温故”不”知新3

       昔懐かしいものを懐かしむノミです



 祖父の印鑑で(2022年6月25日)

片づけものをしていたら祖父のつかっていた水晶の印鑑が出てきた。「くろまめ」の リクエストでクォーツのヘッドの指輪を作ることにした。仏壇前で報告して使わせて もらうことにした。 太い印鑑だったのでそのままカットして大き目のヘッドになった。「くろまめ」の 指にできているガングリオンをようやく通過した。

 ラキア(2021年9月27日)

かれこれ45年ほど昔になるがブルガリアに出張した。シベリアの白い山々を 見下ろしながらモスクワに到着。当時はブルガリアへの直行便は無かった。一晩 泊まって翌日ソフィアに到着。およそ2か月の間ソフィアと隣町のボテフグラード を行き来した。バスを利用したが隣町までの長い上り坂の道の脇に故障した車が いっぱい止まっていたのが印象的だった。車の性能がいまいちだったようだ。 ボテフグラードの春はプラムの白い花がいっぱいだった。このプラムで作る蒸留酒が ラキアだ。耳で聞いてずっとアラキアと思っていたがロシアをオロシアと言うが如し ラキアと呼ぶのが一般的らしい。各家庭でも作る酒で度数は50度ほどもある。 空中切りしたキュウリをつまみに良く飲んだ。春先のため生鮮野菜は無く瓶詰めで 保存された野菜を良く食べた。 現地で支給されたブルガリアのお金が貯まっていて国外に持ち出せないため帰国まぎわ に使い切ろうと色々なものを買ったがそのうちのひとつがこの木製の容器。多分ラキア の入れ物の土産品なのだろうが一度も使わずに45年間棚に鎮座している。

 「TTLアプリケーションマニアル」(2020年12月23日)

テレビから「テキサスインスツルメント」や「インテル」で仕事をしていました という日本に住んでいる外国人の言葉が流れてきた。懐かしい響きだ。かれこれ 半世紀近くも昔になるがエレクトロニクス装置の会社に入社したときにまず渡さ れたのがテキサスインスツルメント社の「TTLアプリケーションマニアル」だった。 それまで机上の知識としてあったエレクトロニクスの情報が実際に「仕事」をする 情報に変わった。回路の設計、調整にも基盤の実装設計するのにも座右の書となった。 ナノ秒、ピコ秒の世界になるとデジタル信号もアナログであること導線の端まで到達 した信号は「反射」が発生して信号源まで戻ってくる。途中の場所によって合成された 信号が異なる波形になる。そしてそれらのすべてが装置の最終的な性能に影響すること。 たいがいの現象は装置の速度を落とせば何の問題にもならないが究極まで速度を上げる ためには克服しなければならない現象であること。 コンピュータが磁気テープ、紙テープの時代からIC化で高速化、小型化していく時代に 実際的な教科書であったこの思い出深い「TTLアプリケーションマニアル」、断捨離の風 を逃れて半世紀も本棚に鎮座している。

 耳かき(2020年6月5日)

いつも髭剃りシェーバーと一緒の箱にいれてある愛用の「耳かき」。そういえば 竹製で片側がスプーンのようになっていて反対側が丸い綿毛のようなものが付い ている昔ながらの耳かき棒もあったが、いつのまにかどこかへ行ってしまった。 横浜に住んでいたころに「王様のアイデア」という店で買ったような気がするが 確かではない。引っかかりが良いのと安全そうなので何十年も使っている。 こわれそうもないので一生ものになるのだろう。

 日記(2020年3月24日)

昔の絵日記が出てきた。日記は今でもつけているが最初は小学2年のときの この絵日記で始まり、そして普通のノートになり最近はパソコンに入れている。 かれこれ60年の間日記を書いていることになる。 テレビ放送がはじまり警察署の広場に街頭テレビがついた頃、またキャラメルの カードを集めて本屋さんに行ったときのことなど。

 ペンダント(2019年12月19日)

年末の片付けものをしていたら古いペンダントが出てきた。最初は鎖のゴミをとったり していたが、どうも開くようになっているようだということで開いてみた。 中には方位磁石と祖父の写真が入っていた。 もう一つは「一朱銀」でペンダントに加工したものと思われる。

 セピア色の写真(2019年5月7日)

