くんすけの旅日記





旅は思わぬ発見や感動があって家族とよく出かけます。
旅はいつも期待していた以上の発見・感動があります。



フルムーンの旅 (2013.9.19)

 かれこれ15年ほど昔、フルムーンのチケットで京都方面に出かけた。そのときの記録と写真が なかなか見つからなかった。  自分は昔から日記をつけておりノートから入力しなおしたダイジェスト版を含め数十年分の記録が パソコンに入っている。パソコンで昔の記録がすぐに取り出せて便利だ。ところがこのフルムーンの 旅の記録が出てこない。1997年の記録がどういうわけかすっぽりと抜けている。時期的にはこの あたりと思うが確証がない。昔の写真の収納箱を引っ張り出した。最近のデジカメの写真はパソコン に入っているが、デジカメ以前は収納箱の中だ。膨大な量の写真を1まい1まい見ていった。見つか らない。後日2回目をさがしても見つからなかった。写真を捨てることはないので不思議であったが、 くろまめが写真を整理しているときに確かに見たというので3回目のチェックをしたら箱の壁に張り 付いている小冊子があり、写真とチケットが整頓されていた。予想どおり1997年の11月であった。  最初の京都の宿は予約していたが、あとは行き当たりばったりの旅。グリーン車も乗れるので快適。 三千院や紅葉で有名な寺などを見学してさあ明日はどこに泊まろうかということになり本屋で旅の情報誌 を買ってきた。神戸あたりかと電話をかけて見たが空きはなし。前日の電話なので空きがあっても良い 返事はしないのかもしれない。大阪でも良いかと掛けまくったが「ナシ」。いいいよ焦り本屋で名古屋 や金沢の情報誌を買い求め掛けまくったが「ナシ」であった。チェックアウトしたときには市外通話の 何十件分もの伝票が添付されていた。泊まるところが無いので寝台車で寝ることを思いつき京都駅へ。 日本海沿いで北上して北海道へ行く寝台車のチケットが取れた。寝台車は大昔に乗ったことがあり、その ときは確か急行の両側3段式の安い寝台車であった。今回は特急の寝台車なので2段で豪勢な雰囲気 ではあった。青森に入る頃に夜が明けてきて霧深い田舎の景色が開けてきた。まもなく青函トンネルを くぐり函館で下車した。港の側の朝市で新鮮なイカ刺しの朝食を食べた。当時の函館山での写真を見る と2人ともワッペンを付けているので現地で観光のツアーに参加したことを思い出した。五稜郭や 函館山や街中を観光。さて今夜の泊まる場所はどこにしようか。函館で温泉というと湯の川らしい。 路面電車に乗り向かう。高そうなホテルがいっぱいあったがケチケチ旅行のため安い宿へ。畳の部屋 で良かった。予約なしでの宿泊で宿の仲居さんは「ワケアリ」と見ているようだった。  家に電話すると京都方面に出かけたのに函館にいるため驚いていた。新幹線のグリーン車で快適に 一路南下した。

九州・宮崎への旅 (2008.11.9)

