。実も色も美味しいのや不味いのや大小色々です。
この頃早朝5時から明るくなる空ですが散歩時に背中運動をして空を大きく仰ぎ
パッと下を見ると四葉のクローバーと目が合ってしまいました。出来すぎの朝です。
猛暑を必死で生き抜いた老犬は体調不良です。季節の変わり目は油断大敵。
ダイビングも出来る庭プール (2013年9月9日)
数回の引っ越し後最後に落ち着いたジャカルタ郊外の二つ隣の家の事です。
アパートや平屋、テラスハウス、大型2階建てと様々なタイプの家が100戸位は
集まり一つの村の様になった場所をぐるりと高い塀が囲み4角には門番小屋、
メインの入り口には数人のセキュリティーが24時間体制で使用人の入門カード
チェックやその他の取り締まりに余念がありません。そこはシンガポールか
マレーのオーナーが所有する大手ホテルの系列でもありましたので割合と教育も
シッカリしていた方でした。テニスコート、サッカーコート、バトミントン、バスケ、
スカッシュ、プール,アスレティックと一通りそろい(外人向けにこういう作りは多い)
家賃も会社のドル払いで結構高く日本では住めないと友人たちと噂していました。
ワタシは2度ほどプールを試した程度でしたが若い友人は忙しく運動していました。
事務所の人は英語が達者で各家と事務所オンラインの電話に対応してくれます。
日本人家族は5,6戸位ととても少なく犬がオッケーの数少ない場所でした。
長い間契約者が現れず廃墟状態がひどかった二つ隣の家に英人と現地女性と
2人の幼子+ベビーシッター&お手伝いが下見に来ました。廃墟時代遊びに来た
友人とちょっと探索していたワタシはそこの庭に小さな深いプール状の名残がある
のを知っていました。家は結構立派にきれいに修復され門から垣間見えるプール
も直された模様。ホースで水を入れても居ました。しかし循環や排水が完備されて
いるようには見えませんでしたので気になりました。水があると悪い蚊も寄ります。
ワイルドな環境を楽しむ人々はそんなことは平気なのでしょうか。その友人は2回も
デングに襲われていました。デングも3回目辺りは皮下出血がひどいのも見ました。
洪水の後水が掃けが悪く蚊が多発、大勢の日本人がデングで入院している地域も。
事務所で定期的に辺りが真っ黒になるほどの煙で害虫散布をしては居ました。
また隣に豪州のアーミー一家が越してきたことが在ります。そこの若いご主人が
周囲を警戒する目線と私のそれがシンクロしてしてしまい、勝手口から覗くと
あちらも隙間から覗く、早起き習慣もピッタリ、家族を見るの事はほとんどなくて
スクールバスも家の入口にぴたりと止まり子供は走りこみます。ワタシがお手伝い
の部屋のカギがなかなか開かなくてガチャガチャやっている時は垣根越しにに助け
ようかと迷っているご主人の様子を感じました。その家が気に入らなかったと見えて
直に引っ越してしまい勝手口から家族全員出入りするドイツ人が越して来ました。
日本で隣人をここまで警戒する生活はありませんのでココロから安心しています。
3,4年前に薄めてカップに詰めて頂いた紫雲膏を使用しましたが最近思い出して
薄めない(赤い)タイプチューブ入りを購入して試しています。いくつかの会社から
販売されていて大差ない様子です。花岡青洲が作ったものだと初めて知りました。
病院通いを増やしたくないので少しでも改善するものならと遅まきながら考えて。
白斑より切り傷やけどに効能があるようです。真っ赤なのでちょっとびっくりしました。
旅人のヤシの木 (2013年9月8日)
南国で出会った印象的なモノの一つにタビビトノキ(旅人の木)があります。
住んでいた郊外の家の近くにあったこの木、都心部の大きなホテルの玄関前に
並んでいた美事な姿、ボゴール植物園でと、そう沢山は見かけませんでした。
確か日本でも温室植物園などで見ることが出来るはずです。マダカスカル原産で
扇状に広がった大きな茎に雨水を溜めるので非常飲料水として旅人に利用
されてこの名前が付いたとあります。花や実は見たことが在りません。
乾期と雨季のみの国では人が棲まなくなった住居はすぐに荒廃してしまい次の
契約者が現れるまで放置されますので隣にそういう家屋があると特に夜などは
ホラーでした。契約者が日本人以外だと見違えるほどの家に化けますが慣れない
日本人の契約では交渉が弱いのでそこそこの出来になります。手直しするだけ
の住まいも欧米系は厳しい注文をするらしくその格差にナゼと不満も確かに
在りましたが年数を経て交渉は上達しました。廃墟になるとムサン(狸みたい)
夫婦なども住み着きその他のものもやってくるので隣人はおお迷惑です。
タビビトノヤシとこの廃屋は一枚の絵というか写真として脳裏に在ります。
日本人は夜カーテンを閉めますが、欧米系の家々はカーテンが広々と開けられて
部屋の中のインテリア、ランプ、ローソクなどが展示物のようにしっかり見えました。
彼らは住込みのお手伝いを雇っていたはずですので使用人に注意するだけで
外出したりお休みになったり出来たのです。かえって防犯上良い面もあるのだろうか
と考えながら夕方の犬散歩をしていました。まるで本のページの絵のようにトッケー
(蜥蜴)が鳴き小さな蝙蝠が乱れ飛び、現地人も交えた年配者のサッカーの様子、
プールでの小さな歓声、日本人と違い仕事が終わると家庭サービス優先の人たちで
結構人出が多くなる熱帯の夕暮れ時でした。若い女性が水着姿で芝生公園を横切り
ひと泳ぎを目指しインド人のおばあさんたちは瞑想に余念がありませんでした。
現地の多くの人たちにとっても多分絵本の中の理想的なページだったはずです。
ハチの想い出あれこれ (2013年9月7日)
余りに足繁くハチのお母さんがベランダにやってくるのでとうとう古い昔の想い出が
甦ってしまいました。幼少のころの信州の山裾で5歳年上の兄の後を嫌がられながら
くっついて歩いていた頃の事です。兄は蛙をとっ捕まえてそのモモ肉を真綿糸に付け
てススキの葉の上かなんかに置いておきました。リスガリという呼び名の地蜂で
信州ではハチの子を食する習慣がありました。ハチが巣に帰るルートをあらかじめ
見つけておいてハチが真綿をなびかせて飛ぶとソレッとばかり追いかけるのです。
真夏の青空と正調入道雲と麦わら帽子。澄んだ空気が木立で涼しい風に変わります。
巣を掘り出すときぼろ布で燻したりしていたような。ミツバチより小さなハチだったと
記憶しています。ワタシが幼いころにはまだ猟を趣味にしていた父でしたが母の好み
は至極はっきりしていて肉や刺身(焼く)ハチの子などもっての外なのでワタシも確か
1度くらいしか試したことがないはずです。フライパンでハチの幼虫を乾煎りして醤油
を垂らしていた記憶があります。良い香りで炒るとカタチがわからなくなり食べやすそう
でした。小さな段々のきれいな巣を作るハチでした。昔は貴重なタンパク源摂取という
文化が存在したのでしょうが現代では単に嗜好の問題なのだと思います。
農家の友達にくっついて秋の田んぼでイナゴ採りをしたこともあります。多分今でも
それを佃煮にして食する文化は継承されていることでしょう。カタチの好き嫌いだけ
でヒトにとっては食糧になるという貴重な選択なのだと思いますがワタシは嫌いでした。
兄にくっついて歩いた時代は早朝に出発してウソという鳥をトリモチで捕まえたり、
小川に仕掛けたうなぎのヤナを外しに行ったり、じーっと静かに我慢の子の湖での
釣り。これは成果をバケツに入れて1人で返されたものです。結構共通の思い出が
あります。ヘリコプターによる農薬散布が始まる前の自然に対する信頼が100%の頃。
ハチのお母さんはすうーっと飛びながら今朝も涼しい山風に乗って滑空してきました。
攻撃性の見られない彼女にだんだん親近感を感じてしまい小さな巣の一つくらい
作ってもいいかな、などと言う考えがココロを過りますがブレーキ。タマ地区での
バッタ君の苦い思い出があるからです。それにしても彼女は夜どこかで寝ていて
我が家に飛んでくるのか。我が家に花と言えばゼラニウムとジャスミンのみです。
餌になるモノはありません。極小さなイチジクの木のコレマタ小さなイチジクの実が
完熟しました。ハチのお母さんは何を食べているのか心配ですがこの実は収穫。
老犬嬢の日々の暮らし (2013年9月6日)
涼しい日以外の居場所は部屋のベッドの足元(冷気が溜まる)か玄関の冷凍
ペットボトル横、時折風呂場の中などである。この冷凍ペットボトルは去年から
のアイディアで老犬嬢は首をピタッとくっつけて爆睡する。犬の首や毛のないお腹
辺りは触ってみると相当高温だ。床の上でお腹が熱くなってくるとヨロヨロと少し移動
してドタッと音を立てて新しい場所に倒れこむ。夜中でも夜風が止まってしまうと
暑い、気持ち悪い、エアコンつけろとうにゃうにゃ言いげえーっと吐く真似をする。
エアコンが苦手なのだが犬の為に仕方なく使用して布団を首までかけて寝る。
朝パッと目を覚ましたワタシと起こしに来た犬の目が合うと、吠えないうちに声を
かけ、気分はどう、大丈夫、起こしてくれてありがとうと老齢で丸くなった背中を
なでる。ベッドの隣には犬のおしっこ場があり大判シート4枚にまんべんなく用を
足すので毎日全部取り替える。以前は1枚を器用に使ってくれたのにと思う。
ジャカルタの円ショップではこのシートが一時輸入されなくなり新聞で我慢した
こともある。日本の2倍はする値段なのでとても貴重品で入庫すると殺到した。
しかし彼女は老後の生き方の色々を教えてくれるセンセイなので尊敬している。
ちょっとの隙間に手を入れて引き戸を開ける、または鼻を突っ込んで開ける、
外は暑いよ、風ぴゅーぴゅーだよ、とか雨ザーザーだよということは良く理解
して後追いしない。何よりも入院したりする時はキッと目力強く納得してサッと
踵を返すところが潔い。マタマタ又又やって来て、ごく小さな穴に白い綿のような
モノを突っ込んでいくハチのお母さんと格闘するワタシを見て何を考えているのか。
もう巣作りの季節から遠ざかっているのに困ったものだ。小石突っ込み作戦、
スプレー作戦で応戦している。パタッとテラコッタに羽を広げている姿を見て
アレーっとガラス戸の内からしばし眺めたが、飛び立ってくれたので安堵した。
このハチさんは攻撃的ではない。おしりが黒く縞がない中型。とても勤勉だ。
季語重なりを恥じて・・・ (2013年9月4日)
15年ほど前に少し句会に出ていた程度のものを書いて大失敗でした。
吹く風と秋は季語重なりでした。失礼いたしました。
くろまめさんに手ほどきをお願いしたいです。
その頃作った句を探してみました。
伽羅香流るる先の籠の萩
烏瓜影伸びる先迷い猫
雲間の鴨一鳴きに射る夕陽
ついばまれ冬木に戻る垣根道
神杉の礫の如き寒気団
これは当時の先生の作です。
籾殻のいぶり子が泣き鴉啼き
この先生は絵画的な表現もされて、木々の間を白い傘をさした
女の人が歩く様子を句にしたものはとても記憶に残っています。
確か木々の間を歩く馬の絵もありました。海外の作家だったと思います。
俳句は絵画に似て無駄をそぎ落とし本音(本質か)に迫る作業が面白い
と思いました。干潟を犬と散歩しながらちびノート片手に浮かぶ句を書き
留めていました。不器用なので今日では句は浮かばず絵画のみです。
吹く風に秋のにおいを探しつつ (2013年9月3日)
投稿で薄識がバレバレですがこれは大昔の作です。多発性巨大肝嚢胞などという
難病のようなものが治療まで進んでしまいましたが、この治療まで進むということは
ごく少ないらしく情報も余りなく治療研究も進みにくいのだろうなと気落ちしています。
それでも少数の人間の為に努力を惜しまない医療関係者の方が必ず存在するはず
と思い直してココロを強く持ち直しました。世の中日々進化しているではないですか。
カロナール+胃薬+マイアイデアのビタミンC(これは粘膜かゆみ止め)で割合と普通
に暮らせますが夕方になると右腹が張ってきてこの頃は1日2回飲むことが多いです。
自分の事なので忘れて暮らすことは無理ですが根がプラス思考ですので、前回の
