あつ子@カナダ4
日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。
『かわいい子には旅をさせよ』 2005年2月11日
長男が、思いだしたように言うのだった。「日本で、出来たばか りの御飯を食べたけれど、最高にお
いしかった。おかずもいらないほどおいしかっ た。ウーン、また食べたい。」どうやら、新米の事らしい。
カナダで生まれ育ってい ながらお米のおいしさが分かるなんて親としては嬉しい事。納豆だって、御飯
の上に かけて「うまい!うまい!」と食べているが、日本の大学生と合宿を一緒にした時に も、「エッ!
納豆も食べれるの?」と驚いていたというから尚更だ。
トロントには、日本から留学やワーホリでたくさんの若者たちが 来ているが、ある20代の女性が遊び
に来た時の事。「おむすびを作りましょ。」、 ということになって、手伝ってもらったのだが…「あのう、こ
れでいいでしょう か?」…そこには、かーるく握ったまーるいおむすびが手の平の上にチョコンと乗っ
て、いかにも崩れそう。私は、「あらあら、なーんでしょ?それは?」と、言いなが ら思わず笑ってしまっ
た。「私、母が何もかもやってくれていましたので作った事が ないのです…。」
友人の日本レストランに働きに来た20代の女性が言うのだっ た。「私、日本でキッチンに立った事が
ないのです。母が全部してくれていましたか ら。」
友人の家に日本から留学してきた高校生。ある日、その家の同じ 年頃の息子さんが、インスタントラ
ーメンを自分で作って食べていたら、そばで じーっと見ていたのだそうだ。「なーに?食べたいの?じゃ
自分で作って食べれ ば。」と言うと、「エッ!自分で作るんですか?僕、いつも母に作ってもらっていま
したから…」。黙って座っていれば、何でも出てくる生活だったようだ。そして、そ の友人が苦笑いしな
がら言っていたが、「その子に、食事を作ってあげて箸を出すの を忘れていたら、箸が出てくるまで何も
言わずに待っているのよ…。」そこで、友人 は、その子の家のやり方とは反対の方法で、自分の子供と
同じようにする事にしたの だそうだ。
ファームスティに日本から来たある高校生が、お漬物を食べなが ら、「こんなおいしいもの初めて食
べました…。」今まで食べた事がなかったと言う のだ。きっと、家では、その子の食事は洋食が多かっ
たのだろう?
このように、子供たちは、親元を離れて、親の見えない場で親に は見えない事を体験して行くという事
は確かなようだ。「かわいい子には旅をさせ よ」。日本には、なかなかいい言葉があるけれど、それは、
自分の子供たちにも言え る事のように思う。
長年、異国に住んでいると日本から来た人たちから気づかされる 事も多い。
春を告げる花 2005年2月6日
「くろまめさん」に、梅が咲いたらHPに載せてね、とお願いして いたら、さっそく登
場しました。画面いっぱいに咲いた梅に思わず香りまでが届いて いるような気がし
て、顔を近づけてしまいました。
梅といえば、実家の裏庭に古い梅ノ木が移植されて、春になると とっても可愛い
花が咲き実をつけます。かなり老木ですから、支えが必要ですが、そ れでもその
季節が来ると一所懸命春を告げます。実も、数えるほどしかつけません が、でも、
味噌と氷砂糖に漬けて梅味噌を作るほどはあります。昨年の春に帰国して 季節は
めぐり、早いもので、またあの老いた梅ノ木が気になる季節到来のようです。
さて、トロントにも梅ノ木がありました。長年住んでいながら、 梅ノ木はないだろう
と思っていましたから出会った時は驚きました。さっそく友人に 梅を頂いて漬けま
した。今、キッチンの隅っこの暗闇の中で眠っていますから、そろ そろ美味な梅酒
になっているかな、と楽しみです。
ゆったりとした時間の中で、窓から外の雪景色を眺めながら、実 家の梅ノ木も、
そろそろ春をつげる頃かな、と「くろまめの小さな展示室」に咲いた 梅にうっとりしな
がら、日本の春を思い出しています。
ところで、今、桜は休眠中のようですが、桜は華やか過ぎますか ら、どちらかとい
えば可憐な梅に心を惹かれますが、でもやっぱり日本の国の花です から桜も楽し
みです。
整理 2005年2月3日
遺品と書くと縁起でもないと言われそうだが、友人が読んだ本に よると、その遺
品の整理で一番困るのは「写真」だという。そして、70歳を過ぎた らそれらの写真
を減らすように、とその本を書いた人生の達人が、アドバイスをして いたそうだ。7
0歳には程遠いけれど私もなるほど、と思うようになった。
20代の時のアルバムは、仕事柄、途方も無い量になってアルバ ムにおさまって
いる。案内したお客様から、相当の写真が送られてきて、その度に、 アルバムにし
て保管していた。今は、実家に眠っているが、帰国の度に、陽のあたる 縁側で「古
いアルバムめくり〜 ありがとうってつぶやいた〜…」と歌いながら、虫 干しがて
ら、開いている。そんな時、いつの間にか母がそばに来て、一緒にアルバム を観
ながら「あなたも若かったわねえ…」なんてつぶやいていたりする。
そうする度に、トロントに持って来ようと思うが、その重さにい まだに日本に置い
たままだ。しかし、帰国した時の母の事を思いだすと、母が元気な うちはそのまま
実家に置いておく方がいいかなあと思ったりする。そんなことを考え ながら、その
アルバムたちも、いつかは人生の達人のアドバイスにならって減らす日 がくるのだ
ろうか。寂しい気がするが、それらを子供たちに託するわけにも行かない だろう。
さて、トロントに住むようになってからも、その写真の量は気が 遠くなるほどだ。も
うずい分長くそれらをアルバムにして整理していない。子供たち の写真の整理も、
中断してしまったので、そろそろ再び取り掛かり、子供たちにそれ ぞれのアルバム
を作って渡してあげようと思っている。ありがたいことに、日付だけ は忘れないよう
に写真に記してある。時間の余裕ができながらも、今日しよう、明日 しよう、と思い
ながら日は流れていった。こんな風ではその日がいつ来るか分からな いが、ゆっ
たりとした時間の中で子供たちの成長を振り返るのも楽しいかもしれな い。
ところで、家の中の物は、3年使用しないと一生そのままの状態 だというが、ベ
ースメントに眠る物も、毎回整理しては処分しているのに一向に減ら ない。前回、
取っておいていた物でも、次の時に処分したりしているのだが、なかな か減らない
のだ。このありさまでは、あの本を読んで、人生の達人にでも教えていた だくしか
ないようだ。
こんな時… 2005年1月26日
どこにいても、その様々な日常の生活の中で知恵というものは自 然に備わってく
