あつ子@カナダ3

日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。



重国籍 2004年2月21日 「いつか機会があれば...」と先に書いたが、ここに日系新聞(日加タイムス)に重国籍の事が掲載してあるので、 その解説を参考にしながら触れてみようと思う。  カナダは、重国籍を認めているが今回のPRカードの制度によりそれを保持する事は難しくなるようだ。それは、 日本が重国籍を認めていないからだ。しかし、今までは日本のパスポートには、永住証明のピンクや黄色の証明書が ついていたので、カナダが認める重国籍によってふたつのパスポート保持ができていた。  しかし、今回のPRカードの制度によって、カナダ市民権(Citizenship)を持っている人はPRカードの申請はできない のだから、まず、移住証明書がパスポートについていても、それがPRカードでないかぎり、これから、日本のパスポート の使用や延長申請が難しくなる。  ということで、これから重国籍の人は国籍選択が必要になってくる。これは、定かではないが以前、そのような場合は、 どちらかを選択できるということではなく、カナダ国籍を選択しなければならないと聞いたことがある。  解説によると、再度日本国籍を復旧したい場合は、帰化手続きを行なう事で、そう難しくなく可能のようだ。  さて、なぜカナダの市民権を取得しないのかとよく聞かれるが、私にはまだ必要ないからとしか答えようがない。そして、 私は、日本国籍を持つ日本人でありたいからという事もひとつの理由になっている。  日本を離れて生活する中で、仕事や結婚などのそれぞれの理由を含めて選択もそれぞれだろうと思う。
PRカード確保 2004年2月20日  申請してから2ヶ月以上もかかったが、ようやくPRカード(Permanent Resident Card)を確保できた。今まで は、日時が決められていたようだが、私の場合は、連絡が来たその日以後だったらいつでもよいと記してあっ た。しかし、こういうことは早くするに越したことはないと思い、連絡が来てその後日にすぐダウンタウンのもより のオーフィスへ向かった。  入り口には、厳しい目をしたいかついガードマンがいて書類を見せると並ぶ場所を指示された。50人ほど並ん でいたが、待つ時間は覚悟で来たのでそれほど驚きはしなかった。しかし、よく観るとその三分の一は付き添い 人というのがわかった。窓口も、数えると八つほどオープンして流れも早い。一人当たり4分ほどで終わる。身分 証明書のドライバーライセンスとパスポートを準備して待った。しかし、何となく居心地が悪いのは、帰国の度に 税関を通過する時の気持ちに似ているような気がしたからだろうか。  東洋系の若い女性がお相手してくれて、「次は2009年に手続きしてね。」言われ、3分程で終わったがその言 葉の後に彼女は言うのだった。「こんなに長くカナダに住んでいるのにどうしてカナダ市民権を取らないの?」  「That 's none of your business!」と思いながら、そこを後にしたが、考えればその事は最近よく聞かれること なのだ。  いつか機会があればその事について触れてみようと思う。
「みやざき応援隊」  2004年2月11日  昨年の8月、宮崎県商工観光労働部観光.リゾート課から、宮崎をPRする事を目的とした「みやざき応援隊」 に応募してほしいという内容の連絡が届いた。  宮崎のここが好き!という事を中心に、宮崎への思い、宮崎が好きな理由を自由に書く欄があった。  日本を離れて長くなると、「故郷」というイメージは、なぜか生まれた所(国)「日本」という大きなひとつの言葉で 表すようになる不思議さを感じていたばかりだった。それはきっと、いろんな国の人たちから、「生まれた国はど こ?」と聞かれるからではないだろうかと思う。そして、トロントに長く住んで、故郷という、その国へ帰れない人た ちがいる事を知り、いつでも帰れる日本という故郷があることのしあわせを素直に感じた事もあった。そのように、 いつも故郷は?という問に日本と言う答えがそこにあった。  そのような思いの中で、県から来た募集は、生まれ育った日本というよりも、生まれ育った宮崎を改めて見直 すいい機会に恵まれたような気がした。  長く離れた宮崎への思いは、次から次へと言葉になりながら生まれていった。素直な気持ちで、溢れ出てくる 宮崎への思いは限りなく広がった。それらを文字にしながら、母が語ってくれた生まれたばかりの頃の話や、小 学校へ入学した時の気難しい顔の写真などが蘇ってくる。成人式などの光景は今でも忘れられない。日本での いや宮崎での思い出は、それから3年後のそこで止まる事になるが、今は、その宮崎での思い出が凝縮され、 心に一点となって大切に保管さているような思いがしている。  これから3年間「みやざき応援隊」として、異国の地で、自分の思い出の扉を少しづつ開けながら「故郷みやざ き」をPRしていこうと思っている。
「The Last Samurai 」 2004年2月2日 トロント日系会館に、その撮影に使用された小道具などが、たたみ2畳ほどの大きなポスターと共に展示してある。 それはまさしくハリウッド映画なのだ。今までも、何回か、日本を舞台にした映画は観てきたが、いすれもどの映画も しっくりとこない、納得のいかない映画ばかりだったように思う。 それは、映画に出てくる光景や日本人のキャストなどが、その時代の日本をあまりうまく表現できていなかったせいだろうか。 しかし、今度は、キャストも豪華であるし、監督もかなりの良い作品を撮り続け有名であるし予算もかなりのものだろうから、 という期待感が大きかった。 様々な映画が15本ほど同時に上映されているその映画館は、その音響効果だけでも、その映画を最大限に活かし 最高の音質で楽しませてくれた。 侍、富士山、桜...そして、そこにただひとりのその時代にふさわしい日本女性が登場する。その女性らしさは、 昔、他国の人たちが描いた日本の女性像そのものをうまく映し出していた。 あの時代、多くを語らず、静かに耐えて生きた日本の女性の姿が今の私たちにないものだと、いやが上でも教えられたような 気がする。しかし、それが日本女性の美であったようにも思う。 歴史は流れた。しかし、この映画でまた日本の女性の美を復活させてくれたのかもしれない。映画を観たこちらの人たちは、 そのたったひとりの女性から、それが日本の女性の姿だと思った人もいるのだから...。 その映画のシーンで、その女性が、土間におりてくる場面で大きな籠をかかえていた。役のトム.クルーズが、それを見て 「その籠を持ってあげましょう。」と言って持ってあげるのだが、その時にその女性が言うのだ。 「日本の男たちは、そのような事はいたしません。」 アメリカの生活文化を取り入れ日本の文化とうまく絡ませたシーンだと思わず笑ってしまった。 さて、今の社会に生きる侍たちは、そのような言葉の時代から今の時代へとうまく流れてきたのだろうか。 なぜか、そのシーンの言葉が心に残った。
