あつ子@カナダ10
日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。
予期せぬ自然災害 (2013年12月26日)
12月21日、それは突然やってきた。真夜中に「Doctor-X2」のDVDを観ているとプッツーン
と電気が切れてしまった。朝には大丈夫だろうと迎えた朝も切れたままだった。コーヒーを・・・
と思ったら、TVをと思ったらうんともすんとも言わない。水は〜〜と思ったら何も出ない。PCも
動かない・・ということでことの重大さを知った。でもなぜ・・という情報が入らない。そして、
「アイスストーム」という、聞いたこともない言葉が届いた。雨が降り足元も危なっかしい日々
だったが、雨の後に気温が急激に下がり全ての物が凍り付いてしまったらしい。周りの木々も
おおいに被害を受けてその枝などが凍りその重さに耐え切れず、容赦なく倒れたり折れたりで、
電線や電話線が切れたり凍結したりして切れて しまったのだ。それが「アイスストーム」だった
のだ。
夕方、待っていても静かなままで外も内も暗くなった。突然なのだから水などの用意もない。
卓上ガスコンロがあっても冷蔵庫とにらめっこしても温めて食べる物がない。偶然にアトラ
ンタにいる長男が仕事の帰りにトロントに立ち寄ってくれたのでようやく水や食べ物が届いた。
携帯電話でトロントに住む次男と連絡を取ることができた。携帯電話のありがたさを知ったが
チャージしていなかったので瞬く間に使用不可能になった。ヒーターも働かなくなり部屋が寒
くなってくる。
夜はろうそくと懐中電灯が役に立った。しかしこのような状況に陥ると夜は何もすることがなく
手持ちぶたさになった・・・がその灯りを頼りに毛布に包まれながら読書にふけった。読書離れ
にはこの停電が有効かも、と思ったほどだ。
私は、次男の所に避難する予定だったが、36時間ほどしてようやく平常に戻ったのがクリスマス
イブの前だった。しかし、今でもまだ停電が続いている所もある。友人はとうとうホテルに避難し
たが家に電話して留守電になれば電気がきている、ということで、私は友人の為に30分おきに
電話を掛け続けた。TVでは道路をふさいでいる木々や家や電線や車に覆いかぶさっている枝を取り
除いている様子が映っている。信号も動かない所があるので、時々サイレンが鳴っている。停電は
25万世帯に及んだらしい。全て復旧するのは29日頃まで掛かるらしいが、ろうそくを立てての
ロマンチックなクリスマスも終われば現実は厳しい事になるだろうと思う。
この深刻な自然災害を教訓に、いつでも準備という事が必要だと考えさせられた時間だった。
早く復旧する事を祈りながら、もう一度友人の家に電話をしてみるとようやく留守電の音声が流れ
てきた。
その日の夜、急用で外出したが途中で信号も消えて道路が真っ暗になった。そういえばこの辺り
にも友人が住んでいる、と思いながら住まいのある所を見るとその住宅地は暗闇に包まれていた。
車の中からすぐ電話をしたが、近くの友人の所に避難していて元気な声を聞くことができた。停電
して六日目、さすがに家の中もマイナスの温度になり住む状態ではないだろうと思う。
予期せぬ事はいつやってくるかわからない。
誰もが考える事 (2013年11月19日)
先月、在カナダ日本国大使館 医務官 仲本光一先生の「認知症を学び地域で支えよう」
という認知症サポーター養成研修プログラムに参加した。ご存知のように「痴呆」は2004年
から「認知症」と呼称が変更されている。
まずは認知症とはどういうものか、ということを理解することから始まった。このところ、
友人達との話題も親達の老齢化にともなってこの認知症の話が多くなってきている。そして、
アルツハイマー病や認知症、老化による物忘れなどの違いが案外理解できていない事がある
ように思う。
簡単にアルツハイマー病のことをまとめてみた。
*記憶障害で最近自分が経験した出来事を忘れる事からはじまる。
*病気が進むと過去に経験した記憶や学習したことも失われる。
*場所や時間の感覚が曖昧になる。
*判断し決定する事が難しくなる。
*順番に段取りよく物事が進められない。
*徘徊や妄想、幻覚等の症状
つまり、アルツハイマー病は認知症を引き起こす病気の一つであるので、「認知症の物忘れ」と
