あつ子@カナダ9
日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。
師走の中で (2012年12月18日)
キッチンから絶え間なくクリスマスソングが流れている。外の温度は7度。暖かい12月である。
今、ばんざーい・・・と言いたくなるほどホッとしている。トロント紅白が無事終わったのだ。本番に
強い人たちばかりだからそりゃ、文句なしに大盛況だった。照明はプロフェッショナルであるから、そ
れはそれは素晴らしい演出で、まさにプロ同様に歌うことができた出演者は幸せだとみんな思ったはず
である。音響も抜群だった。将来はイアーモニターを使用することも案として出ている。段々プロの世
界に近づいている。
出演者の中には、舞台の袖で待つ緊張感が好きだという人もいる。私流に言えばあの緊張感は気持ち
次第なのだ。いつも応援してくれる友人知人だけがそこにいると思いながら、会場いっぱいの多くの人
の事をあまり考えなければ緊張感もほぐれていく。今回は、照明とスポットライトで会場のお顔がほと
んど見えず、真っ暗闇であったので、誰もいない所で歌っていると思えば緊張なんて吹っ飛んだ。
真下に審査員の方々のお顔が薄暗い中で見えたが気にはならない。知っている方ばかりで「こんにちは」
とお声を掛けたくなるほどの安心感さえあった。
先ほど、友人と電話で長話をした。その時に友人が言うのである。「あのさ、彼女はまだまだ元気だ
けれど、彼女のお葬式にはあなたと私に歌を歌ってほしい、と言ってるよ・・・」・・・私は驚きの中
で思わず緊張してしまった。その彼女は子供達にそのように言い残すのだという。
さて、33年も続けてきたトロント紅白であるが素人の手作りとはいえボランティアの奉仕の底力だ
と言える。日本の文化をこのような形で継承して行く姿はきっと世界中どこを捜してもきっとトロント
だけに違いない。過去には(ずい分昔だけれど)全国紙の日本経済新聞やNHKの取材を受けたこともある
が、きっとトロント紅白はトロント日系社会の歴史として残っていくだろう。
その日系社会に還元しているトロント紅白は、ボランティアに支え続けられながらチャリテイーショー
として、今回の純益も様々な所に寄付をすることになっている。
師走の中、紅白の後片付けをしつつ達成感を味わいながらホッとした瞬間である。
12月を迎えて (2012年12月7日)
キッチンのラジオをクリスマスソングのステーションに変えた。12月になっても雪らしい
雪も降らず「今年も雪が少ないのだろうか・・・」と思う。辺りはイルミネーションで賑やか
になって行く。
今年は2度も日本に行き、年女と騒いだ年が終わろうとしている。もう1年以上も経つが、日本
から帰ってきてから予定通り厄介な病気の血液検査を受けた。結果の出ている書面を見ながら一番
に「飲みましたね・・・」とスペシャリストのドクターから言われた。そういえば、薬を服用して
いる間は飲まないように、と言われたような気がする。日本に滞在中、すっかり忘れていた。忘れ
ていたから、毎晩「だりやめ」を飲んだ。トロントにいる時よりも1日の終わりを深く感じた後の
焼酎はおいしかったのだ。だから、ついついドクターの忠告を忘れてしまっていた。
でもありがたいことに、しばらく次の検査まで薬を止める事になった。「その代わり・・・」と
ドクターが続けた。「アルコールは絶対だめです。」これから、年末になり、クリスマスや忘年会
や新年会やなんやらで飲み会のチャンスがあるのに・・・とシュンとしてしまった。
集まった友人達は、私の前でワインを片手に「あ〜あおいしい!」というのである。「このレッド
ワイン、最高ね。」と続く。「こんなにおいしい物が飲めないなんて寂しいわね。」とさらに続く。
「あら、そうお・・」とさらりと応える私。でも友人達は優しい。ちょっと咳が出る私は、生姜と
蜂蜜、レモンと蜂蜜など手間のかかる飲み物を注文するとサーブしてくれる。テーブルに並んだ料理
