あつ子@カナダ5

日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。



ゆき姐のエッセー 2005年8月3日 asahi.comで、「ゆき姐子育て応援エッセー」を楽しみに読んでい る。彼女がニュ- ヨーク生活で感じたことを子育てをしながら、彼女の主観でいろい ろと書いてい る。同じ異国で生活している者として、「うんうん…そうそう…そうよ ねえ」と、うな ずきながら読むことが多い。 今回の「きれいな国 日本」というエッセーもなるほどと思いなが ら読んだ。NYと 比べながら、日本はとてもきれいな国とあった。私も、20代の頃、 はっきり言え ば25歳だったが、トロントからバスでNYへ行った事を思い出す。9時 間?という 長い道のりだったけれど、結構、快適な旅だった。 バスの終点が悪かった。下車した途端、異臭がして、道路にはごみ が散らかり 「ここがNY?」と思ったが、なるほどここがNYなのだと後々つくづく思っ た。観光 バスに乗り、しばらくして「ここには決して一人で来ては行けません。」と いう案内 に、外を眺めながら「いえいえ、この場所には、二人でも、三人でも来れな い わ。」と思った街は、若者があこがれるNYとは思えなかった。が、何でも表があれ ば裏があるようで、華やかな街の裏も…やっぱりここがNYと納得。 カナダはきれいな国だと住みながら思う。公園も街(町)も広大な 土地に余裕を 持って広がっている。トロントは人口が増えているのか、住宅地は、北 へと延び て、住宅が出来れば学校や公園ができ、ショッピングモールなどができる。 だだ っ広い草原にきれいな町がドンドン造られて行く。そのような町中を走る道路も ハイウエーも、車から眺める景色はごみがなくすっきりしている。学校といえば、 生 徒たちが掃除をすることはないけれど、それぞれの学校にはケ アテーカーが いて校内もきれいなものだ。 ゆき姐がおっしゃるように、日本はごみの処理が行き届いていてきれいで気持ちがいい。 帰国して驚くことはごみの仕分けであ る。あの徹底したやり方に感心させられながら、 どんな商品にも標示してある 「紙」」「プラ」などにフウフウ言いながら、慣れない事に 悩まされた。でも、その 徹底したひとり一人の作業が日本をきれいにしているのだろう。 「きれいな国にっぽん」…そのイメージは大事にしてほしいと思 う。
一冊の本 2005年7月7日  何でもだが、出会いと言うのはひょんな事から巡り会うことが多い。久しぶりに 溜まった新聞の記事の切り取り作業をしていた。一応目を通しながらであるか ら、なかなか進まない。読んだはずの新聞なのに、ある記事に目が止まった。読 書ガイドという欄に「米刑務所で短歌を詠む日本人服役囚『LONESOME  隼 人』 郷隼人著」とある。吸い込まれるように読み始めた。それが一冊の本との 出会いだった。  ウエブサイトを開き、読みながら涙が止まらなかった。1984年からアメリカの 刑務所で終身刑に服して20年の歳月が経つ、とある。その間、日本への望郷 や親への思い等を短歌にされる日々が続く。 1996年に朝日新聞の朝日歌壇 に初入選された、とあった。  私も、このHPで、私なりの言葉で日本への望郷や親への思いを綴ってきた。 同じ、異国で生きる者として状況は違ってもみんな同じなのだと思わされる。そし て、その中には感銘する作品がたくさんある。 『あの山の向こうに太平洋が在る夕陽のかなたに日本が在る』 『ワープロの時世に我は鉛筆と紙きれが武器ひたすらに「書く」』 『老い母が独力で書きし封筒の歪んだ文字に感極まりぬ』  カナダに来た頃、毎日、日本を思ったことが思い出される。 ちょっと帰るにも日 本は遥か太平洋の向こうだった。時々来た母からの手紙の封筒の 英字が、子 供が書いたように心もとなかったのを思いだす。そして、初めて帰国した時の、 言葉が思い出される。「手紙をもっと書きたいけれど住所を英語で書くのがね え...」