孫娘が遊びに来て昔の古い写真が見たいと言う。テレビでやっている番組の「ファミリー ヒストリー」に興味を持っているらしい。昔の写真はスキャナーでデジタル化して パソコンに入れてはいるがやはり紙の現物が良かろうとのことで箱の奥から引っ張り 出す。テーブルに広げると「古さの匂い」で喉が刺激されるほどだ。全部白黒写真。 時折セピア色に変色した写真もあり孫が取り上げて喜ぶ。写真の中に肖像画や引揚船の 手書きの乗船証明書などもある。おじいちゃんのおじいちゃん、おじいちゃんのおかあさんの おとうさんなどと説明してもすぐに関連づくはずもない。今はご先祖さまたちがその時代 を一生懸命生きていたということがうすうすわかってくれるだけでいい。 父方の祖母。我が家の家系は記録好き。祖父と祖母、明治の終わりに浅草で記念撮影したらしい。

 断捨離(2019年4月13日)

連日の断捨離で箱の奥から懐かしいものが現れる。昔使っていた製品の保証書や マニュアル、処分したが懐かしさで捨てられないものもあった。カラーテレビは まだダイヤル式、UHFもダイヤル式。地デジではなかったので建物の反射などで 画質は悪くアンテナの向きを変えたりした。録画することなど頭の片隅にも無かった。 電気釜は初期の形でご飯が炊けるとスイッチがパチッと上がったような気がする。 8ミリ撮影機はかなり使った。フィルム式で音声が出ない。一回3分だったので 撮るときは貴重品扱いだった。写真やさんで現像したあとにテープでつないで大きな リールに巻き取り暗い部屋で襖に映して家族で楽しんだ。 昔使っていた無線機、VHSプレーヤー、DVDプレーヤー、レコードプレーヤーなどが 出てきた。スピーカーボックスは幾つもあるので全部捨てることにした。パソコン や外部ディスクは内部に記憶装置があるので穴をあけて壊して捨てたがVHSプレーヤー はうっかりそのまま捨てるところだった。これも録画機能があったのでドリルで穴を あけた。SSB無線機はボタンの数も多いが結構な値段だった。レコードプレーヤは 捨ててしまうと今持っているレコードを聴く手段が無くなるがあまり考えないこと にした。8ミリフィルムやVHSテープは一部デジタル化してパソコンに取り込んでいるが まだオリジナルテープは捨てられずにとっている。VHSテープを再生する装置も無くなって しまうがこれもあまり考えないことにした。ただ8ミリフィルムの映写機だけは 残すことにした。まだフィルムのオリジナルも残っているし何といってもあのアナログ なモーターの音がする暗くした部屋で家族で笑いあった時間を忘れられないのだ。

 無線機(2019年4月10日)

最近は部屋の模様替えやDIYをやっている。箱の奥まったところにしまってあった ものが久しぶりに現れる。何度も断捨離をしてきたつもりだが新たな断捨離をする ようにとの無言の圧力を感じる。今回は50MHzでAM/FMの無線機だ。二十歳の頃 になけなしの金をはたいて買ったもの。アマチュア無線といってもいろいろな人と 傍受されながら「会話」することには興味が無く、もっぱら機械をいじってどこまで 電波が飛ぶのかに関心があったのでこのような既製品にはすぐに飽きがきたのだった。 そのまましまい込んで何十年。最後に記念撮影をして捨てようと思ったがファスナー が開かない。潤滑剤スプレーを持ち出してやっと開いた。それでもマイクを差し込み アンテナを伸ばして最後の別れのセレモニーとした。

 置時計(2019年3月26日)

ついに壊れてしまった。というか壊した。43年間地道にコツコツと時を刻んで きたが腕が当たって棚から落ちてしまった。電池は転がり出たが中身は大丈夫と 思っていた。今日見たら長針は正しく動いているが短針の動きがおかしくなっていた。 歯車が外れたのだろうか。 この時計は新婚時代に買ったもので、結構な値段だったと「くろまめ」が記憶して いた。それまでの壁掛け時計から住宅事情に合わせて置時計がはやり始めた頃だと。 無骨そうでがっしりとしていて仕事はきちんとこなしますよ、という姿が気に入って いた。 修理という言葉が頭をかすめたが処分することになった。