穿刺治療(ミノサイクリン使用)を思い出し、次回もしエタノールを使用したらアルコーに
弱いので今から少し鍛えようと思い夫のビールを毎日ちょっと失敬しています。
外出先ではノンアルコール一辺倒ですがビール飲み放題のときは箸の動きが多く
なり画廊などのオープニングパーティーで華やぐ絵画友達は羨ましい限りです。
シリーの葉の事で面白い部分を書き忘れました。ペナン島辺りではキンマ(シリと同じ)
の葉にくるみ石灰少量とサゴヤシを細く切ったものを一緒に噛むらしいです。いつの
時代の事かは不明ですが。同じく口は真っ赤になりその吐き出されたもので土の
酸性度を確かめるそうです。酸性だと黒くなり変わらないと弱いのでそこに種まきを
するそうな。石灰を混ぜて噛むのはアルカロイドを抽出してニコチン作用を出すため
らしいです。噛みタバコ風というものなのでしょうか。しかし想像するだけでも真っ赤な
口にはオビエます。島の来訪者もびっくりしたはず。偶然持った興味でした。
あちこちでお天気が乱れていて大変ですが、ハチのお母さんは又又又来ました。
イス裏のガムテープも心なしか前よりはがれ気味です。こんな木の椅子はめったに
無いのでしょう。難儀なモノを遠い国から船で運んで来てしまいました。
シリーの葉のこと パートII (2013年9月2日)
民俗学コレクションの本を見ていたらシリーセットという名前のエレガントなラインの
大きな灰皿様容器があった。開き切った花弁状の花びらの上に植物模様などが細く
彫られていて上品で繊細だ。多分銀細工。聞きかじり程度のシリーの葉を噛む習慣
について書いてしまったので少し追求してみた。地域によりヤシの実の種類は違う様子
だがこの容器はアレカ椰子の実、石灰粉、たばこ、シリーの葉を入れて客人を持て成し
主も楽しむ高貴な人たちの習慣とある。シリーの葉にアレカ椰子の実と石灰を包んで
噛むらしい。インドネシア全土の習慣だ。もてなして客との一体感を表すらしい。
現在の様子はすでにワタシが知る由もないがよく生け垣の内側でこの葉を見かけた。
アレカ椰子はマダカスカル原産の竹のような幹が特徴だとある。緑色ハート形の丁度
日本の山芋の葉のようなシリーの葉は消臭効果があり胡椒科の植物。バリ島では
神々との儀礼に近い習慣らしい。噛むことにより歯が真っ赤になる。味は痺れるほど
辛く東南アジア、インドでも好まれヤップ島では特に好かれるとある。内臓に悪そう。
そういえば語学の先生が、ニョニャ(奥様=占領時代の言葉)マカン(食べる)シリと
いう白い花の中心に赤い色が目立つ植物の事を教えてくれた。言い得て妙だ。
日本ではアレカ椰子は観葉植物として鉢に植えられて会社やデパートなどあちこちで
その地位を獲得している。コガネタケヤシとも言われているらしい。その涼やかで
繊細な葉の鉢は確か我が家にも1度くらいはお住まいになっていたはずだと想い出す。
気難しい方で枯らしたと思う。住んでいた庭先のニョニャマカンシリのハッとする色合い
と竹の茂みやプルメリアの木の根元でアラマンダの黄色い花に囲まれた軽やかな
花群れの姿が脳裏に甦った。プルメリアの木の枝にはいつも同じ鳥の一家が訪れた。
マジャパヒトとマジャパの実 (2013年9月1日)
その昔インドネシアにヒンズー仏教王国を築いたたマジャパヒト時代(1292〜1398)
黄金時代最大最強の領地を有し国家として初めて統一されたとガイドブックにあります。
そのマジャパヒトに因む果物の木が今でもジャカルタ市街地で見られます。車から
見上げるとあっグレープフルーツみたいな大きな実が生っていると、大発見。
南国なので果物の樹は沢山あり実も色々見ますがそれでもワタシには興味深い
ものでした。その木の下にあるトラディショナルな現地風レストランととてもマッチして
いたからです。そのレストランのメニューは牛肉のサテ(青唐辛子や黒胡椒魚醤などに
漬けた肉の串焼き)ナシゴレン(現地風チャーハン)等割合と普通な料理を出していた
記憶があります。主婦のワリカンランチなので高い料理は試さなかっただけですが。
マジャパの実は食べないと思います。なぜならパヒッド(苦い)と言ってましたので。
シリーと言うハート型の緑の葉を噛む習慣が昔からある様子です。地方では今でも
続いているのでしょうか。その葉がどういう効果があるのか美味しいのか不味いのか
は不明です。14世紀頃からイスラムが広がり始めて交易優先による改宗の君主に
習い今日のように90%イスラム王国に変わったらしいです。大きな実と言えば
ジュルック(蜜柑)バリというグレープフルーツ似でこれも大きな果物が季節に
なると店先や横町の通りの屋台に山積で売られていました。大当たりだと中身は
ジューシー美味しい、大外れだとぱさぱさで蜂蜜にでも漬けておかないと不味くて
食べられません。南国でもマンゴーの季節、スイカの季節、マンゴスチンの季節、
果物品薄の季節には豪州初め諸外国からの輸入果物が店先に積まれていました。
この実の皮をむいて実だけを冷蔵庫に入れておいてねなどとお手伝いに言い残して
出歩いていた贅沢時代でした。主が留守の家はお手伝いのお昼寝時間もたっぷり。
こういう季節のおいしい果物をゲットするには自家用運転手に案内購入してもらうのが
ベストでした。もちろんチップを払います。運転手も甘い奥さんだと天国、ケチな奥さん
だと地獄。中間を保つテクニック獲得には数年かかります。日本では輸入の果物が
スーパーで沢山見られますがその味はやはり現地モノに敵いません。マンゴーブーム
の日本ですが本物の味を知ってしまったのでムスメといまいちだよねと頷きあいます。
もちろん宮崎などで取れる値の張る特別なマンゴーはエナック(おいしい)はずです。
それにしても甘い果物があるわけでもないのにハチのお母さんは又又やって来ました。
台風日和で気持ちが焦っているのでしょうか。いい加減に諦めてほしいものです。
ガムテープ作戦は大当たりですがその飛び方が名残惜しそうでチャペ(つらい)。
この頃インドネシア語をほとんど忘れてしまいましたが一つの単語で色んな意味を
表しますのでそれをさらに町言葉風に話すには訓練が必要なのです。若者はさらに
進化した話し言葉を使っている様子でした。
現実は現実だけれど・・・ (2013年8月31日)
CT検査の結果を聞きに行きました。暑さが戻り相変わらず明け方3時とか4時に
起こしに来る老犬の散歩を済ませて夏疲れのバスに乗り込みました。このバスは
近所を沢山回って近くの病院の玄関前まで入るので最終目的の駅まで時間が
掛かりその病院で降りるのは圧倒的に老人が多く色々と考えさせられる情況です。
新宿の病院では珍しく肝嚢胞のCT写真を沢山見ました。先の主治医の代診の先生
がモンドウムヨウとばかりに厳しい状況を見せて説明し、ですから治療はできません、
黄疸や熱が出たら来てくださいと言っていましたが今では少し納得できるそれらの写真
を改めて見たのです。先の主治医は心配性のワタシを気使いあまり写真をしっかり
見せる機会が少なかったと記憶しています。疲れたり熱が少し出るとお腹が張ったり
痛くなるのは何故なのか疑問でしたが神経のある腹膜を押すせいなのだと納得
できました。左にある団子状の肝嚢胞や右の結構な大きさの黒い肝嚢胞を眺めて
いると別の臓器にも見えて自分の内臓とは思えません。白い部分も結構ありますね
と気持ちを弾ませて言うと先生は、ウーンと返答に困っているかの様子でした。
黒いジョギングシューズを履いて軽快なフットワークが想像できる先生です。
この問題をこれから先どうやって解決して下さるのか今は解りません。又カロナール
と胃薬を多めに頂きました。理解不能なことにあまり首を突っ込まない主義です。
が、袋の中身がどんどん増えたらどうするのか、袋の中のミズを作る膜を取らない
限り増えるんじゃないかな、3,40センチにもなる人も居るらしいし、と心配の首が
持ち上がってしまうのは確かです。しかし大病院ですし先生方が沢山居られるのです
から大丈夫と考えるしかありません。飲み薬などの治療は無い現状です。
胃のピロリ菌は除去しましたがイガンのリスクがあるとのことで11月に胃カメラです。
前回ボオーッとする薬が余り効かず嘔吐感がひどかったのでちょっとビビッています
が薬を多めにしてくださるそうで納得しています。そういえば大腸の内視鏡検査時も
二酸化ガスを入れるのでお腹が張り嚢胞を押し上げるのか、イタイと言うとガスを
出してくださいと言われたのですがそう言われても普通はそう簡単にできないと思い
ますが痛さに負けました。お腹の上に重いものを乗せるのはその効果があるせい
なのだと理解。まあ病院では恥ずかしいとか言って居られないのです。
帰りのデパートで夏バージョン冷やし蕎麦(半熟卵、とろろ、オクラ、大根おろし、
キムチ、かき揚げ)を頂きました。混んでいたので相席の私より年輩の方と目を
合わせ無い様にそれでも機嫌よく振舞いながら。東京の極暑に比べると千葉には風
がありましたが10分の道をヨロヨロ歩いて帰りました。老犬は帰宅に気が付かず
TVとエアコンの部屋で何が嬉しいのかひっくり返ってはしゃぎまくっていました。
いつもこんな風に留守番しているのか・・。声をかけたらびっくりして気が付きました。
空港近くのホテルの絵 (2013年8月28日)
バンダラシェラトンはスカルノハッタ空港からごく近くて日本へ一時帰国する際に
家族の待ち合わせ場所に便利だった。飛行機嫌いの上ワタシと違い乱気流時に
眠れない家人はいつも即ビールだマルゲリータだワインだと慌ただしく注文していた。
もちろん1番初めに初1人帰国時のワタシは特別な場所を利用する余裕すらなかった
のだが。後々にも1人で優待待合室などを利用する勇気もなかった。その点ムスメ
などはどんどん慣れてしまい最初バリ経由でジャカルタ入りした時の緊張感は今では
嘘のようになった。ワタシは最早この辺りの進歩は望めない。一人で旅して歩く友人を
尊敬してしまう。機内では知らないビジネスマンの肩に頭を乗せて爆睡してしまい
奥様お食事はと聞かれて大恥をかいていたワタシだ。そんな時男性は優しいと思った。
日本に戻ってしまうと有名ホテルを利用する機会はゼロに近くなった。バンダラ
シェラトンに特別美味しいものがあったとは言えないし宿泊経験もないが中東の
赤系ショールを頭から垂らしたエミレーのフライトアテンダントやゆったりと大股で歩く
アラブ系白ズキン紳士たちが記憶に残る。日本人ビジネスマンや諸外国人も薄暗い
ライトの下のテーブルでミーティングしたり仮眠したり机下の蚊と戦ったりしていた。
そこの壁には大きな絵が架けられていた。あちらの有名ホテルには面白い絵が
良くかけられていたが、待合場所のホテルで他に見るべきもののないワタシには
脳裏に残るほど観察した絵だ。ちょっとピカソ風で楽器を演奏するメキシカンだったか。
苦い(ワタシには)ジャワコーヒーとシンコン(痩せた固い芋の揚げ物)と日本に帰れる
嬉しさと、フィリッピン上空での台風予報、多分大島上空辺りでの乱気流予想など色々
なことが窓向こうのライトの誘導のように押し寄せたり消えたりしていた不思議な
時間だった。ハイじゃ2週間後に迎えに来てね、と言っていつもより多めのチップを
渡すとき運転手もワタシもストレス解放の喜びに浸っていた。いくらチップが多すぎる
と家人に言われても安全面、安心面の為に常に状況に応じてチップを考えた国だ。
ぼさぼさ毛や高級毛のこと (2013年8月26日)
涼風吹き抜けるベランダでくつろぐ老犬の後ろ姿がお疲れです。夏用に刈りすぎた
毛が伸びずせっかくのダブルコート犬がぼさぼさ毛のまま。本当はその上に生える
つやつや毛が素晴らしいポメラニアンなのです。ドイツ原産で冬毛が自慢のはず
ですがさて今年の冬はセーターに頼るしかないのでしょうか。
絵の先生が漆の高級刷毛に使用するドブネズミの毛の事を教えて下さいました。
長くてしっかりしたわずかな毛のみが使われるとか。油絵具の筆もピンキリです。
ワタシは値の張るものは使いませんがそれでも時々店先の高級筆を指先で
確かめると良い絵が描けそうでいつか・・・と思ったりします。今はバリバリに固まった