。私は、日本を発つ日、10通ほどの外国用封筒に、私宛てのアドレス を書いて母に渡した。 『独活三葉山葵筍紫蘇茗荷(うどみつばわさびたけのこしそみょうが)想いつつ 食む 獄食スパゲッテイ』  前回の投稿に、私は「みょうが」の事を書いたばかりだった。故郷や母を思う 同じ思いの作品を見つけた時、感動を抑えきれなかった。 『「生きとればいつか逢える」と我が出所を信ずる母が不憫でならぬ』  親子の絆は、どんなことがあっても、どんなに遠くにいても決して断つことはで きない。それは、強い強いものなのだ。帰る度に母はいつも言ってい る。「元気 なうちにまた帰ってきないね。わからんなってから帰ってきてもなんにも ならんか ら...。」母らしい、精一杯の言葉なのだといつも受け止めながら、娘として近く にいてやれないことに心で謝っている。 そして、「3年だけだから...」が29年も 経ってしまった。 LONESOME=LONELY=>ALONE(類語) 『LONESOME  隼人』 郷隼人著」
7月の手紙 2005年7月3日 今年も半分が終わって、早7月になりました。トロントは、湿気の 混じった日本の ような暑さが続きましたが、でも、何だか懐かしい暑さで、故郷宮崎 を思い出しま した。そして、ようやくカナダらしい快適な温度になりました。 今朝の空気も爽やかで思い切り背伸びをして軽い運動をしました。 気持ちの良 い1日のスタートです。朝、まだ静かな中で、HPに並んだ野菜たちの可 愛い花 に対面し思わず嬉しくなって、お手紙をしたためています。 オクラの花の可愛いこと。きゅうりも思わずもいでかじりたくなり ました。高校時 代、ビニールハウスで野菜を栽培しているという農家の友人が、「ト マトは、その まま丸かじりが一番おいしいのよ。」と言っていたのを思い出しまし た。 我が家の小さな菜園にも、トマト、きょうり、かぼちゃ、にら、ネ ギ、紫蘇、みょう がなどがスクスク育ち始めました。かぼちゃは、日本のかぼちゃで すが、友人か ら種をいただき、瓶詰めになって2年ほど冷蔵庫で眠っていたもので す。みょう がは、昨年、苗を2本いただいて、枯葉をかぶせて冬を過ごしました。6 本になっ て芽を出しているのを見つけた時は、感動して「よく育ったわねえ」と声を かけて しまいました。子供の頃、実家にたくさんあって、それを食べると物忘れをす る、 と聞いて食べなかったことを思いだしました。学校で学んだことを忘れたら大 変、 と思ったのでしょうか。その子供心に心がほんわかとなります。それでも、子供 の口にはあの奇妙な味が合わなかったようです。でも、今、祖 母や母がそれを 料理に使っていた事が分かるような気がします。 カナダの澄み切った空を眺めながら、小さな菜園に育つ野菜たちの 姿に様々な 思いが蘇り、時代は流れたのだ、とつくづく思った朝の時間でした。 そのような小 さな感動も異国にいるからでしょうか。それと も、年代がそう思わせるのでしょう か。 さて、カナダは長い夏休みに入りました。エンジョーイ!サマータ イム…。
卒業式の日 2005年6月27日 「いい卒業式でしたね。」「長い間お疲れ様でした。」「今日はおめでとうございます。」… などなどの言葉が尽きなく続いた。卒業生たちも、ホッと した表情の中に「これで解放さ れる」といった思いもあるようで、毎週土曜日12年間と言う長い道のりを終えたことを、 全身で喜びを表しているようだった。 ひとり一人の壇上での言葉も、楽しかったこと、辛かったことなどを発表しながら、送迎や ホームワークなど親の底力なしでは続けられなかった中での「感謝します」という言葉が、 深く心に沁みた日だった。 この卒業式までの一週間、一人でアルバムの仕上げにセッセセッセと脇見もせずに没頭 していると、「マム!ありがとう」という言葉が聞こえてきた。 そして、卒業式が終わった後、 「マム!いいアルバムだったよ。」…それらの言葉を聞きながら12年間は決して無ではな かったとつくづく思った日でもあった。 