るものだと思ったりする。
私の苦手とするのが勧誘やセールスなどの電話だ。返事をしたら 最後、こちらの
意向等関係なくベラベラしゃべられるとほとほと閉口してしまう。英 語の世界だと尚
更だ。以前、そのような電話がかかってきて、 成り行きながら、このような返答をし
てしまった。掻い摘んで訳して書いてみようと 思う。
「ハロー」と言って電話に出ると、「お父さんはいますか?」と 尋ねられた。私は、
父は亡くなっていたので、「父は亡くなりました。」と答えた。 すると、「お母さんはい
ますか?」と聞かれた。私は、母は、日本にいるのは確かだ から「母は日本で
す。」と答えた。まだしつこく聞いてくる。「お母さんはいつ帰っ てきますか?」母は、
トロントに来る予定もなく、もちろん帰って来ることなどない のだから、「母は帰って
きません。」と答えた。すると、相手は何を察したのか 「オーケイ、サンキュー。」と
言ってさっさと切ってしまった。切られて、「えっ! 今のってまさか勘違い?」と思っ
た時は後の祭りだった。後で考えると、お互いに真 面目に勘違いをしていたことに
なる。ひとりで大笑いをしてしまった。
正直に答えたその事が、当然後で笑い話になるのだが、親のいな いかわいそう
な子供だと思われたのは確からしい。そうなのだ。私だけではなく日本 人の女性
は時々電話で子供の声と間違われる事があるらしい。
そして、それが分かってから今では、時には…「お母さんをお願 いします。」と聞
かれると「今、忙しくて電話にでれません。」あるいは、「母は今 いません。」などと
答えるようにしている。面倒な電話は、早く切るにかぎるのだ。 だから、最近はそ
のような逃げ道を使っている。
そういえば、ある日系新聞に「嫌な電話をうまく切るこつ」とい う記事がどこかに
載っていたのを思い出す。それほど日常の中での迷惑電話が多いと いうことだろ
う。長年を要したけれど、これからも、このように知恵をまわして快適 な生活をした
いものだと思っている。
ひとつの記事 2005年1月10日
一歳で光と音を失って、七歳まで言葉の存在を知らなかった、と いう三重苦のヘ
レン.ケラーの話は有名だ。そのヘレン.ケラーが112年前にナイ アガラに来てい
たという記事を読んだ。記事によると、グラハ ム.ベル博士とアン.サリバンに連
れて来られたと言う。彼女が十二歳の時、とあ る。
「断崖の上に立って、空気が振動して大地が動揺するのを感じた 時、激しく感激
し心を打たれた。」と自伝に書き、「見聞きできないのに、ここへ来 て何の意味があ
る。」と切なさもつづっている、とある。
カナダ側から観たナイアガラは、壮大でいつ行ってもその姿はあ きない。その滝
の裏側のトンネルを進むと滝の内側から、しぶきを受けながらその雄 大さを感じる
事ができる。十二歳のヘレン.ケラーも、このトンネルを通ってそこに 立ち、音の振
動と水しぶきを肌で感じ、きっとそれと同じように、生きて行く人生を も、そのような
感覚で過ごしたのではないだろうかと思ったりする。そして、そう思 いながら、な
ぜ、グラハム.ベル博士とアン.サリバンが彼女 をここに連れてきたかの意味がわ
かる様な気がするのだ。
『自然の生命の中で人は生かされている事を知る。』…壮大な滝 は、どんな人に
も様々な感動を与えてくれる。
今度、ナイアガラに行ったなら、今までと違った思いで滝を観る事 になりそうだ。
そして、ヘレン.ケラーがそこに立ったその日を想像しながら、112年前なんて
そんなに遠い昔の事でもないような気がするのはな ぜだろう。
1月7日(七草粥) 2005年1月7日
日本の食文化を子供たちにと思いつつ、腕を振るってではない が、今年も、控え
めに「御節」なる物を作った。控えめにというのは、あまり予備軍 を作っていると、
最後には、自分ひとりで「もったいない」と言いながら、食べる事 になるからだ。そ
して、子供たちからは、3日目頃になると 「ピザをオーダーしていい?」なんて聞か
れる事も分かっている。
一般に、御節は味が濃いめなので、3日頃を過ぎると私も胃腸の 方が危険信号
を出し始める。そういえば、1月は新年会が何個入っていたかなあ、と カレンダー
を見つめながら、その前にそろそろ胃腸を休めなければと思っているとこ ろだ。
日本のお正月の文化は都合良くできているものだとつくづく思 う。今日は7日。春
の七草を使って作る七草粥を食べる日がタイミング良くやってく る。日本で、七草
粥が食べられるようになったのは、弥生時代で玄米を粥にしたのが 始まりだとい
う。神への感謝と新年を無事に迎えられた事への喜びを込めた行事とあ る。(フン
フンなるほど…)
粥といえば、小さい頃、熱を出したり病気になると母がよく作っ てくれた。時に
は、その中に梅干しが入っていたりした。そういった粥しか思いだせ ない私は、は
て七草とは?と口に出して言いながら数えてみるが、七つなんて到底出 てこない。
「せり、なずな、はこべら、すずな…」この辺りまでだ。PCがない頃だっ たら、海を
越えて「七草を教えて〜」と母に電話が行くはずだが、今は便利だ。「ご きょう、ほ
とけのざ、すずしろ」とあった。しかし、この異国の地でそんな物が手に 入るはずも
なく…。
ところで、粥といえば、トロントには中華料理の粥の専門のレス トランがたくさん
ある。たくさんの種類があって、どれを食べても最高においしい。 それにとっても安
い。どこのレストランも、いつ行ってもたくさんの人でいっぱいだ が、最近、近くに有
名なその粥のレストランがオープンしたのだ。ラッキーと目が輝 いたのは言うまで
もない。
さて、今夜は粥を作ってみようと思うが、七草粥を作るには材料 がまず手に入ら
ないので、和歌山の友人がいつも作ってくれる和歌山粥を作ってみよ うかと思う。
米をほうじ茶で炊いて作るこの茶粥は私のお気に入りなのだ。
ここで生まれ育った子供たちが、この珍しい粥を何と言って食べ るだろう。子供
たちは梅干しが大好きだから、きっと添えて出すと「ウーン、デリ シャス」なんて言
ってくれるかもしれない。
このような事を綴りながら、カナダに移住して長い歳月が流れた が、その間一度
も日本でお正月を迎える機会がなかった事に気づく。今度、いつか七 草粥を食べ
に帰ろうかと心密かに思っている。
新春への思い 2005年1月2日
暖かい温度の中で新しい年を迎えた。クリスマスに積もった雪 が、今日の小雨で
溶けてしまうかなあと思いながら2005年の今日を過ごしてい る。
毎年、恒例のように、友人の家でカウントダウンをしながら新年 を迎えているが、
今年は、5分も過ぎた後に「あっ!明けたわね。」だった。TVのど このチャンネル