トロントの冬の中で 2004年1月30日 私が、初めてトロントに着いた日は何十年か振りの大雪に覆われた日だった。南国生まれの私にとっては、 限りなく広がる大地に限りなく広がる白い世界を見るのは初めての経験だった。すごい!という言葉より、 閉ざされたような生活が始まるのではないかという不安の方が大きかった。 しかし、室内では、25度ぐらいの快適な生活ができることに驚いた事も覚えている。宮崎の冬でも、コタツや ふとんからなかなか出れない事を思えば、心地よい生活だ。 今年の冬は、マイナス30度前後まで達した厳しさだ。毎日、雪に覆われて過ごす日々だが、なぜか、雪が降る 日は気温は上昇しマイナス10度前後になる。マイナス5度ぐらいになると、「今日は何だか暖かい。」というような 挨拶が交わされる。 そのように雪の多いトロントだが、降り続くと道路も家々のガレージ前のドライブウェイも雪かきで忙しくなる。 除雪車は、一晩中動いている。お陰で、朝の出勤までには、ローカルの道路もハイウェイもスイスイとドライブが 可能になっていつものように普通に生活ができる。通学する子供たちに間に合うように、歩道では小さな除雪車 も朝早くから動いている。それに、除雪した後には、道路も歩道も塩や土をまいたりするのだが、雪国の訓練 されたその働きには感心させられる。 毎日のドライブをしながら思う事は、トロントのドライバーのマナーは最高だと思っている。信号機のない 横断歩道に人が立っていたら車は必ず止まる。日本人は、その行為につい急いで渡ろうとするが、こちらの人 は、ゆっくりと横断している。止まっている車も急がせようとはしない。車のクラクションもほとんど聞かない。 この事ひとつにしてものんびりとした生活習慣が伺える。 このような事を書きながら、「せまい日本 そんなにいそいでどこへ行く」という日本で見た何かのキャッチフレーズを 思い出した。 さて、今までドライブをしていて迷う事の多かった道路での事だが、今年から、バスがバスストップゾーンから出る 場合は、バスが優先で車は必ず止まってバスに道を譲らなければならないという法律が定まった。罰金も最高で は900ドルという。 ところで、トロントに来た当時、バスに乗って驚いた事がひとつある。ある日、バスがバスストップでもないのに止ま り、そして、運転手が降りていくのだ。どうしたのかしら?と思いきやなんとそこには、コーヒーショップがあって、 運転手はコーヒーを買いに行ったのだった。10人ほど乗っていたお客は、あたり前のように待っている。その光景 を見ながら、コーヒーを飲みながら運転するのは、居眠り運転より、イライラ運転よりまだ安全なのかなと思った ものだ。 冬のトロントを過ごしながら、所が変われば色んな事が変わるものだ、と今ではそんな生活に驚いたり感心したり しながら納得している。
カナダのPRカード制度 2004年1月15日  モザイク社会であるカナダに移住して住むようになると、その移住者としての証明をする為に、私たちのパスポ ートにはピンクの移住証明書が付いている。この証明書があるお陰で、帰国した日本からカナダに容易に入国 する事ができる。  以前、成田国際空港で、受付けのカウンターで受付け嬢から、「これはなんですか?」と怪訝な顔で尋ねられ たことがある。もちろん内容は英語で書いてある。しかし、ここは世界の人々が行き交う国際空港なのだ。私は、 「見ての通りです。」と答えてそこを離れた。  さて、カナダには150万人の永住者がいると言われている。様々な国の人が住む多民族国家であるカナダ。そ のようなカナダも、「911」のテロ事件から大きく変わろうとしている。  そのテロ防止対策の一環として、カナダに住むすべての移民は、新しい永住者カード(PRカード)を保持するよ うに義務付けられその通告がされ実施された。これから、移住者は、このPRカードがないと、カナダへの入国を 拒否されることになる。  4月に帰国の予定の私は、慌ててその申請を始めた。10枚の書類を取り寄せ、友人の書類を借りて参考にし ながら記入する。写真などにドクター、弁護士、会計士などのサインが必要になる。一箇所でも記入もれがあっ た場合や名前のスペルを間違うなどすると書類は簡単に書き直しの通告と共に返ってくる。  友人の知り合いは、目の色を「ブラック」にマークしたら、「ブラウン」にせよ、と返って来た。  このPRカードは、5年ごとに切り替えが必要だという。  さて、現在までに発行されたPRカードは85万枚だという。残りの65万人は、そのような厳しい制度をどう受け 止めているのだろう。ともかく、その制度はスタートしたのだが、まだ私のPRカードの受取日の連絡がこない。も うそろそろ提出して一ヶ月以上を過ぎている。  帰国は目の前なのだ。