日本の友人から、息子宛てに「ご卒業おめでとう」のEメールが紫陽花の写真と共に届いた。 さっそく、手渡し、声を出して読ませた。そして、友人のその心遣いに感謝した。遠く日本を 離れて、親、兄弟、親戚のいない生活の中で、そのような優しさが、長い間の様々な辛さを 忘れ去らせてくれる。 異国にいて、その国で生まれ育っている子供たちを日本人として育てることは容易ではない。 戦後、再び移住が始まり、それを新移住者と呼んでいる が、その新移住者たちの二世が 日本語学校を卒業していく中で、その二世たちもすでに結婚をして三世がもうこの日本語学校 に入学し始めている。同時に、その三世たちに日本語を教えていくことの厳しさが始まっている。 言葉という日本の文化を持続さ せるためには、まだまだ、我々新一世はリタイアー出来ないのだ という思いがある。 アルバムの一ページに、卒業生保護者一同として、校長先生や諸先生、理事、ボランティアの 方々に感謝の言葉を添えた。その中に「12年間学んだ日本語をどう生かしていくかは、これ から子供たち自身が決めていくでしょう。…」と 綴った。 我が息子は、まずハイスクールで日本語のクレジットを取得したいと決めたようだ。 戦前、移住された方々の四世、五世たちが、日本舞踊を習う姿に心 をうたれることがある。 血は薄くなっても、日本語は出来なくても過去の長いルーツに確かに日本人の血が流れて いることを彼女らはちゃんと認識しているのだ。歌の意味は分らずとも、流れてくる日本の メロディーに心と体が一体となって動き、そして、そこに生まれもった日本人としてのルーツ があるからあの優雅で艶やかな舞をこなすことができるのだろう。 日本の文化は、このようにカナダをはじめ世界中いたるところで守 られている。卒業生たちも、 日本語学校でたくさんの日本の文化に接してきたこと を、きっといつか思いだし、そして、いつか 役に立つ日が来るだろうと思う。 そして、心の中にある12年間の思い出は、手作りのアルバムと共にいつまでも残るに違いない。
卒業式 2005年6月10日  こちらは卒業式の季節。もうすぐ、我が家は日本語学校(日加学 園)の卒業 式。子供3人分の23年間。よくぞここまでやってきた、と一人振り返り ながら思っ ている。  定番の「雨の日も風の日も...」ではなく、「雪の日も凍りつ くような寒い日も、 眠い目をこすりながら...」が正直な思いだ。子供たちに、 「続けてきて大変だ った事は、辛かった事は」と聞くと、「土曜日の朝、起きるのが 一番いやだっ た。」と異口同音に答える。それは、親も同じで「誰のために行く の?」と投げか けた日もあったが、振り返りながらそれは簡単な日々ではなかったと つくづく思 う。  4歳に入学し16歳の卒業式を迎える頃には、一人減り二人減 り、と寂しいほ どに少なくなってくる。子供と言うものは連鎖作用があるから、「そ ろそろ僕も、私 も」と思うのは仕方のないことだろう。ここで、親が諦めると簡単に ピリオドは打 たれてしまう。そのような親子の闘いの日もあったが、ここまで来るに は、気長に 励ましながら教えていただいた先生方の力も大きい。日本から来られた先 生方 にとって、ここで生まれ育っている生徒たちを教える事には数々の戸惑いがあっ たことだろう。  今、卒業式に手渡す、保護者手作りの卒業アルバムを作成中だ。言葉 を添えた り、写真の形を考えたりと大変な作業だが、それでも、それぞれに趣向を凝 らし ながらの作業はなかなか楽しい。授業風景や運動会、ベークセール、クリスマス 発表会、特別科目、お餅つき...様々な写真を手にしながら、卒業生たちが、こ の アルバムを懐かしく開くのはいつだろうか、と私の23年間の重みと思いが重 なって くる。  そして、卒業式の日に卒業生ひとり一人が学園への思いを先生や 両親に向け て発表することになっている。担任の先生から、「息子さんの発表は涙な しでは 聞けないですよ。楽しみにしていてください。」と言われている。一体どのよ うな発 表をしてくれるのだろう。子供は、親の知らないところ で大きく成長をしているの かもしれない。  6月25日、土曜日、10時。日加学園の卒業式が間近になって いる。
