あつ子@カナダ7
日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。
*歌の祭典 トロント紅白歌合戦** (2009年12月23日)
本番を迎える前夜、長い道のりだったと誰もいないステージに立って思った。高い天井にはセットされた照明、
ステージも光が踊るのを待つかのように真っ白いドレープが流れている。会場も電動式椅子の他にフロアー席が
きちんと並び、審査員席も全て準備が整った。会場のホールを出ると控え室や受け付け、出店のテーブルなど周
辺も準備万端だ。見落としはないだろうか、と前夜に書きまとめた23項目のメモ用紙を眺める。一つひとつ消
していきながら、「これはOK・・・」とぶつぶつ言いながらチェックする。運営の仕事はまさに四方八方に広が
る。何回経験しても何かを見落とす。慎重にと思いながら緊張がピークに達する。6月に、実行委員会を立ち上
げ準備を始めてから六ヶ月間、その道のりは楽しみながらも悪戦苦闘の日々だった。
6時半開演。119人というボランティアの力が動き始めた。光と音が美しく交じり合いながら華やいだステ
ージが流れていく。エネルギッシュな若者達は疲れを知らない。10組の新人は、緊張という言葉がないかのよ
うに堂々たるパフォーマンスを見せてくれる。若いダンサー達は舞台狭しかのように躍動感があふれる。世代交
代の嬉しい前触れのようにも思える。
控え室では、ヘアーやメイク、衣装で見違えるように歌い手達が変わっていく。係の人達も開演が近づくと手
を休める時間がない。それは素晴らしい手捌きでまるでマジックみたいな感じだ。
32年、昼夜二回開催した時期を含めると48回の開催となる。この間どれだけの人達がこのショーを支えて
きたのだろうかと思う。まだ、日本の娯楽があまりない頃、紅白などのショーは、戦前戦中と苦労された一世や
二世の方々に大変喜ばれた。「ありがとう。とても楽しかった・・・」ありがとう・・・その時から私はこの言
葉が大好きになった。そして、その言葉を何度頂いた事だろう。32年という流れの中で、そのような方々とお
会いする事が出来なくなった事は寂しい。
時代はゆっくり変わろうとしている。今、紅白を終えて、会場やステージを思い起こしながらそろそろバトンを
手渡す時期が来たように感じている。異国という大きな社会で揉まれながら、そして息づいている小さな社会・
・・トロント紅白歌合戦は、その小さな社会の中で私達が守っていくべき物は何なのか、という答えを出して
くれるイベントであるように思う。
紅白の写真です(クリック!)
紅白が終わるまでは・・・ (2009年12月8日)
トロントは、まだ一度も雪が降っていません。今までこのような事はありませんでしたから地球が心配です。
さて、私は、毎日目も体もクラクラ、フラフラするような日々を過ごしています。フラフラと言えばフラダン
スのクラスも終わりました。また、春からスタートしようと思っています。大分、様になってきましたよ。
今度、お会いした時にご披露しようかな・・・かな?
クラクラ、フラフラの原因は、トロント紅白が一週間後に迫ってきたからです。この一週間は夜も眠れない
ほどに緊張します。運営の全てが手落ちなく準備できているだろうか、と言う緊張感です。今回は、11人も
若手新人歌手がいますし、若手のダンサー達が二組もいます。よさこいソーランなどがステージ狭しと繰り広
げられ若き熱気でムンムンです。当日は、118人のボランティアが一体となってショーを流していきます。
当日は、午前11時に集合して夕方6時半に開演してショーが終わり、片付けなどをしてお開きになるのは
夜中の12時頃です。チャリティーショーとして開催する33回目の紅白は、こうしたボランティアの力によ
って支えられそして続けられてきました。
「三十九枚の年賀状」の映画の件は、今、宮崎県人会の役員の方々にパンフレットなどを回して読んでいた
だいています。会員は、広いオンタリオ州のあちこちにお住まいですので時間が掛かりますが、今度、会員が
集まる日に説明会等を設けたいと思っています。
それから、来年2月に家族で帰国しましす。私は三週間ほどの滞在です。お会いできるかなあと今から楽しみ
にしています。それではまたお便りします。
9月の手紙 (2009年9月9日)
8月が終わり、9月に入った途端何となく秋の香りがするような、そんな感じのトロントの朝です。
空はどこまでも青く、ドライブウェイの木々たちも時が止まったように静かに佇んでいます。裏庭の
小さな畑では、茗荷が毎日顔を出して食の友になっています。今日もたくさん収穫があったので甘酢
漬けにしました。これから、季節を終えて和え物などにするのが楽しみです。
さて先日、友人達を招待して宮崎の「冷汁」をご馳走しました。夏が終わらないうちにと思い立ちま
した。それに、長年、県から依頼されている「みやざき応援隊」としての使命もありますし、友人達
に宮崎の味を紹介したかったのです。
日本の食文化である故郷の味は体の奥底に住みついて年を重ねるごとに懐かしく、そして、時折恋しく
なります。この「冷汁」は夏には欠かせない我家のメニューですから、その栄養価を称えながら子供達
が小さい頃から夏のメニューとして登場しています。この「冷汁」は、宮崎の味の文化として子供達へ
と伝える事ができたのだと思っています。
そうめん流し (2009年8月12日)
昨夜の雨がカラリッと上がって夏の雨上がりの空気も気持ちがいい。今日は、茶道の先生宅で「そうめん流し」
をして日本の風情を楽しもうというわけである。途中、友人をピックアップして早めに着いた。丁度、先生が前庭で
180ドルもしたと言う竹箒を持って掃除をされていた。1本180ドルの竹箒、と聞いて驚いたが、ご本人も驚か
れながらも、それでもほしいからとお買い求められたらしい。でも、4月に京都に帰国された折、日本で安い竹箒を
2本購入され郵送されたようだが送料も決して安くなく、それでもトロントで購入するよりも安く上がったと言うこ
とだった。
初めて訪問と言う友人に藤棚や京都のもみじ等が植えられている日本的な庭をご案内。そこに露草やドクダミ草を
発見。さっそく苗をいただく事にした。そして、そこには池に沿って竹を半分に割ってそうめん流しの準備が設置さ
れていた。ご主人の大工仕事に感動と驚きの歓声をあげた。
お昼になって準備も整いそうめん流しが始まった。両側に立って汁椀を持って「さあ、開始!」の声にそうめんが
水と一緒にサラサラと流れてくる。掴まれなかったそうめんは最終地点で笊におさまる。その笊のそうめんを嬉しそ
うに食べている友人の姿が微笑ましかった。きゃあきゃあ言いながら夏の楽しい風情ある時間が過ぎていった。
今週の宮崎サンシャインFMで時間があれば話題にしようと思っている。13日、いつもの時間に登場いたしますの
でお聴きいただければ嬉しいです。
西都の夏祭り (2009年7月27日)
「宮崎サンシャインFM」で西都の夏祭りの様子が放送されました。この時、人は皆繋がっていることを感じました。
というのは、今年の帰国の春、従姉弟に節句に招待されましたが、その時に、ちょうど宮崎サンシャインFMから
出演依頼の話が出ていて話題になったのです。そして、先日西都の夏祭りの様子を宮崎サンシャインFMから発信す
るという連絡が来ました。そこに、祭りの実行委員長である従姉弟が登場してラジオのスタッフの方々も驚きとな
ったのです。そして、いよいよその日、従姉弟がインタビューを受け懐かしい声で私にメッセージを送ってくれま
した。サイマル放送から流れる西都の祭りの様子が手に取るように分かりました。町の活性化に力を入れる若者達の
躍動するその音に聴き入りながら嬉しく思った時間でした。
頑張れ西都!!
さて来る30日(木)夜8時20分、宮崎サンシャインFMのいつもの時間にまたまたトロントからお届け致します。
お時間がありましたらどうかお楽しみください。サンキュー。
布施豊正先生との出会い (2009年7月23日)
「あなたは舞台で観るより小柄な方ですね。」という一声が始まりだった。その方が、ヨーク大学名誉教授
布施豊正先生であることを後で知った。もう何年前であろうか。確か20年ぐらい前であったようにも思う。
先生は、私達が開催してきた様々なボランテイアの一環であるステージショー(トロント紅白歌合戦・新春芸
能大会・なつかしの歌ごえなどなど)の大ファンのお一人でもある。ショーが終わる度に激励のお言葉をいた
だいた。先生の温かいお気持ちに私はずいぶん支えられてきた。
布施先生は自殺学の研究家で知られている。そして、この度新著『マージナルマンの視点―自殺学の「窓」
から覗く世界』を出版された。ある日、お会いした時に「あなたの事もちょっと書きましたよ。」と言われて
私は驚いた。驚きの中で何と名誉なことだろうと嬉しさを隠し切れなかった。
この本は日本で出版されているので船便で私の手元に届くまで二ヶ月ほど掛かるらしい。布施先生が、日本、
アメリカ、カナダを生きてこられ、その視点からどのような内容になっているか楽しみだ。
布施豊正著
『マージナルマンの視点―自殺学の「窓」から覗く世界』
東京図書出版会 定価1200円
郵便番号113−0021 東京都文京区本駒3−10−4
TEL(03)3823−9171/FAX(0120)41−8080
マージナルマン(Marginal man)
「マージナルマンYahoo百科事典」は(ここをクリック!)
7月の手紙 (2009年7月13日)
今日は24度ぐらいかなあ、と思いながら7月にしては物足りない温度です。茗荷やトマトがスクスク育って
いるように見えますが実がなるかどうか。それでもプチトマトが数個赤くなってきています。
7月も半ばになりました。先週は、日系文化会館で天皇皇后両陛下をお迎えしました。250名のご接見者の受
付けをしたりと緊張の中での和やかな1日でした。
天皇陛下は、皇太子殿下として船でバンクーバーにご到着されそこから列車でカナダ大陸横断をされています。
1953年、今から56年前のことです。早朝や夜遅くに拘わらず日系人の方々が各駅でお出迎えされその時の
思いが強く心に残っていらっしゃるということでした。
偶然にも、70代、80代のお二人の日系二世の方々とお付き合いがあり、その方々がちょうどお出迎えをした
というその時の写真を見せていただきました。お二人とも振袖姿で、ご一緒の当時の皇太子殿下のお姿がとても
印象的でした。ご接見の時にその思い出をお話ができたということでした。また、同船者としてご接見できた日
系二世の方々も懐かしくお話ができたと、とても喜んでいらっしゃいました。
私も、4年前にご拝謁できた上に今度トロントでご接見できるなんて本当に夢のようでした。三日間、トロント
は素晴らしいお天気に恵まれカナダの初夏の気候をお楽しみいただいたのではないかと思います。
さて、三度目の宮崎サンシャインFMの出演が決まりました。15日、日本時間の夜8時20分、もしお時間が
ありましたらお聴きいただければ嬉しいです。今回は、夏のトロントのことなどを話題にしようと思っています。
今、トロントは日の出が5時48分、日の入が8時59分です。9時頃まで明るいトロントですから、お仕事を
終えて十分にアウトドア・ライフを楽しむことができます。
6月の手紙 (2009年6月20日)
6月...梅雨...紫陽花。トロントのお花屋にもピンクやブルーの紫陽花が並び始めました。
6月になるとトロントも何となく雨が多いように思います。日本の6月の雨の中に咲く紫陽花が懐かしく
思い出されます。
この度、天皇皇后両陛下がカナダを御訪問されます。オタワ、トロント、ビクトリア、バンクーバー、そして
ハワイという日程が在カナダ日本国大使館から公表されました。トロントでは2日間滞在されますが、先日、
新移住者協会として御接見の御案内状が届きました。
2004年4月25日、特別史跡公園西都原古墳群で開催された「第55回植樹祭」のことが思い出されます。
その時、御拝謁できたことの感動を今も忘れることができません。1953年、56年前に皇太子殿下の当時、
初めての外国御訪問先としてカナダを選ばれ、バンクーバーから列車で大陸横断をされた時の思い出をお話されました。
その時、日系人の方々の事に触れられましたが、早朝や夜中にも関わらず日系人のお出迎えのご印象が強く残られ
たのだろう、と思います。
そして、偶然にも日系二世の友人から、その時の皇太子殿下と、御一緒に写っている写真を見せていただきました。
彼女が15才の時で、振袖姿の彼女や日系人の方々の笑顔がとても素敵でした。
7月を前にトロントはにわかに活気付いてきました。
姉の思い (2009年5月24日)
忘れかけていた1枚の写真だった。いつの帰国だったろうか。くろまめさんと会ってスーパーに寄ると、
そこで山野草の展示会に参加していた叔母に会った。早速くろまめさんに紹介してそして記念撮影。それが
この1枚である。その写真が巡り巡って私のところに姉を通して届いた。この1枚の写真から、その日から
過ごした様々な事が思い出された。時はどんどん流れてたくさんの思い出もその流れと一緒にどんどん流さ
れて行く。
くろまめさんと一つの約束があるのを思い出した。「20年後に、ぽっかぽっかの縁側に座ってお茶をす
すりながら若い頃の昔話をたくさんしようね。」まだまだそれは遠い話と思いながらもその日がどんどん近
づいてくる。
送られてきた写真に「この写真を額に入れて部屋に飾っておくわね。」と添えられてあった。姉の優しさ
に胸がきゅんとして「サンキュー」とつぶやいた。
遠い異国に住んでいると姉の思いがストライクゾーンに直球で伝わってくる。
海を越えて発信 (2009年5月19日)
宮崎サンシャインFMに出演が決まったのは帰国した時の事でした。トロント宮崎県人会に県を通して
依頼のメールが届き、丁度、帰国中だったので担当の方と電話でお話をしました。トロントに移住して
いる宮崎県出身の若い方をご紹介するつもりでしたが、まずは私に、となったのです。(その時、まあ
!嬉しい!!と心の声が聞こえました。笑)
カナダに生きて33年。その長い時、日本を思いながら宮崎を思いながら生活した中で話題は数多く
あるように思いました。出演の1回目は、自分のプロフィルから始まりましたが、自分の事を公に語る
のは気恥ずかしい事でした。でも、誰にでもどんな事にも始まりはあるのだ、と気合を入れて話したの
でした。長い間、ボランティアを続けて来た事も功をなしたように思います。その活動の中で知った事、
学んだ事、教えられた事が多くあります。そして、そこから人とのネットワークもたくさん生まれ、
その世界の事を知るにはこの人から、というようにいつでも多くの人に助けられています。本やPCで検索
するよりも生の声で学ぶ事は素晴らしい事です。
そして、カナダに来て、日本にいては見えない事などたくさんある事を知りました。そして、異国から
見る日本もまた日本にいては見えない事が多くありました。
宮崎サンシャインFMを通してそのような事をお伝えする機会を持つ事ができ嬉しくてなりません。それに、
遥か海を越えて地球の中を自分の声が駆け巡るなんて夢のようでした。
最後になりましたが、その生の声を聴いていただいた皆様にとても感謝しています。ありがとうございました。
今年も「いらっしゃ〜い」ました! (2009年5月15日)
新型インフルエンザという壁にも屈されることなく「待っている人がいるから」という嬉しい言葉を持って
トロント入りされた。マスクがおおいに役に立ったかどうかは分らないが、シカゴでもトロントでもマスクを
していると反対に菌保持者と思われてしまう。エレベータが開いた途端、マスクをした三枝師匠を見るや中の
人たちが「ギョッとされ一歩引いた。」という話も舞台では笑いを取った。
今回は、トロント出身のお弟子さん「桂(三輝)サンシャイン」の英語の落語も色を添えた。
笑う、という事は日頃の生活の中で大事なことだといつも思うが、なかなかお腹の底から笑う、という事がない。
ストレス社会と言われる今の時代、こうした笑いを届けてくださる事こそ本当の心温まる処方箋のように思う。
創作落語という落語を生み育て、トロントまで来て頂いた桂三枝師匠に感謝しいつまでも応援したいと思っている。
いい日旅立ち (2009年5月13日)
これから13時間、機内に缶詰になるのだから、といつも搭乗する時は一番最後尾に並ぶ事にしている。
今回は映画を4本も観てしまった。前の席にスクリーンが一台づつ取り付けてあるので自分の好きな映画や
音楽などを自由にできることが嬉しい。真ん中の席の三席は知人とそのお子さん。機内に入ってその偶然に
驚き笑いあった。
このようにして、定刻に成田に着き成田から羽田へ羽田から定刻に宮崎に到着。母が笑顔で迎えてくれた。
こうして、宮崎の地を踏んで宮崎の生活が始まった。桜、菜の花、つつじ、そして山々の新緑が私を待って
いてくれた。モコモコとカリフラワーかブロッコリーのような山々の景色は飽きないほどの美しさだった。
本当に、生まれた時からこのモコモコとした景色はあったのだろうか、と不思議な思いに駆られた。
「ふるさと」という唄、そのものの思いだった。
福岡の原鶴温泉は源泉で姉と二人の小さな旅はゆったりとした時間を肌で感じることができた。至福の時
とはこういう時の言葉だろうか。
中学の後輩や同級生たちとの時間の中では懐かしい思い出に浸ることができた。思い出とは、本当に尽き
ないものだとつくづく思う。そして、共有する思い出は幸せな時間をつくるありがたい物なのだ。
夢のような日本での生活が終わり、トロントに帰ってきて時差がいまだに取れない。午後になると睡魔が
襲ってくる。さて、カナダは新型インフルエンザで真っ赤にそまっているが、どこにでかけても特別に何事
もなく普通の生活が回っている。2003年のサーズの時を思えばそんなに深刻な状況ではないらしい。
それよりもまた睡魔が襲ってきた。
トロントの様子をご覧下さい。 (2009年5月3日)
桜が満開です。トロント宮崎県人会はナイアガラでお花見です。
桜を見てください。(クリック!)