刷毛や安太筆を持ち帰りせっけん液の中に漬けておいて良く水洗いしてからリンスして
またアトリエに持参しています。サアーッとか、ドオーッとか、ドバーッという描き方
ですので使い古したものが良い味を出すということに気がついたりしています。
喉風邪をひいてしまい(喉だけ痛い)カロナールで凌いでいます。かゆみ止めに
ビタミンCを2錠くらい一緒に飲むと軽減されることを発見しました。
円錐形のメリンジョの樹 (2013年8月25日)
以前はノニという白い果実がケンコー食品ブームになっていたように記憶していますが
今はどうなったのか、現地K国スーパーなどには依然として沢山陳列されていました。
ホルモンがどうとかで私も試したことはありますが特別有難味は感じませんでした。
ジャカルタの郊外の道端にはこの木があちこちにあり白いウロコ模様の実がボタボタ
道に落ちたりしていたものです。あっオバット(薬)の樹だねと運転手に言うとジュースに
入れるんだよとのこと。直接食べておいしいものではないらしいです。日本で売れている
よと言っても釈然としない様子でした。薬になる木は山ほどある国です。これも
現地の人たちが使うからこそであり諸外国の人に効能があるのかハテナマーク。
最近あちらの木の実のことなど検索していたら今はメリンジョに人気が移っているらしく
とても驚きました。街中でも郊外でもとても沢山あり目立たない円錐形の比較的
大きな樹でした。ドングリ、しいのみ形の小さな実が黄色からオレンジ、赤に変化する
時にアッなんかの実だねと気が付くくらいでした。メリンジョは現地の呼び名がある
のかもしれませんが忘れました。ポリフェノールがすごくたくさん入っているとあります
がなんとなく栄養的に良いということで料理に使われる習慣が続いているのでしょうか。
お手伝いたちはサユルアサムという現地風みそ汁風スープに必ずこの実を入れて
いました。アパートメント住込みお手伝い用に自転車に質素な材料を積んだおじさん
が来るのを見かけました。モヤシや緑の葉の野菜、やせたトマト、トウガラシ、メリンジョ
などはこのスープの基本材料。ほかにテンペやトーフなども有りました。スープの材料
は妥協を許さない様子なのでした。ありあわせでササッとということは無いのです。
これに市場で〆てもらった鳥の肉をさいて入れるとごちそうです。我が家は時々買い物
をお願いして作ってもらいました。全部材料がほかの皿に盛りあわされ汁とは
別に用意されていて食べる直前に温めた汁を椀の中の野菜にかける様に注意
されました。汁は黄色っぽかったのでウコンやこぶ蜜柑の葉なども入っていたはず。
〆た鳥の骨などはお手伝いの家のスープの材料になるらしくお願いすると彼女も
楽しそうでした。いくら鳥が沢山売られていてもしょっちゅう口に入るわけではないらしい
です。このスープの味の決め手はメリンジョの実でしょうか。ちょっと酸っぱいような味
を覚えています。この実の中身だけをつぶしてせんべいにしてパーム油で揚げたのが
ウンピンというせんべいで単独塩味で食べたりスープに添えられたりしていました。
ほろ苦くて最初アレッと思いましたが不思議に病み付きになる苦さでした。
せっかく大切に持ち続けている食文化ですので一時のブームで樹が荒れたりしない様
に願っています。現在ワタシは肝臓をいたわり特別なものは一切飲んだり食べたり
していませんが現地ではウコン宝庫故飲みましたし、日本リポ現地生産とか米国からの
栄養剤など沢山飲んでいました。それで日々何とか元気そうに暮らしていたような気が
します。犬散歩の時にいつも見上げていたメリンジョの樹がそんなに素晴らしいものだ
とは今頃になって知りましたが宝物を大切にして欲しいなと思います。ワタシたちは
もっと自国の昔からある薬草などに目を向けないといけないのかも知れませんが
すでに子供に伝承する知識が希薄です。オオバコやゲンノウショーコ等を兄たちの
子供時代に学校に供出していたのは覚えています。
ミックス味の街の想い出 (2013年8月24日)
10年前近く前、ジャカルタの街に住み始めた頃クマンという現地ではオシャレ
だと噂されていた地域に友人たちと出かけて探索した。モノサワなハダカおじさんが
出没する車道から少し坂を下りいつも洪水氾濫が起こる川の上を渡ると外資系
スーパーや英蘭の古い小さな飯屋風レストラン(ここはついに見るだけだった)、
ピザ屋、外人用の真珠やインテリア店や犬の美容院、ブティックと基本的に海外組を
ターゲットにしている地域だ。泣き所は道の狭さ。そして確かにアブナイ事も多い
ボーッとしていられない見知らぬ場所でもある。ケイカイシンは必要だ。
カキリマ(屋台)では果物盛り合わせ+サンバル(唐辛子味)ソース、飲み物など
色々売っているが普通の外人は買わない。お腹が超丈夫な人用現地人用だ。
欧米人でこの国の物が大好きな人はバティックの腰巻にピンクのTシャツ姿などで
同じような服装の女の子の手をひいて草履ばきでスタスタ歩いていた。定住者や
リピーターが好む所だ。アパートメント(マンションという呼び方が無い)や戸建ての
お屋敷は手直ししては新人を住まわせている。会社払いなのであちこちに住めたが
個人では高すぎるところも多い。日本から出店したシュークリーム屋は大当たりで
後々都心の方に移動した。さらに奥は画廊、スカーフで有名な店、無農薬喫茶、
コーヒー専門店、酒ばかり売る(こういうのが多い)デユーティーフリー、新旧家具店、
メキシカンレストラン、日本人向けバティック仕立て屋、ニュージー学校と続く。
ひどい渋滞で時々普段10分で抜けるところに1時間くらいは立ち往生した。花ばかり
売る小さな出店が有名な花通リがあり年中同じような南国の花を見比べて値切って
買った。夜景はエキゾチックだったが昼間はそこそこだ。後に近所に住んでみたが
夜のジャズ喫茶やバーにはついに1度も行かずじまい。近すぎると有難味がない。
運転手曰く50年前はここは段々田んぼで牛が(有名な白い労働牛)居たんだよ。
その話に納得する格差が著しい華やかさが透けて見え次第に時々しか訪れなく
なったが今では庶民のオハカが横に見えたリッツ高級アパート、スタバ、さらに
400m高級オフイスビル建築計画とさらにさらに投資が渦巻いているらしい。
お金がダブ付いている人は部屋のオーナーになりさらにお金がダブつく状況だ。
今では日本でもあちらと同じような集中豪雨と洪水に襲われているが現地では強い
雨が降り始め坂下にいると急いで坂上の道に上がり帰宅を急いでいた。街中には
ワゴン車が多く住み始めるとすぐに何故か理解できた。湿度が低く年間平均30度でも
外は歩かない生活なのでエナック(良い)とも言える味わい深い街だった。
マクハリのホテルがモスリム用にハラルの食事を研究しているとTVで報道していた
がジャカルタで日本の店がどんどん増えている状況を研究して観光客に対応したら
よいのにと思った。赤道地帯からやってくるお客様は日本にとっては大切だ。
大きなシャボン玉の中の確かな映像 (2013年8月22日)
風立ちぬ、を観た。家人たちと久し振りに一緒の映画館は夏休みも終わりに近い
ので子供の姿が少ない。マクハリの映画館はタマ地区より大きい。この街を好む
若者が多いのが頷ける街路の明るいあか抜けた景色や大手企業の本支店が
林立する近景だ。海が魅力の土地。なんとなく未来に向けて心が弾む気がする。
映画はSF物に目がないがミヤザキ作品も好きなので文句は言わない。
作り手の新しい時代感覚を感じた。重いテーマがさらりと後味軽く、エンディングの
ユーミンの歌ですべて丸い大きなシャボン玉の中に収まり、さあーっとはじけて
脳裏から消え去る不思議さ。本などですでに十分有名な内容なので肝心な部分は
シッカリと記憶にある。帰りの車内でユーミンの歌を歌うワタシに辟易の家人たちだ。
夜半真近の落雷の音や激しい雨で目が覚めた。隣りに重いテーマを背負い一人で
旅立ってしまった人が居た。ご冥福を祈る。ハチのお母さんにもごめんなさい。
さっ、今日は爽やかな風の中でココロのシャボン玉を思い切りふくらまそう。
自分のシャボン玉は自分でふくらませるしかない。虹色で空を埋め尽くそう。
反省をうながす夢 (2013年8月21日)
無い無い無いと一生懸命に探しているワタシ。仕事を頼まれてその内容が
薄っぺらい紙ナプキンの切れ端のようなものにメモされているはずだ。
道を調べたりどこかの部屋の中を探しても無いので焦っているといろんな人が
どうしたの、と心配してくれる。戻ってみた店先では笑顔のおばちゃん(夢の中で
ワタシは若いらしい)が、あらそれなら奥にしまってあるわよと言い取り出してきた。
メモの内容がとても難しくてできそうになく悩んでいると、あら私たちがやってあげる
わよと言っている。専門の人に頼んだ方が良いらしい。気分よく戻るがそれから
いつまでたっても出来てこない。心配が続く。そのうちになんとなく見知った感じの
おばちゃんたちが現れて、ほら心配ないでしょうと笑う。
ワタシはどこか狭い家の中を抜けておばちゃんたちを案内する。迷路のように続く
場所を上の方に登っていく。どういうわけかキャンバスを抱えた男の人も現れて
ニコニコしながら一緒に登っていく。変だな変だなと思いながら後ろを振り返って
見たりしているうちに中庭に緑の植物が茂る場所に出てホッとした。何がどうなった
のかわからない夢だ。メモという単語で占うと、うっかり暮さないできちんとしないと
いけませんというメッセージらしい。反省。
ハチのお母さんは昨日も今日も見かけた。心残りそうにさあーっとイスを掠めて
飛び去った。季節や天候の変化を察知して行動しているはずだ。昨夜はこの辺にも
久し振りにまとまった雨が降った。ワタシはガムテープ2重作戦も考えている。
ハチのお母さん (2013年8月20日)
彼女は早朝から4,5時間は舞い戻ってきて探索に忙しかった。おしりが黒い足長バチ
の種類の大型だと思う。アッここだわ、でも違う、アレッここかな、違うね、とイスの周り
を飛び回る姿は目先に在りだんだん申し訳ない気持ちにもなる。風の通りが良く
雨をシノゲル大きな木の椅子は巣作りにぴったりの条件なのだろう。可愛そうだが
妥協するわけにはいかない。日頃情をかけてしまい鉢の木が枯れたりして失敗
することが多いからだ。イヌにはハチが来ているから出られないよと説明した。
夕方5時ごろイスをひっくり返してみるとなんとガムテープの1か所が荒れていて
少しはがれかかっている。口で少しずつはがした痕跡だ。うーん偉い、だが
この作戦しかない。そして木酢酢原液作戦もプラスした。ハチのお母さんは今朝も
やって来たがさらなる木酢酢原液まき散らしに退散した様子だ。ワタシも鼻力が
弱ってしまい木酢酢など平気な老犬の寝姿を見守るハハだ。
とっさの思いつきで目についたガラス磨きスプレーを噴射していたジブンは笑えるが
界面活性剤は生き物に悪く、切り花などもガラス瓶を食器洗剤で良く洗った後挿すと
元気がなくなるような気がする。ハチのお母さんも被害は受けたはずだ。以前
アブラムシ退治に中性洗剤の泡を使ったら成功したがバラの若木もよれよれになった。
引っ越してからバラは枯れてしまい10センチくらいに切り戻してこの夏を越している。
ハチのお母さんがオリーブの枝にしがみついて体を休ませ一息ついている姿も見た。
足ツボ事件、ハチ騒ぎ (2013年8月19日)
太衡(タイコウ)と言い肝のツボらしい。足の甲、親指と人差し指の間の下の場所が
夜半無意識マッサージをしすぎたらしく5mmほど赤く皮がむけてしまった。家人が
足の甲に何かついているよと注意してくれた。そこが少し痛くてマッサージすると
痛みがなくなるのでカカトマッサージが過ぎたらしい。同じく左足親指の下の方、
足型カーブが始まる辺りは胃のツボらしいがここも良く筋張り痛くなるがマッサージ
で解消する。内蔵の問題は反対側の手足に関連するのだろうか。肝臓自体は神経
がないらしいが痛むということは周りの臓器に問題があるのか。又カロナールの
出番だ。夏は誰でも疲れます、若くても疲れますと言っていた先の主治医の言葉が