トリリアムの花(2) 2005年5月26日  我が家の一本の大きなメープルの木の下に移り住んだトリリアム の花。昨夜 は、真っ白な花びらだったのが、朝、起きてみると二輪ほどピンクに変 わってい る。一人で大騒ぎしながら、その淡いピンクに感動さえしてしまった。一 体、何が このような色に変えるのだろうと不思議な感じで見入った。もしかして、私 との毎 日の会話がそうさせたのかな、と思ったり。  花や植物は、声を掛けたり、優しく触ってあげると反応するのだ とよく聞く。ピン クに変わった花に「可愛いね!」とそっと触りながら話しかけた。 トリリアムの周り には、すずらんが蕾を付け始めた。ふたつの花が仲良く寄り添いな がらメープル の木の下が賑やかになった。  ワインレッドのトリリアムは、数少ないらしいが、ツアーガイド をしている友人に よると、神代の昔、許されない男女が恋をしてその涙が落ちて赤く なった、という 説もあるらしい。何となくロミオとジュリエットの話に似ている。ま た、一方では、イ ンディアンの神様が、真っ白な世界に色をつけるのに、花の番に なって、トリリア ムに色を付けようとしたら、赤に染める色がなくなり、残っていた ちょっとの色で しかつけることができなくて、赤のトリリアム が少ないのだという伝説もあるらし い。  毎朝、そんな花たちに会えるのは何とも嬉しい。
トリリアムの花 2005年5月22日  5月になるとトリリアムの花が咲き始める。この花は、オンタリ オ州の州花で天然保護植物になっている。 話によると花びらが3枚だからラテン語の 「tri」は「three」の意味で「trillium」になったという。花 の色は、真っ白 で可憐な感じだが、時間が経つとピンクになることもあるらしい。 中にはワインレッド色の花も咲かせる。古く は、インディアン の食用や薬用として利用されたと聞く。日本名では、「延齢草(えんれいそう) 」というのだそう だ。なぜ、そうつけられたのか、定かでない がなかな良い名前だ。ドライバーライセンスには、この花が大きく 写真や生年月日な どの下絵になって咲き誇っている。  ゴルフ場や北へハイウェイをドライブしていると林の中にその群 生が見られる。庭先に、あのトリリアムが咲 いたらいいなあ、ほしいなあ、と思って も天然保護植物であるからそうはいかない。  ところが、ファームを持っている友人の所有する林の中にその群 集が春になるとそれはそれはみごとに咲く のだ。3年がかりの約束で、ようやくその 友人から大きな鉢に真っ白な花とワインレッド色の花をつけたトリリ アムが届いたの だ。「嬉しい。でも不安。」...だって、天然保護植物だものと複雑な心境の私な のだ が...。  さて、そんなに広くない我が家の庭に、そーっと静かに目立たぬ ように植えようと思いながら場所を思案中 だ。何しろ、天然保護植物なのだ。この花 に限らず、こちらでは公の場所から草木や花を「ちょっと失敬」なん て事は罪になる のだ。近所から誤解されないように「友人のファームから移り住みました。」と立て 札でも立 てようかしら。そして、これから私が保護者になって大事に育てようと思っ ている。  今夜も暗闇に咲くトリリアムを観ながら楽しんでいる。