2004年は愉快に 2004年1月4日  2004年が明けました。友人が、「明けおめ!」と言うので、「なーに。それは?」と尋ねたら、日本の若い人たち は、新年の挨拶を携帯等でそう挨拶をするのだと言う。(ほんとかな?)  ある日、関西出身の友人が楽しい話をしてくれた。  関西では、冷たいコーヒー(アイスコーヒー)の事を短縮して「冷コ」と言うのだそうだ。ある時、地方から大阪に 遊びに出かけた60代の女性が、コーヒーショップに入った。椅子に座って何にしようかと迷っていると、隣の女 性がウエイトレスに「私、冷コ!」と言っているのを聞き、大阪では、注文するのに自分の名前を言うのかしらと思 い、ウエイトレスに「私、よし子!」と言ったそうだと聞き大笑いをした。「じゃ、名前がおよね、だったら...私およ ね!」...と話が広がり爆笑だった。  先日、集まったパーティ先で友人が言うのだった。トロント日系文化会館でイベントがあり寿司を売っていた時 のおもしろい話。 日系2世のお年な方が来て、「これいくら?」と聞かれ、友人は、「今日は、イクラは置いていません。」それでも、 その方は聞くのだった。「これ、ハウマッチ?」友人は、「ハマチもありません。」  また、話が元に戻るが関西では、コーヒーに入れるクリームの事をフレッシュと言うのだそうだ。新聞に掲載し てあったのだが、東京では、クリームまたはミルクと言うとあった。  こちらでは、時々コーヒーショップに行くと、「ミルクにしますか?クリームにしますか?」と聞かれるが、ミルク は日本の牛乳の事を言う。私は、コーヒー用のクリームは重すぎるので、いつも「ダブルミルク...」と言う様に している。  以前、帰国した時に牛乳が飲みたくてつい「ミルクあるかしら?」と言って小学生の甥に笑われてしまった。日 本では、ミルクと言うと赤ちゃんのミルクを想像する。  トロントで友人と電話で話をしていた。相手は、東京出身の友人だったが、電話の最後に「じゃ、今から来るわ ね。」と言った私に、「えっ!この場合、今から行くわね、でしょ。」と言われてしまった。宮崎では、「今から行きま す。」の事を「今から来るね。」と言うのだ。英語でも、「あなたの家に行きます。」を「I am coming./I will come to your house.」というように「go」は使用しない。直訳すれば、「わたしは、来る...来るだろう...」になるのだ。宮 崎の方言もなかなかナウいではないか。  このような言葉の失敗はたくさんあるが、こんなおもしろい話は深く考えずにサラリと聞いて楽しくいきましょう。  2004年...今年はそんな愉快な年にしよう。今年もよろしくお願いします。
サンタクロース 2003年12月24日  ずい分昔の事だが、4歳の子供を持つ友人が言うのだった。「ねえ、娘がサンタさんがいないって気づ いた時に相当にシヨックを受けるんじゃない心配なの。どうしよう。」  友人は、深刻にその事で悩んでいた。私は、「だいじょうぶよ。学校の友達とお話をしたりしながら、自 然に分かるようになるから...。」と言ったのだが、心配はなかなか消えないようだった。  我家の子供たちは、5歳頃になるとサンタさんに手紙を書くようになった。「サンタさんは日本語がわか るの?」というような疑問も、「サンタさんは、世界中の子供たちにプレゼントを運んでいくから、何処の国 の言葉でも分かるのよ。」  すると、子供たちは、おもちゃ屋のカタログを見ながらオーダーが始まる。親は、それを見逃すと大変な 事になるのだ。「ねえ、サンタさんは、世界中の子供たちにプレゼントをあげるのだから、あまり高いもの はサンタさんが大変よ。これくらいがいいかなあ。」と親も大変な気配りとなる。  子供たちもそんなサンタさんに気配りをする。イブの夜に、サンタさんもあちこちに行って喉が渇くだろう から、と暖炉の前に、ジュースとクッキーを用意して寝るようになった。子供が寝静まるとジュースを半分 飲んで、クッキーをかじって、「ありがとう。」のお返事を書かなければならない。ある年は、それをすっか り忘れて、朝、急いで階段を駆け下り、滑り込みセーフになったこともある。  そんな思い出の多いクリスマスが今年もやってきた。このところ、雨続きですっかり雪が姿を消した が、雪のないクリスマスはカナダに来てはじめてのような気がする。  そんなクリスマス...子供心に待ちに待ったサンタの正体が分かったクリスマスだが、それでも、ツリ ーの下には、プレゼントが山積みになっている。  そんな中、クリスマスが近づくと大きく育ったサンタたちが今度は私に向かって言うのだった。  「マム!今年のクリスマスには何がほしいの?」
12月のイベント 2003年12月15日  今年も、大きなイベントを企画したその日、12月13日が終わった。70名ほどのボランティアの参加に より、トロント日系人の間では恒例となっているそのステージショーは、多くの方々に楽しんでいただい ている。  素人の域を越えたその洗練された歌や舞踊、寸劇などはお客様を楽しませる事に関しては、プロフェ ッショナルにも負けないという自負をもっている。  自分たちで、プログラムから舞台までを考案制作し、自分たちですべてを創作する力は、素人とは思 えないほどのレベルを持っている。  7月に実行委員会を発足して5ヶ月間、トロント日系文化会館の場所確保からスタートして、ミーテイング、 歌手選考、制作スタッフ募集、リハーサルといった激動の時間が流れていく。その中で、ボランテイ アとしてのスタッフや歌手を兼ねたスタッフ達のその底力は、誇りに思いたいほどだ。  仕事や主婦業を終えたボランティア達、その中で、60代や70代の高齢者の経験力が、夜中を過ぎる まで、本番までの間、様々な作業が続く。そのテキパキとした行動は、それぞれに頼もしい。そして、ど んな事があっても、支えあいながら、次から次へと山積みしていく問題を解決しその流れの中で楽しむ 事を忘れない。  本番前夜になると、時には100名、時には70名程のボランティア達の気持ちは5ヶ月間の準備期間 の流れの中で最高潮に達する。その高揚した絶頂感の中で、緊張と興奮が入り混じり、本番は、花火 が空高く上がり色とりどりの色をつけ炸裂したあの瞬間のようだ。それぞれの持ち場で、それぞれの自 分を最高に活かし表現し、観客と一体となった3時間のステージショーが繰り広げられる。  終わってからの余韻は、達成感と共にしばらく消えない。  2003年も、カウントダウンが始まったが、このような企画が終わるとホッとした気分の中で、ゆったり とあせることもなく余裕を持って、12月の残りを終わらせる事ができる。  1年の締めくくりは心身共に力を出し切る活動...総まとめはこれに限る。