頭をよぎるが問題を無視するわけにはいかない。
一匹の大きなハチがベランダの駄木作りの椅子に巣を作ろうとしているらしく足繁く
往復している。老犬が朝寝そべっているお気に入りの場所なので慌てた。
動物が前足を伸ばしているカタチのこのイスはインドネシアから帰国するときに船に
乗ってやってきた。あちらでは虫食いの木と言い厚い板材を処理してから棚やイス
などに使うが文字通り穴が開いていたり裂けていたりで面白さや天然さが好まれる。
天然木なのでハチが選んだと思うがあわてて家庭用清掃スプレーを吹き付けておいた。
ハチバスターの人がどんなスプレーをかけていたのか思い出せない。唐辛子系か。
去年タマ地区の公園で会ったハチと違い大型でホバリングしながら行き来する姿に
警戒警報が湧く。暑い中遠方から何か運んでいるらしいが諦めてもらうしかない。
スプレーを椅子の下全部に吹きかけて場所も移動したところ戻ったハチがとまどって
いて、さらにスプレー攻撃したらだいぶ効果がありそうだが諦めずに戻ってくる。
こんなに戻ってくるのはすでに産卵しているのだろうか。根性のあるハチだ。
忙しくなってきたのでガムテープ作戦に出た。好んでいるらしい裏の穴に貼った。
これはどうも相当効果がある様だ。ベランダで大型ハチと共存はとても難しい。
道端観察 パートII (2013年8月18日)
敷き詰められたテラコッタ(汚泥処理後に作られた人工の石だと思う)の上あちこちに
砂の小山がありその真ん中に大小ミミズさんが横たわっている。ハテナマークが
解決しないのでよくよく観察してみた。するとテラコッタの隙間がちょっぴり黒く見える
場所がありハハンと納得。多分地面の下から作戦だ。この暑さの中荷物掲げて
移動は小さくて遅い足のダンゴ虫さんやアリさんにとって難儀だ。ドライ処理して
さらに運びやすくしているのだろうか。それともテラコッタの隙間から雨水があがり
小さな液状化が起こり砂がたまるのだろうか。さすがにその過程の観察は無理だ。
老犬の背中にカビ病(くろいシミ状皮膚病)が出来てしまい初めての事ではないとは
言えこの頃出番が多かったウエットスーツ着用時間が長すぎたと考えられる。
説明書にちゃんと長時間使用はだめとある。上の部分だけ濡らして着せたりしていた
がいくら犬が喜ぶとは言えやはり夏場の車移動時くらいに使用すべきなのだろう。
このカビ病にはオロナイン軟膏が良く利く。犬知恵にますます磨きがかかりこの頃
引き戸の隙間に手を入れて開けて入るし留守中ゴミ箱探検作戦もすごい。
長生きしたイヌはどうもジブンの事をニンゲンだと思っているフシがある。
又スジ雲の朝だ。あちらに1本、遠く離れたところに3本と海方面に向かって扇状に
伸びている。その下層辺りには海から動きの速い千切れ雲が連続ベルトコンベア
状にやってくる。千切れ雲ベルトコンベアは離れた空ではすでに小型の積乱雲型に
なり縦型の白い綿雲にふくれている。他に目障りなものが何もないただ薄青い空の
上のこんな光景は早朝だけのお楽しみだ。
涼しい朝の蟻とスジ雲 (2013年8月17日)
秋めいた風が吹く朝。老犬を抱っこしてお気に入りの中庭ハーブ寄せ植えの小道
を歩いていたら前方テラコッタの上に黒い帯状の砂がドサーッとバラまかれて
いる様子。子供が遊んだんだなと思いながら近付くと細かな蟻の群れだった。
ジャカルタで見た白アリのお引越しや赤アリとの格闘を想い出した。跨いで通った。
パニック状態で湧き出しているが大雨とかジシンに対する危機本能なのだろうか。
季節は確実に変化しているので自然な流れの移動なのかとも思う。
今朝はダンゴ虫の姿が見られない。自動ドアの手前でひっくり返ってもがいている
蝉さんを助けた。オスの蝉と見えてドオーッとすごい勢いで飛び去り高い木の方に
消えた。小さな桃の実が沢山なっているのに落下するばかりの公園。この辺では
ヤマモモの実を食べないので大きな公園では地面がヤマモモの実でムラサキ色に
なる時期があるのも思い出した。先日料理屋さんで特別そうに赤ワインで味付けされ
たヤマモモの実を食べたので落下するばかりの実はもったいないと思う。街路樹と
しての運命だろうか。樹皮は褐色の染料になるらしい。
イバラギ方面からか、スジ雲がすうーっと伸びてきている。
いつもの猫額畑ではたった1本のカボチャさんが一人勝ち。ものすごい勢いで地面を
這っているのでこの調子だと晩秋までに実をつけるはずだ。もくもくサツマイモさんは
四角い割り当て地からドンドンはみ出している。自然の成り行きが楽しみだ。
本心に気が付くまでの長い道のり (2013年8月16日)
ある画家が書いていた。経験のみが頼りの7歳位の子供の目を持つ画家は新鮮だと。
例えればクレーのような。大人の批判精神と知識を持ちながら子供のココロを持ち
続けるのがベストかも知れない。大人になっても脳みそが進化していない部分が
多いと認識しているがそのことが以外にも特別な能力であり宝物かも知れないと
言う発見で目がネコ目形に開きちょっと世間が明るくなった。
ちょっと遠回りしたり知らない路地で迷ったり気が付くと未知の街角だったりの人生は
面倒だけれど経験がぐっと豊富になる。ヒトにとってそれは思考の調整ができる貴重な
ギフトが届いている時間だと思う。ギフトをあけるときにココロを落ち着けて混乱せず
子供のまなざしで本心を楽しもう。
本心を忘れず確認して決して消さないように持ち続けることが大事だと感じる。
他のヒトの行動はそれなりに意味があるはずだがこの際まず自分のココロの事だ。
わが老犬はその点天性の生き物だ。甘さのあるワタシには我慢せず家人たちには
遠慮や迷いが見える。しかし本心が素晴らしい。先日も朝犬より早く起きたもぬけの
空のベッドに向かって起きなさいと吠え続けている姿を部屋の外から見て感激した。
目力や耳力が弱り良く認識できないらしいがワタシの世話をしてくれているのだ。
なまじ本心を知っている主から今朝もおにぎりのおこぼれを難なくもらった。
4個収穫したブルーベリーのひとつはもちろん老犬の口の中に。ベランダの小さな
イチジクがいつの間にか実をつけていて全然大きくならないのだが毎朝楽しみだ。
シャンシャン と ドドドッの朝 (2013年8月13日)
A新聞を読んでいたら熱中症の説明文があった。気温が体温より高いと免疫力が
落ちる、感染症が出やすくなるとあるではないか。丈夫な人は汗を絞り水を飲み
頑張れるはずだがそうでない人はとても危険だ。感染症対策に抜け目ないワタシは
思わずジェーッ。そういえば先日昼ごろ外出した時にぎゅーっと頭が締め付けられる
痛さを経験してこれが熱中症かも知れないと感じた。暑さが厳しい時間はひたすら
昼寝する習慣の南国の知恵が納得できる。せっせっと水浴びするのもうなずける。
この夏場は老犬の為に一部屋はエアコンを入れておかないと彼女もバテる。
今朝は山風。老犬の目もピシッと開いていて頼もしい。可愛いね、賢いね、と
褒め言葉を浴びせて元気付ける。でも開いたガラス戸の間から蚊が一匹すうーっ
と流れ込んでしまった。蚊退治だと異常に張り切る家人の出番だ。
リュックサックに着けた大きな鈴の音がシャンシャンと響きいつもの男性が道を
歩いていくのが見える。次はドドドッと大きな発信音をあげてバイクの若者が出かける
時間だ。真夜中にバイクのエンジンをクールダウンさせる音で帰宅もわかる。
5時には朝散歩、ベランダの植物に水やりする自分の姿も定点観察されているはずだ。
今夜は今が旬のぺルセウス座流星群の流れ星に出会いたい。星雲の色んな模様を
ネットで眺めていると飽きない。絵画的なヒントも隠れていて様々なことが読み解ける
宇宙空間はこの夏一番のクールな出会いだ。
暦が3つもあると・・。 (2013年8月12日)
8年近く住んだ国の新年が明けて急にその暦の事が気になり調べてみた。
今さらである。住んでいた時は聞きとばしていた。ヒジュラ暦(太陰暦)と言い1年が
354日ある。イラン暦、西暦も併用していて3つ暦がある国もあるらしい。今年は
1434年とある。日本の暦さえ今日は何年何月何日と確認して過ごさないといけない
のに大変な事だ。古い人の方が年数と記憶をセットで覚えていると思う。古い部類に
突入していくのでせめて聞かれたらしっかり思い出さないといけないと決意する。
最近インドネシアからの観光客も多くなり電車の中で、日本の物価は高い、買えない、
と大声で話し合う姿を見て隣の席に移動して会話に加わりたくなる懐かしさがある。
嫁いでいた友人は40年たっても教えが完全に理解できなくて親類の老婦人が
遠方から指導に来ると言っていた。ちゃんと覚えないとにメッカに行けないのだろうか。
彼女はもうしっかり覚えたかなと気になる。何とかお金をためて巡礼の旅に出たいと
運転手が言っていた。庶民でもアラビア語を勉強して理解する本格派も居る。
何かと日々脳みその訓練が盛んだ。脳みそは鍛えないとボケる所が怖い。
最近伊勢神宮や出雲大社の旅に出たいと思う。13.8歳の老犬が居るので現実的
にはなかなか思うようにはならないけれど、そこにある空気を吸ってみたい。
振り返ってみたい事 (2013年8月11日)
自分の持病の事を投稿して1年半余り経ちました。中にはオーバーな表現だと笑う
ヒトも居るはずです。世間に肝嚢胞を持つ人はとても多く検診などで発見される
事が多いようです。そのうち10%くらいのヒトが大きくなったりするらしいです。
それ故小さな肝嚢胞がたとえ二桁以上あっても他の悪い条件が出ない限り気にする
事は無いはずです。経験しないと解らないことや情報を検索しても出てこない心配
がある場合に多少役に立つこともあろうかと考えての形振り構わない投稿です。
私の場合は海外などで強いストレスが多かった、衛生面での問題、古い浄水器を
使用して濾過した井戸水を使っている環境(フィルターは定期交換)に住んだ、
等が挙げられます。大腸ポリープ特大(3.5センチ)は一部がガン化していましたが
際どくセーフ。除去後お腹の具合が劇的に改善されました。ただ肝嚢胞が巨大化して
しまいシクシク痛んだり、電車の椅子に猫背で座れなかったり、右側の寝返りが出来
無かったりした挙句石の床にうつぶせに激しく転倒したためか、破裂や内出血に
加えてガンの疑いまであり穿刺治療になったのです。ピロリ菌も海外で抗生物質を
使用して除去したので日本で再検査しましたがクリアーでした。当時の主治医が
早く日本に帰ってきた方が良いですよと何回も言ったので早く帰り正解でした。
いくらエコーやCT検査を重ねてもガン(袋の境目などがモヤモヤ映るらしい)は特定
出来ないらしく治療入院の際激しく研修医の先生に詰め寄りましたが無駄でした。
穿刺治療(左右の肝臓、1週間に1個ずつ2個くらい)の後は38度くらいの発熱で
緊急CTなどもありました。治療件数が多い病院ではありませんがとても丁寧
に治療を進めてくださる様子が素人ながら理解できました。穿刺治療する際沢山の
リスクを納得しないといけないのでびっくりしましたが、この橋(治療)を渡れば楽に
なると思い覚悟を決めたのです。が橋を渡ったら又橋が続いているので大ショック。
1年平均11位をうろうろしている血小板数値が治療時には14位まで上がったのが
嬉しいと言えば言えますがすぐに元に戻ってしまいました。この点は気がかりです。
肝嚢胞の袋が団子状にくっついたり、腹膜に癒着したり、肝臓の形から飛び出すと
言うのは難しいことなのでしょうが当時の主治医は色々勉強されてゴーサインを
出しました。心配性のワタシを気使ってハードな表現や状態の説明は決してなさらない
のが有難かったです。なんでも情報を伝えられると患者はパニックになります。
そうです、写真類も全部見せられると有難い人も居るでしょうがこれも人によりけりです。
肝嚢胞の中身は粘着質のグリーンだったと記憶しています。悪いものではありません
と説明されました。脂肪肝もありましたが改善しました。体重の変化がほとんど無い
のが問題です。相当忙しくして食事をセーブしてもほとんど動かないのはハテナマーク。