5月の手紙 2005年5月19日  トロントにも春が来ました。今年は、ちょっぴり遅い春 です。隣のさくらんぼの花が たった一輪しか咲きませんでした。後はつぼみのまま終 わってしまうのでしょうか。 今年のフルーツの収穫が心配です。  HPのたんぽぽ綿毛が、何ともいえず愛らしくて「どこへも飛んで 行かないで」と 言いたくなる様な優しさをこちらに届けてくれています。でも、何と なく「好きなとこ ろへ飛んでおゆき。フー」っと思わず画面を吹きたい衝動にもから れます。  日本はもう初夏の装いでしょうか。こちらは、きっとほんの ちょっと春の顔を見 せて夏へとジュンプするのでしょう。こちらの夏は、湿気もなく すっきり爽やかな 暑さです。木陰は何ともいえない快適さ。  カナダに来た当時、夏の太陽を受けながら、公園でアパートの芝 生の上であち こちで水着姿になって日光浴をしている姿に驚きました。ビーチでもな いのに、と 思いながら、しばらくは不思議な感じでした。でも、長年住んでその気持 ちが分 かるようになりました。太陽の少ない長い冬は、人々の体も心も閉ざし、あの 広 い、青い空から送られてくる太陽の光が人々を解放的にするのです。今、 夏時 間になって、9時近くまで外は明るくなります。目いっぱ い、自然の光の中で人々 はエンジョイします。  東京から、帰ってきた友人が言いました。「トロントはやっぱり いいわね。のん びりしちゃう。それに空気も酸素がいっぱいって感じ...。」そし て、トロントに、 駐在していた友人が2年ぶりに遊びにきました。「住んでいた町に 来るとホッとす るわ。主人も、都会の生活に疲れてトロントの空気が吸いたいって短 い期間だ けど、思い出の地を回ってすっかり元気になりました。」...トロントが 第二のふ るさとになってるようで嬉しくなりました。  今週は、そろそろ花屋に行ってガーデニングの準備です。様々な 花の種類 に、花の色に、ついつい迷って時間が思ったよりかかります。玄関にドッカ リと座 っている大きな植木鉢四つに何を植えようかと楽しみです。  そんなトロントの季節ですが、もうしばらくしたら個性豊かな近 所の前庭を観な がら散歩でもしようかと思っています。  そんなトロントにちょっと遊びにきませんか、というには遠すぎますね。
季節の花 2005年5月11日  トロントにもようやく桜の季節がやってきた。有名なハイパーク にはこれからソ メイヨシノが遅い春風に誘われるように咲くことだろう。友人の話に よると、世界 で桜が開花する場所としてはトロントが最北端だという。  姉からみごとな桜の写真がEメールで送られてきた。川沿いに咲 く桜を見ながらや はり本場に咲くのが一番かなあ、と周りの景色にマッチした姿に 思ったりする。そ して、送られてきた写真の中に、「私のささやかなガーデニングも 添えて」と、色 とりどりの花が彼女の性格に合わせたように静かな感じで初夏の彩り を見せてい た。「花を愛でる気持ちを大事にしようね。」と返信した。  母の日には、二人の母にカードを添えてカーネンションの花束が 届くようにし た。花束に英語の文字を見ながら母たちは感動したようだ。母は、「遠 いところか ら、海を越えて何でもできる世の中になったわね」と嬉しそうに言いなが ら、毎 日、楽しみに眺めているのだという。  その85歳になった母が、最近、難聴で電話の会話も難しくなっ た。そんな母 に、「そちらからおしゃべりするだけどんどんおしゃべりして」、と言 うと「そう 改めて言われると何だかはなせないわ」、と言いながらも機関銃のように 近況報告 が続く。そして、「やはり、これでは物足りないからメールをおくりなさ い。」 と、一人芝居のような事を終えた後の、母のその軽快な言葉に大笑いしてし まっ た。電話を切った後、母宛てに長いEメールを送った。カーネンションがしばら く母 に楽しみを与えてくれるよう祈りながら。  季節を彩る様々な花は人々の心を和ませてくれる。3月の梅。4 月の桜。5月の カーネンションや我が家の裏庭の片隅に咲くチューリップ。すみれも キッチンの窓 辺に咲いている。さて、6月といえば梅雨の中に咲く紫陽花を思い出 す。以前、日 本から、雨の中、傘をさした友人がみごとな紫陽花の中に立つ写真が送 られてき た。雨と紫陽花の調和に何とも言えない趣があって「あー、この風情。まさ しく日 本特有の美だわ。」と思ったものだ。  さて、6月!その花は私に何を運んできてくれるだろう。店先に 並ぶ紫陽花を今 年は買ってみようか。