を指して豆の甘い煮汁で喉を潤すと良いそうよ、など知識も高まる。ほんとかな、と思いながら試し
てみる。
2年間休演していたトロント紅白も近づいた。風邪どころではないのだ。今、応援合戦の「阿波踊り」
に四苦八苦している。男踊りと女踊りがある阿波踊りで対抗するのだが、思っていたより難しい。
ちゃんと形にするには相当の練習が必要だ。しかし、姿形はばっちりだと思う。それを頼りに編み笠
で顔も見えないし・・・と安心している私だが、この編み笠をかぶらずに顔を見せて踊る、という案
もあるらしい。「うまく踊らないように戸惑う姿こそおもしろい。」と言われたが、言われなくとも
うまく踊れるはずがない。本当に難しいのだから。
そうこうしている内に日は近づいている。ステージでの着物や帯を揃えながら、同時に運営としての
準備も佳境に入った。お陰で、相変わらずPCの周りはメモだらけである。そして、先日、メモした
用紙がどうしても見つからず、またメモをしている。困ったものだ。
そんな12月を迎えている。
言語の違い (2012年11月3日)
1枚の写真をメディアに掲載するのに、友人から、以下のようなメールが届いた。
「こんにちは。写真を撮影した方から写真届きました。色合いちょっと直して送ります。」
このメール文に私は大きな勘違いをしてしまい以下のメールの返事を出してしまった。
「お待ちしています。」
ところが、本当の内容の意味は「この写真は、色合いをちょっと直しました。それを送ります。」
という意味だったのだ。
私は、「写真が送られてきたのでこれから色合いを直してから送ります。」という意味に取って
しまったのだ。
後で聞いたところによると北海道の人なので言語が少し違うらしい。奥様も時には日常の中で
戸惑う事があるらしい。
九州と北海道の言語の違いを垣間見た瞬間だった。・・・汗
秋風に吹かれて (2012年10月27日)
車(我家からトロントピアソン空港)−飛行機(トロントから成田)−バス(成田から羽田)
−飛行機(羽田から宮崎)−車(宮崎空港から実家)とダイレクトでカナダから日本へ。
午前11時にトロントの我家を出て目的地の宮崎の実家に着いたのがあくる日の午後10時頃
だったので約23時間掛かったということになる。思えば長い旅路である。しかし、なんのトラ
ブルもなくトロントー成田間もだいたいの定刻に出発してだいたいの定刻に着いたのだからあま
りその長さは苦にはなっていない。このスムーズさは快適だったと言っても良い。それは特に日
本の交通機関の乗り継ぎの便利さと言う素晴らしさでもある。待つ事がないことは気持ちの良い
もので疲れがこない。プラス待っていてくれる人、 迎えてくれる人達の温かさも含んでいる。
7月の暑さはどこにもなく雨も降らず、やはり季節を選ぶことだとつくづく感じた。2週間を
終えて帰る頃は朝晩がちょっと冷え込んだ。周りは「寒い寒い」と連発するのであるが、マイナ
ス20度のカナダの寒さに耐えている私の体はちっとも寒さを感じなかった。「毛布が必要じゃ
が」という母に「重くなるからいらないよ・・・」と言っても何度も「寒いじゃろ・・・」と母
は繰り返して言う。親の優しさをそっと感じる。
母の部屋にコタツを出して冬物を箪笥の手前に入れ替えて出しやすいようにした。そばで母は
そんな私を見ながら「若いというのはええもんじゃね・・・まこち手早いもんじゃ」と言うので
ある。92歳の母から見ればそりゃ若く見えるだろうけれど、私は一緒に帰国した娘を見れば「
若いって素晴らしい・・」と思うのである。そして、娘は兄との雑談の中で「もう、若くはない
です・・・」と言っている。おもしろい会話が流れていく。
一方、陽だまりの中で母と叔母は昔の話しに花を咲かせている。楽しかったことも辛かったこ
とも活き活きとした話題になって競うように話している。朝の主婦の仕事を終えた後の私は、そ
の会話が心地よい子守唄になり、つい体が揺れて畳の上にコロン。「ああ、いい気持ち・・・」。
