くろまめの銀鏡1

故郷の銀鏡(しろみ)は霧深い山肌とV字の谷間に在ります

平成24年7月 『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』 (弘文堂)
         著・濱砂武昭 / 写真・須藤功

平成25年3月 「第23回宮日出版文化賞」受賞

「銀鏡神楽」は昭和52年5月17日に「国指定重要民俗文化財」の指定を受けました。 所在地は宮崎県西都市銀鏡(旧東米良村)です。 銀鏡地区は九州山脈に連なる龍房山を背後にひかえた山村です。

12月12日 門注連祭(かどしめさい)
12月13日 二十八宿祭(にじゅうはっしゅくさい)
12月14日 宵祭(よいまつり)
12月15日 本殿祭 
12月16日 ししば祭 

14日の夜〜15日の朝にかけて徹夜で舞通します。 式33番の神送りは本殿祭終了後に行われます。

 


良いお年を!  (2012年12月30日)

     銀鏡の樫の実ギャーとカライモ餅です。 樫の実ギャーはダマになってしまってございます。  はなはだではございますが どうぞお許しいただきまして  ごゆるりと おくつろぎくださいますよう。  ありがとうございました。  

宮日新聞「記者ノート」より 西都市局長 伊佐賢太郎  (2012年12月30日)

          上の掲載記事は2012年10月1日付けの宮崎日日新聞に掲載されたものです。  「東京銀鏡会」からの総会便りに同封されていました。    私は読み終えて しばらく放心状態にありました。  チカラを感じました。  

銀鏡・銀鏡・嗚呼!銀鏡  (2012年12月30日)

       今年9月22日、このマスコット(どう呼んで良いのかわからないので)に出合った。  朝に租霊祭、それから『銀鏡神楽 日向山地の生活誌』の出版記念式典が開かれ出席した。  会場で事務局長の甲斐優氏(神楽と歴史と生活の本作りの発案者でもある)から、このマスコットをいただいた。  こちらに持ち帰ってきて居間に飾り、それから時々場所を移して飾ってきた。  そして今日から玄関に飾っている。  ところで、このマスコットは12月の例大祭で売られていたのだろうか?  「銀鏡 山の駅」でも 売られていたらいいのに。  どうも気になる。

同郷の友人の新聞投稿を紹介します  (2012年12月29日)

    宮崎日日新聞「お茶の間」2012年12月24日 掲載    

2012銀鏡神楽の写真    (2012年12月28日)

 以下、浜砂伴海さんのブログです。  12月14日 神迎え 宵祭    15日 本殿祭 神送り    16日 ししば祭 まで6回に分けて写真満載です。  ぜひお楽しみください。 http://blog.goo.ne.jp/tokyoctv/e/8339371b539ca5594792a828bbd77b9d/

限界集落で伝統芸能を継承していくということ    (2012年12月22日)

 「銀鏡神楽」を見た人の印象は「これまでみたことのない美しい舞だ」とこたえる。  「銀鏡の人」については「あちらから挨拶をしてくださる。気さくで親切だ」とこたえる。  34,5年前、義母を初めて銀鏡に案内したとき、宮崎空港から西都の妻までバスで移動し、 妻からは(当時バスは日に三往復していた? おそらくバスは出た後だったのだと思う) タクシーで向かった。杉安橋を渡るとき「ここからママのお家までどのくらい?」と聞かれ て「この橋を越えてからが長いんです。ねえ、運転手さん」と助けを求めた。この頃の道路 事情は大変悪く、がけ崩れなど数箇所も起きていて、岩肌が頭上に迫り出していた。曲がれ ば山、曲がれば谷と、ダムの湖面は静かだがガードレールの白が見えれば見えるほど怖い気 持ちになったものだった。膝に抱いていた娘をぎゅっと抱きしめることも。対向車がいつ飛 び込んでくるか恐怖だった。運転手さんは「そうですねえ。このまま走って一時間ちょっと くらいでしょうかねえ。ご気分はいかがですか?」義母と娘のことを気遣っておっしゃって くださった。義母は車酔いをおこしていた。途中、道の膨らんでいるところで外気を吸った。 義母はこのあと銀鏡に3回行っているが、このときの銀鏡行きのことはとてもよく覚えている。 実家に着くなり吐いたがその夜からは元気になり、滞在中は朝夕散歩していた。誰とも出会 わなかったことを私たちに告げた。放し飼いの犬をみかけたこと、犬は懐っこい顔して近づ いてきて、ちょっと自分の顔を見てそして行ったと。犬は挨拶しているようだったと。学校 帰りの子供たちが元気の良い声で先に挨拶してくれたと。大人も笑顔で会釈されたと。  さて、34,5年前も銀鏡神楽にはたくさんの方がお参りされていた。しだいに宮崎県内のお 神楽はマスコミにとりあげられ”宮崎の神楽”として知られていった。  銀鏡神楽はそういったオモテには出て行かないで、12月14日を動かさないで、昔のままの形 で、「神楽ならい」と言う伝承方法で代々に渡り繋いできている。平成になり限界集落と言う 不名誉な名称がついた。村のみんなは「イキイキ集落」という名前をつけて今を生きている。 「ひったまげたプロジェクト(銀鏡・上揚自立促進事業)」が立ち上がるも、なかなか産業に は結びつかない。  限界集落のため「銀鏡神楽」の舞手(祝子 ほうり)が減少していることが問題だ。 毎年10月から神楽習いのスケジュールが入るのだ。みなさんが仕事をセーブして12月14日〜 15日をしっかり舞い通すことに目的はひとつなのだ。23名?の祝子さんたちのほとんどが60歳 台だ。その方たちのご子息は学生だったり、また町で働く青年だったりするのだ。銀鏡では家 族の経済を担える産業が無い。産業を興し人が増え、銀鏡神楽の後継者が増えることが望まれる。  照葉樹林を崩さないで、その恩恵を自然に受けているもので、なにか、なにかが あるのでは ないのだろうか。  数年前からケータイなどの通信環境も充実してきている。それまでは杉安橋を渡ってからは 圏外に。瓢箪淵あたりでようやく圏内に。それからも圏外、圏内と、落ち着かないのであった。  インターネットによる地域の情報の発信が重要なのは間違いない。
 

銀鏡神楽    (2012年12月19日)

銀鏡神楽のレポートを同郷の那須省一氏がブログで書いています。  「さるくは小休止でござる」(↓クリック!) http://www.kankanbou.com/saruku/  

銀鏡神楽    (2012年12月14日)

 12月14日、今夜7時からは、銀鏡神楽が舞われている。夜を徹して舞い通すのだ。 天気予報によると今日明日雨で例年よりあたたかくなるということだったが・・・。    神楽を観ながら囃す歌(神楽囃子)がある。実家の隣のさよちゃんは、この歌を地元の 古老に教わって練習したと聞く。廃れないよう、廃れないようにと昔のままの抑揚で歌っ ていることと思う。歌は男女がかけあいで歌う歌(半ば定型化された)もある。  言葉の意味、背景を知る者が歌う歌は、必ず伝わる。銀鏡には古語がたくさん残ってい て今も使われている。  昔ながらの抑揚だから安心できる。昔ながらの抑揚だから即興の歌詞を楽しめる。  16日、ようやく銀鏡情報を聞くことができた。これまでになかったほどの大雨で雷も鳴り、 筵敷きの舞台(外神屋)に屋根(テント)をこしらえて舞ったそうだ。  

銀鏡神楽    (2012年12月1日)

 明日2日(日曜日)は、銀鏡神楽の日習いだそうだ。  今日の関東は寒かった。予報を信頼せずに出かけたら、親戚の家に着くなり雹になり、 雪になり、そして雨に変わった。帰路 空は晴れ上がり 外気温2、5℃。    「12月14日の銀鏡神楽は零時前後になるとこのくらいになるのよ。空気が澄んでいる から肌に突き刺さる感じの寒さになるのよ」と自慢する。毎年同じことを聞いてくれる 家族に、更に念押して「寒いけどね、この寒さが 銀鏡神楽の素晴らしさをより強く感 じ取ってくださっているのよ」と言う。自慢したくなるのだ。  今一度、朝吹氏の書評(2012/08/26付 讀賣新聞)を紹介したい。      昨年の12月14日は、女優の山口智子、鶴田真由、多摩美術大学芸術人類学研究所 (Institute for Art Anthropology, Tama Art University, Tokyo, Japan)所長の 鶴岡真弓教授、写真家の赤坂友昭、川内倫子が取材で銀鏡を訪れてくださった。 このニュースを聞いた時、私は産院に居た。何故 銀鏡に女優、大学教授、写真家 がいらしたのか? とにかく事情はあとでわかることだからと生まれて間もない孫 の手足を見ていた。 事情がわかったのは翌年のことだった。  2012年3月10日発売号『SWITCH』特別編集APRIL2012( LISTEN. 山口智子)』 http://www.switch-pub.co.jp/switch/2012/03/074121940.php    本の見出し左下方に夜を徹して舞い終えた祝子(ほうり)さんたちの写真が出ていた。    今年も銀鏡神楽に最大関心を持って訪れてくださる方々に着膨れして見て頂きたい。  焼酎・そば・うどんであったまってください。    15日は式33番の「神送り」で銀鏡神楽は終わります。  猪を入れた粥「シシズーシー」をめしあがってください。  希望されれば参拝人も食べられるそうです。

銀鏡のカシの実粉   (2012年11月28日)

 
 昨年の樫の実(ドングリ)の粉が私の手元にあるのは須藤功さんのおかげです。  11月が過ぎ、もうドングリ拾いをあきらめていたところ、まさかまさかの、  しかも”銀鏡の樫の実・ドングリ粉”なのだ。  今年9月22日『銀鏡神楽ー日向山地の生活誌』の出版記念祝賀会があり、そこで出さ れた御膳(下 写真)は地元婦人部の手作り郷土料理だった。  
 (下 拡大写真)  
 「かしの実ギャー」は、弾力がありコンニャクに似ていた。さっぱりとしていてまた 食べたくなった。とても魅力がある。照葉樹林の環境を保全する一方で活用もして行け る素晴らしい郷土料理だ。  ギャーとは? どろどろした 粥のようなもののことを言うようだ。  実際に作ってみたくなったことを「くろまめのスローフード(9/30付)」に書いていた ので、もしかして須藤さんが読んでくださっていたのかな? 須藤さんは先日の臼太鼓踊り を見にいらしたときに「山の駅 銀鏡」で”カシの実粉”のことをお訊ねになり、丁度そこ へいらした方が家にありますよとおっしゃってくださり、そういった経緯で私の所へドング リ粉が(ドンブラコドングリコと書きたいくらい)。ありがたい。   「かしの実ギャーを作ってみてください」と 書かれてあった。  作ります。 必ず。   昔の銀鏡の女性たちが農業・林業の傍ら、家族の食のことではかなり苦労していたことが 『銀鏡神楽』の本からも伺える。教育も大事だが、貧しさの中では食べることに先ず工夫を しなければ”ばっかり食”になってしまう。ドングリを製粉にするまでの工程(時間と労働) についても、保存・加工するための道具についても須藤功(民俗学写真家)・写真が語って いる。  電気が全戸に点ったのが昭和30年代。まさしく日向山地・銀鏡のくらしは、ご先祖さまた ちが山の恵みを有効に活用するという知恵の積み重ねだった。「カシの実ギャー」もそうだ 。ご先祖のそして両親世代の時間と労働の掛け合わさった絞り汁の一滴も無駄にしないよう、 そういう思いを持って作ろう。    今日もご縁を感じる日となった。 注)ウィキペディアによると、  日本語でドングリ(どんぐり、団栗)とはクヌギ・カシ・ナラ・カシワなどの果実の総称である。 ドングリは全てブナ科の果実である。 ドングリは以下に詳述する通り、一部または全体を殻斗(かくと)に覆われる堅果であるが、これは ブナ科の果実に共通した特徴であり、またブナ科にほぼ固有の特徴である。よって本項ではブナ科の 果実についても述べる。内部の種子の大部分を占める子葉はデンプン質に富み、人間を含む動物の食 料になる。日本の古典的な玩具(独楽など)の材料にもなった(以上、ウィキペディアより引用)。

神々と暮らす山里 〜宮崎 西都・銀鏡〜  (2012年11月28日)

 今夕方 NHK総合TV「ゆうどきネットワーク」を見た。  場面は、秋の収穫を神々に祈念する祭。祈念の宿は、銀鏡地区の登内(のぼりうち)。  30名の村人が宿に集まってきている。    神々に銀鏡神社の宮司が祝詞をあげる。  信仰が暮らしの中に溶け込んでいる銀鏡であることが取材の中で明るく伝わってきた。  「『人の数300、神様の数はもっと多い。12月14日〜15日の銀鏡神楽には1000人の人が いらっしゃる。銀鏡の人口と神さまの数を合わせたくらいになります』」。なかなかユー モアがある。  昨年の神楽習いの様子が放映されていた。取材に対し「本習いに入るとすぐに正月が来ます」 と若い祝人(ほうり 神楽を舞う人のこと)さんが応えていた。  本日 老境庵さんから11月22日放映の「WAVE宮崎」の全編DVDが届いた。宮崎県のニュー も一緒に届けていただいたこともありがたかった。  「神々と暮らす山里 銀鏡」の編では村の祈念祭で「祝いめでた」が歌われていた。この シーンは、今夕のテレビではカットされていた。私自身「祝いめでた」には思い入れがあり、 感動もひとしおだった。  こうやってそれぞれ銀鏡に縁のある人々が 個々に映像を記録(保管)しているかと思うだ けで幸せを感じる。共感し合える時間がこれからもあることと思う。    今夜は三日おいての四日目ごとの神楽習いだそうだ。

11月23日 「臼太鼓踊り」  (2012年11月25日)

11月23日に行われた銀鏡神社新嘗(にいなめ)祭のようすです。  「NPO法人iさいと”ふらっと”」のスタッフさんのブログで紹介されていました。    http://blog.canpan.info/flat//

11月28日(水)午後5時〜6時「ゆうどきネットワーク」の録画予約を (2012年11月22日)

   知り合いからの情報によると、  「『11月28日(水)午後5時から6時までの間の約8分間、NHK全国放送(大阪を除く)があり、  銀鏡のことが紹介されます』」。    ということでした。    早速インターネットでNHK総合TV番組の情報を調べてみました。  そうしましたら、  11月28日・午後5時〜6時は「ゆうどきネットワーク」です。  番組の中で、旅、グルメとあります。     したがって、銀鏡のことをやるかどうかは確認できていません。    でも、もしかしたら、そうだったら、  見逃したくないなあと思いました(^^)。  8分間という短いような長いような・・・微妙な時間ですから。   大阪では17日に放映されていて、このことは同郷のありさんのブログ「窓から見える風景」 でも知ることができました。  本日は「榎本朗喬(あきたか)の老境庵」さんから 「『本日の午後6時からの番組「WAVE宮崎」で「神々と暮らす山里銀鏡」があります』」。    このような流れがありましたので わたしは、  11月28日・午後5時〜6時「ゆうどきネットワーク」の録画を予約しました。  よかったら みてみらん?

人生の歳月 (2012年11月20日)

 私はこの秋に還暦を迎えた。両親と暮らした歳月からするとなんと長い時間が経ったことか。  昭和30年代のお隣のお兄さん・お姉さん・おじさん・おばさんたちのことを追いかけてみた。 キヨアンチャン・シゲモトさん・キッコさん・シゲノブさん・オキミさん・サトルさん・ツギオ さん・セツコさん・・・。就学前の私の世界を豊かにしてくれたみなさんはもういらっしゃらな い。みなさんの所作や言葉の特徴などよく覚えている。  今年、秋に帰省し、租霊祭の日にご遺族(おふたり)にお会いすることが出来た。ご無沙汰を 侘び、故人にお世話になったことを述べると「ああ。○○ちゃんじゃね。元気にしとりやるや」 と変わらない笑顔、優しいお声。肩の辺りや横顔の特徴を懐かしく思い胸がいっぱいになった。  「かあ〜ちゃ〜ん ごめんくださいませーさんがあがってきよりやるよー」と母のところへ来 て報告するような子供だったそうだ。その方は「ごめんくださいませ」と丁寧にご挨拶される方 だったのだそうだ。オキミさんは産婆さんで私をとりあげてくださったと聞いている。腰をうー んと起こしてから語りかけてくださっていた。みんなみんな亡くなってそして私は60歳。  老齢厚生年金請求のための必要添付書類の中に戸籍謄本がある。添付して送付する前にコピー をとった。コピーを開いて見て感じたこと。出生地・東米良村、出生届け人・父親。「へェーー」 思わず感謝の気持ちが大きなカタマリになって私の胸を突いた。  貧しい中の明るい日が強く感じられた。  『銀鏡神楽ー日向山地の生活誌』第五章「人生の歳月」を読んでいたこともあってかも知れない。  また 私自身が孫を授かったことで、今昔を噛み締めているからかも知れない。  第五章は「新生児の一年」「祝言をあげる」「神様で一生を閉じる」 三部構成。  以下、---から---まで 『銀鏡神楽ー日向山地の生活誌の第五章「人生の歳月」より引用。  -------------「新生児の一年」  男児は生まれて七日目に、女児は三日目に名づけをした。午前中に命名して半紙に書き、床の間に 貼る。ついで自家の氏神に誕生を報告して神官に祓いをしてもらう。神前には、成長に大切なもので 食べて早く大きくなるように、米、塩、酒、まめに働く人になるように、大豆、将来子供がよく出来 るよう、昆布、石のように固く丈夫な人になるように、石を供えた。また男児は生後35日目、女児は 30日目に銀鏡神社に初参りをした。どちらも100日目にはモモカメシ(百日飯)と呼ぶ小豆飯を炊き、 神前に供えた。最初の誕生日までに歩いたときは、餅を踏ませた。座敷に紙を広げて搗きあげた餅を おき、紙をのせてその上から踏ませて餅に足の形をつけた。出産は昭和になると座敷になり、最近は、 自宅でお産をする人はなくなり、みんな病院で出産するようになった。  ----------------

銀鏡神社・例大祭のご案内 (2012年11月11日)

 
   銀鏡では10月末から神楽習いが始まりました。祝子のみなさんの熱心な習いの成果を 多くの皆様にみていただきたく思います。 どう言い表してよいか、それほど素晴らしいものです。     以下、『銀鏡神楽』第三章「祈りをこめた神楽の系譜」より引用ーーー  平成24年現在、祝子は(銀鏡では銀鏡神楽を舞う人のことを*「ほうり」と呼んでいる)、 願祝子(祝子を希望する者)を含めて24名。神職を初め数名のほかはほとんど願ほうりだが、 銀鏡の誰からも「祝子どん」と尊敬をこめて呼ばれ、それぞれ誇りを持って神楽に勤しんでいる。 今は山村留学の小中学生も願祝子として、銀鏡神社の神前で誓約してから式三番の「花の舞」を 舞っている。  *注)辞書では「はふり」の項に「祝」一字をあて、「祝子」も同じ意味、神に仕えることを 職とする者と解説している。  銀鏡では「舞は教えてもらうのではなく、習いおぼえる」ものといい、それが練習ではなく 「神楽習い」という言葉になっている。 今も厳しさが残る神楽習いは、毎年、10月末の土曜日あたりから始まる。現在、習いは内神屋と 外神屋に隣接した銀鏡伝承館(前は弓道場)で行われるが、昭和50年代までは大字銀鏡と大字上揚 の集落をまわり、習い宿を受け入れてくれる普通の家で行った。   以上、『銀鏡神楽』の第三章「祈りをこめた神楽の系譜」より引用ーーー 

小泉八雲が明治の銀鏡にきとりやったっら どげ みえたっちゃろかーい (2012年11月9日)

 先日、「歴史秘話ヒストリア 「出雲 縁結びの旅へ!〜神話の里の物語」をテレビで見た。  パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が古事記の国・日本にどれほど関心をもっていたか、 そのことについてのエピソードなどを紹介していた。  ハーンの『怪談集』は、日本語が読めない夫ハーンに英語が話せない妻セツが地方の昔話(民話・伝説 など)を語っていたのが基になって出来たものであるということだった。セツの語りを聞いているときの ハーンの驚き様に驚くセツ。セツはせっせと資料を集めて語る。夜な夜な語っていたであろうことが画像 で再現されていた。  それまでは、一地方の者しか知らなかった民話・伝説であったものが、日本中に知られて行く。やがて 訳本が世界へと届く。日本人の魂・神秘的なものを畏怖する精神をも紹介されていったことが容易に伺えた。  見終えてからあれこれ考えている。語ること、伝えることについて。    私の曽祖父・幸見(ヨシミ)は西暦1872年1月生まれ。ハーンが松江で英語教師に就いた1890年、ヨシミは 17歳くらいか? もしかしたら熊本の師範学校の学生だったのかも?   私は、つくづくもったいない時間をポワンと過ごしてしまっていたんだなあと思う。 よしみじさん(隠居じさん)、まこちいっぱい私たちひ孫や、村の子供たちに、虫や花や木のはなし(精霊の ことだったのだろう)。ウンコやノミシラミゴキブリのはなし(生きるとはどういうことか、だったのだろう)。 神様仏様のはなし(信仰について、ご先祖様を敬う気持ちを持つことだったのだろう)。宇宙のはなし(「そ のうち人間は月に行きますばい」と言っていたっけ)。・・・などなど。ニコニコして話してくれた。 子供だからといって優しい言葉で分かり易くということはなかった。誰に対しても同じだった。地面に図を描 いて話すことも。しかし変わった(?)子供だった私には話のタイトル(テーマらしきもの)よりはその場の 視覚的な情景しか残っていないのである。体の臭いが強かった(お風呂には毎日入っていたが歯からの臭い (亡くなる97歳まで自分の歯。塩で磨いていた))だったのだろう。隠居じさんのそばにいるとなんだか面白 いことがこの先にあるような、明るい時間であった。  そして私は思い出した! ある日、隠居じさんの教え子の方が「ゴキブリは食べられますか?」とじさんを からかう様にして聞いたとき「食べられますわ」とニコニコ。そして七輪であぶって食べたのだった! やりとりを見ていた証人は私一人なのが残念だ。大人二人が大真面目で話していたのだったから。 おそらく難しい話(理論)があったのだろう。それを食べることで回答したのか?  大人の遊びにしては はなはだ疑問だが・・・そういったエピソードもある。  さて、今年7月に刊行された『銀鏡神楽 -日向山地の生活誌』には、伝承神楽・風土・風習・信仰・などは もちろんのこと人物伝・民話・伝説なども調査検証して遺してある。  銀鏡の「カリコボーズ」も説得力のある話だ。あくまでも私の印象だが、カリコボーズは、精霊? 単なる いたずらっ子ではない不思議な力を持つ男の子のことか?(本を読んでいただければなあ〜^^)である。 昔の人の「語り」にこそ文化遺産的な価値がある。「年寄りのはなしだから・・・」などと軽んじていたら 日本の本来の美徳、信仰、風俗、魂などは消え去ってしまうのでは!  勢い書いてきたら あらら 隠居じさんに会いたくなったば〜い。

 活字と画像で遺すこと   (2012年10月28日)

『銀鏡神楽-日向山地の生活誌-』が好評を得ているそうだ。   
 共同通信配信。  記者が「異色の民族誌」と言っている。  私はこれ以上のピタリとくる言葉はないなあと思った。  私の感想だが、須藤功氏による画像(写真)300枚は動かぬ時の証明だ。活字(文章)との対応 に実地調査が幾度もなされていたこことが大いに伺えた。  著者M砂武昭も「みんなの力で出来た本です。だからこそ価値があるのです」と西都市の「さい と広報」で述べている。銀鏡の本を出そう!という思いがこの言葉一点に集約されていると思った。  脱稿までの2年の時間を支え切れたことはまぎれもなく「後世に遺さないといかん」という思い であったことだろう。原稿のすりあわせ、推敲を重ねて執筆、検証等々・・・。村の編纂委員会・ 事務局・村のみんなも同じ思い。  7月銀鏡神社において発刊の奉告及び発送式。9月彼岸中日「租霊祭」。同日「出版記念祝賀会」 開催。この日の様子は各マスコミでも取り上げられた。    地元発信の『銀鏡神楽 -日向山地の生活誌-』が歩き出してから早3ヶ月が過ぎた。近いうちに 第二刷が刊行されるそうだ。  銀鏡の本が全国を歩いているようだ。銀鏡の輪郭が濃くなって(伝わり出した)きているようだ。 この本は大事に子々孫々に繋がれていく本であり、暮らしの中に受け継がれ行く本であると思う。 日本の村があった所に、お墓があり暮らしが細く続いている所に、ご先祖の営みが続いていた土地 から文化的な土地に移り住んだ人たちに、平成生まれの人たちに、諸外国からの留学生たちにも。 集落の暮らしを一切知らない人たちにも。普遍的なもの、感じられることと思う。     さて、今年の12月14日は金曜日になるっちゃね。   空も見てみてみないね。晴れちょったら星と月がまーこてきれいですよ。  太鼓、鉦、笙の笛 胸にじーんときますよ〜  式33番の「神おくり」まで一夜続くちゃが。  寒くなるかい防寒対策をちゃんとしていきないね。  地表が冷えてくるあの感じこそ夜神楽の醍醐味かも、ばい。  土曜日の朝はイノシシの粥をふるまうちゃが。食べてみたらええわあ〜。    式32番「ししとぎり」にはびっくりしやるかもしれんなあ。  そうそ、おソバ、おウドンも夜のうちにわすれんごつ食べてみないねー。  ソバは銀鏡の焼畑でできたもんばい。  出汁はシイタケとイリコだしばい。これにもびっくりしやるこっちゃろう。  この出汁は、まことたまらん! においも味ももうたまらんとですがあ。  まこちうまいとですよ。  帰りはお土産(柚子加工食品がいろいろあっとばい)わすれんごつしないね。  「ゆずとそばの里神楽食品」(←検索)で調べてみないよ。  普段は銀鏡橋の入り口に建っちょる「山の駅 銀鏡 しろみ」で買えるとよ。  祭りの日は開いちょるかどうかわからんちゃが。  そんときゃ〜 そのへんにおりやる人に聞きない。誰でもかまわんちゃが。  村の人たちゃ〜 そりゃあ〜優しい人たちですかいよ。  しーんせつばい。    話しかけてみたらええわ。  ええばっかしじゃが。  あのう・・・くろまめは正調銀鏡弁ができんとですが〜。まこて(><)  じゃかい こんな感じでしかいえんとよ。  わかりやったかしらん?  

上揚地区にある「征先抜(ソヤヌキ)石」  (2012年10月5日)

 写真は、先月帰省の折に撮ったもの。  この日はみんなでバーベキューを楽しんだ。昔の話で盛り上がった。その流れで 「征矢抜石を見に行こう!」となった。昔からのしきたり慣わしをとても大切にし て山の暮らしを丁寧に耕していらっしゃるTさんに案内していただいた。   
  
 この征先抜石を見るのはいったい何年ぶりになるのだろうか? ずいぶん昔に学校 の教職員の住宅が石の周辺に建てられていた。住宅の後方にあるはずの石がだんだん 小さく見えたのは、住宅を建てるために盛り土をされたからだろう。それからもずい ぶんと時間が経っている。驚いたのは、石の真後ろに電波の中継アンテナが建ってい たことだ。このアンテナを建てる工事を請け負った会社が「征矢抜石の由来」を後世 に残せるようにしてくださったのだそうだ。Tさんからそのような経緯を伺って、昔か ら言い伝えられていることなどがいかに大切なことであるか、反省しつつ感じたこと だった。  ここは私が小学校時代、ソヤヌキに住む子供たちの遊び場で辺りは田んぼだった。 石はうんと大きく高かった。測定していなかったのか?記録はないようである。 謂れとして、「この石の上にあがって遊ぶ者や乱暴を働くものは体調が悪くなると いったことがあったそうだ。邪心のない子供たちはOKだったのでそんなことは全く 知る由もなく子供は鬼ごっこや石蹴りなどをして日が暮れても遊んでいた。

銀鏡の「祝いめでた」  (2012年10月5日)

 2012/09/22  『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』出版記念祝賀会でのこと。  式次第8番目に「祝いめでた」が歌われて乾杯となってそれからは会食・歓談と なっていった。   「地元で催しのあるときは他のどの芸能よりもいちばん最初に歌われるのが「祝い めでた」で、この唄が歌われてはじめて他の唄や舞踊が披露される。唄は三番目か らはみんなで唱和する決まりになっている。(司会者の解説から)    
 歌っている人の声の振動が私の記憶の扉を軋ませた。それからはただじっと目を 閉じて聴いた。祖父勇も歌が上手かった・・・。「祝いめでた」を歌っていたときの 幸せな顔が浮かんできた。三番目で自然と唱和(私には輪唱にも感じられた)されて 行った。米良・銀鏡のみんなの声は太くて伸びが良い。うねりとなって響き渡った。 鳥肌の立つ思いの中でじっと目を閉じて聴いていた。涙が出てならなかった。    唄「木おろし歌」      
     唄「お八重トメ女」    
唄と舞踊「桃と桜」      
 黒紋付に扇を持って優雅に踊る。舞踊は、米良山に隠れ住んだ皇族とその一族が、 京を偲んで楽しみ、郷愁を癒したものが残ったといわれる。(『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』一部抜粋)           唄と舞踊「塩や塩」   
 殿(米良主膳)の参勤交代のお供をした殿のご隠居が、京に遊んで覚えて唄と踊り を持ち帰った。それが一般に広まったともいわれる。(『銀鏡神楽-日向山地の生活誌』一部抜粋)    観覧席最前列は銀上(しろかみ)小・銀鏡中の生徒(ほとんど山村留学生)達だった。 留学生たちは地元の生徒と一緒に村の伝統芸能の由来から学んでいる。他にもたくさんな 芸能があり、このようにして伝承を守り続けている銀鏡の人たちの思いが彼ら生徒たちに ストレートに伝わっているように感じとれた。

 帰省その後、そして今。 (2012年9月26日)

5日目の早朝、山から街へふた手に分かれて移動。 街の大きな病院で予約していた母の精密検査に付き添う。 病院で老親の付き添いにきているひとたちを多く見かけた。 夜は合流して家族が一気に増えた。久しぶりの歓談にみなほろ酔い気分。 6日目、フェニックス自然動物園へ出発! 動物園のそばの住吉神社に参拝。  
(父83歳。母81歳)   動物園で車椅子を借りた。 母はあまり歩けないので車椅子をはじめて使った。 初めは使うことに躊躇していたが、そのうち「楽じゃね〜。ありがたいねえ〜」。  
誰しも自分の足で歩めることを希望する。 しかし、そうできなくなったときの周囲の対応など考えるきっかけにもなった。 父は案の定、あのムツゴロウ(畑正憲氏)さん化していった。 動物に近づいて撫ぜる触れる語る。     「カバが大あくびをすれば顔を入れるのではないかしらねえ〜」と私。 園内のレストランでお昼をいただいた時間も楽しく笑いが絶えなかった。 園を出て、江田神社に参拝。木陰の中でしばらく涼んだ。 26日早朝宮崎駅発、夜7時半過ぎ帰宅。 濃い時間が今も追っかけてくる。心地よい疲労感。ふるさとは今もっとも近いところに在る。

 帰省4日目 網張作業完。バーベキュー♪ (2012年9月23日)

朝霧の中を作業するのは楽しい。 私くろまめは網張の仕事はまったく手伝わなかった。(まあ、邪魔になるだろうと思いまして^^)。 母の指示に従いよくはかどっているように見えたが、実際は大変な作業だったようだ。 完了したときの喜びを共有したく畑に出て写真撮影などした。 お昼からバーベキュー開始! 宮崎牛、トウモロコシ、ナス、ピーマン、タマネギ、ニンジン等など。 ムカゴは針金に刺して焼いた。細い針金が見つからなかったのでクリーニングのハンガーを利用。  

 帰省3日目『銀鏡神楽』出版記念祝賀会 (2012年9月22日)

朝8時祖霊祭。銀鏡神社に向かう道の両端に彼岸花が咲いていた。 厳粛なる神事を拝見することができた。  
11時半より集会所での祝賀会に出席。  
地元のご婦人方による地元の食材を使ったお弁当にも感動!   二部は浜砂伴海さんの歌で感動!  

 帰省2日目 ソバ畑の網張 (2012年9月21日)

晴天。 お昼過ぎより夕方の6時ごろまでソバ畑の周囲に200m弱網を張り巡らした。 母はつい最近、ウリ坊を庭先で見かけたそうだ。 そらまめ(夫)は網張りの杭を立てるのに金棒20kg(明治5年生・曽祖父よしみ所有) を振り下ろして穴を開けていたがとうとう手にマメをつくった。   畑の隅っこに天然の木をくりぬいた日本ミツバチの巣箱が置いてあった。    ダリヤメのビール。美味い!   

 帰省1日目 東京駅発ー宮崎駅着  (2012年9月20日)

東京駅発7時30分の「のぞみ」に乗る。朝食用のおにぎり400円を東京駅で購入。 パッケージが面白いので切り抜いて貼り付け12枚のハガキを書いた。

 彼岸中日は「祖霊祭」  (2012年9月15日)

 銀鏡では秋分の日(彼岸中日)に「祖霊祭」を執り行っている。今年は9月22日がその日だ。 今年7月刊行『銀鏡神楽 -奥日向の生活誌-』第6章「伝承を守り生活を刻む」に書いてある。 一部抜粋して以下「」、紹介したい。  「この祖霊祭は、先年の祖霊祭以後に亡くなられた人を祖霊社に合祀する祭事である。祖霊社 は長享三年(1489)に建造された最初の銀鏡神社の社殿で(西都市指定文化財)、なかにこれま で亡くなられた方々の霊牌が安置されている。」(以上、n187一部抜粋)。  代々銀鏡の人たちはご先祖様を敬い、銀鏡神社をこころの拠り所としている。銀鏡の人たちの 生活カレンダーには、祭事に関してはもちろんのこと他にも記念すべきことをしっかり”メモ” して代々引き継いでいる。本が発刊となったとき、銀鏡神社において発刊の奉告及び発送式を行 ったそうだ。銀鏡をふるさとの思う人たちにとっては忘れることの出来ない記念日となったこと と思う。  私は本の表紙裏の見返しのところに発刊に至ってからのさまざまなエピソードを書き記している。 マスコミで取り上げられた記事や書評などを貼付している。もう一冊は新しいまま保管している。  昨平成23年、編纂委員の那須孝臣氏、河野繁弘氏が亡くなられた。今回の祖霊祭、出版祝賀記念 式典はさぞ感慨深いものになることだろう。 式典のあとのアトラクションは自由参加だそうだ。地元の祝い芸能(唄、舞)も披露されるそうだ。  銀鏡はいよいよ虫時雨の季節だ。

 銀鏡・上揚地区「ひったまげたプロジェクト」 (2012年9月1日)

 たまげるは漢字で「魂消る」と書くように、魂が消えるほどの思いから、驚きを意味する言葉と して江戸時代から使われている。 「消る(げる)」は、「消える(きえる)」が縮まったもの。 ひつ〜は接頭語で強調を表す。   銀鏡・上揚地区には「ひったまげる」資源がいっぱいある。上揚地区で生まれ育った私だがひっ たまげる事柄がいっぱいある。ランプの火屋を拭いていた祖母(オステ)の姿が思い浮かんできた ように灯台下暗しとはこのことかと気づかされている。懐かしんでいるばかりではいけないという 思いになっている。  銀鏡・上揚地区に暮らしている人たちは過去を振り返り、そこから今に向かって歩み始めている。 よろしかったら「ひったまげたプロジェクト」を探索してみませんか。  ここからのぞいてみなさらんね。    http://isaito.net/isaitoflat/siromi/hitamageta-top.html

書評『銀鏡神楽-奥日向の生活誌』 (2012年8月26日)

     評:芥川賞受賞作家・朝吹真理子 「一度も訪れたことのない土地の・・・すがた・・・音・・・におい。気配。・・・感じる。・・・」  朝吹氏はまさしく”本の後ろから”皮膚で感じとってくださっている。  『銀鏡神楽』を評していただいたことに深く感謝するとともに、今年の12月14日の銀鏡神楽を たくさんの方に観ていただき体感してもらえたらいいなあ、と私は思っている。  

  菊池のお殿様   (2012年8月22日)

 2012年7月、ふるさと銀鏡(しろみ)の本『銀鏡神楽ー日向山地の生活誌ー』が発刊になってから ”菊池のお殿様”についてよく聞かれる。  銀鏡のみんなが「お殿様」と呼ぶその方は米良領主の後裔・第41代菊池武夫(きくち たけお)の ことである。 1875年(明治8年)7月23日 - 1955年(昭和30年)12月1日 満80歳没  お殿様がどれほど米良のみんなに尊敬されていたかというその一端を紹介したい。   http://www.f4.dion.ne.jp/~yezi/tyantoshimota.html  

   戦争を引き連れてゐる蝉時雨   (2012年8月17日)

 「忘れてはならない」「過ちは繰り返さない」私には蝉の声がそう聞こえてくる。8月の空が 青ければ青いほど、入道雲が湧き上がるほど、蝉の声が痛ましく哀れに聞こえてくる。甲子園球 場の大歓声も私には蝉の声と同じように感じられてならない。  私のふるさと銀鏡(しろみ)では昭和37,8年の頃は兵隊さんの帽子を被ったおじさんが何人も いた。農林業の仕事用に使っていたのだと思う。ある年の夏休みに地区の「子ども会」がキャン プファイヤーを催した。親子参加だったこともあって大人がたくさんいた。ひとりのおじさんが 上半身裸になって火の前で踊った。なにやらカタカナの言葉を繰り返し歌いながら両手をひらひ らさせて、火の周りをくるくる回った。大人たちはその人を笑わなかった。大人たちは小声で戦 争を語っていたのかも知れない。おじさんが歌った歌は、そこはかない哀しい旋律だったことを 憶えている。それからもそれからも8月は蝉時雨と戦争がセットになって私の耳の奥を騒がせる。  昭和51年、上野公園で傷痍軍人さんを見た。軍人さんのほぼ全身を覆っている包帯はいやに 白かった。  戦後67年の重みを感じずにはいられない。テレビ、ラジオから「黙祷」の言葉を聞くと正座し て目を閉じなければ申し訳ないという気持ちになる。これは毎年繰り返していかなければならない ことだ。夏休み中のお祭りお盆は家族を結び、また解きほどき解き放ち、また結ぶ。そういった仕 掛けがあるような気もする。  同郷のありさんのお父様の実録「出征から復員まで」をここに紹介したい。  http://ha5.seikyou.ne.jp/home/ARISAN/yasojidenwar1.html

 自転車で家出してみる夏休み    (2012年8月9日)

 私は小学生の頃から家出に憧れを持っていた。縁側に腰掛けて脚をぶらぶらさせる。「文部省唱 歌歌集」を順に捲って歌う。向かいの山は高くて緑一色。吊橋を渡れば放たれているヤギが見れる。 イノシシの小屋ものぞける。でも私はこの山の向こうの「登内(のぼりうち)」までは家出の距離 を伸ばすことをしなかった。  昭和35年にバスが開通した。朝6時台にバスが下って(町に出て行くこと)来た。停留所でバス 待つときの心臓の高鳴り。車掌さんのバックの形と革のツヤ。子供たちは銀鏡で降りることがほと んどだった。最も近い町の「妻(つま)」に行ったとしても、正味5時間ほどしか滞在できなかっ た(ように記憶している)。最終便は夕方の6時台に上揚(かみあげ)の「尾吐(おはき)」とい うところで終点となり、運転手さんと車掌さんは一泊して翌朝下って行った。乗客の数と運転手さ んと車掌さんの人件費と燃料費と考えれば、ありがたく申し訳なくなる国鉄バスであった。    家出の日、上がるか、下るかはその日の気持ちしだい。上がるときは川、山、谷をさるいた(歩 いた)。川を上っていくと面白かった。疲れたら川原で寝る。せせらぎと木の枝が擦れあう音に寝 入ってしまったことも。しかし怖いということを知る出来事があった。猟師さんが鹿を追いかけて 川原に出てきたときだった。   自転車のときは道なりにペダルを踏む。風を受けて家出の実感は天にも昇る心地。村の一本道に は対向車も人馬も居なかったから山側を走れば危険は無かった。田に水をひく水門が塞がれると乾 いた水路に手作りの屋根を葺いて中で腹ばいになって本を読んだことも。土管が置かれてあったな ら確実に私の家出の基地になっていたはず。仰向けになって雲の行方を追うのだ。晴れ渡った空は 広すぎて空想が広がらないのだ。  銀鏡は漫画や本に出てくる面白そうな場所やモノがほとんど存在してなかったので頭の中の創作 活動は活発で、物語のタネは子供たち(今はシニア)それぞれの目の底に置かれてあるに違いない。 そしてときおり引き出してにんまりしているのではないだろうか。  信号はない、紙芝居は来ないが、アイスキャンデーを売る人は来ていた。チリンチリンと鈴の音 が聞こえると、大皿を持って買いに行った。町では@5円がここでは@7円だった。アイスが溶けな い魔法の箱は不思議だったが、その原理を真剣に科学する気持ちは無かった。家出をしたかった子 供心であったが、地理的、経済的な理由で結局「プチ家出」になってしまった。