ダブルのは当然だが、ここで私達がどちらであるのか戸惑ってしまう「老化によるもの忘れ」と
「認知症の物忘れ」の違いを書いて見ようと思う。
『老化による物忘れ』
*体験の一部を忘れる。
*人の名前を思い出せない。
*度忘れが目立つ。
*探し物を努力して見つけようとする。
*きわめて徐々にしか進行しない。
『認知症の物忘れ』
*体験の全体を忘れる。
*人の名前を思い出せないなど記憶障害に加えて料理、家事などの段取り
がわからなくなる。
*探し物も誰かが盗ったと言う事がある。
*時間や日付、場所などがわからなくなる。
:季節感がなくなる。
:近所で迷子になる。
:自宅のトイレがわからなくなる。
:自分の年齢や人の生死の記憶がなくなり周囲の人との関係がわからなくな
る。
*作話がみられる。
*進行性である。
認知症を理解する事や認知症とはどういうものであるかなど、認知症の人との接し方、介護
している人の気持ちを理解するなど多くのことを丸一日を掛けて学んだ。何でも奧は深い。
ともすれば自分もその時はわかっていても忘れてしまう恐れさえあるのが現実だと思いながら、
こうして書いて見るのもまた自分の為にもなるように思う。加えて研修した事を、時には再度
資料を開き目を通して、自分のものにしなければならないと思っている。
終了後は全国キャラバン・メイト連絡協議会から「キャラバン・メイト養成研修終了証」を
いただいた。
そして、併せて今月の終わりに開催されるフレンドリービジティング、「こんにちは !ボラ
ンティアトレーニング」に参加する事にした。「こんにちは!プログラム」とは、一人暮らしな
どで寂しい思いをしているシニアの方の家にボランティアが訪問し、日本語でお話し相手になっ
たり、クラフトや散歩を一緒にするなどシニアをサポートするボランティア活動である。
1960年代から移住してきた新移住者も60代、70代を向かえ老齢化は私達の一つの課題と
なってきている。そのことを考えながら、このような企画には時間のある限り参加しようと思って
いる。
にゅうすれたぁ秋の号 (2013年10月4日)
にゅうすれたぁ秋の号が出ました。
とりいそぎ私の記事「人恋しくなる秋に」です。
ハーグ条約 (2013年9月18日)
身近に国際結婚をしている人が多くなると、ハーグ条約のことを知ることも大事なことだと考え、
様々な記事(日系人マガジン参照)、検索などをして参考にしながらここに自分なりにまとめてこ
の条約を少しでも理解したいと思うようになった。
まずは、ハーグ条約とは・・・。 「国際的な子の奪取の民事面に関する条約」。つまり国際離婚
が生じ、16歳未満の子供の親権、養育権を持つ親である父親または母親の片方がお互いの同意を
せずに、勝手に自分の国に連れ去ったり、隠匿した時に、この条約に加盟しているか否かで次に起こ
りうることが大きく変って来るということである。
この条約はオランダのハーグで1980年に制定され90か国が加盟しているという。今の時点
では日本はまだ未加盟であるが、今年度内には加盟する方向に進められているようだ。
マガジンに載っている一つの例としてそのケースを読むだけでも問題は多々に広がる事がわかる。
A子さんは日本人(国籍は日本)。カナダ人のB男さんと国際結婚して子供とカナダに住んでいる
が今は離婚に向けて別居中というケースの場合。この場合、A子さんが子供を日本に連れて帰りカナダ
に戻ってこない時、日本がハーグ条約に未加盟なのでB男さんは子供を取り戻す事も面会さえも不可能
になる。それでもカナダ人であるB男さんは日本の裁判所で子供の返還、面会の申し立てを起こす事が
できるようだが、それを実行するには多大な時間と費用が掛かるし、それに言葉のギャップもあるだろ
うから成立はかなり不可能に近いほどに厳しいはずだという。もし、この時B男さんがカナダ国内の
警察に相談すると、A子さんはハーグ条約に加盟しているカナダ国内においては誘拐 罪などで指名手配
されるとある。また、カナダ以外のハーグ条約に加盟している国でも国際逮捕手配が敷かれ、その国々
に入国しようとした場合に逮捕される可能性が高いという。今の現状では、日本は未加盟なので捜査権
は及ばないが、もし、日本が加盟したら日本でも逮捕される事にもなるし、離婚したからといって簡単
に子供を連れて帰国できない厳しい状況になるということだ。