現在は2日ほど普通に暮らすとわき腹が張り痛みも出てくるので去年夏から処方された
カロナールと胃薬を飲んでしのいでいます。去年古いピアスをつけてしまったり、
歯の治療(ブリッジ)を長期間したこと、カロナールとアリナミンを併用したこと。その際
左右肝嚢胞の強い痛みに対して処方されていたクラビットを1錠ずつ飲んで収めた事
(普通は最低3日は飲み続けないといけないらしい)などが良くない行動かと思います。
歯の治療の後の肝臓の痛みの時は通院してエコーや診察(週3回位)をして頂き
クラビットも一定期間飲みました。その後歯医者で説明して問題がありそうなときは
クラビットをいただきました。過激な治療は望んでいませんがよりベターな状態になり
たいというのが今の心境です。見かけは健康体なので理解する人が少ないのが悩み。
カロナールは炎症発熱に対して優れものですが副作用としてかゆみや下痢もたまに
在り又頼りすぎる不安も出てきているのは事実です。なるべく間を置いて飲用して
いますがどうしても予防的になるのが良くないのかなとも考えます。以前から眠れない
時はレスタミンコーワを2錠くらい飲んで寝ています。蕁麻疹で?き毟ると白斑症に
影響してしまうので注意しています。ほかのヒトとの比較はできませんが自分の状態
を率直にレポートしてみました。現在は2か月に1度くらいの血液検査と診察、半年に
1度くらいのエコーやCT検査が続いています。胃カメラも2度しましたし大腸ポリープ
残り1個(多分)も治療しました。病院が遠いのが悩みですが診察後にデパート歩きや
個展などを楽しんでいます。強調したいのは普通の肝嚢胞は心配ないという事です。
トバ湖の白い船(2007年のメモから) (2013年8月10日)
彼女はトバ湖に棲む珍しい魚が見たいと言う
不思議な縁で遠い国へ嫁いできた身の上のヒトだ
ぽつんぼつんと落ちてくる滴のように途切れることのない
身の上話しは見知らぬ土地の布を織るように
縦糸に幸せ横糸に不幸せが滲む
他人の過去が漂流物のようにワタシの近くに打ち寄せた
ワタシと夫、友人と亡き夫は船に乗るために旅に出た
生者と亡者が連れ立って未知の湖目指してココロが弾む
打ち明け話をさらに聞きながらうとうととまどろむ
ワタシのココロは近寄ったり離れたりする
同情したり批判したりする傍で彼女の亡夫はだだ笑う
大きな肘掛け椅子に手を乗せて座り続けたまま
彼女はこの椅子は手放せないのよと言う
読書ライトのコードが抜かれたままぶら下る
通信手段のない船の上で普通の暮らしが気がかりだ
いつまでも船は灰青色の波ひとつない湖の上を滑り走る
この船は又港に戻ってくることが出来るのだろうか
静かな不安と滑らかな走行の中で時のさざ波が立つ
名前しか知らない写真で見ただけの湖の上で岸は彼方だ
ヒトのココロの脂身や贅肉が落とされてただ真実が際立つ
彼女の望みは何なのか、生き続けるために何が欲しいのか
ワタシジシンはどうなのか、ヒトのなかに潜む邪心と戦う
額縁の中の1枚の絵は深海色、陶磁器色のブルーだ
異国のトバ湖に浮かぶ一隻の船 陽射しひとつみえない
セロハン色の波が描かれていた
遠くと近くの花火 (2013年8月7日)
あちこちで花火大会があった夜でした。風もほとんどなく晴れた日で見晴らしが
良く我が家から西の遠方に江戸川花火、手前の近所には地元花火と贅沢。
夕方早い時間からドンドンと響く音がしていましたが花火があるとは知りませんでした
ので雷が鳴り始めたのかと話していたのです。半分終わった頃にようやくベランダに
出てみて花火大会の日だと知りました。意外に良いロケーションに住んでいました。
遠方景色行き止まりのビルの間から豪華、鮮やか、色とりどり、土星の輪付など
花火がこれでもかと上がります。残念ながら下の方に位置する仕掛けは頭だけ。
世の中のケイキが反映されている感じです。先の隅田川の花火は30分で雨のため
終了してしまったようですが花火玉は来年まで保管されるのでしょうか。それとも
江戸川の方にまわったのかな・・と思うくらいのにぎやかさでした。
そろそろ終わりかと眺めているとナントごく近所の花火が上がり始めました。
電波塔までジグザグライト点滅の大サービス。しかし尺玉もどきの丸さがゆがんで
います。なんとなく出来の悪い形なのです。ウーン経費の問題かな。カタチも昔よく
見た柳風とか大きな線香花火風とか菊の花、後に残るゆがんだ輪など。
それでもテンポの良い遠方とユックリの近所を交互に見ながら感動。
ジャカルタは明日レバラン明けの新年だと発表されました。毎年変わる新年ですが
大手団体のリーダーが決めるようです。決まった地区で花火が打ち上げられます。
日本のような風情はありませんが以前そのすぐ近くに住んだ時には屋上から眺め
ました。爆竹や紙のトランペットのプープーなる音、新年用に新調した服を着て
家族や親族が集う様子、庶民は意外と質素なお祝いだなと思いました。もち米に
ウコンで黄色い色を付けてバナナの葉で三角に巻いて蒸した小さなチマキみたいな
ものをお手伝いからもらった記憶もありますがこの頃思い出は正確性に欠けます。
CT検査で大笑い (2013年8月6日)
CT検査も回数を重ねてくると閉所での人間の行動(目をツムル)くらいで心配も
少なくなる。今回は台の上で靴ばきのままでよいと言われたので見るとビニールが
張られていて便利になった。入口でサンダルのかかと部分を外して脱ぎやすくして
居たのであわててしっかりと履きなおした。金属類を身に着けないように衣類を
選んできているのでそのまま台に乗れる。検査室の方はとても優しい。
造影剤を使うことになったが技師はいつも注射が上手なのでこれも不安なしだ。
所が人がかわり見慣れなヒトがこの注射は初めてなのですが上手にやりたいと思い
ますと言って居るのでびっくりした。ジェー、オーマイガ、心が騒ぐ。研修医のヒトか。
嫌なことがあると途端に笑顔が多くなるヒニクな性格なので当然そうなる。笑う。
いつもどんなふうに言われますか、血管が見えにくい細い右腕しか出ない、
ポンポン叩くと見えやすくなりますよ、情報は全部伝えた。海外で何回も刺されて
青あざが出来た時の記憶がサッと甦った。あーっ細いですねでも1本見えますよと
言っていつもの場所より下の方を選んだようだ。チクッとしますよと言い刺した様子
だがチクッともしない。上手ですねと言いたかったがあっという間に技師の人が来た。
メガネをかけ忘れて会計で健康保険証が出てこない、支払機ではおつりが違う
と伝える、怪しい行動のワタシだった。事務の人はこんな混乱ばかりに対処している
はずだ。大変だねと同情。自分を客観的に見ないで感情を素直に表す訓練をしない
と正しい老人時代に進めないのではないかと反省した。帰宅時にかねてから念願の
エアプランツを一株ゲットした。追々数個に増やしたい。絵心をくすぐる植物だ。
砂漠を転がりながら生きる大きな株もあるらしい。以前店で花をつけているのも見た
ことがある。湿度60%で生き続ける強靭さと転がる自由、毎日が冒険というのは潔い。
不言実行、戒めの言葉 (2013年8月4日)
この頃少し詩らしきものが書けるようになった。10代の終わりまでは結構書いて
いたが現実との格闘で書けない期間がとても長かった。病弱な小学生を経験して
しまったので一人の世界、本や絵がとても好きになったが良き教師に出会った
事も幸いした。中学生時代に後々その学校の校長になった男子とワタシは放課後
国語の先生の特別指導を受けた。彼の文章や詩は緑青色の屋根に降る雪など
ほぼ漢詩の世界。それに比べてワタシは自然観察、童画風。国語の辞書の中に
葦牙などという言葉を見つけて感動していたがそれが大進歩していったわけでも
無いのが残念だ。先生は御自分が学生時代に読んだ岩波文庫、旧かな使いの
島木健作(赤蛙)、島崎藤村など良く貸してくれた。旧かな使いが面倒だった。
先生は病弱そうで(多分何かの病気を経験されていた)授業中ワタシの机の端を
伸ばした小指の爪で引っかいたりするので大嫌いで、先生が自分の事を書いて
提出しなさいと言った作文に正直に大嫌いですと書いた。ちょっとナヨッとした
感じのこの先生のお蔭でこんなに長く文章や本が好きでいられる。長い間忘れて
いたが無手勝流の文章や絵画の源流をたどればこの先生にも行き当たる。
大好きな美術の先生は被爆経験者で顔にもケロイドの跡があったと記憶している。
個性を見出して拾い上げてくださる教育者という存在は子供にとって命の光だ。
ワタシはこの教育者という存在に助けられる機会がとても多い人生だ。
ほとんど見るべきものがない中に何かを見出だしてくださる修練を積んだ人に感謝。
中学生時代の終わりには交換日記というものが流行して男女脳みそを絞り文章
を書いて交換していた。なかなか良い時代だったのだと今頃懐かしく思い出す。
卒業時、ノートは6クラスのどこかにも回されて知らない友達の言葉が書きこまれて
いた。その中に厳しく、不言実行と書いてくれた遠いクラスの男子の言葉は玉石。
なりふり構わず自分の考えを伝えられる現在の状況と不思議な出会いにも感謝。
細い指と大きな石のゆび輪 (2013年8月3日)
お盆頃になるといつも何かご先祖様のメッセージが来るのに今のところは数日前の
出来事しかない。少し体調が悪くて寝苦しかった早朝、頭上でうす煙のようなものが
集まりだんだん顔らしき形が現れて2,3人の気難しい表情が読み取れた。
眉をしかめたような硬い表情だったが形がはっきりしないうちに目覚めた。
何か心配してくれているのだろうか。初めての記憶なのでちょっと恐い。
TVに大きな石の指輪の手先が映り住んでいた南国の思い出が甦った。
カンガルーの国の大使館でボンがあり外出中だったので音を聞いたわけではない
のにごく近くに住まいがあったためか耳が聞こえにくくなる症状が出た。テラピーに
通ったがはかばかしく無くて系列の他の病院を紹介された。そこには日本人の
コーディネーターが居て3か国語くらいは大丈夫だった。こういう人は海外ではとても
頼りになる。日本の病院にもいるのだろうか。医師のそばに居て通訳してくれる。
仕事経験はあるが看護師出身ではなく又全くのボランティアということでもなさそうだ。
ある日約束の時間になっても医師が現れない。病院は救急対応もしていたが夕方
近くなので患者の数もどんどん減りワット数の少ないランプの廊下の椅子で不安に
包まれて待っていた。だいぶ遅れてやってきた年輩の細身の女医はオペと渋滞で
遅れたと言った。そして木の机の引き出しをあけてワラハン紙のような紙に包まれた
診察器具を取り出した。消毒して紙に包んであったと思う。白衣を着た医師の細い
細い指には大ぶりの石のゆび輪が嵌められグルグル回っていた。通訳の話では
完治するまで時間がかかるらしいのだが気もそぞろでほとんど聞いていなかった。
そこにはあまり通わなかった。その後耳は数年かけてだんだん良くなってきた。
乳児時代に吐出した母乳が耳に入り右の方が中耳炎になったらしく多少の後遺症が
残っている。体調が悪くなると炎症が起こりやすい。住まいから車で1時間のその
病院は日本人が頼りにしていた所だ。その後も耳の医者と指輪はセットで思い出す。
白斑症あれこれ (2013年7月31日)
デデポポと山鳩が鳴く朝です。テーブルの上の腕に蚊が止まったので刺す前に
あわてて退治していて気が付きました。まだ腕には白斑症が出ていない事に。
この頃化粧品による症状が話題になっていますがワタシもジャカルタ滞在時に
発症しました。評判の良いK国の美容院に娘と行き毛染め液が頭皮にピリピリ
しみて変だなと感じた後日に首の後ろ根元付近に白斑が現れました。
今では頭皮全体とオデコと顔右わき、首後の白斑も前に広がってきました。
両足の脛表はかゆみがひどいので掻いた後から白くなり対称的に広がっています。
インドネシアの医師にこの話をしたら、まあ怖いわねと看護師と顔を見合わせ
ましたがあちらの国では赤班白斑黒班と色んな問題を抱えた人をよく見かけました。
尾てい骨と背骨辺りもひどいかゆみがありかきむしり発症しています。当然白髪