『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー』 銀鏡というところ  (2012年7月28日)

 インターネットで検索キーワードを入れれば本は入手できるわけだが、また弘文堂のサイトでは 立ち読みも出来るわけだが、立ち読みでは銀鏡の地理的なことが読み取れなかったのでお伝えした くなった。と言うのは、銀鏡と書いて「なんと読むのでしょうか?」と聞かれ「しろみです」と答 えると「宮崎のどこにあるのですか?」と聞かれるからだ。  この本の出だしがその答えになると思う。  『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー』   第1章「奥日向の山里へ」        初めての人が、宮崎市内から地図を頼りに道に迷うことなく車を走らせたなら、銀鏡には二時間 ほどで着くだろう。この時間を長いと思うか短いと思うかはそれぞれだが、途中ではたしてこの先 に家や集落があるのだろうかという不安に一度や二度はかられるに違いない。銀鏡は宮崎県西都( さいと)市内ではあるが、市の中心街から遠い奥日向の山里である。銀鏡までの道筋で、家の途切 れるところがしばしばある。  国の特別史跡である西都市の西都原古墳群から、北西におよそ三キロメートルほどの杉安峡に架 かる橋を渡って左(西)に折れると、銀鏡に通じる米良街道(国道219号線)は、そこからしばらく 一ツ瀬川沿いに走る。  一ツ瀬ダムを左に見てさらに進み、ダム湖に架かる米良大橋を渡って右折すると、ほどなく一ツ 瀬バス停留所がある。直進して銀鏡トンネルを抜けると西米良村に行ってしまう。そこで銀鏡まで 9キロメートルの、右方の銀鏡川沿いの県道39号線にはいる。  一ツ瀬川沿いの山間の街道にこれといった見るべき風景はないが、ところどころに冬もなお緑濃 い樹林が密生している。常緑樹の椎、樫、樟などで、これらを総称して照葉樹林と呼んでいる。春 彼岸のころ、この樹林の濃い緑に引き立てられるように咲く山桜は美しい。  照葉樹林は同じ奥日向の他の地域にも見られるが、狩猟や焼畑などの照葉樹林文化を今も色濃く 伝え残しているのはここ銀鏡だけのようである。(以上、第1章「奥日向の山里へ」より転載。)                                         私と同世代のユーミンこと松任谷由実が歌う「♪中央フリーウェイ」は  都会の華やかさとスピード感とファッション性を感じさせてくれた。  私は助手席に乗り、歌の通りに景色が目に入ってくるのを楽しんだものだった。    奥日向・銀鏡へと向かう県道は古の万葉のかおりを感じさせてくれる。  ぜひ、銀鏡へ車を走らせてください。                   さて、もう少し、    昭和35年、国鉄バス「一の瀬〜尾吐(おはき)」の銀鏡線開通。 昭和37年東米良は西都市と合併。    昭和42年だったかに市が遠隔地の学生の下宿環境を考えて寮を建てた。  寮費だけで月1万5千円だったように記憶している。西米良の生徒たちと部屋が一緒だった。  洗濯洗剤など貸し借りしていた。  親たちは仕送りに大変苦労していた。  当時の一家の子供の数は平均4人以上は居たように思う。    平成24年村の人口373人。昭和26年東米良村の人口4755人。      *山村留学と村の行事などについて*     http://www.miyazaki-c.ed.jp/shiromi-j/          *銀鏡の物産「かぐら里食品」と銀鏡の紹介*         http://www.mera-yuzu.com/

日本農業新聞と『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー 』   (2012年7月22日)

     午前中に届いた小包。中身はふるさと銀鏡(しろみ)のことが書かれた本である。 新聞紙でしっかりガードしてある。空になった箱の底に残る「日本農業新聞」も気 になった。  さて、表題の新聞についてだが、コラムの七十二候のという書き出しに惹かれて 読んだ。第三十二候「蓮の花、はじめて開く」。  先週近くの蓮池に家族と行ったときも先日見に行ったときもまだポツポツ蕾だっ たことに思いが行った。  我が家では朝日新聞を購読しているが、私は新聞を読むことがとても億劫になっ てきている。前にもこのことを書いていたような。ふるさとからの小包のおかげで このような新鮮な思いをすることができて良かった。     M砂 武昭=著/  須藤 功=写真  B5判 上製 216ページ  定価:4200円(税込) 主要目次 第1章 照葉樹林の山峡に住む   銀鏡というところ   遺跡が語る銀鏡   隠れ里の足跡   江戸・明治の米良   つつがなく暮らす    第2章 銀鏡の四方に坐す神々   銀鏡神社の系譜   生活を見守る神と仏   山々をめぐる   道筋の伝説と人  第3章 祈りをこめた神楽の系譜   銀鏡神楽の構成   一夜つづく銀鏡神楽  第4章 狩りと焼畑の秋・冬・春   狩りの組織と作法   猪をさばきわける   狩りことば   山に拓く畑   唄が流れる山  第5章 日々の暮らしむかし今   住まいの変遷   食生活の工夫   人生の歳月  第6章 伝承を守り生活を刻む   四季おりおりの行事   暮らしを歌う   山の不思議   銀鏡の活力  明治以降の銀鏡のあゆみ  私のふるさとの本。帯を読んで、序文、そしてあとがきを読んだ。 最初からこみ上げてくるではないか。そして事務局・甲斐優(まさる)氏がこの本 を作るきっかけになった経緯を述べているところにいたっては涙を禁じ得なかった。  村のみなさんの気持ちから持ち上がった本作りに民族学写真家の須藤功氏の協力 なくしては実現し得なかったことに対しての御礼の気持ちが書かれてある。   以下<>、 「お礼にかえて」事務局 甲斐優氏の文より一部抜粋して紹介したい。  <『銀鏡神楽 ー日向山地の生活誌ー 』は、会長のM砂武昭氏の下に編集委員 はもとより、銀鏡内外の人々の協力と原稿執筆によってできた、地元発の歴史と生 活誌であることを胸を張って申し上げてよいかと思っております。>                 甲斐優氏は本の提案者でもある。          本の中身については、次回に書きたいと思う。

父と母の運動靴   (2012年7月19日)

      私の両親の写真。私の大好きな写真。2009年9月14日、舗装されていない道を案内した。  父には夫の運動靴を、母には私の運動靴を履いてもらった。父は身長の割には足のサイズ が大きいので夫の28センチでもヒモを調節すればOKだった。「これは ええわい」「ええばい」。 玄関で両親の声がした。私は二人の革靴をピカピカに磨いて他の荷物と一緒に宅配便にした。  一枚目の写真は「今井の桜」で有名な並木道の菊芋の花。 遠目から父が「きれいじゃねえ〜。ひまわりかい?」近づいたら「見たことがある」。 「キクイモの花よ。戦争中は根っこのイモを食べていたんですってね」と俳句の仲間から教え ていただいたことを話したら、母が思い出した様で「あら、あれはよしみ爺さんが町から取り 寄せて家の裏に植えとらいたなあ。増えるっちゃね〜、花だらけになっとったよ。でも根っこ を食べたことはないちゃけど??。いつの間にか花もなくなってしもうとったなあ」二人は昔 の若かった頃の貧しかった頃の輝く黄色い花のことを思い出したようだった。  今は、お店で菊芋の根っこが食料として売られていることを話したら、ますます目を輝かし て聞いてくれた。それから後、キクイモの効能(糖尿、高脂血症に良い)、調理方法などをイ ンターネットで調べてプリントしたものを種イモと一緒に実家に送った。以来、花を愛でイモ を食べているそうだ。  二枚目の写真は樹齢三百年「吉高の桜」の前で、父80歳、母79歳。 夫がなかなかシャッターを切らないので二人はお疲れ気味(笑)。「ハイ 1,2、サーン」 まだ決まらない。「長く連れ添った感想は〜〜」と言ったとき決まった!  「私たちは同志ばい」「ワッハッハハ」。  夕方の羽田空港で見送るとき、二人はお茶目なポーズで振り返り振り返り手を振った。しかし 宮崎への発着ゲートは端っこにあるのでそれからかなり長い距離を歩くことになるので心配でな ららなかった。 「案内の方がまこて親切にしてくださってねー。車椅子で連れて行ってくださったとよーー」  (このようなサービスの実施中で開始日? 最終日?だったかでとにかく幸運だった)    宮崎に着いてからの母の弾んだ声と二人の運動靴姿がセットになって写真に残っている。運動 靴を履いた両親の全身を見ているとただただ感謝のみである。

 東京都写真美術館「照度 あめつち 影を見る」川内倫子展 (2012年6月27日)

 電車で夫と出かける。友人夫妻と待ち合わせて食事をして写真展を見る日だ。8年ぶりの再 会に話が弾んだ。  2階展示室は回廊のようになっていて廊下の壁に光と影を織り成す作品が掛かっている。作 品には一切の説明がない。次の部屋に期待で胸が騒いだ(病院の診察室に入るような不安な心 地とも言えなくはないが)。  壁にはスクリーンが二つ並んでいて、違った映像を流している(ように見えた)。二つに分 けて動く写真を展示していることの意図が解らなかった。タイトルに代わるメッセージがこの スクリーンに流れているのだろうと思って見ていると意味を探りたくなる。しばらくこの葛藤 が続いていたがそのうちそういった疑問は抜けて行き、またムニャムニャ感が戻ってきた。    帰宅してパンフレットを読むと同一の映像が二画面でタイミングをずらして再生されており、 予期しないイメージの組み合わせや重なりでテーマを表現しているとのことであった。  次の部屋では壁に写真が掛かっていて、部屋の中央に丸いクッションが幾つか置いてある。 そして展示作品のカタログが置いてある。外国の方が瞑想していたり、熱心に写真とカタログ を見ていた。    最後の部屋で私がもっとも見たかった銀鏡(しろみ)神楽の写真があった!  学芸員に撮影の許可をいただいてと(まず許可がいただけることはありえないのだが)・・・ 夫と話していたのだったが案の定「著作権がありますので」と注意された。もちろんデジカメ の写真をその場で消去した。 「申し訳ありません。この写真は私のふるさとの銀鏡神楽です」。 「それだったら撮りたいですよね。どちらですか」。 「宮崎です。銀の鏡と書いて「しろみ」と読みます」。  学芸員は手の平に銀・鏡と指で書いて(し・ろ・み)と小さく声に出し、 「きれいな地名ですね〜。ここはどこだろうと思っていました」。 「銀鏡神楽で検索してみてください」。  銀鏡の読みと所在地と夜を徹して舞う夜神楽のことを若い学芸員に伝えることができた。   写真展を出た4人はまたお茶をした。

 "手影絵" 劇団かかし座  (2012年6月25日)

 家族の用事に応えようとテレビの前を横切ったときに、テレビの画面を見てしまったから、 もう用事は後回しと決めた。黒い手がヒラヒラヒラヒラ動いて形を作っている。手影絵だ! 同時に若かった父の手影絵がハクチョウ・カラス・キツネ・ウサギになって記憶の引き出し から飛び出してきた。障子の桟に脚や羽が見え隠れしては動いている。見ている私たち兄妹 の頭も影になっている。そして無邪気な驚きぶりが声になって聞こえてきた。  ほんの短い時間に普段ほとんど使っていない脳が総動員で回転していることが嬉しい。 あれは、半世紀以上前のこと、父が私たち子供4人に集合をかけた。正座してみているうちに 立ち上がって障子の裏を覗いてみたのかどうか?  『夕鶴』のお噺のようにそうしたのかどうか?  父が手で形を作って見せてくれたのだ。 私たちはそれを真似てやってみたのだ。 大中小小の影絵が障子からはみ出してはまた戻ってきたのだ。 あんなに楽しかった白と黒の世界をテレビが蘇らせてくれた。影絵が動くと天気予報のアナ ウンスが流れ、背景は野原から森から海から水中から空に変わって行った。 「劇団かかしの“手影絵”」のことを私は今日まで知らなかった。夫は昭和30年代に小学校 にやってきた劇団(かかし座だったかどうかはわからないそうだが)の手影絵を何回か見た ことがあるそうだ。  私のふるさと銀鏡には紙芝居屋さんも来なかったし、ちんどん屋さんもこなかった。知らな いことの不都合はなにもなかった。信号もコンビニもない、ほとんど変わらない、というとこ ろの路線に話が入ると長くなるのである。  

 古穴手(ふらんて)の茶葉    (2012年6月9日)

 銀鏡(しろみ)の古穴手(ふらんて)産のお茶を飲んでいる。    霧の多い深い山奥で焼畑のあとに自生していたお茶だ。  野生の新茶の香り立つ朝が始まる。  晴れた日、曇りの日、雨の日、ゆったりとスタートする(ように心がけている)。  最後の一滴をチョンチョンチョンと銘々の湯飲み茶碗に注ぐ。  ゴールデン・ドロップ    しみじみ味わっているひととき。    今朝は雨。「今日は畑は無理だなあ」と夫が言った。 「カブを抜いてきたいわねえ」と達子さん。 「足元が危ないから今日はやめましょう」と私。  飲みながら三人はベランダの植物の生長に思いが行っている。  遠くの空は明るいが、雨はやみそうにない。

  5月13日帰宅。11時間半の電車の旅終わる。 (2012年5月14日)

   両親に無事に帰り着いたことを伝えたのが10時過ぎ。  もっと早くに着いていたのだが「母の日の赤ワイン」が利いたのか?   うとうとしてしまった。    夫(そらまめ)と義母の達子さんが玄関で私を笑顔で迎えてくれたとき、  緩んだ。  「三人揃ったね〜」と達子さん。  「おつかれさま!」とそらまめ。  お隣の畑の方から頂いたという筍をそれは美味しく煮ていてくれた。  ハーブを使っての肉料理。  「母の日おめでとう〜」  三人で乾杯した。  そして、今朝から掃除ばかりしている。  洗濯も楽しい。

  宮崎→東京 車窓より (2012年5月13日)

 滞在中は晴天続きだったが今朝は白い空だ。  8時6分特急にちりん6号に乗る。    宮崎弁が飛びかっている。優しい響きだ。右手に穏やかな高鍋の浜が見えてくる。  日曜日とあってか?外はとても静か・・・・・・なにもかも小型に見える。  山肌は湿気を帯びて深緑に見える。  帰路はどこか寂しさを拭えない。  大分まで少し眠ろう。 ****************************************  目覚めると延岡から満席になっていた。  トンネル、またまたトンネルだ。  そのちょっとの隙間から幾分か明るくなった空が見える。  コデマリの花が今日の空によく似合う。  津久見−臼杵を通過。 海側から左手山を見るとシイの花がびっしり咲いている。 今回の帰省で母から聞いたことだが、シイの実はイノシシの大好物なのだそうだ。 (しばらくは畑を荒らされることはないだろ) それんしても今年はすごいもんじゃと父も縁側に立って興奮気味に云っていた。 大分でも同じような会話がなされていることだろう。    −間もなく鶴崎だ−。 *************************************** 大分からソニック号に乗り換えて小倉まで。 別府で車内販売のお弁当「かしわめし」とお茶を買う。 宇佐までシイの花穂をずいぶん近くに見ることができた。 中津から大分平野がひろがる。畑中で煙りが立上っている光景はまさに日本の原風景。 しかしケイタイの充電危うし。撮りためておいた写真を自宅に送信した。 小倉で新幹線のぞみ32号に乗り換える時、のぞみを撮ろうとしたが完全に充電切れしていた。 座席で充電をしながら続きを書いて(打って)いる。 車内を撮ろうとしたら画面が真っ黒になり撮影できない。原因不明。充電不足か??? ***************************************  撮れました〜〜 私は充電器に入れたまま撮ろうとしていたのだった。 *************************************** のぞみ号の乗客はお眠りか? 現在3時半過ぎ。 静かだ。 食べている人たちは音を立てないように気づかっているようだ。 ビニール袋の音が微かに聞こえる。 赤ちゃんのおもちゃで赤ちゃんがグズグズしているときに、耳元でカシャカシャと 音を立てるとご機嫌になるビニール袋だ。 孫のひよこまめちゃんにやってみたら効果があったことはあった。 子宮のなかで聞いていたのかな? 名古屋でミックスサンドイッチいただいた。次は新横浜。  還暦同窓会に出席して良かったと思う。  時間が過ぎるに連れて思い出すことだろう。  名前は忘れても風景が残るような気がしている。

  鏡鏡滞在最後の日 (2012年5月12日)

 さあ!早くに目が覚めた。 6時過ぎ「ホーィ」「ホーィ」声が聞こえた。 宮崎からお魚やさんがやってきた合図とは(笑)。 山では、鼻から頭の先に抜けるように声を出すと遠くまで届くのだそうだ。 朝食の後は昨日に続いて台所の整理整頓。要不要に仕分ける。 要のモノを移動。 物おきを整理してから移動。 お箸、お皿(各種)、ふた付きの塗りおわん、お茶碗、お湯のみ、急須、グラス、 お猪口、お膳、ふきん、ボール、ザル、カゴなどなど。 母は50名から100名くらいの集まりごとに対応できるように揃えている。 「最低50客分は揃えておかんと不便じゃもんね」。 味噌甕(自家製麦味噌)大きな樽は麦入れ。 升、五升炊ガスコンロ、父のエアロバイクも仕舞うことに。    ゆったり食事が出来るようになった。 母がスズランとスイセンの球根を土産に持たせてくれた。  土が乾いいてから葉の部分を切った(手前がスイセン)。  午後4時半出発! 宮崎へ  父よ母よ元気にしちょってね〜    山よさようなら〜〜

  朝だお昼だお味噌汁だ (2012年5月11日)

 お味噌汁の具を畑で探すところから朝が始まった。  サラダにも菜っぱを摘む。  にぎやかに話ししながらの朝食は今日で4日目になる。  塩鯖の焼いたにおいがちょっと苦手な私は梅干しの種を舌の上で転がした。  父83歳、母81歳。元気だ。  兄は草刈りに。  今日の予定は、台所とその周辺の片付け。  村では地区別に持ち回りで宿になる記念行事があったが老齢化で来年からは公民館でまとめて 行うことになったそうだ。我が家でも50客分の道具を使うことは無くなった。限界集落の行事は 形を変えて引き継がれている。  時間が惜しいと思えてならない一日だった。

  開墾 =茶の木を燃やし、石拾いをし、草を抜く。耕運機初操縦。 (2012年5月10日)

 庭の前の畑は元は茶園だった。2年ほどそのままにして茶の木が枯れるのを待っていた。    横倒しして燃やして根っこを抜いて、それでもそれでも時間が掛かったそうだ。  母はお花が大好きで、接木も得意で、育てるのが名人だ。  自分で耕した場所にヒマワリ(三種類)、コスモスなどを植えていた。  この日はJAでいただいたコスモスの種を蒔いていた。   兄は芋(大和芋・自然薯・アピオス)の手を立てている。母は洗濯しながら畑で作業。父はゆったり新聞読み。 この対比を私たち子供は毎度笑ってしまう。     残りの耕していないところから始めよう〜 茶の木の枯れ木や雑草を焼く。 大きな石だ。深く掘ると岩盤にあたる。   ミニ耕運機のしくみについてのレクチャー = 父も母も興味津々。   二人の好奇心に感動! 父も上手かったが母はもっと上手だった。       きれいになった。(達成感)   作業を終えて、家の裏に蕗取りに。  「足らんわあ」とすごい量を取る母。。。 兄と一緒に作ったときの要領で。(私流は、板ズリも水に晒すも省略なのだが)

  母、ケサエさんの畑 (2012年5月9日)

 本日も晴天なり。  なにやら発動機の音が気になり外に出てみたら兄が畑に水を撒いていた。  タンクに雨水を貯めているのだそうだ。     家の周りを歩いていたら母が出て来て庭木や花を挿し木で育てていることなどを話してくれた。  「あとで見てみるね?」と言い、菜を摘んで家に入った。      食べる前に手作り窯入り茶の飲み比べをした。 写真左、山村留学生のお母様が里親のお宅で摘んだもの。右、兄の手作り。    どちらにも軍配が上がった。  食後は母と庭を散歩。  私が子育て始めの頃に着ていた防寒コートが干されていた。  春先の畑で作業するときに着ているのだそうだ。  「畑に下りるときには足元に用心してねー」  「ロープがあるから大丈夫よー」  「命綱だね」と私。     接木や挿し木から花や実が。飛んできた種からメタセコイアが。  先祖代々のお墓の周辺にツツジ、サルスベリ、フヨウ、ツバキ、スイセン、キンカンも。  家の周りにサルスベリ、ムクゲ、キヨウチクトウ、キンモクセイ、ギンモクセイ、コスモス、  スズラン、イロハ紅葉、楓、山ツツジ、バラ、ナンテン、アヤメ、フヨウ、ハナモモ、ライラック、  イチジク、ブルーベリー、ザクロ、ビワ、カキ、キュウイフルーツ、ブンゴオオウメ、種無し金柑などなど。  残飯を捨てたいというので一緒に畑に下りた。  畑に居る時の母はとても若く見える。   「スイセンとスズランの球根を持って帰らんね?」    兄が出てきて烏帽子岳が見えると言うのでその場所に連れて行ってもらった。  枇杷の大樹の辺りからでも見えたが、この場所からはとても姿が良い。  家の前の川は昔石飛をして遊んでいた。兄は中間達とウナギを捕っていた。  その頃は大きな石があったのだが・・・ ・・・。  午後からは、残りの障子貼りを完了。  明日は、裏山の蕗を摘んで煮付けよう。  いよいよ畑の手伝いだ。

  障子貼り (2012年5月8日)

 8時20分、朝日を観る。    小中学校の校歌の歌詞が浮かぶ。  水蒸気が靄っている。深呼吸をして庭から畑(茶園だったところ)を見る。    本日は障子貼りだ。全部で23枚。  前の川で洗うのかなあと思っていたが、「庭でええちゃが」と母。  
   簡単には剥がれない。  8年前に従来のやり方で貼ったのだそうだ。  今回は一枚のシートになっている障子紙を使うことにした。  糊を剥がす液体が付いている。糊も付いている。だから簡単に思っていた。  糊剥がしに時間がかかったのは昨日の気温のせいかも知れない。  軍手を使って障子の桟を拭いた。  後片付けを母がしてくれた。    障子を元の位置に戻してから、お昼ご飯。そして休憩。  骨になった障子から山が見える。  あ! 休憩に時間をとってしまった〜〜  畳の上に糊が付かないように新聞紙を敷く。  その上に乾いた障子を寝かせて貼る。      「昔はお盆の頃に、障子貼りをしたっちゃが」  「実家じゃ〜川に浸けとったちゃが。上から石を乗せておけば、綺麗になったとよー」  父のお嫁さんになるう〜〜〜〜んと 前の話し。  聞けて良かった。

  ピッツアと椎の花 (2012年5月7日)

 今日も晴れ。  姪っ子を職場に送る。  ルンルン跳ねながら「いつかの杜・うんじょ〜るの」の扉に消えて行った。  レストランがオープンする時間にみんなで行ってピッザを注文した。    美味しい〜〜〜〜♪  とうとう写真を撮るのを忘れてしまった。    午後から鏡鏡へ上がる。 (銀鏡の人達は町からアガル。町に下る(クダル)と言う)    木々の白く見えるのは、シイの花穂。  子供の頃の私たちは、シイの実(村ではコウジと呼んでいた)を炒って食べていたものだった。

 綾町「酒泉の杜」へ  (2012年5月6日)

   本日も晴天なり。   かなり遅くに起床。朝食はパンor雑穀米のお握り。  しかし兄はいつものようにゆったりといつもの食事(一汁三菜と玄米ごはん)をしていた。  女はそれなりに支度に時間がかかるのだ。  マグカップにコーヒーをなみなみと注いでパンをいただいた。  綾へ行ける時間ができたので昨日のうちから日焼け止めクリーム(SPF50+PA+++)を買っておいた。  美容のためではないのだ(すでに遅し!)。  宮崎の陽射しの強さに参っていたから。  今日は真夏日になるので、みんなで仲良く日焼け止めのクリームを塗り塗り。  皮膚呼吸ができるのだろうか?   表情筋が伸縮できないのでは?。  ホウレイ線が消えているのではないか?。 (ヒロタミエコさんの顔が浮かぶのであった・・・)    行きは遠回りをしてドライブを楽しんだ。  山で育った私たちだが山や田や畑が見えてくるとそれだけで嬉しくなるのだ。  約1時間のち到着。先ず藍染工房へ。  藍染めの服はどうしてもデザインが似通っている。  個性的なものを求めて見て回ったが私の好みのものには出会えなかった。  帽子の中にユニークなデザインのものと出会えた。 (手拭いを使って縫ってみようかしら)  それから、酒泉の杜へ。  私たちは一番奥の第三駐車場に止めた。  誘導係りの方たちは気の毒なくらい太陽と戦っていた。暑い暑いのだ。  「陶芸の市」は人が少ない(物も少なくなっていたが)。  おかげでゆっくり見て廻れた。  買うことよりも見ることの方が好きなので満足できた。  オークションが開かれていたが、これにはまったく興味がわかなかった。    アンデスの音楽を30分ほど楽しんだ。  風あり日除けあり。♪コンドルは飛んで行く。  楽器のサンポニャンの奏でる音に眼を閉じて聞き入った。  演奏が終わったら誰ともなく募金箱へ。      食事はさっぱり系で行こう!   皆一致。    「酒泉の杜」に両親たちと宿泊した日のことが思い出された。  あの日は姪っ子が盲腸で緊急入院したのだった。  かわいそうに痛かっただろうに我慢してくれていたのね。  そんなことちっとも知らなかった私たちは姪っ子に「また来るね〜」と言ったのだった。  夜はヒノキ風呂に浸かり、美味しいお料理を食べていたのだった。    今日、姪っ子は目の前でニコニコ顔して食事をしている。  甘いものをすすめたら「もう お腹いっぱいです〜〜」。  帰りにガラス工房の小物を買った。   青い鳥。840円なり。     帰路は父の話で盛り上がった。  子が年を取ると、親はまことに愛すべき存在になるものだ。  それは40年ほど前の話。中1の妹の参加日に来ていた父。  先生 「This is a pen.」   続けて   生徒 「リス イズ ア ペン」  生徒の声に混じって〜 ダミ声 が 聞こえる?   妹は「まさか!」と思ったのだそうだ。  父は、生徒と一緒に ”英語ふう”に発音して   「ジス イッザァ ペーン」って言っていたのだそうな。  妹は恥ずかしくて恥ずかしくてうつむいた。教室のみんなが笑ったそうな。  先生のスリッパは革張りだったので歩くと音がカツカツ。  しかしそのあとからズズ一スリースリー  底がつるつるとした革のスリッパの音がしたのだそうだ。  妹は「まさか! まさか! エ〜〜〜ッツ」と思って振り向いたら、父だった。   だったそうだ。  父「お! お前は〇〇さんとこの子か?」 「お!してお前は〇〇さんとこの〇〇君じゃねえ〜」と 云い、  肩をポーンと叩いて〜「しっかり勉強しなさい」とまで言ったそうな。  うぇ〜〜〜ん うぇ〜〜ん 妹は泣きたかったそうな。  父の自転車乗りのスタイルも評判になっていたそうだ。  絵に描かないと説明しにくいのだが。  膝を大きく開いて乗るポーズなのだ。      そういえばね、と私。思い出したのである。  それは、私が小学時代だから50年近くも前になる。  校長「どなたかご父兄の方にご挨拶を・・・」  父兄「シーーーーーーン」  父「それでは 私が」 と進んで前に。   そして話したのであった。の・だ・った・た・・・ ・・・。  あれも そうよ 運動会の日。  誰に頼まれたのか? 自発的なものだったのかも知れないが。  応援団長の姿(角帽に黒マント)で現れて、それはそれは大きな大きな声で、旗振りのようにして  大きく手と胸を広げて やっちゃったのであった。  それは 今風に言えば   かっこよかったから たまらん!!  ああ〜 愛すべき父よ!     あのころの私たち姉妹兄は、どれだけ父と距離を置いて身を置きたかったか!  父よ、あなたはご存じないと思うが。  しかし、今の私たちは、あなたをこうやって ”旅のお肴にして語っているのです。  ああ〜もうたまりませ〜〜〜ん。  ワラって笑った。つっぱってならなかった日焼け止めクリームの効果はとうになくなっていて、  元の収縮性のある肌に戻っちょっとった。   明日は、姪っ子が働く「いつかの杜 うんじょ〜るの」のレストランへ行く。  それから銀鏡へ上がる。  7日から12日の夕方までの5日間にどんな出来事が起きるか楽しみだ。  予定に組んでいることは、障子張り。片づけ(掃除など)。夏野菜の植え付け。    ケイタイでまた日々を綴ろう。

 銀中「還暦同窓会」2012/05/04  (2012年5月5日)

  午後5時40分到着。 「かわっちょらんな〜」「かわっちょらんね〜」と笑い合った。 それぞれの親兄弟の顔を覚えているからだろう。 小さな集落で育った私たちはとても世間が狭かった。 行き着く先の”顔”はどこかにその面影が残っている。  会が始まった。 榎本先生80歳。樋口先生89歳。 榎本先生がアルバムを持参してくださっていた。 先生は退職されるまでいったい何冊のアルバムを積まれたことだろう。 その中の一冊に我ら同級生の顔がいろんなシーンの中に居た。 釣りをしている男子の幼い横顔とビールを飲んでいる60歳の横顔を重ねてみたり、 物故者となった三名の顔が在り、遠い日のことが浮かんだり沈んだりしていった。 樋口先生の詩吟「宝船」。朗々としていて今も耳に残る。 自然にそれぞれが移動してそれぞれの近況交換などしていた。 これからまた新しく交流が始まることだろう。 会長のタカシさんがカナダ在住のあつ子さんからの便りと 双子の1人、タケヒサさんのお便りを全員に紹介した。 会長から全員に銀鏡神社のお守りが手渡され、集合写真を撮り、二次会(カラオケ)へ。 榎本先生の「夜霧よ今夜もありがとう」 裕次郎み・た・い・♪  今朝も晴れ。  空は青く今日も暑くなる予感。  昨日の運動公園のシロツメクサはきれいに刈られていた。  日中は日向夏など発送。夜は外に出て月を仰いだ。  60年の歳月など全くなかったかのように地上を光で照らしている。  しかしながら仲間たちの泣き笑い人生、絆は紛れもない事実だ。

  朝の散歩と午後の生ジュース (2012年5月4日)

 6時半起床。晴れ。兄と散歩に出る。  朝日を右肩に受けて出発。  グランドの端っこで椋鳥の親子が虫ちゃんたちを食べている。  シロツメクサが朝露に濡れて光っている。  犬と人とすれ違う。車は徐行して過ぎていく。  目が合えば「おはようございます」。  そして犬も人もどちらからとも「おはようございます!」。  田の畔で一人男性が何やら口にくわえて動いている。  近づくとそれは細い糸で、どうやら鳥が近づかないように糸を張っていた。  その糸は放射線状に張り巡らされている。   アザミを近景にして写真を撮る。    日向夏の花、野バラ、ハゼ、柿若葉、椎の花、榎の若葉、グミ、見上げながら歩いていたら、  眼がチカチカ〜足元はフラフラしてきた。(普段これほど上を向いて歩くことはない)    貯水池はとても広い。水神様が祀られいる場所に椅子が二脚置かれている。  ここからの眺めは湖だと思えばそう見える景観だ。  ウシガエルが鳴いている。ウグイスが鳴いている。  堆肥をこしらえているところを通過。  畑にはジャガイモの花が咲き、ソラマメは鞘を太らせている。大根はそのまま育てられている。  ニンニク、ラッキョウ、ネギ坊主、トウモロコシ、紫蘇畑・・・。  右も左も天も地も美しい!!  帰路、畑の草を刈っているおばあちゃまを見た。  腰が曲がっている。鍬も鎌もこの方が持つと動きがとても安定していて(安全)いる。  長年畑と田んぼを手入れされてきていることがよくわかる。  黙々と働いていらっしゃる。(何歳くらいだろうか?)   兄は「いつもこの時間に見かけるよ」と教えてくれた。  日中はどんなに暑くなることだろうか。夏はどんなになる?   宮崎はテゲ暑い!  帰宅。40分ほど歩いたようだ。  朝食。一切兄がしてくれた。  玄米(オカカとジャコ乗せていただく)、  具沢山のお味噌汁(お豆腐、シメジ、フダンソウ、麦味噌)、  梅干しとショウガの酢漬けと薩摩黒酢漬、焼き鮭、フキの煮付け、フルーツ。  そして釜炒り茶。   まことに嬉しい朝食だった。  そして庭の芝の手入れなどする兄。  私は暑さにたまらなくなって写真を撮っただけ。    宮崎日日新聞を丁寧に読む。  6日まで綾の手染め織工房にて「藍染作品500点展示」展開催」とのこと。  綾の照葉樹・ブナ林もを観たい。(行けたらいいなあ)  「窓」の欄に興味をひかれる記事があった。タイトルは「還暦の教え子同窓会で再会」。   あらら 今夕はまさしく還暦同窓会の始まりだ。)     睡魔がまた襲ってきた。  宮崎3日目の今日も眠い眠い。(約1時間半寝てしまった!)  兄がオリジナル生ジュースを作ってくれた。  素晴らしい!!   このジュースには以下のような効果があるとか?   @活性酸素の除去  A免疫力のアップ  Bガン抑制効果  C成長ホルモンの分泌促進  D血液サラサラ 材料 キャベツ・赤ピーマン・ショウガ・ブルーベリー・大麦若葉粉末・すりごま・きな粉・ハチミツ・豆乳。 味は、とろりしてすっきりとした味。 美味い! さあ〜食事はこれより摂らない。同窓会でいただくことにしよう。

  45年ぶりの下宿先訪問  (2012年5月3日)

 昨夜はずいぶん遅くまで兄妹たちと起きていた。そして5時には目覚めた。  小鳥の声が耳に心地よい。  窓を開けるとレースのカーテンが優しく風に揺れる。朝日が回ってきている。  美しい朝だ。  朝食はクロワッサンにベーグル(街の天然酵母のパン屋さん)に  妹がこしらえてくれたミネストローネとコーヒー。  昨夜の残り物の古代米ごはんに納豆のジャコかけ。兄手製の釜炒り茶(実家の畑のもの)を飲む。  香り良し。  お湯の温度を下げて淹れればどんなに美味しいことか。温度調整で解決。  美味しい〜〜〜〜〜♪ 「すぼった味がいいよねー」などと。  さて、今日は高校のときにお世話になったキヨさん宅へ訪問。  同郷の後輩Tさん夫妻の案内で西都へ向かう。彼らの赤い車に乗り高速道路を走った。    実は私は今日の訪問にノースリーブのワンピースとレースのボレロとローヒールを用意してきていた。  その恰好をして鏡の前に立った。そして正座してご挨拶のポーズをとってみた。  妹が「やめたほうがいいかもね」と。  自己診断で却下することにした。  福助足袋のフクスケ君のように正座してご挨拶できない。  滑稽且つ危険!!  背中のファスナーの辺りに裂け目が出るかも!!  結局は普段のカジュアルパンツに黒のカットソーに袴をリフォームしたコートを羽織って出かけた。  コートは刺し子ふうにして布の裂けた場所やこれから裂けるかもしれない場所に共布を当ててチク  チクグルグル縫ったのでーー  力を入れなければ新しく裂けることはないだろうから。。。    西都までのドライブは近況を語り合える有意義な時間でもあり窓外の景色を見ながら「きれいね〜」の  連発もかなりオーバになるのであった。  訪問先に到着。  あらかじめ訪問のことを伝えていなかったがいらした。  キヨさんは朝から昔のお写真の整理をされていたのだそうだ。  99歳とおっしゃった。  Tさんのお母様と教員時代同僚でらしたキヨさんは「Tちゃん?」と  喜んで招き入れてくださった。  私のことを「〇〇ちゃん」ってすぐに思い出してくださった。  「傘を二人で探したわね」と。  私はもう記憶にはないエピソードも話してくださった。  目はイキイキと輝き、滑舌は非常に良い。  私は15歳になり、食卓を囲んでいるような不思議な感覚になった。  お茶菓子をおみやげに頂いた。  外へ出てそれは丁寧に手を振ってくださった。  帰りは西都原公園へ。  平年ならツツジが咲いているところだが咲き終えていた。  「咲いている所をみせたかったねえ」と後輩の奥様。  一昨年榎本先生から西都原の一面のひまわり畑の写真をいただいたことが昨日のことのように思い出された。  明日の同窓会に榎本先生が現れるはず。  勾配のある坂を下り、彼らの懇意にしているレストラン「緑風庵」でごちそうになった。  ここは、以前カナダ@あつ子さんを伴って食事をしたところだと聞いた。  明日はあつ子さんのメッセージを携えて私は同窓会に出席する。  レストランの庭にはショウブが咲いていた。  そう、五月の節句の時は実家の隣の家のマサエさんが頭にショウブの葉を巻いて  我が家の庭を横切っていた時の光景が浮かんだ。  そしてその隣の家のキッコさんが  割烹着を着て姉さ被りをして口をすぼめてショウブの花を両手に抱えて横切って行く光景が  しばらく浮かんでいた。  宮崎の太陽は熱い。熱い日差しの中で咲いているショウブが涼しげに見えた。  帰り楽しい話に身をよじりながら身を乗り出しながら〜〜  そうしたら〜〜私の右袖が縦に裂けて敗れた。  シャ=キッと音がした。  また チクチク花火を描こう。  グルグルカラフルに針を動かそう。    帰宅したら睡魔に襲われ約3時間ほど寝た。  それから兄と蕗を煮た。蕗は実家の畑のもの。写真はその工程。  素材の味が生きていた。写真は順番に:板ズリ、茹でる、冷水に浸す、皮むき、切る、煮汁、完成。

   帰省日の朝はラッシュラッシュラッシュ (2012年5月2日)

 天気予報では雨嵐のこと。油断できないので30分早く家を出る。 10輛編成の3りょう目に座れた。人がこちらに移動して来る。 上野まで一時間弱。山手線満杯なので二回見送った。三回目はやや隙間が見て取れた。 10号の絵の額縁を肩から下げて乗りこんだ。 それからも出勤の群像が通過して行くのを見送った。 東京ー博多行乗車。お弁当から始めよう。 めるすきさんから行ってらっしゃいのコールが入った。 新横浜通過。外は雨 ************************* 静岡ー緑滴るの風景の中に工場が見える。そして茶園。昨日は八十八夜だった。 名古屋辺りで雨上がる。三人がけの窓際が私の席。中空き。通路側は犬連れの若い女性。 ゆったり座れていい。京都まで『アメリカ文学紀行』の続きを読もう。 ありさんからも行ってらっしゃいメールが入った。ありがたい。 ************************* 新神戸発車。風が吹いている。服装は誰しも薄着だ。 空が明るく見えたが?あーあトンネルだあー。 只今ケイタイの充電中。私の足元にコンセントがあるのでありがたい。 バソコンのサービスは新大阪までだった。 傘が見える。降ったり止んだりしているようだ。 神戸には一度も来たたことがないので、本を閉じてしばらく外を眺めよう。 横浜とは少し違って感じられるのは目線が低いからだろう。 トンネルをいくつ抜けたのだろう。小さな家並みが見えて来た。 雨のせいか落ち着く風景だ。川あり橋がありたんぼ畑、緑なすものみな美しい。 雲が流れている。 そして岡山に到着。 高層ビルが灰色に変わった空に馴染むかのようにただ建っているように見える。 動いているものが見えないことが電車の旅人にはちょっと色合も望まれるが。 家のたたずまいが整然としていてかつての城下を彷彿させる。 稲作の日本美しい。 ************************ 福山では雨が激しく窓を叩いた。 私は眠っていたようだ。コーヒーをいただく。3百円。ケイタイは圏外。 しばらくして着信あり。嗚呼 カナダから同窓会のみんな宛てにたメッセージが。 たんぽぽちゃん(あつこ@カナダ)ありがとう。 確かに受領しましたよ。 小倉までまた本の続きを。同郷の友人の本を読むことのなんと幸せなこと。 故郷へ向かう道中にだ。感想はまたゆっくり伝えよう。 省一さんは連休が明けたらイギリスへ旅に出るそうだ。さるきシリーズが続いている。 さて、小倉からはどんな旅になるのか。 ************************* 小倉からは山あり谷ありの予感がしてきた。 私の指定席に学生さんらしき女性がいる。 そばでイギリス人の青年がチケットを確認している。 私は彼に日本語で声をかけた。(座席番号の確認のために)。  彼はチケットを見せてくれた。私の隣の席の番号だった。  流暢な日本語で、じつに紳士的に私に席をすすめてくれた。  私たちのやり取りを彼女は見ていないわけはない。  しかし彼女は、じつに涼しい顔してー立ち上がり去って行った。  青年と私は運命共同体になったような気がした。  しかしこの優しい時間は中津までだった。  良い旅を!  日本の若い女性があまりにもマナーのないことに恥ずかしい思いが残ってしかたない。  ケイタイの充電サービスがないので別府まで閉じることにしよう。 *************************  別府で一分間の再会を果たすことができた。  はるかさん(「木曜日の風の色」)からメールをいただいてから私はこの一分間の停車時間を  最大有効に使い切るにはどうしたら良いか考えた。  はるかさんも考えた。そしてホームで会えたのだ。  とにかくハグハグで30秒。互いの顔を見てお土産交換。顔を見合うこと20秒ほど。  手を振り振り電車に乗り数秒。席に戻る気持ちにはなれなかった。  大分までの6、7分を出口に立ったままでいたかった。  ありがとうはるかさん!    雨はすっかり上がりうっすらと日がさしこんできた。

  5月帰省  (2012年5月1日)

     5月に帰省するのは40数年ぶりか?  クロネコ宅急便で一番大きなサイズの箱をふたつ送り届けた。 それなのに今日は他にも持って行きたいモノが出てきた。ふるさとの風景を写真に撮ったり、 スケッチもしたい。俳句もできるかも。あれこれ楽しいことを描いては荷物が増えていった。  宮崎で中学時代の同窓会が待っている。卒業以来会える人もいるようだ。先生も4名御出席 くださるとのこと。いよいよ空想が現実味を帯びてきた。しわ・しみ・たるみ・老眼・白髪… …なかなか味が出てきて愉快愉快。私は今のまんまでひょいと顔を出そうと思っている。 「誰や?」「誰ね?」ちて言う同級生がいればいるほどそれは嬉しいことだ。 (と強がりもあることはある)  先生とはどんなお話しになるのだろうか。このことも楽しみだ。  そして実家の両親とは滞在の半分を一緒に過ごせるのだ。  山の霧と土と山菜と田んぼと花と木々と電信柱(でんしんばしら)に挨拶しよう。  行きも帰りも新幹線を使うのだ。  若い頃上京してきたときも新幹線だった。  九州新幹線ができて時間は縮んだ。  鹿児島のほうには向かわないで小倉で乗り換えて特急ソニックとにちりんで宮崎に向かう。  ア家を出てから11時間30分で宮崎駅に着く。  列車の中から便りを出そう。家でそらまめが受けてアップしてくれることだろう。  さあ!寝なくては! 