 ゾーリンゲンの髭剃り(2019年3月21日)

部屋の模様替えをしていたら箱の中から出てきました。ドイツのゾーリンゲンの髭剃り。 これは祖父の代から我が家で使われていたものでゾーリンゲンの刃物ということで自慢げ にしていたのを覚えている。小指を引っ掛けて使うのが何とも奇妙な感じだった。石鹸を 泡立てて床屋さんで使うようなハケというかブラシというのかで塗っていた。その後は 必ずお湯で温めたタオルでヒゲを蒸していた。ぶら下げた革の帯で刃先を研いでいた。 革で刃物が研げるのが不思議だった。この他にT字のコンパクトな髭剃りがあって両刃の 薄い替刃をはさんで使っていたのを覚えている。 このゾーリンゲン、断捨離はせずに持ち続けることになりそうだ。

 テープレコーダー(2019年3月11日)

「宝箱」の底のほうから東京オリンピックの時のテープが出てきた。1964年の ものだから55年も昔のものだ。義兄からもらった時は嬉しくて、がっしりとした テープレコーダーで再生して聴いた記憶がある。あのファンファーレやオリンピック 行進曲、実況アナウンサーのちょっと上ずった声が新鮮で耳に残っている。 あれから半世紀、世の中が進歩して再生できるテープレコーダが身の回りに無い。 オープンリールからカセットテープ、レコード盤からCD、MD,ICレコーダーへと便利で 小型になり音質も良くなった。今はインターネットで音楽が送られてくる時代になった。 でもテープの先端をくねくねと通過させてヘッドの前を通し空のリールに引っ掛けたあの 時代が懐かしい。レコード盤のゴミを掃除してプレーヤーもヘッドをレコード盤の溝に おろした、あの時代が懐かしい。秋葉原にはオーディオ機器の店がいっぱいあって大型の スピーカーボックスやオープンリールのテープレコーダーが並んでいた。オーディオ雑誌 もいっぱい出ていて周波数特性のグラフを眺めてはため息をついていた。 その後のコンピュータや半導体の進歩。こういうエレクトロニクス機器の創成期のワクワク する良い時代を生きてきたのだと思う。

 モスクワ空港(2019年2月13日)

この壁掛け、かれこれ40年壁にぶら下がっている。ブルガリアに出張のときに 直行便が無いのでモスクワ経由となった。羽田からアエロフロート機に乗り冬の シベリア上空を飛んだ。見下ろす大地は雪で真っ白。モスクワ空港は軍人みたいな 服装の係員の姿に少し緊張。空港内の土産物店でこの壁掛けを買った。 その日は乗継便が無くトランジットホテルで宿泊することに。バスから見る街は オレンジ色の街灯で照らされた雪のオレンジ色が印象深かった。ホテルの窓から 外を見ると軍人らしき人が銃を持って警戒していた。同室になった日本人の若者 がいてバックパッカーで中近東を旅行しているとのことで色々面白い話を聞かせて もらった。こんな世界の果てに来ている気分なのにバックパッカーの若者と同室に いることが面白かった。 翌日はソフィアに向かったのであるが機内放送はブルガリア語、ロシア語、フランス語 などで英語の順位がかなり下がっていることが印象的だった。ソフィアの空港では 土産に持って行った100円ライター・チルチルミチルやパンストがいっぱいあったので 税関で税金をかけられた。空港の係員たちから聞こえてくる「ノー・プロブレム」という 言葉に妙に安心したのであった。 仕事ではソフィアと隣町のボテフグラードを行き来することになった。雨が降ると 持って行った折り畳み傘を使ったのだが、現地の人は傘をさすことが無く傘をさす 日本人を見て珍しがっていた。当時は共産国で自由競争が無いためかテーブル上の 魔法瓶などは地味で何十年も同じものを使っているような様子だった。日本人のさす カラフルなデザインの傘を見て女の子たちは欲しがっていた。ジーンズがまだ限られた ドルショップでしか買えなかった時代の話である。

 磁気コアメモリー (2018年6月17日)