そして、今の現状(日本が未加盟国)での場合A子さんの行動を未然に防ぐ為にB男さんは、カナダ
の裁判所に以下を申し立てすることもできるという。
*子供のパスポートをA子さんから取り上げる
*B男さんの承諾なしにA子さんが子供の日本のパスポートを申請する 事ができないようにする
上記のようなことが認められ成立した場合は、A子さんはB男さんの承諾なしに子供を連れて日本
に帰る事ができなくなる。 でも、A子さんは、カナダの裁判所に子供を連れて日本に一時帰国でき
るように申し立てをする事ができるがその申し立てが認められる可能性は少ないという。それでも、
未加盟の日本に帰国したい場合には、A子さんは多額の保証金を準備して、さらにもし日本に帰国し
てそのままとどまり子供をカナダに戻さないとなった時のことを考え、その保証金はA男さんのもの
になることを法的に成立させ帰国することができる。しかしその保証金は、A子さんが日本で子供と
生活をすることをあきらめなければならないほどのかなりの高額になるとあるので保証金を用意して
帰国する事は、かなり不可能に近いと思わなければならないようだ。どのような場合も子供には父親
であり母親であるのだから、このハーグ条約 はベストの状況の中で子供を守る(育てる)ことを目的
としている事は確かであるし父親と子、母親と子が面会する権利の 実現を目差すと言うのも解るよう
な気がする。
しかし、国際結婚が解消される原因も多種多様であるわけだから、日本が加盟国となる場合は慎重
さが必要ではないだろうかと思う。例えば、家庭内暴力から逃れて帰国する場合などの例である。しか
し、条約にはそれらのケースを守るという例外規定もちゃんと盛り込まれているようだ。特にカナダは
DVの被害者に対するカナダの法律は日本とは比較にならないほどに厳しく整備され公的なサポート体制
も充実しているとある。また、親からの虐待などから子供を守るための安全と健康を守るためのシステム
も非常にしっかりしているという。この子供の虐待で思い出したのだが、友人がお仕置きにベランダに出
していたら泣き叫ぶその姿や声を聞いて近所からすぐに「あなたは子供を虐 待している。ポリスに電話
をしますよ・・・」という電話が掛かってきたという。また、ある友人は、眠っている子供を車に置いて
ちょっと買い物に離れたら、そこに老夫婦が待っていて「あなたはこのように車の中に子供を置き去りに
してはいけない・・・」と強く注意を受けたという。カナダではこのように社会が子供を守っている。
いずれにしても、もし日本が加盟国となった場合は、上記のケースの場合のB男さんが日本の国の
政府を通して、子供の返還を申し立てると、原則として元の居住国(この場合はカナダ)に子供を返還
する事を義務づけ、その国で生活環境や両親の主張を考慮し判断することを基本に定めている、とあった。
それからこの事は身近な人達から良く聞く話だが、離婚や親権はその国々で法律や文化や習慣から来
る考え方の違いがあるという。その為にアジアや北アフリカなどは加盟していないとあったがなるほど
と思った。まさに、国際結婚をしていた知人が離婚する時に文化や習慣の違いから親権問題で非常に苦労
した話を実際に聞いている。
最後に、どの場合も、お互いの親が話し合いで解決するのが一番ではないかと記事の中にあったが、
極めて国際離婚は国の違いから来る難関を、突破するのが難しいのでこのような条約が必要だという。
今、日本からカナダに移住してくる数は年間約1300人。その約7割が女性だと言う。ほとんどが
国際結婚移住ということになると、このような条約はこれからも重要なこととして知っておくべきこと
だろうとつくづく思った。
夏が来れば思い出す (2013年7月31日)
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上の記事は、トロント新移住者協会の「にゅーすれたぁ」2013夏号(127号)に掲載されたものです。
本日から、外部リンクの「にゅーすれたぁ」で読むことが出来ます。(by くろまめ)
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車を降りて・・・ (2013年7月25日)
バスやサブウェイに乗る機会が多くなった。それは、今までのように車社会と言われている車から降りて