時差の関係もあって5分ほど熟睡。まだ母達の会話は続いている。「その話、さっきしなかった
・・・」と心密かに思うのだが・・・。年を重ねた思い出は堂々巡りしてまた同じ場所に戻って
いくのかなあ。いずれにしても思い出を共有できる事は素晴らしい。
くろまめさんとの会話も過ぎていった話が中心になってくる。「あの時はああだったね、こう
だったねえ・・・」という会話がこれからも多くなるはずである。手製の服に身を包んだくろま
めさんとの短い時間にこれからの長旅の元気をもらった。「帰り、気をつけてね。」と別れたの
だが・・・。くろまめさんのハプニングの投稿を微笑ましく読みながら、急がば回るのも得した
気分になっていいかもね、と思ったり。これも年を重ねてこその思いなのかもしれない。
ゆっくりゆっくり、と思いながらも11月も目の前。12月15日開催のトロント紅白歌合戦
の準備も佳境に入る。日系人が生み育てた歴史あるチャリテーイベントとして32年も継続して
きたのですもの。出演者、裏方一同総計100名を越えるスタッフと全力投球のみである。
日本の夏、カナダの夏 (2012年8月4日)
久々に夏の日本に降り立った。羽田から宮崎へのフライトは宮崎の天候が悪く危ぶまれたが、
二回目の試みで無事着陸。熊本に向かうか羽田に引き返すかという瀬戸際だったのでホッとした。
6月は梅雨のシーズン、と分かっていたがこんなに雨が多かっただろうか、と思いながら時差さえ
もその蒸し暑さに隠れてしまっていた。物は考えようでサウナに入っていると思えばこの蒸し蒸し
の暑さも苦にはならない。しかしである。なるべく口に出さなかったが、本当に「蒸し暑かった!!」
のだ。宮崎弁の「ぬきいい・・・」と言う言葉が耳に付いて尚更暑さを増す感じだった。
毎日、入院している母のもとへ20分掛けて歩いた。それも運動と思えば苦にならない。しかも、
実家の近くの池のほとりの遊歩道は、車の往来もなく、静かにゆっくり散歩感覚で歩いた。病院
に着く頃は茹蛸のようになっていたが・・・。それでも、4階まで階段を使用した。マラソンで
言えば魔の坂道のような感じだ。快適な部屋で母は真っ赤になった顔の私をいつも笑いながら迎えた。
しかしである。こんなに昔も暑かっただろうかと思う。体はすっかり日本の夏を忘れていた。
西都原は背丈の低いひまわりが一面に咲いていた。そして、後ろに続く山並こそが郷愁に駆られる
その姿なのだといつも思う。山のないトロントに住んでいるとその山々の美しさに感動する。生ま
れて23年の間に、この景色を見て感動した事があるだろうかと流れた遠い歳月を思う。
台風が発生しないうちに宮崎を後にした。
トロントは晴天で日差しが強いが蒸し暑さから逃れて爽やかさえ感じた。日にちを待たずにロンドン
オリンピックが開幕。時差と戦いながらオリンピックをエンジョイしている。女子サッカーなでしこ
ジャパンの快挙に沸いていたが、オープニングセレモニーでの入場式は今でも理解できない。
日本選手団の入場行進が「JAPAN」の文字もなく通り越してしまった。多くの日系人は、今か今かと
待っていたはずである。「J」になると「次だ!」とみんな待っていたのにみごとにちらっと選手団
を映して次の国にスキップ・・・。「どういうこと?」と今でも解せない。しばし、友人達の間でそ
の事が話題になった。後日、日系新聞社の編集長にやんわりと怒りをぶつけた。日本選手団の活躍は
カナダと対戦しない限りなかなか観られないが、それでも、わずかな時間の中で日本が健闘している
姿を追い続けている。
さて、今回もくろまめさんとハッピーなひとときを過ごした。宮崎から成田まで宅急便で送ったスーツ
ケースに荷物を足してぎりぎりの22.5キロ。混雑する出発ロビーで「あーだこーだ」と笑いながら
二人で荷造りするのもきっといつかは楽しい話題になるだろうなと思う。お世話になりました。
10月にまた帰国の予定。
See You Soon.