も、その時間になると賑やかな音楽などと共にカウントダウンが始ま る。それを今
年は、誰もそれらに乗ることなく、静かに新年を迎えたという感じだっ た。それが、
何となく新鮮に感じたのはなぜだろう。そして、ホッとしたような感触 はなぜだった
のかなあ、と思っている。きっとそれは、静かな田舎でコタツに入って 静かに迎え
た遠い昔の時代が、体のどこかに残っていてそれらを感じさせたのかもし れない。
そのように、気持ちが楽になるような、古い年から新しい年へのさり気ない 流れ
が、これからは、自分自身をうまく踏み出す一歩になるような気がする。
今年の、2005年という自分だけに与えられたたったひとつの白 い一本の道を、
穏やかに歩いて行く事ができますように…。
「くるみ割り人形」 2004年12月24日
「The National Ballet of Canada」が公演 する「The Nutcracker」を観に
行った。難関試験をクリアして、9月か らその学校に留学している13歳の少女
が、トロントで有名なハミングバードという 劇場で初舞台を踏む事に決まっていた。
劇場は、親子連れの観客で埋まっていた。パンフレットを見ると 「Student Of
National Ballet School」という文字が目に止まった。 そこに、載っているよう
に、それぞれの役をこなしながら、舞台での彼女の姿は、 はっきりと見つける事が
できるほどに、堂々としたパフォーマンスだった。彼女ばか りの姿を追って、肝心
の主役を見逃すほどに、私は感動していた。わずか、12歳で 夏期講習を受けみ
ごとに合格して、1年の入学を認められ、厳しいカリキュラムを乗 り越えながらの毎
日の今日の成果なのだと思うと胸が熱くなる。
パンフレットをさらに読んでみると、日本人の名前が他にふたり 載っている。その
素晴らしい姿にも惜しみない拍手をした。
終わって、楽屋を訪ねた。そこには興奮冷めきらぬ出演者たちが いた。13歳の
少女も、元気良く、驚いた顔で私の前に立った。可愛いぬいぐるみを 渡すと嬉しそ
うに顔をほころばせた。まだ、幼い13歳になったばかりの笑顔がそこ にあった。
毎日の舞台に緊張で気が張っていたのだろう。「お疲れ様。すごく良かっ たわ。」と
抱きしめてあげた時、小さく、ささやくように言った「疲れました。」、 という言葉に胸
が痛んだ。でも、きっとその辛さは、彼女の夢に確実に繋がって行く だろうと思う。
イブの夜、少女は言うのだった。「明日、サンタさんは来るかな あ。」私は、「きっ
と日本に届いているでしょう。」と答えたが、今、用意したプレ ゼントをサンタさんか
らにしようかと迷っている。明日はクリスマスだ。
そのクリスマスにふさわしい「くるみ割り人形」は、13歳の少 女にも、子供たちに
もたくさんの夢を与えてくれたことだろう。
花開いた夜 2004年12月20日
5ヶ月間の準備期間を終えて、12月11日、トロ ント紅白歌合戦が幕を開いた。本番4日前から、会
場づくりなどの準備で毎晩徹夜の 日が続いた。60代から80代の二世の方々に混じってのステージな
どのセットアッ プは、並々ならぬ力と心の闘いだっとも言える。しかし、そこには、一本の日本人と して
のルーツに繋がる日本人の中にある「心意気」というものがあって、そういった 目に見えない裏の底力
でショーは成功したようにも思う。
6時半、会場は500名近くの観客で埋まってい た。100名近くのボランティアたちが、それぞれのポ
ジションについて幕が開い た。トロント日本国総領事の挨拶がはじまり、緊張の中で、プログラムが流
れてい く。
出演者たちは、それぞれに出番を待ちながらお互い に緊張をほぐしあっている。3分から4分間の、
たった一人だけで挑むそのステージ の上での世界は、失敗は許されないという責任感の中で自分を最
大限に演じなければ ならない。音響や照明やプロジェクターの映像を使っての舞台演出の最高の中で
歌い 手たちは、それぞれの出番を終らせていった。
みんな、家族がありながら仕事を終え主婦業を終ら せ、この日の為にどれだけの労力を要しただろ
う。でも、そこには好きな仲間と好き な事をやれる楽しみがあったから、みんな集まってくれたのだと思
う。
『遠く日本を離れ身内と離れて過ごす日々に、こう して「紅白」を通してみんなに出会えた事は最高の
宝物です。』、というメールをも らった。『悲しい事がありましたが「紅白」に支えられました。』というメー
ルなど が届いたことを思い出す。ここに来るまで、様々なドラマが あったとショーを観察しながら思っ
た。
10時、3時間半にわたるショーは終わり賑やか に幕を閉じた。ボランティアたちは、それから、会
場やステージの片付けをして帰路 に就いた。夜更けのガランとしたパーキング場に立った時、「終っ
た」と心から感じ た。「忙しい日々が過ぎた明日は、どんな日になるだろ う。」、と思いながら友人と我
家へと車を走らせた。
「しあわせになろうよ」 2004年10月22日
お馴染みの美容院の鹿児島出身の方と、椅子に座った瞬間から、鹿児島と宮崎の話がキャッチボー
ルをしているようにポンポンと「はい!終りました。」まで続く。
「50代のおふくろが、長淵剛の桜島コンサートに行ったらしんです。7万5千人が集結したんですから、
そりゃ素晴らしかったそうです。すっかりファンになってしまったようですよ...。」
「しあわせになろうよ」という歌がPCから流れている。『であったころのふたりに もういちどもどってみ
よう そして ふたりで手をつなぎ しあわせになろうよ...』
この歌を「トロント紅白歌合戦」のフィナーレで歌う事になった。トロント日系人社会の最大のイベントと
して恒例になって23年間続き、いったん終わりを告げたこのイベントが、日系人の熱望に応えて新設さ
れた新日系会館のホールで復活されることになった。5年を経ての復活となる。
トロント総領事が名誉実行委員長に就き、100人近くのボランティアで結成され今、急ピッチで準備が
進んでいる。23年間の間にNHKが取材に来てNHKのニュースでとりあげられたこともあった。その当
時のNHK紅白歌合戦の司会者から、声のテープが届いた事も懐かしい。長い間、そのイベントに携わ
りながら、素人の制作だからその人気を保つこともできるのだと思ったりする。そして、その収益金はす
べてJCCC(トロント日系文化会館)に寄付される。観客も20ドルの入場料を払い、観ていただくという
側からボランティアに共に参加していただいていると思うことで会場は一体となる。ステージも音響も歌
い手たちも23年のキャリアがそこでいっせいに花開く。
「しあわせになろうよ」は、きっと素晴らしい歌となって会場を盛り上げるにちがいない。