3月の手紙 (2009年3月29日)
3月も終わります。トロントはゆっくりと春の支度をしているような、そんな毎日です。今年は桜の開花が
早いかもしれないなあ、と思いながら、明日からいよいよ帰国です。成田への直行便が昨日から出航となりそ
れを待っていた人たちで満席となるようです。約13時間の空の旅、いつものことながらその時間をどのよう
に過ごそうかと思案中、といっても音楽を聴いたり映画を観たり、読書をしたり...。今回は、久々に東京
に寄り道をせずにまっしぐら、乗りつぎながら宮崎へと向います。トロントから成田へ。成田からバスで羽田へ。
羽田から再び機上の人となって宮崎に着くのが夜の9時、本当に長い旅路です。時差の疲れなどを考えると帰国
もだんだんと体力が必要であることに気づきます。
それでも、故郷はやはり心身を癒す特効薬なのです。親、兄弟、親戚、友人たちとの語らいは笑いが絶えません。
懐かしむ、ということの嬉しさです。日本を離れて長くトロントに住む友人たちも、「同窓会」で帰国する機会が
多くなりました。何年経っても、それは「懐かしい人に会える」という喜びからでしょうか、そのようなことが
話題になることも多くなりました。
さて、一ヶ月間...どんな日々が待っていることでしょう。
シロバナタンポポ綿毛 (2009年3月6日)
3月...今日のトロントはどんよりしたお天気ですがプラス11度もあります。このまま春が来るのかなあ、
と思いながら過ごしていましたら、なんと、くろまめさんがシロバナタンポポ綿毛の姿をお届けしてくださいました。
飛び立つ前にゆっくりと安息しているようなその愛らしい姿に思わず微笑んでしまいました。この綿毛はどこへ
飛んで行くのでしょう。フワフワと風にのってどこへ向うのでしょう。海を越えて遠く遠く遥か彼方まで飛んで
行ったらいいですね。そう、カナダまで飛んで来てくれたらどんなにいいでしょう。
「タンポポ」...伊丹十三氏がお好きだったと言います。館長宮本信子さんがそうおっしゃっていました。
だから、「中庭にはたくさんタンポポを咲かせて。」と注文されて、伊丹十三記念館の中庭、そして周りには
たくさんタンポポが咲くそうです。このシロバナタンポポが、その中庭まで飛んで行ったら素敵でしょうね。
今度、トロントのタンポポも日本へお届けしようと思っています。待ち遠しい春です。
「タンポポ」映画・伊丹十三監督
1985年の映画「タンポポ」は日本よりも海外での支持が高く反響も大きかった。カナダに来た頃カナダのTV
でも放送されてビデオに録って保管。舞台となっている「ラーメンタンポポ」は札幌市に実在。...
久々に見てみようかなと思っています。
2月の手紙 (2009年2月28日)
夕方6時半。夕食の準備をしているとすきやきソング「上を向いて歩こう」がラジオから流れ始めました。
このような偶然に出会える事はなかなかありません。どこでどんな人たちが聴いているのだろう。今の時間、
きっとドライブ中の人も多いだろうなあ、と思いながら、私はしばし動きを止めて聴き入りました。異国の
ラジオから流れるその歌に何となく哀愁を感じるのでした。二番目から一緒に歌ってみました。そして、
トロントに来た頃、ラジオから流れるこの歌を何度か聴いた20代の日々を思い出したのです。その頃、
日本は遠くて遠くて時々歌のようにはいかず下を向くこともあったような...。
あれから時は流れ、2009年、日々の短さを感じる年代になりそのような歌もただただ懐かしさの中で
胸がいっぱいになるのでした。
さて、20代を懐かしむほど長い日々を過ごしたトロントでの生活...2009年を迎え2月も終わりになり、
ここトロントは一番寒くて雪の多い時期だというのに、今までに経験のないような珍しくもプラス10度の日も
あり何だか得したような気分になりました。でもここはカナダ、大雪が降っては解けての繰り返し、そして今日
は昼間はプラス5度もあったのに夜中にはマイナス15度になると言います。この温度差には驚きです。
そのように、トロントの春はまだまだ遠いようですが実家から裏庭に咲く梅の便りが届きました。
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ 服部嵐雪
1月の手紙 (2009年1月30日)
1月が終わります。ぎりぎりの中でこのお手紙どうにか間に合うでしょうか。
1月25日は、恒例の新移住者協会主催の「お正月会」だったのです。国交80周年記念行事の一環として
開催されましたが、今回も演芸の部の企画を任されて奮闘していました。昨年と違う所と言えば、日本舞踊
や古典舞踊、琴、三味線の中に80代の方々の大正琴、手品、民謡、エレキの懐かしい演奏などが入ったこ
とでしょうか。
日系新聞の日加タイムスの電子版ですがお正月会の様子が出ています。(クリック!)
そうそう、「着物ショー」はすこぶる評判でした。今回は、「お祝い事」と題して、お正月、成人式、お宮参り、
ひな祭り、節句、七五三を披露しました。大道具、小道具も活躍してお正月のところでは炬燵やみかん、お年玉、
お屠蘇、門松などが色を添えました。モデルさん達もそれぞれに着飾って、中でも子供達の可愛い姿が人気を呼び
ましたが、何となく親達の方が喜んでいたような...でもそんな笑顔も成功のひとつだったように思います。
ご来場のお客様は約600人ボランティア200人。獅子舞い、お屠蘇や臼と杵でつくお餅つきのデモストレーション、
盛りだくさんの出店、子供達のお正月の遊びなどなど会場はすっかり日本のお正月でした。会場いっぱいのそんな
姿を見ながら、多民族国家社会の中で日本の文化を伝承していくことの大事さを再確認した日でした。そして、
お正月会」が終ってホッとしたのもつかの間、5月に「桂三枝師匠」をお迎えします。笑いの文化が今年も会場を
賑わす事でしょう。
さて、最後になりましたが寒〜いトロントでシロバナタンポポをぽかぽかの気分で見ています。「本当に白い!」、
と一人つぶやきながら黄色いタンポポのトロントの春を待っている私です。
12月の手紙 (2008年12月23日)
大雪でした。窓から眺める家々のイルミネーションがそんな真っ白い世界の中でキラキラ輝いています。
トロント紅白が終わりました。会場もほとんど埋め尽くされ、歌いながら「あら〜、本番間際にチケットがドーッと
売れたと聞いていたけれど、今夜は空いてる席がないほどだわ。後までいっぱい。すごい!」と思いながら「ふったり
〜でお酒をのみ〜ましょうね〜」とステージを終らせたのでした。さて、私は衣装を着て出番を待つまでせめて前に
歌い手さんが5人ほどいると言う間隔が、心の準備をするのに丁度良いと心がけてきました。今回は、なぜかバタバタ
していて、友人たちに衣装を見定めてもらいステージの袖に行ってみると、なんと2人終るともう出番、という状況で
した。慌てて、ステージ裏で声慣らしをしてみると何だか呼吸と声のバランスがおかしいのです。「うっそ〜、どうし
よう...」、といくら歌っても調子がでない。「えーい、ままよ!」とドアを開けて裏方スタッフ、出番待ちの歌手
たちの中に入るとすっかり調子を取り戻していました。仲間の言葉、眼差しに送られながらMCの紹介に誘導されステー
ジへと進んだのでした。後に続いた友人も頭から歌詞が消え真っ白だったそうですが、ステージは見事に果たしました。
「本番に強い!」と言うのがトロント紅白の決まり文句になっているほどですからみんな見事なステージを繰り広げ
ていました。
|
|
本番が終って片付けて友人の家で食べた和歌山粥は最高でした。もちろん、ワインのおいしかったこと。疲れた私た
ちに、癒しの場を提供していただいた友人に感謝です。
さて、「み〜んなでお酒をのみ〜ましょうね〜」、ということで12月28日は打ち上げです。出来上がった紅白の
DVDを流しながら歌仲間の料理人さんが豪華な手料理を準備します。あ〜だった、こうだったといろんな話が飛び交って
賑やかなになるだろうなって思います。いつもの事ながら大役を果たしたボランティアの皆さんのホッとした顔を見るの
が嬉しいです。
こうして2008年が元気に終わります。そして2009年がやってきます。「くろまめの小さな展示室」の愛読者の
皆さん!良いお年を!