問題も深刻です。白斑のところには白髪しか生えません。しかし不思議なことに
足の白い部分の真ん中が少し茶色になり黒毛根がみえます。改善している所が
あるのでしょうか。この辺の事は注視していきたいと思います。かゆいときには
レスタミンコーワなどすぐに飲んだり塗ったりして対処したほうが良いです。
色々な出来事が重なり出てしまった病だと思います。シンガポールの健診時には
オプションで(別料金)華人医師に診てもらいましたが日本の方が良い医者がいる
でしょうと言われました。日本では町医者にステロイドの塗り薬をもらいました。
海外滞在中なので沢山下さいと言い薬局で受け取ろうと思ったら、あなたこんなに
この薬を使ってはダメですと言われ、紫雲膏を勧められました。この薬は薄めて
容器に入れてくれましたがあまり変化がなかった記憶があります。人により効果が
違うのでしょうか。勇気ある薬局の方に感謝。年齢的に諦めの境地が強く熱心で
ないのも事実です。自己免疫疾患らしいです。
肝嚢胞との関係が素人なりに心配です。2年余り薬を使わないでいるうちに増えて
来て、上から足を見下ろすと小さな白いしぶきのようなのがありいずれ全部白くなる
と思うとやはり医者に行かないといけないかなと思います。通院している病院の皮膚科
に相談してみようかと考えています。免疫力があがると解決するのかもしれません
が、最近顔の方を少しでも白くしようと思い美白化粧水を使用したので逆効果だった
のだと返って心配事を増やしてしまいました。白斑が出る部分は人により違うし
命に別状はないとは言え悩みの種です。保険が効く化学療法もあるようです。
優先順位は肝嚢胞なのでまずそちらの検査や治療を進めないといけません。
思いがけず忙しい熟年時代に突入してしまいましたが悩みばかりの毎日では
ありません。希望や楽しいことや感動を織り交ぜながらの日々です。
デデポポが去り蝉しぐれが戻りました。ブルーベリーを毎日4,5個は収穫。感謝。
涼風とコーヒーの朝 (2013年7月30日)
情報によると犬の散歩は早朝5,6時がベストらしい。長年の自分の行動が当たって
居て安堵する。夜8時でも地熱が残っていて毛のないお腹に熱が伝わり良くないらしい。
入院時に備えて2年前から散歩は朝のみにしている。平均体温が38度の犬にとって
夏場は地獄だ。犬は状況理解が深いのでちゃんとペースを調整してくれた。
家人同士の朝会話はその日の犬の体調を尋ね合うことから始まる。
熱中症、低体温症と報道されているがワタシも時々平熱が36度以下になる時がある。
いくら計り直してみても上がらないと壊れたと思い断念していた。買い換えたこともある。
やはりいろいろな知識を得ないといけないと考え直す。1月の入院時には西向きの
部屋故昼間は温かすぎて部屋のエアコン設定に触らないまま過ごしてしまった。
夕方から寒くてカーディガンを羽織り厚い靴下で対応。廊下がなぜ暖かいのだろうと
訝っていた。退院時初めてエアコンが作動していないことに気が付いたのだ。
しかしこのお蔭でオペ室の寒さ(部分麻酔なので体感)は辛抱できた。看護師が
この部屋は寒いわね〜と言って居たことも後で思い出した。
コーヒーをたくさん飲むと肝臓に良いと高齢のドクターがTVで話していた。ワタシは
薄いコーヒーを飲む回数が結構多い。胃の為に必ず牛乳を足す。犬はベランダの
角風に横たわり、ワタシはコーヒーと新聞。涼しい風と蝉の声が綾織の朝だ。
アルゼンチン空手選手団 (2013年7月29日)
ほとんど座れる総武線各停電車内で成田に向かう国際試合帰りとみられる一団に
出会った。10人近い男女にがっちり取り囲まれてしまった。シルバー席の端っこ
で座る隣にはワタシの5倍はありそうな腕の女性が居た。向かい側の席には
大人しく目を伏せがち又は目を合わせない真面目そうな10代の男子とメガネの
お母さん的朗らか声高声太女性が座っていた。この目を合わせないという点は
海外では重要だ。一番最初にチラッと見てほとんどをキャッチしたらそのあと決して
注視しないということは海外の方が会得している能力だと思う。日本人はそのチラッ
と見てすべてを様々を読み取る術に長けていないと感じる。自分の経験からだが。
立っている立派な体格のオジサン風男性とメガネのお母さん的女性の口からは
機関銃のごとく高らかに声が出っぱなしだ。センセイという言葉が良く出てくるが
それ以外は全く理解不能。時々全員大爆笑のあとその女性が口に指を当てて
しーっと言う。しかし静かなのは数秒。電車内の日本人は皆静かに心得顔だ。
目の前に立つ若い女性はさっきから団扇のプラスティックの柄をガリガリ齧っている。
全員日本語文字と空手選手のイラスト入りTシャツを着ているので迷子の心配なし。
オオッと雪崩のように席の向こう側に彼らが移動した。デジカメを振り回している。
両国辺りは花火の日。シュッシュッーポンと始まりの花火の大人しいのがビルの
間に見えた。お楽しみはこれからなのに残念。降りる駅まで何とか頑張って座り
続けたワタシ。通路はカバンやリュックでいっぱいなのでやっと降りることが出来て
テイクケアの一言も出なかった。これが海外だったら席に座る勇気もなかったに
違いない。言葉なんて自然に出るときに出せばよいはずだ。無理することもない。
偶然の出会いだが彼らの健康的な明るさとファミリアな雰囲気はとてもまぶしかった。
アンデス山脈、ブエノスアイレス、スペイン語、遠い南アメリカからようこそ。
太い腕やまっすぐな黒い瞳と四角い顔立ちの若者たちからパワーをもらった。
祭りを置いてきた (2013年7月28日)
商店やレストランやビルが立ち並ぶ狭い坂道には
カラフルな着物姿の踊り子たちが寿司詰め菱餅状態
下から見上げると熱気とパワーの蜃気楼なので
ココロがおもわず一歩後ずさりしていた
浴衣姿の若者が集う 商店街の奥さんが笑う
料理店の入り口では打ち水と威勢の良い挨拶だ
老練の男女は若い人の指導に腕が鳴っている
どんどん押し寄せてくる黒雲を見上げていたワタシ
同じ場所で踊りの体制を整えている群衆の頭上で
ソロリと吹き出した風にも気が付いた
なかなか動き出さないので小さな子供の連は気もそぞろ
目をこすり なだめられ オデコに髪が張り付き扇がれる
祖母はケータイ写真に熱中するが孫のアップが決まらない
背負われた赤子は踊るチチの背中で眠り呆けたままだ
がまんがまん 号令が出るまで ほんの少し前の連が移動するまで
浴衣のお姉さんのアップした後ろ髪を掠って雨粒が一つ二つ
勢いに乗った風がさあーっと坂道を駆け上がって行く
黒雲はあっという間に頭上に来ていた
動き始めた喧騒の中で団扇を片手に隙間目指して移動する人々
信号辺りではグルグルと回る木の葉と真横に吹く力強い風が踊る
駅へ駅へ 轟き始めた雷のケイコクの声に押されながら
上ってくる人を遮って後ろ髪をひかれる思いのまま友と道を急ぐ
よさこい祭りを 坂道に置いてきた
ヒぺリカムの赤い実と更紗の扇子 (2013年7月27日)
沢山の花をいただいた中で最後まで生き残ったのはヒぺリカムです。オトギリ草科
なので花の時代は黄色の花すがたですが店先で添え物として活躍する時代は
ひたすら赤い実と緑の葉です。今では買い足してこの実だけを青緑のガラス花瓶に
挿して楽しんでいます。実は黒く変化しても落下せず手間いらずでお気に入り。
トーガン、ミョーガ、トマト、ねぎ、干しシイタケ、とーふ、昆布などと隠し味の黒酢を
いれたスープは夏スープだねと家人に評判が良いです。多分干しエビがあればベスト。
珍しくワタシの食欲がないので知恵を絞っただけなのです。母が生前良く作っていた
白ウリと塩抜きしたイカの酢の物、身欠きにしんとゴボーの炒め煮、棒タラの煮つけ
などを懐かしく思い出し夏にはぴったりだなと思いました。京都方面の料理に似ている
のでしょうか。家人の母上は料理ぎらいだったので味噌汁にはトーフ、海辺なので
刺身、卵焼きが最強。昔訪ねた時にはやたらとゆで卵を勧められて辟易しました。
花火や祭りに魅かれなくなり定点観察中心の今、サンショウウオのように鈍い動き
ながら深くより敏感に物事をキャッチしたいものです。ジャワで買い求めた暗赤色
に白花模様の更紗の扇子が引っ越し荷物の中からようやく見つかり安堵しました。
男子高校生とお弁当 (2013年7月24日)
久し振りに黒い城を見るために暑い道を歩いてみた。外人観光客や熟年カップルが
多い。おそろいのTシャツとチノパン組も居る。すでに疲れているので城内の急階段を
昇り降りする元気がなくパス。しかしもちろんお膝元の信州蕎麦、そば粉8割は必須。
あまりお腹が空いていない家人は渋々ざる蕎麦だ。店内の観光客は若者も多いが
皆しごく真面目に食しているのでちょっと居心地が悪い。しみじみと蕎麦の味を味わって
いる姿だ。蕎麦湯もおいしくて満足。昨日大糸線から眺めた若緑色の稲田と青系霧衣
の北アルプスの絵を思い浮かべながら見慣れたものに囲まれる安心感に浸る。
大糸線は又節約改善が進みワンマン電車になっていた。バスの要領で乗る。
慣れないとまごつくはずだ。穂高の山葵畑は夏色の黒い寒冷紗に覆われていた。
美ヶ原高原旅館を目指した時は道に迷い難儀した。74歳の姉は両ひざ人工関節、
自己免疫疾患等で投薬の種類も多いが元気印だ。血糖値が下がりすぎないようにと
飴玉を持ち歩き水分補給にも気を付けている。オンボロ、マニュアル、ちび車なので
坂道でエンコして家人が降りて押した。老人向けおぼけ荘という看板が見える行き
止まりの道はすでに薄暗く、おばけ荘に見えてしまった。ミカワ風衣装でカラオケや
ダンスをする姉は正反対の性格ながら生活を楽しんでいる様子に安堵した。
松本駅の待合室ほぼ満席の中で一人の地元高校らしき男子が黙々とお弁当を
食べていた。母上作とすぐにわかる小さな二段重ね。全く周りを気にする風でもなく
丁寧にきちんと食べている姿に感動した。そのうちやってきた同じく素朴系男子
と二人仲良く笑い声をあげていたがココロに残る一枚だった。長い人生の将来も
あんな風に黙々と丁寧に作り手の気持ちに応えるヒトであって欲しいと思う。
安曇野を目指す人はおしゃれだったり登山服だったり軽い旅姿だったり色々だが
リピーターが多いと思った。今ではワタシも時々訪れるだけの旅人だ。
子供たちの遊びを見守る鏡 (2013年7月21日)
日本各地の神社仏閣に関する記事を読む機会があると里での記憶が甦ります。
里の方はスワ神社の流れが強かったようです。お寺に関してはお堂にバナナの木
があると大人たちが噂していた事しか覚えていません。そのお堂がある辺りは村
の中心に近い丘で見晴らしが良い所でした。地域の人が集う公民館のような建物
があり農繁期には農家の子供の保育や婦人会の指導、夜の映画鑑賞会などあり
活動していました。大銀杏の樹越しに下を通る汽車の様子や湖の端に群れている
蓮や遊覧船、ボートなどが眺められる楽しさは格別でした。アジア風邪の肺炎から
復活した私は母にくっついてどこにでも行っていた記憶があります。まるで大人に
話すようにいろんな話を私に話す母でした。子供心にハテナマークも湧いてきた
ものです。上の兄たちはさぞかし辛抱が多かったはずだと大人になってから理解。
一方神社は反対側の山すその湖近くにあり社務所の人が常駐していたのか記憶
にないです。ヒカリゴケなどあり時折観光客に尋ねられて案内したりしていました。
石段が下から中ほど上にとあり一番上の場所に鏡が祭られている建物がありました。
それだけなのです。高く太い幹の杉木立がぐるりと囲むそこは夏でも涼しくて
いじめっ子先輩たちと遊んだところでもあります。秋祭りには舞台になる開放的な
つくりの建物によじ登り天上から床に飛び降りたり鬼ごっこをしたり、厳かな暗い
雰囲気の場所というイメージは無くて大人たちもキオツケナサイと言うのみでした。
夏は子供たちのキャンプ場にもなり舞台に寝泊まりして大人が交代で食事つくり
に来てくれました。
秋祭りは盛大でした。青年団が仕切り村々から山車が出ました。舞台の前には
昼間のうちからゴザを我先にと敷き夕方にはお重を捧げ持った親も現れどこの家も