時間を掛けて目的地へと向かうということだが車に乗っていては見えない事が多くある。しかし、バスほど
力のいる乗り物はないと思う。何しろ、運転が荒いのである。人はよくこの状況で乗っているなあと思う。
下手をするとそのまま立っていると前のめりになりそのままはるか向うまで吹っ飛んでいきそうだ。ドライ
バーのご機嫌が悪いのかしらと思ってしまうほどだが、女性ドライバーに出会うと今日はどうだろう、と思
ってもちっとも変わる事はない。そして、とうとう私は乗ってすぐにカーブでバランスが取れず車内の階段
にしりもちをついてしまった。「そうだ!ここは日本ではない。事は大 げさに・・・」・・・すると周りの
人達が手を差伸べて、すぐに若者が席を譲ってくれた。
ところで、この経験は二度目であるが、ようやく来たバスに乗ってホッとしていたら、全員降りて後ろの
バスに乗るようにアナウンスされた。「ん?」と思いながら従ったが、そのバスは「Not In Service」と掲示
してさっさと行ってしまった。二度目もそうである。ずい分乗ってからの事だったが、全く同じようにアナウ
ンスがあり全員降りて、しばらく待たされたがその後から来たバスに乗った。二度もあるとバスが故障したと
は思えない。また勤務時間が終わったのでさっさとそのようにしてしまったのか。または合理的な方法として
のやり方なのか・・・。
カナダに来た頃の話だが、ドライバーがお客が乗っているのに道路の脇に停車した。「えっ!どうしたのか
しら。」と思っていたらお客を置いて道路の向こう側にあるコーヒーショップに入って行きそしてすぐにコー
ヒーを持って戻ってきたのだ。お客も何も言わず待っていたがカナダってのんびりした所だと思ったものだ。
そして今日はまことにユニークなドライバーに出会った。頭は丸坊主でプロレスラーみたいな方である。
運転をしながら、鼻歌を歌ったり時には歌が口笛になる。バスストップが来る度に「100」とバスの番号
を言っては「乗りますか・・・」と声を掛ける。ドアを閉めてバスストップの近くを歩いている人にも「乗
りますか?」というような合図を送っている。まことに忙しい賑やかなドライバーである。そして、東洋人
の女性が傘をさして歩いているのを見て大きな声で「もうすぐ雨が降るのかな?」と空を見ながら言ったの
である。傘を日傘にしているアイディアはドライバーには解らなかったのだろうなあ・・・とおかしくなった。
それからしばらくするとアナウンスが始まり「これからコーヒーを 買うけれど買いたい人はいませんか・・・」
と言ってバスを止めて若者と二人でさっさとコーヒーショップに消えた。私を含めて20人ほどのお客は置き
去りにされ静かに待っている。5分ほどして二人はコーヒーを抱えて戻ってきた。「さあ、出発かな・・・」
と思いきや、ドライバーは運転席のごみを集めてバスストップのごみ箱に捨てる作業を始めたのだ。私は大笑い
してしまったが我道を行く的なドライバーに好感を持った。降りる際「Thank you〜〜」言ったら大き
な声で「See you〜〜」と気持ち良い返事が返ってきた。私も、今度いつ会えるだろうか・・・と思いながら蒸
し蒸しとした日本のような暑さも苦にならなかった。降りてからもしばらくは思い出し笑いをしていた私である。
そして、先日は若者が自転車をバスの前に乗せているところに初めて出くわした。いとも簡単に乗せられる
ようになっているが二台か三台までは乗せて運べそうだ。長年住んでいながらバスの前に自転車を乗せること
ができるなんて知らなかった。
それから、今日はサブウェイに乗っていて、目の前に、5行ほど書かれた文字と子供の絵が描かれている大
きな広告が額に入っていたのだが、逆さまに飾ってあるのがどうしても解せなかった。こうする事で何かの効果
があるのだろうか。降りるまで見つめながら考えたがどうしてもその意図が解らなかった。
それに私はよく道を聞かれる。私の顔にトロント在住長年とでも書いてあるのだろうか。一度はサブウェイの
終点でこのサブウェイは南にいくのか、と尋ねられたがここは終点でこれ以上北への道はないのだから南へ行く
しかないのである。
カナダ最大の都市、オンタリオ州の州都でもある トロント。ちょっと自分の世界が変わると今まで見えない
部分が多くあり視野も広がってくるように思う。