 『アメリカ文学紀行』那須省一 著  (2012年4月16日)

「私はもとより、アメリカ文学の専門家ではありません。私なりの「解釈」で取材を進めて まいりました。今のアメリカ社会の「一端」は切り取ることができたのではと思っています。 気軽に読んでいただければ幸甚です   那須省一 」         同郷の友人の活躍は特に嬉しいものだ。那須省一さんは学生時代からユニークな人物だった。 長じてはウイットに富んだ話に磨きがかかり、引き込まれたものだ。顔は幼少の頃からあまり変 っていない。30年ぶりに会った時、すぐにわかったほど。現在もそのときから体重の変動くらい。 しかし、読売新聞の「号外」を手に持って仲間との約束の場所に現れたときは「記者」の顔をし ていた。   「2010年読売新聞社を退社してからは海外を「さるく」(歩く)旅を続けています」と便りに。 アメリカへ、そしてアフリカへと 彼の”さるいた足跡”は『二人の運命は二度変わる』『ブラッ クアフリカをさるく』と題して書肆侃侃房より発行。 (下記サイト クリック!)    http://www.kankanbou.com/kankan/?itemid=459    『アメリカ文学紀行』も私の癖で(本を読むとき)、「はじめに」そして「あとがき」を読んだ。 すると、<旅は体力!腹ごしらえをする著者(マイアミにて)>の顔写真が載っていた。  5月私は宮崎へ帰省する。新幹線の中でゆっくり『アメリカ文学紀行」を味わい、日豊本線あたり で食べ尽くそうと思っている。

 一人称 二人称  (2012年4月15日)

 この頃、テレビやラジオで昭和の歌を聴くことが多い。なかでも昭和30,40年代の歌 の歌詞には当時の「若者」が一生懸命に社会に立ち向かっている声が聞こえてくる。 「下町の太陽」は、下町を知らない(九州の山奥で生まれ育ったので)私には空を歌うとい う光景が描けなかった。もっとも幼かったこともあるのだが。 今聞くと歌詞の言葉にけなげさが伺える。美しく清潔で明るい。貧しさに太陽の光が希望を 持たせる。そのように感じられる。  昭和30年代、私の村では各地区で小中合同の自治運営の集まり(会の名前が思い出せない が定期的にあった。その集まりのときは、宿(やど)(会場は各家が当番だったのか?)の部 屋のふすまを広げて50名くらいの小中学生が議長席に向かって正座していた。議長はリンゴ 箱に手をついて、本日の議題を説明していた。そしてみんなで話し合うのだった。オブザバー で父兄(死語)が数人居た。会が終わる頃に中学生が立ち上がり、スクラムを組んで歌った歌 があった。私は今でも諳んじて歌える。  しあわせはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが  流れる汗に未来を込めて 明るい社会を作ること  みんなと歌おう しあわせの歌を  ひびくこだまを 追って行こう  しわせはわたしの願い あまい思いや夢でなく  今の今をより美しく つらぬき通して生きること  みんなと歌おう しあわせの歌を ・・・・・・・・・・  しあわせはみんなの願い 朝やけの山河を守り  働くものの平和の心を 世界の人にしめすこと  みんなと歌おう しあわせの歌を ・・・・・・・・・・  どのような経路で村に入ってきたのかわからないが彼らはとても明るい表情で歌っていた。  当時の歌や会話は二人称で”我々は”というものが多かった。議論が好きな若者が多かった。  平成の若いひとたちは「私的には〜」「僕的には〜」と一人称で語尾を上げて話す。情報が 多すぎて、知ったつもりになって未来にしらけきっているのではないだろうか。未知のものが あるということが人を謙虚にし、ポジティブにさせるのではないだろうか。

予告 5月12日〜写真家・川内倫子展「照度 あめつち 影を見る」(2012年3月23日)

会期:5月12日(土)〜7月16日(月・祝) 会場:東京都写真美術館(2階展示室)  詳細はこちらを ↓ クリック! http://www.switch-pub.co.jp/culture/061122134.php  関東近辺にお住まいの銀鏡関係者のみなさんにはぜひお誘いの上、  銀鏡をうんと近くで見れることでしょう。  

 『SWITCH』特別編集 APRIL2012( LISTEN. 山口智子)   (2012年3月22日)


 「銀鏡(しろみ)」という文字が表紙に出ている。      嬉しくて文字の上を指で撫でた。      本を開く。目次を見る。   100P見開きに祝子(ほうり)全員が載っている。     銀鏡では舞う男の人のことを祝子と言う。        夜を徹して舞った祝子さんたちの顔だ。
      

(以下、本文より)   銀鏡神楽とはいかなる祭りか   350カ所以上の村々で神楽が行われるといわれる宮崎県。   なかでも山間部で行われる夜神楽の   高千穂神楽、椎葉神楽、米良神楽は   古来の姿を今に伝えるものとしてよく知られている。   その米良神楽の中のひとつ、銀鏡神楽を体験する。     目的は神様に喜んでもらうこと     銀鏡の名前の由来     星と舞う夜     夜を徹した神楽のはじまり   (以上、文と写真=赤坂友昭)             (以下、見出しより)  「闇をことほぐ」     宮崎県「銀鏡神楽」の神々と精霊に出会う旅               対談 鶴岡真弓×山口智子                  (以上)    私は読み終えて、朝霧の立つ庭の赤い鳥居を思った。  隠居じさん(曽祖父よしみ)の叩く太鼓の音を聞いて育ったことを。  どんじさん(祖父いさむ)の太鼓を。そして父が叩く太鼓の音を、  今でも太鼓の音を聞くことがある。聞こえてくるのだ。    嗚呼、あそこが私のふるさとなのだ。

 『SWITCH』特別編集APRIL2012( LISTEN. 山口智子)  (2012年3月20日)

 「ビックリです!!ぜひ読んでみて!   銀鏡神楽を女優さんたちが熱く語ってます」。  本は、3月10日に発売されていましたので早速アマゾンに注文。 そういえば、昨年の12月14日の銀鏡(しろみ)祭りに女優の山口智子さん、同じく女優の鶴田真由さん、 多摩美大教授(ケルト芸術研究家)の鶴岡真弓さん。他、数名の方がお神楽を観にいらしたという話は 聞いていましたが、それがどのような事情でいらしていたのか私には皆目わかりませんでした。  ネットでレビューを読んで納得!  ご興味のある方は、下記サイトを覘いてみてくださいね〜。  銀鏡に関する記事は、頁087〜紹介されています。 http://www.switch-pub.co.jp/switch/2012/03/074121940.php

  銀上小銀鏡中合同運動会 応援歌「♪勝ち勝ち」 (2012年1月19日)

今朝のNHKで ♪  宮島さんの神主が  おみくじひいて申すには  いつも赤(白)が、勝ち 勝ち勝ち勝ち  という歌詞の宮島に古くから伝わる歌を紹介していた。 「勝ち」というのに合わせて、しゃもじを「カチ」とたたいて歌っていた。 宮島ではこの歌を歌えない人はいないと言う。 広島カープの応援歌にもなっているそうだ。  私もこの歌の節回しと歌詞に思い出がある。  銀鏡では小・中合同大運動会の応援歌として歌われていた。 ♪  銀鏡(しろみ)神社の神主が  おみくじひいて申すには   今日の運動会は  赤軍(白軍)の勝ち勝ち ♪  もしも白軍(赤軍)が勝ったなら  電信柱に花が咲く   絵に描いたダルマさんが  踊り出す踊り出す  村のみんなが総出で参加していた運動会の光景。中学生のお兄さんお姉さんたちがすごく大人びて 見えていた。お年寄りたちの観覧席はひな壇だった。  番組には北海道から意見・感想が寄せられていた。

 「山の駅 銀鏡(しろみ)」落成式 2011/12/21   (2012年1月16日)

 昭和40年代前半まで”銀鏡銀座(しろみぎんざ)”と呼ばれていた商店街に「山の駅」ができた。  私が中学生の頃は、この場所は「タガ商店」だった。お薬、日用品、駄菓子を扱っていた。  部活はテニス部だった。帰りにみんなでちょこっと駄菓子を買ったものだった。  ここのご主人(タガジイ)は子供好きで、私たちを相手に楽しんでくださった。  やがてタガジイは亡くなり、店を閉じた。  この店を左手に曲がると、銀鏡橋があり、この橋を渡って中学校へと歩いた。  毎年12月14日は、銀鏡夜神楽があり、この日は学校もお休みだった。  校舎に練習している神楽囃子が聞こえてきたものだった。  「山の駅 銀鏡」完成!  新聞記事を読んで脳裏を銀鏡の今昔が行き交った。                           

 誰にも故郷がある (2012年1月6日)

 毎年、暮れになると銀鏡神社からお札(「日向国境 銀鏡神社守護」)が届く。そして 実家の宿神社からもお札が届く。額縁に三つのお札を並べてお祀りし、ご加護をお受けし ている。結婚以来続いている我が家の行く年来る年の慣わしになっている。  新婚時代は額縁が部屋の雰囲気に似合わないので気になっていたが、夫はありがたくお 受けしてきちんと御祀りしてくれたものだった。娘が片言の言葉を発するようになった頃、 海外出張になり夫がこの額縁に深々と頭を下げている姿を見た。仏壇の前でも手をあわせ ていた。家族はそれからもいろいろなことがあったがその都度彼も私も手をあわせてきた。 自然と娘もそのようにして成長してきた。  作年娘が出産した。その日は銀鏡の大祭が始まる日。退院はお祭りが終わりの日。実家 の両親には兄妹たちから伝えてもらった。両親にはこれからゆっくりと曾孫誕生の経緯を 語ろうと思っている。  銀鏡は昨年数名の方々が亡くなったそうだ。人口はこの先も減り続けることだろう。村 の時間は老いを加速させている。80歳になってもまだまだ現役の村であったが年々細っ てきていることを私は遠くに居ながらにして実感している。  銀鏡のみんなが銀鏡神社を拠り所にしてきていることの意味をいよいよ考え、そこで” 後世に文字として残こさねば”ということになったと聞いている。 本編纂については民俗学写真家の須藤功氏の協力を得て、”地元発信の民族誌”を目指 しているそうだ。     作年の大祭の折に銀鏡神楽をご観覧いただいた不特定多数の人に配られたパンフをここに 紹介したい。      予告! 銀鏡神楽 −日向山地の生活誌ー             私は私の銀鏡の清楚な民の歴史をより多くの方々に知っていただけたらと切に願っている。

 ノスタルジア (2011年12月14日)

 アワ・ヒエ・ソバ・ムギ・イモ・マメ・ゴザ・ムシロ・・・・・・。畑に行くと妙にノス タルジックになる。畑が高台にあることがそう思わせるのかもしれない。そして、畑に面し た私道を挟んで、大事に代々守られている大きなお墓が建っていることにも関係が有るのか もしれない。お墓と畑と竹林のある辺り一面に私が幼いころに見たり聞いたり食べたりして いたことが美しい光景になって懐かしさを引き出してくれる。  私が生まれ育った家の裏のほうに地区のお墓があった。当時は土葬だったので埋葬すると きのことを覚えている。宮大工さんがこしらえたお宮の前で送る大人たちの悲しみと優しさ が皮膚に刷り込まれている。お墓の有り様を見てはそのようなことを思い出し、安心した心 持になれる。  故郷・銀鏡の話に戻るが、そのお墓のあるところから2キロ先に実家の畑があった。その 場所を「おんの」と呼んでいた。和紙の元になるミツマタの皮を煮るための大窯があった。 そばにはきれいな水が流れていて私はそこで指を入れたり葉っぱを流したりして一人遊んで いた。実家の焼畑が延焼し山火事が起きたのはもっと大きくなった頃か?。山が赤くなって いくのを家の庭から見ていた。今年収穫した大根は、実家の母から昨年の種をもらって撒い たものだが味わうと当時の焼畑の煙の匂いが感じられるのだ。この大根は、苦味と辛味が微 妙に入り混じっていて煮ると苦味が優しくなる。すき焼きにこの大根をそぎ切りにして入れ て煮るとその味わいは絶妙なのだ。私はそのように前置きをしてから人に差し上げている。 更に加えて母が畑で作った葱は長ネギではなくて緑の多い種類の葱だったことも言いたくな るのである。お互いのふるさとを紹介し合って話が深まることも嬉しい。  先日のこと、夫が収穫した里芋の寒さ除けにムシロを買ってきてくれた。値段(@2500円) を聞いて驚いた。なるほどそのムシロは、私が幼いころに祖父が編んでいたムシロより分厚く 出来ていた。ふるさとでは、ムシロは大いに活躍していた。アワ、ヒエ、マメを干したり選り 分けたり、ムギ味噌を作るときに麹菌を広げたりと暮らしに欠かせないものだった。 14日の今日は銀鏡神楽だ。ムシロの上で舞うのだ。今日明日とも天気良好。昨年より暖かいとのことだ。 http://www.0503ak1025.net/siromi.html  初孫が生まれて今日で3日目。引き継がれるもの、引き継がれないもの。きれいな瞳でとき おりじっと見つめられているような気がする。             冬晴れの休刊日孫誕生す    くろまめ

 故郷の便りを届けます (2011年11月20日)

 10代の頃の竹中智恵子さんは長い髪をしていた。制服の上着が隠れるくらい長かった。 2011年現在も髪が長い。  彼女から届いた宮崎日日新聞には「茶の間」に投稿された受賞者の作品が一挙掲載され ていた。受賞者のみなさんの文章から宮崎を感じることができた。    時は流れても変わらない思い、  時に思い出し時に振り返る、  今を生きて今に感謝する・・・。  普遍的なものへの思いに共感することが多かった。      http://picasaweb.google.com/yeziyezi55/ZPaDwK#  地域の話題「児湯・西都」の頁には銀鏡の記事は見当たらなかったが隣の西米良村では写真家 ・小河孝浩さんが写真工房の一部を改装して「カフェギャラリー ラ・メール」として今月オー プンされていた。  

国立劇場「銀鏡神楽」見終えて (2011年6月25日)

 地下鉄半蔵門駅下車、出口1番を出て数分。国立小劇場の正面で銀鏡の人を発見。ホールに 入ると西都市市長・橋田和美氏を発見。お名刺に『ふるさとの心』と赤く印字されていた。 「銀鏡神楽」は私のふるさとの心である。同級生知人にも出会えて故郷が一気に近づいた。  演目の写真は撮ることが出来ないので、クロッキー帳を持参。灯りが手元に届かない。暗が りの中では描けない。しかしこの日はもう来ない。これも残すことにした。  句友の高志さんとみちさんも楽しんでいただいたようだった。字幕解説は、お二人の古典好 きになんらかの影響を与えたに違いない。願わくば、銀鏡の所在地と物産も伝わって行くとい いなあと思っているところである。   追記:シャンソン歌手の浜砂伴海さんがブログにアップしています。

国立劇場「銀鏡神楽」上陸! 2011/6/25    (2011年6月19日)

 「銀鏡」と書いて「しろみ」と読みます。「なぜ? そう読むの?」とよく聞かれます。  とってもとっても簡単に言いますと神話からです。 「オオヤマツミノカミがニニギノミコトに、娘(姉妹)を一緒に嫁がせようとした。ニニギノミ コトは姉イワナガヒメのルックスが気に入らず親元に帰してしまった。イワナガヒメは白銅鏡に 映る顔を見てショックのあまり鏡を遠くに放り投げた。鏡は龍房山(リュウブサヤマ)の木の枝 に引っ掛かった。白く輝いて見えたところから「白見」。それから後の後に「銀鏡」となったそ うな」。  「銀鏡(しろみ)」を覚えていただきたいなあと思います。宮崎県西都市銀鏡です。  「銀鏡神楽」・・・雅な舞です。荘厳な舞です。空気が揺れます。篠笛の音が細く長く響きます。   6月25日(土)国立劇場にて「銀鏡神楽」公演。  劇場では字幕にて解説をいたします。  パンフレットの写真は、「ししとぎり」です。古い狂言の名残を伝えています。 「ししとぎり」は、1977年、宮崎県内の神楽で初めて国の重要無形民族文化財に指定されました。  6月25日の神楽を舞う舞台(外神屋(そとこうや)もご期待下さい。 「外神屋(そとこうや)」を組み立てるため、「ヤマ」と呼ばれる垣や、その中央に建てる「シメ」 という柱の建材は地元からトラックで運んでくるそうです。ただし、神社主神の「西之宮大明神」、 「宿神三宝荒神」の面は門外不出のため、代用を使うそうです。       ↓↓↓クリック 銀鏡神楽の画像を閲覧できます。各画像をクリックしますと、銀鏡(しろみ)神楽とは? 答えが見つかるかも知れません。

2011年6月25日「銀鏡神楽」公演! in 国立劇場  (2011年6月17日)

 銀鏡(しろみ)は私の故郷です。時々Google画像検索で銀鏡神楽を見て懐かしんでいます。 高千穂神楽も有名ですが、「銀鏡神楽を観ずして神楽は語れない」とまで言わしめる伝説の お神楽です。ぜひ、お写真からでもその”空気感”を感じ取っていただけたら嬉しいです。

  カリコボーズと銀鏡 (2011年2月15日)

 昨日の雪に朝日が当たりまばゆい今朝の8時。スコップを持った男性のなんと逞しく見える ことよとベランダから眺めてそう思った。駐車場から次々とご出勤のエンジンがかかり排気ガ スが風に流れていた。ベランダのシバザクラが白とピンクの花を咲かせ、ジンチョウゲの香り はいつもより強く感じられた。  今日は私のエコー検査の日。送迎バスの止まるバス停まで徒歩2分弱。近いことがこれほど ありがたく思えるのは歳のせいもあるかも知れない。暮らしやすいこの場所に住んでもう30年 になろうとしている。  榎本朗喬先生が書かれた『カリコボーズ』は、かつての赴任地、宮崎県西都市銀鏡を45年ぶ りに訪問され、当時のことを想い出されている。訪問のきっかけになったのは市のボランティ ア「匠の会」の集まりで、かつて銀鏡で親しくされていた浜砂たけげささんに出会われたこと からだった。銀鏡(しろみ)に対する懐かしさと、当時からの「カリコボーズ」にまつわるこ とを詳しく知りたいという思いがひとつになって銀鏡に向かわれたことと思った。    プロローグ・・・ 先生が西都市から銀鏡へ向かわれる途中のトンネルの分岐付近の懐かし い描写。更に9キロ先の銀鏡へと向かわれて行く途中の描写。「おお、銀鏡じゃ!」と感動の あまり声を出された・・・。ここまで読んできて私は涙を禁じ得なかった。  45年前は、ほとんどの家が藁葺きだった。私の実家もそうであった。共同普請がなされて いた頃の村は貧しくても活気があり、子供達は夕暮れになっても家に戻らず、「そろそろ帰え ってくっが。せわ(心配)ねえ」と言う親たちが多かったように思う。私が誇りに思えること は、山で生まれ育ったこと。保育園も幼稚園もない村には信号もなかった。道は子供の大通り だった。お年寄りたちと一緒に育ったこと。村のみんなが大らかだったことである。    榎本朗喬著『カリコボーズ』を読んでからは、私の中に在る銀鏡イズムがなにやらムニャム ニャしてならない。    「カリコボーズ」は、銀鏡に住んでいた人々(ご先祖さまたち)の自然への畏敬の念の現れ かも知れないなあと思った。しろみの言葉で、大事に語り伝えてゆきたいと思う。  榎本先生 ありがとうございます。

  『カリコボーズ』榎本 朗喬 著(2011年2月11日)

 先日のこと、恩師より届いた『カリコボーズ』に感動でいっぱいになった。私はこれまで故郷の 銀鏡(しろみ)のことなど折りにふれ書いてきたが、それは家族と暮らした地区の中のことが大半 だった。村の記念行事や夜神楽のこと、運動会のことなど村全体をあげた集まりのことなど記憶に 触れるたびに書いてきた。  恩師の『カリコボーズ』は、昭和38年度から40年度の3年間の回想から平成20年晩秋の銀 鏡が書かれてある。45年前の先生と生徒。先生と村の大人達との優しい交流。自然の真っ只中で、 明るくのびのびと子供達が育っている背景(風土)が映像となって私の目の前をスライドして行っ た。知らなかったことがいくつかあった。川下の方では橋を渡って(教職員、PTA、生徒が竹で組ん だ橋)通学していたこと。釣り船があったこと。その頃はそういうふうなことがあったんだと驚い ている。私は何度も再生して見ている。遠い故郷が今となって戻ってきたように思える。  ぜひご一読下さい。 『カリコボーズ』(←クリック) 注:『カリコボーズ』は、宮崎県教職員互助会発行 文芸誌「しゃりんばい」第33号に収められています。

 「銀鏡神楽」  (2010年12月28日)

おおかたの会社は、御用納めの日でしょうか。 コンテンツ「銀鏡神楽」の画像を3種追加しました。 よろしかったら、お時間のあるときにお立ち寄り下さい。 画像は、後ろのほうに載せています。 内容は、2003年10月11日 東京・駒場の「日本民藝館」にて。     2007年12月15日 「式三十二番 ししとぎり」。     2008年12月7日  神楽の練習風景。      2009年3月8日   NHK 「第9回地域伝統芸能まつり」出演。

   あらためて      (2010年12月24日)

 下記サイトをご覧いただけたら嬉しいです。 宮崎県西都市銀鏡の「銀鏡神楽」です。(←クリック!) 2009年の大祭の模様が記録されています。  

 「銀鏡神楽」2010       (2010年12月15日)

 「『「銀鏡神楽」は歴史学者や郷土史研究家が「日本最高の神楽」と評しているものです。 その神楽が舞われる日が来週14日に迫ってきました。偶然ですが、赤穂浪士の討ち入りの 日です』」。同郷の那須省一氏が自身のブログ『アフリカをさるく』でコメントしていた。  12月に入ると、銀鏡出身の誰もが12月14日に執り行われるお神楽のことを思い出すそうだ。 米良の言葉で語れば語るほどその想いは強くなり、銀鏡(しろみ)を知っていただきたいと いう思いになる。    さて、時は平成22年。12月14日は、今までで一番暖かかったそうだ。 講談師ならずケータイから実況の写メールが届いた。 「手袋も要らずシャッターも押し易いです」。 私はPCの前で待機していた。日付け変わってからは父の舞が無事に終わりますよう祈った。  「無事にすんだよ 今回は録画もあります 泣きますわよ」。 父は医師から股関節の手術をすすめられていたが、術後のリハビリに時間がかかることから、 頑として断ったのだそうだ。 「どげね?」と聞けば 「ああ〜大丈夫だ!! 痛み止めの薬があるから大丈夫じゃ」。 (安心すなり。ケータイオンして就寝すなり。) 午前2時過ぎ 着信☆ 「今現在の太鼓を叩く父」。
午後1時過ぎ 着信☆ 「ししとぎりが始まりました。山は賑わっています。みちてるさんが絶妙な米良弁で観客を 笑いに誘っています。おばあさん役は、どなたか判りませんわ。このあと33番の神送りで 終了ですばい。父は昨日と変わらず元気。良かったわあ。それじゃ〜またね〜」。 安堵してか文末は手のひらの絵文字が2個。妹たちは午前4時までお神楽を観ていたそうだ。  

   濱砂次雄さんのお土産 ☆金平糖☆     (2010年12月4日)


畑の帰りにラジオの俳句の番組を聞いていたら、 「こんぺいとう」の”一語”がぐるぐる昔の思い出を引き上げてくれた。 はるか昔、小学2年生くらいだったと思う。 春の記憶がポーンと飛び出してきた。まだ寒さが残る4月。 私は仲良しのYちゃんのおうちに居た。 Yちゃんのお父さんの次雄さんが私にお土産をくださった。 プラスチック?の水筒に入っているキラキラ砂糖菓子。 水筒の形もピンクのビニールリボンも美しい。 私とY子ちゃんは水筒を斜め掛けにして走った。 金平糖を噛んだ。 カリッツ ガギッツ 粉々になって甘さが広がった。 空に透かして、キラキラ光る金平糖の角を飽きずに眺めていた。 突如後ろから兄が私の水筒を奪おうとしてきた。 離す物かと一生懸命引っ張った。 リボンが伸びて細長くなって、切れた。 水筒の栓が抜けて、金平糖が散らばった。 私は泣いた。次雄さんが出てきて兄を叱った。 私は兄が可哀想になってきて、泣きながら拾った金平糖をあげた。 兄はプイとして行ってしまった。 そんなことが確かにあった小学時代。 兄は中学校の修学旅行のお土産にいろんな色のビーズを買ってきてくれた。 背広姿に紳士帽を被り、革のかばんを持って町に出かける次雄さんは 学校の校長先生よりもおまわりさんよりも偉く見えた。 物知りでニコニコいろんなことを教えてくださった。 次雄さんの姿を最後に見たのは10年ほど前?  隣のSちゃんが「次雄さんがきちょりやるよ」って教えてくれた。 それで私はすぐに追いかけたが、とうとう出会えなかった。 もっと一生懸命捜せば良かった。 Yちゃん、会いたいね。
 

  銀上(しろかみ)小学校の講堂で見た映画    (2010年9月10日)

美容室での会話から昔の映画のことを思い出した。
椅子にかけて『レタスクラブ』を広げようとしたら、『婦人画報』を持ってきてくださった。
「京都の特集なのね。写真を見ているだけで旅をしている気分になりますねえ。わあ〜美味しそう〜」
「お能の写真とかお好きですか?」
「ええ。衣装とかお面も好きなんですよ。」と話しているうちに故郷のお神楽のこと、V字の谷で育っ
たことなど、思わず自己紹介になってしまった。宮崎出身ということはご存知だったけれど海のイメ
ージで見ていらしたようだった。(くろまめでございますから)

1)
感性の話になってきた。 「映画は身近で楽しめますよね。映画と言えばね、昔は学校の講堂でね・・・。」

2)
「児童生徒はみんな下敷きを持って行進して講堂に入っていったのよ」 「ええ〜〜〜!、それって戦時中の話みたいですね!!」 「下敷きは? それでどうするのですか?」 「暑くなってくるから団扇代わりなのよ。応援の時にも使うのよ」 「??????そうなんですかあ〜」 (鏡に写る美容師さんの表情が興味深深になってきているのです) 「昭和30年代のことなのよ。なにしろ田舎も田舎だったので」 「子供向けの映画なんでしょ?」 「時代劇が多かったわ。わかりやすい内容だったし、みんなすごく楽しんだのよ」

3)
「映写機が回りだすと、少し静かになってね。」   「先生たちは大変だったわ。注意する声は映写機の音で聞こえないの」 「先生のシルエットが空しくお口をパクパクしていたのよ」 (ハサミを持つ手が震えてる〜〜 さすがプロです。手は働いています)) 「映写機の光の中に埃が見えるでしょ。あれにも面白みを感じたわ」 「ええ〜〜! それは な、何で、 どうしてですか!?」

4)
「当時のスターは、大友柳太郎って言う人でね。顔の長い人だったわ」 「派手な着物を着ていてもちっとも変ではないの」 「大川橋蔵って言う人もいたわ。私は豪快な大友柳太郎が良かったな」

5)
  「笑い顔がすごく良かったわ。声も太くて大きくて、歯もきれいだったなあ」 「そんなところまでおぼえてらっしゃるのですか!?」

6)
  「ヘラヘラしているかと思うとピリッとシャンとなって悪い人をやっつけるの」 「ちゃんばら劇、そうそ!そうなのよ。チャンバラって言ってたわ。正義が勝つの」 「援軍は馬で駆けて来るの。パッカパッカといっぱいやってくるのよ」 (美容師は言ったのだった。「水戸黄門みたいですね」) 「テレビに向かって拍手はしないでしょ。私達は下敷きを叩いて声援を送ったわ」 
ドキドキハラハラしてそして安心したわ。ああ〜面白かったなあ。  単純な頭の働きの中で最高の幸せを感じていたに違いないのだから。

刷り込み 「人は右。車は左。廊下は静かに歩きましょう」   (2010年7月28日)

 久しぶりに人のラッシュの中に入った。暑さと画材道具を入れた大きな袋を肩から提げて・・・ 私はフラフラ。普段でも人に酔うので、新宿・池袋では待ち合わせをしないようにしている。しかし、 本日、フラフラした場所は我孫子駅だから笑える。北口から南口へ抜ける距離は短いのだがフラフラ した。夏休みで人が増えていた。  エスカレータの左側に立つことは(関東は右を空け、関西は左を空ける)自然と出来ているが、地 を歩くときは「人は右。車は左」と小学校に入学してからの刷り込みが未だに習慣になっている。何 度も何度も人にぶつかる。避けようとしてもぶつかる。人の波から抜けるのに、これまた刷り込みが あるのである。5歳のときから川で泳いでいた山の子くろまめは、こっちからあっちに移動するのに 斜めに移動するのである。人の流れが川の流れと同じに感じてしまうのである。斜めに早く移動しな くては水に流されてしまうからである。川の場合は、この方法が確実に行きたい場所に辿りつけるの である。  本日、私は、人の流れを斜めに横切って、どうもこうも勝手の悪い左側を歩いたのである。左側は 見事に空いていたのである。次から次と押し寄せてくる人の風圧におされながら押しながらようやく 普通に歩ける場所を得た。それからは気持ちよくゆったりと歩くことが出来た。  今日、ぶつかり合った多くの人たちよ。あなたがたはどちらのお生まれでしょうか。みなさん上手 に歩いてらっしゃった。ドドドーッと一塊になって私に向かってくるのを私は払い損なって何度もぶ つかりましたよ! いえいえ。みなさんはちっとも悪くないのです。  「人は右。車は左。廊下は静かに歩きましょう!」  小学校6年間の努力目標でした。人とすれ違うとき、反射的に右に避けてしまうのである。大事な 心臓がぶつかってしまう。左同士に避ければぶつかることなくスムースにすれ違えることは分かるの だけれど、それはよほどしっかり法則を覚えないと本日のようなフラフラに合うのである。

  やまいもほり     (2010年7月2日)

先月懐かしい言葉を聞いた。「やまいもをほる」は、宮崎の方言で、お酒を飲んでしつ こく絡んだり、挙句は喧嘩になったりすることを言う。私のイメージでは、場所は、故 郷の村の記念の日。おじさんたちが焼酎を飲んで愉快に話している座敷に、おばさんた ちがせっせとお膳を運ぶ。片手て笑いがこぼれるのを抑えながら座敷を行ったり来たり している。そのうちおばさんたちの笑顔が困り顔に変わっていくことを村のこどもたち は分かっている。そのような光景がまばゆく交差した。 (山芋を掘るときは、土を深く掘って芋が折れないように丁寧に扱いながら抜いて行く。 引き上げるまでのしつこさ?をいうのだろうか?) 稲垣尚友氏(竹大工・民俗研究家)がほわんとした顔で「そうこうしているうちに、山 芋堀りがはじまるわけです」。「島では(トカラ列島中乃島)、定期的に船がやって来 て、日用品を供給するのですが、海が荒れると船がやってこない。こなくなるとストレ スが溜まってくる。いつものように焼酎を飲んでいても言い争いが起きてしまう。つま り山芋を掘るわけです。相手との話が殺伐としてきて喧嘩ごしになってしまうんですな 」。 新しい情報が入ると、船が帰った後、また飲み会も和やかになるということだっ た。 村でも島でも新しい顔がめったにみられないと船が来なくなったときのような閉塞感に 似ているかも知れない。新しい人と話をすると新しい情報が入る。普段でも人が安定し てくる。なるほど合点! 稲垣尚友さん(通称ナオさん)は、11月に宮崎の諸塚村に行くそうだ。なんでもお祭 りの前座(猿回し芸)で竹を編むのだそうだ。 私のふるさとでも昔はどこの家でもお年寄りが竹籠を編んでいた。当たり前すぎてうっ かり技術を伝えていなかった。山芋堀りどんがぎょうさんおりやった頃は、学童も多か った。竹もいっぱいあった。

 口蹄疫      (2010年6月4日)

  ふるさとの宮崎は畜産農家のみなさんが大変な痛手を被っています。内外の宮崎県出身者が 畜産農家のみなさんになんとか力を出してもらいたいという思いになって支援活動をしてい るそうです。トロントの宮崎県人会も動いているそうです。故郷はかくも恋しい場所です。 6月、同郷のアリさんがお父上の自伝をブログにアップされていました。 ぜひ、ご一読ください。 http://ha5.seikyou.ne.jp/home/ARISAN/yasojidenwar1.html

追記: 6/5  友人からのメールより。 「ここのところ、宮崎牛が4割引きです。消費者は応援の意味も込めて、日頃手が出ないブランド肉を感謝して頂いています。」
6/10 友人からのメールより。 「口蹄疫が都城にも出ました! 西都にも日向にも><本当に心配です。」 6/11 友人からのメールより。 「今宮崎大変です〓みんな仕事にも影響でてる〓なんとか頑張らないとね〓」 6/12 友人からのメールより。 「陰性で元気な牛もいるのです。牛たちがかわいそうでなりません。猪、鹿のことも心配でなりません。」 6/11 くろまめから返信 「畜産農家の方が牛は家族と同じです。名前を呼べばこっちをみますと言って必死で涙をこらえて話されて いました。経済の痛手と同じくらい牛に対する愛情を感じました。そしてここだけでもう被害は食い止めて 欲しい。と他所の畜産農家の方々のことを心配されていました。戦前戦後食いしばってこられて後継者の方 々に夢をつないでこられた方の言葉の思いにたまらなくなりました。みんながこころから支援しています。 がんばれという言葉がつらいですが今はこの言葉しかいえません。がんばれ!」
  6/13   今日、お隣の印西市の農産物直売所でお買い物をしました。会計を終えてカウンターへ移動しましたら、 「口蹄疫義援金」の箱が置いてありました。嬉しかったです。 6/15 友人からのメールより。 「故郷といえばなかなか治まらない口蹄疫がとても気がかりです。畜産農家の方や、殺されてゆく牛や豚の ことを考えるとつらくなってしまいます。これ以上感染が広がらないことを願い、一日も早い終息を祈りた い思いです。 そうそう、銀鏡で蛍が見れると宮日にあって、ネット検索してみたら銀鏡の場所を載せたブログがありました。 6/18 中武ファーム様より

 寒さの記憶  (2010年1月19日)

今週は私の寒さの記憶を刺激することがありました。 11日の成人式の日は風が冷たく、レストランで振袖と細いストライプの背広のカップルを幾組もみかけました。 振袖で乱暴にお食事をする女性の所作が気になりました。私のときは?・・・式典には出ずに同級生たちと公園 で写真を撮りました。貧しかった私たちでしたが誰もジーパンを穿いていません。それぞれが清楚に見えます。 コートを手にしているのとコートを着たままのと並んで撮っているのと・・・3枚の写真は寒い成人式の明るい 午後の時間を残しています。 12日は終日冷たい雨でした。友人たちと一品持ち寄りで新年会でした。銀鏡の乾物を使った煮物を持って行きま した。干しシイタケ、干しゼンマイ、干しタケノコ、鶏肉を加えたものです。風呂敷に包んで袋に入れました。電 車に乗ると堀コタツのムーンとした熱気を感じました。膝の上にのせた袋全体のひんやり感とカクッとした重たさ に、一気に昔がよみがえってきました。  母が着物の上から外した割烹着に触れたときのあの感じ。1月のそれは寒い或る日、たくさんのお客様がお帰り になったあと、母が吐く白い息、母が動けば辺りの空気も冷たく動きました。ゴワゴワとした木綿の割烹着の冷た い尖がりは、母の少しいらだつ気持ちの重たさだったのでしょうか。コタツにはいることのほとんどない母でした。  小正月を迎えるときは曾祖母、祖母、おばも一緒になって餅花を飾りましたが、やはり母は忙しかったなあ。  友人たちのお母さんたちも同じような忙しさを体験されてこられたのだろうなあ。私は今朝からゆっくり煮物を こしらえて、こうしてルンルン出かける幸せを思いました。  16日は映画『今度は愛妻家』を観ました。充血した目を冷やして映画館を出ました。どうしてかすぐに感じま した。2℃の体感温度でした。「ねえ、銀鏡祭りの時のあの寒さよっ!」って私。「ホ〜寒いねえ〜」と夫。駐車 場までを黙々歩きました。車の温度計を見ると「2℃」でした。 夫は感心していました(笑)。  毎年12月14日の銀鏡神楽は午後9時過ぎから気温は徐々に下がってきます。それからぐんぐん下がります。もっと 寒さを遡りますとツララの存在を頭上に意識しながら学校へ出かけた小学生時代でした。

 ちゃんとしもたことのあった遠い日 (2009年12月29日)

12月の最後の週の始まりは、ラジオからテレビから昭和歌謡曲が流れている。昨夜は舟木和夫が「高校 三年生」を唄うと隣で五木ひろしが、嬉しくてたまらない顔をして唄っていた。こんなに感情を出す人だっ たかしらと思わずその動きに笑ってしまった。舟木和夫65歳。「♪僕らフォークダンスの手をとれば甘く 匂うよ黒髪が〜」私が小学校の高学年の頃「一週間のご無沙汰でございます。司会の玉置宏です」と登場す る『ロッテ歌のアルバム』でよく聞いた歌だ。司会者はなんてったってガムを宣伝しなくてはならない。歌 手はマイクの前から離れずに司会者からガムを受け取り「お口の恋人 ロッテ」と云っていた。そうやって 昭和は飛躍的に成長しバブルがはじけて泡と消えた。  私の父は終戦の翌年に新制高校一年生となった。戦時中は敵機を見つけたら「敵機襲来!!」と告げる役 割だったそうだ。基地でのことは10数年前に旅先の空港近くで聞いた。生を分かち合った同級生たちとの 友情は貴様と俺の仲で平成21年みな80歳になった。貴様が今年二人三人とお亡くなりになったそうだ。 戦後しばらくしてからずっと続いている同窓会はこれからどうなっていくのだろか。    父は前立腺の癌を抱えているが「癌はゆっくり進行して寿命をまっとう出来る」と腹に決めている。普段 はお茶目な父だ。この父が12月1日にご褒美の賞をいただいた。 「殿様と製粉機(くろまめのをりをり2007/10/29記」の菊池のお殿様に因んでお隣の西米良村から表彰を受 けたのだそうだ。新聞の地域版に父の写真が載っていた。額と頭髪が同化していて可愛い。私たちが父のお っちょこちょいを笑うと一緒になって笑うときのあの顔だった。カラー刷りだったら頬紅を刷いたかのよう にピンク色をしていたに違いない。「おつかれさま〜 よかったね〜」と写真に言った。家に電話をしても 父は不在でそれからもタイミングが合わずとうとう10日以上も経ってからおめでとうコールを伝えること ができたのだが、これからの大イベントのお神楽のことなどで「風邪に気をつけて。あったかくしてね。睡 眠をとってね。無理しないでねっ!!」と言わずにいられなかったことを残念に思う。  「歴史調査は自分との戦いで孤独な戦いだ」と父は云う。毎月の通院で街に出たときは図書館の開館に合 わせてお弁当とお茶を持参し閉館まで楽しめる父であるから家族としては安心だ。孤独な戦いという表現は なんとも可笑しい気がする。  

 浪花節だよー ♪忘年会  (2009年12月24日)