11月の手紙 (2008年11月29日)
「冬です。雪です。寒いです。」この3行の言葉で終ってしまいそうな...そんな11月も終盤を迎えました。
ラジオからはクリスマスソングが流れ始めました。大きなポインセチアを買って暖炉のそばに起きました。そのお店では、
ちょうどクリスマスのコーナーが設けられていてそれはそれは見事な光景でした。その中にいると、何かを買わずにはい
られない、という感じでポインセチアがドカーンと我が家に居座ったのでした。それを見ながら、日南海岸の堀切峠の
ポインセチアが思い出され、同時にどうして日南海岸にポインセチアが?とちょっと不思議な思いにかられました。
12月に入るとトロント紅白が目の前に迫ります。今回は、13人の「よさこい踊り」の若者たちが色を添えます。
鳴子を持って弾けるように踊るその姿は、トロントの厳しい冬の雪をも解かす熱気になりそうです。ある夏の日、娘が
友人を招待してバーベキューとなりました。焼酎を呑みながら「実は、僕は『よさこい踊り』をやっているんです。でも
なかなか練習の場がなくて...」。その言葉を聞き逃すはずがありません。その頃から、紅白の準備が進んでいましたから、
さっそく紅白への出演交渉をしました。話はその場でどんどん進み交渉成立という事になったのです。「焼酎の縁で...」
という楽しい会話も後日談になりました。
97人のボランティアが揃って、12月13日に向けて練習や準備が進んでいます。仕事や主婦業を終えてからの練習は
11時頃まで掛かることもありますが、その成果が今年も実を結ぶように日々祈りながらその作業に取り組んでいる毎日です。
ある日、歌手として出演する方からメールが来ました。3人の友人が日本から4日間の休暇を取って応援に駆けつけてくれる
のだそうです。やる気、元気をもらったようなお話でした。そして、長い時間をかけたプログラムの編集校正も終り、プログラムの
歌手紹介欄に、「私は宮崎県出身。”どげんかせんといかん”という言葉に勇気をもらっています。」と書き添えました。
このように、ボランティア手作りの紅白が終るということは1年が終るということでもあり、そのような中で一つの事を繰り
返し続けていくことへの思いが年々深くなるような気がします。
11月の終り、辺りの家々のイルミネーションも賑やかになってきました。
10月の手紙 (2008年10月27日)
風もないのに色づいた葉っぱが、はらはらと音もなく散って秋が終わりを告げていきます。静かに
季節が変っていくのが物悲しく感じます。
先週、有名なエドワードガーデンに秋を訪ねて行きました。
柔らかな秋の日差しに包まれてのどかな気分でした。散歩道は黄色やオレンジの色が真っ青な空の下に輝いていました。林の中をゆっくり歩き
ました。自然の中の様々な木々は生気がみなぎっていました。この木々たちは何度その季節を繰り返し
たのだろうと思いました。忙しい日々の中で、自然に触れながら、人間は自然とかけ離す事ができない
と身を持って感じた日でした。
後日、チラチラと雪が降りどこそこで冬の準備が始まったようです。ハローウインの黄色いパンプキン
も家々の玄関に並び始めました。今年のハローウインはニューヨーク。街を検索しながら準備するこの
時間を楽しんでいます。次回はニューヨークの様子をお届けする事になるでしょう。
9月の手紙 (2008年9月30日)
3時間ほど行った北の方では紅葉が見事だと友人が言っています。近辺も色づき始めました。
「もう...秋。」と思いながら日々が急がしく過ぎていきます。今の時期になると12月13日に
開催される恒例のトロント紅白歌合戦の事は話題から外せないほどに私の心身に染み付いたようです。
一方では、来年1月開催の日加修交80周年の一環となった「お正月会」の準備も同時進行で始まりま
した。10、11,12...この年も三ヶ月しかない、と思いながら先の先の事を考えています。
今日は久しぶりにイチゴケーキを作りました。甘さ控え目の手作りの良さに子供たちのリクエストに
応えました。最近、「やる気」という言葉をよく耳にします。「そうなのだ、やる気は何にでも通ずる。」
、という事に気づかされます。人の体はその日によって変調を来たしますから、特に今の年代では
「やる気」が起きたら即実行が必要だと思うようになりました。そこで頼まれたら時間を置かずに即取
り掛かる、という事にしています。今日も「...さんの電話番号を調べてくれますか。」...10
分以内で調べて即答しました。「オッ!早いですねえ。」と言われましたが「やる気」ということも交
えて何事にも早め早めに、という性分も関係しているのかもしれません。
茗荷と紫蘇の実の甘酢漬けをもらいました。何だかちらし寿司を作ってみたくなりました。そして、
くろまめさんの秋の色のみかんを見て懐かしさでいっぱいになりました。日本の秋がその香りの中で思い
出されます。そろそろ日本が恋しくなる季節です。
8月...そして9月の風の中で (2008年9月9日)
セリーヌ・ディオンのコンサートは私に一時の安らぎを与えてくれた。一人の歌手への思いが、
ひとつになって溶け込んだ人々の笑顔はとても優しく思えた。目が合ってもそして人ごみの中で
ちょっとぶつかり合っても笑顔が嬉しい。「仲間意識」というひとつの気持ちがそうさせるのだろう。
弾けるような歌姫は世界中をツアーしながらその魅力を磨き続けている。ど真ん中のステージに文字
が現れ「TOKYO/OSAKA」の文字が浮かんだ。2時間後、高揚した中で外にでるとダウンタ
ウンは夜の雨にそぼぬれていた。気づくと8月が夢のように終っていた。
9月になった。小さなカレンダーをめくりながら12月までの予定を入れる。2008年が刻一刻と
流れている事を感じる。静かな朝、裏庭に出ると朝顔が笑顔を見せている。何気なく種を土の中に入
れてほっておいた柿の芽が出てもう何年だろう。のっぽになってスクスクと育っている。その側に
ライチも育ち始めた。隣の鉢には友人からようやく届いた柚子の木が生き生きと緑の葉っぱを付けて
いる。柚子といえば、帰国して行った友人から「生柚子をお土産に買ってくるわね。行ってきま〜す。」
というメールが届いた。今頃は、故郷の大分で夏から秋に変わろうとするその季節を楽しんでいるの
だろうなあ。 ...。」
先日、「MARIKO TAKAHASHI WITH HENRY BAND IN NEW YORK」の
チケットが届いた。来月はニューヨークが待っている。カナダに来た頃、生前の父を伴ってバスで
9時間掛けてニューヨークに行った事が懐かしく思い出される。あれから30年近く、9月の風の中で
様々な思いがよぎる。もうすぐトロントも秋に包まれる。
夏の味 (2008年8月6日)
麺類大好きの我が家では夏になるとそうめんは欠かせない。今では、簡単に手に入るようになったが、
それでも日本から届くと麺の輝きから違っていてその新鮮さに私の目も輝いてくる。黙って食卓に出しても
子供たちさえその違いに気づくほど。カナダに来た頃、冷やし中華をスパゲティの麺で作っていたものだ。
これがなかなかいけた。
そうめんと言えば、トロントに来てまだ西も東も分らない頃、英語学校で日本の話題からそうめんの話に
なり先生の家に行って「そうめんを食べましょう」ということになった。イラン人、韓国人など3人ほど
のクラスメートを伴って出かけ、お互いみんなたどたどしい英語に頼りながらワイワイそうめん料理を得意
げに作ったことが思い出される。そして、先生から「どうして麺を茹でた後水で洗うの?」と聞かれたこと
が妙に心に残っている。それはパスタの世界にいる人には不思議に映ったにちがいない。
子供の頃はあまりそうめんが好きではなかった。何となくそれは大人の世界の料理のような気がして食べ
ても満足感がなくスッキリしなかった。今、考えればそうめんのつゆの中に、ふんだんに茗荷や紫蘇やしい
たけなどが入っていたからかも知れない。しかし、今では茗荷、紫蘇と聞くと目が輝いてくる。子供の頃の
夏の味は、今では祖母や母の懐かしい味となって我が家の夏には欠かせないものとなっている。
今日のTORONTO STARの三コマ漫画(週末は3コマになる)を見て幼い女の子の発想に楽しさと深さを感じた。
可愛い女の子が祖母と昔の写真を見ている。女の子は、白黒の写真を見ながら尋ねる。「おばあちゃん、昔は
白と黒の色しかなかったの?」つまり白黒の写真を見ながら、昔はこの地球には色がなく白黒の世界だったの
かなあ、と思う発想である。思えば、昔テレビが白黒の時代は未知の世界を白黒の世界の中で観ていて色のな
い世界がどういうものであるか、テレビの中で知ることができたわけである。
子供の頃の夏の味を思い出しながら、夏の夕方に赤とんぼが庭一杯に飛んでいて夏の緑が覆いかぶさるよう
に茂り、そこに蝉の音が混じり清流はどこまでも澄み切って流れ、自然の夏の色はキラキラと万華鏡のように
さまざまな色を放っていた。
でも、夏の味は残っていてもそのような遠い遠い昔の世界はだんだんとセピア色になりつつある。
7月の手紙 (2008年7月20日)
『この世のどんな所でも たとえ雨土足らずとも 生きて花咲く』
先日この絵手紙が届きました。新移住者協会の「にゅうすれたぁ」という会報が四季を通じて
4回発行されていますが、トロントの春を告げる風物詩となって見事に咲くたんぽぽの話
(花にたとえるなら)をその会報に掲載した事から、その1通の絵手紙が協会を通して届いたのです。
「...なぜか日本でもトロントでも私の目の中に飛び込んできて心にずっと残り、何度も絵にした
のはたんぽぽでした。...春一番に花をつけ、秋最後まで種飛ばす。すごい生命力。太陽のような
黄色い花...」絵手紙に添えてあった数々の言葉に、異国でそして国際結婚の中で一生懸命に生きて
いる彼女の姿が思い浮かびました。「この頃いろいろあってへこんでいたけれど「たんぽぽ」の記事に
共感を覚え元気になりました。」...私の些細な記事で誰かが癒されるなんてとても嬉しいことでした。
さてトロントは7月らしい心地よい夏が過ぎていきます。朝の新鮮な空気は清々しく裏庭の根付いた南天も
元気よく育っています。そしてこの静けさ...夏休みだと言うのに近所から子供の声が聞こえてきません。
ここに越して19年...我子供たちが育っていた頃は、夏になると朝から子供の声が聞こえ賑やかでした。
歳月は流れ、その子供たちも育ちあちこちへと巣立って行ったのでしょうか。
「今年こそ!」と決心して、ベースメント(家の地下室)に2年間眠っていたゴルフ道具を担きあげ再び
ゴルフの練習を始めました。テニス仲間の友人は動く球は大丈夫だけれど止まっている球は苦手!だと言って
いますが、私は動こうが動くまいが球が大きかろうが小さかろうが、一応どんな球技でも大好き。子供の頃よく
ドッチボールをやりました。男の子に混じって野球もやりました。そして思い出したのです。その頃「おてんば娘」
と言われた事もあったような...。これは、ただ活発に動き回る、という意味で決して慎みや恥じらいに乏しい
わけではなかった、ということを付け足しておきましょう。「お転婆」を辞書で引くと「馴らすことのできない
(動物を手なずけることができない)の意のオランダ語「ontembaar」に由来するのだそうですが、辞書を引くこと
のおもしろさ楽しさがあって「うんうん、なるほど。ひとつ賢くなりました。」と思っている私です。
この記事を書いて今朝もTORONTO STARの「一コマ漫画」に目を通して驚きました。久々に子供頃の遊び(ドッチ
ボールの事)を思いだした時に...その一コマ漫画の小さな坊やが言うのです。
「I'll play dodgeball if nobody throws a boll at me.」その偶然とその可愛い坊やの一言に思わず微笑んでし
まいました。
さて絵手紙のお礼のメールをした後返事が届いていました。「たんぽぽに目が行って目が行ってたんぽぽが気に
なって仕方がなかったところにあの記事を拝見したのです。」いつか彼女に「シロバナタンポポ」のことを教えて
あげようと思っています。
7月のトロント...Sunrise5:53am,Sunset8:57pm。最後になりましたが、皆さん!暑中お見舞い申し上げます。
6月の手紙 (2008年6月22日)
初夏...という言葉が好きです。でも、このところトロントの初夏の天候は本当に変わりやすく、
毎日のように熱帯地方に起こるスコールのような雨風が襲ってきます。先ほども30分ほど細かい雹が
一緒になって滝のように降ってきました。
グリーンの芝生の上が瞬く間に白くなり瞬く間に消えていきました。育ち盛りの野菜などには恵みの雨
だと思いながら、トマトもネギも茗荷も蕗もほおずきたちも空に向ってバンザイしているはずだと庭に
出てみると、大きな葉っぱたちは雹で穴が開き雨の激しさでみんな頭を垂れていました。さて、一方の
くろまめさんのHPの野菜たちは収穫が始まって新鮮な野菜の手料理が目に浮かぶようです。だりやめ
(度々出てくる宮崎の方言)の時間にはさぞかし食卓が賑わうのでしょうね。
ところで、そらまめさんの日記に面白いことが書いてありました。若い男女が食事する時の合格、
不合格のチェック。...それは昔からの男の役割...。読んだ瞬間、娘と以前に交わした会話を
思いだしたのです。
母「どうしたの?」
娘「彼と別れようと思うの。」
母「なぜ?」
娘「う〜〜ん、どうしても彼の食事の仕方が気にいらないの。」
その会話をしながら、生活習慣やマナーはその国よってつくられその国の生活習慣やマナーがありその
生活習慣やマナーは他の国で通じない事もある、とつくづく思ったのでした。多民族国家社会の中で
生活しながら娘だけではなく私も、その国々の人たちと接しながらしばしば戸惑う事も、そして感心さ
せられることもあります。新移住者の子弟たちも国際結婚をする場合も多く、そのような時の冠婚葬祭の
違いなどは当然だと思いながら、娘との会話で色々と感じることがあったのでした。
ところで、日系文化会館ではもうすぐ夏祭りです。またヨーヨーなどを日本から取り寄せて準備に
かかっています。今回は、日本から郡上踊りも混じって賑やかなお祭りになりそうです。お祭りは、
世界中どんな小さな田舎にもあって人の心を和ませくれます。
心を和ませてくれる、と言えば三枝さんの公演が終って一通のメールが届きました。
「公演の日、一人の40代半ばの女性と出会いました。その方は癌と闘っている方でした。
その方がおっしゃったのです。『久しぶりに声を出して笑えた。笑うと免疫反応が高まるというし、
生まれて初めて落語を聴きにきたの。本当に楽しかった!』...いっときでも、その方にとって
笑いと幸せな時間があったことにきっと感謝しているでしょう。来年、また三枝さんが見えるときに
その方も行く事ができたらどんなにいいか、と願うばかりです。機会がある時に三枝さんにお伝え下さい。」
初夏の空を仰ぎながら様々な思いにさせられている今日この頃です。
今年も「いらっしゃ〜い」ました! (2008年6月8日)