「Ontario Volunteer Service Awards」授与式 (2013年7月18日)
「Ontario Volunteer Service Awards」授与式の時の写真です。
「Ontario Volunteer Service Awards」 (2013年7月4日)
カナダはボランティア先進国である。このボランティアによってカナダはずい分潤うのではないかと
言っても過言ではないように思う。
毎年、オンタリオ州により表彰される「 Ontario Volunteer Service Awards」受賞者の授与式が行わ
れるが、今回、私は日系文化会館からノミネートされ受賞する事になり出席してきた。会場には300人
以上の人達が出席し、中でも、杖をつき壇上に立たれた女性がボランティア歴65年と紹介され拍手喝采
だった。ため息の出るような長さである。ひとり一人、組織、団体名と名前を呼ばれオンタリオ州の花ト
リリアムのロゴのバッチが手渡された。日系文化会館から出席した受賞者は、改めて後日、会館のボラン
ティアとして活動した人達の為の感謝イベント「ありがとうデー」で行われ賞状が渡される事になっている。
カナダの様々なフェステバルやイベントはほとんどがこのボランティアによって支えられ開催されている。
カナダでは、グレード9からグレード12まではハイスクールになるが、これは、日本の中学校高学年か
ら高校にあたるようだ。2002年からオンタリオ州では、全高校生に4年間の履修を義務づけたが、高校
卒業資格を得るには、30単位(必修科目18単位、選択科目12単位)を取得することになっている。
その他40時間のボランティア活動が必修科目に入り、親たちはこの科目に歓迎している。全高校生に一人
40時間のボランティアが必修科目になったのであるから、そのみなぎる力がどこそこで活動しているという
ことだ。日系文化会館など多くの日系組織、団体も高校生のボランティア参加者にはCommunity Work Credit
の letter を発給している。
このようなカナダの教育システムに感心させられるが留学生やワーホリの人達もボランティアをすることで
カナダ社会を体験する良いチャンスになっているようだ。
繋がっているんだな・・・ (2013年5月19日)
最近朝の目覚めが早い。仕事明けの日曜日にしては珍しいことだ。まずは一杯の水をゴクゴク
胃に流しいれ、そしてコーヒーとなる。朝起きるとTVをスイッチオンして今日の温度を調べ
そしてTVジャパンのチャンネルに変える。今朝の日曜日の6時半、「小さな旅」をやっていた。
蚕のことから機織りのことが流れる中で母の懐かしい着物が浮かんだ。あの着物はどうしただろう。
今度帰国の際に聞いてみよう・・・と思いながら観ていた。着物を着る機会が多い異国での生活
であるがもっと機会を増やしたいという思いがある。
来る夏に、「東日本大震災被災児童トロントホームスティ支援コミッティの実行委員として参加
する事になった。6月に250人を目標にファンドレージングを行うがその時に浴衣を着ようと
いうことになった。日本レストランの協力やエンタテーメントなどを企画して資金を調達して
高校生6人、中学生4人が15日間滞在する。浴衣を含む日本伝統文化である着物文化は日本人
としての心意気がその裏に潜んでいると私は思う。その心意気が集まった今回の企画の中で、
海外に住む日系人、新移住者達がどのような生活をしているかなども学生達には見てほしいと思う。
そういえば、新移住者協会主催の「お正月会」で着物ショーを企画して大いに喜ばれたことがある。
タンスに眠っている着物を着ていただこうといずれもモデルは子供からお年寄りまで素人の参加者と
した。たった一回の練習だったが大いに盛り上がった。二回目の年は日本のお祝い事で着る着物ショー
とした。異国でもお声を掛ければそのような着物も容易に集まり感心したものだ。
そして、スイッチオンしたPCの中からくろまめさんを訪問して思わず笑った。たった今観た
「小さな旅」のことが投稿してあったのだ。偶然、必然・・どちらだろうかと思いながら遠く
地球の表と裏で繋がっていることに気づく。同じ番組を観て共感して同じ思いが宿る。嬉しい
気分になった。
「茶の間」 (2013年4月15日)
1966年にカナダ政府が再びアンスポンサード・イミグランドの受け入れを開始してから