「和顔愛語」 2003年12月4日  ガソリンスタンドに行く時には必ず、「フルサービス」に行く事にしている。しかし、カナダは「セルフサービス」がほとんどなのだ。  ある急いでいる朝、ガソリンがないのに気づいた。さっそく行きつけのガソリンスタンドに行って見るとなんとクローズの看板が窓にか かげてあった。日曜日の朝の10時に閉まっているなんて今までにないことだ。時間がない。まずは走りながら、いつも通いなれている 道路にスタンドがあるのを思い出し、そこに乗り着けたがセルフサービスとある。ちょうどカナダ人らしき女性がガソリンを入れている最 中だったので、入れ方を尋ねた。「イージー、イージーよ。」と言いながら教えていただき、自分のが終わると私のをチェックしながら「ほ ら、入ってるわよ。」と言いながら手を振って走り去った。ところがである。代金を支払おうと事務所に行くと「あら、何にも入っていないわ よ。」と東洋人らしき女の子が言うのだった。「あのう、今まで自分で入れた事がないの。だから教えて。」と言ったらニコニコしながら「オ ッケー」と言って快く教えるどころか、フルサービスの形で全部してくれたのだ。寒い朝なのにその優しさに心がほのぼのとした気分 になった。その朝は、気持ちも明るくなってその後のドライブも気分爽快だった。  和顔愛語...柔らかな笑顔と優しい言葉と新聞にある。そんな笑顔や優しい言葉は人を幸せにする大きな力を持っている。  私も、そんな力を自然にだせるようになりたいと朝の小さな出来事の中で思った日だった。
「 たまには...」 2003年11月24日  1年に一回も乗ることのないサブウェイに乗った。まず、「今、サブウェイはいくら?」という質問から始まった。2ドル25セント...この 料金を一回払えば、乗りかえてどこまでも行ける。ただしバスに乗リかえる時は、必ずサブウェイステーションに備えてあるボックスから トランスファーを取っていかなければならない。また、バスからバスへ乗りかえる場合もバスの中にトランスファーが用意してある。  車社会の中で、私は、サブウェイはもちろんバスやタクシーなどはほとんど利用しない。夜のサブウェイやバスはもちろん、特にタクシ ーにはひとりで乗らないようにしている。トロントは安全な町だが、ここは外国なのだという意識は28年経っても捨てきれない。  さて、ある友人は車を持たない。珍しい事だが必要ないのだ。住んでいるコンドミニアムの地下は商店街になっており、そのまま、サ ブウェイステーションへと続く。そこから、南へ30分...ダウンタウンの友人の勤めるホテル内のブテイックまで、サブウェイを降りて、 有名なデパート内を通り、目の保養をしながら一歩も外に出らずに行ける。今日は、その友人に誘われて、慣れているナビゲーターの ごとく、迷い道のように進んでいく。「雨が降っても傘もいらないわねえ。」なんて楽しいおしゃべりをしたり、ちょっと可愛いお店で寄り道 をしたりしながら、目的地へと着いた。  店のオーナーが出迎えてくれて、友人だという事で今日は何でもスペッシャルプライスに...。挨拶をされると、「今からドクターのア ポがあるの。ごゆっくりね。」とひと言残して出かけて行かれた。友人は、「店を閉めましょ。」、と言って私たち二人を相手に商品のご案 内。コーヒーをいただきながら、ゆっくり貸し切りでショッピング。優雅な時間が過ぎていった。  ショッピングを終えるとオーナーから電話がかかってきた。「3人で、お店の前にあるステーキハウスで食事してね。ご馳走する わ。」...。「なんて、今日はラッキーな日!」と言いながら3人で楽しいランチタイム。 この店に詳しい友人は、若いウエイターに「新聞に載っていたわね。このメニューをオーダーすれば2割引...。」友人の説明によれ ば、「今までは、新聞の切抜きが必要だったけれど、今は、その新聞に掲載してあったという事を言えばOKになる方法なのよ。」私は、 「なーるほど。新しい戦法ね。」と感心した。  たまには、サブウェイに乗ってダウンタウンへと出かけるのも良いものだ。今日のように普段見えない物や楽しい事にもたくさん出会 える。
冬のパンジー 2003年11月21日  朝起きて、キッチンのブラインドを開けると私を元気づけてくれる花が迎えてくれる。カナダに来てはじ めて植えた白と紫の混じった冬のパンジーが、出窓の鉢植えの中で朝日に光り輝いている。11月にな って何回か雪もちらついたのに、今でも、我家の淋しくなった冬の庭で活き活きと咲いている。鉢には、 「WINTER PANSY」と記してある。  こんな優しい色のパンジーを見る度に、ほんわかと心が和む。ホッとして、今日も頑張ろうという気にな る。  11月も終わりに近づいたというのに、今日の雨上がりの朝はいつもよりとても爽やかだ。こんな日は、 尚更、パンジーの花に心が寄せられる。「今日も元気をありがとう。」とあわただしい朝の時間にパンジ ーと語り合う。  多忙な日々が続く中、人の織り成す様々な問題を抱えながら、このいっときの時間はとても貴重だ。   癒すという言葉が、日本では馴染みになっているが、私はあまりその言葉を好まない。日本では、 「癒しの国日本」と言われているほどに、日常に使われているようだが...。  冬のパンジーを眺めながら、やっぱりそれは、「心を和ませる」という言葉がぴったりのようだ。さて、こ の冬のパンジーは、いつまでその花を咲かせ私の心を和ませてくれるのだろう。
もみじ 2003年11月12日  11月の半ばになって、木々たちが冬風に揺れている。すっかり葉を落としたその姿は、これからの厳しい 冬の準備をしたかのように見える。  我家の玄関先に一本の日本のもみじがある。15年前に、植えたものであるが、今まで、あまりきれいな 色をつけたことがなかった。だが、今年は、見事な色をつけたのだ。その葉が一雨ごとに散っていく。散った もみじを一枚づつ丁寧に拾い集め押し葉にした。もみじを拾いながら、母と姉と小さな旅をした京都を思い 出した。その日もこのような雨上がりの日だった。見事な色をつけた京都のもみじが忘れられない。トロントの今年の秋は、 何だか気候が日本と似ているように感じた。その為に我家のもみじもきれいな色をつけたのだろうか。  日本のもみじは、こちらでも人気があるようだ。ドライブをしていると、あちこちの庭先に真っ赤な色をつけた もみじが玄関に彩りを添えているのが見られた。  そんなもみじの押し葉を、トロントの秋が届く事を願いながら知人手製のカードに入れて日本の友人に送った。 カードの表紙には、知人が、押し葉をしたメープルの葉が、トロントの秋を演出してくれている。  トロントの秋は、海を越えて、もみじの押し葉の手紙と共に終わりを告げた。