<10月14日>  先週は家族で九州旅行に行ってきた。歳とともに地上を走る乗り物が好きになってきた私は家族に ブーブー言われながらも「のぞみ」で博多まで。東京から5時間だ。前の日に買い求めた鯛焼きとバナナ がもったいないとバッグの中だ。博多で予約していたレンタカー屋へ。7人乗りだ。カーナビを阿蘇山に セットして出発。昨年は高速の入り口で早く右折レーンに間違えて入り一回りしたが、今年も同じ入り口 で間違えて一回りした。人の道路の認識度合いは1年経っても同じらしい。高速道路を一路南下。阿蘇の 火口まで続く有料道路は5時で閉まると調べていたので若干アクセルを押し気味に走る。カーナビに 「目的地到達予想時刻」の時計の針が出ていて到達予想時間がどんどん早まるのが面白い。今日中に阿蘇を見てお かないと明日からの予定が大幅に狂うのだ。私の目が細くなると妻は鯛焼きとバナナを勧める。モノを食べさ せて眠気解消ということらしい。早く処分してしまいたいのもあるようだ。  熊本インターで一般道路に入る。ほどなく広々とした阿蘇の草原が現れ馬がいて牛がいる。火口には水が溜まり 沸騰しているようだ。35年ほど前に来たときには無かったと思う。噴煙は岩石の壁から噴出していた。 噴石から逃げるためのトーチカ状の避難所が幾つかある。宿に向かう。山肌は溶岩のため木が成長しない ようで草だけが生えている。木が無いため雨水に侵食された谷状の地形がはっきりわかる。昔見た図鑑に 幼年期の山、壮年期の山、老年期の山というのがあったのを思い出す。遠くに外輪山が広がる。外輪山の 中に駅があり町があり畑がある。放牧されていた黒牛達が移動している。先頭にいる牛がリーダーなのだ ろう。統制のとれた移動だ。道路脇に車を停めると柵の側まで寄って来てこちらを見ている。牛は体内に 地球の磁気を感じる器官があるので頭と尻尾は大概同じ方向を向いていると聞いたことがある。  宿に到着。バッグの中には鯛焼きとバナナがまだある。明日は高千穂だ。 <10月15日>  朝から天気良し。高千穂峡へカーナビを設定する。道路脇の畑の土に朝日があたり濃い湯気が立ち 昇っている。ススキの群生の中の道路をすり抜ける。中学生がマラソンの練習をしている。皆こちらを 見て会釈する。引率の先生も会釈だ。田舎では人と人との距離が近い。高千穂の町をすり抜け急坂を降り 切るとあの絵葉書で有名な高千穂峡だ。まだ朝早い。掃除のおばさんが大きな「逆掃除機」で落ち葉を 吹き払っていた。滝をバックに記念撮影。ツアーの引率のおねえさんにファミリーの記念写真のシャッター を押してもらう。  いよいよ山越えで妻の実家へ向かう。インターネットで予め工事情報を調べたら国道から県道に入った 後の橋で通行の時間制限がある。12時から1時の間は通行が出来るが前後のそれぞれ1時間半は通行が できないのだ。1時間半も待たされたら大変だ。ちょっと遠回りすれば別のルートもあるのだが自分の 性質で12時から1時の間にする抜けることにチャレンジすることに。順調に国道から県道に入ったが いつの間にか未舗装の道路に。轍が深く車の腹がこすれる。カーナビの自分の位置を示すマークは道路の 無いところで点滅している。あれっこれは昨年夜中に迷い込んだのと同じ状況だ。Uターンして引き返す。 先ほど道の脇にあった車まで戻ったので道を聞くことに。めったに車が通らないのだろう。道端の草が幅を きかしている。太った柴犬が私の車に近づいてきてなつき轢きそうなので車を停める。作業をしていたら しいファミリーが現れ怪しいものを見るようにこちらを見ている。こんなカーナビにも現れないような道路 に車が停まったのだから怪しまれてもしょうがない。降りて道を尋ねる。中年の男は道端の枝を千切り 土に道路の図を描き始めた。そして当初の予定の工事の橋のコースを教えてくれた。おじいさんは別の遠回り のルートを勧める。なかなか統一見解が出ない。時間もないのでお礼を言ってスタート。橋の工事の関門は 12時58分にすり抜けることができた。2分前。あぶなかった。  いよいよ山道だ。曲がりくねった道が続く。対向車はほとんど無い。しばらく沈黙していたカーナビが 突然「この先カーブです」と言う。さっきからカーブの連続の真っ只中なのだ。峠の空が開けているところで ひと休み。出発時より持参してきたバナナを1本食べる。鯛焼きは誰も食べないし旅先で腹をこわしても しょうがないので今朝方妻が捨てた。