全員で楽しい時間を過ごしていました。出し物は旅役者のチャンバラ物が主流でした。
村道にススキを飾ったのぼりがたち神社のスピーカーから大音響の音楽が流れる
と子供も大人も単純に喜んでいたものです。そういえば獅子舞もあったと記憶して
います。屋台も沢山並びセルロイドの人形や懐しいニッキの香りや綿あめなどは
今もそう変わらないはずです。お腹の弱い私はキャンディーの類は買ってもらえ
ませんでした。今は青年団さえ持続するのは難しいと思いますので村祭りの
存在は不明です。町の中には有名な三重の塔と立派な社務所などがある神社が
あり流鏑馬などは観光客を呼んでいるはずだと思います。厳かな場所でした。
母はこの神社での旅立ちの希望が叶いました。母の里は今は統合で別の名前に
なっていますが、美しい麻の村でした。繊維をとる麻や、ビールの泡の味のホップ
のツルが巻きつく竿が並んだ畑や、蕎麦の実、たばこの葉などが栽培されている寒村
でした。村の人たちも今ではより便利な場所に拡散してしまいどんな様子になってい
るか不明です。盛大な御柱祭りが定期的に開かれているらしく母もチを騒がせたこと
でしょう。継続されている文化には敬服しますが私の記憶にある神社は遊びの場
としての楽しさや安らぎの場所です。子供心には理解不能の鏡だけがありました。
ピンクパラソルの少女 (2013年7月20日)
もうじき夕方4時半のアトラクションがハジケル遊園地
世界の伝説を語る山車が5船しずしずと登場すると
花火や太鼓や嬌声でミックス状態の海上は
ジェットバイクの波で綾取りのように切り刻まれ スリリング
観客は警備員の誘導に素直に従う羊の群れだ
より海に近く、少し高いコンクリートの階段、道沿いの最上段、
それぞれの場所に収まり まだまだ明るい真夏の空の下で
少しだけ煙り上昇する雲の様子など誰も気にしない
ピンクのパラソル、ピンクのふわっとした人形ドレス、靴下もピンク、
カバンもピンク、ピンクの髪留めもちょっと濃いピンクの
小柄な少女はたった一人で 一番人気のない場所に陣取った
最上段の道の塀の上から彼女が見下ろせた
まあるい小さな淡いピンクのパラソル
人形ドレスのエレガントな広がりと足元がかわいい
傘を閉じてくださいと警備員が遠慮がちに伝えている
とうとうハジケル歓声とアトラクションの音楽、太鼓のリズムが始まり
赤、青、黄、緑、色彩の乱舞と踊り子のしなやかな腕と手先
妖精のような小さな白い顔や姿の動きが目線をとらえて離さない
ピンクのドレスの女の子は私が見る絵の前景になった
乱れる色彩と乱暴にしかし計算された動きのジェットバイク
興奮する空間に花火がヒューッと飛び交い音響がクライマックスの海辺
若者はこの日の為にとっておいた楽しみのまっただなか
右に左にゆれて踊る単純な喜びの人々が中景
ワタシの前景にひっそりときちんと佇むピンクのドレスの女の子
なんて強い存在なんだろう なんて静かなパワーなんだろう
一人で来て 一人で帰る 団体の喧騒の中をモクモクと
動と静の対比、夕暮れの陽射しの中でこそ際立った生きた色彩たち
ピンクのパラソルの女の子 後姿だけの鮮やかな記憶
満月と杉の梢と幽体離脱 (2013年7月18日)
幼少時代のホトンドキトク状態時の体験だ。TVで某教授が人間はいろんな次元
の住人と同居しているという話をしていたがあながち否定はできないと思う。
そんな事に因む想い出だ。満月の夜、家を囲む高い杉木立の梢の隙間から
夜空めがけて飛び出した。もちろんエイッという感じで空を飛んでいたのだ。
いつも見知っている雑木林や麦畑をさあーっと滑空していくとき風を感じた。
麦の穂のチクチク感もあった。道を無視してまっすぐに湖の上に出た。
満月の月の光を照り返す水、昼間のような明るさ、鳥の声も人の気配もない。
湖の上を緊張しながら滑空して学校に近い湖の端の方まで行きまた戻った。
岸から湖を、湖から岸を眺めた。いったいどれ位の間そうしていたのか、
気が付くと母の横で寝ていた。麦の穂を感じたということは秋の事だったのか。
子供心に自由になりたいという強い願望が成したことなのだろうと思う。
春から晩秋まで臥せっていた期間は半年はあったような気がする。アジア風邪から
肺炎になりホトンドキトク状態で雨の中傘をさして母と歩いた。駅まで40分、汽車で
20分、歩いて20分くらいか。村道の松林の奥の方に咲いていた赤いコタツ花が
やけに鮮やかに見えた。到着した病院で手遅れと言われ別の病院でペニシリンを
おしりに打たれて命拾いした。どうしておしりなのかわからないが結構な痛さだった。
枕元の苦い薬を飲めば甘いお菓子を食べても良いと言われたがどんなお菓子にも
興味がなかったような気がする。しかしお菓子はちゃんと食べたらしくひどい虫歯
の小学生が出来上がった。今満月にそんな機会があったとしても体重問題で
無理だ。この記憶は何回も想い出す。そして今まで誰にも語らなかったことだ。
占星術界では今特別なことが起きている時期らしいのでその影響かもしれない。
猫額畑は昨日からのしっかりした雨のお蔭でサツマイモの葉がお湯をかけた
ラーメン状に膨れ上がり、シソの葉も境目なしのモクモク状態で超びっくり。
1、2日でこんなに変化があるものなのだろうか。乾燥地帯が数日の雨で様変わり
する光景は映像で見た。しかしもともと数本の雑草のみのところは全く変化なく
子供が埋めたのかかぼちゃのようなのが1本目立って生えていた。熟年夫婦は
ここに何の苗を植えるのだろうか、楽しみ。今日も涼しすぎる朝だ。
小雨、ダンゴ虫、ラベンダーの花 (2013年7月17日)
適度に雨が降り肌寒いくらいの朝です。ビニール傘を広げて犬の方に多めに
傾けながらの早朝散歩。児童公園あたりにいつも数えきれないくらい集まって
仕事をしているダンゴ虫集団は姿を消していました。仕事完了とみられる砂の
ような小山があちこちにあり結構な仕事量にちょっとびっくりです。ミミズさんは
草の下でゆっくりと雨休暇を楽しんでいる模様。
建物の中庭に住人用の猫額畑が数枚あり抽選後の土地が肥えていないので
コスモスが背の低いまま白い花をつけていたり、サツマイモが二畝だけあったり、
雑草さえひょろひょろしている様子に同情。それでも熟年夫婦が長靴ばきで
その雑草を抜いている姿に感動。土を自由にいじれる贅沢というのに共感。
横にハーブばかり沢山寄せ集めた植栽がありラベンダーのムラサキ色の茂み
などが雨で強い香りを放っていてとてもリッチでお気に入りの空間です。
帰宅後の老犬は南から西に抜けるベランダの角風の中で大いびき。
この頃耳も遠くなり外出先から帰宅しても気が付かず足元で爆睡しています。
甘辛せんべいやNZ林檎の事 (2013年7月16日)
この所カロナールの出番が増えている。1週間ばかりボーコー炎気味で1日1錠
+胃薬。37.3度の発熱で2錠飲んだら熱は直ぐに下がったが案の定腹壊しだ。
薬の成分が大腸の良い菌まで殺してしまうのだろう。普通の人は発熱とは
言わない体温だが肝嚢胞をたくさん持っているので警戒する。以前37.6度で
感染症が疑われたし37度でも肝臓辺りがズキンズキンと痛む経験をしている。
嚢胞のどこに感染症が出ているのかが分からないと困ったことになるのだ。
カロナールを飲まないで様子見する勇気はなかなか持てない。まるで指先の
切り傷のように肝臓辺りが痛むのは怖い。ジャカルタのある病院の日本人医師は
お腹をひどく壊して通院した時に薬と一緒に甘辛せんべいを持たせてくれた。
何故甘辛せんべいがお腹を壊した後に良いのかハテナマーク。しかしこの猛暑に
負けてなるものかという気持ちで朝からどら焼きとおせんべいだ。カロナールは
有難い存在だが長期使用は肝臓の機能に悪いらしい。優先順位で考えたい。
信州の出身なので林檎に目がない。今時はと思案していたらジャカルタで食した
NZ林檎の事を思い出した。あそこはこれから秋に向かい果物をたくさん輸出する。
スーパーにあった。小ぶりのジャズ。昨日この林檎と枝豆とアイスクリームの
夕ご飯なのでお腹に良くなかったのか。最近はこの程度では壊れないはずだ。
大腸ポリープ特大があった頃は生野菜や生水を極力避けて暮らしていた。
皮ごと丸かじりできる林檎は懐かしい。昔は酸っぱい紅玉がおやつだった。
今日は涼しい風がふんわりとカーテンを揺らしていて秋さえ感じる。
4時起きの犬散歩を渋るので家人は仮病かと怪しい目線なのだ。ワタシに3錠、
イヌに(犬もお腹の調子が悪い)1錠とビオフェルミンを飲む。甘辛せんべいを
購入しないといけない。醤油と砂糖の味は心の緊張を緩めてくれる。
ノラカッチン (2013年7月15日)
里ではこう呼んでいました。日中の強い陽射しで積雪の表面が融けて夜中に
又凍ると起きる現象です。調べてみると富山の平野部ではスンズラ、他部では
シミシミバンバンと言うらしく宮沢ケンジの本の中ではかた雪カンコ、しみ雪
シンコとあります。雪が積もる地方では様々な呼び方があるのでしょう。
スキーヤーなどはクラスト、あるいはモナカ雪とも。この雪はスキー板のエッジが
利かず往生した経験があります。いろんなタイプのロウを空き缶に入れて溶かし
雪に合わせて塗りスキー遊びをする方法は上の兄が教えてくれました。
少し斜面、長い斜面、少し急な斜面、トラック道の長い斜面と上達します。
粉雪、ボタ雪、ザラメ雪、サラサラ雪、ダイヤモンドダスト、そして根雪。
末っ子はスキー板までお古でしたが不平不満は余リ感じませんでした。
早朝、山すその畑の上に積もった雪がツルツルピカピカ輝いているとノラカッチン。
いつもの登校道をショートカットしてまるで野兎にように雪の上だけを走って
行くことが出来るのです。時々木の根っこや藪草の吹き溜まりに足を取られると
悲惨。1mも穴に落ちたり方足だけ落ちてしまい抜けなくなったりで長靴の中は
雪だらけです。いじめっ子先輩はこういう雪面歩きにも詳しくてコツを教わりました。
スキップスキップ、ノラカッチン。野兎の几帳面な足跡が松林の中に消えています。
どんどんスピードを出して畑の上を駆け下りると行き止まりは湖です。スリル。
春が近くなり陽射しが強まるほんの短期間の楽しみだったと思います。
首にタオル、犬にも保冷スーツ、玄関には恒例の凍ったペットボトル、西側の
お日様対策にはブラインドと暑さまっただ中の今なぜか思い出す冬の光景です。
早朝には79歳と81歳の元気印散歩友達と情報交換しました。この二人の犬まで
元気印なのです。病気自慢をしてのけぞられてしまいました。見かけだけは元気な
自分です。盛り上がる話題が問題ですがとにかくこの辺の高齢者は朝からスポーツ。
内視鏡治療できずにご主人を大腸がんで亡くしてしまったと1人はカラ元気。
山風が結構強い1日の始まりですが海沿いのせいか湿度が70%以上あり蒸し蒸し。
暑いときは真冬の想い出を取り出してちょっとブルブルしてみましょう。
電車の中の蚊 (2013年7月13日)
白いシャツと四角い背中が並ぶ満員電車
会社帰りのヒトの疲れ具合がわかる立ち姿だ
天上の網を潜り抜けてサアーッと落ちてくるカビ風
スピードを上げる電車 曲がり角急カーブの電車
ヒトの汗と蒸気で目も頭もクラクラする
1日が終わる時間なので頭上のライトの光は静かだ
時々ゴオーッとやたら強気になるエアコンの風
ヒトの思考はほとんど停止している
あてどなく舞い狂う ふらふらふらふら1匹の蚊
眠る ケータイ覗く 一人でぼやく しなだれる
キレイなヒトも汗まみれなのでキレイな服の色もウナダレル
見渡す限りどこまでも 芳しい魅力なんか無い
それでもアテもなく ふらふらふらふら 上に下に
右に左に ただ迷い飛ぶばかりの頼りない蚊の動き
力を振り絞って誰かの腕にとまらなければならない
ふわふわしながら考える イキルイキルぞ
霧のように吹き出す風の下で止まりホバーリング
どうか栄養を一滴 もう力不足の蚊だ
でもワタシの大事なチはあげられない
稼ぐ腕 働く足 おおわれた腕 むき出しの指
どれにしようか 何処にしようか ぱったりと疲れた蚊
力尽きるまでは飛ぶしかない 誰にも好かれないままに
自分の運命は自分次第だから
13.5歳、トリミングで若返る (2013年7月10日)