ハロウイーン2 2003年11月1日 「ハロウイーン2」…何だか映画のタイトルみたいになってしまった。でも、昨夜は、あちこちのTVの番組 はそんな恐怖映画で埋まっていた。 そのハロウイーンの日、日本から来たばかりの友人がドライブ中、隣の席で言うのだった。「あのう!ど うして、ハロウイーンなのにあんなに、家の軒下や木に「てるてるぼうず」が下がっているのですか。」私 は、思わず大笑いしてしまった。なるほど、確かに日本人から見たら「てるてるぼうす」なのだ。「あれ は、ハロウイーンの飾りでお化けなのよ。可愛いでしょ!」それを知って、友人が笑いこけてしまった事 は言うまでもない。 暗くなった6時過ぎ頃からコスチュームをつけた子供たちが、「トリックORトリート」、「ハッピーハロウイー ン」と言ってやって来た。親たちは、前庭の道で待ちながら子供たちが、玄関に訪問して来る。9時頃で 途絶えたが70人ほどの可愛い訪問客だった。 このハロウイーンの日は、幼稚園や小学校の低学年は、学校でハロウイーンパーティーをして楽しむ。 だから、その日は嬉しそうにコスチュームをつけて登校して行く姿が見られる。学校から、腰につける危 険なものは避ける事、顔につける物は学校でつける事、というような注意書きの手紙が届く。そして、パ ーティーが終わると「ハッピーハロウイーン」と言いながらそのまま授業中の高学年のクラスを回って行 く。その時は、ちょっと授業を中断して、可愛い低学年の訪問者を楽しく迎える。それを、見ながらなんと 和やかな風景だろうと思ったものだった。 昨夜のハロウイーンのお天気はいつになく暖かくて最高だった。友人が勘違いしたあの可愛いお化け は、きっと「てるてるぼうず」の役目もしたのかもしれないとまた思い出し笑いをしてしまった。
絵手紙 2003年10月22日  友人から、「明日お手紙を投函します。」というEメールが来た。10日ほど経ってその手紙が届いて驚 いた。長さ1メートル以上幅40センチほどの習字紙に6枚の絵手紙だった。見事な筆の字でその季節に 応じた絵が一緒に描かれている。  椅子に座って読み、立って読み、最後には、手紙を寝かせてゆっくり堪能した。その友人らしい試みに うなずいたり笑ったりしながら楽しんだ。子供たちが、そんな私を見て笑っている。トロントの友人に、こん な手紙が来たよ、とEメールしたり、喜びがあちこちへと飛びかった日だった。  きっと、世界にひとつしかない絵手紙だわ、と思いながら、今度は、2階の階段の手すりに掛けて読み 始めた。  高校時代、母が言った言葉を思い出す。「友達は生きた宝物だからね。」  そんな友人に心から感謝をしたい。秋も深まり10月も終わりに近づいた日、友人の優しさに触れたひ とときだった。  このように、たくさんの思い出を残して秋が駆け足で過ぎて行く。
いよいよ冬時間 2003年10月20日  日光節約時間(夏時間)が、10月25日で終わり26日(日)の午前2時から冬時間がスタートする。2 5日の夜、就寝前に時計の針を1時間もどす事を忘れないようにしなければならない。  その日から、日本との時差が14時間になる。日本とカナダは、昼と夜が逆なので帰国したりカナダに 帰って来た時にその調節が大変だ。  母は、電話の度に、今でも「今、そちらは何時かしら?」と尋ねる。母は、80を越したのになかなか忙 しい人だ。5分も話していないのに、電話中に、「今から出かけるから切るよ。」といそいそと切ってしまう のだ。だから、時差や母の毎日のスケジュールを考えながら、つい電話のタイミングを見逃してしまう。 そういうことが、ついつい続くと母の心配が始まるのだ。「電話がこない。病気をしてるんじゃないのかし ら。」。そして、痺れを切らして、福岡の姉へ電話が行き、そこからカナダへと電話が引き継がれていく。 このリレー電話が時折起きる。  先日もそんな事が起きて、朝の時間を考えに考えて電話をすると、「あーあ、良かった。安心してでか けられるわ。じゃーね。忙しいのよ。またかけて。」と言ってすぐ切られてしまった。最後に、「今、そっち は何時ね?」と付け加えることも忘れないで...。  さて、そろそろ母に冬時間になるよって電話をしなければ。今の時間だとタイミングがいいかなあ、と思 いながら...。  時差は本当に不便だ。
ハロウイーン 2003年10月13日  10月31日はハロウイーン。秋の収獲を祝い悪霊を追い出すお祭りだ。 もう、どこそこの店やドライブ中の道路にはたくさんのオレンジ色の大小様々なパンプキンが並んでいる。 トロントは、すっかりハロウイーン一色だ。  その日になると、仮装をした子供たちが「Trick or Treat 」(いたずらかお菓子か)と言いながら、 家々をまわってお菓子をねだる。この日は、お菓子を貰い放題である。家によって、家のチャイムを鳴らすと 家主がお菓子のカゴを持って出てくる場合や玄関先にお菓子の入ったカゴが置いてあり「好きなだけどうぞ」 という張り紙があったりする。中には、家主が、仮装して出てくる所もあり、また玄関先には、ユニークなデコレーションが してあったりと楽しい。ハロウイーンにふさわしい音楽なども流れていて、ムードを出して凝ってる家などもある。  我家も、毎年ユニークな形のパンプキンを買って、顔を作り玄関先に置いて楽しんでいる。今では、子供たちも そんなお祭りから卒業したようなので、お菓子を貰ってくる事もなく内心ホッとしている。  子供たちが、小さい頃はそのお菓子の量にため息がついたものだ。この量のお菓子を毎日食べるのだから、 親はどうしても悩みになってくる。毎年、貰ったお菓子のチェックが必要だった。子供たちが、学校に行っている間に ほとんど処分をした。中には、お菓子の中に混じってフルーツや飲み物等歯ブラシや鉛筆、マクドナルドのフリー券等もあった。  さて、今年もたくさんのお菓子を用意することになるが、親としては、毎年複雑な心境になる。電気を消して居留守を 使おうか、それとも、「お菓子ありません。」と張り紙をしようかと思うが、それも味けないような気もする。  ハロウイーンは、楽しいお祭りとはいえやっぱり悩みの種なのだ。