鹿が道路に飛び出してくる。崖の中ほどまで駆け上った鹿はしばらくの 間興味深げにこちらを観察していた。  峠を越えると左側に渓流を見ながら舗装道路が緩やかに下り続ける。刈り取られた稲が木組みに掛けてある。 道路脇のガードレールにも掛けてある。後で聞いた話だが猿が出没してこのガードレールに干してある稲の 実を手でしごいて食べるらしい。それを小猿が真似して上手にしごいて米を食べるとのこと。集団下校の 小学生達が斜め後ろを向きながら声をあげて通りすぎる私の車に挨拶をする。この里の景色には道端に咲く コスモスが似合う。  予定より早く妻の実家に到着。バナナ2本も到着した。 <10月16日>  夜中に山のほうから鹿の鳴く声がピィーピューと聞こえてきた。あの大きな体からは想像もつかないような 甲高い声だ。聞くところによると鹿は元来子を1匹出産するものらしいが、最近は3匹ぐらいが腹に入って いるとのこと。どのような自然の仕組みなのか、これが鹿の急激な増殖の原因らしい。  谷間の集落の朝は深いモヤの中から始る。蜘蛛の巣に朝露が付き幻想的だ。ジョロウグモがコロコロに 太って巣の中心にいる。直径40センチほどの蜘蛛の巣の右半分には小さな虫が密集して捕らえられているが、 面白いことに左半分には1匹も虫がいないのだ。たまたま左半分を作るときに粘液を出す器官がつまって しまったかと想像したが、近所の巣を見てもやはりくっきりと半分に虫が付いていないのだ。後で調べると ジョロウグモは一日おきの夜中に巣の半分を作り直す生態らしい。朝が早くてまだ虫が捕らえられていなかった と思われる。  日がのぼりモヤが少しずつ消えてゆく。ご先祖様にお参りをする。「ケータイ」はずっと「圏外」だ。 裏の石垣にスズメバチの巣があるようでハチが頻繁に出入りしている。カメラを動画モードにして記録。 柿は熟しすぎて酸っぱくなっているものもある。ふんだんにあるので固くなく酸っぱくなく適度に熟している ものを探し喰らい付く。ヘタの辺りから虫が入り込んでいる柿もある。畑には巨大な「むかご」の一種が 育っていて掌ほどもある。エアポテトと呼ばれているらしい。  車で少し上の方へ行ってみる。曲がりくねった道を行き峠を越えて少し下がったところに数軒の集落がある。 遠くに収穫された稲が干してある。田んぼは棚田風だ。水が温まりながら下りてくるので棚田の米はおいしい らしい。一番上の田は冷たい水を温める役目のため稲は植えないのだそうだ。このような場所にも舗装された 道路がひかれているのには驚いた。新しく道路が作られるときは地元の人たちは一定の負担金を払うとの こと。一旦完成するとよそ者がタダで道路を使うばかりか悪い輩はゴミを捨てていくとのこと。広い山なので 監視は不可能に近い。天気は良くても山間の集落は日がかげるのが早い。トイレはウォッシュレット、風呂は ガス湯沸器で蛇口を捻ると湯が出るが、「都会からの客人」が喜ぶと薪を焚いてくれた。浴槽の底に熱を 効率良く伝える工夫がしてあるとのこと。 薪を燃やす煙の匂いをかぎながら風呂につかる。 <10月17日>  畑のイモ掘りの日だ。畑は鹿が入らないように網で囲ってある。入り口にある波型のブリキを 手で開いて入る。武昭どんは柿の木によじ登り枝を切りながら虫食いの柿の見分け方を説明する。 石垣には大きな「むかご」が。葉っぱを掻き分けると重力に耐えて細い蔓にぶら下がっている。 イモの植わっている土はホクホクやわらかいが簡単には掘り出せない。スコップを回りに差し込み 根っこを切り、さらにイモを傷つけないようにスコップを深く入れテコの原理で掘り起こす。 親イモの回りに小イモが付いている。ヒゲ根をむしりとる。小イモを採ったあとの中心部から茎を そぎ落とすと京イモの形になる。収穫したイモはすぐに庭の芝の上に広げ乾燥させる。  隣の家の柿の木を見ると枝の間になにやら人影が・・・。心霊現象かと思ってよく見ると カラス避けの案山子が赤いネッカチーフをかぶり空を見上げていた。さっきカラスが柿の実を丸ごと くわえて飛んでいくのを見た。シャッターチャンスだったが間に合わなかった。  100年間使い続けた盥(たらい)を見せてもらった。くろまめたちが産湯をつかったものだった。 きれいに保管してあった。タイマツの話になるとケサエさんが奥から持ってきてくれた。私ははじめて 実物を見た。