左手のピアニスト (2012年5月9日)
年に何回かの近況を伝え合う友人から嬉しいニュースが届いた。同時にトロントでの思い出が重なる。
もう30年以上も前の思い出になるだろうか。神戸に住むその友人は神戸地震の被災にもあった。
その友人から、「左手のピアニスト」である息子さんの事が届いた。小学校4年生の時、病気の後遺症
から右手半身不随になり、ここまで努力した時間が素晴らしい演奏として流れる。感動とはこのような
時に使う言葉だろう。左手の為の曲が多くあるという。そして、左手だからこそ表現できる音の世界が
あるという。
この度、地上デジタルのNHK(Eテレ)番組、5月10日 19:25〜19:55のオトナへのトビラTV
「ネットが人生を変える」で放映される事になった。
皆さん、素晴らしいピアノ演奏の世界をお届けしますのでお聴き下さい。
http://t.co/gctLE2F2
http://www.youtube.com/watch?v=p0mCBzNUbEo&feature=bf_prev&list=ULJMKWytcE9a4
http://www.youtube.com/watch?v=JMKWytcE9a4&feature=channel&list=UL
ちょっと聴いて! (2012年5月6日)
友人から「楽しい歌だからちょっと聴いて。」ということで森山良子の「あれあれあれ」という歌が送られてきた。
ちょうど還暦の同窓会が終わった矢先に送られてきて笑ってしまった。心当たりがある、と思う人も多いはず。
私も全く同じで「えっと〜、あの人よ。ほら・・・」とついに思い出せないままになることも多い。
初めて紹介された方の名前をすぐに忘れる事も多い。また長くご無沙汰でお顔は覚えていても名前が出てこない。
どうにかして思い出そうと四苦八苦することもあるが、ついには、さも名前は知っているようにして名字を聞い
たり・・・。
会話をしていても何かで中断されると「あれ、何を話していたんだっけ・・・。」という具合であるのだから。
皆さん!この歌をエンジョイされてくださいな。ついでに「30年を2時間半で」という歌も合わせてお楽しみ
下さい。
クリック↓↓↓
http://www.youtube.com/watch?v=k-to2kRZSa4
還暦同窓会への思い (2012年5月3日)
同窓会、それも「還暦」という言葉が付いてしまった。くろまめさんからその知らせが来た時に
先生や同級生に無性に会いたいと思った。あの学び舎での先生方の素振りまでが思い出される。
お元気でいらしたことに胸が熱くなる。「懐かしいなあ・・・」と思う。
あれは生徒会役員だった時のことだったと思う。なぜか理由が思い出せない。会長をはじめ廊下
に座らされた事がふわっと思い出された。何かを失敗しての罰だったのだろうと思う。何をやって
しまったのだろう。あの時のクラブ活動での罰は、そのような事があったという思い出だけで痛み
や悔しさや何もそのような事が思い出せない。負け試合になった結果だったのだろうと思うが、学校
の裏に並ばされ竹箒でお尻を叩かれた。痛みは相当なものだったと思うが、当時は、そのような事も
ちゃんと素直に受け入れる事ができる時代だった。どのような事も一つひとつが懐かしい思い出に変
える事ができる時代だったように思う。
あの頃の少年、少女達はどのように変わっているのだろう。あれから、少年、少女達はどのような
道を歩いて来たのだろうと自分の長い道のりを振り返りながら思う。
メッセージを、あまりの忙しさの中で請求されなかったら忘れるところだった。万感の思いを込め
て書いたメッセージはカナダから故郷へと向かう道中にくろまめさんに届いた。笑いあり涙ありの賑
やかな同窓会になるだろうなあ。くろまめさんが、たくさんのお土産話を持って帰ってくる日が楽し
みだ。
常夏のキューバ (2012年4月20日)
キューバのリゾート地、バラデーロに着いたのが夜だったので迎えた朝は最高だった。
真っ青な青空の下に椰子の群集が風に揺れて「ようこそキューバに」と歓迎をされているようだった。
最初の朝のバッフェの朝食をいただきながら、バナナがそれから毎朝お目見えするのであるが、フルーツ
の中で金賞をあげたいほどの甘いバナナは欠かさず食した。バナナジュースもおいしくて、そろそろ朝食
も体が欲さなくなってもバナナ攻めで毎日朝食を済ませた。水は、大きなボトルが毎日部屋に備えてある