46年の歳月が流れた。開始されたその10年後に私はトロントに足を踏み入れたことになる。
ちょうど、モントリオールオリンピックが開催され、そして当時世界一高いと言われたCNタワー
が完成した年でもある。それからのトロントは見間違えるように経済成長が加速し発展していく。
海もない山もない広大なトロントは移住した人たちによって人口が増え続け住宅が広がりそこに
学校や公園やショッピングモールなどが建設され町ができていった。
そのような流れを見ながら歳月が過ぎて行き、そこに故郷思い、そして93歳になった母を思う
ことが多くなった。子供を持ってはじめて親の心を知るということだろうか。
そして、この長い歳月を、入院した母への思いを重ねて宮崎日々新聞「茶の間」に投稿した。
採用されるか否かに拘らずまずは行動のみということをカナダ生活で学んだ事が役に立ったと
思っている。しかし、長い間に積み重ねた多くの事への思いを短い文にまとめる事には難航した。
茶の間に掲載されたことが電話やメールで知らされて気恥ずかしさでいっぱいだったが、母は
どんな思いで読んだだろうか。
和紙ちぎり絵 (2013年3月22日)
日系文化会館の一角に日本から届いた和紙のちぎり絵が飾られた。しばらくすると、また
日本へ帰っていくらしいが、富士山や枝垂れ桜や梅などが会館を訪れる人たちの目を引き、
ちぎり絵とはどのようにして作られるのだろうかと興味津々だった。丁度、くろまめさんの
お義母様が「くろまめの小さな展示室」に載せていらっしゃることもあって、それに千葉の
くろまめさん宅に滞在した時に見せていただいたこともあったがそれは見事な作品で感嘆し
たものだ。そして、トロントでそのちぎり絵を体験する事ができるなんて思ってもいなかった。
和紙ちぎり絵は、日本の伝統文化の和紙が素材で、ちぎる手法で制作される。その温かな趣や
文化を伝える為に、これから、トロントでも日本語学校などの教材として取り入れられるよう
になるかもしれない。
しばらくすると、会館の展示された所に「ワークショップを行います。はさみだけをお持ち下
さい・・・」というような小さなポスターが貼られていた。二日目に出かけた。ちぎり絵の本や
ちぎり絵セットが購入できるように並んでいた。「今日は「兜」を作りましょう。」、というこ
とで神戸から来加された先生の説明を受けながら楽しい時間が始まった。
「椿の花はないでしょうか。」、と尋ねると何とあったのだ。さっそく購入して帰宅してすぐ
に作業を始めて完成させた。「うん、なかなかいいじゃない。」と思いながら一人で満足している。
後日、椿をもう一セット購入して作る事にした。
笑うこと (2013年3月12日)
心に残る言葉はあらゆるところで出会うが、今回も「そうか・・・」と思ったことに一体どこ
でその言葉を聞いたのか思い出させない。あらゆる場面を思い出しながら、「テレビのドラマだ
ったような・・・」と思いながら、いくら考えても今度はそのドラマが思い出せない。このよう
なことは最近頓に増えてきたように思うが、しかし、時として突然パッと思い出すこともある。
「1日に笑わないとそれは人生の大きな損になる・・・」といったような言葉だったが何となく
心に残った。フランスのことわざに『1日に一回も笑わなかった日は人生最大の損失だ』というの
があるらしい。多分、このことわざからドラマの中の台詞になったのだろうと思う。
女性が集まるとそこには笑いの渦がある。最近も様々な年齢層の集まりで男友達のことが話題に
なった。丁度、みんなで夕食にするカレーを長い時間オーブンで温めていた時だった。私はカレー
を作っていただいた日系二世の方に、何となく心配で、その話で盛り上がっていたが「カレーは
大丈夫ですか?」と聞いてしまった。すっかり勘違いをされたその方は「ええ〜、何を聞くね。
私には彼はおらんよ・・・」とまさに「とんでもない」という感じでテンションを上げて応えられ
てしまった。カレーが彼になってしまい爆笑の渦となった事はもちろんである。今でも思い出すと
おかしくなるが思い出し笑いとはまさにこのことだろう。そして、このようなことも女性がより長
生きする秘訣かもしれない、と思 いつつ今もクスクスと思い出し笑いをしている。
1日一回、笑いのある人生にしたいものだと思う。
消えていく1セント硬貨 (2013年2月19日)