枯れた松の根を掘り起こしたもので鰹節の大きいものという様子だ。これを小さくこそぎ とると理想の焚きつけになるとのこと。割って匂いをかぐと松脂の良い匂いだ。昔は竹の先を割りそこ にこのタイマツのチップを押し込み明かりとしたらしい。珍しいので何本かもらってバッグに詰めた。 <10月18日>  バーベキューの日だ。午前、まだケータイの圏内の市街地から「火をおこしといて〜」と電話がある。 山道に入るとケータイの圏外になってしまうのと私の火のおこしかたが手間取るとふんだのだろう。 新聞紙がたっぷりあったので紙だけで火をつけることに挑戦。案の定、紙は燃えるが炭に火がつかずである。 妹達が到着。冷えたビールを出してくれたので早速飲む。頭のスッキリした私は落ちている枯れ枝をくべ ウチワで扇ぎ炭はパチパチいい始めた。持って来てくれた手製のピザ、都農ワイン、宮崎牛、サンマ、ホタテ、 野菜、ヤキソバ、シイタケで腹がいっぱいに。サンマは焼きすぎてハラワタも苦い、皮も苦い状態になって いた。炭が顔に付いたり、案山子の格好の武昭どんは昨年に引き続き注目の的であった。 <10月19日>  家の前の渓流の脇に山葡萄らしき紫の実がぶら下がっている。葉っぱは確かに葡萄だが私が小さいころ 見ていたものとはちょっと違うようだ。道路の下から自転車を押しながら村人が上がって来る。姿は 山仕事の正式ユニフォームといった風情だ。焼畑で作った大根の抜き菜に絶対の自信を持っていて、近所 の人にあげたら野菜炒めにしていたと嘆いていた。やはりシャキシャキした菜っ葉は漬物にするのが最高 らしい。  朝9時頃に発って人吉経由で博多に向かう。この一週間ずーっと快晴。今日も絶好のドライブ日和だ。 途中西米良の「道の駅」に立ち寄る。このあたりまでくると久しぶりに「ケータイ」の圏内となる。蕎麦 食堂はまだ開店15分前であったが食べたくなって聞いてみると快く食べさせてくれた。メニューを見ると ソバは1種類。多少の具が乗っていてシンプルで良い。  一路北上。高速のパーキングの看板のフォーク、ナイフの隣にあるガソリンスタンドのマークを見て、 くろまめはケータイのマークと勘違いをしている。確かに似てはいるが・・・。  博多駅前で親戚3人をピックアップして病院へ。88歳の伯母が入院しているのでお見舞いに。イトコ達も 来て居てお見舞いがてらの親戚の集会となった。話が弾んで帰りは暗くなってきたが古賀の叔父宅まで送って 行った。93歳の奥さんが門まで出てこられ久しぶりの再会となった。海辺の宿を予約してもらっていたので 先を急ぐ。  座敷で夕食を食べる。隣のグループは、御婦人の祝米寿で、横断幕の下にご親族が10数人集まってお祝いを していた。こちらも年寄り2人(91歳、86歳)と中年3人のグループなのでしばしの交流となった。 <10月20日>  朝起きると窓の外に港の防波堤が見える。久しぶりの海の景色だ。そういえば最近は夏にも海に行くことが なくなった。新幹線の時間が決まっているので朝食後早めの出発だ。小倉の伯母宅まで送っていった。高速に 入ったり一般道を走ったりカーナビの指示のとおり進む。ガソリン満タンにしレンタカーの返却場所の近くまで 来たのだが駅前のため一方通行などがあり見えているが近づけない状況で一回りした。駅まで見送りに来てくれた イトコとお別れ。いよいよ九州から本州へ。関門海底トンネルは幾つかのトンネルがあるため、どれかね〜と 言っているうちに本州に入ってしまった。人間ヒマになると腹が減るものである。時間帯が外れていたので 弁当は売り切れのようだったがどこからか探し出して持ってきてくれた。沿線各地の名物の食べ物を一口サイズ で12種ほど並んでいる。新幹線が速くなって主要な駅にしか停まらなくなってしまったので各地の弁当屋も大変だ。 そういえば50年ほど昔はホームでお茶を買うと瀬戸物の器に入っていた。お猪口のような帽子を被っていて それに注いで飲んだ記憶がある。その後プラスチックの器になったが何かビニールっぽい匂いがして味は悪かった。 最近のペットボトルは匂いもなく便利になったものである。近頃の人はよくペットボトルを持ち歩いているが 昔の人たちはそれほど水分を摂っていなかったと思う。現代人はストレス過剰で唾液が出にくくなっているのか。 車窓から刈り取られた田んぼ、工場、茶畑、住宅などを眺めながら東京駅に到着した。濃い一週間であった。