のだが、それは飲料にも歯を磨く時にも欠かせなかった。水に要注意なのだから、朝も昼も夜も、毎日き
ちんと勢揃いする瑞々しいサラダにはどうしても手を伸ばすことができなかった。それでも、薬(なぜか
セイロガン)にお世話になる人たちもいたけれど・・・。
オプションツアーで首都ハバナに出発。水とトイレットペーパーを持参するようにと言われた。バスは
中国から寄贈された観光バスだったが快適だった。2時間、海岸沿いを走るバスの車窓に流れる景色を観
ながらここがキューバなのだと強く感じた。それは、ハバナに到着しても観光地域は保存維持がされてい
るが、一歩そこを離れた建物などから想像する現地の人たちの生活思う時、物が溢れ豊かな衣食住の生活
にいる現実の自分にため息がついた。
ホテルに囲まれるように椰子の中にプールや野外ステージや飲食する建物などが並び私達を飽きさせなか
った。そこを通って海辺に出るようになっていたが、椰子の葉で作られた日除けが浜辺に並び、そして眼
前に広がる海は遠浅でエメラルドの素晴らしい光景だった。夜は、毎晩野外でのショーがあり、ラウンジ
ではピアノ演奏が流れ、毎日ラム酒を片手に夜が更けて行った。
キューバでは欠かせない飲み物・・・Mojito(モヒート)、ラム酒入りPina Coladaなどのトロピカルカク
テルは最高だった。そう、コーヒーもグーだった。椰子の中を歩いていて、ふと空を見上げると三日月が横
に寝ていた。「ウワッ!三日月が・・・」と思わず声を出してしまった。この瞬間を思い出す度にキューバ
の旅に行った事に徳をしたように思える。その時、一緒に同行した人が「トロントでも見えるわよ・・」と
言ったのは、ただの三日月の事を言ったのか、その一言が私のうっとりした思いをかき消したが、トロント
に帰ってその話を宇宙の本を発行する知人にすると、「絵を描いて説明してあげよう・・・」と言ってくれ
た。キューバで、横たわった三日月と対面していた3月末頃に、日本でも三日月を見た人がいるかなあ、と
思うのも楽しい。
2時間半足らずで行ける常夏のキューバはカナダ人の老若男女には人気のスポットでもある。同行した日系
二世の方は5回目だという。海のないトロントからバンクーバーに行くよりも近場なのだから、家族旅行を
企画するにはもってこいの場所と言える。
私達のホテルは大人オンリーのホテルだったのでどこでもお酒をゆっくり飲めるし、奏でる演奏を静かに
聴くことができるのでそのようなホテルもまたいいものだ、とつくづく思った。
キューバはスペイン語。ホテル内で働く人たちがすれ違うさまに「Hola(オーラ)」・・・・こんにちは、と
声を掛けてくれる。
10日間の旅がそのようにして終わった。また来る日があるかな・・・と思いながらキューバに別れを告げた。
「Adios(アディオス)」さようなら、キューバ・・・。
待ちどおしいのは・・・ (2012年3月20日)
うっすらと降っては消える雪が数えるほどだった。そんな冬が終わり早い春が訪れようとしている。
長年、トロントに住んでこのような冬はなかったように思う。
さて、忙しい日々を過ごしていたある日、子供達からキューバ行きのチケットが届いた。友人達から、
キューバに誘われているのを話した後のことだったが、いつも誘われては立ち消えていた。このように
背中を押されるとウキウキワクワクとなる。トロントから3時間、時差もないし休暇には持って来いの
場所でもある。
チケットは全て込みであるから食事代も飲み物代も何もいらない。ただ、その度に手渡すチップを用
意すれば良い。朝のベットメーカーには、何でも良いという。石鹸や歯磨き粉、化粧品などを持ってい
くことにした。古着や子供のおもちゃなどを持っていく人もいる。
お土産なんてまず買う事はないが、せめてコーヒーぐらいは買ってこようかなあ・・・そういえば、友
人がラム酒もおいしいと言っていたのを思いだした。
キューバでの注意書きが気になる。水もだめらしいし、水がだめならやはりサラダもフルーツも食べ
られない。氷の入った飲み物もやめよう。あれこれと教えられながら薬も多種多様に準備した。肝炎の
予防注射も済ませた。
海と太陽・・・宮崎で慣れているとはいえ、最近ギラギラと降り注ぐ太陽に縁が遠くなっている。
プール沿いの椰子の木陰で友人達とおしゃべりしたり読書したり、食べたり飲んだりの時間が無難のよ
うな気がしてきた。
そして二日前、セッセッセとスーツケースに友人から送ってもらった「リゾートに必要な物」のリスト