『はじめてであったばしょに もういちど もどってみよう そして 青い空にだかれ しあわせになろうよ...』
小さなバレリーナの夢 2004年10月20日
「プリマになりたい」という大きな夢を持つ11歳のバレリーナは、初めて会った時に小さな声で「よろしく
お願いします。」と言った。
世界中から応募してきた2千人の中から、一次試験に合格してこの度、トロントで世界のトップと言われ
ている「ナショナルバレースクール」に入ることになった。まずは一ヶ月のサマースクールに入り、そこで
叉ふるいにかけられて、彼女はみごとにクリアーして1年の入学を認められた。わずか11歳で留学する
事が決まったのだ。
「ナショナルバレースクール」でのサマースクールが始まった。世界中から選び抜かれた人たちと一緒
にレッスンが始まったのだ。スクールには厳しいルールがあって始まるとしばらくは連絡を取る事ができ
なかった。1週間してようやく連絡が取れると、競争の中でルームメートたちとの様々な出来事があった
ようだが、それをも乗り越える力は好きなバレーリーナとしての夢があったからだと思う。特別に参観す
る日があって親代わりとして行ったが、世界の卵たちのレッスンを観ながら、プリマへの厳しい道を感じ
た。サマースクールを終えて、トロント空港で別れる時に小さなバレリ−ナが小さい声で私に言ったのだ。
「私、帰りたくない。」...。23の時に、カナダに来た私は、ホームシックにかかり毎日泣いていた。この
違いは何だろうと、その時思ったが今、私には、はっきりとその違いが分かっている。
帰国してしばらくして、合格の連絡が来て留学が決まった時に、「真っ先にお知らせしたくて」、と電話が
かかってきた。「合格しました。」という言葉を聞きながら、それは、親子共々、一生忘れられない瞬間だ
ったに違いないと思った。そして、9月小さなバレリーナが再びやってきた。二週間目に会ってみると、夏
の時よりも自信に満ちた感じだった。「さて、今日は何が食べたいかな?」と迎えに行って聞くと「日本食
がいいです。」と言う言葉が返って来た。「じゃ、お寿司でも食べましょうか。」と言った時の彼女の喜びよ
うはなかった。11歳で、日本人である事をさっそく感じ取ったようだ。食事をしながら彼女が言うのだ。
「私の夢は、プリマになる事とお菓子の家に住む事と抹茶アイスクリームを作る事です。」思わず笑ってし
まった。なんと楽しい夢。11歳の夢はどんなことも夢になり楽しい。「抹茶アイスクリームの夢は私がかな
えさせてあげれるわ。」と言いながら...。
トロントでは、クリスマスが近づくと様々な劇場で様々なイベントが開催される。小さなバレリーナは、こ
の冬みごと選ばれてトロントのある大きな劇場で「くるみ割り人形」で役をいただき舞台に立つ事が決ま
った。小さなバレリーナの夢は確実に一歩一歩進んでいる。
あとがき 2004年9月26日
朝のNHK連続テレビ小説「わかば」がスタートした。トロントでは、時差の関係で夜の9時45分と再放
送が朝の10時45分に放映される。宮崎の観光地や宮崎弁がどう映し出されていくかが楽しみだ。
トロントに来た頃、「宮崎?宮崎はどの辺り?...」と言われた事もあった。知名度の低さにがっかり
したものだ。それから、私はあらゆる所で宮崎を話題にする事にした。日系人のイベントなどのボランテ
ィアでステージに立つ時には、宮崎を紹介したり方言でおしゃべりなどもした。 しかし、これからは「わかば」
が宮崎を案内してくれそうだ。もう、トロントの友人の間では、話題になり始めている。今朝のEメールでも
名古屋の友人から、「NHKの朝ドラは、宮崎が舞台ですね。何だか、身近に思えて...これから一生懸命
見ようかなと思います。」と嬉しい便りが来た。
さて、今年の春に帰国してもう季節は秋に変わった。HPの淡いピンクのコスモスやつゆくさの青さが眩しい。
そんなコスモスやつゆくさを見ていると、遠い昔のどこかで知らぬ間に焼きついていたのか、フッとその姿が
脳裏に浮かんでくる。小さい頃から、普通に見ていたものが長い時間が経ってその眩しさの中で瞬間に蘇って
きたのだろう。故郷の光景...故郷の言葉...故郷に咲く花...。どれもみんな私を優しく包み込んでくれる。
それは、ポカポカと暖かい日だまりの中にいるような、そんな感じなのだ。
こうして故郷の事を綴りながら、やっぱり故郷があるからここで一生懸命に生きていけるのだと改めて思う。
日本紀行(故郷宮崎編) 2004年9月3日
青い空、青い海、豊かな緑が織り成す故郷宮崎は、「第55回全国植樹祭」の開催を前に活気づいていた。
この植樹祭は、昭和48年以来31年ぶりという。その31年前に小林市で開催された植樹祭は私の脳裏にもはっきりと記憶となって
残っている。私は、その日、その植樹祭に参加される方々をバスでご案内するお役目をしていた。まさか、その時に31年後のこの日
に今度は自分が招待されその植樹祭に参加する事ができるなどとは、夢にも思わなかったし想像もしていなかった。
そして、青空に恵まれた4月25日、「空と海 心をつなぐ 森づくり」をテーマに約1万人が参加して、特別史跡公園西都原古墳群で
天皇皇后両陛下をお迎えして「第55回全国植樹祭」が開催された。
朝、5時にホテルに集合してVIPのバスに乗り西都市にある「向陵の丘」で植樹をして、式典会場へ向った。途中途中には、おびただ
しい警備員が立っていた。到着すると、1年中コスモスや菜の花が咲き乱れるそのお花畑が見事に整地され会場として変貌を遂げて
いた。式典も素晴らしかったが、それが終わりエピローグでの民謡独唱「刈干切唄」は、会場を取り巻くなだらかな山々に響きわたり
神秘的な感動を覚えた。山々は、青空の下にパッチワークのような色合いをつけて春の色をかもし出していた。故郷を持つ幸せを感じた
一瞬でもあった。
そして今、異国にいて思い出す大事な場面がある。「カナダから参りました。」という言葉に天皇陛下はお若き頃のカナダの思い出を
お話してくださった。美智子皇后さまは、にこやかなほほえみをされて握手をしてくださった。その神神しいお姿は今も鮮明に心に宿る。
そのお言葉もその手のぬくもりも一生この身に残るだろう。
故郷宮崎の空や海は何処までも青く、そして山々も春の陽光を受けてまぶしく光っていた。
日本紀行(銘酒の旅最終編) 2004年7月27日
岳温泉での朝を迎えた。「おはようございます」と三つ指ついての昨夜の仲居さんの笑顔と、そのあどけな
さ、そのぎこちなさが何とも言えない爽やかさだ。きっと10年.20年も経てば彼女は艶やかな、素敵な女性
になるだろうなあ、と思った。原石も磨けば光り輝く宝石となる。(なんとうまい表現!今日は冴えてるか
な!?)