九州・宮崎への旅 (2007.11.1)

 <10月20日> 九州旅行の初日。午前8時50分発の「のぞみ」で一路九州に向かう。妻は昼食用に駅弁を買い込んで乗りこんだが 早くも30分後にはふたを開いていた。おかずの「つぶ貝」の中身が途中でちょん切れ状態になり残念がる。本州の 山々がだんだん低くなり、ついに丘のようになった頃九州に入る。妻の友人と再会。博多の町を案内してもらい、夕 食は木の香りのする日本料理店でご馳走になる。報道関係で海外経験も長く話題も豊富で楽しいひと時が過ごせた。  <21日> レンタカーを借り一路南下。今回は途中からの合流で大人数になるので7人乗りミニバンにした。人吉より九州山地 に入る。普段インターネットでお付き合いのある中武ファームの方々や後半に宿泊予定の「民宿いっせい」の人と会 う。大自然のふところで生活している親切で素朴な人々に出会った。  <22日> 今回初めて使うカーナビを百済の里、高千穂に設定して出発。。山道には鹿の食害を防ぐためのネットが目立つ。峠 から展望する景色は山間に切り開かれた里だ。刈り入れが終わった黄色味があたたかい。帰りの山越えで気がつくと 現在地を表すマークがルートから外れていた。元のルートに戻ろうと引き返すが方向感覚が分からなくなり「迷い込 んでしまった」というという言葉が頭に浮かぶ。  鹿が車の前を横切り、ヘッドライトを消してみると漆黒の闇。それでも来たルートだと信じ込んでいた私は先に進む。 野うさぎが慌てて道路を横切る。がけ崩れで「道路全面交通止め」の看板が表れるが来たルートと信じきっているので 昼間のうちに工事をしたのだろうか、でも看板がちょっと脇にあるので片付け忘れに違いないなどと思いながら更に先 に進む。いよいよ道はラフになりブルトーザが道の脇に幾つか現れ、鹿が崖から蹴落としたと思われる石が道路にころ がっていてもカーナビのルートを信じ込んでいるので先に先に進む。決定的な光景が目の前に現れる。大型ブルトーザ が横になり完全に道路をふさいでいたのだ。ガーンとした。次に考えたのはこの狭い山道で方向転換できるのだろうか だ。バックのまま1時間も戻るのは不可能に近い。何回も切り返しやっと方向転換。対向車に小一時間全く会わなかった のも後で考えると不自然であったが九州の山の中なのであり得るかもと思っていたのである。ここで同乗者の意見で人家 のあった大通りまで1時間かかっても戻ろうということになった。行きに立ち寄った「百済の里」をカーナビの目的地に 設定しようとするが「焼肉屋」など見当違いの名前しか現れない。「圏外」とあきらめていた携帯電話だが入れてみると かろうじて通話できそうだ。携帯のバッテリーは切れる寸前で赤くなっている。急いで104にかけて電話番号を入手、 設定して何とか脱出。夜中に家に到着した。この間遭遇したのは鹿4匹、野うさぎ1匹、てん1匹、野ねずみ1匹であ った。  <23日> 朝捕りの鹿の肉をもらった。昨日、鹿を見たばかりだ。半分は冷凍に、半分は刺身状にして酢で洗い食した。万が一悪 い虫が居ても殺菌のためだそうだ。山里の昔の暮らしの話を聞くのは興味がある。昔はお茶の実から油を絞っていたそ うだ。栽培しているお茶は肥料もたっぷりで実は出来ないが山肌に生息している野生のお茶は子孫保存の法則のためか 花が咲きピンポン玉くらいの褐色の実が出来るのだそうだ。その実を集めて絞って出てきた香ばしい油を一升瓶につめ て何本も棚に並べるのだそうだ。塩は「かます」で買い付けて、立てておくと塩が空気中の湿気を吸い、したたり落ち た水は天然の「にがり」となる。これで自家製の豆腐を作り、しっかりと水分を抜いて固めの豆腐がでできあがる。 「あずきの香煎」の話になった。煎ったあずきを石臼で挽いて粉にし熱湯で練って食べると旨いとのこと。試してみよ うとのことになった。  古いお面を収集したり、木の皮から繊維を取り出し織物を手づくりしている「森の空想ミュージアム」を訪問。    <24日> 遅れて到着の母と娘を宮崎空港でピックアップ。夜は親戚一同で懐石料理屋で会食。家に戻り、皆でわいわいやりながら 「あずきの香煎」を作ってみた。石臼が無いのでコーヒーミルで粗挽き、すり鉢ですったがなかなか細かくならない。で も何とか粉になったので砂糖を少し入れ熱湯で練ってたべてみた。素朴な旨さであった。  <25日> 雨模様。親戚の家に立ち寄りお茶をする。今夜の宿、シーガイアのシェラトンホテルに到着。高層階を希望すると追加料 金で最上階の部屋が空いているとのこと。3部屋とる。景色抜群。夕食は静かな日本料理で連日の懐石料理となった。 便利な世の中になったもので本日10月25日にホテルからインターネットに接続して本日までの「日記」をアップし ている。  <26日> あつ子@カナダさんとショッピングセンターで待ち合わせて西都原へ。小さな子供達が遠足のようで大勢いたが 空の開けた西都原の中では小さな景色の一部となっている。コスモスの花がいっぱい咲いている。ピンク、赤、 白のバランスが良い。コスモスの向こうには九州山地の山々が連なっている。弁当を広げる場所を探していると 催し物用のテントがいくつか設置されていてその下には折りたたみ式のテーブルとパイプ椅子が積み重ねられて いる。係りの人が気になったが早速組み立てて弁当を広げた。 コスモスを背景に写真を撮っていると脇からカメラを構えているオジサンがいる。ご飯を食べていると先ほど撮 った写真をくれた。小型のプリンターを肩から下げている。今度は30mほど離れたオバサン3人組の写真を撮っ てやはり印刷しているようだ。 資料館へ。平日とあって貸し切り状態。ビデオで旧東米良村のコバ焼き(焼畑)の様子を見る。予め木の枝を切 り落とし乾燥させ火をつける。想像していたより大変な作業だ。銀鏡神楽のビデオも見る。数日前に訪問した「森 の空想ミュージアム」に再び訪問。その後山道を西米良村に向かう。しばらく行くと全面通行止めにあう。丁度規 制に入ったばかりで1時間の待ち時間だ。ちょっと戻り休み処で時間をつぶす。昔の農具や生活用品が壁に展示し てある。店の女主人は今でも古い農具を収集していて展示物が増えているのだそうだ。今夜の民宿に到着。近くの 温泉(「ゆた〜と」ゆったりの意)に行く。国が配った1億円を使い”村おこし”で温泉を掘り当てたのだそうだ。 余ったお金は今でも修学旅行の時などの補助金として活用しているとのこと。こんな山奥でも部屋にはLANケー ブルが設置されていてインターネットができる。田舎ほど世界に繋がるインターネットは必要だ。山の幸の料理と 酒でよい気分に。 民宿にはちょうど10名ほどの高校生たちがスポーツ合宿で泊まっていた。廊下で会うとウッス、ウッスと挨拶、 大声を出すでもなく好感度であった。  <27日> 昨晩は寝ていると鹿の鳴き声が聞えた。にぎり弁当を作ってもらって出発。菊池記念館へ。菊池の殿様は昔この地 を治めていたのである。その住まいの中には昔の写真や手紙が展示されていて妻のご両親は懐かしい顔があると言 って大騒ぎであった。「中武ファーム」の奥様がお土産に新米を持ってきてくださった。記念撮影。  銀鏡に向かう。柿ちぎり。川原で渓流の音を聞きながら弁当。昔使っていたという石臼の溝の模様を見せてもら った。下の石と上の石の間で細かくなった穀物の粉は直に外に出てしまわないように独特の模様に導かれて行った り来たりする仕組みだ。使っているうちに浅くなった溝は、昔は業者が回ってきてノミのようなもので目立てをし たとのことである。  町に出て喫茶「ダイアナ」でお茶をする。店構えからして昔は蕎麦屋だったとすぐに分かる建物である。妻の母 はドアの前に立ち振り返り「開いとらんばい。休みのごとあるが・・・」と残念そうな顔をしている。自動ドアで はなかったのだった。テーブルの上には蕎麦屋独特の割箸入れが残っている。あつ子@カナダさんの親戚達がたま たま野草展をやっていて会うことができた。その後、絵本の里へ。家に戻り鹿肉の刺身で一杯。  <28日> 帰る日。車を門から出すときハンドルを早く切り過ぎて左側に擦り傷が。結局博多で返却のときに2万円とられた。 新幹線で一路帰宅。走行1400キロ。