をチェックしながら一週間分を詰めている。
新年を迎えて (2012年1月3日)
「くろまめの小さな展示室」の皆様
あけまして おめでとうございます
クリスマスは、息子や娘そして娘婿や姪達のワイワイ言いながらの手料理の見事な
クリスマスデイナーがテーブルに並び賑やかに終わりました。
12月31日は朝の5時に起床してNHK紅白歌合戦を同時中継で観戦しました。今までは
ちょっと遅れての放映だったので、やっぱり同時に観る事のほうが日本の人達と楽し
みを共有できるようで、まだ暗い中ゴゾゴゾと起床してスイッチオンしました。辛い
悲しい日本が元気と希望を持って歩いていく姿が感じられるような時間でした。今で
も震災後の映像が流れるとそこに営まれていた生活が一瞬のうちに消えて行った惨さ
が思い出されます。これからも私達は忘れることなく震災と向き合っていくことの大
事さを痛感しています。その為にも多くのメデイアは途切れることなくその姿を伝え
続けていくという使命があるように思います。そして、一方ではいつでも迎えてくれ
る故郷があることの幸せを感じる時でもありました。
異国にいて新年を迎え、日本の伝統文化に触れながら、私達に与えられた使命は新
二世達に日本本来の姿を伝えていくことだと思います。
2012年、辰年・・・干支の中ではたった一つの想像上の動物として、強さ、しなや
かさ、調和、健康を運ぶこの1年がゆっくりゆっくりと小さな力を結集させた「絆」
で元気になる1年であることを願っています。
「忘己利他・・・もうこりた」 (2011年12月5日)
友人から「もうこりた」という表題でメールが届いた。
「もう懲りた」?何のことだろうと思いながら内容を読んで無性にもっと深く知りたくなった。
第二便のメールで友人は録画したということで近々DVDが届くことになっている。
「瀬戸内寂聴の東北青空説法」は、どのような形であれボランティア活動をする誰にとっても
大きな励みになりそうな気がする。「忘己利他(もうこりた)」。友人によると「己を忘れて
他を利する」つまり「いいことは人に与えて、大変な事は引き受ける。人の幸せのために尽く
し見返りはないと言う美しい行為」。復興ボランティアの方々への言葉だという。友人がいい
言葉です、というように言葉の力を感じる。
ある友人の家には「ゆっくりゆっくり」という言葉が掛かっている。普段、急いているよう
な私にとってはこの言葉も気持ちを落ち着かせてくれる。ゆっくりゆっくり行こうと目にする
度に思う。「一歩一歩、ひとつひとつづつ」と教えられる。
秋へのいざない (2011年11月11日)
毎年秋になると、友人が密かに誘ってくれるアンティークショーへ出かけた。
朝8時半。お天気も秋晴れ。おにぎりとゆで卵があればアンティークなレストランでコーヒーと
ホクホクのフレンチフライをオーダーすれば満足と言うもの。
何しろ広大なのだ。小さな町の野っぱらに100店舗ほどの店が競うように並んでいる。友人が
言うには最終日だから値切るのが良いそうだ。でもね・・・と思いながらもちょっと試すのも楽し
い。しかし、友人が見かねて「私がやってあげる」、なんて言いながら「これとこれとこれで、こ
の値段でどう。」その裁きに見とれてしまった。
最初は感心していたがやんわり交渉にかかると案外うまくいったりして「やった!」なんて思っ
たりする。思うに先方も長年の経験で慣れっこらしい。しかし、何でもありで、カナダやアメリカ
の昔が見え、また知ることもでき「へえ・・・このような物もあったんだ・・。これなんだろう・
・・」と日本とは異なった歴史が並んでいる。東洋的な器にもつい目が行ってしまうが、い
つ頃どのような経由でここまで来たのだろうと想像してしまう。多民族のカナダですもの、それは
いろんな物が長い時代の中で他国から入ってきたのだろうな。
私のもっかのターゲットは「ミルクグラス」。このミルクグラスに魅せられるようになったのは
アンティークショーがきっかけだった。どこのお店にも何個か置いてあるがゆっくり姿を楽しんで
買うようにしている。ミルクグラスは日本でも売っているようだ。
http://www.seamoon2.com/antique.htm
友人はかなり年季の入った頑丈な椅子四脚を悩んだ末に購入。気前の良さそうなおじさんが、「
オッケー、オッケー」と言いながら「あなたのおっしゃるように・・・」という感じで商談はアッ