午後絵の教室の忘年会へ。駅の改札を出ると東西で「良いお年を!」をと声かけあって右、左に別れている。 クリスマスの飾り付けは駅のロータリーの周辺を明るく点しているが、忘年会会場の通りはうら寂しい。交番 の死角に入る建物の看板には大きな文字で「カラオケ」と書かれてある。私は初めてのお店のドアを恐る恐る 押した。とても明るい。「照明がこのくらいないといろいろうるさいんですよ」とマスターの説明に一同大笑 いした。  今年秋に入会された方は84歳。「♪千曲川」を歌ってくださった。私たちの会は当初から歌の苦手な人も ”とにかく歌う”ことをしてきている。私は「♪真夜中のギター」を歌った。♪街のどこかで〜(もう遅れる)  寂しがりやがひとり〜(字幕は次のフレーズに進んでいる)今にも泣きそうに〜(泣きたいのはワタシ)ギタ ーを弾いている〜。するとマイクを持って仲間が軌道修正してくれる。なんとか追いついてもまた遅れる。み んなで拍子をとってくれる。けれどももう遅れは取り戻せない。(こんなに〜こんなに早い歌だったかしら?)     マスターがこの空気を引き締めてくださった。浪曲 三波春夫の「忠臣蔵」。全員が聞き入った。すごい!  参った! 声も体もマイクも動かない。もしかしたらロウソクの炎も消えないかも)     私が小学校の低学年のころ、浪曲のおじさんが(職業は桶の修理や指物師、農具の修理とか鍛冶屋さんとは 違っていたような?)年に2,3回やってきて民家に宿泊してみかん箱かりんご箱かを積み重ねてその上に葛飾 北斎の絵のような波の絵の布をかけて演台をこしらえ、着物に着替えて扇子を持ち謡うのだった。村のおじさ んおばさんたちがそれはいい顔をして聴いていた。ときおり「ヨオー」「ホオ」とか合いの手を入れていたこ とが思い出されてきて私は「ハア」と言った。終いごろにはテーブルを叩いた。お皿を叩いた。涙が出てきて 困った。  父は村田秀雄とか三波春夫の浪曲? 浪花節?をときおり謡っていた。胡坐をかいて顔を真っ赤にして眉間 に青筋を立ててそしてにんまり笑ったりして気持ちよさそうに手で調子をとり膝を打ったり卓袱台の縁をお箸 で叩いたりしていた。私はそういうときの父を見て息が苦しくなっていた。「さあさあさあさあさささささ」 嬉しい顔なのにどうして真っ赤なのかわからなかった。今夜のマスターの顔はちっとも顔色は変わっていない。 父は焼酎を飲んで謡っていたのだと思う。母も祖父母も曾祖父母も笑って聴いていたが私もそばで合いの手を 入れてあげれば良かったものを。  これからますます振り返って思うことが増えてくると思う。自然と体で覚えていることに気づくのだと思う。 親のそのころの年を思うとなんと自分は幼いことか。不便な上に貧しい時代にそれぞれの時間という言葉なぞ なかったであろうことに今更ながら思った。もう明日の時間になった。今夜はクリスマスイブ。

 寒波の夜  (2009年12月18日)

 12月の夜の温度計のメモリは1,2度まで下がっている。銀鏡は雪らしい。  毎年12月12日から16日にかけて行われる銀鏡神社大祭の行事は16日の朝、銀鏡川の河原で「ししば 祭りを終え、猪の雑炊が観客に振舞われ、それから午後、それぞれの神社にご神面を背負って帰ってゆく・・ ・。このようにして今年も終えたと聞きました。  同郷の友人達から祭り便りがケータイからメールや写メールで届きました。電波が届くのはAUのみですから 臨場感のある便りにワクワクしました。「笛の音が! たまらんばい」「空がきれいよー」「今着きましたー 〇〇ちゃんが描いた舞を舞っているよー」「〇〇ちゃんが帰ってきてるよ」「30年ぶりです。懐かしいです」 焚き火を囲んで旧交を温めているようすが感じられました。「メールは終了しま〜す。ゆっくり観てねー」と 言って私は15日の午前1時過ぎにパソコンをシャットダウンしました。     忘年会のシーズンになり今日2回目の忘年会に行ってきました。「おひたし倶楽部のランチで忘年会」会場 は主婦のグループばかりでした。機織り、縫い物、味噌作りのことなど手作りの話で沸きました。節子さんが 何年も続けている手作りの干し柿をくださいました。大きい柿は元は500gもあったそうです。そのお裾分 けに感謝しつつ家族と戴きました。
BUNNさんもyukiさんも2月にはお味噌作りをされるとか。私は柚子の 味噌漬けを紹介しましたがなんとも頼りない説明でした。年内に実家の母に漬け方を聞くという課題ができま した。  さて、明日は第7回目の「女四人の旅」忘年会に出かけます。回を重ねるに連れて立夏〜初秋〜晩秋〜冬至 に時期をシフトして来ています。みんなが元気である限りこの一泊の旅を続けることがみんなの希望です。  正真正銘の「四老婆の旅」になることを祈念して夜は鍋で乾杯します。  外を見ると、車の屋根が白く凍りついてきています。

   那須省一 著『集落点描』   (2009年7月29日)

同郷の友人である那須省一氏の本を紹介したい。


(以下、あとがきより)
 2008年4月から2009年3月まで読売新聞の西部本社管内の地域版で連載した「集落点描」を 再録してまとめたもので連載では紹介できなかった話題も加え、現地を今年に入り再訪、新しい写真 を撮って巻頭部分に加え、過疎問題に詳しい熊本大学の徳野教授のインタビューも加えた。

 那須氏は自身の思いを記している。
「願わくは今回紹介したような集落がいつまでも存続していって欲しいということです」
(以上、あとがきより)

 本に紹介されている村は、鹿児島・南大隈町、熊本・山都町、大分・佐伯市宇目、長崎・新上五島町、 山口・岩国市錦町、福岡・星野村、宮崎・西米良村。

 私はインターネットで連載コラムを読んでいたが、この本を読んで改めて深く共感するに至った。私の村も 限界村だ。これまで経済の確立を願ってトライするも具現化していない。その間に人は老い、山は荒れ、 水害が起き、村は縮んで行くばかりである。けれども太陽のように明るい心は壊れていない。
本の中の村にもそのような人たちがイキイキ登場している。な、なんでだろうかと考えてみたくなる本である。

発行:書肆侃侃房(しょしかんかんぼう)
他、著書:日英対訳の時事読本『英語でさるく』

   「梅干と日本刀」と「パンツを穿いたサル」と「靴下を履いた山の子」   (2009年7月24日)

 夏休みになると 小学校の校庭に集まってラジオ体操をしていた。号令を掛けるのは子ども会の会長だった。 彼は裸足で朝礼台にあがって模範的な型の体操をした。終わると子供達みんなが朝礼台に集まって、本日確かに 体操をしました!!というお印の印をもらった。私が小学低学年の頃はいわゆる認印が押されていた。中学生は 折り紙の谷折り、山折りのようにして厳格な面持ちで印を押していた。大人は2,3人居たように思う。とにかく 中学生がしっかりしきっていたので安心して従っていたものだった。下駄の子、運動靴(黒、赤のズック)ゴム のサンダルの子たちいろいろ居たが、半分くらいは裸足で体操していた。私は裸足になるのが好きだった。足洗 い場で洗ったあとのさっぱり感を覚えている。昭和30年代後半までの記憶である。不確かだが印はただの〇になっ ていたのではないかなあ?。
 昭和40年代後半は帰省してもラジオ体操には参加しなかった。村の子供たちはどこか垢抜けてきていた。子供達は 外では靴下を履いていた。

「梅干と日本刀」の本を読んだとき村で育ったときのことを忘れて読んだ。「パンツを穿いたサル」を読んだとき はお腹を抱えて笑った。山の子を忘れて笑った。忘れるんだな。そう。忘れる。ゴキブリをみて見ないフリが自然 とできている私。カエルを見てギョッとする私。梅干を見て干す梅の酸っぱさを感じる私。そして実際にその種類の 梅を漬けている。ほうずきを鳴らさなくなった私。靴下を履かなかった山の子達は、水泳開始の合図の白旗が揚がると 家から腰にタオルを巻いて飛び出して行ったものだった。水玉模様の水着の女の子達は浮き輪を持ってくねくね駆 け出した。中学生のお姉さんたちはタオルを胸のあたりまで垂らしてちょこちょこX脚で急いだ。男の子たちは パンツを穿いてチョス(自作の竹の取っ手に鋭く研いだヤリをはめ込んだ魚を突く道具)を持って走る走る。 ほとんどの子供達はゴムのサンダルか裸足だった。誰もコケナイ。川に向かって子供達が走るのだった。ただただ 川で遊ぶのが楽しいばっかりの日課だった。野生の子供達はいなくなり、靴下を履く子供達の時代になってからは 川は泳ぐ場所ではなくなり理科や社会科のお勉強の場所になり、流れないプールで泳ぐようになっていった。 この子らはよく学び県下の学校と競争するようになった。村の学校に町の先生方が学習の研究にやってくるように なった。文化はもしかしたら足元からかも? 昭和50年代に入ると子供の数が著しく減ってきた。そして今限界 集落となってしまった。  ラジオを朝礼台にのせたら雑音が入ってそのラジオの入りの良い場所を探していた男の子は昨年還暦を迎えた とか。野生のあの頃のみんなにふと会いたくなる。

 「銀鏡神楽」 NHK放映!!    (2009年3月8日)

 「3月8日、3月15日に『第9回地域伝統芸能まつり』をテレビで放映します。なつかしい銀鏡神楽です! 見て下さいね〜。」 同級生は余裕を持って知らせてくれたのだった。私たちは録画をセットしてから外出した。

 「銀鏡神楽」は第4番目の登場。舞台の照明がタイマツの灯りほどに落とされて・・・右袖から鈴木健司元 NHKアナウンサーが現れた。「『昔私が熊本におりました頃に銀鏡神楽を知り・・・』」と明快に銀鏡神楽を 紹介してくださった。銀鏡へのアクセスからして神秘的なのである。「熊本って〜入局時代かしら? 県立劇場 の館長時代かしら? 入局と退職後のどっちなのかしらねえ〜?」・・・ソファの二人は氏の解説に耳を傾けていた。

 カメラは足の動きをよくとらえている(この足元は特に見ていただきたい)。太刀の鈍い光も鈴のかすかな音も 澄んだ空気を縦横に動かすときの空気感も篠笛と太鼓のほそ〜〜〜く たか〜〜く ふと〜〜い音が織り成す アニミズムの世界がホールに現れた。実際(自然のなかでの舞台)は、奏者の後方上部に幸御霊(さちみたま)の 猪頭(シシガシラ)が並ぶ台がある。横風が立ち、竹のこすれあう音などがお囃子の音色に乗ってそれは幻想的なのだ。

 激しい動きの舞「式16番 柴荒神」(俗に「はらかき荒神」ともいう)を終えた青年に「お幾つですか?」司会者 がマイクを向けた。「40・・・ちょっと(笑顔で)」会場がどよめいた。国の重要無形文化財指定の銀鏡神楽を継承 することの意義・・・それは並大抵の気持ちでは続かないのだ。40代、50代、60代、70代のみなさんの銀鏡神 楽にかける練習量のすべてが彼の「がんばります!」の一言に凝縮されていると思った。「猪はどうするのですか?」 「ありがたくいただいております」に会場が沸いた。今年も12月の夜神楽は日を変えることなく形を変えることなく 執り行われる。

再放送 NHK教育テレビ  3月15日(日曜) 15:00 〜 16:30




↑写真は同郷のアリさん提供。

  当サイトのリンク「銀鏡神楽」もよろしかったらご覧下さい。

BBQ−その3 完  (2008年11月6日)

 父はアルコールの分解の働きが悪いので顔はまだピンク色だった。少し薄くなってはいたがまだもう 少し横になっていれば気分も落ち着くだろうにと誰しもが感じていた。しかし父は横にならず立ち上が ったのだった。

 ダイアナが注意して見ていた。母(シンデレラは灰かぶりという意味で灰をかぶって働くほど働き者か ら)は、ニコニコ見ていた。私はハラハラ見ていた。白雪姫とそら豆は(カメラを向けていたことは後に 「映写会」をして分かったことだが)カメラを。「かかし〜」と言って父がバランスをとった。80歳に なろうとしている今もバランスはとても良い。本来ならばもっと長く出来るのだが(今日はつらかろうに ・・・><)と思わせた。やや足元がブレて肩の位置は水平に傾いた。そしてモトに戻った。(なかなか しぶとい。あっぱれ!)と見た。みんなが(心配して)注目した。もう一度「かかし〜」とがんばった。 義母(妖精のおばあさんは「シンデレラ」に出て来るカボチャの馬車にしてくれた人)がヒヤヒヤ顔をし ていた。母は声に出して笑っていた。(喜んで)。父も満足。  つるみエリるんるんちゃんは王子のパーフォーマンスが分かるので、心配したあとで焼きそばを食べた。 みんなはヨモギ餅・黒糖饅頭・大福にお茶にお水にビールに俄然食欲が復活してきたのだった。父は今度 はお饅頭を食べていたのだった。嗚呼!!  昨年の10月は河原でパフォーマンスを見せてくれた父。みんなでお弁当を食べていたとき突如父は 素足になり石から石を飛んで飛んで向こう岸に渡った。猿のように姿勢を低くしてそして伸び、渡った。 父はこのように嬉しいときの表現が危険度も伴っているから家族は「もう、そろそろだなあ〜」と気配で 察知して、少し無関心を装い十分に注意を払い「やめて〜」と言い、「もう〜まったく〜困ったわねえ」と なるのである。この10月、母が見守って笑っている顔が特に印象に残っている。  86歳の義母・79歳の父・77歳の母の3人の写真を見ながら、そして騒動のBBQの動画を見な がらわたしたちは来年の計画を描いている。 (♪みんなの愛称は、つるみエリるんるんちゃんが名付けてくれました。BBQに参加できなかった私 の娘の愛称はティンカーベルです。もう10年以上呼ばれています。それぞれが愛称を気に入っています♪)

BBQ−その2  (2008年11月4日)

 焼酎「霧島」に馴染んでいる父(王子。名前の訳はカッコイイからだそうだ)が都農ワイン「キャンベル ・アーリー(ロゼ)・マスカット・ベリーA(赤)」に酔った。宮崎牛に合うわねえと少し気取って飲んだ私 も酔った。父はきれいなピンク色に染まり私は赤銅色に変わった。
 つるみエリるんるんちゃんが王子を心配して頭をなでていた。手はしだいに髪の毛の流れとは逆になっ ていってそれが可笑しいとみんなが笑った。それはもうすごい笑いになっていた。父は喜び照れて網の上 のものに手を伸ばしたが届かなくて立ち上がろうとしてバランスを崩し前屈みに倒れ・・・なかった。 前にも後ろにも火があったが後ろを選んで良かった。騒動の後、みんなで「柔道の受身じゃね〜」と褒 めたりけなしたり・・・。もうさんざんな王子さまになってしまった。
 後ろの七輪は頭ひとつぶん離れたところにあり、頭は握り拳二つほど地面から離れていた。小石がい っぱいある場所だった><。
 しばらく横になっていたが太陽がサンサン顔の上に当たってきたので麦藁帽子を無理やり顔に被せてた。 それも束の間、帽子を脱いで歌い始めた。なにを歌っても浪花節調なのだ。ご機嫌なのは良くわかるが次 は何が起きるのだろうかとみんなに微妙な期待感? 不安感? が生まれてくるのであった。・・・続く

BBQ−1  (2008年11月4日)

 10月18日は特に天気が良くて朝からテーブルや椅子を出して準備をした。町から妹達が持って くる材料を待つ間にそらまめは火をおこしていた。炭に着火剤が付いてなかったので難儀していた。
 母がお日様を見て「このへんがええごとあるね〜」と言った。母と義母は山側に、父は道ひとつ隔てた 川側に落ち着いた。めったに車の通らないここは、話しても歌ってもご迷惑がかからない。これから始る BBQの絶好の場所となっていった。
 妹達の到着。材料を素早く広げてみんなで乾杯をした。(・・・続く)


 10月の帰省 (2008年10月25日)

 昨年も10月に帰省した。私が帰省するというと友人たちは宮崎の観光絵葉書の名所を挙げて羨まし がる。私の生まれ育った銀鏡のことは、口の悪い友人たちは冷やかしながらも「連れて行ってよ〜」と 真顔で言う。土産にノンオイルのドレッシングを買ってきた。一度使ったら誰もが好きになる「日向夏 玉ねぎドレッシング」だ。ラベルに東国原知事のイラストが入っていることとは無関係だと思うのだが、 とにかく間違いないお土産ができて良かったと思っている。
 夫が旅のことを「そらまめ日記」に連載し始めた。私はというと旅の余韻に浸っている。耳の辺りや 髪の先に極々薄いベールがかかっていて時間がちょっと傾く感じ。
 阿蘇の火口を見た帰りに牛や馬が草を食んでいるの見た。短いススキがポヨポヨ揺れていて時間が ズームインしたような気になった。そして今また、ちょっと傾いている。私はバーベキューをした日の ことを書きたいと思う。
「そらまめ日記」は明日も続きます。

  

 銀上小・銀鏡中 合同大運動会 = "秋" (2008年10月9日)



  9月の中旬以降は雨が多くて運動会がお昼で終わってしまった小学校があった。暑い中を毎日練習して きた成果が半日で終わってしまっては可哀想だ。リレーの選手に選ばれた子やお遊戯の披露をしたかった 子や、もっともっと活躍するところを見せたかった子供達がいたに違いない。中には障害物競走なら3位 内に入れるのになあと徒競走の苦手な子供たちが思ったに違いない。母親のお弁当を楽しい気持ちで食べ れなかった子供や、お勤めを休んで応援したお父さんや、孫のがんばりを途中までしか見れなかったおじ いちゃんやおばあちゃんがいらしたことだろう。次の日に続きを行ってもどこか力の入らない運動会にな っていたのではないだろうか・・・。

  私が育った村の小学校と中学校では今も合同で運動会を行っている。今年も9月に行われたそうだ。 私が最後に見たのは27年位前に帰省した折りのこと。懐かしさに誘われて見に行った。生徒数は少なく 50歳以上の男女が多く目立っていた。お爺さん、お婆さんのひな壇はなく、校舎の窓からそれらしき人 たちの顔、顔が揺れていた。本部席のテントでは市議さん、昔先生方、校長、農協の役員さん、森林 組合の役員さん、消防団長さん、駐在さんたちが談笑していた。10年前からは山村留学生を受け入れる ようになり、そして今、限界集落になった。変わらないのは子供達の笑顔と村の静かな時間だ。

  鮮烈に思い出されるのは、赤組白組のリーダーの応援合戦だ。昭和30年〜昭和40年初期は、大人 顔負けの体躯の中学生男女がぐいぐいとリーダーシップを発揮していた。とてつもなく大きな存在だった 。運動会の時期は青いみかんが出回った。出どころは地区のおばさんたちのエプロンの中からだったり、 カゴの中からだった。おばさんたちは子供達に分けてあげるときとても嬉しい顔をしていた。たくさん 生ると家まで持ってきてくれた。
 運動会のお弁当の時間は大人の宴会になるのであった。お皿とお箸が回ってお味の交換会になったり ・・・芋焼酎で乾杯していた。おおらかな秋だった。犬も猫もみんなが一緒だった。

続・テレビ「田舎に泊まろう」が銀鏡に泊まっている〜〜 (完) (2008年5月26日)

翌朝、お味噌汁の中身はフダンソウ(和名、不断草。私も朝に夕に採れたてをいただいたので すぐに思い出せた)。村の朝は早い。前田健さんもスタッフさんたちも(おそらく)家の前の柚子 畑の草を抜いてきれいにしていた。「まあ〜これはこれは〜。道のごとなりましたが」と夫妻が目 をまんまるうしてよろこんじょりやった。 先生がやってきて「生徒達がカレーを作りますので一緒にどうぞどうぞ」と誘いに来られた。 調理室が映し出された。「地元の生徒は手を挙げて〜」と前田健さんが言えば4人が挙手した。 「一番遠くから来ている人は〜」と訊けば、「横浜です」と答えた。校庭では飯ごうのご飯が炊き 上がり、生徒、先生、前田健さん、スタッフのみんなが青空の下でモリモリ食べていた。 番組を製作する側はできるだけお宿に着くまでを急がず回る。回ってきた先の断る側は「まっくろ うなってゆくがこんひとたちゃあどうすっちゃろかい。まこて」(このままだと真っ暗くなって行き ますが、みなさんはいったいどうなささるのでしょう。心配だなあ」と思った人がほとんどだったに 違いない。私は、同郷の友が見ているかなあと思いながら見ていた。そこへ電話が鳴った。同じ考え で見ていた友からの電話に故郷はまこち繋がっていると思ったものだった。そして放送から6日目の 土曜日、再放送を録画した。宮崎は夏の放送になるとのこと。 日本の奥にちょこっと入って来て去って行った彼らの胸に残ったなにかが再び足を運ばせてくれること になればいいなあと淡い期待が私に残っている。

テレビ「田舎に泊まろう」が銀鏡に泊まっている〜〜! (2008年5月26日)

  先週の日曜日(18日)、テレビをみていたら農家の女性が「いまどき、かまどでご飯炊く人は おりやらんわ」とタレントの前田健さんに答えている。その独特なイントネーションに私はたまげた。 筍を釜で茹でている。手は素早く水平移動している。蕗を洗っているのか皮を剥いているのか判らな い。ポンポンと返って来る小気味の良い言葉に前田健さんは可笑しさをこらえて鼻口を膨らませてい る。「畑や田んぼをみてきない」と言われて見に出て行った。「360度が山だ!」と驚嘆している。 「ハイ。みて来ました」と報告している。女性は「こうやってぜんまいを干しとるとよ」と乾燥ぜん まいを見せる。「筍とぜんまいの煮付けは美味いとよ」(食べさせたいなあと顔は言っている)でも すぐに「忙しくてならん、帰れ!」と宿泊を断った。ここで交渉を続けていたら続編が見たくなるほ ど愉快なことになっていたことだろうに。番組はここでは終わってはいけないわけで、次の訪問先は、 鹿や猿の進入を防ぐためのゲートのある農家だった。ご年配のご夫婦とワンちゃんが暮らしているよ うだった。「勘弁してください」と断る男性の言葉は、実直な人柄がにじみ出ていた。 延々と歩くことになり、暮れてきた。ヒッチハイクをするしかなくなり、「あのう、僕だけ乗せてく ださい」とお願いしていた。先導車に付いて行くスタッフの姿は見えないが、想像しただけでもう 可笑しくてたまらない。やがて私のふるさとに続く道に入って行ったのだった・・・。 中学校の当直の先生が「この上に里親さんがおりやるですが。」と宿泊を決定させる案内をされた。 家の主は、昔、小中合同大運動会が行われていた頃の青年団のお1人だった。お名前と年齢がモニ ターに出た。Kさん67歳。Sさん61歳。昔から変わらない村の大人の笑顔が二つと留学生の中3 の少年の素直な笑顔ひとつ。コタツを囲んで「どうして留学生を?」と主に問えば「学校がなくな るからですよ。なくなると村もなくなります。10年毎年卒業式ですわ」と応えた。少年は「最初 は不便さに驚いた」とニコニコ。Sさんが「参観日も出んといかんし、忙しいですがー。また淋しい なりますがあ。落第してもいいからまだいないよとゆうちょっとですよ」と。 ご夫妻と少年の短い言葉の中にすごい量の気持ちが入っていた。前田健さんにもビンビン伝わって いることが感じられた。ご夫妻と少年と前田健さんの夕食風景がいつものまんま(自然な暮らし) を捉えている。「裏の竹藪でとれた筍ですが。米は田んぼでとれました」妻のこしらえた筍と鶏肉 の入ったご飯をご主人が紹介された。少年が「いただきます」とお箸を持って礼をして、前田健さん はハッとしてそれに倣った。 番組が村にやってきたことをこころから歓迎できた瞬間だった。・・・・・・・・つづく

 御用納め (2007.12.28)

 朝日新聞小説の『宿神』もいよいよ最終回を迎えようとしている。題字の神の字に物語の中の蹴鞠 の存在を感じる。出家前の話が長かったことも面白かった。おどろおどろしい画の色調も春霞のよう なやわらかな色調にも人と自然のうごめきが感じられて物語の筋が落ち着いて理解できた。絵本を開 いたときの子供のように最終回の画を楽しみにしている。( 画・飯野和好1947生 )  今日は、午後から気温が上がってきたので暖房を切った。窓から差し込む日が暖かい。御用納めと いう言葉を家に居る私にも義母にも当てはめてしばらく家事を納めよう。義母は講談社から出ている 『漢字館』を開き、めがねを調え消しゴムをにぎりしめた。「うーん。えーっと」ウォーミングアッ プの意気込みかな。去年からの繰越のナンクロにこうやって挑戦し続けている。「昨日三つ分かった のよ。今日分からなくても明日になったら分かるのよー」と鉛筆を動かした。「ひなたぼっこしてし あわせだわ〜」って消しゴムが動いた。ときどき立っては2時間ほど続くのだろう。私は時おりベラ ンダに出たり北側の壁を触ってきたりして温度差を感じている。  私、コーヒー。義母は紅茶にしようかホットミルクにしようか迷っている。紅茶にミルクを入れま しょうか。おやつにはまだ早い。郵便受けには夕方行こう。夕食の支度までゆっくり過ごしましょ。  実家の今日はお餅つきだ。母は正座して丸めたことだろう。もう”もろぶた”に並べてあるのかも しれない。平たい長方形の箱(お盆)のことを「もろぶた」と呼んでいた。何枚も重ねて置いてあっ た頃のことが浮かんでくる。母は、四人のお年寄り達を見送り、わたしたちこどもが巣立ってからは 毎年1人でお餅をつき、私たちに送ってくれていた。大家族の杵つき餅が機械つきに変わったのはそ の頃だった。当時、電気屋さんから二升つきを薦められたけれど1人ではちぎっている間に冷めてし まうので仕方なく一升つきにしたのだそうだ。お供え用とお雑煮用とそしてたっぷりのつぶしあんを いれたあんこ餅。よもぎ餅。搗きたてのあんこもちが食べたいなあ。翌日に焼いて食べるともっと美 味しいのだ。冷凍しても美味しいのだ。門松と注連縄は父が丁寧にこしらえたことだろう。 註:夕方郵便受けを覗いたら実家から護符が届いていたので夕食後に電話でお礼を言った。お餅のこ   とを聞いたら、「昔に比べて少なくなったとよ。5升じゃが。御鏡も大きなものをこさえていた   けれど今じゃひと回りばかし小そうなってなあ。9組じゃが。あとはお雑煮用とお客様用と自分   達用で餡子は入れんかったば〜い」と母。    父も母も甘みを控えることをしっかり守っているようだった。   手伝いに行ってきた妹は、「母はまるで職人の手さばきで最後のひとちぎりまで量ったような均   一大のものにしました。私は、ツルツル&アツアツ&ふわふわ頭を、ただ申し訳程度に2〜3度   撫でて並べただけでした」「お供え前にお暇したので飾りを撮れなかったのがうっかりでした。   換気扇などを丁寧に磨いて来ました^^/楽しいひと時でした。 良いお年を!!」     12月16日、5日間にわたって執り行われた大祭は無事に終わったそうだ。その後、父はやはり ヘルニアの手術をしなければならなくなっていた。昨年の大祭の後、2時間かけて救急車で運ばれ手 術をした経緯があったので心配していたが今回は反対側の部位を七日過ぎに手術と決まったそうだ。 大祭はその年不幸のあった家は御参りも舞いもできないことになっているので代わって何人かの人が 舞われたそうだ。父は三回舞ったそうだ。限界集落の祝子(ほうり。舞う人のこと)に限界がきては ならないと話はそこに落ち着いた。  4時過ぎて空が白くなってきた。富士山もりんかくがつかめない。お花屋さんに明かりが点った。  気温11度。  註:現在21時55分。11度。外は雨だ。

「銀鏡神楽」2007 (2007.12.14)

毎年、12月12日から16日にかけてふるさとの神社の大祭が行われる。今年は観に帰らなかった。 舞う人たちは「祝子(ほうり)」と呼ばれる。銀鏡では祝子をつとめる家は代々世襲で男児が10歳 くらいになったら古老が教えていた。今は山村留学生の男児にも舞を伝承している。継承していかな ければという思いがひとつになって行われている。祝子は、神楽の準備から奉納、後片付けまで一切 を取り仕切る。 12日、門注連祭。神々のお迎えをするため、注連縄を編み、御幣をつくる。斎場となる「神屋」に 注連縄を張って結界とする。陣屋の正面に赤、緑、黄、白の御幣「おしめ」を立てる。神々がここを 目印にして降臨されるのである。13日、しめつくり、星祭り。 14日から翌15日の朝にかけて徹夜で舞通す。祭壇の猪の頭は濡れている。観客は毎年増え、祝子 は年齢を重ねて行く。山村留学生も舞う。 毎年12月14日が近づくと夜神楽の場景が浮かぶ。漆黒の中を神楽囃子の音が聞えてくる。 笛、太鼓、鈴、竹のこすれる音がしのびよってくる。焚き火のパチパチとはぜる音も。笛の音の細く 伸びてちょっと切れてまた伸びる。太鼓がドドドーンドンドンドドドードドンドン、ピーヒャラヒャ ラヒャーラーヒャーラララヒャーラ、竹の笹がこすれ、霧が立つ。冷たい水蒸気につつまれる。イカ 焼きのにおい、星屑、月、電球。白い息。足裏がジンジンしてくる。山肌がうっすら見えてくる。銀 鏡に育ったみんなみんなの体の記憶だと思う。 私は小さい頃から「(おしめ)」が好きだった。斎場のむしろも天蓋も大好きだった。空の青、青竹 と笹の葉と榊と御幣の緑黄赤白の色彩とが微妙に揺れていたからかも知れない。 白衣と白袴と白足袋 の祝子さんたちのぱきぱきとした所作が清潔な風を起こしていたからかも知れない。 今夜から明日の朝まで気温は何度くらいになるのだろうか。零時過ぎてからマイナス3度4度のとき もあったそうだが。父が無事に舞い終えますように。

「どげんかせんといかん」(2007.12.05)

宮崎県知事の発した言葉が今年24回目の「新語・流行語大賞」に選ばれた。4日付けの朝日朝刊で 目にしたときやはり嬉しく思った。  今夜、テレビで歌を聴いた。作家新井満さんが石川啄木の短歌集(煙、句集「一握の砂」)に曲を つけて歌う「ふるさとの山に」と私のふるさとがそ〜っと重なった。 ♪ふるさとの やまは ありがたきかな・・・。本当にそう思う。目を閉じれば山、川、谷、お日様、 裏のお墓、裏の山に駆け上った日、兄とけんかして山にあがって泣いた日。お墓の柿の木に上って柿 をちぎってくれた隣の中学生のお兄さんのこと。お兄さんは落ちて墓石に頭をぶつけた。しばらくは コブが目立っていたこと。ふるさとのことを語りだしたら止まらない。毎日新しい出来事が起きてい た。子供たちは小学生から中学生まで縦社会の中で遊びを学んでいた。学びの成果も失敗も村じゅう にもれなく口伝で迅速に配信された。「てげえ はずかしいもんじゃ〜」「どうしたけがじゃろかい」 とかいうような親はいたのかどうか? むしろ笑って「これでつようなっちゃろう」「おおものじゃ」 って褒められて同じことを繰り返すような子供もいたかも。私の家の隣近所には中学生のお兄さん達も お姉さん達もたくさんいたので安心して暗くなるまで遊んだ。ふるさとはありがたく不思議と安全なと ころだ。帰省すれば「○○ちゃんねえ??」昔お姉さん、お兄さん達にそう呼ばれると「はい」って明 るく上を向く。お互いに年を重ねて面影は乏しいのに不確かな覚えの中から話していくうちに昔に戻れ る。幸せになる。  「なんとかせんとどうにもならんごとなる」というのが現実の村だ。「限界集落ばなんとか生き返ら せんと」というようなテーマで協議会が開かれたようだ。ふるさとの新聞をネットで読めることは嬉し いことだがその内容は切なく「どうかならんとじゃろかい。どうかなっとじゃねえかしらん」という思 いになる。ちょっと昔、日本の木は切り倒されてどんどん建物が建った。村の杉は運び出すのに時間も 労力もかかるのだった。外材がどんどん入ってきて村の杉は価格に負けた。それでも山は細った。どう すっと。山に村に人が暮らしてこそ日本の山川谷が生きると思うとっとよ。どうすっとね。    12月、今、限界集落の村々では夜神楽の練習の総仕上げに入ろうとしている。舞う人はみんな村を 「なんとかせんといかんばい」という思いを持って練習に励んでいる。山村留学生達も、20代の青年 達から40代、50代の会社勤めの人たちも休日を返上して練習している。村に生きる40歳台、50 歳台、60歳台、70歳台、80歳過ぎても同じ。昼間は畠や山で働き”だりやめ”を返上して遅くま で練習している。「こん神楽を継承していかんといかん」という精神は尊く厳しい。みんなが夜を徹し て舞う日は近い。12月14日の銀鏡神楽に東国原知事がおみえになるらしい。気温2度の地に立って 観ていただきたい。そういうお方だと思っている。  

「宮崎・田舎直行便」冬号(2007.11.30)

 昨夜から雨が降り続いている。湿度たっぷりの温かい部屋でコーヒーを飲む。新聞を読む。今日で 11月もお終いだなあと新聞を畳む。11月の始めに届いたカタログ「田舎直行便」を開く。
      すぐに干しぜんまい、干したけのこ、千切り大根を親戚 に贈ったのだった。それはそれは喜んでもらえたのだっ た。そうだ!友人にも贈ろう。 宮崎県北、児湯、県中央、日南・串間、きりしまの地域 生産者が写真とコメントで紹介してある。送料がお安い いのが嬉しい。選ぶのはもっと嬉しい。 椎葉村の蜂蜜は「気絶するほどおいしい」幻の蜂蜜とか。 ごま油、ねむらせ豆腐。この3点、どうしても欲しくな ってきた。 高崎町の「かからん団子・けせらん団子」にも惹かれた。 けせんの葉(宮崎、鹿児島、沖縄にしか育 たない肉桂の木)に包んである。シナモンの移り香を一 緒に食べてみたくなった。  もしかしたら幼い日の祖母の団子を包んでいたのはカシ ワの葉ではなくてケセンの葉だったのかも知れない。蒸 された団子をアフアフほおばってあんこと湯気のにおい のほうが強かったのかもしれないと思った。  清武町の石山製茶の「星野原」も味わってみたい。 綾町の「あくまき」は、人気商品第1位だそうだ。 他にも満載!!(「ふるさと通販」←検索)
カタログには載っていない「都農ワイン」について、嬉しい情報を得た。 明日、BSフジ12月1日22:00から22:30 「辰巳琢郎のワイン番組」で都農ワインが紹介されます! 12月1日(土曜日)テレビで放映!!

最終章「旅の味」(2007.11.21)

 10月27日快晴。夫は昨夜鹿の鳴く声を聞いたそうだ。村所を出て隧道を抜けると西都・妻に行 く道が延びている。左側に木製の看板が立っている。矢印の先に銀鏡という文字が見える。ここ合流 地点にガソリンスタンドが在る。銀鏡に入るとガソリンスタンドがない。ガソリンはまだ余裕がある ので通過した。  戦後、銀鏡の青年団は道普請でこのあたりまで9キロ〜10キロくらいの道のりを歩いてきて”道 さらえ”をしていたそうだ。1962年、西都市と合併してバスが開通した。ダムが出来、道路の事 情が素晴らしく良くなった。開通したバスを利用して町の自動車教習所に通う人も出てきた。初めて 見た信号機などの話題がしばらく続いたものだった。それから東京オリンピックの時代が来て一斉に テレビが普及した。谷間の上のほうに共同アンテナを建てた。テレビ一台の値段よりもアンテナ代の 方が高かったそうだ。こうやって村に文化がやってきたのはバスが開通してからもずっと後であった。 今年両親はデジタルテレビを据えて3局だけのテレビを観ている。インターネットももうすぐだ。私 は急カーブの道を右に左に見ながら自動車免許を持たずに80年近くを生きている父と母の暮らしを 思った。  車は村が最も栄えていた頃の「銀鏡銀座」に入ろうとしていた。右の山の上は銀鏡神社、銀鏡中学 校、川を挟んでクリーニングやさん、旅館、床屋さん、パチンコ屋さん、食堂、薬屋さん、瀬戸物屋 さん、駄菓子屋さん、パーマやさん、酒屋さん、郵便局、駐在所、衣料品・タバコ屋さん・・・。ゆ っくりと銀座通りを抜けた。道のふくらんだところから銀上小学校の石垣が見える。校舎の壁の時計 が見える。桜の木と垣根が見える。石垣の下の6レーン25メートルのプールを過ぎようとしたとき ここで娘と夫が泳いだ日のことを思い出した。ある夏、娘も夫も川で泳ぐのを楽しみにしていたが小 学校前の水泳場だったところは川底が見えないほど深く日の当たるところは流れが早くあたりは石が ゴロゴロしていたので娘が怖がった。父が先生に頼んでくれた。先生はカルキの塊みたいなものを投 げ入れて「いいですよ〜」と。他に誰も居ないプールで持参した浮き輪とビーチボールをおもいっき り使えたのだった。  校門の階段はほとんど変わっていない。階段を上ってさらし縁を越えると池があって池の中の小さ な島に二宮金次郎の銅像が立っていてその向こうは花壇になっていてウサギ小屋があって足洗い場が あった・・・。運動場で素足で遊んでいた頃が懐かしくよみがえってきた。  実家が見えてきた。ここの地区はとても仲が良かった。例えば修学旅行の時は隣近所のおばさんた ちがバス停で餞別の封筒を渡して見送ってくれた。互いの子供に餞別をあげることが儀式のようだっ た。私は宿に着くと「多大なご餞別をありがとうございます」という出だしの言葉を親に教えてもら った通りに書いて出したものだった。相互扶助のようなやりとりがおおらかに等しくなされていて明 るかった。今は、山村留学生が里親の家族と打ち解けて叱られ褒められ、厳しさも優しさもよく分か るようになり家の手伝いもお勉強もしっかりやっているそうだ。  家に到着すると先ずご先祖様に「帰りました」と報告。母はせっせとお茶の用意をし、父は昔の写 真を説明し法螺貝を吹き剣道の木刀で構えをして自分で自分の頭頂部にオメンをした。庭に出るとま だ日が高く光がいっぱいだった。人がこちらに向かって来る。下の家のマサエさんだった。「帰って きたとねー。そうやあー」と云ってエプロンのすそを広げて椎茸をくださった。「今、そこでとった とよー」と。そこは10メートルほど先の椎茸栽培をしている場所だった。義母がお幾つですかと聞 いたら、「たったの90」とひょうひょうと答えた。若い頃から会話の楽しい人だった。思いがけず 娘や義母を紹介することができた。  西米良から運んできたおにぎり弁当を持って川原に下りた。暑くてみんな木陰に寄って食べた。台 風4号は山も畑もたんぼも川もすっかり形を変えたが、台風5号はそれほどひどくなかったそうだ。 こうして鳥が鳴き川のせせらぎを聞いいていると何事も起きなかった昔の川原に見えてきて幼い頃の 川遊びを思い出した。石飛という遊びで瞬時に次に飛ぶ石を選んで向こう岸まで早くに着くのが嬉し いだけだった。臆病な子供はいなかった。思い出に浸っていたら、突然父が石飛をして川向こうまで 行った。その背を見て父も思い出したんだろうと思った。父は行きはサンダル、帰りは素足になって いた。娘が「落っこちたら風邪ひいちゃう」と心配していたがやはり危うい瞬間があったのか。  川原を引き上げて父が柿をとってくれた。柿の木のそばのビワの木は今年最高に実をつけたそうだ。 「ここん石垣にマンジュシャゲが咲いたときは見事なもんじゃったとよ〜」と嬉しそうな顔の母。台 風4号被害の土砂崩れ跡はすっかり補強されていた。傾斜地に母が木を(ハナミズキ、シロカシ、カ エデ、キョウチクトウなど)植えていた。もう数年経つと見事に育っているだろう。「向かいの○○ さんの山のメタセコイアの種が風に乗って飛んできてこんげなったとよー」と母が示す先に高さ40 センチくらいのメタセコイアが支柱に守られていた。お墓の周りにも花木が増えていた。数十本のフ ヨウが枯れ花になっていた。サルスベリ、ツツジ、ツバキなどなど。挿し木、接木したりして増やし たものだ。キンカンが生り始めていた。柚子の木は伸びすぎて実に棹が届かなかった。シロナンテン、 アカナンテンにムカゴが絡まっていた。  父ひとり家に残り私たちは銀鏡を出た。父は腰に手を置いてダンスのポーズで見送ってくれた。  西都で時間があったので武者小路実篤の新しき村だったところに行った。実篤の碑を見るのは次回 にして『絵本の郷』に行った。ここにもまた来てみたいと思った。日が沈み宮崎市内の目抜き通りを 抜けて旅が終った。翌朝、快晴。九州の山並みを見ながら車で一路博多へ向かう。  これまで両親と東京横浜鎌倉箱根京都奈良伊勢などを旅したが、今回はこれまで以上に喜んでくれた。 私も私の家族もそうだった。みんなが年を重ねたからかも知れない。きらびやかに装飾した街中や観光 のための形を整えた地形や建物や過剰なまでのサービスは、”よそに来た”という実感は残るが、心に 響く人情や食の味や歴史の中に感じるご先祖様の尊い精神などを感じることができたのは故郷の土地だ ったからかも知れない。             山柿や隣の菜の分かる村      くろまめ