ほぼ4ヵ月振りに老犬のトリミングをしていただきました。動物病院をいろいろ
検索して一番近くて少し規模の大きな場所に決めて予約してから1か月後。
以前生後3か月から診ていただき長い時は2,3週間宿泊した病院が割合と
近所にありますが緊急時を考えると極近所なのです。宿泊が長かった時
犬は水道の蛇口状態の下痢と血便で大騒ぎでした。野良犬状態から又
お嬢様犬に昇格。迎えに行った時待ちかねてワンワン鳴いていました。
犬がご法度の国の出入りはとても大変で書類をそろえたり、成田動物検疫との
交渉も粘り強く続けてようやく2人で先に帰国できたのです。行きも帰りも到着荷物
のグルグル台の上に手荷物として現れました。ジャカルタでは台からすでに
降ろされていてアワテタものです。帰国搭乗時バゲージカウンターの横にポイッ
と1,2時間放置されていてその間ずーっと鳴き続けていた老犬です。天上の
高い空港の建物では声が響き放題で後ろ髪がどんどん長く引かれたものです。
海外ではワクチンと狂犬病が一緒になった注射をトリミングの後にしたりして
居ましたが今考えると乱暴なことをしたと後悔。主も犬も先に進むのが精一杯
なのでした。狂犬病予防注射は体調を見ながら涼しい風が吹くころに。
帰宅時に車窓から見た近所の小さな八百屋のカゴ盛りスイカは魅力的でした。
四つ切リですが元の大きさを想像できる大きさで黒々の種も立派。ジャカルタで
良く見た大きくて種が真っ白のスイカとつい比較してしまいます。輸入物も多く
何かホルモン系のくすりなどが使われていなければよいがと噂していました。
次回は必ずゲットしたいものです。歩いて行って買えば良いだけの話です。
スイカは赤く種は黒いのが良いです。
石灰工場には月見草が似合う (2013年7月9日)
墨黒ヤミのトラック道両側に咲く月見草(大マツヨイグサ:アカバナ科北米原産
で明治の初めに渡来したとある)はまるで満月の光を束ねたように明るかった。
クロとキイロとむせ返るような花粉の強いニオイの中で立ち上がる生命力の強さに
圧倒された。この花は開花すると8pにもなるがその蕾も大きく子供たちは昼間
クルクルと巻き戻して開いて遊んだものだ。脳裏にインプットされたままアウトプット
されない記憶はとても多いがこの花と背景は割合とよく想い出す1枚の写真。
石灰岩を焼くと窯は冷めるまで時間がかかり辺りも熱を持っていた。その周りにある
冷たく澄んだ原石は切り取られた面が複雑に積み重なり冷たい灰色をしていた。
碧い空、緑の杉林、明るい灰色の石たちとクローバーの空き地。子供にとっては
境界線のない牧場のように広い空間に見えた。昔は海がここまで広がっていた事を
を物語っている貝の化石や海の生物のサンドイッチ。石たちの宝物と言える水晶や
六方石、黄鉄鉱、黄銅鉱などは山がヤセていたせいか小さなものしか見なかった。
ちょっとシュールともいえる景色はその後の自分の絵にも多少影響しているはずだ。
去年秋、タマ地区の道端で収穫した一鞘の小さな花の月見草の種は、山椒鉢の
根元にまいておいたのが今春溢れるほど生えた。しかしその生命力の強さで
山椒の葉がだんだん枯れ気味になりあわてて2本を残して除去。荒れ地でもたくましく
生きるストローのような根っこを持っているのを見て納得した。生き物の生存競争
には明と暗がつきものだ。ヒトもカンを磨いて淘汰されないように生きるべしという
ことを連想する。様々な修業時代時を経て一見弱そうに見えるが芯は強いのが
取り柄のヒトになった。
KK君の笑顔のことなど (2013年7月7日)
小学1年の始めにアジア風邪に罹りその後の数年は体育見学、病院通いによる
遅刻早退。身体検査によるレントゲン写真問題、ツ反の陰陽問題、食欲なし、
給食残し問題などさらなる修行時代が待っていた。保健室にはよく卒倒する仲間
(真後ろに倒れていた)のA君などが常連に居てさみしいということはなかった。
保健室の先生が手の指を見て陽射しにかざし、まあこんなに細くてどうのこうのと
叱ったが困惑した。5歳年上の兄から見ると小生意気な妹で気だけは強かった。
山の急斜面駆けおりや長距離徒歩運動の繰り返しで体力補強したのだ。
小中合同木造3階建て校舎の給食室にジャガイモやダイコンを供出した記憶がある。
あの時代にしては早い給食制度だったのかどうか、その後さらに3,4校合同で町中に
新設中学が出来て地域のモデル校でもあり3階建てで給食専用エレベーターもあった。
今、年数を経て建て直すためグランドに新設して旧校地をグランドにする計画は
完了しているのかどうか。途中で学校近くに越すまでは徒歩と電車で片道1時間は
かかった。しかし元分校地域から自転車で片道1時間のS君は傍目にも立派だった。
彼は追々この母校の校長になった。途中でちょっとグレかかったが中学浪人して
方向が変わる。熱血先生が沢山いて落ちこぼれ気味の生徒たちも無事に救われて
感謝している。教職員一丸となって生徒指導していた事が理解できその後の顛末は
色々だが古き良き時代だったのだと思う。用務員のように麦わら帽子姿で働いている
校長先生がいた。ある時は植木の手入れ、ある時は中庭の草むしり。
KK君は小学遅刻時代にその家なども認識していた。遅刻友達の脊髄カリエスで
母の背に負われて登校していたBさんの家はその近くで学校から15分、よく合流した。
1時間かけて湖のほとりを歩いて来た母娘にはウラヤマシイ距離だ。疎開者や異国
出身のK君の様な人がまだ沢山住んでいた時代だ。とても苦労している様子が記憶
に新しい。自分がそんな状況だったので記憶に残っているということだと思う。
彼は授業中よく山の方にエスケープしてしまい授業を中断してみんなで探しに出かけた。
KK君〜と呼びながら校舎の裏山や学校のスキー場辺りまで行ったのかどうか。
ニコニコと照れ笑いしながら出てきたような気がする。秋のエンゲキ会では主役に指名
された。ゴンギツネだったか。その他大勢の端から口をとがらせ顔を火照らせ熱演する
姿を見て凄いと思った。その後の彼の事は不明だが皆で探しながら秋の吾亦紅や
赤トンボ、澄んだ風や陽射しを楽しんだ絵は記憶のページの温かな1枚。その昔
アイウエオ順で2番目の彼が後ろを振り向きながらニコニコ笑っていた事は確かだ。
エイザンスミレ咲く源流 (2013年7月6日)
山の頂上付近から流れてくる小川の源の事がとても不思議だった幼少時代。
水道水が普及していない頃の山村生活は上流に近い家から順に小川の管理を
してゴミを流さない様に汚さない様に大切な決まりに従って暮らしていたはずです。
小川から遠い家はさらに工夫して水の確保に努めたのです。しかし砂や石や炭で
濾過しても何らかの問題、原虫などが原因になる病気は地方ごとにある様子です。
肝嚢胞もキタキツネに因むケースがあると検索されます。自分の場合は多発性
なので幼少時の胆道などに問題があったのか否か確たる原因は不明です。
何しろ昔の山村付近にはいろんな動物やらが生息していたので究明は困難です。
もともと母体時代に強い薬の駆除攻撃にあったのに命がつながったと伝えられて
いますので運は強いようです。いまだに墜落する夢を見るのはあるいはその時の
記憶からかも知れません。カルシウム不足からか小さなイボがたくさん出来た時も。
イボ採りの神様というのがあり小石を借りてこすると無くなるという風習もありました。
辻の祠に同じような丸い小石を探して2個にしてお返しするという言い伝えが。
十歳年上の兄は中学生時代に自宅で人工ジュースを作る実験をしてそれを飲んで
しまい劇症肝炎で危険な状態になりました。当時高額の注射をして乗り越えましたが
農薬時代ではないので取り放題の田んぼ横の小川などにシジミ採りに駆り出された
ものです。道から覗くだけで大きなシジミの姿が見えました。低学年の汽車時代には
待ち時間を利用してみんなで採ったものです。田んぼにはオタマジャクシやフナ、
川にも小魚川エビタニシなど豊富な頃でした。しかし下水にいろんなものを流す
丁度今のジャカルタのような年代でもありました。ドブとかどぶ板などが存在しました。
洗濯石鹸交じりの汚れたどぶ川が家の前にある生活というものが見られたのです。
汽車の線路にも見たくない落し物が必ず落ちている時代。これは電車になり解消。
アジア風邪で命の危険と隣り合わせた子供を鍛えるために両親は良く山中の道
を登らせました。これはヨロヨロしてついていかないといけないつらい修行でした。
5月の若葉が風にそよぎ芳しい香りに包まれていましたが、酸欠の金魚状態で
それらを見上げながら忍者のように姿を消す親を恨めしく思ったものでした。
そして小川の源をついに訪れる日がありました。山の中で道ではなく小川の横を
登って行きました。水が少し増えたり枯葉に隠れてしまったりして樫や楢などの
広葉樹に囲まれた大岩の下にスッと消えていました。水音は大きく流れも太く岩の
下に見えたような記憶もあります。岩の近くにはエイザン(比叡のエイ)菫が咲いて
いました。調べてみるとエゾスミレとも呼ばれているようですがギザギザの葉と白い花
が印象的です。大きな流れの水流は地下に潜り又どこかで姿を現していたはずです
が家の近くまで来るのは小さな水流でした。子供心にハテナマークがついたままで
今でも山の頂から湧き出てくる水に感動します。源流と白い菫は爽やかな想い出。
山村生活・修業時代 (2013年7月3日)
幼少時に住んだ家はスギ林に囲まれた山の中腹にありました。石灰岩の採石場と
その加工工場もありました。大きなサカナ型の湖を挟んで向こうの低い山の辺り
には九州の方から運んでくるという石炭を積み下ろす小さな駅が見えました。
その駅までの道のりは3,40分。田んぼの中の一本道を通りぐるりと湖の端を巡る
ので大雪の日には馬さんが残した足跡にハマったりして悲惨でした。その駅も
今ではあちこちの田舎と同様に無人化していて風情がありませんが観光地として
の賑わいはあり、いつ行っても人が絶えない湖水地方です。
時代の半ばまではかろうじて消費量の多かった石灰でしたが化学肥料に押されて
敗北。景気の良い時にはクニの推進策に乗り、村の青年団や親類の若い衆、
など大勢働いていた写真が残っていました。町の方から床屋が出張して来る、
まかない担当夫婦が住みこむ、自家用の他に野菜畑を確保していたようです。
大きな木のテーブルと長椅子には働く人たちが土足で腰かけ食事をしていました。
猟犬が入口に陣取り、猫が捕えてきたリスの子供(母が煮干しと交換した)や
綿羊、荷運びの牛、鶏、ミツバチの箱(2個くらい)なども記憶にありますが後々
だんだんいなくなり鶏くらいが縁の下で卵を産んでいたはずです。
親の背中に陽が当たり輝く時代から陰り失せる時代へと時は流れました。
トラック道にトラックがあまり来なくなりほぼ修行と言って良い時代に突入しました。
富山の薬売りは時々訪れました。北アルプスを越えてそのまた手前の小熊山辺り
を超えてたどり着くのにいったいどんなケモノ道を歩いてくるのかと不思議でした。
夏場の雪解け時を待って来ていたと思いますが、後年富山の住人と話した際に
富山側から北アルプスを眺めて同じようなことを考えていたということを知りました。
子供の目には屏風のような北アルプスで夏場の短期間を除いて常に雪をかぶって
居ました。物売りの一人に小谷のオババが居ました。相当な年齢で小柄でしたが
ゴムひもや櫛などの小物を包んだ大きな風呂敷を背負ってやってきて1泊。
糸魚川の方から山の中を通る塩の道というのもありますが、彼女は汽車に乗り
あちこちの得意先を回りながらやってきたはずです。いろんな人が良く集まる家では
ありました。野沢菜の漬物などお茶うけに断らない限り何回でもお茶を勧める里です。
命に係わる緊急時には町の方から黒い車に乗りトラック道の砂利を蹴飛ばしながら
医師が往診してくれました。家の近くで停車してまばゆいライトを消し交わす緊迫した
会話と空気感は印象的でした。古く黄変した写真のような記憶になりつつある時代。
この修業時代のお蔭で後年の難しい状況を潜り抜けてこれたような気がします。