春の音を聞きながら 2005年3月29日  「...根雪もとけりゃ もうすぐ春だで 畑がまってるよ」  友人たちから、「何でも歌になるわね。」とよく笑いながら言わ れる。その状況がつい歌になって出てくるのだ。 裏庭を覗いてみると雪解けの小さな 花壇にチューリップの芽が顔を出している。「春だわ!」と心も弾み「ねゆき もとけ りゃ もうすぐはるだでえーはたけーがまーってるよおー」...「あれー、ねゆき が...だったかな。ねゆき も...だったかな?」と思いながら歌集で調べてみ る。こんなことにもこだわる私なのだ。  一度は、「どんぐりころころ」の歌詞が集まった友人たちの間で 話題になり「どんぐりころころ どんぐりこ...」か 「どんぐりころころどんぶり こ...」なのか意見が二手に分かれてその場で歌集を広げて「あら!どんぶり こ... だわ。そりゃそうよね。お池にはまるんですもの...」と大笑いしたこと がある。このようなユニークな話題も飛び 出すほどに、年を重ねるごとに内容も日本 で過ごした過去に戻り、それは異国の地で過ごしている者でないと分 からない、「故 郷は 遠きにありて...」の心境についついなっていくのだ。  友人の家に、1本の桜の木があるが、どういうわけか2年前はピ ンクと白の花がその1本の木に同時に咲い た。「ガーディナーが、ちょっといたずら をしたのでわ。」と、友人は言っていたが、それでも今まではピンクしか咲 かなかっ たのだと言う。珍しくて、その年は、前庭に置いてあるテーブルを囲んでティータイ ムとしゃれこんだ。う ららかな時間は、何ともいえないしあわせな気持ちになる。今 年の桜の季節5月にはどちらの色の花が咲くだろ うか。  桜と言えば「花見て一杯」気分の日本の賑やかなお花見の季節を 思い出す。友人が言っていたが、こちらで は、ビール瓶やコップに入ったアルコール 類を飲みながら、自分の家の領域から一歩でも出ると法律違反になる という。どこの 家もほとんど隣接する前庭は、フェンスもなくオープンになっているが、その隣の庭 に一歩踏み入 れてもいけないのだという。公園では、アルコール類は厳しく禁じられ ているからその法律がそのようにそういう 所でも活かされているのだろうか。前に も、ここで書いた事があるが、昔は自分の家の裏庭でもアルコールは禁 じられていた と聞く。これから、夏の夕方になると、領域を越えてついビール瓶を片手に長い厳冬 からの解放感 で隣近所の人と会話がはずむ。これから、バーべキューの季節にもなる が、要注意のようだ。  かすかに聞こえる春の足音はそんな様々なことに繋がって様々な 事を思い起こさせる。根雪も、日一日と解け てゆく。  「もーすぐはーるですねえ こいをしてみませんかあー」... やっぱり歌になってしまった。
素敵な言葉 2005年3月17日  「I miss you 」...この言葉も家族や恋人、友人たちとの 間にとても自然に飛 び交っている。子供たちも、仕事のツアーや学校から帰宅したり すると、「 Miss  me?」と聞いてくる。帰国して、日本から電話をかける中にも、 「I miss  you」という 言葉がお互いに自然にでてくる。友人同士でも、長く会っ ていないと「I ’ve  missed you」...その言葉が挨拶になっていたりする。 「I miss you」...流れ るような、そして、相手に対して心が素直に伝わるよう なその言葉が私は大好き だ。だから、こちらの人たちと同じように私もこの言葉をさ りげなく生活の中に取り 入れている。  こちらでは、様々なカードが様々な言葉を入れて山のように店先 には並んでいる が、そこには「I miss you」「I am thinking of you」などの カードもあってそこから 離れられなくなることもしばしばだ。相手のことを思いなが ら「どれにしようか?」と 考えるのは何とも楽しい。PCの時代で、このカードの売れ 行きはどうなのかなあと 思ってしまうが、やっぱりカードの良さは忘れがたい。  それぞれの思い出を胸に別れの3月が終わる日本では、新しい世 界の中で「I  miss you」の言葉の心境があちこちに生まれるにちがいない。そんな 時、そんな 素敵な表現が日本でも使われたらどんなにいいだろう。