「三枝さん!いらっしゃ〜い、ようこそ!」と日系文化会館に到着された時に私は手を振って出迎えた。玄関先に
飾ってあるポスターを指して「こちらにお若い頃のお写真を置きました。」...にこにこ笑顔が返ってきた。
今年も、「桂三枝創作落語独演会」のご一行がトロントに到着。今回は、日加国交樹立80周年記念行事の一環と
しての公演だった。
NHKの朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」が、一層の落語ブームを盛り上げてくれたそうである。そして、
落語300年という歴史の中でその世界も広がりつつあるようだ。つい最近イギリス人とカナダ人が弟子入りした
い、とやってきたそうである。
公演当日、満席の小林ホールが静まり、三枝師匠の姿が舞台に見えた途端拍手喝采で、その姿に300年の落語と
いう伝統文化をつくづく感じた。開口一番...「会館に着きましたら、もう何人かのお客様が並んでいらしてま
してねえ。三枝さん、いらっしゃ〜いと手を振ってくださいましてねえ...それに玄関には若い頃のお写真が飾っ
てあるんですねえ。若い頃と言ってもそんなに昔ではないですよ。あれは20年ぐらい前のものですかねえ。そうか
と思うと、プログラムには昨年の写真が載っていたりと...いえいえ、今わざわざプログラムを開けて見る必要は
ございませんよ...」私も、ついプログラムを取り出して見ようとした一人であるが、その言葉のタイミングの良
さに爆笑だった。笑いの渦はずっとずっと続いた。
後日、友人宅で歓迎会兼歓送会を日系文化会館とトロント芸能愛好会の実行委員を交えて行った。家庭的なムード
の接待に大変喜んでいただき、お弟子さん達が三枝さんを囲んでの質問ゲームを用意していただいたりとそれはそれ
は賑やかな時間だった。
ご一行は、早朝に「来年もトロントに来たいです。」という言葉を残されてデトロイトへと出発されたという報告
を受けた。そして、観客の方からメールも届いた。「舞台での落語を初めて観て家族で感激しました。娘も日本語の
勉強になった、と言っています。ありがとうございました。」。
三枝さん!また来年も「いらっしゃ〜い」ませ。
4月の花?そして5月の花・花・花 (2008年5月19日)
4月、「もうすぐ春ですよ〜。」...春を知らせる「春の歌まつり」も終りました。
プログラムの「お国巡り」では、北海道から九州までの9曲を案内しながら久々にバスのご案内を
楽しんだような気分でした。本番前に友人が布など細々とした物を持参してあっと言う間に腕章の
でき上がり。
「私はいつもまずは姿格好から入りま〜す。」というわけで万事整って、持ち時間30分が「
あらよ〜あらよ!」と進んで行きました。毎夜毎夜、「あ〜だ!こ〜だ!」とメール交換しながら
選び抜いたバックの映像もなかなかの評判でした。
5月、県人会のお花見とハイキングも予定通り決行。ナイアガラグレンから見る地球の歴史を物語る岸壁とナイアガラ川の激流を眺めながら若葉と太陽の光に包まれ昨年よりも距離を延ばして
2時間ほど歩いたのでした。
様々な奇岩を「あら!すご〜い。へえ〜!おもしろ〜い。」と奇声を上げたり、最後にはヨロヨロ、
フラフラになりながらようやく辿り着いた八重桜の満開の下でのランチは、もう体重など気にする間もないほどに「花より団子」のごとく
でした。そして、「桜を愛でる」という事に心から触れた日でもありました。
前日は、友人の前庭に咲く八重桜を見ながら春のひとときを楽しみ、そして後日も友人の裏庭のプール沿いに咲く八重桜でお花見。
花、花、花の連続でした。
5月も終わりに近づきもうすぐトロントにも夏がやってきます。
5月の手紙 (2008年5月6日)
たんぽぽが沿道に咲き始めました。愛しいたんぽぽは我が家の庭には一本も見当たりません。たんぽぽの芽だ!と分ったら
直ちに引き抜かれてポイ!されているようです。(あらあら)
若葉の季節がやってきました。季節は巡る、という事を思いながらその巡る日々の早さを感じます。春の恒例となっている
日系文化会館のバザーも終りました。曇りのち小雨のちどしゃ降りの中、たくさんの人出で賑わいました。昨年同様、「うどん店」
も開場と共に瞬く間に人だかり。450食を完売しました。NJCA(新移住者協会)、TGA(トロント芸能愛好会)の中にワーホリの
日本の若いエネルギーも交じってボランティアの手際の良さはプロにも負けないくらいです。開店する前にデモストレーションを行い
準備万端。雨にも負けず...のごとく準備から片づけまでの7時間の長丁場が終りました。
後日、お客様からメールをいただきました。「バザーの日はご親切にしていただきありがとう。皆様の働きは素晴らしかった。見て
いて気持ちが良かった。それはまさに「美」そのものでした。...」ボランティア活動の喜びはまさにそれらの言葉にあると思った
日でした。
ところで、那須省一さんの「英語でさるく」、ぜひ買い求めたいと思っています。帰国した際、東京で再会した日を思いながら宮崎弁と
言うか米良弁と言うか銀鏡弁が懐かしく、今でも思い出し笑いが出そうです。焼酎も地鶏の味も思い出せないほど、その中学卒業以来の
再会の感動が強くて今も4人で過ごしたあの時間が蘇ります。
宮崎の焼酎ではありませんが、トロントのリカーストアーでも焼酎が手に入るようになりました。とーきどき(あまりないことなので
このような言い方がぴったりかな?)、「黒霧島」や「百年の孤独」が大空を飛んでトロントにやって来ます。お土産にいただいたその
時の嬉しさは言葉では言い表せないほどです。大勢でいただくのも最高ですが、一人で気ままに好きな歌や音楽を聴いたりTVで映画でも
鑑賞しながら「ちびちび」というのも趣があります。
友人が、一時帰国前に「BS永遠の音楽フォークソング大全集」のビデオを貸してくれました。「うわ〜、懐かしい。あの歌手たちも
健在なんだあ。」と一人はしゃぎながら拍手をしたり、青春がちらちらとフラッシュバックした時間でした。「若者たち、ある日突然、
遠い世界に、白いブランコ、フランシーヌの場合は、結婚するって本当ですか、戦争を知らない子供たち、ひとり寝の子守唄、知床旅情、
バラが咲いた、海は恋してる、小さな日記...。」などなど続くフオークソング黄金期の大全集。「あの時君は若かった〜」のごとく
本当にその頃は青春まっしぐらだったと歌詞を追いながら思いました。「青春...人生の春にたとえて、はつらつとした時代。」50
代だって人生で初めて迎える時代。はつらつと過ごせば、それもまた青春かもしれないと思っています。
懐かしいフォークを口ずさんでいるトロントの春うららかな日、今日も元気で過ごしています。
4月の手紙 (2008年4月8日)
「は〜るのおがわは さらさら いくよ...」。トロントにもようやく春が訪れようとしています。根雪も解けて裏庭には様々な
新芽が顔を出しています。
そうそう、「春の小川」の歌詞が2度も変更されていたなんて知りませんでした。1912年に作られてから、1942年と1947
年に変更された、とあります。ですから世代によっては、違う歌詞で歌われることになるのですね。今度、帰国したら、母に歌ってもら
おうと思っています。でも、最近の母は、「もう、耳が遠くなって歌もうまく歌えなくなった。」と言っていますから、一緒に歌って
みようと思っています。これも親孝行かな..。
今日のトロントは、「やっと春だい!」って思わず背伸びをしたくなるようなお天気です。南向きのキッチンでポカポカと太陽を背に
座っているとコックリコックリと眠気がきそうです。幼い頃、縁側に干してあるお布団の上に寝っころがっていたらいつの間にか眠りの
中へ...あのお布団の太陽の匂いが懐かしく思い出されます。
「お〜い、南天の木が無事冬を越したぞ〜。」という声が聞こえてきました。昨年、外に植えて悩んだ末にそのままにしました。
ほ〜んと、元気な姿を見せています。「よく頑張ったね!」と褒めてやりたいくらいです。昨年、この南天は根分けして友人の家に嫁い
で行きました。その友人を訪問した時に、「ここに植えたよ。」と言いますから見てみると玄関先に元気よく育っていました。お互い、
赤い実が付くのはいつかなって話しています。そういえば、その友人が、種から柚子を育てていました。「1本あげるね。」と言われて
からずいぶん日が過ぎています。キッチンで小さな鉢に4、5本育っていました。
さて、これから家々の人たちは庭の手入れで忙しくなります。表も裏も花、花、花の大行進です。散歩しながらよそ様の前庭を眺める
のも楽しいものです。み〜んな個性があって春の訪れの喜びをいっせいに見ることができます。
このようにトロントのなが〜い冬がようやく終ろうとしています。そして、春が活動し始めます。灰色の世界から緑の世界へと変わろ
うとするこの時期は、パッとしませんが、いったんその時期を越すと見事な春の息吹を見せてくれますから、人の心も自然界と同じように
明るく明るくなります。冬の間、オープンする事のない車窓から入ってくる春の香りも、嬉しいほどに心に沁みていきます。
「...き〜しのすみれや れんげのはなに すう〜がたやさしく いろうつくしく さ〜けよさけよと ささやきながら」
「篤姫」を通して (2008年4月5日)
名前には、ある意味が込められていて親が考えた末の愛の証…と誰もが考え、そしてその由来が知りたいと
いう思いに駆られるものである。私も遠い遠い昔、母に聞いた記憶がうっすらと今、浮かんできたのだ。
「そこにその名前があったから」、と言われたような...どこにその名前があったのか、という記憶の中で、
おぼろげながらそれが答えだったかは定かでないが「確か〜島津家にそのような名前の方がいらしたはずよ。」
と言う母の言葉が奥の奥に眠っていたのである。何とも解せない...「ふ〜ん!そうなの。」という具合で
あまり深く考える事もなく「島津家にそんな名前の人がいる?」というぐらいで、その場は立ち消えたよう
な...。
しかし、今NHKの大河ドラマ「篤姫」を見ながら、ふと母の言葉が鮮明に蘇ってきたのだ。母が、聞かれた
ついでにただ漏らしただけなのかもしれないが、それにしてもその記憶が長い時を越えて思いだされるとは
思いもしなかった。
最近では、その年の名前ランキングなるものがあって、そこには、親の願いや想いが込められているもの、
個性的なものやその年に話題になった人の一文字を使ったりと名前からにして時代は変わった。
今、話題の幕末という時代を真っ直ぐに生きた女性「篤姫(篤子)」の名前が今年のランキングに影響する
かはさて置き、いつの時代も名前が親の愛情から生まれてくることは変わりはないだろうと思う。そして、
篤姫が遠く江戸へと嫁ぐ時、生きて二度と会う事はないのでは、という親心も今も同じなのだ、と思ったり
する。
篤姫が桜島に別れを告げ江戸に向かう途中、富士山に対面した時「篤子でございます...」と手を合わせ
た姿になぜか強い印象を受けた。それは、もしかして二つの山が篤姫の心で重なったからかもしれない。
私もきっと富士山を目前にしたら手を合わせるのではないだろうか、と思うほどに画面にパッと映し出された
富士山のその場面が妙に脳裏に焼きついて消えないのだ。そして、その時代から日本の姿は夢のように変わった、
とは言えあの富士山はその時代から変わることなく、変わっていく人々と変わっていく周囲の景色を眺めてき
たのだ。映像の中で、富士山が映し出された瞬間、当然、と思いつつも篤姫が眺めたその光景だけはそのまま
幕末の時代と同じ姿なのだ、という普段思いもしない不思議な感情に駆られた。
時代物を観賞する度に、女性もその時代にあってさまざまな事にたくさんの影響を与えたはず、と言うこと
がいつも頭にあった。幕末と言う時代を、一人の女性に視点をあてその方向から歴史の中に隠れていた「篤姫」
が登場した時、待っていたものが届いたような...そんな思いにさせられた。分りやすいタッチで描かれて
いる「篤姫」の、これからの1年にわたる映像の中で、篤姫を中心に絡んだ糸が様々な人間像を通してどうほ
どけていくか楽しみだ。
オンタリオ州の法律 (2008年3月23日)
オンタリオ州のマッギンティー首相は「16歳以下の子供が同乗している車内は禁煙とする法改正を今春、州議会に提案する。」と
発言したことが新聞に載った。「間接喫煙」で子供の健康に有害ということからこの法案が出た、とある。罰則は、最高200ドルと
ポイント減点という案もあるらしい。
アメリカのアーカンソー州(6歳以下)、ルイジアナ州(13歳以下)、カリフォルニア州(18歳以下)辺りではすでにこの種の
法律は施行されている。(日系新聞参照)
既に、オンタリオ州で法案が成立されているらしいがタバコを店頭から排除する「陳列販売禁止法」がこの5月から施行されるという。
これからオンタリオ州では、タバコは店のカウンターの下などの人目につかない所におかれる事になる。これも、喫煙者の低下や子供の
喫煙防止の為に成立した法案である。
以前書いたかもしれないが、カナダに来た頃、歩きながらのくわえタバコの女性やハイスクールでの喫煙者を多く見かけ、そしてその
ハイスクールのグランドに落ちている吸殻の多さに驚いたものだ。今では、校内では禁煙となっているらしく、朝、車で子供を送ってい
くとサイドウオークで男女問わずタバコを吸っている学生をたくさん見かけた。そして、そこを通過しようとするとその匂いが車内に入
り込んできた。若い体をタバコの煙で痛めるなんてもったいない!といつも思ったものだ。
カナダに来てすぐ、初めてコインランドリーに行った時のことであるが、14・5歳位の女子と母親らしき女性が仲良く話をしていた。
すると、普通にその女子にもタバコを渡し二人でタバコを吸い始めたのだ。私は、その情景に仰天してしまった。
今でも思うのだが、10代の子供たちがタバコを吸い続ける理由とは一体何なのだろうか。
ともかく、新聞に載っていたようにオンタリオ州で「子連れドライブ禁煙法案」が実施されるのもそう遠い日ではないだろう。
3月の手紙 (2008年3月16日)
3月...後半になってようやく「ねゆきもとけりゃ もうすぐ春だで はたけがまってるよ〜」と歌いたくなる
ような、そんな兆しが見えてきました。カナダの春は遅い!ほんとうに遅い、と日本から届く春の便りにいつも思い
ながらこの時期を迎えます。
近くに住んでいる友人からEメールが届きました。「ボーリングをしましょう。健康と美のために投げましょう。ア
フターボーリングは日本食で一杯やりましょう。」...。「しょう、しょう、しょうねえ。しょうしましょう。」
と心で楽しい返事をしながら、私は「健康と美、日本食で一杯」に、パッと世の中が明るくなったようなその言葉に
惹かれ、すぐにメールを打ち返し、その日、久々にボーリングの賑やかな音の中に溶け込んでいました。(ここまで
書いていると階下から、何と「りつこさん!りつこさん!なかやまりつこさん!」という声が聞こえてきてあの中山
律子さんがビデオに出ていました。何という偶然!)