と言う間に成立。椅子はきれいに洗って塗り替えるのだそうだ。今頃は彼女のキッチンで居座って
いる事だろう。
今年で閉めるというお店に入ってみた。すると高い一番上の棚にミルクグラスの一輪挿しがある
ではないか。何年そこで眠っているのだろうと思うほどに三個がこちらを見下ろすようにひっそり
と置いてある。店のおじさんが「よっしゃと」と言わんばかりによじ登り背伸びして下ろしてくれ
た。埃っぽくなって値段が消えかかっているが友人がすぐに交渉して驚くほどの値段でゲット。
「持ってけ、持ってけ」と言う感じである。寅さんのたたき売りを思い出した。
しかし、あちこちの店に並ぶコーヒーカップのその美しさには見とれてしまう。歴史を感じる物も
あって触れるのが怖いくらいだが、それでも手にしながらどのような家に納められてどのような人
たちが使用したのだろう・・・想像は膨らむばかりである。以前お店の方に聞いたことがあるがそ
の家の主人が亡くなり引き取り手のない家の物を一軒丸ごと買うのだそうだ。それらが店に並ぶら
しい。飾り品として使用されていない物もかなりあってそれらは高価な物として並ぶ。野原の一角
の古びた建物の中にそのようなため息がつくほどの器が並んでいると「これがアンティークショー
の醍醐味なのだ。」とわくわくしてしまう。
朝、車の中で友人が「衝動買いしないように止めてね・・・」と言っていたので、友人が「これ
も買おうかなあ」、という側で「こんなもの買ってどうするの?」「蓋のない物買って価値あるの
かしら。」「蓋だけでしょ。」しかし、「これね、良い品物なのよ。今を逃したら二度と手に入ら
ないかもしれないの・・・」という友人に、蓋だけを売っているぐらいだから「そうかな。」と思
ってしまう。アンティークならば良い品は蓋なし蓋だけでも売れてしまうのだからおもしろい。中
でも、友人がかなり昔に使用されていたような古い小さな可愛いトランクを買ったのには驚いた。
部屋に置いて小物入れにするのだそうだ。「アンティーク通の先輩はまたその感覚が違うのだ。」
と感心させられた。
帰宅して丁寧に磨き上げた。その夜友人から購入した物を並べた写真が送られてきた。今回は少
なかったはずである。来年の今頃もいそいそと出かけていくのかな。そういえば「もうそろそろ物
を増やさないように心がけよ。」と誰かが言っていたような。
そうこうしている内に秋も終わりを告げ冬将軍がそこまできている。
人生を立ち止まった日々 (2011年7月28日)
忙しい日々だった。体が動かなくなった。食事が取れなくなった。疲労、だるさ、無気力、動悸な
どなどの症状が現れた。3月頃から、何となくおかしいと気づいていたがボランティア活動には終わ
りがない。
検査、治療の入院をして甲状腺という生まれて始めての病気らしい病名をもらったが、三ヶ月近く
友人達にも逢う事ができず、声もかすれ電話にも出れない日々だった。PCにも触れることができなか
った。友人からそれでも笑う事が大事だと「男はつらいよ」寅さんシリーズのDVDが60本ほどが届
いた。毎日、寅さんと日本を旅をしながら過ごした。この三ヶ月は心が重かった。それをばねにする
ようにと誰もが言ったがそれもなかなかだった。早く元の私に戻るようにと励ましの言葉があっても
なかなかだった。そして今、体重も減ったがその体重をキープしたらいいんじゃない、なんて友人達
からの冗談にも笑えるようになった。甲状腺は身近に聞く病名であったのだが、自分がその病状にな
った時、体験するその現実の厳しさに気持ちが落ち込んでいきあなどれないとつくづく思った。
神が与えた試練だと言われ、人はその試練を必ず克服するようにできているとも言われた。病と接
する事は人生を考える時でもある。ちょっと立ち止まったその三ヶ月は私に考える時間をおおいに与
えてくれた。日本での23年間。カナダでの歳月。年を確かに重ね、そして、これから先も健康であ
る保証はない。そのような事など考えながら、今、20代でその歌に背中を押されるよう日本を離れ
た1976年の心に残る懐かしいこの歌を毎日聴いている。
「木綿のハンカチーフ」
http://www.youtube.com/watch?v=A2RI2TMCJ1M
そして今、ボランテイァ活動に復帰しながら周りの人達の言葉の温かさを日々感じている。復帰一番
の活動は東日本大震災への応援メッセージ。募集して集まった287通と共に心を込めて託した。
私に何ができるだろう・・・故国の為に (2011年3月14日)