便利のいい言葉 2005年3月9日  ある午後、キッチンに座ってフーッとため 息をついてボーッとしていると、娘が「ど うしたの?」と聞いてきた。事情を聞きな がら「ママは忙しい方がいいじゃない。」と 一言。忙しい方が似合ってる、という意 味なのか、なかなか的をついているようで、 かえって励みになるから不思議だ。この ように、子供というものは見ていないよう でよく見ているもの だとつくづく思う。  ある日、PCの前でぶつぶつ独り言を言いな がらある作業と奮闘していると、娘が 何を感じたのか「ママ、愛してる!」なんて向 こうの部屋から声をかけて来た。「あ らっ!愛してるぅ!なんて、久々に日本語で言 われたわ。」と愉快になってきた。 「ありがとう。I LOVE YOU TOO。」と言い返 す。カナダに住んでこの「I LOVE  YOU」は、とても便利な都合の良い言葉だと思っ ている。子供たちとの小さな諍い もこの一言で簡単に修復できることもある。子供た ちが、元気のない時もこの言 葉で抱きしめてあげられる。でも、思春期を謳歌してい る子には、ちょっと無理が あるようで、その言葉にはなかなか反応がない。 「OK...OK...」と言われて逃 げられてしまうのが落ちのようだ。  この国では、夫婦でもこの言葉を便利良く使っている。お互い に、言いたいことを 言い合った後に、この言葉が発せられると、さっきの問題は何 だったのかしら、と 思うほどにこの言葉であっさりと解決されることもあるようだ。 なかなか便利な言 葉だと感心させられる。時には、それが口癖のように思えて、あま りにも使われす ぎると気持ちなんて入っていないような気がしたり。でも、この国の 人たちは、それ を感じさせないほどにその言葉をうまく相手と調和させている。親 子、夫婦、友人 同士など、どんな時にも相手を安心させる...そんな力のある言葉 なのだろうか。  郷に入っては郷に従え...そのような言葉があるけれど、長く この国に住んでい ても「I LOVE YOU」をそうふんだんに使えるものでもない。カナ ダと日本...そ の間にある、学問や芸術、道徳、宗教などの違いからだろうか。そ う考えると、日 本人の控え目で消極的なスタイルは、長い歴史の中で生まれた、ひと つの文化と も言えそうだ。  しかし、カナダ人であり日本人でもある子供たちは、うまいタイ ミングでその言葉 を使っているように思える。「愛してる(I LOVE YOU)」... 娘が、さりげなく投げ かけてきたこの言葉が優しい言葉となって心に染み入る。  日本でも、この言葉がもっと自然に使われていたら、今とは ちょっと違った姿の 日本だったかもしれない。
別れの月 2005年3月5日  この月が来るたびに日本の別れの3月を思い出す。私にもやっぱ りこの月が来ると必ずひとつ、ふたつの別れがや ってくる。 「別れても 別れても 心の奥に いつまでも いつまでも 憶え ておいてほしいから 幸せ祈る 言葉にかえて 忘れ な草を あなたに あなたに」  トロントで出会ったたくさんの別れがあった。別れの3月が来る たびに繰り返し繰り返し同じ事を思ってしまう。そし て、自分の人生の小さな節目の 大きな別れが胸に浮かぶ。それは、小学校の卒業式。中学校の卒業式。そして、高 校 の卒業式と、その流れの中で、それなりに感激深いものとして心に残っている。「仰 げば尊し」や「蛍の光」を歌う と、それはどんな時にも、別れの意味が 気持ちの中に追い討ちをかけ、涙が頬をつたったものだ。 「いつの世も いつの世も 別れる人と 会う人の 会う人の 定 めは常にあるものを ただ泣きぬれて 浜辺につん だ 忘れな草を あなたに あな たに」  出会いがあって別れがあるけれど、短くても長くてもその出会い の中で思い出がつくられていく。そのような事を思う 時、共通した思い出があるかぎ り、その繋がりは永遠のような気がする。そして、その思い出を温めておく限りその 別れは再会に繋がると信じている。  3月に別れていく人(たち)にその事を伝えたい。