さてさて、3ゲームを投げ終え、体力のお衰えを素直に受け入れた私はいそいそと日本食のお店へ。「お久しぶ〜り
ねえ〜」と歌うように声を掛け合ったウエイトレスの友人が言うのでした。
「オーダーしていただいた明太子の手巻きができないかしれませ〜ん」...「え・え・え〜私、これを楽しみに来た
のですけれど...」すると、「あら、だいじょうぶです。できま〜す。」スパイシー鉄火の手巻き、スパイシー鮭の
手巻き...今日はスパイシーずくめの寿司にしました。
すると、「福岡の麦焼酎がありますよ。」と、私の目の前に可愛い小瓶がドッカ〜ン(小さいけれど大きく見えた、
その威力に驚き...)と置かれたのでした。一本60ドル。た・た・高いお値段、と心密かに思いましたが、温かい
梅割りにしていただいたその時に納得しました。「焼酎はあまり好きじゃないですねえ。」という友人に
「あ〜、この焼酎の味がなぜ分からない...」と嘆きながら一人でおいしくいただいた冬の夜が過ぎていこうとしていました。
デザートの時間になって「お店手製のプリンをくださ〜い。」...するとウエイトレスの友人が、またまた私に向って
大きな声で言うのでした。
「あの〜、プリンがたった一個しかないので、オーダーいただいたあちらのお子さんに譲っていただいていいですか〜。」
...思わずその方向を見た瞬間、その可愛い2歳の男のお子さんと目が合い、そして、大笑いする周りの友人たちの
「譲る精神大事ですよ〜」、と言ってるような目が私に集中したのでした。
愛らしいお子さんは、お母さんに「良かったね。おいしいねえ。おばちゃんにありがとうしようねえ。」と言われなが
ら、それはそれは幸せな可愛い笑顔で食べていました。(そこに、おばちゃん!?というその言葉が聞こえてきた時、
あまり呼ばれたことがなく、慣れないせいか、その言葉に戸惑っている私がいました。でも確かにおばちゃん!です。)
3月の笑いに満ちた1日は、春の季節を待っている間の楽しい出来事でした。
「瀬戸の花嫁」 (2008年2月22日)
1972年のヒットソングである「瀬戸の花嫁」。私はちょうど二十歳という若さのど真ん中にいた。
その頃を振り返ってみると様々なことが蘇ってくる。そして、まさに私の懐かしい歌はここに集中するとも言える。
その頃のシングルのレコードトップ50曲を見てもそれは明らかだ。その中の20位は、アンディ・ウイリアムス
「ゴッドファーザー愛のテーマ」であるが、今、トロントのTVで放映中であるのには驚いた。そして、フォークソ
ングの全盛時代が到来するのもこの頃だった。
社会の出来事と言えば、物価は、封書切手が20円、はがきが10円というその図柄が何とも懐かしい。飲食では
ビールが140円、かけそばが120円...。「同棲時代」が話題になり、ファッションも「ホットパンツ、パン
タロン、ジーンズ」、その頃の写真を見るとまさにその姿の私がいる。本のベストセラーも「恍惚の人、二十歳の
原点...」漫画は「ベルサイユのばら」。そして重大ニュースも数多くある。横井さんがグアムで救出され、
日本に到着した飛行機のタラップを一段一段と踏みしめられた姿が鮮明に思い出される。「恥ずかしながら」と
いう言葉が話題にもなった。沖縄が返還されたのもこの年だ。
時代の流れを感じる時に思う事は、洪水のようにあふれ出る話題や出来事がすぐに忘れ去られて行くと言う事だ
ろうか。
今回、「瀬戸の花嫁」の背景を知りたいと思ったのは、来る4月19日に開催される「春の歌祭り」の資料にしたいからだ。
「お国めぐり」のコーナーで、北は北海道から南は九州まで7曲の歌をガイドをしながらご案内する事になった。
バックにプロジェクターを使ってその歌のご当地を映し出すことになっている。日系人の方々に、日本の風景を観て
いただきながら楽しんでいただきたいという考えから出た案である。このような時、ある一世の方の寂しそうな言葉が
いつも思い出される。「こんな年齢になって、もう日本に行きたくとも行けないのよ...」。戦前、戦中、戦後と
生きてこられた人たちに私たちは何ができるだろうか、とイベントを開催する仲間と話す事も多い。
瀬戸の景色を映し出しながら「瀬戸の花嫁」を歌うことになったが、この歌は、お祝いの席でよく歌われる。私も、
カナダに来て友人の結婚式や結婚記念日の席で歌った思い出の歌でもある。
2番の歌詞に「...生まれた島が遠くになるわ 入り江の向こうで見送る人たちに別れ告げたら涙がでたわ
島から島へと渡っていくのよ...」23歳、生まれた日本が遠くなっていくのを感じながら、ハワイ、ロサン
ゼルス経由でカナダに入ったことが思い出される。
たくさんの懐かしい思い出の歌が人の心にはあり、そして、その歌によって思い出が語られていく。
2月の手紙 2008年2月15日
トロントの2月は、言われているようにやっぱり寒いし雪も多いです。ゴルフ三昧の一週間、ということでドミニカ
へ旅立ったパートナーのいない間大雪になって、せっせせっせと「運動だい!」と思いながら雪かきに勤しんだ私でし
た。HPのたんぽぽや菜の花を見ながら日本の春の訪れを楽しんでいますが、トロントの春はまだまだ遠い遥かかなたの
ようです。
1月27日に開催した「お正月会」(クリック!)も終ってホッとしています。今までにない1000人の人出で
賑わいました。前夜は準備に追われあれもこれも...と忙しい日でした。トロント芸能愛好会企画の演芸の部のプロ
グラムも整ってその日を待つばかりになりました。私は舞台の袖で進行係さんと音響さんに交じって流れを指示する役
目で「楽だい!」と思っていましたが、出演者やお客様など四方八方に神経を廻らせながらの時間で疲労こんばいでし
た。舞踊、三味線、琴など華やかな舞台は続き、率先して企画した「着物ショー」は、素人モデルとその様々な着物姿
に合わせて新鮮な企画ということで喜ばれ成功に終りました。笛、太鼓に合わせて踊る雌雄の獅子舞いはその細やかな
演技で拍手喝さいでした。
日本の文化を楽しむ1000人の人たちで賑わったその日の日系文化会館は、あたかも日本そのままの姿を映し出し
たようでした。そして、長く帰国していない、帰国しようにもなかなかできない人たちの心を癒す日になったのでは、
と思っています。
来年の「お正月会」は日加国交樹立80周年記念ということで、この「お正月会」が一つの行事として参加する予定
になっています。どんな「お正月会」になることでしょう。
2月が逃げるようにどんどん過ぎて行きます。
「お正月会」 2008年1月8日
寒い夜道をドライブしながら思う。「ボランティアはまずはやる気だなあ。」と。金曜日の夜7時
頃のハイウエイはラッシュを過ぎていた。道路の雪もすっかり解けている。今夜の新移住者協会理事
会の議題は1月27日開催の「お正月会」。恒例とは言え長引きそうだ。神社の設置、出店、お正月
のゲーム、お屠蘇、お餅つき、獅子舞、お年玉、福袋の準備などなど話し合う事は山のようにある。
そして、今回もトロント芸能愛好会(TGA)では演芸の部を担当することになった。尺八や三味線、琴、
舞躍、日本舞踊、古典舞踊などなどの他に「着物ショー」をプログラムに入れることにした。昨年の
「お正月会」から、ぜひやって見たいと心密かに温めてきたものだ。私は、トロント紅白辺りから着
付け、メイク、ヘアーの方々にそれとなく話を持ちかけたりして水面下で準備を進めていた。
TGA実行委員会でそれぞれの担当やプログラムの出し物を決め交渉がスタートした。着物ショーのモ
デルも子供からお年寄りまで、ということで10人ほどが集まった。着物もたんすの肥やしになってい
る自身の着物を着ていただくことにした。中でも、82歳のアイリッシュカナデイアンのおばあちゃん
モデルが楽しみ。友人の推薦メールに「チャーミングなおばあちゃんです。日本文化に精通し日本の芸
術に深い理解のある人。禅についての知識があり日本のアートブックをたくさん収集されています。茶
道のたしなみもあります。彼女の雰囲気が東洋的なので金髪碧目でもモデルになっても違和感がないと
思います。」着物も揃っているというから嬉しい。来週には、モデルや関係者を集めて練習を兼ねて打
ち合わせをする。B.G.Mを決めたり楽しいショーになりそうだ。そして、それはすべて素人手製だから
おもしろいのではないかと思ったりする。当日は、ボランテイアを含めて500人を超す大入り満員に
なりそうだ。
このように2008年が時を刻んでいく。
「誰にも故郷がある」 2007年12月28日
「あ〜あ〜 だれにも〜 ふるさとがある〜 ふ〜るさとが〜あ〜る〜」
NHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」は夜の9時45分にトロントでも放送されている。方言の
イントネーションに親しみを感じながら、その場面場面で胸を打つ台詞がある。
「生まれ育った所だけが故郷やない。生活してつくっていくのも故郷や。」…その糸子ママの言葉に、
23年という、生まれ育った故郷の数を越えたトロントの30年間を思った瞬間でもあった。そして
「トロントも故郷になるのかなあ。」と思いつつもまだはっきりとしたものがつかめない。カナダの
国歌の歌い出しにもあるのだが…「O CANADA ! Our home and native land…」。
我々新移住者の子弟たちも日本で仕事に就き生活をする人たちが増えてきた。カナダで生まれ育ち
日本で生活をするという姿は、逆とは言え我々と全く同じパターンと言える。そこで結婚をして子供
を育て…。考えれば子孫はまたその場へ帰っていくと言う事でもある。その場とは祖国である。
我子供たちはカナダでの生活を固めようとしているが、それでもその生活の中で日本への繋がりは
なくもない。長男も来年には日本での仕事が取れたようであり、娘も決心次第で今の仕事で日本に行
く事もできる。次男はまだ学生の身ではあるが、「日本で野球がやりたい。」という夢を持っている。
長男は、前回、日本を訪問した時にルーツを知りたいとずいぶん母たちに質問をしてPCに入れ込んで
まとめていたらしい。私が、その事を知ったのは今年の帰国時というわけで、遅まきながらも長男の
知らざる面を知った次第だった。ともあれ、子供たちが日本という祖国を自然な形で故郷のように慕
っていることは嬉しい事でもある。
次男が幼い頃、幼稚園から帰って来て言った言葉が今も思い出される。「みんな、おじいちゃん、
おばあちゃんのところにあそびにいくんだって。ぼくもあしたおばあちゃんちへいってもいい?」そ
のあまりにも率直な言葉に私は何と言って言葉を返したのだろうか。そして、その言葉に唖然となり
ながらこれほど故郷が遠いと感じたことはなかった。
そして、日本の暮れの大掃除だと思いながら、せっせせっせと音のうるさい掃除機に負けじと今日も
歌っている私である。
「あ〜あ〜だれにも ふるさとがある〜 ふ〜るさとが〜あ〜る〜」
12月の手紙 2007年12月24日
イブだと言うのに先週のどしゃ降りの雨で屋根屋根の雪もすっかり解けてしまいました。ラジオは、
12月に入ると一ヶ月間クリスマスソングだけを流すステーションに切り替えました。朝から夜遅くま
でONにしたままです。たとえ、長い時間外出する時でも見知らぬ侵入者を防ぐ為に流して出かけます。
ずいぶん前に日系新聞に「この時期泥棒から家を守るには…」という記事が載っていたことがあります。
外出時に「使用しない車をガレージから出しておく。電気を付けておく。ラジオを付けておく。たとえ
居なくても犬にご用心の札をぶら下げる。」などなど。
「ふーん、な〜〜るほど」と思いながら実行しているところです。とは言ってもお相手だってそんな事
分っているでしょうけれど…。ある方(日本人)は「前略泥棒様!ここにお入りでしたら現金を置いて
いきますのでどうぞそれだけを持ってお帰り下さい。」と、いうような(日本語に訳すればそのような
内容になるのかな?)お手紙をテーブルの上に置いて長旅に出る方もいるとか。それで「はい!分りま
した。」と言うわけにはいかないでしょうけれど、それでもおまじないのようにいつも何事もなく使用
されたことがないとか。嘘のようなお話ですが、この広い世の中、そのようなユニークな方もいるので
しょう。(でも私ではありませんので…念のため)
今年も、りんごと柿とみかんと梨が山のように届きました。クリスマスの時期になると、韓国人の友人
が毎年届けてくれます。どれも韓国産です。「柿が大好き!」と言うと「韓国の柿はおいしいよ!メリー
クリスマスアンドハッピーニューイヤー」」と急ぎ足で帰っていきました。昨年の柿の種が芽を出して育
っている事を伝えるのを忘れました。今でもキッチンで大きな葉っぱをつけて育っています。実をつける
事はないでしょうけれど、それでも柿の葉を見ながら秋の日本を思いだすのです。今年、10月に帰国し
た時に、鈴なりになった柿の木を見て「あ〜これが日本の秋の姿よね!」って感動したものでした。
そして、日本のドラマに炬燵がでてきたりすると思うのです。やっぱり、日本の冬の一つの風物詩は炬
燵だなって。来年こそは思い切って冬に帰国しようかと思ったりします。日本のクリスマス。お正月…思
えば32年もその時期を外しています。年の瀬に望郷の念は果てしなく広がっていきます。
最後になりましたが皆様に…
『メリークリスマス&ハッピーニューイヤー』…楽しいクリスマスを!そして2008年が健やかで笑顔
いっぱいの年でありますようにカナダからお祈りしています。
「紅白、前日前夜」 2007年12月7日
外はしんしんと雪が降っている。ラジオから流れるクリスマスソングを聴きながら明日の事で頭が
いっぱいだ。今日も夕方から会館にでかける。30人ほどの舞台制作、実行委員総勢で最終の準備の
詰めにかかる。昨夜も仕事を終えてスタッフの夕食などを抱えて会館に入った。60代、70代の方
々が高い所に上って準備に余念がない。10時前になると疲れが見えてきた。そろそろ今夜はこの辺
で解散しよう、と11時前に会館を後にした。「See you tomorrow」...真っ暗な外は凍りつくよ
うな寒さだった。空を見上げる余裕などなかった。
本番の日まで私の周りはメモ用紙でいっぱいになる。頼まれた事、しなくてはならない事、済ませ
た事...などなどのリストは次から次へと生まれ増えてくる。その一つ、プログラムの作成は力の
限界を感じるほど時間を要した。全てが素人の力なのである。印刷に回す時は緊張してしまう。サン
プルに目を通し校正し、またサンプルを作成してもらい、その場で何度も何度も目を通し「OK」とい
う時の緊張...700部を手にした時に、サラサラとさりげなくページをめくる時の不安な気持ち
は誰にも言えない。たくさんな事を経験しながらどんな些細な事でも一つ一つが勝負なのだとつくづ
く思う。
2007年度トロント紅白歌合戦・プログラム
どうこう言っているうちに本番が迫ってきている。これから歌の練習をして衣装などを用意して...。
「人生一路」が私を支えている、かな?!
11月の手紙 2007年11月23日
心身を満たしてくれた帰国の余韻を楽しむ暇もなく、時差に苦しみながら日々が過ぎていきます。
日本ではあまり感じないのに帰ってくると溜まりたまったものが吐き出されるように、所かまわず
睡魔が襲います。ゆっくりリフレッシュしたつもりが、様々な刺激の中で疲れがどっぷりと体の底に、
積もり積もっていたのでしょう。
日本は、やっぱり何につけても流れが速いように思います。せっせせっせと次から次へとゴールの
ない目的地へと競走しているような...。人生を倍に生きてるなって思うほどに「せまいにっぽん!