どこの家にも1セントが使用されずに眠っていることが多い。現に我家にもあちこちで箱に
入ったりガラス瓶に入ったり引き出しの隅に転がっていたりしてかなりある。時には市販の
1セント用の紙に包んで銀行に持っていくこともあるが、思えば、1セントがカナダ中のどこ
そこに使用されずに溜まっていれば相当の数になり、相当の金額が動いていないことになる。
発表によると、費用削減と言う事で昨年5月に製造を終了し、流通廃止が今月2月から施行
された。銀行ではその硬貨の回収サービスを行っている。その数350億枚だというから実際
に姿を消すまで4〜5年かかると予想されている。小売店では、レシートにはまだ存続してそ
のまま表示されるが端数のセントの切り上げ、切り下げを行っているようだ。例えばタックス
入れて4.98セントの物は2セントが追加されて5ドルと表示されて、4.92セントの場合
は2セントが差し引かれて4.90セントと表示されることになる。釣銭も1セント単位がなく
なるので、手元からだんだんと1セントが無くなっていく仕組みなのだろう。
財布の中に1セントが増えると邪魔のような時もあるが、またその1セントが無くて困ること
もある。まさに「1セントを笑う者は1セントに泣く・・・」ということであるが、その言葉を
つぶやきながら、道に落ちている1セントは「ラッキーペニー」と言われ幸運のコインというこ
とで拾うこともあるけれど、さてあなただったらどうだろう。カナダ中のどこそこに落ちてる
1セントも相当な量になるかもしれない。
ずい分昔であるが、ナイアガラで1セントを押し潰して模様を刻印している「マニープレス」
と呼ばれる機械があり驚いた事がある。日本では考えられない事に異国では出会うがおもしろい
のでやってみた。
これで155年と言う歴史あるペニーもご用済みということで消えていく。
いざメキシコカンクンへ (2013年2月10日)
カリブ海に添って高級ホテルが並びその中の一角のタイムシェアのコンドミニアム(マンション)
が私達の宿泊地。タイムシェアとは、コンドミニアム(マンション)や別荘を複数人で共有し実際
に利用したい時期の利用権を購入するシステムでその方式により利用したい時期を1週間単位で購入
できる。
まさしく「前はう〜〜み・・・」と歌いたくなるような素晴らしいリゾート地だった。真正面の水平線
から朝日が昇り毎朝6時頃に起きては今日の無事を祈った。祈らなくてもメキシコ政府が力を入れてる
だけにセキュリテイーは万全でキョロキョロ見渡して目を光らせなくとも安心だと気づくには時間が掛
からなかった。
着いてすぐに,バスに乗ってお米を売っている町中にあるスーパーマーケットに出かけた。それにしても
えらく飛ばすバスである。後で聞いた話だがバスの経営者が違う為に競争で待っているお客の奪い合いが
あるという。その真相が解ってなるほどと納得したが、歩道を歩いていてもバスが風を切って通り過ぎて
行く。バスを降りて建ち並ぶ土産店の呼び込みにも目もくれずスタスタと歩いたが、間違った道に入り込
んだらしい。初日の長旅で(飛行時間は4時間だったが朝が早かった)少し疲れきった私達はタクシーに
乗り込んだ。ずい分走って目的地に着いたが、運転手も掴んだ客を逃したくないのだろう。帰りの運賃の
交渉となり、買い物が済むのを待っていてくれる事になった。これも後で聞いた話だが 運賃はかなり安か
ったらしい。もっとチップを奮発すれば良かったと後悔した。
ちょっとした高級スーパーだったが何でも売っている。お米、醤油、水、油、フルーツ、野菜類などに合
わせて天ぷら用に海老なども買った。キッチン付きであるので女性が4人も揃えばお料理はお手の物。
トロントから、カレー粉や寿司太郎やインスタントラーメンやうどんやそばや味噌汁の素など手分けして
持ってきたので朝昼晩とワイワイ言いながらテーブルは大賑わいだった。
海は波があり泳ぐには適さなかった、と言っても私にはである。夜は波の音を子守唄に朝は波の音で目覚
めた。友人がサッシを開けて眠りたいというので、寄せては返すの波の音がまるで海の上をさまよいなが
ら寝ているような感じだった。しかし、遊び疲れた後の夜中の就寝時間はすぐに眠りの中へ落ちていった。
朝早くに起きて真下の白い砂浜を散歩するのも快適。ロビーには淹れたてのコーヒーが設置してあり時に