手作り羊羹 2003年10月10日 カナダに移住して、日系人の方々とお付き合いをして感心させられる事がたくさんある。 そのひとつとして日本の食べ物の手作りである。カナダに渡って、日本食がなかなか手に入らなかった 時代に磨かれた腕前には驚く事が多い。 先日、ある一世の方から手作りの羊羹をいただいた。今までにも、一世の方から何回も手作りの羊羹を いただいた事があるが、その方がよくおっしゃっていた事が思い出される。 「昔は、日本の物が手に入らなかったから、このようにして何でも、見よう見まねで作ったものよ。」 その練り方など甘さなどに感心し、作り方を教えてもらったが、何しろ今では何でも手に入る時代に なり一度も試みていない。 しかし、先日いただいた手作りの羊羹は、どんな市販の物にも負けないくらいの何ともいえない余韻の ある味がした。きっと、この味になるまで長い経験があったに違いないとその心のこもった羊羹に、本当の 日本の味がしたような気がした。そして、この味こそ、羊羹が生まれた時の最初の味だったのではないかと さえ思った。この手作り羊羹から、20代の頃「おばあちゃんの知恵」という本を買った事が思い出された。 確か、私とカナダに渡ってきたはずだと思いながら、明日にでも古い本が並ぶ本棚を見てみようと思う。 時々、母の懐かしい味を真似たいと、国際電話でその料理のレシピを尋ねるが、懐かしい味の調味料は、 すべて「適当...」としか返ってこない。  この「適当...」という言葉こそが長年の経験を積み重ねた「おばあちゃんの知恵」かもしれない。 そして、長い移民の生活の中で生まれた「おばあちゃんの知恵」も子から孫へと伝授されていくのだろうか。  手作りの羊羹は、長い流れの中での苦労や喜びの混じった、深みのある味がしたようにも感じた。
一枚の絵はがきから 2003年9月30日  私は、トロント宮崎県人会の事務局を預かっているので、年に3回ほど「宮崎県人会だより」を作成し、 会員はもちろん日本を中心に世界各地の宮崎県人会にも送付している。  しばらくすると、その世界各地のアメリカ、マレーシヤ、ボリビアなどからお礼の手紙やはがきが届く。 そして、毎回日本の同じ方から必ずお礼の絵はがきが届く。絵はがきは、色んな種類があって最近では それが楽しみになっている。  今回は美しい富士山の絵はがきだった。富士山は、あまりにも有名でその美しさを日本人同士では、 なかなか語る事がない。こうして、日本を離れてみると、やっぱり富士山は素晴らしい山だと絵はがきを見ながらつくづく思う。  トロントにいる友人が言ったものだ。「私の実家のお風呂場は、湯に浸かりながら富士山を見ることができるのよ。」 「何と贅沢な!」と思わず言葉を返してしまった。生きたそのままの景色が、家に飾られたような絵となって、 毎日見ることができるのだ。  そして、その事から思い出すことがある。遠い記憶の中に眠っていたものだ。 小学生の頃、家庭訪問になぜか校長先生が我家に訪問して来られた。その時の先生の言葉が忘れられない。 「あなたの家には、飾る絵などはいらないですね。この素晴らしい山並みの自然の景色がそのまま家の飾る絵になっている。」  心に残る言葉、心に残る絵葉書や手紙...。人はみんなそのような様々な物を大事にしながら生きている。  秋の夕暮れの中、先日届いた絵はがきの最後の「どうかお元気で!」という言葉に、いっぱいの思いやりを感じながら...。
届いた一枚のCD 2003年9月27日 ある日、宮崎の見知らぬ方から一枚のCDが届いた。宮崎では作曲家として有名な方だと後から知っ た。ご自分で作曲された宮崎に因んだ歌16曲がCDになっていた。 「県外で住んでいらっしゃる宮崎県人会の皆様に聴いて頂き宮崎を想い出して頂けたら幸甚に存じま す。」とお手紙が添えてあった。 思いもかけない嬉しい便りとプレゼントに深く感動した。CDを聴きながら、気持ちが高揚し23年間生き た故郷宮崎の様々な姿が目に浮かんだ。民謡を織り込んだ歌謡曲は、あの青い空と海を走る日南海岸 が絵の様に心に浮かんでくる。懐かしさが何処までも限りなく広がる。帰れる故郷を持つ幸せが手の中 にあると、今つくづく異国にいて思う。 「故郷は 遠きにありて 思うもの...」 いつでも帰れる故郷があるからここで頑張れるのだと思っている。そして、故郷のありがたさは、こうして 遠くに離れてこそ気づくものなのだ。 その優しさや思いやりが入ったこの一枚のCDは、今、会員の人たちに順番に回されている。 一枚のCDは、私たちに幸せを運んできた。
 2003年9月20日 『秋の夕日に 照る山もみじ 濃いも薄いも 数ある中に 松をいろどる 楓や蔦は 山のふもとの すそ 模様』  秋の定番曲となっている「もみじ」という歌は、小学校2年生の文部省唱歌として作られたと聞く。  このように、時々友人が送ってくれた童謡や唱歌、海外の歌等を聴く事ができるHPを開いて楽しんで いる。  トロントは、そろそろ吹く風に秋の気配を感じるようになった。裏庭では、ピンクのコスモスが揺れてい る。キッチンの窓から「秋だな」ってひとり思いながら、唯一我が家の大きな木メープルは、今年はいい 色を付けるだろうかと楽しみだ。この木は、一体どこから来て育っているのか家の者も誰も知らない。い つの間にか、土から顔を出し1センチ2センチとグングン育ちはじめた。そして、14年経った今では家の 屋根を越えている。そのメープルはその年の気候によって色を変える。ある時は、鮮やかなオレンジ、あ る時はくすんだ黄色...。  さて秋は色んな言葉を楽しめる。食欲の秋、スポーツの秋、読書の秋を含んで芸術の秋...そして人 恋しくなる秋。そして、女ごごろと秋の空もなかなか納得のいく言葉だ。そんな言葉に乗せられて、食 欲、スポーツ、芸術を楽しんでいるが、先月私は、日本のある友人から何年かぶりに自筆の心のこもっ たお手紙をもらった。やっぱり、自筆は感動ものだ。そろそろ、その友人に自筆で返事を書こう。  人恋しくなった秋だもの。