そんなにいそいでどこへいく」のイメージが離れません。
さて、トロントにも、ようやくトロントらしい冬が訪れ見事な青空の中に屋根屋根の真っ白い雪が
朝の光にキラキラと輝いています。そのような中、12月8日のイベント「トロント紅白歌合戦」の
準備が進んでいます。30周年という長い道のりは、イクオール私のカナダ生活ともいうべき時間で
もあるのだと思いながら様々な思いがよぎります。今年は、舞台に立つことにしました。運営をさせ
ていただきながらの舞台は気合いがいります。ディレクターから、「今年は、『人生一路』で賑やか
に歌ってみては。」と言われ直ぐに乗った私です。人生の応援歌として知られていますが、100人
近くのボランティアにもまれながら、時としてくじけそうになる私への応援歌にもなっています。
楽あれば苦あり...いえ!苦あれば楽ありと思いながら、それでも本番までの日々を楽しみなが
らワイワイガヤガヤとやっています。
11月ももうすぐ終わりです。
9月の手紙 2007年9月21日
北の方から紅葉が始まりました。紅葉や新緑の時期に、ハイウェイを避けて、時々ゆっくり季節を楽
しみながらドライブすることがあります。私の好きなその場所は、とても静かで、住民もそのような自
然の美しさを昔ながらに守り続けている、という思いが伝わってきそうな、そんな佇まいのちょっとし
たスポットです。
食欲の秋だなあ、読書の秋だなあ、と思いながら過ごしています。友人に「人恋しくなる秋...帰
国します。」とメールをしました。でもそれよりも、食欲の時期に帰国するのが心配です。「おいしい
!おいしい!」と言っていたら、きっとそれはすべて身に加算されていくのだと思います。それが怖い。
昨夜、帰国される方の歓送会をしたのですが、9人中6人が今年中の同じ時期に一時帰国するという
事を聞いて驚きました。東京で、大阪で、トロントの知り合いに偶然に出くわすということは珍しい事
でもないようです。その中の熊本の友人が「熊本の焼酎はうまかばい。」と言いましたので、「宮崎の
焼酎もうまいとよ」、と言って方言があちこちから飛び交いました。和歌山の友人がいたので、「ねえ、
象さん、と言って」と言ったら、「OK、どうさん」と言いながら「どうさん、どうさん、お〜はながな
がいのね〜」となるのでした。「じゃ、どうぞと言って」と言ったら「OK、どうど」、「雑巾は?」「
OK、どうきん」・・・爆笑です。和歌山の人は、「ぞ」を「ど」と発音します。
ある日、ある中国系の方から、「日本レストランを出します。良い名前はないですか。」と聞かれま
した。オーナーになる方が、「とんぼ」がお好きで「ジャパニーズレストランとんぼ」はどうかと聞か
れました。寿司にとんぼ?英語で「Dragonfly」。きっとドラゴンがつくので気に入ったのでしょうが、
「Fly(蠅)はどうなる」と心密かに勝手に解釈しながら、「んん〜ん、あまり...」と首を横に振り
ました。私は「『花は』どうかしら。そうだ!『城』も良いわ...」とトロントにない日本レストラン
名を挙げました。すると「『沖縄』はどう?」と聞かれましたが、トロントのあちこちに日本の地名を
付けている、中国系、韓国系の日本レストランが多い事に気づきました。「どこからあのような名前を
持ってきたのかしら。」と思うような名前もあります。「沖縄は、特別な食べ物のイメージがあるので、
寿司にはむかないかな。」と答えました。
食欲の秋・・・我が家の近くに韓国人が経営する「Japanese Noodle House KENZO(ケンゾーラーメン)」
がありますので、そこにとんこつラーメンと餃子を時々食べに行きます。そこのメニューは、北海道ラーメン、
醤油ラーメン、味噌ラーメン、王様ラーメン、熱ラーメン、オロチョンラーメン、辛子ラーメン、お好み焼き、
たこ焼きなどなどありますから、東洋系の若者で繁盛しているようです。先日、そこで微笑ましい光景を見ま
した。ラーメンをオーダーした白人の男性お二人が、箸を使用していたのですが途中で、フォークに変えてお
いしそうに音をたてずにじょうずに食べていました。
トロントは楽しいところです。秋に遊びに来ませんか。
夏も過ぎ行き 2007年9月11日
一雨ごとに夏も過ぎていく。庭のほおずきも友人たちの手に渡り、残されたほおずきが雨に打
たれて秋を告げているように見える。様々な企画が終るとホッと一息に近況を綴りたくなる。
新移住者協会のBBQ大会も好天に恵まれ370人の人出で賑わった。早朝に会館に入り、台所を
走り回り、途中で「チンドン屋」の準備に二階に駆け上がった。「あ〜だ、こ〜だ。」とワイワイ
言いながら準備が終わり、来賓や会長の挨拶が終って「登場」となった。
「チンドン屋ってな〜に?」と思った人たちも多かったようだ。これが「チンドン屋」と私たちは、
童謡を流しながら「チンチン...ドンドン...」と練り歩いた。喝采がすごかった。
拍手、声援の中を歩きながら、「ん?な〜〜んだか、腰辺りがおかしい。」。赤いお腰の紐が緩
んでずり落ちそう...なのだ。歩きにくくなった。でも歩きは止められない。すったもんだと心
で奮闘しながら、どうにか一ラウンドが終った。休憩になって、そのあらわな姿に着付けの友人た
ちに、大笑いされてしまった。もう少しで、赤いお腰ちゃんが足元にずり落ちるところだったのだ。
「チンドン屋」の登場でラッフルの大売出しは大成功。大幅な売り上げを出して喜ばれて...。
後日には、日系新聞に「チンドン屋」は大きく掲載され、後々まであちこちで話題になった。
(遠くはN.Yの方まで話が飛んで行ったとか...)
その様子を見て下さい(クリック!)
一生に一度のこの大役も、なかなかできない経験だろうと思えば、あの姿もまんざらではなかった
かなあ、と過ぎ行く夏を振り返っている。
「移住国」 2007年8月24日
同じ頃にトロントに移住した友人が、1990年にシカゴへ移り住んだ。その友人から久々に
メールが届く。
「娘が学校を終えるとさっさとハワイへ行ってしまいました。親の心境としては、何でそんな遠
い所へとも言いたいのですが、我々もその昔、カナダへ渡った時の事を思うと言いたいことを言え
ない自分を発見しました。私自身も少しはハワイの事を勉強してみようかと思っているところです
。…」
私も同じように、「安全なところであればどこに住んでもいいよ。」と子供たちに言えるように
なった。移住して30年以上が過ぎたが、カナダの統計によるとカナダが好きなトップ3の中に、
「安全性」があげられている。
カナダの面積は日本の26倍で人口は4分の1。移民国家社会であるカナダ。移民のトップは何
といっても中国、そしてインド、フイリピンと続く。100カ国以上の国から、1年に25万人の
移民を受け入れていると言われている。しかし、カナダも高齢化に直面していて、高度な技術者の
労働力が外に求められ、経済成長と安定雇用の為には、それでも足りなくて1年に37万5000人の
移民が必要だとされる。2001年のカナダ統計局の調べでは、カナダ全体の移民総数は545万人と
なっている。トップの中国が87万人とある。
さて、日本の場合を二つの方向から見てみるが、日系人(含:移住者)は、7万3300人(2001年
統計)で、一方、2005年の外務省統計によると、長期滞在、永住を含めてカナダには4万6000
人の邦人がいるとある。戦後移住者の事を調べてみると(国際協力事業団資料提供)、1973年の
1105人がピークで次が1994年の956人となっている。資料では、1996年頃から現在までは
統計なしとなっているので、今度、「ジェトロトロントセンター」で、調べてみようと思っている。
ところで、私の住んでいるトロントでは、現在169カ国(2006年統計)の出身国で構成され100
以上の言語が話されているという。(日系新聞参照)
その様な多民族文化の中で暮らす事は、なかなか居心地が良いと最近では思っている。世界を旅行しな
くてもその国のそのままの食を楽しむ事もできる。言葉も理解できずとも様々な国の言葉を耳にする事も
できる。
シカゴへ移り住んだ友人が最後に書いていた。「この先、トロントへ戻ってまた仲間に入れていただく
ことも選択肢の一つと考えています。…」
「人生の扉」 2007年8月22日
「思い出のメロディー」をミスした私は、「残念!」とつぶやいた。そのつぶやきを聞いた友人が、
「あら、今日、再放送するわよ。」とさらりと言った。
歌は、人の心に「思い出の歌」として永遠に残る。さまざまな出来事の中で、悲しみや辛さそして
喜びや幸せなどを交差させながら心の奥で生き続け、いつしか懐かしい歌となって蘇る。
「思い出のメロデイー」が私の時代の歌になったことを感じながら、時は流れ過ぎ去っている、と
つくづく思う。
竹内まりやの「人生の扉」を聴いた時、意識しながら入った五十路に、そしてそこを越えて確かに
歩いている、という自分に改めて気づかされる。20代、30代、40代…どんな時代を通り過ぎて
きたのだろうと振り返る。「今、もう一度その時代を歩くことが出来たら」…誰もが思うように、「
その時はこうしよう。絶対にこうする。」、という思いにもなったりする。
歌詞にあるように、春に帰国して桜を見ながら、秋に帰国して紅葉を見ながら、あと何度この季節に
帰国して、桜を…紅葉を… 見る事ができるだろうかと思うこともある。
「人生の扉」…素敵な歌に出会った。そして「うん!そうだよねえ。」と心で思いながら今も聴いている。
8月の手紙 2007年8月10日
トロントも夏真っ盛り。適当に雨が降り,適当にサラサラと風が吹いて,温度も30度近くあっても
木陰は適当に涼しくて…適当という言葉がこんなに心地良いとは、と思いながら、8月を過ごしてい
ます。
夏の醍醐味はやっぱりBBQです。肉と野菜とワインとビールがあれば、お客様はおもてなしできるし、
こんなに楽で簡単なお料理はないと一週間に一回は、「BBQをしようよ。」と言っている私です。ん?
誰かが「BBQはお料理のうちには入らないよ。」と言ったような言わないような…。先日も、近所に住
む友人に、「今から、焼き鳥のBBQするからおいで!」と言ったら、ワインと手作りの焼きおにぎり、
コーヒーゼリーと庭に咲いた紫陽花の花を花瓶に挿して持ってきてくれました。「ん、何かで読んだ事
あるぞ。招待されて、お花の持参は、もらった側は、招待のことで忙しいから遠慮したほうが…」なん
て書いてあったような。でも、友人は、ちゃんと花瓶に挿して持ってきてくれましたから、「さすが、
わが友人!」、とブルーの紫陽花が、裏庭に構えたテーブルの上で主役のように見えました。
トロント新移住者協会の恒例の親睦BBQパーティーが開催されます。今回は、新移住者協会が生まれ
て30年と言うことで、内容も盛大です。参加者も多い時は400人を超えますから、その準備は半端
じゃありません。今回も「台所」を預かることになりましたが、焼肉、ソーセージの準備、漬物、サラ
ダの準備、デザート用のフルーツの準備、麦茶など飲み物の準備、ご飯の準備…エトセトラ。入場料を
支払えば食べ放題ですから、その量を考えると気が遠くなりそうです。有志のボランティアも100人
近くですが、朝からの準備から、終わってからの片づけまでそれは大変な作業です。でも、パーフェク
トにオーガナイズされた時間は、何の問題もなく進んでいきます。
今回は、ラッフルチケットを販売することになりました。日本行き往復チケット2枚や液晶テレビ、
デジカメなどたくさんの景品が当たるのですから、この宝くじ販売でいつもより賑わうものと予想され
ています。
さて、そのラッフル販売にひと役買うことになりました。何とトロント芸能愛好会で「チンドン屋」を
やることになったのです。私には、あまりピンと来ないことでしたから、責任者の方に「お願いします
ねえ〜。」と油断をしていましたら、何とお役目がこちらにも回ってきました。「ど、ど、どうすりゃ
いいの〜さ〜」なんて歌ってる場合じゃなく「ドンのお役をお願いします。」といとも簡単にお願いさ
れてしまったのです。「で、できません!」と言えない悲しさよ。さっそく練習が始まりますが、小道
具をそろえたりと、さてさてトロント初の、どのような「チンドン屋」が誕生するかこうご期待です。
毎朝、庭に咲く朝顔の花を眺めながら夏を感じ、8月もこうして終わるのかなあ、としみじみと思う
日々です。
エンジョイ サマータイム!
7月の手紙 2007年7月15日
「ささのは さーらさら のきばにゆれる おほしさま きーらきら きんぎんすなご」
いつの間にか七夕も終りました。もう7月の半ばに突入です。昨日は、トロント日系文化会館主催の夏祭りでした。
以前は、多くの国々が参加して開催されるキャラバンと言うイベントがありました。まだ、子育て真っ最中の私は、その
パスポートを買って様々な国の飲み物や食べ物を楽しみ、国々の文化を楽しんだものでした。日系文化会館で開催されて
いるキャラバンでは、一世、二世、三世の方々のボランティアによって、日本の文化が守られていく姿があり頼もしく思い
ながら眺めていたものでした。そして、時は流れ、今ではキャラバンも「夏祭り」というイベントに変わり恒例となって
開催されています。
夏祭りの為に、日本からヨーヨーボールが300個届きました。ボランティア達は、早い時間から集まってそれらに
ポンプで水を入れたりして準備しました。それらを水に浮かべたヨーヨーボール釣りのゲームは大人気でした。子供も
大人もみんな、ヨーヨーボールを持って嬉しそうでした。きっと、子供たちは、私たちがそうであったように、あの
ヨーヨーボールの感触を大人になっても忘れないだろうなあ、と思います。
今日の夕方、くろまめさんから「宮崎日日新聞にあの時の宮崎交通の青バスが載っているよ。」、というメールが来ました。
さっそく、検索して…思わず、目を見張りました。まさしく、あの頃の観光バスの写真が載っています。もしかして、私が
乗務した時のバスかもしれません。今では観光バスも近代的なバスになっていますから、本当に懐かしくて感動しました。
今夜は、久々に宮崎を思いながら、友人から送ってきた宮崎の民謡集を聴いてみようかと思っています。
外は雨上がりの夕焼けです。
「桂三枝落語独演会」 2007年6月30日
いつも笑い声に満ちた家には、自然と幸福が訪れる…「笑う門には福来たる」という言葉はあまりにも有名であるが、
桂三枝ご一行を迎えた公演は、その時間、まさしく500人ほどの観客をうずめたホールが幸せに満ちた。
公演の前日、ウエルカムパーティーで出迎えた時に、そこに「新婚さん!いらっしゃーい」のその同じ笑顔があった。
2時間の予定が大幅に長くなって4時間と言う時間が瞬く間に流れた。トロントの寿司店には、寿司ピザというメニューが
あるが、それを食べたいと言うオーダーが入り、準備したそのピザに一言… 「うん!これはなかなかうまいわあ」…。
そして、公演当日、準備したホールでの舞台やマイクのチェックはかなり厳しく、毎回私たちが催すイベントで慣れて
いるとはいえ、かなりの緊張感があった。6時半開場、7時開演。通訳付きの公演はやりにくいと言う事で、日本語一本で
と言うことだった。通訳が付くと、日本語が分る人はすぐ笑う。ちょっと日本語が分る人は少し遅れて笑う。日本語が全然
分らない人は、通訳が終ってから笑う。これでは笑いが三段階に分かれるのでタイミングが狂うのだそうだ。そのお話を
聞いてな〜るほどとそれは確かにやりにくいだろうなと思った。
私は、今回「創作落語」の意味を改めて知った。
古典落語とは違い、私たちの身近な事が話の材料に
なり、そして、それらを落語にする事のおもしろさ
を知り感心させられた。
「妻の旅行」「宿題」「涙をこらえてカラオケを」が
披露されたが、我が身に思い当たるような内容が
あったりと始めから終わりまで笑いの渦だった。
涙が出るほど笑う。腹を抱えて笑う。笑いには様々な
表現があるが、友人などは、ハンカチを目にあてながら
笑い転げていた。
人を楽しくさせる、愉快にさせる、笑わせるなど共々
これを自然にそうさせる魅力がある人は、人生を豊かに
してくれると確信できる。
今回の公演を通して笑って生きることの大事さを知った。
プログラム最後に、花束贈呈をさせていただいたが、
三枝さんの手は温かかった。
6月の手紙 2007年6月13日
今朝も、コーヒーをいただきながらトロントスターの「SUDOKU」に奮闘、意外と早くに解けました。
このトロントスターの、ある一コマ漫画が好きで、毎日目を通しています。ある家族の二人の幼い子供が主人公です。
*「ママ、あの犬、子犬を五匹も産んですごいねえ。でもママは、たった二人で残念だったねえ。」
*「おばあちゃん、そのネックレスが小さくなったら私にちょうだい。」
…などなどほんわかムードになれる漫画です。
さて、6月になってトロントもすっかり緑に包まれています。街路樹も、青葉が重たそうです。
あまりに生い茂ると危険ですから、毎年のように、見晴らしが良くなるようにシティが枝を切りに来ます。勝手に無断で
切ってはいけないようです。先月、日系文化会館の玄関で迎えを待つ間、とても不愉快な思いをしました。春を告げる木に
白い花が満開に咲いていました。その枝をボキボキと折って持ち帰る人を見かけたのです。会館には様々な国の人が出入り
しますが、そのようなマナーを知らない人もいるようです。よほど、追いかけて注意をしようと思いましたが、1日中、
ボランティアで動きすぎて体が動きませんでした。この新会館に移転した時に、玄関に親子で集まって植樹(つげの木かな?)