長野・農園・美術館の旅 (2006.9.14)

 2泊3日の長野方面への家族旅行から帰宅。初日、常磐道、外環、関越道経由、上信越道の東部湯ノ丸インター で一般道へ。ちょっと前にTVで見たエッセイスト・画家の玉村豊男氏の農園の中にあるレストランに行って見よう とのことになった。あいにくの雨であったが丘へ向かう道の両脇にはりんごの木が立ち並び、たわわに実をつけて いた。11時30分に到着。予約をしていないのでダメモトと思っていたがOKであった。玉村氏はレジに立っていて 気さくに話をすることが出来た。ランチコースをオーダー、コースの最後はハーブティーでしめた。店内は緑色を 基調としていて小奇麗に着飾った女の人たちが多かった。お皿には玉村氏の野菜画が描かれている。付け合せの 野菜の中には珍しいズッキーニの花もあった。また壁には野菜や花の精密画が飾られていた。レストランをでると雨 が上がっていた。周辺のハーブ、野菜、葡萄、花の農園でひと時を過ごす。  宿は白樺湖から山のほうへしばらく上がったところだ。ゆったりした大きな造りでボーリング、ビリヤード、プール、 スカッシュ、ピンポン、ゴルフの施設もある。部屋へ行くまでエスカレーター2本、エレベータを1本使う。部屋は畳 の新しい匂いがするし食事はレストランでフルコース。ナプキンを腕に掛けたウェイターがやってくる。会社の提携 している保養所のため1泊2食で4200円と信じられない安さだ。宿泊費が安いのでワインやシャンパンはちょっと 上等なものを選んだ。風呂場にマッサージチェアが用意されている。無料なのでやってみる。背骨の両脇の玉が ぐりぐりと上下したり左右に振動する。自分の背骨の曲がりを再認識する。ちょっと体を浮かせていないと背骨にヒビ が入りそうだ。上限を首に合わすと腰の辺りまでしか下がらない。機械は身長を認識しないのだからしょうがない。 妻は下限を尾てい骨あたりに体を合わせたら頭蓋骨まで左右に振られてしまったらしい。  翌日も雨。娘が運転するという。しばらく運転していない様子だ。いきなり雨の下りカーブの連続だ。パジェロを 制御しきれるか。車内はしばらく静まり返った。しばらくして麓の平地に到達。会話は復活した。千曲川に沿って 長野市まで足をのばし池田満寿夫美術館と北野美術館を訪問。平日の雨とあり貸切状態である。作者と自分だけ がその空間に居るようでゆっくりと絵を鑑賞することができた。帰りは少し遅くなったので菅平を経由するルート。 大型車は通行禁止でカーブする山道は結構登りが急だ。登りきったところは以外に人里風にひらけていた。道の 分岐が分からなくなり人を捜す。何やら作業をしている男の人を見つける。男の人は雨の当たらない庇の中に私を 導き入れ親切に教えてくれた。男の人はハーブのチャービルを大きな水槽で洗っていたのだ。  今日は青空がのぞく。雨できれいになった空気をぬって太陽の光が強い。りんごの木は街路樹にもなっている。 ワイナリーを訪問。車を走らせてフロントガラスを見ると外側にナメクジがへばり付いていた。ヌメヌメを残しながら 少しずつ移動しているが風が当たるのでだんだん体が乾燥してくるのがわかる。次のストップで道端の草むらに移 してやった。ヌメヌメはワッシャー液でもとれない。ガソリンスタンドのお兄さんが拭いてもすぐにはとれなかった。 結構しつこいのである。懐古園の近くの蕎麦屋で蕎麦を食べて一路帰宅。走行800キロであった。

白馬・箱根の旅 (2005.9.19)

 朝7時に出発。関越道から草津、白根山、長野、鬼無里村経由で白馬へ。豪雨のあとで山道の路肩が流され ているところもあった。人里から忘れ去られたような集落に稲が栽培され刈り取った稲が干してあった。猿も現れ 野生とあって無駄の無いプリプリの尻を見せてくれた。山里に咲くコスモスはきれいだ。そこに自転車に乗った 郵便配達の人が差し掛かると絵のようである。途中りんごの販売所があり親戚に送る。大分遅くなって白馬の宿 に到着。ワインで夕食。  近くのシャガール美術館へ。周りの厳しい冬を切り抜けてきた栄養過多ではない林が美しい。安曇野のとんぼ玉 美術館へ。昔のとんぼ玉。江戸切子等あり。人は昔から美しいものを側に置いておきたいものらしい。一路箱根へ。 大月から御殿場渋滞。東名の入り口待ちかと思っていたらアウトレットの車列であった。スイスイで喜んでいたら箱根 の中で混む。6時頃に旅館に到着。籐で出来た移動手すり。縁側に月見台。中秋の名月もばっちり。食事は部屋で。 露天風呂からも満月が見れた。  朝風呂へ。仙石原のススキはまだ少し若かった。ポーラ美術館へ。ヤマボウシの実がいっぱい。守衛さんが美味 しいよと教えてくれたのでかじってみる。桃のような味であった。黒田清輝、岸田劉生等。喫茶店で冷たいものを飲む。 混雑が予想されるので昼過ぎには帰途につく。途中海老名を越えたころに事故渋滞にあい2時間ほどロスト。抜けた あとラジオを聞いていると渋滞がどんどん延びて30キロ以上になっていた。あとはスイスイ。レインボーブリッジ東関道 経由で帰宅。走行850キロ。