パート W「旅の味」 (2007.11.17)

10月26日の朝、41階の部屋から空を見た。朝日が雲に見え隠れしている。天気が気になったが徐々 に明るくなってきた。日向灘は凪。両親の部屋をノックすると父が出てきた。「おはよう〜。よく眠れた 〜」と入って行くと「明りぃとねむれんちゃわい。眼鏡ば貸してくれんかい」と読売新聞を広げて云った。 (眼鏡を紛失して旅の間中私の老眼鏡を使っていた。母は、眼鏡のツルが広がるので困っていた) べッドのライトが点いたままで枕がスタンドの笠に立て掛けてあった。母はお風呂もベッドも快適だった と云ってくれた。枕を上手にずらして寝たので気持ちがよかったとも云った。昨夜、寝る前に「分からな いことがあったら私の部屋に電話をしてね〜」と言ったら「大丈夫じゃわい。ハワイでわかっちょるから」 と設備の仕様は分かっていると云った父だったが。今回は文字が小さくてめんどうで回したり押したりし たようだ。(私も老眼になりまこち分かるとよ。もういいとそれ以上努力をしなかったのかな><) 20年前両親は20日間くらいハワイに行った。ある日、父は1人ぶらりと外に出て、あちこち歩いてい る内に戻れなくなったそうな。日本語の分からないタクシーの運転手さんにうろ覚えのホテルの名前を告 げてそれで無事に帰れたことに”話せば分かるか?歌えば分かる?身振り手振りで?”そういった成功体 験からこれ一本やりで今の今に至っている。 「眠れんかったわい」という割にはデニッシュやクリーミィーなものを食べて今日の行程にわくわくして いた。みんなゆっくりしっかり朝食を摂って9時にホテルを出た。出るとき、父は読売新聞を手に持って いた。全国版はやはり面白いようで「まだ全部読んじょらんちゃ」と。 ルンルンちゃんたちと合流し、途中、カナダ@あつ子さんをピックアップ。西都のスーパーマーケットで お弁当を買って『西都原』へ。ここでは「西都ふるさと産業祭り(10月28日開催)」の会場を設営し ているところでテントの中にテーブル、椅子が運び込まれていた。私たち9名はテーブルを起こし椅子を 広げて真正面に広がるコスモス畑を見ながらお弁当を食べた。 そして、『西都市歴史民族資料館』で銀鏡の「コバ焼き」(焼畑)のビデオを観た。観終わったとき全員 が拍手した。未開地の国では焼畑農業は植林をしてこなかったので地球環境の見地からは深刻な問題にな ってきているが、銀鏡のコバ焼きを見ていたらそれは丁寧に先のことを考えて手当てがなされていて美し い(肉体的には大変な労力だが)と思った。食に対する敬虔な儀式を見てそう思った。 そして次は↓『森の空想ミュージアム』に再訪。横田康子さんにお話を伺うことができた。 杉安橋を越えすいすい走っていたら通行止めに遇った。バックして1時間あまりを喫茶兼古道具兼農産物 屋さんで休憩した。父や母と店主さんはよく話が通じてその話を脇で聞きながら楽しむことができた。面 白かったのはバナナの木に緑の実が房になって生っていた。 聞けば「おいしいですがね〜」(美味しい です)ということだった。通行止めも悪くないなあとみんなで笑った。 今夜のお宿の『民宿いっせい』に到着。先ず「ゆたーと」の湯に入ってそれから夕食をいただいた。送迎 のバスは真っ暗闇の中を走った。車のライトがカーブの度に山肌を照らすのがとても楽しかった。お湯は やわらかく優しく、同じアクセントの米良の言葉を交し合うのも楽しかった。母は運転手さんになにやら 聞いていた。この地に誰やら知っている人が居るらしかった。夕食は変更をお願いして「山菜料理(米良 ご膳)」「猪鍋」。芋がらの胡麻和え、自家製の生姜の味噌漬けなど。そして近くの川で釣ったばかりの 「天然の鮎の塩焼」。黒霧島焼酎。すべてがコクのある”ひなたの味わい”がありシャリシャリとした触 感ありで素晴らしく美味しかった。みんな我が家の夕餉のような雰囲気の中でよく語った。父はすべてを 平らげて思い切り声を出して「刈干切唄」を歌った。店主の坂口さんも一緒に話に加わって唄も聞いてく ださった。 27日、気持ちの良い朝だった。 7時半ごろ彼らが店主に深く礼をしてバスに乗り込むのを見ていたら中学の頃の運動部ジュニア大会のこ とを思い出した。私たち部活のみんなはバスで西都に出た。何十人の部員の中の代表選手と戦った。私た ちは部員のほぼ全員が選手だった。勝ってもて負けても交通手段がバスしかないため2泊していた。2泊 の予算は大変だったろうと思う。親たちは、栄養補給(今現在もやっているのだろうか?)で支援してく れた。放課後の連日連夕方の練習に婦人会のみなさんが栄養バランスを考えた献立で食事を用意してくれ たものだった・・・。朝もやが晴れてきた。彼らが去って行き私はご飯をお代わりした。 ここ村所には保育園も介護施設ホームも病院もある。若い人たちが根付き始めていると思った。村が細り かかってきても青年団のひとたちの若い情熱と親世代の経験と知恵が”なんとかせんといかんばい”とよ く話合っていることを『中武ファーム』の管理人hiroこと中武洋文氏や農園主の勝文氏の記事を読んで感 じていたが、ここに合宿でやってきた生徒達はいい空気を吸い、山道をランニングして”力”を溜めて帰 って行ったことだろうと思った。 宿を出て10分くらい走ったところにある『菊池資料館』へ行った。9時開園ということに感動した。ほ うきの掃き目のある階段をあがるとまだ清掃の途中だったがお屋敷の中に案内してくださった。芳名帖に 名前を書き入れそれからは感動感動の連続だった。第41代の菊池武夫男爵の在りし日の写真や手紙など などの資料がたくさん展示されていた。その写真の中に知っている方たちの顔や言葉や日付が父と母の記 憶と一致する箇所が何箇所もあってそのたびに「まああ!ありゃ〜!おおう〜!」と声が上がった。まだ まだ新しい発見が西米良にも旧東米良村銀鏡にもあると思った。 天空の農場「中武ファーム」の新米を持ってきてくださったときはもうたまらんかったばい。 よしえちゃん、農園主さんありがとうございます。武夫男爵の銅像の前で一緒に撮ったよしえちゃんの笑 顔がまこち気持ちよかったとよ〜   さあ!いよいよ銀鏡へ・・・続く

パートV「旅の味」 (2007.11.15)

10月23日、銀鏡から宮崎の家に移動する朝・・・ 私は鹿の肉と大根の葉っぱとお魚や山菜の煮物、果物などを持って行く用意をしていた。夫は石臼が大 変気に入ったようで母にいろいろ聞いていた。「昔はこうして両手でひいていたもんじゃが」「小豆の 香煎がおいしかったがなあ〜〜」と父に同意を求める母。「そうじゃった。じゃったねえ」と父。「今 夜みんなで作ってみましょう」と夫が云い、「ジューサーミキサーはどげじゃろかい」と戸棚から抱き かかえて膝の上に置いた。布で巻いて更にビニール袋がかかっていて黄色いおリボンで蝶々結びだあ〜。 (♪たまげたばい こんなに大切に使ってるぅ〜)「長いことジュースを飲んだっちゃけどね〜。今は なんでも自然のもんが買えるから〜」と。電源を入れたら動いた。「まだ使えるばい」と。(ああ〜後 始末が大変だったんだろうなあ。それにしても笑える〜) でも歯が欠けたら大変なのでコーヒーミル で挽くほうがいいかもね〜と提案したら「じゃが じゃが」と決まった。「蜂蜜をかけるとおいしいと ばい。持っていこうや」と母が言ったが「そのままを食べてみたいから」と断った。(反省!!) ケイタイ電話のつながる杉安橋(西都)までおよそ40分位走ったか? 車にも人にもあまりお目にか からなかった。この橋の入り口を左に入れば『森の空想ミュージアム』に行けたのだったが橋を越えて からもかなり走ったとき「あ!こら違うぞ。うん。違うごとあるがねえ」と父。カーナビは案内をやめ ていないのでドライブの距離を伸ばしてみた。真っ直ぐな道の両脇の草花にも話題がいって楽しめた。 集団下校の小学生6,7人が一列縦隊になって歩いて来るのをみたときなんとも形容しがたい感動を覚 えた。すれ違うときゆっくり感じた。 『森の空想ミュージアム』のことを知ったのは、2003年10月、東京駒場の「日本民芸館」で『九 州民族仮面展』を見たときだった。藍染のシャツに赤いバンダナをした男性が300点のお面の収集家 であることを民芸館の館長さんが教えてくださった。私はそれらの中の天狗のお面についてお尋ねした。 会話はそれだけだった。夜は、銀鏡神楽の舞が披露され、アメリカ領事のご家族や関係者の方々、一般 の方たちで満席だった。その年の12月14日の銀鏡神楽にこの日の民芸館が縁で15名が観に来たそ うだ。 「森のミュージアム」訪問は26日に予定していたが父も母も以前から行ってみたいと思っていた所だ ったので初めての訪問となった。旧校舎の前に着くと、巨大な楠の木が頭を出していた。屋根は苔むし ていて童話の世界に踏み入ったような穏やかな空気を感じた。「ご自由にお入りください」と黒板に書 いてあった。奥のほうからご婦人が出ていらした。靴箱に学校の名残があり廊下を進むとスリッパの音 が粉っぽい音をさせ、教室に入れば壁に仮面が飾られていた。館長の高見乾司氏は不在で、お面はどこ とかの美術館に展示中であるということだった。それでもいくつも飾られていた。窓の外には薬草が干 されてあった。運動場跡をそのままにして薬草や雑草も一緒に成長していた。ご婦人は染色家の横田康 子さんで自然をとても大切に紡いでいらっしゃることが感じとれた。また明後日にまいりますと言って 教会のほうへ移動。高見氏の油絵や県外の方たちの絵も展示してあった。テーブルにノートとクレヨン が置いてあったので「訪問して点が線になりました。ありがとございました」と書いた。 「ああ〜これが天然の繭玉からこんなふうに〜ええ〜すごいもんじゃ。う〜〜ん」とシンデレラ 24日、娘と義母が宮崎空港に到着。花柄のフレアースカートに今年流行の鉄色のジャケットを着た娘 がこちらへ向かってくるのを見ていた父は真昼の太陽を見るように額に手をかざして「ほぅ〜〜」と言 った。義母を見て「おぅ〜元気なもんじゃ。よかったよかった」と義母の手をとってエスコート。るん るんちゃんは娘から離れなかった。 お茶して会食の場所へ。 お料理は品目も量も多かった。食べ切れなくてドギーパックをお願いした。にぎやかになってきて父が 歌い出した時は、お隣のお部屋の方にご迷惑がかからないかと気になったが給仕の方も一緒に楽しんで くださった。(宮崎の人はまこち親切ばい)父の歌を「どれも浪花節じゃがなあ」と言う人がいたが確 かにそうだった。るんるんちゃんが顎のあたりで手を組んで聞いてくれた。プレゼントの交換も楽しか った。家に戻って、「香煎」の体験レッスン♪ 母が講師になってみんな一回はすり鉢で摺った。コー ヒーミルとすり鉢で時間をかけて出来た。母の「あんたたちは努力するねえ」のひとことが嬉しかった。 25日、朝食に大根の葉っぱのお漬物をいただいた。青臭さの程よい新鮮な味だった。朝刊の地域の話 題を読んだりしてゆっくり午前の時間を過ごしてからるんるんちゃんのお家へお邪魔した。ピアノの演 奏会と午後のティーを楽しんだ。クラシックもポップスもアニメもとても上手だった。るんるんちゃん は全員に物語の人物の名前で呼んでくれるが、ルミエールだけがこの日からルミエール様に昇格してい た。夫は喜んでいた。       王子の弾き語り♪                 妖精のおばあさんは元先生♪     シェラトンへ向かうときは霧雨。夕食は和食。(宮崎はやっぱ焼酎ばい)でも私と娘は白ワイン、母と 義母は日本酒。それぞれのお酒で共通の話題が膨らんできた頃、父が給仕の方に「歌ってもいいですか」 と言った。(宮崎の人は分かりやすいばい)「あ、あ、はい。ええ、どうぞ」と口元がキュッ。「申し 訳ありません。ご遠慮願います」とはおっしゃらなかった。父は「よ〜し」と気合が入って「ふ〜っ」と 息を吐いて続けて2曲、浪花節調の「正調刈干切唄」「ひえつき節」にみんな感動した。給仕の方がテー ブルにきて「お上手ですね〜」と。雨は止んでいた。 宮崎県民謡 「刈干切唄」            ここの山の刈干しゃ すんだヨ 明日はたんぼで 稲刈ろかヨ もはや日暮れじゃ 迫々(さこさこ)かげるヨ 駒よいぬるぞ 馬草負えヨ 屋根は萱ぶき 萱壁なれどヨ 昔ながらの千木(ちぎ)を置くヨ 秋もすんだよ 田の畔道(くろみち)をヨ あれも嫁じゃろ 灯が五つヨ 「ひえつき節」 庭の山椒(さんしゅう)の木 鳴る鈴かけてヨーホイ 鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー 鈴の鳴る時ゃ 何と言うて出ましょヨーホイ 駒に水くりょと 言うて出ましょヨー おまや平家の 公達(きんだち)流れヨーホイ おまや追討の 那須の末ヨー 那須の大八 鶴富捨てて(おいて)ヨーホイ 椎葉たつ時ゃ 目に涙ヨー

パートU「旅の味」 (2007.11.12)

22日、時間を少し戻して続けます。 『西の正倉院』の受付で「どちらからですか?」と聞かれ「東京からです」と父が答えた。 「そうですかあ〜それはどうもぅ〜」と男性の方が伸びやかな声でおっしゃりどうぞどうぞと門まで出 てこられた。わたしたちはひっそりとした庭に立って建物の外観に驚嘆していた。そこへ再び現れて解 説をしてくださったのであった。元村長さんのただならぬ熱意が奈良の正倉院と寸分も変わらぬ建築様 式をもって百済伝説の残るこの地に実現させたという時間と労力の話には全員が感動した。庭に立つ全 員の影は短かかった。すぐに木陰に入るよう促してくださったのでそうしたが解説をしてくださる方は 動かずに太陽を額に受けて切々と語ってくださった。写真に収まっているこの場景をこれからも思い出 すことだろう。(ぜひ、宮崎に行かれる際は、ここにお立ち寄りくださいますよう。) それから『高千穂峡』までは遠かった。宮崎の高千穂峡と知れ渡っているこの場所を、私と母は初めて だった。山並みは紫がかっていて雲がわいていた。鉄道の跡を見下ろした。絵葉書によくある場所でア リバイ写真撮影(笑)、絵葉書に紹介されていない場所でしみじみとした写真撮影。どちらも満足げな 表情をしている。お土産を買う時の母は、「あん人は漬物(つけもん)が好きじゃから」「あん人んと こは家族が何人じゃったが」「あん人はやわらかしいもんがええがあ」などと日ごろお世話になってい る方たちの顔を思い浮かべて確認するようにして買い物を楽しんでいた。父は、解説の札を読んで咀嚼 していた。じっと見てもう一度見て、くるりと向いて説明してくれた。ときどき詰まって「うーむ」と 思い出しそうなるとひらめいたように目が輝いてより詳細に説明が続いた。楽しい時間だった。ボート は二人乗りなので二人二人で乗れるのだが不器用な私はぶつかることを想像して「あそこは寒いちゃね えと」と言って乗らなかった。真名井の滝に下りて行くとき父は両手を後ろに組んでトントトンと下り て行った。「あぶねえがあ〜」と母は思ったに違いない。私が声に出して注意をしたら余計にトトトト トーンと加速がついて危ない危ない!! あ〜よろけた!! やれやれ、五体投地に至らないのが不思 議。天安河原(あまのやすがわら)では解説に力が入った。わたしたちは、川原の木々のむき出しの根 に生命力を感じて何度も立ち止まってはさすった。清い空気は気持ちが良い。全員が姿勢正しく歩いて いる写真になっていた。 復路、カーナビのルートは二通りあった。来た道と違う道を(父が7,8年前に来た時の道が正ルート で今現在は道路工事中だったことが後に分かったのだが)選んだのであった。「恋人の丘」というロマ ンチックな名称の休憩の丘で父たちご一行様はトイレタイムをとったのだそうだ。そういう記憶がよみ がえった父は「おお〜ここじゃったがねえ〜。間違いねぇど」というので、間違っていない道だという 認識で進んだのであった。ほの明るい道も進む内に闇に変わり細く細く奥の方へ奥の方へと進んだ。前 方に巨大な物体が見えた。ヘッドライトに照らされた黄色いショベルカーは完全に道を塞いでいた。夫 は冷静だった。母が「大丈夫じゃが。幅があるばい」と言った。 そもそも道の入り口の隅っこに「工事中」の札が立っていたことから、ほっぽらかしてある感じに見え たことから「大丈夫じゃわい」のムードになって進入して行ったのであった。もしその看板が道の中央 に立っていたなら、その先を進むことは無かったと思う。ターンしてからも多重音声放送は止まず、よ く笑った。「面白れえわい。まこて」と父が言った。全員が不安な気持ちは飛んで行っていたのであっ た。百済の里に戻って、さつまいもパンやお水やチョコやおにぎりなど食料を調達し、ルート設定しな おして出発したとき、父の感動の声を聞いた。「いものパンがうめえかったわい」子供のように言うで はないか!! 「あんひとはこればい」と母が迷わず選んだパンだった。引き返してまたお芋のパンを 買えばよかったのかも。まったくもって笑えるのであった。 四頭目の鹿にあったとき、車を止めた。鹿は百獣の王のような面構えをしてフロントから前方3mほど の所でゆっくり止まった。スローモーションの動きに、みんな鹿を称えた。山を知り山に長く生きてい る両親は真っ暗闇の細い野道を走っていても落ち着いていた。私も夫も安心して帰り着くことができた。      母の居て父の居るなり里の秋 23日、目覚めすこぶる良し。電話が鳴る。夫が出る。「午前着は無理でして午後2時ごろになります。 今、村所ばまわっちょります」と宅配便の人。「午後から留守しますので西都の営業所に持ち帰ってく ださい。25日に受け取ります」了解してもらえた。銀鏡には「午前中着便」の希望はなかなからしい。 「オーイおるやあ」と裏から人の声が。なまあたたかい鹿の肉と焼畑でとれた大根を持って来てくださ った。同級生のお兄さんで包丁の鹿の柄もこの方の作品。コスモスのお花の種もいただき母はきれいに 咲かせていた。母とこの方との語らいを聞いていたらゆったりとした気持ちになっていいなあと思った。 母から愉快な話を聞いた。それは西郷隆盛どんのことだった。銀鏡の村に西郷さんが一泊したことは那 須省一さんがコラムにも書いていたようにこの事実とその薩軍の通った道を辿りたいという個人や団体 がこの村にやってきたことだった。今年西郷隆盛130年祭(9月24日)ということで鹿児島では大 イベントがあったそうだ。銀鏡のみんなはのん気だが世間は注目をしてくれたようであった。その中の お1人に母がお茶を差しあげ「テレビでみたような気がしますが」と言ったら「はい。俳優の榎本孝明 です」と丁寧に答えてくださったそうだ。そしてスケッチブックを見せてくださりスケッチ入りのカレ ンダーをくださったそうだ。母は「もしかしたら銀鏡がテレビにでっかもしれんとよー」と嬉しい顔し て教えてくれた。      柿の実や村に俳優来るうはさ 昨日、私たちは『西郷さんの道』の西郷さんの歩いた道をドライブしていたのだった。 山道が壮大な歴史の時間を案内してくれていたのだった。・・・続く 註)『西郷さんの道』、ネットサーフィンしていて出会ったサイトです。大変面白いです。      

パートT「旅の味」 (2007.11.09)

「好きな季節は5月と10月です」と答えははっきりしている。20代の中ごろまでは8月が大好きで ガンガン太陽に向いていた。シミシワタルミなどという言葉は耳に入ってこなかった。太陽に近づいて 夏山をよく登った。海にも行った。冬は太陽に近づいてスキーに行った。秋も山に行った。春はテニス、 ウッドラケットで珍しがられていた。遊びの記憶は太陽とセットになっている。あれからそれからそれ から、7,8,9月はエネルギーを消費しているのが自覚できるほど暑さに弱くなった。「暑いから欠 席します」という理由を「了解!!」していただいたことが数回あった。 このたびの10月の帰省はやはり良かった。先に夫が 『そらまめ日記』を公開しているので、私は“ こぼれた話”を拾って行こう。  20日、清掃係りの方たちがホームに入ってくる新幹線に斜め45度に向かい横並びに立っていた。 ピンクのユニフォームがとても清潔に感じられた。午後、同郷の友人と再会。昨年は悠仁親王誕生の号 外を手に現れた。読売英字新聞九州発、コラム 『英語でさるく』(ディリー・ヨミウリ連載中)の筆者 那須省一さんはとても温かく私たちを迎えてくれた。真っ青な空の下、東京青山通りのようなケヤキ並 木をゆっくり歩いて福岡城、大濠公園、浮御堂の中で夕日を浴びた。多謝。     商人と武家分くる町天高し        21日、北熊本インターで「いきなり団子」(生協で注文できるそうだ)を買い、その懐かしい味に興 奮した。西米良村村所の『民宿いっせい』に26日の宿泊夕食の件でご相談したく訪ねたら集会所に行 っているということだった。山菜料理などの”米良御膳”をお願いしたら快諾してくださった。集会所 には『中武ファーム』の農園主と妻のよしえちゃん(親戚)に会うことができた。農園主とは初対面 なのにファームのブログのおかげですぐに打ち解けた。私と夫は農園主に許可をいただき、天空の農場 へ登った。登り口で農家の方に道を聞いたら、ご夫婦で仕事の手を休めてとても丁寧に教えてくださっ た。私がよく理解しないのでご主人が小石を拾って道路に書いて教えてくださった。登って行くうちに 理解出来た。途中、2回左に入る道があった。ここからは入らないように出れんばいということだった のだろう。農場は米良三山の胸の高さに在った。刈り跡の田んぼに立ったとき言葉を失った。絶景なり。   秋晴れの米良三山に敬礼す        22日、「今夜もたっぷり話せるねえ」「うれしいばい」と母。そこへ夫が出かけようと言う。「そり ゃあええこっちゃ〜」「じゃがじゃが」と即決。銀鏡の朝食は早い。洗濯掃除も終えようとしていた。 山を越えるのでお握りと水筒とみかん、りんごを持って出陣!!  父は、「百済の里」にも「高千穂峡」にも出かけていたが母は初めてだった。父のガイド付きで車は 走った。しかしこのガイドは雑音がひどくてなかなか静まらない><。カーナビのアナウンスと同時に 雑音が入るのだ><。そのうち音声多重放送になり、私の通訳で夫に伝えたりしてにぎやかな車中であ った。途中の山道では母が辺りの山々をとても分かりやすく鳥獣被害対策のことなどを教えてくれた。 『東米良村史』の中で紋付姿の元市どんは篤農の人として紹介されている。私の記憶に無い祖父のこと を母に聞くことがスッポリ抜けてしまった。両親は、車がないので、山に居てお隣の村やその向こうの 村やそのまた向こうの村を知らない。父さえも数回しか行っていないので山越えのドライブはとても楽 しい時間だった。ひとつ山を越えた頃に父が母に言った。 「こん道ば4人で歩いたとをおぼえとるかい?」 「ああ〜おぼえとるわあ〜。〇〇あんちゃんが魚をいっぱい抱えてなあ。義姉さんとけんかしてなあ。 しんきなかったば〜い」と母が答えた。 それは、戦後間もなく義姉のご実家にみんなで出かけてその帰りにそれはたくさんのお土産をいただい たのだそうだ。お魚、果物、お米、お菓子など贅沢なほどの食糧をどっさり背負って坂をふうふう上っ て来たあたりで義姉のご機嫌が悪くなって〇〇あんちゃんも不機嫌になって口喧嘩になって、とうとう 〇〇あんちゃんはその食料をポイポイポーイと谷に投げ捨てたそうな。父も母も手も口も出す間もなく 食料は消えたそうな。こんな山道を往復してそんなことで喧嘩になってゼロになってしまった話には申 し訳ないけれど笑った。笑っているうちに父や母、おじおばたちの戦後のゼロから出発したなんともや りきれない腹立しさを思った。そうこうしているうちに「百済の里」に到着。駐車場はとても広かった。 「西の正倉院」では元村役場の職員さんが受け付けにいらして丁寧に案内をしてくださった。見学者は わたしたちともう一組で若いカップルだった。父の興味がより詳しく解説を引き出してくれたので案内 の方も喜んでくださった。坪単価1000万円の「西の正倉院」は日に焼けていい色を出していた。 ・・・・・・続く

「旧東米良藩(菊池家)に伝わる元服式について」 (2007.11.08)

 銀鏡神社の祭神は、磐良姫命、大山祇命、懐良親王の三柱である。  南北朝時代、肥後の菊池氏が九州における唯一の朝廷(南朝)方の豪族として勤王の旗印を掲げていた 時、征西将軍の宮懐良親王は幼少にして大命を拝し肥後の地にお下りになったのである。弘和年間頃から 肥後に於ける菊地氏の勢がだんだん弱くなり南朝方の勢力も遂に落目を見る程に至った。正平、天授、応 仁の時代にかけて南朝の末裔即ち懐良親王(または良成親王)及び公家武将方が相次いで米良山に入山さ れたと伝えられている。それは敵の目を避けて山中に入り、名を変え跡を隠し極秘のうちに入山されてお りこのことは、米良勘助の系譜にも残っている。 (以上は、中武雅周著『伝承米良神楽』より引用)  そのため、菊池姓を秘して米良姓を名乗り、米良藩を統治して居られたが、明治4年廃藩に依り鹿児島 に引き上げられ、その後ご一門の方々は、東京に住んでおられる。  註] 旧藩主則忠公は、明治元年7月14日願に依り勅許、氏号を菊池に復す。名を二郎と改む)   大正時代には菊池武英(たけふさ)様、昭和の代には、長男の武則様、平成の代には、その長男武洋(た けひろ)様が銀鏡神社に菊池御一門11名の方と共に東京からはるばる参拝され、時の宮司が烏帽子親を つとめ、祝詞奉上、烏帽子狩衣姿で旬を手にして古式豊かな作法で見事な元服式を挙げられたのである。  武洋様は、当時中学2年在学中であったが非常に体格の良い方で約50分余りの儀式に正座をくずさず 端然として着座して居られたのに列席していた地区民の者も流石に菊池の殿様の子孫だと言って感心した ものである。その武洋様の長男さんが中学生になられると、古くからの仕来りを守り、銀鏡神社で元服式 を執り行われるわけで、5百年以前から綿々として続けられている米良藩即ち菊池家に伝わっている大事 な行事で如何に世の中が開けても永久に続けられるであろう伝統的な行事の一つである。  西都市文化財保存調査委員 濱砂武昭 (稿)

『殿様と製粉機 (機械に強くならんといかんど)』完(2007.11.06)

実は今日は殿様に大目玉をいただく覚悟でご訪問申し上げたのに、おしかりどころか、寛大な思いやりの あるお言葉までいただいてその広いお心にふれ、一同は感激して帰路についた。  殿様も奥様も廊下までお出でになってお見送りいただいた。銀鏡から持って来た竹の皮包みの握り飯を 食いながらの殿様との昼飯は日本一の会食であった。 「どげしてもどっとかい」 「山越えでもどります」 「そっちはバス道じゃが、山はあっちど」 青年たちはしばらく休憩をしたあげく、山越えからバスに予定を変えて村所を後にした。先にも後にも無い たったいっぺんぎりの日であった。[完] 武昭は帰り着くなり祖父の幸見に殿様とのことを語ったら幸見はとても喜んだ。あの時から、もう数えて 40年にもなろうとしている。そのことがよほど大きな想い出となって武昭の心の一遇に宿っているので あろう。想い出話をする武昭の目は輝いていた。そして言うにはあの時の気持ちは肉親のおじいさまにお合 いした気持ちであった。と、 (武昭氏は、当時19歳であった。ちゃんとしもた製粉機のことを振り返って以上のように記している) *お殿様は、第41代 菊地武夫男爵です。    出典『おらが殿様』 著者 中武雅周(まさちか) 西米良村大字村所在住 郷土史研究家(他、多数の著書あり) 私(中武雅周)は、或る時、菊池男爵からお借りしていた「製粉機」のことを旧東米良村の武昭氏から想い 出話の中で聞かされたことがあった。終戦直後の頃の話だが、米良らしい場景がなまなましく、お互いが精 一杯に生きて来た姿が感じとられたので、寄稿をお願いしたのである。        殿様はものの道理をわきまえ、自ら責任ある行動をとった者はけっしてとがめられなかった。この日の銀 鏡の青年諸君がとった責任ある行動に、殿様は潔しとしてお許し下さったのであろう。殿様は機械について もご関心が深く若者は新しい時代にいつでも対処できるように望んでおられたことを思い出した。それは今 から50年前つまり昭和13年の秋、私が県立妻中学校の4年生の時だった。時局講演会が妻尋常高等小学 校で開かれ、中学校の職員生徒も全員これに参加して講演を聞いたことがあった。『今だから話す』という 演壇に我々若者の気を引いたのは、その当時90歳を越えたという幕末に活動した勤王の志士の講演であっ た。彼は吉田松陰や橋本佐内等と共に、勤王の仕事にたずさわってきたと云う。そして最後の別れ際にこう 約束しあった。「○十年無事でいたなら、われ等が当時どのようにして事を起こしたかなど一切を話そう」 と言う事であった。  この講演会で、次に演壇に立たれたのが、我等が殿様菊池閣下であった。話の詳細については覚えてもい ないが、その中に「何時の時代も、若者が世の中を造る大事な仕事をしてきた。これからは科学の進歩によ って様々な機械が造られてくるが、そん為にゃ研究も必要じゃがもっと大事なことはその機械を使いこなす ことじゃ。わしの長男は、大学生じゃが今自動車の免許を取らせておる。これから先は、若い者は誰でも自 動車ぐらいは運転がでけんにゃいざと云う時にゃ役に立たん。そうでなけりゃ機械にも関心が無く、世の中 の進歩にもついては行けんごとなる」  銀鏡の青年に「機械に強くならんといかんど、科学が進めば機械が多なってくるからね」と、かんで含め るように諭された場面を想像して私は、忘れかけていたあの時の講演のことを思い出したのだ。大学生で自 動車の免許が取れるという殿様の一語には、中学生どもは少なからず関心を持った。さすがに自ら砂鉄会社 をつくって、その経営までやっておいでになった殿様だと心の底から敬服申し上げた次第である。  殿様の講演に出てきた話題の主は武英(たけふさ)様で、そのころ東京帝国大学に在学中の頃の話であった。   

『殿様と製粉機 (かくかく申し上げます)』そのー4(2007.11.04)

「殿様、機械が故障しましたので修繕をしなければいけないと思いましてあちこちに頼んでおりますうちに 、お詫びに上がりますのが遅れまして誠に申し訳ありませんでした。今日は青年たちを連れまして、お詫び に参りました」 みんな手をついて、いつ殿様の雷が落ちるかと思ってびくびくしておると「機械はどりか、こけ持ってきて うちくえた原因をば説明して見よ。あれほど石やなんきゃ入っとらんか確かめてから動かすように言うとっ たとじゃがどぎゃしたとか」  しまった、早くこれを申し上げにゃいかんかったのに、殿様の方から先に口にされてしまった。ところが 肝腎の理由を説明申し上げる役割を決めていなかったことに気がついた。すると次雄が 「覚がそのときの事は詳しく知っているのですが、妻が亡くなって今日は来ておりませんのでー」と続いて 言おうとするのを、これではいけないと思った武昭がすかさず「私が、ご説明申し上げます」と言って、前 に体を乗り出して「しばらくお待ち下さいませ、機械を持って参ります」  武昭の声にわれにかえった一同は、武昭に付いて分解して持ってきた機械を殿様の前に並べた。武昭は覚 の次にこの機械について精しく知っていたので、丁寧に説明をし始めた。武昭の説明はありのままで整然と したものであった。しかし居並ぶ面々は武昭がつまらんことば言うて殿様のご機嫌をばそこなうものならそ れはまた一大事とばかり、冷や汗をかきながらじぃっと聞き入っていたが、その説明のあざやかさに一同は ほっとした。  「その日は、覚がバッテリーの充電と、とうきびの製粉をしていました。昼になりましたので、覚はそこ から40メートル離れています自宅まで昼飯に帰りました。私もその時には家で昼飯をとっておりました。 ところがいつもと違った機械の音が、15メートルほど離れた私の家まで聞えてきました。私はその音がい つもの機械の調子とは違うぞと思って飛んで行きました。そしてびっくりしました。見ますと、水車がフル 回転しておりモーターがうなりながら回っていました」 「それでどぎゃしたか」 「はい、私はすぐにそこから10メートルほど離れた水門まで走って行って水門を閉めました」 「ウーン、そうか、水力発電じゃから水車は止めにゃいかんがうろうろせじ水門ば閉めたとはあっぱれじゃ」 「そして私は覚を呼んできてその原因を調べました」 「どげなことじゃったとか」 「それは機械の始動中、シャフトからシャフトにかけてある幅の広いベルトの継ぎ手の小さいカスガイ一本 がはなれて製粉機の中の歯車の歯を次々といためてしまったのであります」 「ん、機械は融通がきかんから細かいとこまで注意せんにゃいかんがそのベルトは中古品じゃったとかい」 「はい、中古品でした。新品がなかなか入りませんでしたので」 「そうか、これからの世の中は機械に強うならんといかん。科学が進めば機械がおおなって来るからね。こ の製粉機の一分間の回転数はどれくりゃあっか知っとるか。ただはげしゅう回せばええっちゅうもんじゃねえど」    武昭は、びんたをくらったようだった。今まで自分でも機械を知っておるつもりであったのが、殿様の質問 の機械の回転数をちゅうに覚えてはいなかったのである。こりゃぼくじゃと思った武昭は、機械のどこかに書 いてあるもんだがと思ってそーっとのぞいたら、機体の赤枠の中に小さな字で書いてあった。武昭はすかさず 「はいっ、一分間の回転数は○○回転であります」 「よしよし、中古ベルトの継ぎ手の点検が出けとらんかったとが原因じゃね、こりからは気を付けんにゃいか んど」 武昭は、ほっとした。これで殿様のお許しが出たのだと思ったとたん外から吹き込んでくる風の涼しいのに気 がついた。やがて奥様からお茶をいただき、そしてやさしくご接待にあずかった。殿様もご機嫌よろしく、巣 鴨での戦犯容疑生活のお話をされた。一同は身を乗り出してその話に聞き入った。殿様は「あすこじゃね、お りこりまでやったわい」と、殿様は両手を前に出して雑巾で便所の床を拭かれる真似など。一同は何ちゅうこ とばおっどんが殿様にさすっとかと思い、話が面白いどころか腹が立って腹が立って来た。武昭の横に居た次 雄が、武昭を指して、「閣下、これは浜砂幸見さんの孫です」 「おお、おまえが幸見ん孫かい。盃ばとらすど、こっちへ来い」 「はい。ありがとうございます」 武昭は盃を押しいただいて感激して頂戴した。その感激は一生涯忘れることはできない武昭であった。武昭の 祖父の母キサは、乳母として殿様へお乳をさしあげたことがあったのである。・・・続く  次回は、最終章です。

『殿様と製粉機 (山越えしてお侘びに参るどー)』そのー3(2007.11.02)

それから関係者が武昭の家に集まって、徹夜で協議をしたあげく故障した機械を持ってご別邸にお伺いして おわび申し上げることになったのである。しかし当の覚は、妻が亡くなったため村所行きができなくなった。 それで村所に行く顔ぶれは浜砂次雄、河野重信、浜砂武昭、浜砂武俊、浜砂重富、尾崎日吉の6人でご別邸 を訪れることになった。  一行はヒエ、アワ、麦、トウキビ、小豆、米、焼酎など手土産などをあちこちからかき集めて4人がかり で棚倉峠を越えることにした。残りの武昭と日吉は、自転車で国道を二軒橋から村所へ分解した機械を自転 車に積んで行くことにした。おわびに行くのであるから、何としてもその誠意を尽くさなければならないと 思ったからである。そしてそれはあとになって分かったのは、こうした行為が殿様の心に触れて良い結果を うんだのであった。武昭と日吉の自転車訪問はなかなかこたえたのなんの、国道とは名ばかり道路は凸凹、 中古車の後ろタイヤはこれが又石ダイヤときているので2人はえらい目にあった。  峠ごえもたいへんだった。真夏というのであるから昔からの話に「先アブ後ビル」と言って、前の者はア ブに取り付かれ後の者はヒルに悩まされると言った夏山歩きの言い伝えさえある山越えであった。とにかく 茂るに茂った草を踏み分けて、彼らは棚倉峠と天包山を越えて村所へと急いだ。 「ごめんくださいませ」 山まわり組と、自転車組みとがやっとのことであらかじめ打ち合わせておいたご別邸前で合った。その足で ご別邸を訪れたのである。次雄が前よりもやや大きい声で、しかもおそるおそる「ごめんくださいませ」 次雄の後ろには、汗を拭きながら残りの5人が横に並んで立っている。 「はーい」障子が開いて、奥様が出ておいでになってこのありさまをごらんになり、しばらくじいっと見て おいでになったが「銀鏡の者でございます」 「まあまあお疲れのこと、どうぞ足をすすぎになって」 奥様は、お気軽に一行に木のたらいに水をそそいで下さって殿様のお部屋にご案内下されたのである。殿様 は、布団を敷いて休んでおられた。 「おお、来たか、きゅうどま来るじゃろとおもとった。ちっとだれとったもんじゃから、寝とっとじゃ」 殿様は手を出して、奥様の介添えで起きられた。みんなは遠くの方で、かたく小さくなって座っている。 「遠慮せんでこっちに寄れ、まっとねきまでずーーっと」 みんなは一緒にごそごそと前に出て座った。そして武昭の右隣にいた次雄が、おそるおそる申し上げた。 ・・・続く       次回は、お殿様があれこれお尋ねになります。乞うご期待!!