をした事を思い出しました。今は、その木がスクスクと育って玄関に濃い緑の彩りを添えています。
そのような事を思いながら外を見ると、ようやく薄暗くなり街灯に灯りが点きました。
ちょうど、夜の9時20分になったところです。
さて、日本は梅雨の時期でしょうか。紫陽花がきれいだろうなあ …。
「日本の棚田百選」 2007年5月22日
「あめがやんだ きりがはれる やまのあたまがみえてくる…」
小学1年生の時の、国語の教科書の最初のページにあった詩であった様に思う。霧の中に山の頂上が見えた写真(絵)が
あってその詩がひらがなで大きく載っていた。長い歳月が経っても、なぜかこの詩を忘れることなく残っているのは、待ちに
待った1年生になって初めて教科書を手にした時の喜びがそうさせたのだろうか。
「日本の棚田百選」を見た時、その山々とそして田んぼの風景に、まさにこれが日本の姿!と感嘆させられた。田んぼの畦に
咲く彼岸花…そこにくっきりと生まれ育った故郷の光景があり、その懐かしさの中で、あの小学1年生の時の教科書にあった詩を
思い出したのだった。何でもだが、頭の隅に残っているものは、何かのきっかけがないと思い出すことがない。
今日は、ラジオをオフにして1970・80年代の日本の歌を流していた。そして、「日本の棚田百選」を一枚一枚めくりながら、
広大な、山のないトロントから帰国の度に、車窓を流れる山並みや田園の風景が心を躍らせる事を思いだす。
先駆者が造り上げた「祖先伝来の品」である、山々に見守られてきた棚田が、いつまでも日本の姿として残ってほしい。
母の米寿 2007年5月16日
2年前「一冊の本」と題して『LONESOME 隼人』を紹介したことがある。米刑務所で短歌を詠む郷隼人著の本である。
(あつ子@カナダ5参照) その中の一つの短歌が、母の日を過ぎて目に止まった。
『母さんに「直ぐ帰るから待ってて」と 告げて渡米し27年も経ちぬ(2000年6月)』
私も、「直ぐ帰ってくるから…」と母に言ったような気がする。その場しのぎの言葉だったとはいえ、そのように言う
ことで母を安心させ、そして、20代と言う年齢の中で、その若さから出た言葉であり、そしてきっと親の気持ちを含み
自分自身をも納得させていたのだろうと思う。
その母が、今年米寿を迎える。この頃、言葉に元気がなくなってきたのが気にかかる。「お祝いに帰ってきてくれるね。
いつも遠い所からすまんねえ」と母は言う。帰国の度に「いつも遠い所から…」が口癖になったように言っている。遠くに
行ってしまって申し訳ないのは私の方なのだとその度に思う。
母は、私が帰国の度に、口には出さないけれど「もう、会えんかもしれんね」と思っている。そんな母の気持ちを悟り
「また、直ぐ帰ってくるからね。」と言っている。いつも、空港まで送迎をしてくれる母であるが、いつの時も別れは辛い。
「2.3日、まだ東京にいるから…」が、慰めの言葉になっていたりする。
この頃、1年に一回の帰国は母には長過ぎるだろうかと思いながら、新緑の清々しい春の中で秋の日の母の米寿を待っている。
野遊会 2007年5月9日
快晴の朝8時、ナイアガラへとハイウェイをひたすらに走った。時速120キロ、1時間10分ほどで待ち合わせの
花時計に到着。花時計はパンジーに彩られ朝日を受けながら時を刻んでいた。
日本人客を乗せたツアーバスが到着。団塊世代の、長い人生の中で、「やっと一息できる」…そんな姿を見た思いがした。
会員たちが、次々と到着。久々の語らいがエンドレスに続く。「元気じゃったねえ〜」「久しぶりじゃねえ〜」。方言の
優しさは場を和やかにする。ナイアガラリバーを挟んで、アメリカを見ながらカナダに立ち、故郷宮崎を懐かしむ光景を
どう表現すれば良いのだろう。
八十段の階段をただ、足元だけを見て断崖を下りた。遠くを見ると足がすくみそうだ。ナイアガラグレンは岩でゴツゴツ
とした狭い道が続く。まだ若葉が出たばかりで、遠くの景色を見ることが出来る。足元の植物や岩肌に咲いている白い可憐な
トリリアムが愛らしい。林の中を道草したりゆっくり歩きながら、人間って自然の中ではとてもいい顔になれる、とつくづく
思った。子供たちは、スタスタと早足で行っては立ち止まり、振り向いては戻ってきたりと笑顔が自然の中で輝いていた。
めいめいのお弁当を広げて、「これ食べてみてん。朝、3時頃までかかったとよ」おにぎり、お稲荷、煮物、漬物、揚げ物、
卵焼き…もう何でもおいしい。三分咲きの八重桜の下で、昼食を取りながらのひとときだった。そして、なぜか特大しか作れない、
と言う友人手製の大福を、みんなでほおばりながら、「う〜ん、日本人で良かった。」と思ったのである。
満開の桜を求めて車を進めると5分ほどでソメイヨシノの満開の姿があった。いったい、いつ、誰がここに植樹したのだろう。
その後は、誰の手も入ることなく自然のままに育っていったのだろうか。根元から伸びている枝にも花がたくさん付いている。
そんな桜に触れながら酔いしれた。「う〜〜ん、日本人で良かった。」とまた思ったのである。
その夜、ナイアガラ在住の会員からお礼のメールが届いた。彼女とは10年ぶりの再会だった。
「…心が和みました。すがすがしい新緑の中を同じ郷土の方々と探索しておりますと、生まれ育った町の裏山で遊んでいた頃の
ことをふと懐かしく思い出しました。私は宮崎弁がすっかり抜けてしまったのですが、自分の方言を誇りに思う皆様から、方言を
大切に使い、話し続けていくことは、あまり親しくない間柄のはずなのに、なぜかしら懐かしく感じるものだなあ、ということを
改めて気付かされました。これも、家庭的で親しみやすい県人会を創ろうとされるお志の故なのでしょう。…」
子育てに奮闘中の彼女に、県人会が憩いの場になることを願いながら、さっそくお返事を書こうと思う。
5月の手紙 2007年5月7日
「貧しいから、あなたに差し上げられるものと言えば、優しく頬をなでる初夏の風と精一杯愛する気持ちだけです。
でも、結婚してくれますね。でも、結婚してくれますね」・・・爽やかな5月の季節を迎えるといつもこの詩が心に
蘇ってきます。これは、20代の頃、確かTVの日曜劇場のあるドラマで画面に流れた詩であったように思います。
トロントは、すっかり爽やかな春に包まれましたが、日本はそろそろ初夏の風が吹く頃でしょうか。
4日の金曜日は、トロント日系文化会館の恒例のバザーの準備があり3時頃から出かけました。うどんのお店を
手伝う事になり、うどん屋のおばさんに変身です。400食分を量りにかけて仕分けをしたり天かすを作ったり、
ネギ、かまぼこの準備が整いました。
5日の当日、外は春の太陽が輝いています。12時半開場を前に11時頃になるとたくさんのお客様がラインナップです。
うどん店を任されて、12人ほどで体制を固めてそれぞれのポジションを決めスタンバイです。
12時半、見る見る間にお客様が…。「すごい!」と目を見張る時間もつかの間、「気合いを入れて行くわよ〜」の合図で
開店です。息つく暇もなくオーダーが入り、「うどん三個。はい!二個追加…」みんなの威勢の良い掛け声がリズムに乗って
流れていきます。
「どんぶりがたりないよ〜。はやくさげてきて!」「どんぶり、急いで洗ってね〜」…ワイワイガヤガヤ…3時間近く、
ボランテイアの有志たちは、昼食も忘れて動きました。途中、疲れすぎて私でさえ無口になる瞬間もあって、その静かさが
笑いを取ったりしましたが、すっかり400食を売りさばいてしまいました。
二世の方々から「売り切れたの?」と驚かれてしまいましたが、「はい!おうどんの汁一滴もありません」と心でにんまり
でした。日本から来たワーホリの方、留学で勉強を頑張っている方のボランティアはとても助かりました。日本を離れて、
そして、苦労された一世、二世の方々の土台となっているこの会館の為のバザーに参加した事は、いつか後々に何らかの
お役に立つ事があると確信します。そして、私は、うどん屋のおばさんのお役を終えてホッとして家路につきました。
明けて6日は宮崎県人会のハイキングとお花見でしたが、クタクタになった体を、朝の6時に目覚めさせ、お弁当作りに
精を出した私でした。外は最高のお天気。ナイアガラへと出発したのでした。
ということで、この続きは次回にすることにします。ではではまた。
「サボテンの花」 2007年4月17日
1974年、思い出の歌として大好きな歌である。きれいな詩と曲がその頃へとタイムスリップさせてくれる。
仕事柄、全国の高校生達を九州一周などの案内をする事が多かった。長くて一週間ほどお付き合いする事もあったが、案内が
終るとその学生達からお礼のお手紙をいただく事があった。
ある日、一人の高校生から1通の手紙が届いた。
「もうすぐ大学の試験です。もし、吉報が届かなかったら、励ましの手紙をください。」とあった。合格発表があってからも、
長く知らせを待ったがそれはこなかった。私は、一通の手紙を送った。その生徒さんだったように記憶するが、あまりにも遠い
出来事で、それは定かではないが一つの思い出が蘇る。
「休みを利用して九州に旅行します。宮崎を通過しますので駅でちょっと止まる間お会いしたいです。」という事で駅で会った。
その時に、その生徒さんが「サボテンの鉢植え」を渡してくれたのだ。
HPに流れている「サボテンの花」で思いだした小さなできごとだが、歌は、忘れかけていた様々な事を映し出してくれる。
4月の手紙(追伸) 2007年4月10日
太陽のない日々が続いて、今日は青空の中に太陽が輝いてくれました。南国育ちだからでしょうか。寒々と
した日の空に、太陽が輝くとホッとします。
日本の春を思っていたら、HPに「桜日和1.2.3」が出ていました。もう、感動で画面いっぱいにして
楽しみました。どうしてもその感動をお届けしたくて、「追伸」として投稿する事にしました。
カナダに来た頃は、その桜の季節も忘れるほどに必死で生きていたように思います。そして、月日は流れ、
今、カナダ移住の歳月を重ねるごとに日本への思いが強くなる事を感じます。郷愁の念が強くなる、という
ことでしょうか。もしかして、それは、やっと気持ちに余裕が出てきた、という事かもしれません。そして、
長年ご無沙汰をしている友人たちからEメールが届くようになりました。日本の春を身近に感じられるのも、
その様に友人たちから近況が届くのもこの便利なPCのお陰です。そして、何よりもそのようにして日本の春を
届けてくださる方々のお陰だと思っています。今日の日めくりカレンダーの言葉です。
「感謝を知る人は幸福である」
異国にいて、幸せを感じる事が出来るようになり感謝しています。
4月の手紙 2007年4月9日
「寒い〜!」。トロントは、春に向っていたのに冬に逆戻りしたようです。ある方から「冬が来ましたね。」と
挨拶されて、ずっこけてしまいました。今日は、雪までちらつきました。「はる、はる、はるはどこ〜」と言って
探し歩きたい心境です。
でも、くろまめさんのHPには春がやってきました。「うわ〜い!」と言いながら見つめて楽しんでいます。
あの思い出の桜並木道ですね。動画を観ているとまるで昨年のあの時間がタイムスリッピしたように思い出されます。
季節外れの桜の花がとっても可憐でした。
4月は私の生まれた月です。また、年を重ねるのだと思いながら …でも憂鬱になる私ではありません。
「よし!楽しまなくては!」と張り切る私です。先日、久々にお会いした方から「お久しぶりだね。えっ!もうトロントに
来て30年過ぎたのですか?…ということは??」と年齢を聞かれそうになったので「はい!お小さい時に参りましたの…」
と言ったら大笑いされました。
お笑いといえば、6月に上方落語の大御所「桂三枝師匠」の落語独演会がトロント日系文化会館で催しされます。
今、お迎えする準備で忙しくしています。お会いしたら「新婚さん!いらっしゃ〜い」とお声を掛けようかと思っています。
その時には「6月の手紙」で楽しいご報告ができると思います。
春を待つ4月。どんなに短い言葉でも日本からのメールは春の香りがします。そして、幸せを運んできます。
「春の歌まつり」 2007年3月20日
「うっそう〜、雪なの。」
朝起きてみるとあたり一面真っ白な世界だった。昨日までは、すっかり雪も解けて春近し、を感じるほど
だったのだ。でも、ギラギラと輝く太陽が夕方には雪をすっかり解かしてくれた。
10時半頃、会館に入ると裏方のスタッフの方々がステージの仕上げに余念がない。1時から最後の
リハーサルを行うために「11時集合」の時間になると楽屋は俄かに賑やかになった。活気がつくといよいよ
本番だという気持ちで空気も高揚してくる。和服着付けの担当、ヘアスタイリスト、メイクアップアーティスト
の方々が忙しくなる。この楽屋での準備やおにぎりをほおばりながらの和気あいあいとした時間も楽しい。
衣装を纏った姿にそれぞれの冗談交じりの批評が飛び交うのもおもしろい。みんな、みんな変身する瞬間から、
気持ちがグッと変ってくる。
二世の方から「着物はやっぱりええなあ。うん、日本人の女性はやっぱり着物や…」と言われ嬉しくなって
つい品を作ってしまう。出演者の着物はファッションショー並みで毎回ながら感心する。
出演者も自分のステージに力が入る。『蘇州夜曲』を「そんな物持ったら歌詞が出てこなくなるから」と
言うのを説得して手作りの羽の付いた扇を持って見事に熱演、『東京ブギウギ』は、「おかあちゃんの着て
いた物なの。」とまるで宝塚歌劇団を思わせるようにダンスを入れて盛大な拍手が返って来る。舞踊のしな
やかさで『さよなら小町』をモダンな日本調で歌い上げる。
「母がね、舞踊をやっていて舞台で着ていた着物を全部もらってきたの。」と華やかな着物に身を包んで
『りんどう峠』を千代子風に歌う。芸者姿はお手の物、と『まつの木小唄』は会場を湧かせた。80代の方に、
「どこでそのような小道具を揃えたのですか?」と思わず尋ねてしまったほどに、なりきっての演技が素晴らし
かった『俺ら炭鉱夫』、花売り娘も登場した『東京の花売り娘』…などなど舞台は日本一色に染まった。それら
の裏を支える進行係と音響室との息の合った関係は舞台の流れを一瞬も止めることがない。
M・Cも3時間半という時間を台本どおりにこなしていくのも案外大変なものだ。「今回は、アドリブが