は利用した。そして、ゆっくりと朝ごはんを作っていただく。何て規則正しい日々と思いながら食欲も進む。
時には散歩から帰ってくる友人が焼きたてのパンを買ってくる。私達はコーヒーを沸かし、朝食の準備を整
えて、今日の昼食、夕食の献立を考えたりおしゃべりしながらの誠に優雅な日々が過ぎていく。
1日は雨だった。だったからではないがスパ(ホットストーンマッサージ)をすることにした。5人も一緒
にやれば格安なのだから、みんな一斉に乗り込んだ。1時間半夢うつつの中で幸せな時間だった。友人は
1時間半ぐっすり眠って「えっ!そんなに気持ちよかった?何も覚えていない。」というのであるからもっ
たいな〜い話なのである。ミントのサウナが眠気を誘った。目覚めると体中がミントの香りで爽やかだった。
優しい音楽が流れる部屋で輪切りにしたきゅうりの入った水がすごく新鮮でおいしかった。
メキシコはテキーラが有名。専門の店にも行ったが何しろ男性の店員さんがユニークだった。お決まりの
日本語が出てくるところをみると、日本人客も多いのだろう。試飲をということでお酒に弱い人もちょっ
となんて飲んでいたが、ドクターストップの私は「じっと我慢の子であった。(懐かしい言葉)」
メキシコ料理もおいしかった。アボカド大好きの私にもってこいの「ワカモレディップ」が最高だった。
ウエイトレスがテーブルにアボカドやライム、玉ねぎ、トマトなどをのせて目の前で実演していたが
「私にもできそう・・・」と思った。がまだ試みていない。
さて、カンクンには見所は盛りだくさんにあるようだったが、今回はゆっくりとリゾート地を離れずに
過ごした。本当の休暇とはこういうものだと思いながら時間にも追われることなく過ごした。
「無事に帰ってきて。」「危険らしいから気をつけて。」と言った友人達には申し訳ないがそんなことは
微塵も感じない快適な毎日だった。
4時間を越えて常夏の国、そして1週間を終えて厳冬の国に帰ってきた。その2週間後「ドッカーン」と大雪
になったトロント。カンクンの白い砂と波の音が思い出される。
新しい年 (2013年1月5日)
嵐のように賑やかだったクリスマスが過ぎて新しい年が明けた。というのに、元旦の日は
パーティ疲れの子供達が集まったのがお昼頃。
お雑煮やお節を並べて「明けましておめでとう。」と乾杯して、NHKの紅白歌合戦のビデオを
流しながら年の初めがスタートした。そしてお腹を満たした所で「今年の抱負」をそれぞれに
言ってもらった。私といえば「お酒が飲めるようになること・・・すなわち元気になって健康
であること」というわけである。
子供達はまだまだNHK紅白歌合戦に興味を持っている。「上を向いて歩こう」は子供達も馴染み
の歌であるが、私にとってもトロントに来てラジオから流れるこのすき焼きソングを聴きながら
遠く日本を思ったものだ。「ヨィトマケの唄」もなぜか子供達にも響いていったようだ。歌で伝
えるということは素晴らしいと思う。
人はふるさとを語るとき様々な思いが宿る。「帰りたいということはそこに会いたい人がいると
いうことである。」「ホッとする人がいればそこが故郷である。」このような言葉は私達異国に
住む者にとってはグッと胸に迫るものがある。
子供達も日本の食文化を受け入れている。特にニューヨークに勉学で滞在していてクリスマス
から我家を訪問している姪の存在はこのような時には大きい。日本語も多く語るようになる。
日本食も「おいしい」と連発する姪に影響をされ、テーブルのお節は見る見る間に減っていく。
今朝は、和歌山の友人から教わった茶粥にした。クリスマスから食べすぎ飲みすぎである姪や
子供達の胃を休ませる為でもある。「あ〜あ、体に優しい・・・」と言いながら食べている。
日本食の良さを感じたはずである。次男は、ストロベリーケーキを作るのが担当で今回もクリスマス、
お正月と二回も腕を振るった。子供達に小さい頃から作ってあげたケーキを、今度はその子供が作り
私は食べる方に回っている。その古びた染みの付いているレシピーの紙を出す度に「もう、そろそろ
書きかえて・・・。」と言われているが愛着がありいまだにそのままになっている。親と子を繋ぐ
些細な一枚の紙である。
1月2日から仕事がスタートしたトロントは平常な生活に戻った。
最後になりましたが2013年がくろまめの小さな展示室の皆さまにとって健康で幸せ多き年で
あることをお祈りいたします。