『殿様と製粉機 (機械が止まったどー)』そのー2(2007.10.31)

「何ちて、機械が止まったあー」 「武昭よはよ来て見てくれやり、どうもこうもならんど」 武昭は昼飯を食うておるさいちゅうだったが、飯を食うのをうちやめて覚の後について機械小屋に飛び込ん だ。武昭は 「こらどしたことかい」 機械は止まり、ベルトは外れてぶら下がってごとんごとんと水車とモータだけが回っているではないか。覚 が水門の方を指差して 「武昭はよいたて水門をばしめてくれやり」 覚が顔(つら)真っ赤にしておらんだ。武昭はすかさず小屋を飛び出して、水門の処へつっぱしって水門を閉 めた。やがて覚が言うには 「いんまさきじゃったがトウキビの粉をばひいていたら機械の調子がおかしいもんじゃから、こん中に何か 詰まったっちゃわいたんしてドライバーを突っ込んで中をかき混ぜてみたところ、ドライバーの先が歯車の 歯にあたっとじゃがな。そうすっと『ごとごと』と手ごたえがしたと思ったらなにが歯車の歯がとれて、そ のかけらが、次々にほかん歯にひっかっかってぐわらぐわら歯がとれて、とうとう機械がうっ止まったとじ ゃもんな」 「そうかあ、そういえばいんまさきおりが飯ば食うとき太え音がしたとじゃが、それがそっじゃったとじゃろ」 武昭と覚はこのままではどうにもならんので、機会を分解してみることにした。分解してみるとあんのじゅう、 製粉機の歯車の歯が7枚もかげているではないか。 「やいやい、こらちゃんとしもた。どうにもこうにもならんどこん歯車は。こら鋳物じゃから接ぎもどうもならんど」 武昭は覚の顔を見ながら叫んだ。 「こらえれこっちゃわい、どげしゅかいね」 さあ大変だ、1年半も機械をただで使って殿様にはなに一つお礼もせんままじゃったっちゃが、覚は顔色さえ 失ってそこにつくなってしまった。  それからひと月もたっただろうか、重久どんを通じて殿様から、その機械を返してくれんかと言うことだった。 それは殿様のご子息様が、竹材の加工工場を作られるのでその工場に取り付けて、製粉をするからと言われるの であった。しかし何もかにも知っている重久どんは『機械が故障したので、宮崎で修理をしてからお返しします』 と言って戻ってきたのだと言う。だがあれこれいびくり回しているうちに、とうとう半月も経ってしまった。  ところが今度は銀鏡神社の宮司正衛どんが、殿様からの葉書を持ってわざわざ征矢抜までやって来た。それには 「そちらで故障がなおらなければ村所まで持って来い、こちらで修理をするから」とのことであった。さあ大変い よいよ絶対絶命の時がやって来た。・・・・・・続く 註)写真は、西米良村「菊池資料館(殿様のご別邸)」にて許可をいただき撮りました。 第41代 菊池のお殿様(男爵)、奥様                    昭和15年当時、銀鏡延命寺墓地の調査

『殿様と製粉機(ちゃんとしもた)』そのー1(2007.10.29)

昭和22年の夏、まだまだ食糧難の時代が続いていた。米良の住民達はもっぱら焼畑や炭焼きに従事していた 頃で、東米良銀鏡地方ではまだ電気が無く不便なランプ生活が続いていたのであった。こんな不便な生活を解 消するために、若者が集まって連日連夜協議に協議を重ねたあげく、自家発電を企画してバッテリーを買い入 れて各戸に電燈をつけようということになったのである。発電所を設置する場所は、浜砂武昭所有の土地を無 償で提供することで話はとんとんと進んで行った。  仕事は材料集めから製材等いっさい出役でまかない、かんじんのバッテリーは穂北の押川氏から譲り受けて 来た。機械のすえつけから水路作りなど、仕事は共同作業で順調に進んでいった。次々に仕事が進んで各家庭 に配線工事が終わって、遂に待望の電燈をつけることが出来た。この時から長い間のランプ生活に終止符がう たれ、実にご先祖様米良山入山以来の出来事でありようやく文化のともし火がここにもともることができたの である。  この時の点燈バッテリー組合員は、征矢抜(ソヤヌキ)の8戸の他に川の口(コウノクチ)集落の10戸に 古穴手(フランテ)の数戸を加えて19戸であった。その19戸に、電燈を付けることが出来た。それは昭和 24年に九州電力によって点燈が開始されるまで、その間征矢抜バッテリー充電所の仕事は続いた。  22年に開始した発電事業が続いたその翌年、昭和23年の夏、古穴手の浜砂重久氏(故人、時の村会議長) が殿様から製粉機を借りて来たのである。つまり精米と製粉をしたならば、食生活の上でも改善がなされて都合 が良いだろうと言うのであった。それは良いこと一石二鳥というので、喜んで製粉機をすえつけることにした。 シャフトからモータにベルトをかけて、発電機や製粉機を動かしてトウキビ、麦、小豆、大豆、米等の製粉を始 めることにした。それは戦後の食糧難の時代を乗り切るために、製粉の便をはかって多少なりとも各家庭の台所 をうるおすことができたのである。6月のある日、武昭が昼飯に戻っていると、「おーいっ、うっ止まったどう 機械が」こうおらびながら覚が息せききって武昭の土じ(ドジ)に飛び込んできた。   ・・・続く [註]旧東米良村と現西米良村のお殿様(菊池男爵)は、西米良村に住まわれていた。この別邸は両村民が建てた。 旧東米良村の青年達が一生懸命に考えて行動した話である。ある本に寄せられた菊池のお殿様との思い出話より。

 十五夜さま・・・銀鏡の頃 (2007.9.25)

 今宵の月を外廊下から見上げてはまだまだまだまだだと言いながらキッチンに戻ってハンバーグを焼いた。 丸いハンバーグに義母が笑った。夕食の後片付けを済ませてベランダへ出て東の空を見上げると、出た出た 月が♪。マンションの屋根を越えてベランダ側に出てきていた。義母は手摺から頭を出して見上げている。 それからわたしたちは何度も空を見上げた。11時過ぎになると、お隣も下の階も上の階も、みんなで月を 観ているようだった。(子供たちの声がなんともうれしそうでいい感じ)    一週間前くらいまでは、上弦の月が太陽を追いかけるように西の空に沈もうとしていた。色は橙色で疲れ たように見えた。今夜の月は、零時過ぎているのに天頂あたりにいる。午前様で帰宅した夫は、愛用のカメ ラを持ち出して月を撮ろうとしたが雲に隠れていて残念がっている。しぶとくねばって撮影に成功したよう す。動画も撮ったようす。写真はこれからアップすると言っている。  遠い昔、故郷の縁側で曽祖父母、祖父母、父、母、兄、妹達と見上げていた十五夜さまのことなど義母に 語った。義母の思い出と重なる月見の風景は少し違っていたが楽しくて笑いあった。かすれた記憶の中の匂 いと色を描いてみた。どうも落ち着かないので妹に確かめてみた。 「縁側に直径30cmくらいの竹で編んだ笊に栗・柿・梨・早生みかん一升瓶にススキそして母の手作りの 団子。先日母に聞いたら葉っぱは柿の葉ではなくて何とかの葉だと訂正された。その何とかが思い出せない ・・・私は柿の葉っぱだとばかり思っとったけど。柿の葉だとくっついて駄目なんだってね」ということだ った。 そうだった!! 母の団子には漉し餡が入っていた。(お供え物の中に大豆もあったような?未確認><) ↓みんなで静かに月を観る。大人たちはなにやら話し始める。 私たちこどもはだんだん退屈になる。団子に目が行く。 すぐには食べられない団子だった。          ↓妹から送られてきた宮崎の月(23時撮影)     銀鏡(しろみ)の村のどこの家もそうであったと思う。龍房山が青く見える頃まで月を観ていたのだと思う。 今夜、父と母は、昔通りの月見をしたのだろうか。 日付は26日の午前2時になろうとしている・・・

 白黒写真・・・銀鏡の頃 (2007.9.20)

敬老の日に間に合わせたいと思ってから「写真捜し」を始めたのだったが今日もまだ出てこない。特に母 の小学生の頃の写真(カシミアノコートヲキテイルボウシノオンナノコ)が出てこない。 「篤農の神様 元市どん」(5/28付)と題して、祖父(母の父親)のことをここに書いたことで、母の良き 時代の写真のことを思い出したのであった。我が家にあるはずという思いから兄が持っているのではと気が 緩んだがまだ聞くのは後にしようと思えるようになってきた。 子ども会日帰りバス旅行(私6年生・青島こどもの国)、銀鏡大祭(母、兄、妹、私)、小学入学式(隣の つよみちゃんと)3枚の写真の出現で昭和30年代の村の思い出に飛び火して行った。大祭の写真の私は5歳で 肥満も肥満。黄緑のボックス型のオーバーコートを着ている。ポケットが二つあって黒猫のアップリケが付 いていた。私はこのポケットに手を入れるのが大好きだった。色の記憶は可笑しくもあり切なくもあるもの だ。生地の薄くなったこのオーバーコートを妹が着て、村の記念祭の日に写っている写真を妹からのメール 添付で見ることができた。妹も友達もみんな素晴らしくいい笑顔をしていた。貧しくとも豊かな笑顔をみて いたら思い出が深くなった。青島は、別の地区の子ども会の主催だったのだが、バスの席が空いているとい う幹事さんのお誘いで行くことができたのだった。兄は中学生だったので参加していない。父の照れた顔と 母の太陽のような笑顔が白黒でもよく分かる。  実家からこれらの写真を両親に内緒で持ってきたのはよほど気に入っていたからだろう。縁側で写ってい る兄と私(2歳)の写真もまだ出てこない。  写真と手紙を一緒に入れていた箱を整理し、両親からの手紙は大きなお煎餅の空き缶に移し変えた。母が孫 (私の娘)に平仮名で書いてくれた手紙をスキャナーで取り込みファイルした。語りかけてくる母の言葉を空 き缶にしまっていてはいけない。可愛いお年玉の袋がまとまって出てきた。袋の裏に「500えん。おばちゃ ん。」と4歳の娘が書いている。5円、1円、10円が嬉しくて足し算をして書いたのだと思う。「355えん。 まま。」「432えん。ぱぱ」「1001えん。おじちゃん。」「10000えん。おじいちゃんとおばあち ゃん。」書初めも出てきた。娘4歳「しつこくしない」。私は「克己心」。似た親子である。

 台風・・・銀鏡の頃 (2007.9.05)

9月と聞けば台風。こおろぎの鳴き音に秋を感じ一昨日の夕焼けに秋を感じ昨日の朝の澄んだ空気に秋を感じ 昨夜の大雨に秋を感じ今朝の湿度の高さに台風の進路は予報通りになるのだろうかとそんなことを思った。局 地的に雨が降っている。稲刈り半ばのところも、これから実るところも気の毒でならない。    私の遠い記憶の中に、台風の最中に、たんぼを前にして仁王立ちしている父の背中がある。そしてわたした ち子供は無邪気に真っ暗な部屋で遊んでいた。雨戸を閉めると、しりとりゲームやトランプの七並べや、歌や 昔話の始まりになって、ろうそくの炎がみんなの息で揺れていた。夕方になると祖母が(磨いて磨いて磨いて 神経症のように磨いていた)ランプをぶら下げてくれた。わたしたちは落ち着きを取り戻していた。 大人の心を知らず・・・。  10月、帰省しようと思っている。山に入ってみたい。木馬路(キンマミチ)だったところはどうなってい るのだろうか。道路が出来たということを何年も前に聞いたがそこを抜けてその先に行って見たい。小学生の 私が台風の日に雨合羽を着て妹と二人で柿を千切ったあの場所はどうなっているのだろうか。田んぼがあって 作小屋があって傍に水路があって、さらさら流れていた。細い道の途中の道にもここにも彼岸花が咲いていた。  こちら正午、28、2度、湿度79%   関東はこれから激しい雨となるもよう。海はシケとなるもよう。

 銀鏡の頃 お盆 (2007.8.26)

猛暑日と言う言葉が誕生したこの夏、我が家は仕方なくクーラーを使った。  自然の風がいちばんいいねえ〜と(暑くとも)暢気に言ってはいられないほどの白南風が幾日も吹き続いた のでとうとう使ってしまった。毎日のように温度計と湿度計を見て暑さを乗り切ってきたのだったが、少しの 隙間にうなりをあげて風が入ってきた。クーラーの温度設定を30度にしても涼しく感じられた。28度にす ると寒いくらい。風がようやく止んだかと思うとまた猛暑日がやってきた。クーラーを休めせることにした。  ベランダら見える花屋さんは、お盆用意の頃、入り口の引き戸をこまめに管理していた。買い物をするかし ないか客を見極められるワンちゃんの声はときどきしか聞こえてこなかった。私はお盆に帰省しなかった。御 供料に手紙を添えて送った。 先日、帰省した妹が実家の様子を「避暑地の気分です」と写真添付で知らせてくれた。 「お風呂場から見える景色は山肌と星空…。湯上がりにビール。おソーメン・ぜんまいと筍の煮付け・胡瓜と 若布の酢の物・小魚の甘露煮。空気や風が全く街と違います。父と母は70数年フィトンチッド吸いどおしと 笑っています。」 「写真は、朝露の残る草花越しに竜房山を撮りました。包丁の柄が傷んだので鹿の角を取り付けてくれた人は 〇〇ちゃんのお兄さんだそうです。まな板は(くろまめが)勤めていたときのだそうです。母には思い入れが あるみたいよー。」  このまな板は、私が社会人になってアパート住まいを始めたときに、お祝いに母が買ってくれたもの。そして それを今でも母が使っていることが嬉しい。帰省のたびに見ているまな板。母は一度も自分が買ったとは言って いないけれど私は覚えている。とても上等なまな板を選んで買ってくれたこと。一生懸命考えて選んでくれたま な板だ。母にまな板に感謝の気持ちで胸が熱くなった。  包丁の柄の立派なことに驚いた。私の中学同級生のお兄さんが作ってくださったと言う鹿の角の柄。鹿が鳴く たびに猟師さんたちに見つかるがあ〜と心配している母。「庭先まで出てきた鹿が窓から部屋を覗くもんじゃか ら私と目がおうて(合って)なあ。せつないもんじゃ〜」と言っていた母。鹿の角は、大事にこれからも使われ てゆくに違いないと思った。  実家のお墓は、20年位前にたくさんのお墓をひとつにして先祖代々のお墓にして供養した。傍らには西南の 役で無縁仏になった兵士さんたちのお墓もまつってある。  土葬が条例で禁止されてからどのくらい経っているのだろうか。お盆が近づくと、曾祖父と祖父の手作りの竹 のヘラを小学生だったわたしたち兄妹は受け取って、家の周辺、お墓周りの草むしりをしたものだった。鎌は危 険なので竹を削って薄いヘラにしてくれていたのだった。私は石垣の間の草がスポ〜ンと抜けるのが面白かった。 地面にへばりついている草はかなりがんばらないととれなかった。たやすく抜ける草に出会うと嬉しくて、そう でない草にぶつかるといい加減に途中でむしりとって叱られたものだった。曾祖父母が80代、祖父母が70代、 両親は30代だった頃の夏休みのひとコマが浮かんできて報告の便りは文字が躍りっぱなしだった。  便りを読んだ両親から電話があった。「こっちも元気だぞ。ご先祖様にしっかり報告するから」としっかりと した声だった。父78歳。母76歳。二人は数年前から通院している。今夏の台風4号、5号の時には、しっか りお薬を余分にいただいていたことにまだまだ自己管理の行き届く父と母だと思ったことだった。 2008年追記: 薩軍の兵士のお墓については、明治時代にご遺族の方がいらして大事に持ち帰られたそうです。

 銀上(しろかみ)小学校のグランドピアノ (2007.6.6)

 久しぶりに故郷・宮崎の新聞をネットで読んだ。橘公園でブーゲンビリア満開という写真が出ていた。過 去の記事を捲っていたら、『「昭和の音色」酒蔵で復活 美郷町でピアノコンサート』 という見出しが飛 び込んできた。”昭和の音色”って?どういうことだろうかとにわかに気になってきた。 ↓以下、2007年5月28日付、掲載記事抜粋。    製造から50年以上が過ぎ、廃品寸前だったグランドピアノをよみがえらせる「酒蔵コンサート」(同実 行委主催)は26日、美郷町北郷区の甲斐酒造であった。戦前に建てられた昔ながらの酒蔵で音色が共鳴し、 訪れた地元住民ら約250人は酔いしれた。  グランドピアノは1953(昭和28)年に製造。昨年7月まで西都市の銀鏡小で使われていた。珍しい 丸足のこのピアノは、大半の部品が故障。直すには数十万円の予算が必要だったため、廃棄処分の予定だっ た。  西都市教委から相談を受けていたピアノ調律師太田守人さん(57)=宮崎市佐土原町=が引き取って自 費で修理。鍵盤を張り替え、表面も黒く塗り直して再生させた。  知人の縁で、甲斐酒造の酒蔵を会場にしたコンサート構想を持っていた太田さん。ピアノの復活とあわせ、 同酒造の甲斐文代さん(58)に開催を呼び掛けて実現した。 (注:銀鏡小→銀上小のこと) 【写真】復活したピアノによる酒蔵コンサート    私は、この写真を見てすぐに思い出した。講堂(死語になってしまったのか)の舞台の左下に据えてあった このピアノの姿だった。黒のベルベットのカバーがかかっていた。広い講堂の中でも大きく見えたものだった。 ここでいろんな歌を歌った。全校生徒に歌集(B6サイズで文部省唱歌がガリ版刷り)が配られていて集まりの 時は必ず歌集を持って集合していた。タンタンタヌキノ・・・♪♪♪とか、ネコフンジャッタネコフンズケタ ・・・♪♪♪の行進、退場の区別があったような??。声に出して笑いながら講堂に入り出て行っていたよう な??。ピアノを弾いていた先生のお顔も??だったような確かなようで不確かな思い出が浮かんできた。学 芸会のときは、ピアノの周りにも家族の席が出来て、幕の内弁当ならぬお弁当の交換の場所にもなっていた。  このピアノは、妹が5年生のときに発表会で弾いたことがあった。指が長いという理由で選ばれたのだそう だが・・・お嬢様になった気分がしたそうだ。  昨年の7月までよくぞ持ちこたえてくれたものだ。引き取って自費で修理をしてくださった調律師・太田守 人さんに感謝したい!!と思った。

 輪ゴムと飴の思い出 (2007.6.6)

 飴といえば、昭和30年代はおばあちゃんのアクセサリーだった。子供を見ると他所の子にも「はい。ええ 子じゃねえ〜」(いい子だねえ)と頭を摩ったり手を撫ぜたりして渡していた。そこは、縁側や囲炉裏の端や 枕元だった。私は曾おばあさんが寝ているところに、こっそり行って、お決まりの棚に置いてある空き缶を開 けて失敬したことが何回かある。キャンディーボックスは、ミルクの空き缶だった。一個一個をシャラシャラ 紙で包んであるキャンディーはフルーツの味がした。琥珀色の五厘玉やきな粉芋飴、豆の入ったやや黒味がか った飴などがガシャゴシャグァラグァラ入っていた。そしてそれは日が経つとネチネチベチャベチャとなって いたのでもう失敬はしなかった。手に受けたとき「おーきん」と言っていたはず。「おーきに」だったかも??  あの頃、村の年配の婦人は、みんなみんな手首に輪ゴムをしていた。祖母と曾祖母は左右の手に数本の輪ゴ ムをしていた。お風呂に入るときもしていたのだろうか?。輪ゴムと輪ゴムの間には衣類から出る綿ぼこりな どの白っぽい塊りがついていた。手はとても大きく長かったような気がする。指がゴツゴツしていて静脈の浮 き出た手の甲が懐かしい。掌はとても柔らかかった。祖母は末の妹(私の)を背負って髪の毛が妹の顔にかか らないように手ぬぐいでアップして「○○ちゃんはいいこだ〜ねんねしな〜」と歌いながら縁側をソロリソロ リと歩いていた。曾祖母は着物に長い前掛けをして滑るように縁側に出て来て、チョコンと正座をしていた。 祖母も曾祖母も私も、飴をゆっくり舐めて薄く薄くなるまで舐めていた。私はガリガリカツカツとすぐ噛んで いたのでよく二人から注意されていたのだった。  前髪を下に下に引っ張る癖が抜けなくてこのことも注意されていた。それから「うそ〜ほんと〜〜ほんとや 〜」って聞き返すことも注意されていた。飴がとりなすひとときは幼心にもゆったりとした湿っぽさを吹き込 んでくれていたように思う。

 輪ゴムと飴の思い出 (2007.6.6)

農園のおばあちゃん(90歳)にイチゴジャムのお礼に黒飴を買った。今年のは、甘さ控えめ酸味がやや強い。 「おばあちゃんのジャムを熱い紅茶にたっぷり入れて蜂蜜を入れて飲みました。バニラアイスクリームの上に載 せていただいたらイチゴアイスクリームになって贅沢な気分になれました」とご報告をしよう。先日もおばあち ゃんはジャムをタッパーに入れて「コレが無くなったらまたコレを持ってくればいいよ」と喜んで畑に運んで来 て下さった。コレに黒飴を並べておリボンで結んだ。  畑を丁寧に食べているからこんなにお元気なんだなあとおばあちゃんの畝を見てそう思う。おばあちゃんは、 500本のイチゴの苗を植えたそうだ。そのうち200本は息子さんが「これだと畑に居る時間がのびるので 心配だ」という理由からおばあちゃんと相談して土を被せてしまったそうだ。息子さんは敷地内の事務所から 朝昼夕に畑を覗いて母親の様子を見ている。おばあちゃんは大きな丸い目覚まし時計を置いて、テレビ「おも いきりテレビ」の時間がくるとお家に戻って行く。夕方、我が家の畑の義母の白い椅子に腰掛けている。ある 日、おばあちゃんに椅子をすすめた義母だった。以来、義母が居ても腰掛けている。義母が木陰に腰を下ろし たら、おばあちゃんが強い握力で引っ張り起こしてくれたそうだ。わたしたちは畑に二つ椅子を置いた。その 内一つが壊れた。そしておばあちゃんはパイプ椅子を置くようになった。が、やはり白い椅子のほうが心地い いようだ。(つづく)  

 続「篤農の神様 元市どん」・・・「東米良村史」より (2007.5.28)

  「不断から奥さんの内助のお陰であると言って、オナカさんを連れて伊勢神宮参拝をし、そのほか各地を旅行 して妻の労を労われた。旅行から戻られると地区の人々を招待してお祝いをされたそうである。また新しい話 し(昭和)では地区に始めて電灯が点ることになったが、九州電力は、「戸数が少なくて然も家が散在してい るので採算がとれない」との理由で直配してくれなかったそうである。そこで、「電気組合」というものを結 成して自費で設備一切を負担したのであるが、その経費は地区の責任に於いて共同で木炭を焼いて拠出金を納 入することになった。そのとき自分が手塩にかけて育てられたクヌギを木炭原木として無償で地区に提供され たのであった。元市どん程の愛林家にとって木は我が子同様に大切なものであったことだろうがこんな場合に は、進んで投げ出される。此の事実は、当時同組合の会計の任に在った小生が周知しているところである。」 (以上、「東米良村史」より)  「村史」に載っている元市どんの写真は、紋付袴姿で五分くらいの頭髪の眉の太い目の大きい皮膚の厚そう な小柄そうに見えるそうだが、最後の行に、 「こん人は、山栗の実が路上に落ちていたのを拾って帰られたが入れ物が無いので褌を(ふんどし)外してこ れに包んで肩に掛けて帰っておられた。常にパンツを履いていなかった。他にも精進振りやエピソード等は枚 挙に暇の無いほどであるが篤農家としての元市どんはひとまずとめ置きとしよう」(以上「東米良村史」より) 大工の元市どんは?気になってきた。「三塚」という地区名に手がかりがありそうだ。資料によると、三塚 には大正昭和に水力製材所があり奥には広い面積の山林があったげな。業者が次々と入山し収出された木材は 此処で製材され、初期は馬の背や川流し、中期頃になると水練式トロッコ、後期は軌道に依って搬出されてい たと記されていた。 「『「銀上小学校」の建設時に、棟梁として西洋建築の校舎を建てらいたっちゃげな』」という(母から聞か された)ことは記されていなかった。  総棟梁を努められた福松どんを「日和を食はる福松どん」と人物伝に記されてあった。朝、村の人たちに会 うときまって「これはまあ、うまい天気でありますなあ」と挨拶をする人であったげな。  村史に登場する人物はとても愉快だ。深いのか浅いのか(こちらはないと思うが笑)私は『東米良村史』を いよいよ読まなくてはと思っている。    今回、母方の祖父のことを知ったことで、いよいよ探さなければと思った物がある。それは、昭和初期に三 越デパートから取り寄せた末の娘(母)の帽子、フード付のカシミヤのコート、革靴姿である。帰省する度に 母から「あん写真はどこに行ったちゃろう?あんたたちはしらんねえ?」と言われているからである。

「篤農の神様 元市どん」その1・・・「東米良村史」より (2007.5.28)

 こん人は、元市どんと呼ばれていた。西米良の小川から三塚に養子に来られた大工さんじゃったが、篤農の神様とも 謂うべき人で大変な努力家じゃった。奥さんはナカと言う人で元市どんはオナカヤンと呼んでおられたそうな・・・。  人物伝記などが収められている『東米良村史』は、九州の奥日向の銀鏡(しろみ)が舞台である。 「村の成り立ち」「暮らしと(農林業)生計」「しきたりと伝統芸能(神楽、記念祭、祝い歌、民謡」「言語(米良弁 )」「人物伝」などを後世に遺そうと発起人、河野開・浜砂次雄氏の情熱で10数年前に成されたのであった。私は実 際の本を読んでいない。納戸の整理していたら「村史」の元となった原稿(ガリ版刷り)が出てきた。おそらく資料の 一部に関わった人たちに青焼きをして渡したものであろう。原稿は、両氏が60歳前後の1970年頃から数年にわた って調査加筆がされている。その中に私の母方の父、つまり祖父である元市のことが記されていた。祖父の記憶は私に は無い。母から聞くことも無かった。祖父が「どう生きたか」を知ることができて嬉しかった。  元市どんは、毎朝前の川まで洗面に行き必ず石垣にする石を一つずつ担いで帰り、そん石を積み、田を開きやったげ な。又、三塚の奥にハタノヤマと言う所があり、そこにも元市どんの開田に依って新田がでけたげな。野の草を刈って 堆肥にしたり、落ち葉を集めて堆肥としたりして管理しなさったげな。そん努力は大したもので文字通り朝は明星、夜 は夜星と言ったところであった。又、こん人は、たいへんな愛林家であり若い頃から育林の必要性を強調されていた。 或る年に村の地区祭がありましたときに杉の苗木を持って、出席区民に対して育林の重要性を説かれた。そのようにし て自分が実践するに止まらず他人にも大いに奨められることを忘れなかったお人じゃった。説明を終わった苗木を帰り に道端に植えて帰りやった。又或る時は、造林の楽しさについて、「杉の造林地に行(いっ)てなあ。石の上座って見 れば杉のセビが風に吹かれてナミナミ(波が寄せて来るように)してなあ。日暮れえて見とってもあんどせん(飽きな い)もんよ」と言っておられた。  或る時、村の道路整備の作業(共同作業の道普請)があって元市どんも出役された。作業中に道の邪魔になる石を下 に転がされたところ杉の木に当たってしまった。じっとこの木を見ておられたがやおら鍬をそこに置いて、木の傍まで 降りて行き傷ついていないかどうかを確認されたそうである。辛抱家で且つ自給生活に徹する人で常に何かを考え即実 行に移す人であった。ガリガリの人ではなかった。お金を貯めて”尺祝い”というお祝いをされたことがあった。「尺 祝い」とは、紙幣を積み重ねてその高さが一尺(33cm)に成ったことを祝う行事である」 (以上、「東米良村史」より)  (つづく)

 宮崎県西都市 「さいと 広報誌」 (2007.4.16)

 昭和30年代、杉の山も竹の山も田んぼも畑も、村にいっぱいにあって空は狭く高かった。  その頃、赴任されてきた滝一郎先生は、理科の先生で(後に植物博士)職員室の前庭に百葉箱を設置された?ように記 憶している。兄が百葉箱の観測記録係りになって休まず観測を続けたことを憶えている。幼い頃の興味と歓喜は成人して から後も続くものらしい。兄は確かに気象観測に長けている。    先生は、休日になると、野草、草花、樹木、花木、苔などに名札(木の札に大きな墨文字)を歩いて付けておられた。 名前にルビが振ってあったので、私は声に出して読み上げていたが興味は先細りになって・・・いまだに図鑑がないと始 まらない。  さて、この度の「ふるさと広報誌」の読者の声の蘭に、「『滝先生の”一ツ瀬植物夜話”を楽しみに待っています!!』 」というファンの声が複数寄せられていた。あのメガネの先生のことだ!! 私は背表紙を見た。読んだ。シリーズ第43 話は、「茅葺きの家」についてで、先生のご体験をふまえて叙情的に話をされていた。(*〜*r抜粋) **************「屋根の葺き替えは、すべて組中の共同作業であった。そのために集落毎に世話役を置き、 普請組合が作られた。葺き替えの順番が来た家は一生に一度の大行事であった。集落は毎年大量の茅を必要としたので、 春の野焼きや草刈など、協力して原野を育てた。宮崎県地名大辞典を見ると、一ツ瀬川流域に茅原、茅生、茅場、立野と いう地名がある。これがススキを育てた茅山である・・・。」**************************  米良の茅山、「立野」の写真一葉。銀鏡(しろみ)の「茅葺屋根」(昭和35年撮)の一葉。動かない歴史の一端に触 れて昔の村が形になって浮かんできた。 今、村のどこにもわらぶき屋根の家は???  さて、二千円(笑)、4月号が私のこころをまだ掴んでいる。                げんげだやあの子がほしい花一文    くろまめ

 宮崎県西都市「さいと 広報誌」 (2007.4.16)

 14日は県内各地で青空が広がり我孫子市では25度を記録する夏日になった。  丁度1週間前に見た、”満開の今井の桜”は、青空を透かして水路に太い幹の影を映していた。地べたに張り付いていた タンポポの花は茎を伸ばして陽光を燦々と浴びていた。スギナは丈を伸ばし、オドリコソウはよく太り領域を押し広げてい た。長い一本道は、わだちの筋をくっきりと見せていた。梨畑は白い花の盛りに入っていた。  故郷・市の「広報誌」が届いていた。首都圏で暮らす本市出身者に「ふるさと情報サービス」を開始したとのことであっ た。「4月号をサンプルとして同封しております。年間二千円です・・・」とある。  カラー刷り中綴じA4版を開いた。『学校の話題』のコーナーに母校・銀上小学校が写真入りで紹介されていた。    2/13「村所小の全児童61名と銀上小の全児童10名とが交流学集会を開催」対面式の後、なわとび大会を行い、バスケ ットボール、掛け算パズル、言葉遊びなどした。 2/23「椎茸の植菌(駒打ち)の体験学習」小・中合同50人が1人1本のクヌギ原木にドリルで(駒を打ち込むための) 穴を掘り、その後、穴に駒を手で打ち込んだ。  「50本の原木は小学校で大切に管理され、秋の収穫を待ちます。」と締めくくってあった。 校庭の芝は枯れ果て、半袖短パンの体操服姿で手袋らしき白い塊が少女の影の外にちょこんと置かれてあった。皆、素手で 無心に作業していたのには驚いた。   3月4日は「第2回 尾八重・有楽椿まつり開催」尾八重神楽が披露され、地場特産品の即売など大盛況の様子だった。   (つづく)

 JUKIミシン (2007.2.20)

 昨夜は零時過ぎてもテレビをつけていた。41歳のボクサーをカメラが追っていた。「現役に拘る彼の信念に感動 と勇気を貰っています」と応援し続けているご夫婦がインタビューに応えていた。ご夫婦は仕立て屋さんだった。” JUKI”という金文字がハッキリ読み取れた工業ミシンをご主人が踏んでいた。遠い昔、母が夢中で踏んでいた家庭 ミシンもジューキミシンだった。  母が28歳の春、ミシンがやって来た。セールスマンはネクタイをしていた。廊下にミシンを据えて実演してみせ くれた。軽やかな音とあざやかな仕上がりに明治生まれと昭和生まれの三世代一家は驚嘆し拍手した。母だけがミシ ンの構造について質問をしていた。古い”てぬぐい”で試し縫いをした。ミシンを起こすところから針の取り付け、 糸の巻取り、下糸と上糸の調節、糸目の最小から最大まで試し、直線縫い往復縫い廻し縫、糸の始末をしてミシンを 収めた。セールルマンはそれから2度ほど実演にやって来た。売るほうも買うほうも必死だった。  置き場所は南に面した縁側の戸袋のある所だった。使うときは明るいほうに移動して踏んでいた。野良着のままで 踏んでいたこともあった。終わると必ず針を外して専用のカバーを掛けていた。厚地の黄金色で房も黄金だったから 学校のオルガンの黒いベルベットのカバーよりもうんと立派なものだと思っていた。母は家事の合間に『婦人雑誌』 の服飾パターンを見ていた。雑誌や本は親戚の先生からお借りしたものであった。きちんとサイズを測ってから型紙 におこしていた姿を覚えている。  一番最初に縫いあがったのは、私と妹のチョッキで父の学生時代のマントのリフォームだった。デザインは襟なし のボックス型で着丈が短かった。裾ポケット二つ。真っ赤な大きなボタン三個。流行のギャザースカートに似合って いた。次はブルー系にピンク系の花柄の七部丈ブラウス。袖口に平ゴムが入っていてフリフリが嬉しかった。共布で 母はワンピースを。ブラウスに無地の大きな丸襟がついたときは赤と黄色と緑の糸のお花の刺繍がしてあった。 (糸はほぐした布団糸か?絹糸だったか?刺繍糸ではないと思う)スカート、シュミーズ、水着は地味な小花模様だ った。腹巻状態に平ゴムが縫い付けられていたのでその部分がとても気に入っていた。木綿なので水から上がると乾 きが遅いのでいつまでもじゅくじゅくしていた。当時は花柄よりも水玉模様が流行っていたがみんなと違うことが嬉 しかった。    夏は浴衣、冬はネルの着物を縫ってくれた。母はだんだんミシンの達人になってきていた。既製の服をみてパター ンをおこしもできるようになっていた。上質の布や発色のよい柄物は到底買えないので安価な木綿とネルをデザイン でカバーして楽しんでいたのだと思う。家にある古布や古いスーツや着物などのリフォームのセンスは光っていた。 (今にして思えばであるが・・・。) あの時分、保証期間というものがあったのだろうか?。町から往復250キロの村に「メンテナンスサービスの お伺いです」というような電話があったとは思えない。相談窓口に電話をしたところで間に合わない。  「何事も間に合わない!!」という強迫観念は普段の健康管理にも危機管理にも繋がっている。インターネット は、この村にはまだまだ間に合わない。ダイヤルアップ接続なので間に合わない。クーリングオフは買った責任で 断念するというくらい自己責任が強い。ジグザグミシンが出てきても気持ちは動かなかったそうだ。ジューキの部 品が調達できなくなるまで使い切った。母は今、卓上電気ミシンで自身の所属する老人会に雑巾や袋などを縫って いる。

 唐辛子 (2007.2.17)

 小一時間ほど経ってボールを覗くと、切干は思っていた以上に量が増えていた。干ししいたけと人参と揚げを 入れて煮物が出来上がった。余った切干は三杯酢に漬けてはりはり漬けもどきにすることにした。唐辛子の種を 取り除き一緒に漬け込んだ。手に張り付いた種を振り払ったら頬っぺたにくっついた。手の甲で払おうとしたら 目の近くに移動した。つい、人差し指で触れたら目に!!キイイイ〜ッツ鋭い痛みが走った。”カライ痛み”に 涙が出てきて一層痛みがカライ!!。  私は、生後10ヶ月の頃に7度の大火傷を負ったそうだ。その日は、一家総出で田んぼで作業をしていて、子 守を隣のお兄さんがしてくれていたのだそうだ。私はこのお兄さんにとても可愛がられていたそうだ。囲炉裏の 傍でなにか食べていたお兄さんが「アーンして」と私に「アーン」したときにころんと囲炉裏に落ちたのだそう だ。お湯をかぶり熱い灰の中に体を沈めたのでお尻と右腕が無傷だったそうだ。  当時、村には内科専門の医師がいた。人柄も技術も素晴らしくて村人の神様的存在だった。医師の第一声は、 「失明するかも・・・障害が残るかも・・・」だったそうだ。父は、なんとしても生きらせるぞ!!と泣いて叫 んで家に連れ帰ったそうだ。その日から約2週間、父と母は睡魔と闘うために目に唐辛子をすり込んで交代で看 病し続けたのだそうだ。看病のおかげでケロイドにならずに済んだ。小学校の入学式に上等の革のランドセルと 革靴が届いた。お兄さんからのプレゼントだった。得意顔で写真におさまっている私がいた。

 FUNDOSHI 褌 ふんどし (2007.2.1)

ふと浮かんだ。友人が描いている絵の中の雲をみたとき、褌(ふんどし)が揺れたのだった。岩にぶつかる波、 大きな岩、岩の上の木々、向かいの山、広い海、青い空・・・それは遠い記憶の断片を繋ぐモチーフとなって海 面を漂っていた。  小学3年生の春、男の子と2歳違いの女の子の兄妹が転校してきた。男の子は私と同じクラスで地区も同じだ った。昭和30年代は全児童数の数がもっとも多かった頃で、他にも転校してきた子供たちがいたがみんなたちま ち仲良くなった。私はその少年のまあるい顔とニコニコ顔が可愛いと思った。男の子の家は、川の近くにあって 上の道からは屋根しか見えてこなかった。急な坂を駆け下りると庭が川に迫り出していた。洗濯物がいっぱい干 されてあってきれいだった。  金太郎が大人になったようなおじさんが居た。柔らかいお餅のようなおばさんが居た。男の子も女の子も居た。 「こんにちは〜」「オウー」太い声でおじさんが近づいてきて握手した。その力のすごいことに驚いて手を抜こ うとしたがまったく動かない。”人さらいされる〜”と怖くなってうつむいた。おばさんが頭を撫でてくれた。 男の子と女の子は手をたたいて笑った。そしてみんなで笑った。おばさんの手作りの団子は母の味とは違う新し い味だった。  夏が来た。ある日、「オーウ コッチコーイ! オモシレエモンバー ミセチャルゾーーー」と川から声が上 がった。私と男の子は素足で川に下りて行った。アチチチー小石が焼けている〜ピョンピョン飛びして近づくと おじさんはふんどし姿で仁王立ちしていた。手にチョス(魚を突く手作りのヤリ)を持っていた。私はおじさん のことを、のこぎり達人、薪割り達人と密かに尊敬していたので今度は魚採り達人だあー、と思ってワクワクし ながら次に起きる歓声を期待した。 「イイカア− ミチョケヨーー」スタンバイするおじさんのお尻はぴかぴかしていた。おじさんが大きな石の下 を覗き、!!はらり〜〜〜〜 白い帯が流れて行った・・・。幾筋も白い細長い布が視界から消えるまで漂って いた。  子供たちの目には褌は清潔でかっこいいものだった。筋肉隆々の男の大人にとても似合っていた。しかし外れ たあとの印象は全く違って思えた。子供心に見てはならぬものを見てしまったという申し訳なさがあって悲しか った。おじさんは豪快に笑い、男の子も笑った。おばさんはヒクヒク笑った。また団子を食べた。着替えていつ ものおじさんに戻ってまた竹の貯金箱を作ってくれた。    5年前、村のお祭りで男の子とおばさんに再会した。彼はおじさんにそっくりだった。声も笑顔も体格も。 「結婚が早かったもんで孫は5人おるとよー」と豪快に笑った。おじさんは亡くなっていた。とても幸福な人生 だったと。                 少年の石飛びわたる春の谷   くろまめ

 思い出す小中合同運動会。嗚呼!あのときの父が入院した  (2006.12.26)

 昭和30年代、村には子供たちがあふれていた。文化のない貧しい村に明るい声が満ち満ちていた。学校の行事には どこの家でも一家全員が参加した。運動会は小・中合同大運動会だった。分校の子供たちも参加した。教師と生徒の真 っ白な体操服が紺碧の空に反射していた。お年寄りの観覧席は雛壇だった。半分は紋付羽織の黒い塊に見えた。銘々が お重箱に稲荷寿司、巻き寿司、ぼた餅、団子、柿栗みかん梨ぶどうなどの豊かな秋の実りも包んでいた。全員参加型の プログラムなので羽織を脱いで袴の裾を上げて走った。誰も転ばなかった。圧巻は地域対抗リレーだった。私の地区は ダントツに速くて毎年優勝した。私は放送係りだったのでマイクの前で声援を送った。「威風堂々」という言葉を知っ た。  応援合戦は戦国時代を思わせた。父は旧制応援部だったことでメアガッテ(調子に乗って)グランドの中央に出て来 て音頭を取った。日の丸の扇子、日の丸印の長い白鉢巻、赤たすき、笛、羽織袴に高下駄のときもあり学帽の時もあり 、腰にはお決まりの手ぬぐいがぶら下がっていた。私はそれでもマイクで「引っ込んでくださ〜い」とは言えなかった。    応援歌は、「♪銀鏡神社の神主がおみくじ引いていうことにゃ〜今日の運動会は白組の勝ち勝ち♪」というように親 しめる歌もあった。 メアガリ父が(米良の言葉でちょっと調子に乗っているというような感じ)入院した。  大祭が済んで翌17日の午後7時、ヘルニアの痛みに耐えている父を見た銀鏡神社の神主さんが救急車を呼んでくだ さった。救急車が到着するまで1時間、搬送先病院まで2時間かかった。家を出るときの血圧は180だった。病院で 待機している間、お神楽を舞っていたときの父に感じた“死”を覚悟できた。母は父が舞う時間帯にカラスの集団が家 の前にいるのを見て大変心配していた。隣家の人は、父の祖父が夢枕に立ったそうだ。祖父は40年前に亡くなってい て以来初めての祖父の夢だったそうだ。村の人たちは「もう亡くなる」と思ったそうだ。  日頃父は台所をウロウロしながら作り置きの唐揚げなどカラスの好物を取って行くので、母に盗み食いをした子供並 みに叱られていたそうだ。外に出て向かいの山に♪カアーカアーと叫ぶとカラスが即答して餌をもらいに飛んで来るの には惚け爺さんか鷹狩りのようだったそうだ。その父も27日は退院予定。家族はまたひとつ心配の種が増えた。                 寒烏V字の谷に社家のあり   くろまめ

 「銀鏡神楽」2006  (2006.12.24)

 家の前のメタセコイアはひと月遅れて紅葉していたが幹がやせ細って見えた。そして枝の隙間からは痩せた山肌が見えて いた。朝霧はゆっくりうえに上がってなかなか晴れなかった。なにか不吉な予感がしてきてならなかった。午前10時を過 ぎた頃、雨が降っていた。 この日、12月14日は村のお祭だ。この日までどれほどの時間をかけて舞の練習をしてきたことだろう。勤務を終えてか ら夜に集まり練習をしてきたみなさんのお気持ちを思うと背中が寒くなってきた。幸いにこの雨は生温かいやわらかな雨だ ったので止むことが予想できた。しかし神事の執り行われる銀鏡神社に移動するのに歩いてゆくわけだから大変だ。道のり は約2キロのところをわずかな距離だけがアスファルトなのだ。ぞうりと足袋の替えを持って行列は発った。午後4時、ほ ら貝が谷間に響いた。  プロ、アマチュアのカメラマン、お面の研究家、郷土を愛してやまないこの日に合わせて帰省してきた人たちが後をつい て行った。猿や鹿や狸たちも見送ったことだろう。私は行列が村の橋をひとつ越えたところで家の中に入った。白南天がや けにさびしく見えた。今年は村の家々に不幸が重なったと聞いた。入院された方、お亡くなりになった方々が多かった。老 齢化が進み神事はより大事に継承されるようになってきた。雨はやはり止んだが、神屋にビニールシートを広げ、その上に 筵(むしろ)を敷いた。天蓋(てんがい)の上にビニールシートを張った。神に奉げる猪の頭は5,6頭に見えた。   12月12日から16日にかけて執り行われる銀鏡神社大祭の前夜祭がいよいよ始まった。式33番の舞はこれより15 日の朝にかけて徹夜で舞い通されるのだ。・・・続く まんさくや谷に三社の御神面  くろまめ