その旅館の現役の80代の女将さんのその美しさ、上品さに圧倒された。女性の美は年齢には関係ない
という事を強く思わされた。宝石はいつまで経っても光輝き続ける。「…そんな人に私はなりたい」、と思いな
がらお迎えの車に乗り込んだ。
蔵元自らのご案内で車は林の中を走り続けようやく酒蔵のある静かな場所に着いた。降りた途端に清酒
の香りが私たちを工場内へと導いていく。出来たての酒粕を食べたが「うーん、おいしい」のひと言に働いて
いた方が袋に詰めてお土産にくださった。それは、宮崎で甘酒に変わった。
今、日本は焼酎ブームでここでも焼酎を生産している。「南九州の焼酎は、温暖な風土の中で技を磨き、
一方清酒は寒冷な地で技術を洗練する」。この蔵元では、その両者を結びつけ、そして二本松に焼酎が生
まれた。蒸留まで南九州で、後の貯蔵、熟成の場を二本松に移す、という宮崎と二本松の合体で生まれた
焼酎だ。それも、私の故郷西都にそれは繋がっていた。不思議な縁を感じた。
出来たてホヤホヤの銘酒と酒粕でほどよい気分になって車は町中を走った。そこには、歴史を刻んだ昔か
らの蔵がそのままに放置されていた。若い蔵元は、近い将来そこを昔のままの姿の酒蔵で昔のやり方を紹
介して観光用にするのだと夢を語って下さったが、そろそろ現実のものになるようだ。きっとそれは町の活性
化のひとつになるだろうと感心した。
安達太良山から流れ出る水は人や作物に恵みを与えその土地の風土を育んできた。二本松はそんな名
残りを見せる自然豊かな愛着のあるようなところだった。
この銘酒の旅の思いは、人との出会いやそこから生まれたたくさんの感性が入り混じりいつまでも尽きな
いような気がする。
さて…さて…これから、この旅を終えてからの宮崎での一ヶ月間が私を益々興奮の渦へと巻き込んでいく
ことになるのだが…。
日本紀行(銘酒の旅3) 2004年7月23日
新幹線のグリーン車は、お客もまばらで北上する時も南下する時も駅で指定席を予約するだけでスイスイと
通過できた。レールパスの便利さに酔いしれながら快適な旅がつづく。
十和田湖=乙女の像=高村光太郎=智恵子抄=二本松…私たちは、一路福島県の二本松を目指して
南下した。
二本松は桜が満開だった。迎えの車は山道を登っていく。安達太良山麓に広がる温泉郷岳温泉は、坂道
を挟んで旅館やお土産を売る店が並んでいた。私たちの旅館は伝統的で由緒ありそうなたたずまいで、部
屋にたどり着くまで迷路のような廊下を通って中庭のある素敵な所へようやく落ち着いた。テーブルの上に
はさりげなく「智恵子抄」の本が置いてあった。
散歩で出会った土地の方が、「昔は芸者がたくさんいてねえ。それはそれは賑やかでした。」とお話をして
くださった。目を閉じるとその光景が目に浮かぶようだった。
詩人.彫刻家の高村光太郎が、「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が、智恵子のほんとの空
だといふ」と詠んだ二本松の空は何処までも青く広がっていた。
夕方になってゆっくり温泉につかって部屋に帰ると夕食の準備が整っていた。所狭しとテーブルの上には、
見事な郷土料理が並んでいる。友人と思わず目が合い、今夜も叉しあわせな時間が訪れた事を確認
しあった。若い仲居さんの一挙一動が新鮮でとても印象的だった。伝統ある場で、そのマナーを習っている
彼女はとてもきれいに見えた。都会では、決して見られない光景のひとつだったと今でもその姿が思い出さ
れる。
夜も更けて、程よい疲れの中で光太郎と智恵子がゆっくり静かに語らいあっている姿を思いながら目を閉じた。
明日はいよいよ銘酒の旅の最終日だ。
日本紀行(銘酒の旅2) 2004年7月21日
平安時代に法然上人によって発見された由緒ある湯処浅虫温泉は、まだ静寂としていた。そんな事はお
かまいなしに湧き出ている温泉にゆっくりつかる事ができた。青森は、ねぶた祭りが有名だがその夏の夜を
彩るねぶた祭りはここが発祥の地だと聞いた。もうすぐそんな賑やかな夏の祭りが浅虫温泉地を賑わす事
だろう。
浅虫を出発して、JRのバスに乗り八甲田山から奥入瀬、十和田湖へと向かった。バスは私と友人だけの
貸切だったが、バスは八甲田山の雪の壁の道路を走り爽快だった。途中でドライバーの方が「写真でも撮っ
て下さい。」と親切にバスを止めてくださった。どこまでも続きそうな雪の壁に挟まれてシャッターを押した。
明治35年1月に起きた「八甲田山雪中行軍遭難事件」の事がバスの中に流れてきた。それは102年を経
た今でも、小説や映画、ドラマなどで語りつがれている。
奥入瀬は春を告げるフキノトウが顔を出しているだけだった。奥入瀬渓流の魅力はひと言では言えない。
宮崎に生まれ住んでいた頃に夢にまで見た奥入瀬だったが、まだその光景は眠ったままだった。春、秋の
美しさを想像しながら十和田湖へとバスは走った。
何処へ行っても旅館に泊まることにしていたが、その夕食の郷土料理は美味で最後に出る御飯の味は最
高だった。が、どうしてもそこまでたどり着いてもちょっと一口だけでギブアップしてしまう事が多かった。その
ような楽しさの中に、体重がどんどん増える恐ろしさがまつわりついていた。
そんな思いの中で、夜が明けると次の目的地福島県の二本松にある酒蔵が私たちを待っていた。
日本紀行(銘酒の旅) 2004年7月17日
レールパスをオープンして北へと向かった。「いい日旅立ち」でも歌いたくなるような気分になりながら、桜の開花を
追いながらの銘酒の旅がスタートした。
最初の目的地岩手県盛岡市に着いてタクシーで蔵元へ向かった。何処へ行ってもタクシーやバスのドライバーは
親切で気持ちが良かった。それは決して表面的なものではなく職業的なものでもなかった。それにその土地の方言
もこのような人たちから優しく響いてくる。そういった事も旅の醍醐味なのだ。
銘酒が市場へと出回るまでのその行程は、ベルトコンベアー式であまり人の手は動いていなかった。清酒の香り
を体中に受けながら、何にでも深い歴史があるものなのだと気付かされた。用意されていた郷土料理の昼食で、
この店でしか手に入らないという銘酒を共にしたが、やはり「ううーん、幸せ!」という言葉が出たほどだ。「今日は、
車の運転をしなくていいからいいわねえ。」と楽しい会話も出るほどだった。
日本は便利になった。ここでしか手に入らないという銘酒をホイホイと宮崎に宅急便で送り盛岡を後にした。ここ
まで来ると桜は何処をみてもまだ開花していなかった。
そして、青森県出身の友人が進めてくれた北の終点目的地浅虫温泉へと向かった。
日本紀行(出会い) 2004年7月12日
出会い…私の大好きな言葉だ。その出会いがどのように展開をしていくかはお互いの相性というものが大きく左右
するのではないかと思う。
今回の帰国が決まった時、友人を介して電子メールやお手紙で大事に温めていた親交の中で私はどんなことがあ
ってもお会いしたいと思った方がいた。思いは強く求めていれば自然とその方向へと流れていくものだ。宮崎へと向
かうその東京の最後の日に、その方とお会いする為にホテルに迎えに来た友人の最高の笑顔に迎えられて目的地
へと向かった。気持ちは高揚していた。
出会いの一瞬は素晴らしかった。流れゆく限られた時間の中で一つひとつの言葉は貴重で重みがあった。今でも