ひととき 2003年9月13日  何処までも青空が広がり風もない穏やかな日、友人に誘われて、クレインバーグ村に出かけた。我が家から、北へ車で20分。そこ は、前に紹介したユニオンビルのような可愛い小さな村だ。  さっそく車から降りて散策。村には、電柱や道路ぞいに溢れるように花が植えてある。電柱に下がった花も手入れが行き届いている。 車も少なくて道路の真ん中に立って、村全体を眺めると「おとぎの国」にいるようだ。なんと素敵な光景。なんとのんびりとした時間。  いつものようにアンティークの店に入った。所狭しとゴージャスなアンティックな品物が店いっぱいに並んでいる。いったいどこからこん なにたくさんの古い素敵な物がここに集まるのだろうってつぶやくと友人が言った。「ひとり住まいのお年寄りが亡くなられると家ごとそ の家財道具を買うのだよ。」という。さすが、さすが...。  その中に、蓋にバイオリンと本が絵になっている素敵な宝石箱が目についた。お値段がついていないので、きっと高いのだろうなあっ て心を残して店を出た。  そこには、一軒だけ素敵なレストランがあった。隣に白い三角屋根の可愛いチャペルが並んで建っている。思わず「素敵。」って叫ん でしまった。友人の話によると、そこで、結婚式を挙げそのまま、そのレストランでレセプションが出来るようになっているそうだ。ふたつ を繋ぐ広い庭には、お花がいっぱいだった。  レストランでは、お年な夫婦やお年な女性だけのグループがのんびりと楽しそうにランチをする光景が見られた。  食事を終えて、トロントで有名な林の中にある、この村ご自慢のマクマイケル美術館に行った。「グループ.オブ.セブン」や先住民、イ ヌイットなど、カナダの偉大な芸術家の作品が並ぶ。友人は、この美術館の周りのフェンスや橋を設計したのだと説明してくれた。「ま だ、健在だなあ。」と嬉しそうに、いとおしそうにそれらを手で撫でていた。  今日は、目と心の保養をした素敵なひとときだった。
トロントで見る火星 2003年9月9日  8月27日、火星が約6万年ぶりに地球と最接近した。その地球との距離、約5576万キロ。太陽の周りを365日で回っている地球 と、687日で回っている火星が接近するのは、約2年2ヶ月に1回。そして、9月の日本のお月見の夜11日には、月と火星の大接近が 見られると新聞にあるが今夜すでに大接近をしているようだ。ほぼ満月に寄り添う火星の姿...新聞の見出しに『月と火星がランデブー』 とある。なんて素敵な言葉。  夜半前に、この頃、毎晩その火星を眺めて楽しんでいる。9月に入ってトロントは気温が下がり空気が乾燥しているので、輝きも一段 と鋭くなっているそうだ。今夜も、部屋から眺めると、南の空に赤いダイヤモンドのようにキラキラと光輝いている。何度見てもあきない。  火星と地球の接近は、約2年2ヶ月ごとに繰り返されるが、今回を上回る接近は284年後の2287年になるそうだ。気の遠くなりそう な話だが、その時も、人々はゆっくりと月と火星を見て楽しむのだろうか。  今夜、もう一度、月と仲良く寄り添う火星を眺めてみることにしよう。
若者たち3  2003年9月8日  若者たちの話を書いていくうちに過去に聞いた話や実際体験した事などが次々と浮かんでくる。  この話は、ずい分過去に日系新聞に父親が投稿されたものだ。おぼろげではあるが、心に残る箇所 は確かなものとして思い出される。家族の問題をこのようにして公にされる事の意味が私には理解でき た。その頃、私も難しい子供の年代と対面していたから。それに、その投稿された方と何度か面識があ った。  子供が、思春期、大人へと成長していく過程は、どんな親子でも時には越えられない親子関係へとな り、大きな問題を抱えることもある。  思春期の時代、子供の家庭内暴力がはじまるとそれはとどまることなく激しくなっていく場合がある。 その投稿の中の家庭内暴力などの問題には、親としての力の限界を超えたものがあり、最後には、親 が警察へ通報するまでに発展していった。その繰り返しが、どれだけの家族の痛みだったか計り知れ ない。家の中でも、外でも若い力は容赦なく暴れ回る。組織的な集団へと入っていったその子の変貌 は、親では、どうする事もできなかったろう。  しかし、親はあきらめなかった。  最後の最後の手段だったのだろうか。暴れ回るその我が子を日本の実家へ送る事にしたとあった。  どんな子でも、人間であれば心のどこかに小さな小さな一点の明かりがあるはずなのだ。その息子さ んが、成田空港に降り立った時、祖母が迎えに来たと言う。向こうから、小さな体に杖をついてゆっくり ゆっくり歩いてくるその祖母の姿を見た時、彼の目から涙が溢れ出した。きっと、小さい頃から何度か会 っている祖母だったのだろう。祖母にとって事情を知りながらも、大きく育ったその姿は、可愛い孫の姿 だったのだ。  彼は、その瞬間、溢れ出てきたその涙で、今までの長い間の間違いだらけの人生に溜まった、体中 のすべてを流し出してしまったのではないだろうかと思う。祖母の力は偉大だった。一点の小さな小さな 明かりが祖母の力で大きな明かりとなったのだ。  長い長い親子の闘いはそこで終った。その後、その息子さんは、自力で警察官になったと聞く。おぼ ろげだが、その写真が2,3回に続いた投稿の中に掲載されていたように思う。遠回りをして、目的地に たどり着いたその若者は、あれから素晴らしい人生を送っているに違いない。  親は、決して諦めてはいけないのだ。