  八十爺の小槌と孫の手・・・銀鏡と繋がって(2006.11.20)

 16日、快晴。ベランダからお花屋さんを見るとお客様が続々入って行った。飼い犬のご機嫌の良いこと。  ”この客何の客って感知できる”名犬なのだ。私はこれからお出かけ、久しぶりにスカートを穿いた。そんな中、宅 急便が届いた。arisanからの小包だった。  私とarisanとの出会いは、arisanのお父上の短歌集『八十爺の路傍の草』を読んだことからだった。どうしても感想 をお伝えしたくてメールをした。お父様の短歌の中に私の故郷が詠み込まれていた。故郷は、春から初夏にかけて、そ して晩秋の頃がとても美しい。冬には氷柱が下がる。霜柱を踏んで学校へ通っていた。夏は川や谷で泳いでいた。日照 時間が短い。冬と夏は気温が極端にアップダウンする。歌は春から秋にかけてもっとも詠われているように感じた。お そらく3000首以上それ以上詠まれているのではないだろうか。感動で胸が一杯になった。  arisanのブログのリンク集「八十爺の気まぐれ 工房」のなかで次のように”父”を語っていた。 「持病と加齢から体力が落ち、自由な遠出が叶わなくなり『することがねえ』と口癖の父が、ここ数年小物作りに凝っ ている。某健康誌の記事を参考に、廃材を使った木槌を作った。シンプルな小槌はそのうち、表面にカラー糸を丹念に 巻き、カラフルな小槌になった。やがて真鍮製の釘を打ち、幾何学模様の派手な小槌となった。それでもなお改良の余 地ありと、その釘山を広げ、梅の花に見立てた柄入に仕上げた。こうなると少々やり過ぎの感ありだが、ああでもない こうでもないと、日がな一日にわか工房に座る。無名な年寄りの自己満足に他ならないが、地元のTV局も取材に来た 小槌作りは身内のひいき目でみてもユニークかなと思う。難聴が進み、電話の会話ができなくなったここ数年は、言葉 遊びを交えた愉快なファクスが届く。物事を深く見つめ、意外と繊細な父は『ものを書くことで、心を整理できるんだ』 と言い、日記代わりの短歌などを綴る。そんなつぶやきを少しずつ紹介する父のページです」と。 そしてお父様のお写真が載っていた。    小包を開くと美しい小槌と棒が現れた。「棒は背中を掻くのにどうぞ」と優しい文字で書かれてあった。 棒の先には500円玉サイズほどのアルミが通してあった。もうひとつの方は、5円玉そのものが通してあった。 この丸い縁で掻くと気持ちがよさそう。早速使ってみた。どちらの縁も当たりが優しい。血行が良くなると思った。 痒いとき痒くないときもこれはいい!!。しかし、あまりにも美しい。 「小槌は足の裏をトントン叩くのにどうぞ」ということだった。トントンやってみた。これは勿体無い!!と思った。 帰宅した夫にも使ってもらった。夫はいわゆる孫の手がないと困る体質で必需品である。やはり勿体無いと言った。 でも使わなければもっと勿体無いのではと私たちは思った。トントン、カリコリ、トントン、カリコリ この冬の血行促進に大いに活用しようと思った。使うときだけ壁から外して、指定席は白い壁と決まった。        郷愁の募る思いを断ち切りて哲学の書を繙きてみる        諸人に踏まれて生きる路傍の草枯るることなく花の咲きたり        鶴の舞う形に似たる寒ランの花優雅なる香り漂う        三日月を拝みてありし亡き父の面影浮かぶ三日月見れば        山間の蔭りも徐々に濃くなりて冬の日早も夕暮るるかな        天性の器用を背負い生まれしは一代この身の幸とぞ思う        障害に硬ばる手指解しつつ寒夜の床にまどろみており        赤ヘルの乙女香りを振りまいて吾が横を抜け遠くなりゆく        見た夢の数多の物を叶えつつ年老いゆくも尚を夢見る        出征の決まりし彼の日忘れざり山桜花の散る絵描きしも        生け垣の樹々の間に紫陽花が玄関覗く形で咲けり                      『八十爺の路傍の草』短歌集より 

 銀鏡の鍛冶屋さん(2006.11.5)

 「まんまテットォ〜まんまテットォ〜」3歳に満たない妹が田んぼで作業している皆に 「お昼ご飯ですよ〜」と声をかけていた。妹の手を引いた曾祖母の顔もコロコロとしてい た。真っ直ぐにのびた30mほどの道を嬉しくてたまらないといった調子で歩きながら繰り 返し呼んでいた。  道の傍らに村に一軒の「鍛冶屋さん」があった。我が家と同じ敷地の中にあったので親 戚とばかり思っていた。私は小学2年生だった。学校から帰ると鍛冶屋さんに入り浸っていた。 隅っこにしゃがんでじ〜〜っと見ていた。おじさんは二人いた。火がごうごう燃えるのを見て いるとワクワクしてきた。フイゴの風の音が地中から吹き上がってくるように感じた。火花が 散った。辺りもおじさんたちの顔も真っ赤になってどんどん赤くなって橙色になったり黄色く なったりまた赤くなったりした。おじさんが真っ赤な塊を出すと私は額が痛くなってきた。 おじさんが叩くと塊は一瞬灰色になって少しずつ赤みがうすれていった。水に浸けるとジャー ンという音が冴えて聞こえた。私は両手を地面に突いて立ち上がりたくなってきてよく叱られた。 次はどんな形の物を造るのだろうかと想像しながら見ていた。一人でおじさんたちの仕事を見る のが好きだったから誰も誘わなかった。  父、母、祖父母、曽祖父母は黙っていたがここに来ていることを知っていたのだそうだ。 どうも私は妙な子供だったようだ。おじさんたちは子供の私が怪我をするのではないかと心配 していたのだそうだ。時々もらった大きな飴は、口の中で転がらないサイズだった。声も出せ ないし動くと飴が張り付くのでじっとしていた。  あれは私をおとなしくさせるための策だったのかも知れない。二人のおじさんは黙々と働いていた。 鉄を叩いて裏に返して形を読んでいたのだろう。そのときの目はとても鋭く見えた。汗がすごかった。 ねじり鉢巻が濡れていた。タオルが黄色くなっていった。汚いとか思わなかった。もうめちゃくちゃ かっこよく見えたはずなのに日記に「赤鬼さんが金棒を振り上げている」と書いていた。  鍛冶屋のおじさんのお母さんは(ご高齢に見えた)盲目だった。着物を着て前掛けをしてきちんと 正座をして縫い物をされていた。針に糸を通すとき舌を出して舌の先に垂直に針を立てスイと通して スイスイと縫っていた。私はこの手品のような技もジーッと見ていたのだった。誰にも似ていない品 のよい方だった。「もう一回してみて〜」とお願いしていたのではないだろうか。  夏、おじさんたちが井出水の流れているところで顔を洗うことだけが嫌だった。友達とメダカ掬いを するために堰止めているところに顔をつけてゴシゴシ洗うおじさんたちの後ろからじーっと見ているだ けだった。前の道に出て、深呼吸をしている時のおじさんたちは気持ちがよさそうに見えた。川幅は広 いが岩が多いため流れが急であったので水の音がどんなに気持ちよかったことだろう。山は青々として いて岩肌などひとつも見えなかった。猿や鹿やイノシシも平和に暮らしていた。    おじさんたちはいつごろ村を離れていったのだろうか。作業場と住まいのあった場所は、母の畑になり、 フイゴのあった所は堆肥でこんもりとしていてガスを抜く筒が立っている。「まんまテット〜」と妹が呼 びながら通った道も畑になっている。水路とたんぼは3年前の大雨ですっかり流されてしまった。果樹も 花木も流されてしまった。コンクリートの大きな筒が継ぎ足し継ぎ足しの継ぎ目をあらわにして川に伸びている。                       煮凝りや忘れかけたる人に合ふ   くろまめ 

 同級生の訃報 (2006.9.21)

 中学校の校庭の松の木のことを書いたが、あのときに浮かんだ同級生の訃報が届いた。 「相変わらず生意気な顔ばしとるなあ」と賀状をくれた富士夫さん。  8月に亡くなっていた。  富士夫さんは次回の同窓会をとても楽しみにしていたそうだ。  必ず治ると信じて抗がん剤、放射線治療を何回も受けたそうだ。  「9月17日故郷へ納骨に・・・」と結んであった。  わたしたち同級生は小学校から9年間一緒だった。山の子供たちはみんな貧しくてみんな仲 良しで学校が楽しかった。広い世界をなにも知らなかったから比較することをしなかったから 村の端から端が広い世界だった。遊んでも遊んでも日が暮れるまでまだまだ遊べた。春夏秋冬 一生懸命遊んだ。家の手伝いも遊んだ。なんでも遊びに変えれる知恵を持っていた。  2003年6月に同級生3人(私、つよみちゃん、三千代ちゃん)と旅をした。旅の終わりに三千 代ちゃんが富士夫さんとケイタイで話をした。私もつよみちゃんも彼と話をした。私は難聴な のでとても困った。彼の関西弁の語尾だけが残った。  それから1年後、ケイタイでいちばん長く彼と話をした三千代ちゃんの訃報を私は富士夫さ んにメールで知らせた。とても驚き残念がっていた。それから間もなくして「東京にいくかも 知れないのでそのときは同級生たちと会いたい」とメールがきた。  しばらくしてから「東京へは行けなくなりました」とメールがきた。  また会えるから、またそのときに、という気持ちであっという間に年を越していた。  昨日、矢も楯もたまらず富士夫さんにメールをした。それが・・・まさか・・・まさか! 「思う気持ちばかりではいけないなあ。ノックしよう・・・」友人のarisanがブログでつぶや いていたことが浮かんだ。  或る日「難聴てかいなあ。しょうないなあ〜」  富士夫さんがメールしてくれたときは病室からだったとは。彼とは話しらしい話をしていない。  会いたかった!   (2006年8月永眠。享年54歳)

 東京で後輩と再会! (2006.9.10)

 6日、中学時代の後輩たちと40年ぶりの再会をした。このプランの発起人河野武房さんが先に来ていた。 おしゃれな雰囲気の紳士が片手をついてこちらを振り向いた。  「まあ〜 武房さんじゃな〜い?」  「お元気〜」  「おう〜ゲンキドォー」  もうこれでバッチリ近づけた。  これまでのあれこれ、あの頃のあれこれが入り乱れて混ざっては飛んだ。操縦する者のいない話の運行は ほろ酔い気分をうんとうんと長持ちさせてくれた。  遅れてもう一人の後輩、那須省一さんがやって来た。 「帰ってきたねー乾杯!」 「すごい歳月じゃねえ〜乾杯!」  刷りたて英字版の”号外"(秋篠宮家男子誕生)を持って現れた新聞社勤務の省一さん。 「お疲れ様〜乾杯!」  私とあつ子@カナダさんはお店までタクシーで行ったのだった。  雨も降っていたので運転手さんに行き先を告げたら 「すぐそこですよー。そこのそこのその先ですよー」と指し示す辺りは見える距離だった。 「ドライブしましょう」とお願いし店の裏を大きく回り路地に入って広い通りに出で降りた。  凝縮も凝縮のドライブ。面白かった。  武房さんが選んでくれたお店はホテルから近いという理由以外に特別な気持ちが込められていた。掘り炬燵、 宮崎の地鶏と焼酎の旨いことで有名な木造りの粋な店。カナダに30年暮らす彼女が東京で故郷の味と故郷訛 りを思い出し、ゆるやかな時の流れも同時に味わうことができたらいいなあという心遣いからだった。    私は中学時代の写真を出した。それぞれの記憶の断片が線になり大いに笑った。  写真の背景の松の木のことを武房さんが懐かしそうに見ていたが私にはどうしても思い出せなかった。部活は 武房さんが剣道部。省一さんが柔道部。私はテニス部、あつ子さんがバレーボール部。彼女はお人形さんのよう に可愛らしかったが強かった。可愛らしさの片鱗は会話の度に目元口元に現れていた。  彼らは新校舎卒業の一期生だそうだ。  私は旧校舎の古い古い木造校舎から卒業して行った。・・・休み時間、旧校舎の廊下にパラパラと出てきた中 学生たちが校庭に飛び出して来るのがみえてきた。昼休みは中庭でバレーボールをしている。鉄棒をしている。 石蹴りをしている。教室に戻るとき中庭の隅っこの水道の蛇口をひねって手足を洗っている。パタパタ廊下を駆 けて行くゴムのスリッパの音が消えた行った。後輩も彼女も生徒会で活発だった。私はわけの分かることにも反 抗していた。イカンばい。  今日になって松の木の場所が浮かんできた。中庭にテニスコートが一面、その向こうの空が広がる辺りにバレ ーボールのコートが2面あった。松の木は境界としてあったのか?木の後方には針金のネットだったか?竹の柵 だったか?壁となるところの中央部分に松の木は立っていたような・・・。土煙が上がる日は薬缶の水でオバQを 描きながら水を撒いたものだった。M.Hちゃんもこの水絵が得意だったなあ。コートに入ったボールを松の木を避 けて投げ入れ合った。根方の土が風にさらわれてヒリヒリしているような赤い砂はザラザラしていた。    冬になると、松の木のある校庭に大きなドラム缶が置かれていた(と思う)。 私と誠二さんが当番の日、「みんながよーあんたのことを『めあがっちょる。好かんおなごじゃ〜』っていっとる けんどよー僕はそげんことおもわんばい」と慰めてくれた。8年くらい前の同窓会で欠席をしていた男の子から届 いた年賀状に「相変わらず生意気な顔ばしちょるなあー」と大きな文字で書いてあった。    このたびの再会で故郷の活性化はどうすればなっとかなあと話題になったとき、標高400m〜600mの村が縮まな いようにと願わずにはいられなかった。それぞれの魂の故郷、ここは宮崎県西都市銀鏡(しろみ)である。              法螺貝の谷間にみつる里神楽   くろまめ    

 西米良村・村長の言葉「おじいさんおばあさんは家の誇りです」 (2006.9.5)

 宮崎県西米良村の村長の言葉に感動した。「ほおずきとゆずの中武ファーム」のHPに昨年の「敬老会」の 様子が写真とコメントで紹介されていた。私の故郷はすぐお隣だ。この村と行事や長老様を敬う気持ちなど 同じなので心が温められた。「子供は家の宝です。お母さんは家の光です。お父さんは家の柱です。おじい さんおばあさんは家の誇りです」と村長は50代半ばに見えた。少子化と過疎化と高齢化をマイナスに思わ ない自信にあふれた希望の言葉だと感じた。  先月読み終えた『小説 島津啓次郎』榎本朗喬著は、明治の宮崎旧砂土原藩藩主の第三子の話だった。 いつの時代もそうであったように少年は現体制に古さを感じ世界地図の小さな一点をぼんやり見ては果てし ない広い強い力に押しつぶされそうになっていたようだ。アメリカ留学を5年体験し「人間平等と自由」が どれほど大事であるかということを形に描けるくらい理解して明治9年4月1日に帰国している。西洋の風 を地方の小さな藩に吹き込もうとする時代変革のうねりの中に青春を駆けていった彼、彼ら私学生たちはか つての村の青年団に重なった。  啓次郎は遊撃隊の総裁となり再び立ち上がり明治10年9月に死んだ。享年21歳。                         私の曽祖父は明治5年1月生。明治30年に三つの村の小学校校長をつとめている。「西郷どんを見たど」 と云っていたが「まあたぁ〜もう何回も聞いちょるよーほんとう?」と関心を持たなかった。それは本当だ った。明治10年7月、西郷隆盛は不利な形勢の中、人吉から宮崎に向かっていたのだった。西米良と東米 良の青年たちは遊撃隊士になっていたのだろうか。  『村史』にこう記されている。東米良は西郷軍に加担して77名の米良隊が勇敢に戦ったそうである。米良 地方第一の激戦天包山(あまつつみやま)の戦いは7月22日であったという。西郷どんは敗走の途中、東米 良のあるお宅に一泊されもうしたそうである。村の多くの男が軍用品の運搬などのために臨時徴用されたらし い。正規軍もいたらしい。人夫の賃金は、全部か一部かは定かではないが”西郷札”で支払われたようである。 官軍から「チャンは(お父さんは)どこいったー」と事情聴取を受けてハラハラしなさったおなごん(ご婦人) ひとたちがいたそうである。このとき曽祖父は6歳であった計算になる。 私の実家の裏には追い込まれた西郷軍の墓が何基かあった。恩師の本と、隣村の村長の言葉はイコールとな って曽祖父の時代あたりまで遡って知りたくなってきた。                新任の先生のゐて村祭り   くろまめ 

 『軍国少年日向タロー』榎本郎喬(あきたか)著 (2006.8.04)

  「タロー、気合い負けしちゃあいかんよ」  昭和15年、小学2年生になったタローの父親が教頭として転勤することになった。タローは元教師の母親に 連れられて父親と同じ小学校に転入した。この日からタロー少年の物語が始まる。  教室の外までついてきた勝気な母親は別れ際にタローをぐっと睨んで気合いを入れた。「タロー、気合負け しちゃあいかんよ。下腹に力を入れて大きい声であいさつすっとよ。分かったねー」それでタローは敵地に乗 り込むような緊張した気分で教室に入った。「日向太郎でーす。○○小学校から転向してきましたあー。どう ぞ、よろしくお願いしまーす」タローはどきどきしながらも、教室中に響き渡るような大声で自己紹介をした。 一瞬、ざわめきが起こった。自己紹介した後、腹が据わったタローは教室中を眺めまわした。教室中の好奇の 目が教壇の上のタローに注がれた。(第一章、転校より抜粋)  私は一気に引き込まれて読み進んだ。女の子の目と男の子の目は違う。男の子同士は”力比べ”が必ずある ものだと分かる。昭和15年太平洋戦争勃発の頃ならこの睨みあいは激しく態度に出ていたことだろう。案の 定そういうシーンが出てきた。漱石の『坊ちゃん』と重なる爽やかな反骨精神のタロー少年の態度は痛快でな らない。思わず応援している女の子の私がいる。肥後の神(ナイフ)で格闘するあたりはドキドキした。喧嘩 して成長して行く少年タロー。遊びは科学する心はあってもモノが揃わないから結果笑いになって行く。戦中 の過酷な環境下にあってもメチャクチャ明るい。食が乏しくても健康だ。海軍を夢見て少年はうっとりする。 その頭の中は勇壮な軍人となっている。タローのはっきりとした目標に対して両親は否定しない。「そうか」 と云って話を聞く。隣人たちも見守っている。少女たちは清廉で美しい。周囲の大人の女性に学んで成長して 行く。少年少女は戦中から戦後にかけて青春をすべて国家に向けひたすら向けている。現実を一生懸命に生き ている。タロー少年はどの町にもどの村にもいたことだろうと思いながら読み終えた。    納得不納得と少年少女に深く考える隙を与えないくらい戦局は激しく・・・そして敗戦を迎えた。軍国少年 は文学へと目覚めて行った。次から次と新しい知識を文学書の中から吸い取って行った。(本文より)  著者は1932年生まれ。榎本郎喬(あきたか)  榎本先生は中学の恩師です。先生は、「戦争体験を風化させないために、戦中に生き、軍国少年となった少  年たちの生き様を今日の少年たちに伝え、戦争とは何であったのかを考えさせる縁にしたいと思う」と記さ  れています。  私は読み終えて今の若者たちのことを思った。モノがありすぎて使い分けが出来ない。流れてくるものを掬 っているだけ。どれもこれもと使う。そして飽きて捨てる。なにも生まれていない。想像力、創造性が育たな いのは苦労する必要が無いからか。愛も恋もプロセスを大事にしない、時間を保てない。結論を急いで大切な 人のこころを切り捨てている。痛みがわからないのか・・・。ばか者!!  昨今の新聞記事は少年たちの事件の連続に批評家が嘆きを書いているがそれを読みながらなんで?どうして? と思っていたものだが、この本に出合って答えを得たような気がした。来年から団塊の世代が700万人くら い退職し第二の人生を歩み出すがこれらの人に、「何がしたいか」とアンケートをとったら男女とも「ウォー キング」がダントツ一位だったそうだ。戦後金屑を拾ってお小遣いにしたという60歳の男性は自転車で旅を したいと言っていた。  私の父も軍国少年であった。学徒動員で「敵機襲来!!」と叫んだり起床喇叭を吹いたそうだ。この時代の 話をしたとき父は力を入れて涙を止めた。話は一度きりだった・・・。旅に出て美しい景色を双眼鏡で観る父 の足と肩は「敵機襲来!!」のポーズになっている。              遠き日の秘密の基地や草いきれ    くろまめ

 高校1年生 (2006.7.27)

 高校に行くのは家出の実現とも言えた。家出が出来たのだった!  下宿先は小学時代の校長先生のご自宅だった。私は毎日緊張で痩せた。テニス部に入部したものの町で 育った少女たちは長い髪を結ばないで美しいフォームで乱打して優雅だった。私は「水を飲むなー」って 叫ぶキャップテンの命令に従って真っ黒く干からびていた。髪をウサギの耳のように高くあげて結んでい た。  夕食は午後7時と決まっていたのでキャップテンがバイクで送ってくれたことがあった。「腰に掴まれ」 と云われても出来なくて砂利道に落ちた。手のひらと膝をすりむいて帰宅したら大騒ぎになった。  お買い物を手伝う時は自転車に乗れるので楽しくてと回りをした。上手に乗れなくてふらふらしても楽 しかった。スーパーでは珍しくてグルグル店内を回った。帰りが遅くなってよく叱られたものだった。  部屋は2階の小さな部屋で窓から校長先生の勤務する小学校のグランドが見えた。とにかくとにかく独 りになれる時間が嬉しくて面白かった。  私の前にこのお家に下宿していた男の子は美術部で油彩F10「花」を壁にかけて残していたので私は勝手 に外せなくて困っていた。机の真正面に飾ってあったのでそれは困ったのだった。先生も奥様も絵を褒め ていたが私はどうしても好きになれなくて困っていた。それでその上にA1サイズのタイガースのポスター を貼った。小型ラジオを同じクラスのIさんが「よかったら使って〜」と貸してくれたので(イヤホーンが ついていなかった)耳にくっつけて聴いていた。階下から呼ばれると音を小さくしていた。階段から落ち て、バナナの皮をむいたあの姿になってしまったことがある。先生が必死で起こしてくださった。階下は 着物着付けと和裁の教室になっていて生徒さんが10名くらいいた。香水のことを奥様に注意されている 人もいた。階下からなんだって聞こえるのだから面白かった。  テニスは1年の夏に退部した。学年の臨海学校は参加しなかった。下宿代も掛るので帰省することにし た。山に帰る4,5日前に大学生の息子さんが帰って来た。初めて見た息子さんは沢田研二(ジュリー) に似ていた。ある日、二人だけになり階下から呼ぶ声にすまして降りていったらカルピスを「ハイ!」っ て差し出してくれた。大きなグラスにストローが入っていてグラスには霜がついていた。グラスが落っこ ちそうになったが一気に飲んだ。ストローはくるくる回っていた。  「お替わりは?」って云われたが黙って首を振って2階に上がった。    銀鏡に帰ってからカルピスを同じようにして飲んだ。ゆっくりストローで味わったのだった。私の場合、 単に幼稚で単純明快な幼児性でしょうか。懐かしい〜〜〜〜            自転車で家出してみる夏休み   くろまめ

 宮崎日日新聞投稿欄「茶の間」を読んで (2006.7.27)

今朝も田舎の新聞をネットで読んだ。茶の間の蘭は故郷言葉が出てくるので朝のリズムのリハビリ になる。   今朝の投稿は『泣きたいとよ』。 中学生の娘の云ったこの言葉に「ハァ〜ッ?」と反応した投稿者(母親)。でも「自分はその頃どう だったのかなあ」と娘と向き合うあたりがなんとも明るくて楽しい。  昨日の「茶の間」は、『よんで、よんで』だった。 末の子に余裕を持って絵本を読み聞かせしている投稿者(母親)。今は自分自身がわくわくしながら 読んでいる。上の子供たちもわくわくしながら聞いていたのだろうか。暗誦している母親の声はどう だったのだろうか。あの頃もっと絵本を読んであげれば良かったなあとちょっぴり後悔している。親 が成長してから思うことは共通していると思えた。  さて、私の中学時代。7年前に同級生39名が集まって同期会を開いた。 「明るさがうらやましかったとよー」とUちゃんとMちゃんが私に云った。 「Kさんに好きって送るサインが透けてみえたとよー」とTちゃんが冷かした。 「あんまり変わっとらんなあ。太ったなあ」とSさん(男子)。  私にも「泣きたいとよー」の頃があったとよー。  涙が簡単に出てきて涙の顔が可愛いなあと鏡を見ていたとよー。  大家族の中の私ではなくて独りだけの私になりたかったとよー。  使われていない井出の細長い管の上にダンボールを屋根にして寝そべってノートに知っている限り  の悲しみを誘う言葉を書いてそして泣いたとよー。  そして疲れて眠ったりもしたとよー。    家出をしたくなってトイレに隠れたとよー。  匂いの強烈な田舎式のトイレで家出の方法を考えた。バスがそろそろ下ってくる頃だけれどお金が  全然無い。父の激しくノックした。そして外に引き出された。ワァ〜ンって泣いた。  反抗期とは違う、ただただ自分がそうしたくてそうしていた冒険・・・。つづく

 ほおずき・・・銀鏡の頃 (2006.7.04)

 七月の思い出は赤色に繋がる。金魚さん、金魚の絵の描いてあるブリキのちっちゃなちっちゃな ままごと道具。浴衣の赤い花や水玉模様さんたち。赤い鼻緒の下駄、肩上げの女の子の傍には、お 姉さんたちが居たなあ。お姉さんたちはほおずきをグーグー鳴らしていたなあ。    村のどこの庭にも畑にも緑色をしたほおずきがまっすぐに立っていたような?紫蘇の紫と少し離 れたところに植わっていたような? 青紫蘇と緑の紫蘇が隣り合うと緑は紫づいてきて美しくなか った。紫、緑、そしてほおずきも青かった。やがてほおずきが真っ赤に熟れて垂れ下がってくると そこの辺りは昼間は湿度を帯びた暑苦しさがあり、夕暮れ時は幻想的で体温が下がるような感じが した・・・。覚えている。それを両手に包んで高く持ち上げて透かしてみるともっと美しかった。 夕陽の色や夕焼けの色よりもっと鮮やかで素敵だった。沈咳、利尿剤として大いに役立ってくれた ほおずき。昭和30年代、子供にとっては時間がとてつもなく長かった。その頃の話である。  間もなく東京浅草観音の「ほおずき市」がやってくる。浴衣を着た若者たちでさぞ賑わうことだ ろう。私は今様の楽しみ方を知りたくなってウェブサイトを覗いてみた。  本日偶然に出合えたサイトの鬼灯は作り手の思いが画像の中にいっぱい感じられた。 下記サイトは、宮崎 西米良村の「中武ファーム」です。 ほおずき、柚子、お米など素晴らしいです。農園主の「だりやめ日誌」もおすすめです。 http://www2.shintomi.ne.jp/~nakatake/index.htm

『米良の子と婆』中武秋廣 著 (2006.6.17)

 友人たちと会うと必ず中学時代のクラブ活動の話になるのだ。学校(がっこう)を村の人はみんな ”グヮッコウ”と云う。小学校を、”ショガッコ”と云う。また、崩ゆ(くゆる)、転す(こかす)、 退る(しさる)、毀つ(こぼつ)、段(きだ)、背(そびら)、叫ぶ(おらぶ)という和語も自然に 使われている。またこの村の方言には独特なイントネーションがある。美しい響きと言い切っても他 に誰も否定はしないと思う。すぐ近くの町村とは異なる感受性から発した神秘的な言葉も数多い。言 葉は人が暮らしてこそ残るものであるから村の人たちは「昔からの言葉を残そうや〜いかんばい」と いう運動を起こしてそれを実行している。大人に限ってはテレビの影響は皆目受けていない。  中学校の先輩が平成9年に、「方言を使おう!のこそうや〜」という一念のもとに、村民の協力を 得て方言を収集し、一冊の本を発刊した。言語学者や民俗学者の耳にはおよそ届かない深い深い暮ら しの歴史がこの本に遺されている。  『米良の子と婆(ことば)』は、使っていたに違いない言葉をほとんど忘れていた私だったが、懐 かしい風景に出合うとふと言葉を思い起こさせてくれている。ほんの少し前まではこの本を書棚に置 いていたままだったが、同郷の人と交流するようになってからバイブルに変わった。微妙な感情がな かなか言い表せれない時、この本はすごい言葉を運んでくれる。そして淡い淡い匂いや音も運んでく れる。    背丈はあまり高くない・肩幅の広い・背筋の真っ直ぐな・丸顔の・視力のとても良い・銀鏡の人た ちの昔語りを、平成のケータイ時代に引き上げて大変素晴らしく編集されている。同郷の人にこそ紹 介したい本である。

 『米良の子と婆』中武秋廣 著 (2006.6.17)

 毎年12月になると夜神楽を観に帰省している。10日間くらい滞在する中でいろいろな出合が ある。祭りは12月14日と決まっているので勤め先に休暇届を申請して帰ってくる人にとっては 心苦しい点があるようだ。「親族に不幸が・・・」という理由を書いてきたが、同じ理由はね〜こ んどはなんちゅうて理由をいおうかと考えるとよー」と真顔で話す同級生に再会したことがある。    普段はとても静かな村がにわかに活気付いてきて夜ともなれば昼間の顔と違う顔ですれ違うので 互いが誰それと気付かないままのときもしばしばである。翌朝おまいりしてあの人この人と懐かし い顔を発見したときは、もう嬉しくて言葉よりも手のほうがバタバタ動いている。けれどもすぐに 近寄れない微かな距離を感じてしまうこともある。    「かえってきたとね〜」と電話が鳴る。  「かえってきたよ〜」と応える。それからプツンプツンと会話が続く。私は難聴気味であること を説明するが向こうは「そうね〜ふぅ〜〜ん、そんでねー」と返してくる。聞こえようが聞こえま いがどっちでもいいのだ。なにか優しいニュアンスが伝わりあって心地よいのだ。「今なんばしち ょっと?。」 「大根干しよー。切干大根を干すとじゃがー。忙しいと。土産にもっていかん?」 「また太ったよ〜恥ずかしいばい。たるみにシワいっぱいだし、もうたまらん。いやだよねぇ〜」 「まあ〜私もよ〜相撲取りじゃが〜ギャハハハハ」 「あのうちょっとまってね〜あえるかも〜」と言って母と代わると「そうば〜い。そうじゃが〜。 うんうん、じゃがじゃが〜。は〜いそれじゃ〜いうとくわ〜」カチャリ。  母の会話のリズムと結論の運びに毎度まいってしまう。間が空くのは方言が薄れていっているか らだろうかと思ったりもする。・・・つづく

 続・蚊帳のあった夏・・・銀鏡の頃 (2006.6.09)

 夏の夜は8時位からが面白かった。隠居じさん、隠居ばさん、おステばさん、ドンじさんたちの蚊 帳は重たくて緑色をしていた。私達の蚊帳は水色で裾のほうが白くぼかしてあった。入る時は兄の号 令に従った。蚊が入らないように上手に入るには最後に入る私に責任がかかっていた。蚊帳の長い裾 を右手に手繰り寄せて握って背中を包み込んで入り手を離した。蚊帳の中ではなにもしないうちから 可笑しくなってきて大きな笑いになっていった。お腹がよじれるくらい可笑しくなっていった。普通 の状況でなくなる不思議な世界だった。母は、五右衛門風呂の仕舞湯から上がってきた。青に白の花 柄の浴衣は柑橘類の匂いがした。みんなで入りやすいようにしてあげた。生ぬるい風が入道雲のよう にわいてきて静かになってまた笑った。母が横になるとみんなで横になる。天井にビニールのボール を転がして蹴り合って遊んだ。しりとりゲームはいちばん面白かった。文部省唱歌もよく歌った。父 はドカドカ近づいてくる。誰も蚊帳を揚げない。身長ほど揚げてちょこんと頭を下げて入ってきた。 すると荒々しい風が起きた。浪花節を歌う。「♪吹けば飛ぶのは誰や〜?」ちて母が笑う。みんなで 笑った。  時々じさんばさんのところで寝たこともあった。  「うそをつくと地獄にいくっちゃげなば〜い。先生のいわることをまもって正直にしとっと天国に いくっちゃげなば〜い」ちて始まる話は、いっぱい正直な人が出てきたのでいい大人がいっぱいいる と思っていた。祖母は頑張ってよく我慢して正直に生きて死んだ。綴っていた日記は天気と畑と田ん ぼのことだった。私達孫のことも書いてあった。  曾祖母は「バナナに蟻がいっぱいたかっちょるがぁ〜」ちて払いのけるしぐさを布団から手を出し てしていた。草刈をするしぐさもよくしていた。最期は「まこちきれいじゃ〜。牛車がとまっとるば 〜い」とうっとりと宙を仰いだ。隠居じさん、ドンじさんが亡くなってからはもう蚊帳は吊らなくな った。部屋の四隅には蚊帳吊りの金具の跡がある。  あの頃、自然の音に一睡もできなかった都会の人たちは、今は里の自然に浸りにやってくる。 「蛍狩り」「紅葉狩り」「きのこ狩り」ちて村も変わった。民宿、民泊は予約でいっぱいだ。                    縁側に父母のゐて夏座敷     くろまめ

 蚊帳のあった夏・・・銀鏡の頃 (2006.6.09)

 あの頃、庭に蛍がいた。家から見下ろすところには田んぼがあって道があって、その向こうに川が あった。向こう岸は田んぼと山。明かりは星と月と蛍。縁側で祖母と曾祖母が正座していた。蚊がい た。竹のうちわで浴衣の胸の辺りを扇いでは膝をたたき、肩をたたいていた。  私も兄妹も浴衣を着て縁側に居た。足の裏がキュキュウと鳴って乾いた。寝転ぶと汗が浴衣に吸い 込まれていってヒンヤリしてサラサラしてきてせせらぎが高く高く勢いよく聞こえてきた。生乾きの 髪の毛がゴニョゴニョしてきてそれは蚊が闇の中の細い糸と闘っているのだった。粗熱がとれてくる と兄妹とふざけ合ったものだった。 「あぶねえがぁ〜ほらあぶねぇがぁ〜ああ〜ほら!しんきなもんじゃ〜ほらほら あぶねえがぁ〜」 と曾祖母は縁側に片手をついて団扇で払った。それが可笑しくてもっとふざけたが誰も落ちたことは なかった。隠居ばさんは、三人の子供を幼くして亡くしてから実の妹を養女にしていた。子供が怪我 や病気になることを恐れていたのだった。  「蛍がとんじょるよ〜。きてみなーい。こっちの水は甘いぞ〜」ちて(と言いまして)祖母はゆる ゆる団扇を蛍たちに向けて仰いだ。先祖のお墓が庭先にあったのでお墓と蛍の関係がとても近いもの だと思っていた。    祖母はどくだみのような匂いがした。曾祖母はキャラメルの匂いがした。二人の間に腰掛けて私も 兄妹も足をぶらぶらさせて黙って蛍を見ていた。「ぼちぼちねんと」ちておステばさんと隠居ばさん は黄色い明かりの部屋に入っていった。 兄妹と私は蚊帳の世界に入っていった。  つづく・・・

「母の日」・・・銀鏡の頃 (2006.4.22)

 昔、かなり昔、私が初めて母にプレゼントした品物は、シャンプーとカミソリだった。 シャンプーは白い粉だった。香りはかなり強くて、いつまでもいつまでも匂いが残るもの だった。パッケージは四角い緑色で、今のシャンプーのサンプルのような袋に入っていた。 そして二袋続いていて中にミシン目が入っていて切り離せるようになっていた。もっと続 いていたのかも知れないが予算の関係でそうしたのだと思う。カミソリは今でもある婦人 用のカミソリでピンク系の柄がついていた。  ラッピングというおしゃれな言葉は当時聞いたこともなかったし、考えにも無かったの だと思う。そのまんまを習字紙に包んで、手紙を添えて母に渡した記憶がある。母はその とき28歳だった。嬉しい顔をして受け取ってくれたことも覚えている。村の店には子供 の目からみても美しいものは置いていなかった。けれども一生懸命考えた。母の日が近づ く数日間を一生懸命考えた。そして、母がきれいになるだろうと思って決めたのだった。  母は手作りのヘアーバンド(幅広、中、)をしょっちゅうつけていた。姉さんかぶりの ときはしていなかった。参観日の日には、いつものヘアーバンドとは違う黒と茶色のビロ ードのヘアーバンドのどちらかをしていた。まるで帽子の代わりのように。お化粧も念入 りで頬紅もつけていた。黄緑の手製のスーツを着ていた。まるで制服のように。左の襟に は銀色の花のような実のようなブローチをしていた。まるでバッチのように。靴は黒のビ ニール靴。エナメルなんてとんでもない経済だった。バックはバスの車掌さんの持つ形に とてもよく似た黒の皮革製品だった。えくぼのはっきり出る母は子供心に可愛いと思った。 他所のおばさんたちと話すときも楽しそうな顔は素敵に見えた。    カメラなんて贅沢品の時代に、村の分限者さんが集まりの時などによく撮って下さった ようで、その中に参観日の母の顔がある。そして同級生のお母さんたちの若い顔がある。 2,3人で写っていたり5,6人で写っていたりしている。母親同士が同級生の人とはもっ と仲良しさんの顔で写っている。背景は校舎の杉板の壁や二宮尊徳像だったり桜の木の下 だったりする。学芸会や運動会の写真は制服を着ていないが、ヘアーバンドはしている。  2回目の母の日のプレゼントは覚えていない。大人になってからはラッピングしたりメ ッセージカードを添えたり目録にしたり旅にしたり食事にしたり花や樹木にしたりと母の 嗜好を一生懸命考えてプレゼントをしている。受け取る母の笑顔は見れないが声は聞ける。 時々元気を知らせる写真が送られてくる。母は既製品のカチューシャをしている。帽子は ピンクのときもある。帽子の下にカチューシャをして撮っているのだそうだ。おしゃれご ころは健在だ。錯覚と勘違いで楽しんでいることは私と同じだ。

 「銀鏡神楽」2005 (2005.12.30)

    毎年、12月14日の夕方から15日の午前中にかけ、宮崎の山村で夜を徹して三 十三番を舞い納める神楽がある。祭りの終わりには幸御霊(サチミタマ)のイノシシ の粥が観客に振舞われる。白い息を吐きながら粥の湯気の中に顔をうずめて食べてい る観客の顔は紅潮してゆく。外国からのお客様もちらほら見受けられる。おかわりの 列に並ぶ人が多い。  今年は、しし粥の光景は見なかった。午前2時過ぎからすさまじい冷えを感じてと うとう続けて見ることができなくなった。駐車場になっている中学校まで数分なのだ が膝が伸びきって坂を上がるのに大変だった。しかし空は素晴らしく美しかった。月 の高さの高いこと!。兄と妹と空を仰いだ。夜の空は遥かなる宇宙となり一村を浸し てくれる。エンジンをしばらくふかす間、今夜の神楽の印象などを語り合った。  「照明の明るさが気になったなあ。」というのが一致した意見だった。カメラポジ ションはマスメディアの指定席になっていた。本来は、「神屋」(斎場)の四角い土 俵のような舞台に、むしろを敷き詰め、ていねいに綴じ合せ、注連縄を張って結界と しているわけだが、今年は注連縄の外に竹垣が無かった。また、一部未完成だが観覧 席の庇が短いために照明が天蓋に届いていてこの小さな穴から遥かなる宇宙が高く広 く筒抜けて行きそうに見えた。篝火は現代の照明に完全に負けていた。観客が暖を取 る薪のパチパチはじける音も負けていた。舞う人(「祝子」ほうり)の顔は照明に照 らされている。年々舞う人は年を重ねて行き継承が危うくなっている現状をしみじみ 感じずにはいられなかった。しかし、天蓋の真下の半畳のゴザの上で舞うお面様の舞 は照明が素晴らしく生きた。国の文化財と県の文化財に指定されているお面の形や色、 金糸銀糸の衣装の文様は薪能のように気高く神秘的に感じた。ゆったりとした動きに ゆったりと光と影が現れるからだろう。それでも私は、篝火だけの中で白装束の白足 袋の白い息の揺れ動く斎場だけを静かに静かに見たいと思った。  笛の音と太鼓の音は、まったく変わっていなかった。そして方言も里の蕎麦もいり こ出しの汁も変わっていなかった。サチミタマの猪頭は6頭並んでいた。里に下りて きたのであろうか。山に追われて行ったのであろうか。子供の頃、狩猟する大人の印 象はとても残酷で嫌だったが、今はこの神楽が猪とともに孫孫と受け継がれますよう にと思えるようになってきている。  15日、午後4時過ぎ、神々は散っていった。静かな村が残った。