目を閉じるとその時の事がはっきりと浮かんでくる。そして、さり気なく詠んで書いてくださった俳句が今手元にある。
「カナダより旧友迎ふ夏近き」
頂いた句集『水蓮』の中にはさんで大事に持っている。そして、友人が送ってくれた写真たてに入ったその時のツー
ショットの写真が毎日私の心を和ませてくれる。いつまでもお元気で!と私は語りかけている。
出会いは私にいっぱいの喜びをもってきてくれた。
日本紀行(再会と別れ) 2004年7月10日
37年の長い歳月の中で、社会人となって、結婚をして子供を育てる人生を彼女も私も同じ行程をたどってきた。
しかし彼女にはひとつの大きな闘いがその人生の中にあった。
帰国前から、彼女を見舞いたいという思いが届いて再会がかなった。同じ部活動で、そして一緒に生徒会役員をした
りしながら中学時代を過ごした。そんな思い出の詰まったあの奥深い山並に囲まれた故郷の学校は新しく建て直され
今は面影もない。
「まどをあければ りゅうぶさに あれバラいろのくもがわく いつしかゆめはやまこえて ひろいせかいにかけてゆく
あーあきぼうのみなもとわれらが母校」
懐かしい校歌が思わず口元から流れ出た。そして、彼女と共に過ごしたあのセーラー服姿の世界が蘇ってくる。
37年も前になる。10代のそんな時代も、笑いあり涙ありの悩み多い世代だった。その中で、彼女のたくさんの
表情に接したはずなのになぜか笑顔しか目に浮かばない。でもそれは、彼女が残してくれた最高の彼女の面影だと
思っている。
手元に1枚のはがきが届いた。書かれている言葉に短い彼女の一生がどれだけ大きなものだったかを物語っている。
「ひとつの別れをとおして知りました。人はみなそれぞれの出会いに感謝することでその絆を深めているのだと…そして
多くの思いにふれることで知りました。人はみな誰かを支え誰かに支えられて歩み続けているのだと…」
再会と別れが同時にきた悲しみは大きいけれど、あの笑顔は一生心に残っていくだろう。
日本紀行(東京編) 2004年7月4日
長い時間から解放されて成田に降り立った。日本の春の風は心地よかった。ホテル直行のバスを待つ間も、そ
の案内嬢や荷物の係りの若者の訓練された姿も気持ちが良かった。サービス業では、何処にも劣らない国だと改
めて感じた。
快適なバスは目的のホテルへ到着。部屋から眼前に東京タワーが見えた時、ドラマに出てくるような姿はどの方
向からなのかなあと思わずつぶやいてしまった。
トロントの友人がたまたま東京にいて、夕方、早速3人で街へ繰り出した。疲れているので、紹介された近くの居
酒屋へ。暖簾をくぐって驚いた。広いその店は、仕事を終えたネクタイ族たちでいっぱいだった。思わず、慣れない
その光景に目が一点になった。奥の畳の席で合い席になったが、4人のサラリーマン風な方々が陽気に話がはず
んでいた。数分もしないうちにすっかり意気統合して名刺交換など楽しい会話が始まった。店のお進め品が「薩摩揚
げ」と聞いて驚き、さらにお勧め品のお酒が宮崎の焼酎。更に驚いたのは、一人の方が、トロントに知り合いがいる
という話になり、その知り合いというのが同行した友人がよく知っている方だったのだ。世の中はつくづく狭いと思っ
た。
久しぶりに、そんな夕暮れのサラリーマンの方々に出会ったのでつい余計な質問をしてしまった。「毎日、お仕事
が終わるとこのような時間を過ごされるのですか?」答えは、「週3回はそうですね。家に早く帰ってもすることがな
いのですよ。」…。そのような対話をしながら、一人の方が、携帯電話を首に下げている姿がどうにも違和感があっ
て困った。そして、携帯のベルが鳴って、「今から帰る。」の返答が妙に心に残り、日本の姿を垣間見たような思い
だった。
日本紀行(ピアソン空港での巻) 2004年7月3日
いよいよ帰国の日が来て、トロント.ピアソン国際空港へと向かった。巨大な新ターミナル1が完成したばかりだ。
1 日の離着陸が1200機、年間40万機でカナダで一番忙しい空港だそうだ。このインフラ.プロジェクトとしてはカナ
ダ史上最大規模でありながら、納税者の税金からは一文も出していないという。建設予算44億ドルは空港債券と
空港使用料でまかなっていくそうだ。
さて、空港に到着。真新しいターミナルは働く人たちも新鮮に見える。あちこちに立っている案内係りが、早朝の
せいか搭乗客よりも多く見えるほどだ。迷っているとすぐに係員が寄ってきて案内をしてくれる。
搭乗手続きのカウンターへと案内されて、愛想の悪い女性がニコッともせずに淡々と手続きを済ませていく。隣向
こうでは、フレッシュな若者たちが真剣な姿で研修を受けている。何と対照的な光景かと先行きが不安になってき
た。案の定、彼女がベルトコンベアーにうまく乗らなかった私のスーツケースを恨みがあるように放り投げたのだ。
「私の大事なスーツケースをそんなに粗末にしないで!」と言いそうになったがやめた。送ってきた娘と思わず目が
合ってしまったからだ。きっと今日はご主人と喧嘩でもしてこんなにご機嫌が悪いのだわ、と心で思った事をそこを
離れてから娘に愚痴ってしまった。
ゲートを通ってから搭乗口までのバスの乗車時間の長さに閉口したが、離陸してから、真ん中の席を全部我が
物にできた時は「ラッキー!」と心で叫んだ。あえて乗務員の待遇や機内食の事は記さない事にしよう。期待する
事が無理なのだから。そのような中で13時間の空の旅が始まった。
日本紀行 2004年6月28日
3年半ぶりに7週間の帰国をした。予定を山のようにその日々に織り込んで成田に到着した。
到着したその日から、予定が決定となって行動が開始した。手帳とにらめっこしながら、事はスムーズにドンドン過ぎていく。
13時間の時差も感じることなく友人たちとの約束の予定も何の問題もなくクリアされていく。福島を通って青森に至る「みちのくの旅」
もたくさんの人たちとの出会いの中で旅の味を楽しみながら流れた。そして、最終地宮崎へと到着する頃には、すっかり日本
の風になじんでいた。宮崎へ帰った日からの1ヶ月間は、目の回るような日々が続いた。今、考えてもよくすべての予定を
こなしたものだと思っている。
カナダに帰ると、ひとつのステージショーが一週間も待たずに控えていた。原稿をEメールで日本に送ってもらいカナダへの
帰路の飛行機の中で覚えた。カナダに帰ってきて時差が私を襲い、司会を頼まれた私は、ステージでも、相方が「今、Nさんは、
ジエットラグ(時差)で昼と夜がひっくり返り、お昼寝中です。」と会場を沸かせたりした。なかなか時差が取れず朝方の3時頃に
目がパッチリと覚める。午後になると眠くなる。そんな繰り返しの日々が2週間は続いた。
ここに投稿する話題が山のようにあった。でも気持ちが動かない。その日がいつになるだろうと自分の気持ちを見ながら待っ
ていた。そこへ友人がHPに「カナダからの便り」を掲載してくれたのでようやく気持ちが動き始めた。書きたい時が書ける時。
その思いが生まれてきたようだ。これから、3年半ぶりに観た日本の紀行文を徐々に書いていこうと思う。
「望郷」 2004年3月30日
朝日新聞の「天声人語」を読むのが好きだ。朝は、インターネットでまず新聞を読むのだが、最後にゆっくりとその欄は読むようにしている。
今日のそこに、頷くような事が載っていた。『米国暮らし8年の詩人伊藤比呂美さんは、「庭に夢中になりはじめたら、望郷の念がつのる事に