故郷の梅 2005年3月1日  海を越えて、こんなに遠くまで故郷の梅の香りが届きました。画 面いっぱいに梅が咲きました。実家の庭に咲く梅の 花です。老木ですが、樹齢何年だ ろうかと思います。でも、こんなにみごとに咲いています。山の方にあった実家から 移植されたのに、ちゃんとそこに馴染んで、添え木をしたり栄養を与えられたり人間 の手で守られながら、ちゃんと頑 張っています。  そして、私たち家族の者に優しい心を蘇らせてくれます。そのよ うな梅を眺めながら、母はきっと言うのだと思いま す。「今年も元気で咲いたね。」 …母はとても自然に敏感ですから、そんな和やかな気持ちになるのを知っています。 毎日、就寝前に空を眺めるのが母の習慣ですから、きっと毎夜、暗闇の中に咲く梅に 何かを言っているはずだと思っ たりします。  裏庭の真ん中に、陣とって咲いているこの梅の木は、私たち家族 を自然に…ひとつに…そんな力を持っています。 人も梅の木もどんな木々たちもやっ ぱり自然に育つことが望ましいようです。そして、お互いに優しい心で支えあって 守っていくことの大事さがわかる様な気がします。  画面いっぱいに咲いている中の、控えめな姿の蕾がポカポカ陽気 の中で今日は花開くでしょうか。明日にでも電話 をしてみよう。梅の花を話題にし て、日本の春に誘われながら、ケラケラ笑っている姿の自分が目に見えるようです。
2月の中で 2005年2月22日  穏やかに日々が流れて行く2月の20日の日曜日、昨年の『新ト ロント紅白』の会計報告などを兼ね て反省会を行なった。あの忙しさから二ヶ月以上 が経とうとしている。何でもだが、忙しさが過ぎるとそ の日々が夢のように感じる。 ビデオや写真などが手元に届くと遠い昔の事のようにその忙しさが懐か しくなってき たりもする。「終わりよければすべてよし」…本番までの長い道のりは決して平坦な もので はなかったが、高評を得て幕を閉じた『新トロント紅白』だった。  歴史の深い『トロント紅白』が、復活を機に再び歩み始めた。このことは、日系文化会館で開催される 事で、トロント日系人の唯一のオアシスの場とし て、『トロント紅白』もひと役買っていると思っている。  『トロント紅白』の純益は、その度に日系文化会館に寄付をして いるが、今回は、今までの歩みの中 での総額の中から、2万ドルを寄付をさ せていただいた。24回開催した中での、『トロント紅白』 にボランティアとして携 わって頂いた方々の賜物とも言えるだろう。 こうして、20日夜11時、昨年の 『新トロント紅白実行委員会』を解散した。  終わってホッとしたのもつかの間、外は、久しぶりの大雪で、ま だ除雪車の動いていない夜道は怖い ほどだった。前を行く車は ダンスをしながらやっと坂道をのぼっていく。それを見て、友人が慎重に運転 をしな がら話始めた。「車には、何があってもいいように必ず毛布を 積んでいるのよ。それに、事故を 起こして車が動かなくなったりしたら、車の中から 出た方がいいんですって。車は、時間が経つとアイス ボックスになるらし いから。それに、そんな時は、車からすぐ出て、雪の中に潜って埋もれていた方が暖 かくて安全らしいわ。」長く厳しい冬を越す我々には必要な知 識だと思った。  長い厳冬の中で生きる事は、そういった知識と同時に、心身を活 動させる好きな事を見つける事も大 事だと思っている。そう考えると、『トロント紅 白』は様々な事に貢献しているようだ。  今年も12月10日に開催する事が決まった。