昔の記憶装置、磁気コアメモリー。小さな小さなドーナツ状フェライトコアに銅線が 縦・横・斜めに走っている。1個のコアでひとつの1/0情報が記憶できた。コンピュータ 関連の会社にいたころ隣のグループの扱っている装置に使われていた。身長の高さぐらい の制御ラックのてっぺんにこの記憶装置が納められていた。やはり記憶装置なので人間の 頭脳にあたるてっぺんに配置したのだろうと思っていた。その後40年ほど前にゴミに なる運命だったものの切れ端を記念に切り取った。その後、半導体メモリーが主流とな り何十億倍もの記憶容量がキャラメルほどの大きさで実現できるようになった。 メモリーの形も激変したがこの時代は他のものも大変化を遂げた。真空管ラジオから トランジスタラジオに。ラジカセとかダブルラジカセも流行した。白黒テレビの時代から カラーテレビへ。フィルム式の8ミリは磁気テープ式の8ミリになり半導体メモリーの 8ミリとなった。録音テープはオープンリールからカセットテープへ。カラオケも8トラ のカセットテープだった。カメラはフィルム式からデジカメへ。写真屋さんに出向いて 仕上がり日を確認する必要も無くなった。友人に配る分も焼き増しすることも無くなった。 パソコンも安くなった。モニターはブラウン管から液晶パネルに。レコード盤からCDへ。 電話は手回し式からダイヤルへ。ケータイは肩掛け式から小型になってアンテナ式に。 ポケベルもあった。いつの間にかアンテナが無くなっていた。タッチパネルのスマホに なって便利になった。 B面といっても理解できない若者も増えてきたようだ。隔世の感がある。真空管ラジオの 時代からいろいろな変化を体験できた。いい時代を生きてきたと思う。

 ミートミンサー (2018年5月25日)

昭和50年代に買ったミートミンサー。しばらくしまい込まれていたが、 また使ってみたい気分になった。 若いころに家族で味噌作りで大豆をつぶしたりソーセージを作ったりした。

 ダイヤル式電話機 (2018年1月12日)

頼まれて親戚の家の電話機の契約を解除した。電話会社が、袋を送るので電話機の 返却して欲しい、とのことだった。古い電話機なので持っていても面白いと思い、 買い取ることもできるのか確認すると、750円とのこと。買い取ることにした。 裏に1966年と書いてあり相当古い。戦前の真空管ラジオの上に乗っけてみた。 電話機を初めて見たのは小学校にあがる前だ。木で出来た四角い箱が壁に付いていた。 大きな目の玉のような金属製のベルが印象的だった。いつも見上げている得体の知れ ないモノだったが今思えば電話機だったのだ。小学校の頃は黒電話になっていた。 右側に付いている手回しレバーで交換手を呼んで、接続してもらうために相手の 電話番号を声で伝えた。我が家は近所では電話をつけるのがはやかった。呼び出し 電話のときは呼びに行くのが大変なので、それぞれの家に固有のモールス信号の ようなトン・ツーを割り当てて呼び鈴で呼び出していた。市外通話の時は交換手 から折り返し料金の通知が掛かってきた。 それから数十年の時間が経過したある日、顧客訪問の外出で駅で休んでいたら、 肩からショルダーバッグのような箱をぶら下げて、くるくる巻いたコードの受話器 を持って話している珍しい光景を見た。今思えばあれが始めて見た携帯電話という ものだったのだろう。その後ポケベルというものが出始めた。外にいても連絡がとれ る便利ものだったのですぐに社員に配られた。始めは数字だけの表示だったが、すぐ に文字が出る工夫がされた。このような製品は進歩が速い。 そのうちケータイが社員に配られた。今は無くなったアンテナだがその頃は二段式 のアンテナを伸ばして使っていた。このころになると電話ボックスや駅構内の公衆電話 が急速に減ってきた。あれほど「流行」したテレホンカードも出番が無くなってし まった。最盛期には会社の広告を入れたりして客に配ったりして重宝したものだった。 その後メールも使えるようになった。この頃にはタッチパネル方式の「スマホ」が 登場していたが、使うことなく定年を迎えた。めまぐるしい技術の進歩だ。 今は定年後に買ったスマホ、iPhoneを使っているが便利で重宝している。子供の 電話のオモチャは四角形の味気ないモノになってしまったが、テレビの字幕に 出る電話が掛かってきたマークは、まだダイヤル式電話機の形をしていてホッと している。