気がつきました。」花の英名になじめない。「…みやこわすれやじんちょうげやこでまりや…」
カナダに移住して一時、日本の季節を忘れていた時があった。そんなある日、宮崎の友人から宮崎の観光名所のカレンダーが送られてきた。
その1年の四季折々の季節の花が織り込んであるカレンダーを見て、今、日本はこんな花が咲いているのだ、と一枚一枚めくりながら改めて
気づいた瞬間だった。
コスモス、菜の花、つつじ、紫陽花、曼珠沙華、エトセトラ…。まだ庭のないアパートに住んでいた時代でもあったし、それにやはり色んな
新しい様々な事に慣れない、そして余裕のない自分がそこにいたのだと思う。
花の名前ひとつにしてもだが日本語は美しいと思う事がしばしばある。時々、新聞等で日本語の言葉が英語で言い表せない場合がある、
という記事を読む事があるがなるほどと思う。
先日、次男の日本語学校の宿題に、「いつくしむ」という言葉についての問題があった。日常では、なかなか使わない言葉であるから、次男
にとっても一つの美しい日本語を学んだと思っている。舌を噛む様な言葉からみても、意味を理解するのが難しいようだったので、私は、頭を
なでてやりながら「いつくしむ、とは、このように愛をもってかわいがって大切に育てるという意味なのよ。」と私なりに教えてやった。「みんな
子供たちは親のいつくしみを受けて育っているのよ。」と付け加えて。
異国で暮らしていると、日常の中のほんの些細な事で望郷の念にかられるものなのだ。それは、言葉であったり、歌であったり、花の名前で
あったり、絵であったり…。今回のHPの菜の花を見つめながら、懐かしくて遠く故郷に咲くその花が思い出された。
銘酒の旅 2004年3月23日
友人が企画した「陸奥銘酒の旅」が人員が揃わない為にキャンセルになった。そして、一転して「弥次喜多道
中銘酒の旅」になりそうなのだ。
「桜や温泉や郷土料理、そしてお酒が私を待っている。」というわけで、予定通り友人と二人で北へと向かう事
にした。題して、「弥次喜多道中銘酒の旅」と勝手に名前を付けて計画が立ち始めた。
まず、カナダに住んでいる事の良さを活かして「レールパス」を買う事からスタート。一週間のレールパス
が、新幹線のグリーン席を含んでその一週間は、JRの乗り物なら何でもどこへでも乗り放題で3万円そこそこ
なのだ。今回は、それよりも安くなる方法で東北方面だけのレールパスを購入した。4泊5日…便利なレールパ
スをおおいに利用してお酒の蔵元を訪ねながら、ツアーになかった名所旧跡を自由気ままに歩いてみようと思
う。
このように、帰国する人達は、この「レールパス」を利用する事が多いようだ。ある関西に帰国した友人は、この
レールパスを使って、福岡のラーメンが食べたいと思いたち、それだけの為に新幹線に乗って目的を果たしてと
んぼ返りで帰って来た人もいる。そのように、その期間は乗り放題なのだから、時間をつくって行動すればおお
いに楽しめるのだ。
さて、スーツケースにあれやこれやと詰めこみながら、日本での楽しい予定も一緒にぎっしり持って出発の日を
待っている。旅のお供の友人は、「メープルシロップが重いよー。」と悲鳴をあげている。
楽しくなりそうな「弥次喜多道中銘酒の旅」は、もうすでに少しづつゴットンゴットンと動き始めたようだ。
別れの3月 2004年3月17日
トロントは今夜は吹雪いている。明日になったらきっと雪が積もっているだろうなあ、と思いながら日本の3月という時期に合わせて
別れていく 今日の友人の事を思った。今日はその友人の送別会だったが、家に行ってみると、これから箱詰めになって海を渡って
いくもので溢れていた。帰り際、その友人が、「もう一度18日にお別れに来て。」と言うので軽く別れてきた。そのつもりだったのに、
今、メールが届いて「なるべくお別れは言わずにおこうと思いました。だからあのように言いましたが、18日はバタバタしていますから
会えないと思います。あのように言って別れた方が辛くなかったから…。でも去るより去られる方が辛いよね。だから心の中で別れを
言いました。こうし て、メールをしてても泣きたくなりそうです。…だから、このまま別れます。だっていつか会えると思うし。絶対に会え
ると思うから…」というような内容だった。こんな別れ方もあるのだと思った。だから、このまま別れようと思う。
思えば、出会っては別れの繰り返しのトロントでの29年だったような気がする。それは、元気でいればいつかまた会える、といつも
思いながらの別れだった。3年前に、トロントで別れた友人と今度の帰国で会う予定になっているが、「きっと会ったら泣いてしまうかなあ。」
とメールが来た。それほど、トロントでの思い出は深いのだろう。別れの3月、出会いの4月…今、そしてこれからの日本はそんな季節なのだ、
と思いながら。
さて、これからその友人に返事のメールを書こう。「きっと、また会おうね。」…と書いて。そして、最後に「約束は守る為にあるのだから。」
と付け添えて。
トロントの3月。外はまだ吹雪いている。
「春の光 」 2004年3月13日
HPの春の光は、トロントの寒い日々に暖かい光をくれました。先々週は、11度の日もあって根雪も溶かしたの
に、また雪が降って、そしてまた消えて…。そんな日々のトロントの3月です。周りの木々たちもまだ眠ったまま
です。トロントの春の訪れは、まだまだ先のようです。
こちらは春休みになってしばしの休息です。今日の土曜日は、日本語学校も休みですから、朝も、ちょっとの
朝寝ぼうができますから、そんな前夜はゆっくり夜更かしをしようという気にもなったりします。
日本から春の便りが届きます。そんな時、HPに出ていた春の光のたんぽぽが私の心を和ませてくれます。春
になったら、トロントにもたくさんのたんぽぽが咲いてみごとな黄色い絨毯を敷きつめたようになりますが、家々
の庭に咲くたんぽぽは嫌われものです。根っこから、全部掘り出されたり薬を使ってポイされます。
HPの友人の春を告げるたんぽぽの姿に愛おしさを感じている私です。
「春の光をありがとう。」私の心が暖かくなりました。
運転免許証の取得(オンタリオ州) 2004年3月10日
今年の9月に、16歳の誕生日を迎える次男が待ち望んでいる事の一つは、この運転免許証取得のようだ。その事に触れると、
ニコニコしながら「もうすぐ僕が免許を取るからだいじょうぶだよ。」と言 うのだが、何がだいじょうぶなのかしらと思いながら、
そのように待ち望んでいる次男には、私の心配が増える事などは心にないようだ。
さてオンタリオ州で、初めて運転免許証を取得する場合について「カナダの生活総合情報誌」で調べてみた。まず、
「Driver's Handbook」を購入し法規を覚え、そして、視力検査、法規試験をうける事から始まる。料金は100ドル。その時
には身分証明書(パスポートや出生証明書)が必要とある。これに合格するとG1ライセンス(仮免)が取得できる。次のステップは、
レベル1(G1クラス)の実地試験(Road Test、ハイウエーを除く)を受験することができる。しかし、このレベル1(G1クラス)を受験
するには、G1ライセンスを取ってから最低8〜12ヶ月経たないと受験できない。だから、その間に、オンタリオ公認の教官免許を