北東北へのドライブ (2004.11.13)

 1999年の8月に家族で北東北へドライブ旅行。常磐、磐越、東北の高速を走り花巻インターでおりる。 高い建物がないので空が広い。高村光太郎が住んでいた住居跡へ。家の後ろは小高い崖になっていて 大きな木が家に覆い被さる。詩集の中で「木の実が落ちてきて屋根を鳴らす」といった場面があるが その様な情景を彷彿とさせる。近くに記念館があり縁のある品々が展示されている。光太郎は手足が大きいと いうことは本の中でたびたび紹介されていて大きな長靴の写真もあったが、まさしくその長靴が展示されていた。 宮沢賢二記念館にも立ち寄り、遠野を経て宮守へ。なつかしい宮守村、田瀬ダムにたちより、暗くなってから 山越えで宮古へ。妻の兄宅泊。奥入瀬、十和田湖へ。十和田湖は何度かきたが来るたびに湖畔に店が増え 風情がなくなってきた。30年前に結婚前の妻とこの地を訪ね、かじったリンゴの種を面白がって道の傍に植えた ことを思い出した。下北半島に向い、恐山へ。小学校の遠足では舗装されていない恐山街道を一里塚を数えながら 歩いたものだ。「冷水(ひやみず)」では冷たい涌き水で元気を取り戻しほどなく温泉特有のゆで卵の臭いが漂い はじめ、到着したものだ。それが完全舗装されていて、こんなに近かったかと思いながら到着。山の中の道を薬研 (やげん)に向う。ヒノキ風呂。宿に友人が訪ねてきてくれた。陸奥湾で今朝とれたというヒラメの刺身を山盛り持って 来てくれた。大間まで行ってみる。曇りで寒々ムードであった。売店のオバさんは長年の潮風のせいかシワが 深かった。こんな最果ての地にも若者達が夏休みを利用してバイクで来てバンガローに泊まっていた。健康的だ。 むつ市に戻り昔住んでいたあたりを訪ねてみる。時は過ぎて、当時の家族や近所の人々との人間模様の跡が 駐車場になり、隣にはホテルが建ち、透明な風が吹き抜けていた。一路南下。福島あたりからは雨。磐越道では 濃霧で1メートル先も見えない状況。牛乳ビンの中に落ち込んだような真っ白な世界であった。車をスローダウン させ真夜中に自宅到着。走行1965キロ。

宮崎へのドライブ (2004.5.17)

 5泊6日の九州の旅だ。以前に青森や秋田方面にはドライブしたが九州方面も一度はドライブしたかった。 朝5時スタート。レインボーブリッジ経由で首都高速に入るつもりであったが早くも分岐ポイントを間違える。 東名、名神、山陽と順調。途中眠気さましにコーヒーを飲んだらスッキリ、これは効くとその後も飲んではみたが 効いたのは最初だけ。助手席の妻から首を揉んでもらうのが効いた。  1日目は広島の原爆ドームの側のホテルで一泊。翌日は広島から関門橋を通り九州へ入る。この橋の上から 「本州と関門海峡と九州を同時に見る」というのが今回やってみたかったことの一つだった。満足。 この辺りの走行中は時折50キロ規制の豪雨もあったが、かえって車の密閉度が確認でき、ありがたく感じられる。  小倉では親戚を尋ね久しぶりの再会だ。我々ぐらいの歳になると関心は、一度きりしかない人生をいかに楽しんで 過すかだ。旅行をするといろいろな人々の濃縮された生活に会える。  宮崎シーガイアで一泊。現地では一番背の高いホテルなので遠くからでも捜しやすい。 ここで飛行機で到着した 親戚と合流。  翌日は晴れ。途中、西都原古墳に立寄る。広く開放的な台地だ。ポピーが咲き、タバコ畑が広がり、新しい博物館がある。 レストランの駐車場はコンクリートに適度な穴が開いていて、そこから草が顔を出している。遠くから見ると駐車場までもが 回りの自然に溶け込んでいるという仕掛だ。めずらしいタバコの花も作業中の農家の人からもらった。  西都原考古博物館は新しい。無料。日本に一つしかないという埴輪等が展示されていた。館内の説明の言葉の中では 「南九州には土偶が存在しない。気候が温暖で作物が良くできるので祈願の祭祀の必要が無かったから」が印象深い。 たまたまカナダから帰国していた友人と娘さんにも会うことができ昼食を一緒にとった。のどかな西都原の広がりに ポピーのカラフルな花が広がり、再会の舞台としてはベストであった。  山の中の民宿で一泊。鹿肉の刺身、猪肉の料理、どんぐりのでんぷんで作った料理、山菜の煮付け等を堪能した。 テーブルは500年の樹齢の杉を輪切りにしたもので、その入り組んだ年輪を眺めながら焼酎を飲む。やはり合成樹脂の テーブルでは飲みたくない。歴史とか生命とか感じながら飲むのが良い。年輪の中心部は1年の幅が広く、グングン成長して いた様子がわかるが、500年目ぐらいになると1年でもほとんど太らない。杉林を眺めて木の上の形が尖っているものは これから成長するが、丸まっている木は成長が終りかけていると教えられる。 翌朝は車でさらに奥へ。車がやっと通れる崖下の道だ。若者が町に出ていったため過疎になり、1人で農作業をして いる老人。廃屋となった椎茸乾燥小屋。人間というものが歳をとっていかないものであるならばこの環境は理想的だ。 伝統の神楽を維持するのも人が少なくなって大変らしい。  親戚2軒に立ち寄り、その後照葉樹林で有名な町「綾町」に向う。世界最大級と言われる「大吊り橋」を歩く。 小雨だったので妻がオレンジ色のヤッケを着て歩いていたら写真のアクセントになると思われたらしく、中年のおじさん カメラマンたちに写真に入るように頼まれたらしい。フードを被っていたからであろう。  和風旅館で一泊。懐石料理とヒノキ風呂で殿様気分。抹茶でお迎え、日向夏のリキュール、バレーボール大の氷の器に 盛りつけられた刺身、地ビール、鮎の塩焼きのタデ酢等。仲居さんの振るまいも良かった。このあたりでは夏にまだホタルが 見れるらしい。  翌日は宮崎空港に立ち寄り、一路北上。天気が良ければ阿蘇に立寄りたかったがあきらめる。宮崎道、九州道、 山陽道から名神高速に入り京都東インターで降りる。思ったより時間がかかり暗くなってしまった。始めての道は 標識も良く見えず大変だ。8時に琵琶湖の側の宿に到着。  翌日は彦根インターから名神高速に入る。工事中である。どうも「名神高速リフレッシュ工事」らしい。延々と一車線規制 が続き、工事車が走りまわる。作業をしている人よりも旗を持った人や見張り番が多く思える。いままで渋滞が無かったが そのツケが一気に出てしまったようだ。名古屋までとろとろ走りでおよそ3時間のロスタイムであった。 東名に入って 車は従来の速度で走り始めたが、前を走る車の後ろ姿にはその「うれしさ」がにじみ出ていた。  親戚や友人達と親交を深め、人の生活を考え、地元の人々の人情に触れることができた感動の旅であった。 千葉から宮崎そして千葉へ戻る全走行距離は3,400キロであった。