眠りの中にいる時のロングジスタンスの音には緊張が走る。
アトランタに住む息子から朝方の3時半に電話が来た。
「今、日本は大変だよ。大地震だよ・・・」。
その瞬間、私の体は階段を駆け下りTVのスイッチを押すのももどかしく、TVジャパンのチャンネルに
変えた。「大地震・・・8.8・・・」(後に9.0と変わる)「8.8・・・?!!」
それからの2時間・・・それからの4日間、画面に映る故郷日本の姿に心が締めつけられる。被害
が拡大していく。巨大地震の津波が家を畑を呑み込んでいく。耐えられないような映像に涙がこぼれ
る。海の水の凄まじさに自然が生み出す力とはなんと恐ろしいことか。
ある外国の新聞に掲載されたと言う。「祖父母達は戦争の後日本を復興した。我々も同じように日
本を立て直す。」この言葉を紹介し「この困難にもかかわらず日本の心意気は健在だ。」と伝えたと
言う。それは、日本のプロガーが書いたものだとあった。
そして、異国にいながら「私に何ができるだろう。」そう思いながら被災者の方々の日々を思う。
フェニックスハネムーン (2011年2月2日)
「フェニックスハネムーンの歌を歌ってくれないかな。」という電話が掛かってきた。
トロントには、歌声喫茶の会というのがあって私も入会している。2月12日が集会の日になっていて、
「男性四人で歌う予定をしているが、もし、人数が揃わない時にソロでやってほしい。」、ということで
まだはっきり決まったわけではないが、どちらにしても懐かしい歌であるので早速、練習を始めた。
君は 今日から 妻という名の 僕の恋人
夢を語ろう ハネムーン
フェニックスの木陰
宮崎の二人
僕は 今日から 夫という名の 君の恋人
二人だけだよ ハネムーン
フェニックスの木陰
宮崎の二人
僕ら 明日から 夫婦というなの 男と女
抱きしめあおうよ ハネムーン
フェニックスの木陰
宮崎の二人
この歌が誕生した1967年、宮崎は観光地としてハワイのメッカと謳われ光輝いていた。宮崎に到着
する飛行機の中も観光バスの中も新婚さんで溢れていた。この歌を作詞した永六輔氏も宮崎を訪れ、あて
られっぱなしでその光景にすぐにこの詩が出来上がったという。
以前にも書いたが、「両親が宮崎に新婚旅行に行ったと聞いています・・・」という30代半ばの女性と
ここトロントで会ったことがある。「だから宮崎に一度行ってみたいです。」・・・話は親から子へ語り
継がれている。この歌も宮崎を訪れた人達から歌い継がれているかもしれない・・・そんなことを思いな
がら口ずさんでいる。
「きみは〜〜きょうから〜つまというなのぼくのこいびと・・・」
私達は繋がっている (2011年1月27日)
1月が終わろうとしている。2011年を迎えながらも忙しさにかまけてすっかりご無沙汰してしまった。
このご無沙汰が長く続くとそれが自然と流れてしまい、知らず知らずのうちにその繋がりが消えていく。でも、
気になっているうちはいいのだ。私の場合は気になって、気になって思い起こしては見るのだがまたそのまま
になって流れてしまう。この繰り返しだった。
「放浪和尚インタビュー」を読んで、というメールがくろまめさんから届いた。そこに懐かしい宮崎交通の
岩切章太郎会長の名前が目に入った時に偶然とか必然とか言うけれどちょうどまったく同じ時間に、私は宮崎
交通時代の会長の事を友人に書いていた。昭和47年4月、岩切章太郎 著「続 無尽灯」はトロントに移住
した時に一緒に海を渡ってきた。さっそく地下にある本棚から取り出してきた。パラパラと開いてみると「ア
ロハ オエ」という文字が目次の中にあり目に留まった。
「アロハ オエ」・・・つい昨日までウクレレに合わせて一生懸命練習を重ねた歌だった。「アロハ オエ
とは、アロハを貴方にという意味で、アロハとは親愛の真心を表す原住人の言葉だがハワイでは小学校から子
供達にアロハ オエのハワイアンホスピタリティを教育しているのだそうである。(続 無尽灯から抜粋)」
・・・これから歌う時はその事を思いながら歌ってみよう。
このようなことを考えると、私達は何かで繋がっていると思った。繋がっているとそれはまた長い時を越え
て思い起こしてくれる。長い人生を生きているとなかなか心の奥に眠っている事を思い出すことがない。でも、
このようにして何かのきっかけでそれらが目の前にはっきりと現れてくる。その時の楽しさ、嬉しさはこれか
らもいろんな事で思い起こしてくれるのだろうか、と思うとわくわくしてくる。