若者たち2  2003年9月5日 『君の行く道は 希望へと続く 空にまた 陽がのぼるとき若者はまた 歩きはじめる』  我々新移住者の二世達も日本へと夢や希望を持って働きに行くケースが多くなった。そして、様々な 体験をしながら、そのまま日本で根をおろそうと決心する人、すぐにUターンして帰ってくる人など様々だ。  ある友人が話していた事だが、その二世の若者は、日本での仕事が決まり東京での生活が始まっ た。ある朝、駅の階段で転んで起き上がれなくなった。しかし、そこに誰ひとりとして抱き起こしてくれる 人もなく、「だいじょうぶ?」と声をかけてくれる人もいなかったという。中には、自分をひとつの物体のよ うにまたがって歩いていく人もいたそうだ。「トロントだったら絶対そういうことはない。誰かが助けてくれ る。」と、涙を流しながら話していたという。そして、彼女は、その事があって不安と悲しみで日本が嫌い になりトロントに帰って来た。  友人の娘さんは、3年ほど日本でマスコミ関係の仕事をしていた。しかし、彼女も日本の不思議さが理 解できず帰って来た。話を聞くと、まず夜の変貌が怖かったと聞く。スーツを着てしゃきっとした男性たち が夜になるとお酒が入り、その変わる姿がどうしても理解できなかった。なぜあのような姿になるまで飲 むのか。日本の嫌な姿が見えてきて我慢できなかったと言っていた。同じような話だが、ある日本の新 聞の投稿欄にも留学生の女子からの投稿が出ていたが、やはり、「日本の酔っぱらいをどうにかしてほ しい。...」と書いてあった。  日本に行く若者たちは、溢れるほどの良い情報ばかりを手にして笑顔で出発して行く。でも、二世たち は、そのように自分たちのルーツをたどりながらも、落胆して帰ってくるケースもある。このような話を聞く たびに、悲しくなるが、いつか彼女たちが、何かをきっかけにして、日本を好きになる何かを見つけてほ しいと願っている。  まぎれもなく、そこはあなた方の祖国なのだから。
若者たち  2003年9月2日 『君の行く道は 果てしなく遠い だのに なぜ 歯をくいしばり 君はゆくのか そんなにしてまで』 昭和41年頃に流行った歌だ。  カナダに住んでたくさんの日本人の若者たちと出会った。縁があれば、その若者たちと手紙の 交換や今ではEメールの交換へと繋がる。そのような若者たちと、彼らの持っている悩みや夢を 聞くことがしばしばある。それは、帰国後も続いて中には大学を卒業した若者たちが、厳しい社 会へと歩き始めた途端、その時とは違うたくさんの悩みや苦労を抱え始める。  あるひとりの若い女性が我が家にやってきた。日本には、ワーキングホリデーという日本とカナ ダの合意の下に、18歳から30歳までの若者が最高1年間滞在できるシステムがある。確か、 彼女もそのワーホリで来た人だったように思う。  もうそろそろ日本へ帰国の時期だったようだ。そんな彼女が、アイスホッケーが観たいと言う事 で長男の試合に連れて行った。終って、遅い時間だったのでスティ先まで送っていったが、帰宅 した途端電話がかかってきた。財布がないという。車の中やあげくはホッケー場のパーキングも 探したがない。いったいどこで最後に財布を開けたのと聞くと、なんとホーケー場で飲み物を買 ったという。その店のカウンターに忘れたかもしれないということになった。90パーセントない物 とあきらめるしかない。  明くる日、さっそくホッケー場に電話をして聞いた。なんとそれはちゃんと届けられていたのだ。 紛失した物が出てくる事の嬉しさは感動ものだ。  帰国した彼女から長い手紙が届いた。カナダに来た目的などの後にこう結んであった。「カナ ダに行ってあの時まで本当に良い事はひとつもありませんでした。だから、カナダを嫌いになる ところでした。でも、財布が出て来た時、カナダも良い所なのだと思う事ができました。本当にあ りがとうございました。...」とあった。彼女もきっと日本を離れる時、何かに悩み異国で何かを 見つけたかったのだろう。  カナダで出会った若者たちから、私たちの「若者たち」という歌が流行した時代とは違う、この 時代が生んだ様々な悩みや苦労の中で生きている事を知らされる。それでも、社会にでた、今 の若者たちからの悩みを聞いてあげられる立場でありたいと思う。  とは言いながらも、時代は違ってもその中にはやっぱり共通するもの、共感するものがあるのだ。
一冊のノート 2003年8月30日  1年前から、一冊のノートが手元にいつも置いてある。本や新聞、人から聞いた言葉など印象に残った 素敵な文章、好きな言葉等を書き込んでいる。  今日はこんな詩に出会った。題は「青春」。ちょっと記してみようと思う。  『青春とは、人生の或る時期ではなく、心の持ち方を云う。年を重ねただけで、人は老いない。理想を 失う時、初めて老いる』  50代に入って、様々な変化のある時期になり、この詩で今日は、すごく救われたような気がする。何で も、心の持ちようなのだとつくづく思った日だ。 「この頃、更年期障害と友達になりそうなんです。」と先輩格の友人に漏らしたら、「だいじょうぶ。気に かけないことよ。心の持ちよう。だいじょうぶだからね。」と優しい言葉が返ってきた。 「心の持ちよう」なのだ。友人の言葉と重ねて今日の素敵な言葉の詩の出会いで励まされた。さっそく、 手元のノートに書き込もう。そして、この詩のように青春の気持ちを忘れないようにしよう。  そして、その一冊のノートで思い出した事がある。高校時代、私は友人と「交換日記」をしていた。可 愛い花柄の模様入りのノートだったような気がする。卒業と同時にお相手に託したがそのノートと対面し たくなった。果たして、長い時の流れはそれをそのまま残してくれているだろうか。  それも、まさしく「青春」の1ページだもの。        
夏にはミステリー 2003年8月20日  森と湖に恵まれたカナダの夏はやっぱり最高だ。ユーゴスラビア人の友人は、北にカテージを持って いて週末になるといそいそと出かけて行く。  1度、夏にそのカテージに招待されたが、湖に面してそれは素晴らしい所だった。ボートに乗ったり泳 いだりまさに、カナダの夏を満喫するにふさわしい。ハミングバードという鳥が、餌を求めて巣箱にやって きた。のんびりとした時間は、心身ともに洗われる。でも、夜は対岸に点々と明かりが見えるが、それで も不気味なほど静かで暗い。  娘が、先日こんな話を持ってきた。娘の友人の友人は、景色の絵を描いたり写真が好きで、この夏、 北の方にひとりでキャンプをしながらたくさんの絵を描きたくさんの写真を撮ってきた。さて、帰宅してそ の撮ってきたフィルムを現像して戦慄が走るほど怖い思いをしたという。現像したたくさんの写真の中 に、たった1枚、自分の眠っている姿の写真があったのだそうだ。いったい誰が...。  夏には怖い話はつき物だが、娘とその話の怖さを話ながらちょっとのズレを感じたのだ。私は、眠って いる時に、誰か見知らぬ人が来てカメラのシャッターを押した怖さを言うのだが、娘は、ミステリー的な感 覚の怖さのようだった。  この世は、人間ほど怖いものはないのだと伝えたかったのだが...。