持っている人たちやGクラス免許(普通免許)保持者との路上運転の練習が必要となる。そのように、その間、普通に運転はできるが
一人では運転できない。必ず4年以上のGクラスの免許(普通免許)保持者が助手席に同乗する事が条件になっている。それでも、
深夜12時から午前5時までは運転をしてはいけない と同時にハイウエーも運転してはいけないとなっている。ただし、ハイウエーは、
同乗者が、オンタリオ公認の教官免許をもっていれば制限はないようだ。そのような中で、16歳からの学生の受験者達 は、公認の
ドライバー研修コース(Certificate Program)を取る事が多いようだ。それを修了すれば、8ヶ月でG1の実地試験を受験できるし、
Ontario Safety leagueの修了証明書、または保険割引証明書などを発行してくれる。そのようにして準備をしながら、この受験に合格
するとG2(レベル2)の免許がもらえる。そして、次はレベル2(G2クラス)の実地試験(ハイウエーを含む)が待っている。料金は75ドル。
この時も、最低12ヶ月経たないと受験できないが、その間は、一人で運転もできるし、時間、場所も 制限はない。そして、12ヶ月経って
G2の実地試験を受験をして、それに合格すると正規のGクラス免許(普通免許)が取得できるというシステムになっている。不合格でも、
再テストの予約ができる。友人の話によると、G2のハイウエーでの実地試験でパスできない人が多いそうだ。それから、最後に付け加え
たい事は、G2ライセンス(仮免)は、一人で運転できるからと言ってG2クラスの実地 試験を受けずにそのままにしているとかなりの厳しい
代償が待っているようだ。このように見ると、オンタリオ州で運転免許証を取得するには最低2年以上かかる事になる。
さて、若者たちは16歳の誕生日のその日に、「待ってました!」と言わんばかりに行動するようだが、素直な気持ちを言えば、G1の
仮免を取った日がくると、練習だと思いながらも本当は、隣の助手席に座るのは難儀なことなのだ。3人目(3度目)のその日々がもうすぐ
やってくる。
子供のしつけ(留守番) 2004年2月27日
前回も書いたように、子供を育てるにあたっては、カナダではどのような決まりや法律があるのか、という事などは口伝えなどで
それなりの情報が入ってくる。しかし、それは不透明なものであった ので、気になっていた事をはっきりする為に多忙な友人に
調べてもらった。体罰に続いて、「カナダで子供が家に一人でいることができる年齢(留守番)」について述べてみようと思う。
私は、今までカナダでは12歳までは子供を一人で家に置いてはいけない、という事を聞いていたのでそれに従い12歳になる
まで決して子供を家に一人にして留守番をさせた事はなかった。それに12歳までどんなに用事があっても、学校に鍵を持たせて
一人で家に入る事もさせなかった。調べによると、カナダ一般では、子供が家に一人でいる事ができる年齢は、やはり12歳からと
いうことが言われているようだ。しかし、その年齢が法律で規定されているわけではないらしい。何故かといえば、その子が一人で
家にいられるかどうかは、様々な要因(子供が一人でいる精神的な準備ができているか、一人でいる場合に何かが起こった場合
(特に緊急事態に)の知識を持ち、適切に対 応する準備ができているかなど)も、考慮されるべきで、その年齢が一応12歳が規準
となっているとあった。しかし、結局は、子供が幼少でない限り、親、保護者の判断によるところが大きいということ のようだ。 そして、
ついでに「カナダでベビーシッター(子守り)をすることができる年齢」も調べてもらった。
一般には、12歳から14歳と言われているが原則としては各コミュニティーセンタ−やレッドクロスなどで行なわれている「Babysitting
Course」を受講できるのは11歳からのところがほとんどだとある。この場合、自分の兄弟の面倒を見る場合でも、他人の子供の面倒を
見る場合でも、原則的に上記のような年齢でベビーシッティングを受講し資格があるという事が前提となっているようだ。しかし、 これも
ベビーシッティングを頼む親の判断によるところが大きいとなっている。カナダでは、そのような事については、「Toronto Public health」、
「Public Legal Education of Saskatchewan」、「Babysitting safety Tips」「Canadian Safety Council」などで、くわしく情報が 得られる
ようになっている。そこには、子供を一人にする場合の準備と心構えについてや10歳〜14歳の子供が一人になる場合について(規準は
12歳だが)、他ベビーシッティングに関する事、ベビーシッティングを雇う側の責任ついてなどがわかりやすくまとめられている。
さて、車で子供が寝てしまって、ちょっと5分ほどなら置いて大丈夫だろうと思う事は、カナダ社会ではまかり通らないわけで、急いで
車に帰ってくると「子供を一人にして車に放置してはいけません。」と、そばに車を止めた人が待っていて注意された日本人もいると
聞いた事がある。このように、上記のような事を含めてカナダと日本のふたつの社会の中で学ぶ事は多い。
子供のしつけ(体罰) 2004年2月25日
今まで、カナダで子育てをしながら、幼少の子供のしつけ等については、おぼろげなインフォメ ーションで確実性がなかっので、
今回友人を通して調べてもらった。それは、かなり大変な事だったようだが、ようやく確かな事がわかってきたのでここで、簡単に
それらを参考にしながら記してみようと思う。
Toronto Star紙にも載っていたようだが、1月30日にカナダ最高裁に於いてCriminal Code Section43の内容の(Spanking...
平手打ちなどの体罰)改定について採決がされた。その事についてそのまま掲 載してみようと思う。
『この採決は、2歳から12歳までの子供に対しては、親と教師が妥当な腕力をもってまたは限度 ある体罰により子供をしつける権利
が保障された。ただし、子供をたたくなどの体罰を与える際 に、ベルト、物差し、へら、などの道具を使用することや、子供の頭を目掛
けた強打や平手打ちは 禁じられている。また体罰が容認されるのは、子供の言動を教護または矯正する必要性のある場合に、軽度
及び一時的に下される場合のみとされる。』
ずい分昔の事だが、友人がこのような話をしていた。友人の子供が通うパブリックスクールか ら、電話がかってきた。担任の先生が
言うには、「あなたは子供を虐待してますね。」と言われたと いう。身に覚えのないことだったので、その理由を聞くと、「あなたの子供の
お尻に青あざがありま す。」と言われたのだ。それは大きな勘違いで「蒙古班」だった。
ある友人は、子供が悪戯をしたので、アパートのベランダに締め出した。小さい子供は泣き叫ぶ わけだからアパート中に聞こえる。
すぐ電話がきて、「あなたは子供を虐待している。警察に通報 しますよ。」と言われた。ここでは、そのような事に対しては、周りが他人の
子供でも守ろうとする気持ちが敏感に動き、すぐ警察が介入してくるようになっている。
さて、次回はカナダで一般に言われている子供がひとりで留守番できる年齢などについて触れ てみようと思う。