あまりなくて、台本どおりにいったわねえ。」と笑いながら言われた。「あっこさん!舞踊が始まる時に傘
などを舞台に準備する時間が必要ですので、紹介をもうちょっと長くして時間を稼いでください。」と言わ
れた。「え・え・え〜?そんなあ〜…」と応えながら「毎度のことで…」なのである。
車椅子で、いつも欠かさず観に来てくださる馴染みの方と「次の時にもまた来ていただきたいなあ。」と
心で思いながら手を握り合った。このように喜んでいただく方がいる、という確信が次へと繋がっていく。
台本にあった「日本を離れて長くカナダに住んでいると日本の故郷を思う郷愁の念が強くなりますよね。」
…そのような方にとって、日本という故郷が一時でも身近に感じる事ができたショーであった事を願っている。
こうして、ドライブ中、掃除中、料理中いつでもどこでも、ぶつぶつ言いながら台本を片手にした時間が
終った。これでしばらくゆっくりできそうだ。
春も、もう、すぐそこに来ている。
3月の手紙 2007年3月14日
3月に入って体内も凍ってしまいそうな日々がありましたが、 JCCC(トロント日系文化会館)では春祭り
が開催されました。玄関を入ると7段飾りのお雛様が出迎えてくれました。大切に保管されて毎年、お目見え
します。友人は、台に上がり降りしながら時間を掛けて、間違いのない様に飾り付けをすると言います。
もう、そろそろそのお役目を誰かに引き継ぎたいと言っています。平安から室町を経て、その長い時間を育ん
できた文化を観賞しながら、心の中で引き継いでみようかなあ、と言う気持ちがフッと生まれてきます。
さて、3月17日に開催される「春の歌まつり」も、もうすぐです。プログラム(←クリック)もできあがりました。
昨年、浅草で買った若草色の着物にしようか、友人からいただいた着物と帯にしょうかと迷っていましたが、出演者
の着物と照らし合わせながら、浅草でワイワイガヤガヤ言いながらの思い出の着物と友人からいただいた帯に
決めました。トロントに来て、こんなに着物を着る機会があるなんて思ってもいないことでした。30年(以上)
も前に、嫁ぐ日に母に作ってもらった着物を着れるのもこういう時だから、と思いながらその時その時、着物
のそでを通しながら思います。友人からの着物もきっと異国トロントで活躍することでしょう。
くろまめさんのHPに「上を向いて歩こう」が流れています。懐かしい歌(懐メロ)は、人それぞれに時代は
異なりますが、そのような歌の背景からその時の時代が見えたり、自分のその時の思いが蘇ってきたりします。
「春の歌まつり」で紹介する歌が、日系人の皆さんに心の歌として蘇り、楽しんでいただければいいなあ、と
思っています。
今日は、昨年帰国の折いただいた「とんぼ玉」でキーホルダーを作ってみました。目の前で、ゆらゆら揺ら
しながら光にあてるととてもきれいです。五個もできました。作っていただいたかんざしは、髪の長い娘が
クルクルッと髪をまとめる時に使っています。「くろまめさんのパレット」を拝見しながら、昨年、お会いし
た時に、それらが目の前に並んだことを思い出しました。今回のお花の水彩画を「あつ子@カナダ」に宛てて
いただきありがとう。遠くにいても温かい心が伝わってきます。遠くにいるからこそ、人の心が強く伝わって
くるのだと思います。
春の歌まつりのMCの台本に「遠く日本を離れて長く外国に住んでいるからこそ日本語の歌や文化が恋しくなる
のかもしれませんね。」というのに繋がるような思いがします。
ところで、11日から夏時間に変りました。1時間、時計を進めますから朝の体の調節が大変です。日本と
13時間の時差になります。時間は変っても、自然の春は、もう少し先のトロントです。今年は、アメリカから
移住してきた「南天」をキッチンの植木鉢から庭に植え替えようと思います。前に、紹介した「柿」もスクスク
と育っています。
自然界もみんな、みんな春を待っています。
「遠くへ行きたい」 2007年2月22日
昭和37年にヒットした歌とある。「遠くへ行きたい」…思えば、本当に遠くへ来たものだと思う。
トロントという知らない街へ着いたのがちょうど厳冬の中の1月だった。2月になっても、3月になっても、
4月になっても寒かった。春はいつ来るのだろうと思ったものだった。あれから、季節が何となく変ってきた
ように感じる。春が早く来て、夏もあの頃よりも暑くなった。でも、日本と同じように四季があるのは嬉しい。
心地よい夏が過ぎると、秋の紅葉の美しさに惹かれて北へと紅葉狩りに行ったものだった。知らない町や
村をたくさん通り過ぎ、何時間ドライブしても人が住み生活があった。林の中にポツリポツリと家があるのを
見て、買い物にはどこまで行くのだろう。友人たちは訪ねてくるのだろうか。夜は淋しくないのだろうか、と
思うほどに林や畑が、森や湖が、そして草原が続き、気が遠くなるほどだった。それは無限に続くのではない
だろうかと北へと走りながら不安になるほどだった。
5月は冬眠をしていた全てのものたちが目を覚ます。宮崎県人会では、その5月にナイアガラ・グレンを
ハイキングする事が決まった。桜もきれいだという。時間がないとなかなか行けないスポットらしいので、
会員の案内で行く事になった。”花時計”で待ち合わせをして、おにぎり持参で「歩け、歩け」というわけで
ある。
「知らない街を歩いてみたい どこか遠くへ行きたい」。広大なオンタリオ州、まだまだ知らない町も村も
いっぱいある。もしかして、そこには、出逢い、めぐり逢いがあるかもしれない。
友人の投稿 2007年2月13日
温かい便りを送ってくれた友人が、「みかんを育てている理由」を書いてくれました。遠く日本を離れて
過ごしている私たちも、親の訃報が届く年代になったとつくづく思います。誰もが通る道なのだからとよく
話しますが、でも、異国にいると親の思いや心づかいなどが身にしみてわかります。友人の投稿を読みながら、
頑固さに隠れていた私の父の優しさを思い出します。でも、その優しさに気づいたのはカナダに来てからでした。
以下、友人の投稿をそのまま お写真を添えて載せたいと思います。
『我家はオンタリオのミカン農家』 オンタリオ州ミシサウガ・マーナ豊澤英子
カナダに移住して2年目の春、ちょうど3年前のことです。
ドアを誰かがノックする音が聴こえました。玄関を開けると、そこには20年ぶりの父の笑顔がありました。
「英ちゃん、元気かい?」という懐かしい声に、思わず抱きしめようとしたら目が覚めてしまいました。大分の
母に早速電話したら「父さんは乗り物酔いがきらいでどこへも出かけなかったのに、飛行機に乗って英ちゃんに
会いに行ったんやね〜」と。彼女のユーモラスな返答が可笑しくて、二人で笑い転げながら、今は亡き父の思い出
話に花が咲きました。それから1週間後、夫ジョンが「娘のことを心配してここまで来てくれたのだね。ミカン
農家だった父さんの思い出に我家でミカンを育てよう」と、2本の苗木を探してきてくれました。思いもかけな
かったことでした。今では4種類の柑橘類(レモン、マンダリン、タンジエリン、バレンシア)が家の中で育って
います。天井に届くほどに成長した木を春には庭へ、秋に室内へと移動するのは大変ですが、この地で父を身近に
感じながら生活できることを幸せに思います。それにしても、花の香り、黄色や橙色の色彩、採り立ての新鮮な味
と香り等など、これほど楽しめるとは思ってもいませんでした。ジョンに心から感謝!
温かい便り 2007年2月9日
ハイウェイで40分ぐらいのところに住む友人から嬉しい便りが届いた。
あっちゃん
今、マンダリンが熟れているのに気づきました!
においもいいですよ。
外は雪なのに家の中にミカンが色づいているーー
いいものですね。
九州とやっぱりちがうなとわかるのは、秋ではなく
冬〜春に収穫時期を迎えること。
4月末に外に出し、10月始めに家に入れるのだけれど、
日照時間や気温は南の国に比べると充分ではないので、
収穫時期は遅くなるのでしょうねえ。。。
毎年のことです。
まだ食べるのには早いのですが、色づくミカンの様子を
宮崎生まれのあっちゃんと共有したくてお届けしました!
良い日を!
英子
家の中には、青いレモンや青いマンダリンがなっていた。
天窓から入る太陽がスクスクと育てているのだろう。
外の寒さを考えるとその光景は別世界にいるようだった。
コーヒーをいただきながら、このレモンは、いつ頃黄色くなるのかなあ、
と心ひそかに思っていた。マンダリンが色づいた知らせは、届いた写真の
オレンジ色と一緒に心まで温かくしてくれたような気がした。
昨年もマンダリンをいただいたがしばらく暖炉の上に飾っておいた。
食べるチャンスを逃すことなく、ポイと口に入れるとその甘さに驚いた。
「うーん、あまーい」…。マンダリンの知らせが、やっぱりレモンの知らせも気になるはめになった。
「黄色くなったらあげるからねえ。」友人は、その言葉を覚えているかしら、とニンマリとしている私である。
マイナス15度前後の日々に届いた温かい便りだった。
2月の手紙 2007年2月3日
ボタン雪が降っています。フワフワとそれは優しく舞い降りてきます。あっと言う間に一面が真っ白に
なりました。裏庭には、誰も訪れる人がいません。真っ白いお布団のように見えて、思わず思い切りころ
がって見たくなります。こうして、トロントにいつもの冬が来ました。2月が、一番寒くて一番雪の多い
時期になります。何度、このような景色を見ただろうかと、キッチンで洗い物をしながら思います。
時々、片手に3月の春の歌まつりの台本を持ちながら家事をしています。父が、お酒が入るとよく歌っ
ていた歌があります。母が喜びそうな歌もあります。歌の歴史をこれから調べてナレーションの作成です。
ようやくこのような準備をゆっくりと余裕を持って取り掛かることができるようになりました。
待ちに待った、涙と汗の結晶である記念誌が発刊されました!!
嬉しくて感動で心が躍ります。苦労を共にした友人が、デジタルで写真を送ってくれました。表紙の一枚
の楓が緑から黄色になって、そして赤く染まりながら写し出されています。移住した若い頃から、だんだん
とカナダの社会にもまれながら、今、ようやく私たちは真っ赤に染まった楓のようにカナダ社会に根付いた
ことを表しているようです。そろそろ、海を越えて世界に向けて一枚の楓を乗せて送られていきます。
一つひとつ企画したことが終って、人生の白く続く一本の道に様々なことが描きだされて行った事がはっ
きりと見えます。そして、くじけそうになった時にある方から言われたことが心に残ります。
「忙しい人こそ、依頼されたいろいろな事を織り込んでうまく終らせることが出来るのです。」
トロントの冬はまだまだ真っ最中です。
「お正月会」 2007年1月13日
1月も半ばになろうとしているのに「雪」がない。「今日もプラス?!」、地球はどうなっているのだろ
うか。そんな冬を迎えて、1月28日(日)に、新移住者協会、トロント日系文化会館共催で「お正月会」
が催しされる。大イベントである。今、その準備がちゃくちゃくとすすめられている。「獅子舞の踊り手を
4人ほど見つけてください。雄、雌ですよ。」「演芸の部門をお願いします。」様々な依頼が飛んでくる。
演芸の部門では、出演者の候補をあげて交渉が始まる。和太鼓、尺八演奏、三味線、琴、舞踊、子供舞踊、
唱歌、空手のデモストレーション、民謡、クログダンス、幼稚園児のバレエなどなど。
一方では、お屠蘇デモストレーション、書初め大会、羽根つき、凧あげ、福笑い、すごろく、百人一首大会、
臼、杵でのお餅つき大会などが家族で楽しめる。会場の周りでは、たこ焼き、雑煮、うどん、おでん、寿司、
和菓子、などの出店が勢揃い。こまやおはじきなどの店も子供たちに遊びの文化を教えてくれる。そして、
その子供たちには先着順にお年玉袋が渡される。
日本語学校関係者やトロント芸能愛好会、新移住者協会、ワーキングホリデーなどのボランティア有志が
集まっての開催である。準備をしながら思う。私たちは、多民族国家の中に住み、3代で消えてしまうと
言われる継承語(日本語)などの日本文化を何とかして伝えていきたい、という意気込みをそのような場を
設けることで必死で闘っているのではないかと。そして、日本の文化を守る為に日本に住む日本人よりも、
日本人らしい生活をしているのではないだろうかと。
今夜も「お正月会」の打ち合わせのメールが遅くまで飛び交っている。
新年のご挨拶 2007年1月3日
「謹んで初春のお慶びを申し上げます」
お正月のお祝いの言葉を選ぶのにどの言葉にしようかといつも迷ってしまう。日本語の素晴らしさを感じる
時である。
2007年が明けた。暦を新しくした。ここに友人からいただいた千代紙日めくりカレンダーがあるのを
思い出した。小さいながらも工作をしてようやく出来上がった。「中身の小さくてかわいい日めくりがあなた
の毎日を癒します。大切な1日の始まりは、まず、日めくりをめくってからというのはいかがでしょうか?」
と言葉が添えてある。「はい!そうしましょ。」と返事をしながら、三日分をめくっていく。一枚一枚に言葉
も添えてある。
「1月3日…記憶力の訓練で老化防止。」なーるほどと思いながら3月17日に開催される「春の歌祭り」
のMCを請け負ったが、台本が届いたら、暗記の日々が始まる。日系一世、二世のカラオケクラブの方々が
中心になって開催されるこのステージは、「歌は心」だといつも思わさせられる。片言の日本語でも、歌に
なるとそれを感じない。歌を楽しむ、という言葉がぴったりなのだ。ステージに立たれる歌大好き!な方々に
70代、80代という年齢を感じさせないものは、それはきっと歌という記憶力の訓練があるからだろうか、
とふとその日めくりの言葉を読みながら思った。
明けてからも雪のない天気が続きなぜか違和感を感じる。あの大雪の日々を思うと楽であるが、チューリップ
さえ錯覚して芽を出したようだ。このまま春が来ることはないだろうけれど、「ある日カーテンを開けたら外は
大雪」というのはカナダの天気なのだから、と思いながら新年を過ごしている。
今年も健康で笑いのある明るい年でありますように!