 続・村に子供会があった・・・銀鏡の頃  (2005.9.27)

   学芸会と運動会は小中父母青年団が協力し合っ大イベントとなっていた。舞台の音響、 照明、背景の絵、衣装などは中学生と教師とPTAの手作りの発表会ともなっていた。観客 は村人全員出席。運動会の観覧席はおじいさんおばあさんの座るひな壇造りから始った。 紋付袴のおじいさん。着物のおばあさんたち。いっぱいお年寄りが見に来ていた。紅白に 分かれて2列縦隊の行進は圧巻だった。東西の赤組と白組が交差するときのドキドキ感を 忘れない。  先頭の主将、副主将の長い長い鉢巻の裾は土の校庭を均していった。小学1年生は後列 でもじもじしながらついて行った。観客は声援を送る。父は旧制中学の制服と学帽で応援 の旗を振ったり、三三七拍子で盛り上げてくれた。お兄さんたちの応援合戦はスターの競 演のようだった。ランニングシャツと短パンと小麦色の肌と丸坊主の頭を忘れない。  お母さんたちの踊りはおじいさんやおとうさんたちの目をを釘付けにしていたに違いな い。お母さんたちは平均年齢が35歳くらいだった。中学生のお姉さんたちの走りは爆弾 のような勢いがあって怖かった。お兄さんたちの足が長くみえた。フイナーレは地区対抗 リレー。村の青年団の人たちと小中学生の選手と速いと認められた父、母たちが混じって 本気で走った。わたしたちの地区はよく優勝をした。紺碧の空に万国旗が翻る「小中合同 大運動会はこうして終わった。  車はほとんどの家になかったのでみんな歩いて帰った。帰りの道々、今日の日のあれこ れを再演して大人たちは笑っていた。私も嬉しかった。家族に背負われているおじいさん おばあさんも笑っていた。 ♪コドモカイダ コドモカイダ ボクタチハ コドモカイノサダメヲ ツクリマショウ ♪コドモカイダ コドモカイダ オクタチハ コドモカイノサダメヲ マモリマショウ  子供会の歌を思い出した。あの頃みんな美しい目をしていたのだと思う。「みんなの 目がキラキラしています」と新任の先生はそのことを特に強調して言っていた。真実そ うだったんだろうと思う。 私たちは、夢や希望を具体的に描くことはできなかったけれども、子供会のあった頃は とても濃かった。

 村に子供会があった・・・銀鏡の頃 (2005.9.27)

   「2007年には団塊の世代が退職をする。」という見出しをよく目にする。あの頃、 山の子だった中学生のお姉さんたち。お兄さんたちは丁度そういう年頃だ。小中合わせて 350名くらいいたあの頃。お兄さんお姉さんたちはとても明るくて優しかった。わたし たち小学生の世話をしてくれていた。兄弟姉妹も多く家族は3世代で暮らすのが当たり前 だった。 「道徳の時間」(ホームルームになって今はどうよばれているのか?)に、先生が家族の 人数を聞いた。「9人の人は?」「はーい!」と半分以上が挙手する。「11人?」私ひ とりだった。お勉強の答えを言うときよりも挙手に力が入った。ひとり残るということが すごく誇らしかった。  あの頃のみんな今頃どうしているのだろうか。  毎月、第何週だったのだろうか。日曜日だったと思う。「子供会」は夜に開かれていた。 子供たちの顔が灯りに照らされてオレンジ色だった。会の場所は当番で回る。その家の大 人顔は赤かった。野良仕事のあとのダリヤメ(ご苦労さまの焼酎をいただく)のせいだっ たのかも知れない。幼稚園も保育園も必要のなかった村だったから小学1年生になると誰 もが祝福の言葉をかけてくれた。そして子供会に入会する。全校児童会とは別に地区ごと の児童会が開かれていた。学校で決めたことを同じ地区の中学校のお兄さんお姉さんたち に報告するのは「子供会」の場であった。あの頃の中学生は大きく見えた。態度がとても 立派で大人だったから私たちは素直に従った。縦の社会が自然とできていた。親の言うこ とよりもお兄さんお姉さんたちに従っていた。  私の妹の子供会デビューは斬新だった。テレビ時代の妹は、都はるみの「あんこ椿」を 大変上手に歌った。木の箱に上がって「アンコ〜〜」と唸った。誰の印象にも残っている らしい。お兄さんお姉さんたちはスクラムを組んでなにやら労働歌みたいな歌を合唱して くれた。地区の行事の担当の割り振りなどてきぱきと決めていくのでカッコヨカッタ。 ・・・・・・つづく

 山の子の夏・・・銀鏡の頃 (2005.7.10)

    私が泳げるようになったのは、小学1年生の夏休みだった。父が私を蛙のように水に浮かせて、 手脚をバタバタ動かすように言うので言われるままに動かしていたら進んだ。次ぎに顔を水に浸 けて手足をバタバタ動かすとかなり進んだ。もうこれでビギナーズレッスンは終了となった。  毎朝、小学校の校庭に集まってラジオ体操をし、出席の○印を子供会の会長(中学生)に押して もらい、家では「勉強中」と書かれた厚紙の札を縁側の柱に掛けて、宿題「夏休みの友」を学習し た。まとめて数日分を済ませた日などは、札を裏返しして「遊び中」にして同級生のツヨミちゃん 達の遊ぼうコールを期待したものだった。  午後1時に白旗が揚がる。水泳開始の合図だ!。ツヨミさん達が声を掛けてくれる。お家が我家 のすぐ上だったので、「オーイ」と下から呼ぶこともよくあった。男の子も女の子もみんな格好は 水着の上に簡単な服を着て、胴体には浮き輪をし、タオルを肩にかけ、川まで小走りだった。  家から約500mほどの距離にある川は「水神淵」と呼ばれていて緑色の水。水深2m以上もあ るところで中学生のお兄さんお姉さん達が得意になって素もぐりをしたり、崖から飛び込んだりし て華麗な技を競っていた。  川デビューからまだそんなに経っていない私たちは浅いところでウォーミングアップをしたもの だが、そこでおぼれる者が出たりして、監視役は(常時大人2名体制)居眠りなんかしていられな かったはず。    私は一度だけ溺れて中学生のフクオさんに助けてもらったことがある。それは、いい気になって 浮き輪をせずに向こう岸へ斜め泳ぎをして行ったら疲れて中休みがしたくなり立ったところが! 深かった〜。私はタツノオトシゴのように沈んでいったのだった。もがいてもがいて上がってプワ ーっと息を半分も吐けずまたズボズボ沈んで、またもがき、上がって、アップアップ。苦しかった。  おじさん達が私の顔を覗き込んでいたこともしっかり覚えている。鼻の奥がじんじん痛かった。 いつまでも痛かった。それからはなにがあっても大丈夫と自信がついてきていた。  流れの速いところでは浮き輪を上の方に投げて目測で飛び込む。浮き輪の中にスッポリ体が入っ たときの爽快感もしっかり覚えている。  男の子たちはチョス(竹にヤリの先をつけた手作りの道具)で魚を獲っていた。水中眼鏡をして いる子、していない子も川底にはりつく様にしてチョスを片手に持ち魚を追いかけている。その姿 を見ながら私はスイスイ泳ぐ。  女の子たちは、白い色の石や緑の石などを上流に向かって投げ、その石を拾いに川底を泳ぐ「石 拾い競争」の素もぐりのときは、ワンピース型の水着のふりふりがとてもきれいだった。    やがて小学6年生くらいになった頃、もう男の子たちのいる場所では休憩をとらなくなっていた。 大きく離れた場所の大きな石の隣のやや低い石の上で甲羅干しをしていた。耳の水を抜くために温 かい石を耳に当ててとっている女の子もいた。川の水はさらさらひんやりとしてあくまでも清流だ った。  川魚はいまでも食べれない。飛び込みはもう出来ない。石拾いの素もぐりはきっとできる。  村の子供会は地域別に夏休みの遊び計画を立てていたものだった。親子で参加する海水浴日帰り の旅はバスの旅。海の水は生温くて気持ちが悪かった。すまし汁の中に海草が浮かんでいるようだ った。波に任せて無抵抗に浮かんでいた。遊びのないぼんやりとした感じ。波の音も波の高さにも 最初は驚いたが、すぐに飽きた。  浜辺で貝を拾うのは好きだが、汐の匂いはいまでも好きになれない。やはり川が好き。                足裏の白さ自慢の川遊び     くろまめ

 東西の「母の日」 (2005.5.8)

 午後10時45分に娘より「無事帰宅しました。みんなによろしく!」と電話が入った。  午前11時、駅のローターリーを足早に近づいてくる娘を迎えた。車中では、毎日の食活のこ とや仕事の話など聞かせてくれた。桜の花の季節から青葉の季節になるまでのほんの短い間に、 親も子も変わっていくものだと話を聞きながら思った。それは私自身に重なり遠く離れて暮らす 両親のことに繋がっていった。そして、こんなふうに微妙な親子の境を越えてそれぞれの心地よ い場所探しをしながらゆっくりゆっくりと落ち着いていくものなのかなぁと娘の将来を想った。    交差点で車を止め、さて、どっち周りで帰ろうか?と後部席から問えば、「うーんこっち!」 って指す方向は住宅街。私は、田んぼと川を見ながらゆっくり家に向かいたかったが、少しでも 早く我が家へたどり着きたいのかもと思った。ハンドルを握る夫はなにやら嬉しそう。  コーヒーを飲み土産のケーキを食べながら話は続く。お風呂に入る。長すぎるのではと気にな って、夫、義母、私が声をかける。出てきた娘は「みんなそんなに短いの?」と。実際は1時間 くらいのお湯だったから爆笑。  今夜はてんぷら。自慢の腕を振るうのは義母。「何が食べたい?てんぷらが食べたい。」・・・ 日帰り帰省を心待ちしていただけあって、揚げたての味はいつにも増して美味しい。ワインを飲み、 普段の様子などまた聞いたり話したり尽きない。   「母の日ありがとう!」と受け取った包みはとても軽くて軽くて一体なんだろうかと想像してみ たけれどわからない。悔しいなぁ。当てたいなぁ。時間がかかり過ぎ。ウーーム。もう降参!  リボンを丁寧に解きながらまだまだ考えたい。「早くはやく」と声がする。見ると色合いもサイ ズも風合いもデザインも全部私好みのバック。早速入れ替えて使用開始の母の日となった。義母に は大きな変わり品種の額アジサイを夫から。淡いピンクの小さなお花も挿し木になるところも母の 好みと一致して喜んでもらえた。    「石鹸が一個なくなりかけた頃にまたおいでね」と見送った。なんとも歯切れの良い今日だった。  昨日は、実家の母から観葉植物のお礼の電話が入った。70数年も目に入るのは山々というよう な谷間で暮らす母に、部屋で観葉植物はどうかなぁと思ったが、母の好きそうなベンジャミンの大 鉢を届けた。「さっき着いたが。今夜はこれを見ながら夕飯を食べるのが楽しみばい」と。配達指 定時間は午前中でお願いしたのだったが午後6時過ぎ着とは・・・(ウーム・・・?)    「もしもし、午前中配達指定となっている母の日プレゼントを預かっていますが、3時頃まで待 ってからそちらへ向かいます」と配達係りの方から懇切丁寧なお詫びの電話があったのだそうだ。 なるほど〜 100キロ近くをたった1個の荷物を運ぶのには人的燃料的時間効率がさぞ悪いことだろう。その 時分、私はインターネットで伝票ナンバーを入力して追跡していたのだった。長いこと”配達中” だった。電話を切ったあと、画面を見れば、”配達完了”となっていた。         つり革の夏夏夏と夏に入る     くろまめ

 紙芝居のおじさんを知らない (2005.2.26)

 小学1、2年の頃、「道徳の時間」によく紙芝居を読んでもらった。  ”観たというより読んでもらった”という印象が強い。  この村では紙芝居のおじさんと呼ばれる商い人はやってこなかったので”街の空き地”での懐か しい話のことなどは知らない。教壇の机の上に立てた四角い飾り縁の舞台と舞台袖に手を添えた弁 士の先生が観客の生徒に向って「始まり始まりぃー」と始まっていった。  茂山久先生は22歳。生徒に一番近い若さとエレガンスファッションセンスと明瞭なお声の持ち 主で、今で言うなら民放のアナウンサーっていう感じの方だった。私は『ジャンバルジャン』がも っとも好きだった。入学当時は『桃太郎』『猿蟹合戦』『雀のお宿』『花咲じじい』などなど御伽 草子が続いていた。3学期にもなると『ジャンバルジャン』登場。レースや出窓や燭台や石畳など 背景がガラリと変わってそれはとても新鮮な驚きだった。私は夢中になっていった。劇団四季のミ ュージカル『レ・ミゼラブル』の舞台ような音響も照明もなかったが、あの教室での紙芝居の時間 は最高にワクワクしていたように思う。  『ああ無情』でもなくて『ジャンバルジャン』なのがいい。罪深き男はやがて更生し市長になる ところで話は「おしまい」。複雑な感情は子供なりに分ってきて涙が滲んでくる。そういった場面 での先生の声は少し低くなりあまり感情を入れずに静かに読んでくださる。物語の構成は登場人物 を極力少なくしてあって短い会話で展開するので会話を想像させ膨らませて聞いていたように思う。 絵の人物の表情を百面相のように変化させて観ていたように思う・・・。観客の想像力は何百枚も の長編にさせて拍手喝さいで「おしまい」となっていったものだった。  紙芝居がきっかけとなって、『漫画で読む日本伝記物語』を読んだりしたが、どうも湿った窮屈 な感じになり貧しいって悲しいなァという感じになったりしていた。ルビの振ってある「”西洋” の偉人伝」は、渇いた自由というか世間を気にしない明るさと希望が見えてきて読後感が爽やかだ った。貧しさと不幸は違うんだなぁとぼんやり感じていたような・・・気がする。    今日、図書館の児童書コーナーを見てみた。紙芝居が置いてあった。デジタルの世界で育ってい る子供達が借りていっているのかと思うととても嬉しくなった。赤いカーペットの敷いてある丸い お部屋で、母親が読んであげていた。子供は身を乗り出して聞いていた。  紙芝居は読み手から少し下がって座って耳で聴いて絵を観て次の次を想像させるスゴイものだと 思った。こどもらしいようすをみながらふと小学時代のことが浮んだ。

 「山村留学」と「銀鏡神楽」2004 (2004.12.26)

   12月13日晴れ。小さな町を三っつほど過ぎ、新しく開通した道路に入る。走る走る。 山が優しい稜線を見せる。青みがかった紫がかった山々は美しい。二つの橋を渡り上流へ上流へと 登って行く。長いくねくね道は運転する人も同乗者も疲れるので一休みの場所が数カ所に出来ている。  見えるものはダムの水と山と空。膨らんだ場所には石のテーブルと石の椅子が3脚こしらえてある。 まるで天上桟敷だ。特上の幕ノ内弁当を広げた。580円。信じられないほどおかずの種類も多くて、 甘いお醤油味が特徴だ。お米は少し粘りがあって懐かしい。空は青く山は漆が真っ赤に燃えていた。  8年前から毎年12月に帰省している。故郷は過疎化の進む集落である。若返ることのないこの村 は、山村留学生を募っている。未来の光をいっぱい持っている若いエネルギーをこころから受け入れ 育んでいる。今年4月、地元から小学校に2人の新1年生が入学したそうだ。現児童数13名中、留 学生5名。中学生は11名が留学生だそうだ。小学1年生からパソコンを1人1台使え、興味があれ ば高度なこともできるように指導しているそうだ。年間の学校行事は郷土色をたっぷり採り入れてい るのでユニークで生涯忘れられない思い出作りになっているそうだ。希望する留学生には神楽を伝承 しているそうだ。留学生も家族の一員。家の手伝いなど積極的に行っているらしい。  14日は大イベントの夜神楽のある日だ。朝はもやっていたがしだいに明るくなってきて青い空が 見え始めてきた。静かな1日の始まりだ。白から黄土色、そして青紫、そしてオレンジ系へと色替り して山が現われてくる。毎年思うのはこの1時間ほどの変容が遠い昔、祖父母や曽祖父母と一緒に暮 らした頃のにおいを思い出させてくれる。ひなたのような囲炉裏の埋もれ火のような、黄色く焼けた 障子のような・・・。そんなにおいがしてくる。    この日の朝もたっぷり満たされた気持ちになった。お昼前にみんなで家の前の川原で小石を拾った。 乾いた石のひとつひとつが上流から流されてきたことを物語っていた。面白い文様の石など数10個 拾って記念に持ち帰った。川むこうのメタセコイアは黄葉していて美しかった。            どこからか法螺貝がこだましてきた。いよいよ夜神楽の準備が整ってきたようだ。夜になり神社へ 行き明け方の2時頃まで観覧した。観客の中には留学生の卒業生達が真摯な態度で神楽を観ていた。 例年よりも暖かいとはいえ白い息は天蓋を見上げる度に途切れては消えて行った。          冬の空メタセコイアの細き幹      くろまめ

 曼珠沙華 (2004.9.27)

 幼い頃の思い出の中に美しい景色がいくつもある。中でもれんげ畑と曼珠沙華は鮮明で強烈だ。  6才くらいから…縁側に立って西側の遠くを見ると赤い花しか見えないが、庭に出て幾枚も続く 段々田んぼを見下ろしてその先きの小学校に焦点をあてると左目寄りに一塊の真っ赤な曼珠沙華が すっくと立ちあがっているのがよく見えてくる。田んぼの入口近くにある石仏のある場所だ。すぐ 傍には川が流れていて、ゆるく蛇行しながら川幅を広げて行く大変美しい場所だ。この村の稲は二 期作なので二回目の稲が青く伸びてきている。真っ赤な色は緑の絨毯に牡丹を刺繍したようにみえ たものだ。光沢のある絹糸で刺繍をしたようなこの花は子供ごころにも妖しく切なく映って見えた、 と思う。  秋の水はキラキラ照り輝いていた。茫然自失の状態で大きな天然の絵の中にいつまでも入って 居られた。 中学になっても嬉しい光景に変わりはなかったが、詩的な気分に浸っていたことだ と思う。  ふるさとを遠く離れ、やがて結婚し当然のようにお彼岸の頃になれば嫁ぎ先の家の墓前で手を 合わせ行き帰りに彼岸花を見て帰った。曼珠沙華は梵語で赤い花という意味があるらしいことも 知った。白い花はなんというのだろうか。  先日、友人宅近くのお寺に曼珠沙華の群生を見に行った。赤い花も白い花も天上に顔をさらして 咲いていた。蘂は思いっきり腕を伸ばし広げている。茎は白い花のほうが緑濃くて赤のほうがやや 薄く感じた。地上に緑の角のようにして高さ1cmほどの芽が生いだして冬眠の身支度をし始めて いる。赤白群れずに離れて咲いているのは子孫が混ざらないためなのだろうか。しかし、花の終り はあらわで哀れだ。茎だけを束ねて寝かせてあるのはまるで無縁仏を弔っているようにも見える。  遠くに重機を運ぶ長いトラックが見えた。刈りあとのたんぼはとても広大だ。                   村ひとつ塊て咲く曼珠沙華     くろまめ 2008年追記: 曼珠沙華の咲いていた田んぼはもう田んぼではなくなりました。

 「銀鏡神楽」2003 (2003.12.19)

 12月14日、今年も奥日向の銀鏡(しろみ)夜神楽を観た。  宮崎の神楽は地域ごとに特色があって、数えると2百、3百あるそうだ。「銀鏡神楽を見ずして 宮崎の神楽を語るなかれ」と言われるほど銀鏡の神楽は素晴らしいと幼い頃から聞いて育った。  銀鏡(米良)神楽のルーツは、14世紀に遡り、後醍醐天皇の第16王子・懐良親王が生前好ん だ舞いを奉納したのが始まり、とされている。舞いの中にはゆるやかな雅な舞いがいくつかあって 息を呑むほど美しい。14日の夕方から15日の午前中にかけ、夜を徹して33番を舞い納め16 日の「ししば祭」をもって奉納行事を終わる。(芥川仁 著『銀鏡の宇宙』より 抜粋)  始まりは「星の舞」。白い装束に身を包み、頭に紙の飾りをのせ、鈴を手にして、足さばきも軽 やかに優美に舞う。宇宙にあまねく存在する神々との交信の始まりを告げる儀式でもあるように見 える。笛、太鼓、鉦の音が闇の中をさ迷う。闇も動いて感じる。神屋の周りはたちまち人、人、の 頭が蠢いてやがて静かに観覧している。空を仰げば星屑が降るように美しい。  最後まで見るには厳しい寒さと睡魔との戦いに勝たなければならない。午前2時ごろになると摂 氏2度くらいになり、刺すような冷たさが体の髄の髄まで染み渡る。私は足の裏にホカロン、背中, お腹にホカロン、手の内にもホカロン、と全身の血を通わせるためにしっかり装着して観覧席に入 った。有料と無料の席がある。有料(お初穂)の座敷では折りのお弁当と焼酎の振る舞い酒に預け れる。焼酎はお清めといっていくらでもお替りが出来るから座はなかなか賑やかだ。  給仕は村の男性の中から選ばれているのだそうだ。女性は不浄という観念からきているらしい。 この座敷からは神楽がとてもよく見れる。廻り廊下の庇のところに半紙にお初穂の金額と氏名が 書かれてぶら下っている。このお初穂は銀鏡神楽保存協会に入り運営されていくのだだそうだ。 また神楽を舞う祝子(ほうり)さんたちはまったくといっていいくらい無報酬で祭りの前後期間は 舞いの練習をされているのだそうだ。中にはお勤めを休んで練習に参加している方もいるそうだ。  祝子をつとめる家は代々、世襲で、長男が10才くらいになると、古老の指導を受けるようにな る。また自ら希望して仲間に入ることを一代限りの「願祝子」とよび、現在、総勢約33人の男性 が神楽の準備から奉納、あとかたづけまでの一切を取り仕切るのだそうだ。この日の神屋には、小、 中学生が目立っていた。  素朴な中に品性の伺えるこの村の神楽は決して宣伝をしない。周りに媚びることなく昔を今に受 け継いで来ている。けれども現実は過疎化が進み、容赦なく外へ外へと目を向けなければ暮らしが 始まらないところへきていると感じた。  零時近くなって、式10番の宿神三宝荒神の舞が始まった。御神緬は県の重要文化財指定になっ ているそうだ。古くから御神神楽がすむまでは神楽囃子をするのは禁忌とされているそうだ。この 神楽がある間、参拝者はお賽銭を奉じて拝していた。私たち3姉妹はこの舞を見てからはとうとう 家に帰ることにした。車はすっかり霜におおわれていた。話すことはなくただ黙って闇の中をゆっ くり走らせた。この夜の星の耀きは一生忘れることはないだろう。

 お盆・・・ふるさと銀鏡 (2003.8.17)

   盂蘭盆に入ると故郷を思い出す。  200年以上前の墓石がいっぱいあった場所には草花が植えられている。かれこれ20年くらい前か らそれらのお墓は一基の「先祖代々の墓」となって家の裏の敷地に建て替えられた。その場所は4代前 からの先祖様たちのお墓のあった場所だ。ここは昔、椎茸を乾燥させる作業小屋に行く途中の一角にあ った。兄とけんかして泣きながら追いかけた道。父、母に用事ができて呼びに走った道。手伝いが嫌で 嫌で仕方なく歩いた道。幾度も往復したこの道だったが、必ずお墓に向かってペコリと頭を下げていた。    お墓はご先祖様が毎日佇んでいるところだと思っていたのでちっとも怖くなかった。ここでは土葬の しきたりだったのでしばらくは寝ていてもその内立つんだと信じていた。現在は火葬になっているので しゃがんでいるような感じがする。    嫁いだ先の墓地に立っても感じないのはやはり故人を知らないからだと思う。生まれ育ったところは、 曽祖父母が健在だったこともあって、家にまつわる昔の話をよく聞かされた。山、川、谷、土、空、雲、 水、月、星、これらの総てに挨拶をしている自分が居る。    すごく単純な感情は単純な会話を運んでくれる。父母が居てふるさとがあり、方言があって村があり、 村があって墓があり、墓があって人は帰る。故郷は近くてありがたい場所だ。  

 「銀鏡神楽」2001 観終えて・・・  (2001.12.19)

 銀鏡は思った以上に過疎の一途でありました。イノシシと鴨が奉納されていました。舞手は極端に 減り、しかも高齢化していました。父は一生懸命舞いました。感動して涙が出ました。村人たちはこ の神楽を守ろうと必死です。伝統を継承して保存していこうと孫達に舞や行事をしこんでいるようで す。  素朴な銀鏡の舞は、高千穂神楽に比べて、”観光化されていないところに魅力を感じる”と言って 学者さんたちが応援してくださっているそうです。報道関係者の数は年々増えているそうですよ。  舞台のむしろの周りは、報道関係者がぐるりと囲んでいて、小さな私はその隙間から顔を覗かせて 見ていました。ちょっと観客席については工夫をしてほしいと思いました。    午前3時頃になるとしんしんと寒さは身にこたえましたが焚き火を囲んで暖をとりました。道路で 鹿を見ました。母は、鹿がキーーンと鳴くのを聞くたびに「あーナカンケりゃーエエノニナーコロサ ルルガァ」と嘆いていました。これまでメス鹿を保護し過ぎて増えたため、食料不足で畑や木の芽を 食べて荒らすので狩猟解禁になったのだそうです。  銀鏡は人間がやさしいとそのぶん悲しみが大きくなる所です。文化がないから神経がそういったと ころに向くようです。

「銀鏡神楽」2001

 2001年12月14日の銀鏡の夜神楽を観た。前日に村に入る。 車の前に突然現われた鹿は慌ててガードレールをくぐって逃げて行った。保護をして来たことで増え 過ぎた鹿は今ではメスでも狩猟の対象になっているのだそうだ。    祭を目前にして村に葬式があったため、舞手の三分の一の人が参加できなくなり、急ごしらえの式 三十三番となったが、日頃の練習の成果もあって格調高い神楽であった。夕方4時ぐらいに村の道を 太鼓と笛の行列が進む。音が聞こえてくると、家々から人が出てきて手を併せ神々を迎える。山の中 腹の神社の境内に造られた舞台には、むしろが敷かれ、タイマツが燃える。宇宙を表わすと言う、天 蓋(てんがい)が荒縄で空中に固定されている。台の上には奉納されたイノシシの首が並ぶ。白装束 の舞手はゆっくりとしたペースで(15時間程)三十三番の舞いを終える。夜12時を過ぎる頃にな るとさすがに寒くなり、観客は焚き火で暖をとる。 ご寄付(お初穂)をした人々は座敷に上がり織弁当と焼酎を飲みながら舞いを見る事が出来る。座 敷で長居する人には、「座奉行」とよばれる人が「退去勧告」をし、言うことを聞かない者には詰所 にいる消防や警察が実力で排除するという。  観客は久々に会った者同士近況の情報交換をしたり、お年寄り達は昔の賑やかな祭を懐かしむ。興 がのってくるとお年寄り達は舞台のソデで即興のはやし歌を歌ったり踊ったりして祭を盛り上げる。 明け方になってくると寒さはますます厳しくなり、俄か焚き火奉行が薪の組み合わせの講釈をたれる。    よその神楽は観光化が進んでいるらしいが、「銀鏡神楽」は素朴で伝統を守ることに固執した神楽 に思えた。明け方に見る舞手達の表情は睡眠不足にもかかわらず一仕事を成し遂げた幸福感にあふれ たものであった。 2008年追記: 「銀鏡神楽」は、昭和52年5月17日に国定文化財の指定を受けました。所在地は、宮崎県西都市 銀鏡 (旧東米良村)です。銀鏡地区は、九州山脈に連なる竜房山を背後にひかえた山村です。 大祭は毎年12月12日〜16日です。33番のお神楽は、13日に1番、14日の夜〜15日の朝にかけて 徹夜で舞通します。式32番ししとぎりと式33番神送りは、本殿祭終了後に行われます。

 校庭に流れる信号機の歌 

 私が銀上(しろかみ)小学校5年の頃、鹿児島に修学旅行に行くことになった。村にバスが開通し て2年後のことである。村には信号機がない。横断歩道は不要なのである。    しかし、知らないことが問題になる日がやってきた。修学旅行の計画が立ってからというもの先生 達はふた手に分かれて、赤青黄のセロファン紙を使ってスライド式に手にもっと高く上げて表示した。 生徒はそれを見て横断する、その練習は1週間ほど続いた(と思う)。  この頃、世の中は自家用車が増え、学童児の交通事故が増え、文部省は全国の小学校にに「信号機 の歌」のレコードを配給していた。  昼食時、登下校時はこのレコードから流れてくる歌を聴いた。「♪♪ わたろう わたろう なに みてわたろう 信号みてわたろう 赤、青、黄色、 青になったらわたろう 赤ではいけない 黄色 はまだだよーー♪♪」  私には歌詞の意味が分からなかった。分からないまま平気だった(だと思う)。行進曲として認識 していたのだった。それが修学旅行前の「横断歩道の渡り方学習」という先生方の一大プロジェクト にはまって練習したのであった。飲み込むのが大変遅かった(に違いない)。  「あっ、これが信号機なんだー」と頭に光がさしたことは確かだった。鹿児島の市内で買い物をし た日、本物の横断歩道の前で本物の信号機を見上げた時のなんとも晴れがましい、大人びた感情は今 もしっかりと覚えている。次のプロジェクトの「乗り方学習」であった”エスカレータ”、”エレベ ータ”なんぞよりも取得できた喜びがあった。

 友へ 銀鏡のことなど   

  そう言えば・・・田舎では酒盛りとなるときつい労働を終えて、お風呂に入って、すっきりしたところ で出かけるというパターンでしたね。女性は白いかっぽう着を着てシャキシャキと炊き出しをしていまし たよね。大がまで焚いたご飯のお焦げをもらって食べるのは子供たちでしたね。混ぜご飯のお握りは本当 においしかったねーーー。 肉体労働とダリヤメは時間のリセットをしていたのだなあとしみじみ感じています。潔癖症の私は大人 たちの下品な言動がたまらなく嫌いでブスッとして睨んでいました。いまだにそういう癖が抜けません。 新宿にある「宮崎KONNE館」で友人はタケノコの干したものをえらく感激して買いました。どんどんこ の味が普及して行って欲しくて、私はレシピを数人の方に差し上げました。ついで置いてある宮崎県西都 のパンフレットを添えて渡しました。それには銀鏡の夜神楽も、尾八重有楽椿も一本杉も地図に載ってい ました。カナダは竹林がないそうですね。夫の友人のカナダ人はとても驚いて竹を見たそうです。そちら で植えれば育つと思うのですが・・・。同じ九州でも乾物にしたタケノコは珍しいそうですから、みなさ んに尋ねて見てください。思わぬ方向へ行くかもしれません。竹を植えましょう運動なんてね。    私は友人たちに教えるとき、「タケノコはどんな種類のものでも可。茹でて切って割って干す。天日干 しが理想だが、洗濯乾燥機や温水器の上でも乾燥できる。風で干す(遠心力を応用して)のも良い。短時 間で干しきることが肝要。」と偉そうに説明しています。怪しい説明ですからいよいよなったら実家の母 に聞きますわ。  嬉しいことに友人の友人が竹林のある家の娘さんなので、早速この乾物にする話しをしたら、やってみ よう!ということになって春になったらタケノコ狩をすることになっちゃいました。  

 らくがき帳 (『東米良村史』河野開 稿)

人は四六時中何かを思い何かを考え続けているものであることを最近確認した。ただ眠っている間だけ が休んでいるだけである。それは悪いことであったり良いことであったり喜怒哀楽果ては馬鹿げた事な ど際限がない。然し我々凡夫でも其の中には時たま進歩した考えが浮かんだり叉は生活の智恵が生まれ たりすることがある。けれども時が経つにつれ忘れてしまうことの方が多い。惜しいことであると思う。 そこで思い立ったのがこの「ラクガキ帳」である。事の全部を記録することは勿論不可能であるが、良 いこと面白いことなどの要点だけでも記録に止めることは他日自分や家族叉は社会のための参考になる ことがあるかも知れないし、自分自身の興味あることも事実である。それで思ったまま、考えたまま、 叉は思い出、父祖・古老から聞いたことなど巾広く、枠にはまるのでなく自由気ままに書きちらして見 たいと思う。期日等前後することがあっても差支えない。暗いものでなく明るいもので埋めつくす事を 望む訳だが、さてどんな彼岸に辿りつくやら。                 (昭和51年5月19日、58歳、市の木浦の住人、河野開 稿) 2008年追記: 河野開氏は、らくがき帖を後に『東米良村史』の資料として提供されました。編集委員でもあります。

 祖父幸見(よしみ)を語る (『東米良村史』濱砂武昭 稿) 

 祖父幸見は明治5年1月6日銀鏡神社の宮司重則の二男として生れた。明治30年、宮崎師範学校を 卒業、銀鏡小学校校長等歴任。宿神社神主の父勇と共に信者の教化育成に尽力傍ら農林業に従事、開田 造林業等成した功績は著しいものがある。九十六歳の長寿をまっとうしたのであるが質実剛健の性格で そしてものごとにとらわれない、ものに動じない不動の精神の持ち主だった。  古老の話しを聞くに六十代までは負けん気の剛直そのものの性格だったらしい。壮年の頃は柔道を村 の青壮年達に教えていた。その技量は抜群で他所から来ていた渡り者達も恐れを成していたという。柔 道の創始者加納治五郎の師範代から手をとって教えてもらったこともあるとその時の練習ぶりをよく話 してくれていた。  加納治五郎の講習を聞いたことがあるそうだがその話しの中「物質皆活動す。活動は天性なり。エネ ルギーを善用する人が善人であり悪用する人が悪人である」という話しの内容だったそうである。  いつもそのことを話してくれていた。或いはこれを一生の格言としていたのではないかとも思われる。 「ありがたいありがたいにて世に住めば向かうものごと皆有難いなり」という歌を唱って良く働いてい た。就寝の時は「有難や今日のつとめを成し終えて眠りに就くぞ楽しかりける」、起床のときは「太陽 の波長にふれて起き出ずる嬉や今日も上天気なり」と口ずさんで起きて来た。「雨が降っているのに上 天気とは?」と問うと「雲から下が雨降りで雲の上は上天気」と笑って答えた。  祖父がものごとにくよくよしたりいつまでも立腹していたりしたのを見たことがなかった。「心配ご とは一晩考え良い思案が浮かばない時はいく晩考えても無駄、神に任せてそのことから心を外せ」と言 っていた。年老いた祖父がゆったりと座しているだけで或いは祖父の「エヘン」という咳払いを隣りの 部屋で聞くだけでゆったりした感じになり家中に安心感が漂うそうした精神雰囲気の持ち主だった。  11人の大家族の時も造林は80歳を越えてからも続けた。86歳までは1日4時間は働くといって これを続けたのであるからその精神力と体力にはただただ感心する次第である。  焼酎も飲まずだからと言ってどんな飲み座でも皆んなに合わせて付き合っていた。魚や野菜が好きだ った。祖父が働いているのを見るとさの仕事を楽しんでいるようであった。天体の星が休むことなく常 に規則正しく運動を続けている。人間も宇宙の一分子。天体の星の如く無理しないよう自然と共にとい う境地で体を動かすことだと言っていた。盆栽家が盆栽の手入れをするように、体操の選手が体操をす るように楽しく仕事をすれば疲れぬものだとも言っていた。(濱砂武昭 稿) 2008年追記: タイトル「くろまめのいんきょじさん」に書いています。隠居爺さんは宮崎師範の前は、熊本第五高に いたと聞いていますが確かなことは今もわかっていません。入学卒業の記録が資料も残っていなくて残 念です。

 西南の役 (『東米良村史』濱砂次雄 稿)

 西南の役(西郷いくさ)は明治10年4月に始まって9月11日西郷隆盛が城山の露と消えるまで 続いたがこれにまつろう米良での話しを断片的ながら拾って見ることにしよう。 ・米良は西郷軍に加担して77名の米良隊が各地で勇敢に戦ったそうである。 ・米良地方第一の激戦天包山の戦は7月22日であったという。今も陣地の跡が峠附近に残っている  そうである。 ・西郷どんは敗走の途中、銀鏡の淳先生の宅に一泊せられたそうである。 ・西郷軍の敗残兵の何人かが古穴手の下の古穴に隠れて難をのがれたと伝えられている。 ・官軍が小生の父広助に「チャンは何処へ行ったか」と尋ねると「武方(西郷軍)に行かいた」と  答えて祖母のマツゲサ(広助の母)をハラハラさせたそうである。これは祖母から直接聞いた話で  ある。このようにして軍用品の運搬等のために多くの人が臨時に徴用されたらしい。そして西郷札  と云う軍票で全部か一部かは知らないが支払われたようである。当時父広助は数え年3歳であった  計算になる(父広助は明治8年の生れであった) ・川の口の那須周七と言う人が西郷軍に従軍されたそうであるが正規軍か人夫かは判明していない。  その時持って行かれた日本刀の鞘が割れていたを少年時代に見せてもらったことを思い出す。 ・征矢抜のオモテでは土間に追込まれた西郷軍の一人が腹を一文字に斬られてハラワタをかかえるよ  うにして、うしろのコンニャク畠に逃げ込んでウンウンうなり続けていたが遂に死んでしまった。  オモテには何基か薩摩の墓があった筈である。 ・銀鏡茖ヶ原の射場の元とゆうところに好太郎爺さんとゆう人があってとても話ずきの人であった。  よく小学校あたりまで来ては話しを聞かしてもらったが此の人が西郷戦の話しになると「此の好太  郎と言う奴は西郷いくさに行ったぢや一丈(約3メートル)位のガケから飛んだっぢや」と得意に  なって話された。此の戦話は繰返し繰返し聞かされた。  (濱砂次雄 稿) 2008年追記: 「くろまめのをりをりー5」(2007/8/26記)の中に書いています。

 燈火の歴史 (『東米良村史』濱砂次雄 稿) 

 大正10年頃まで多くの家庭ではランプを使用していた。ランプはジミの大きさによって8分(ぶ)・ 5分ランプと言った。普通家庭で常時使用されていたものは5分ランプであり、集会・来客等特別な 時に限って8分ランプが用いられた。特に冠婚葬祭ともなると近所から8分ランプを持寄って沢山使 用した。  子供の勉強等に用いられたのはスエランプと言って3分の小さなものであった。この頃でも半数に 近い家庭では松明(たいまつ)を燈していた。松明は囲炉裏の下牛(キチジリ)に火明台(ひあかし だい)と言われるものがあって三又の木が埋め立ててあった。その上に平っぺたい石が乗せてあり高 さは80糎位ではなかったかと記憶している。石の上で松明を燃すのである。  松明は赤松の枯れた根や倒木の中心部に近く赤い部分が使われた。枯れた松は外資部が腐敗して芯 の堅いところだけが残ったもので赤味の濃いもの程上質とされた。赤味の多くて濃いものは肥松(こ えまつ)といい赤味の少なく色の淡いものは痩松(やせまつ)と呼ばれ、この松のことはツガと言っ て松んツガを山に採りに行くのは専ら男の仕事であった。  夜遠くから障子越しに見ると、あの家はランプでこの家は松明であることが簡単に判別できた。白 く明るいのがランプで赤い光は松明だからである。  昭和34〜5年になって征矢抜地区で発電所を作る話合いが持ち上がりオモテの田圃の中に小さな 水力発電所を設置した。漁舟用のバッテリーを使って各家庭に点灯することになったが3〜4晩ごと に背負うかリヤカーで発電所までバッテリーを運び充電する必要があった。発電の歴史としては征矢 抜発電所の以前に昭和3年頃古穴手地区に発電所が出来たことがあったが水量が少なく長くは続かな かった。その後九州電力が現在の一ツ瀬ダムをつくることになり待望の九電直配が実現した。銀鏡川 筋の発展のために努力してきた同郷の士のうち八重地区の幾家族かが道路にも電気にも報いられるこ ともなく先祖伝来の郷土を後に四散して行った。それは故郷の発展と謂う花やかさの中に淋しく散っ ていった幾輪かの花とも言うべき裏話である。  この人達はそれぞれ自ら選んだ土地に移り住み結構な暮らしをして居られることがせめてもの慰め と言わなければなるまい。        (濱砂次雄 稿) 2008年追記: 濱砂次雄氏も村史、人物伝について記録しておかなければいけないという考えが強く、自ら取材にあ たられ、河野開氏、他、数名の方たちと夜遅くまで毎日のように集まっては資料の整理等、次の取材 のことなどを話し合われていたそうです。次雄氏も編集委員であります。 一部抜粋して、「くろまめのをりをりー5」(2007/5/28記)の中に書いています。