北緯40度、秋田の旅 (2003.9.19)

 休みがとれたので秋田方面へドライブすることにする。使わないとは思うがシュラフ(寝袋)も 積みこむ。15日の朝6時出発。午後1時半秋田着。 7時間半のドライブだ。親戚宅に1泊。 住人は自然食に凝っていて無農薬玄米を炊いてくれた。翌日の宿を電話で予約する。 平日なので乳頭温泉は空いていると思っていたが、たまたまキャンセルがありラッキーであった。  16日は天気快晴。北緯40度の乾燥した空気。秋田の男鹿半島一周。漁村があり海藻を 干したりしている。磯が多いので海藻も良く採れるのだろう。やがて道が曲がりくねりながら高くなり 海を見下ろすようになる。平日は人も車もまばらだ。トンボも人恋しいのか(弱っている?)しがみ ついて離れない。間もなく入道崎だ。北緯40度のモニュメントが立ち、トンビの群が空でピーヒョロロー と鳴く。岩ノリの乾燥したものを白い頬っかぶりのおばさんから購入。香りが良く安い。海岸から直角に 5分も走ると農村風景だ。区画整理という言葉とは無縁のように小さな不定形な田んぼたちが狭い 空間に段々になって繋がっている。角館も平日のため人もまばら。ゆったりとした時間が流れていた。  乳頭温泉に向う。山道を登っていくとやがて舗装も無くなる。硫黄泉の匂いがしてくる。行き止まりに ある秘湯「鶴の湯」に1泊。自家発電、テレビなし、囲炉裏あり。トイレは部屋にあり水洗のウォッシュレット であったが地下には溜めこんでいるに違いない。我々の部屋は電球であったが、ランプだけの部屋もあるらしい。 露天風呂にもランプが置いてある。夕食は部屋の囲炉裏端で岩魚の焼き物、岩魚の刺身、山菜料理、 山芋の団子鍋が名物らしい。翌日の宿を栃木の湯西川温泉に予約する。  17日は出立前に朝風呂に入る。混浴の露天風呂に入っていると女湯との仕切戸を開けて女が入ってきた。 56才ぐらいか。若い女が入ってくるはずが無い。胸にはバスタオルを巻き頭にはビニールキャップを被っている。 首だけ出しながら中心部ににじり寄ってくる。風呂の縁を見るとバスタオルが置いてあるが、硫黄泉のため 首から下は見えない。ビニールキャップは興醒めだ。女は湯船の中ほどにある岩にもたれかかって背中を 露出している。男たちはそそくさと上がり始めた。私も上がったのでその後”乳頭”温泉になったかどうかは さだかではない。以前、群馬の露天風呂に入っていたら比較的若い32才ぐらいの女が入ってきたことがあり、 湯船の中でカドの丸い名刺を渡されたことがある。地元の飲み屋の客引きであった。  午前10時、田沢湖を周ってから一路南下。栃木の湯西川温泉に午後6時着。 途中は崖と渓流に挟まれた山道を進む。山奥であるが設備の整った宿が出現する。露天風呂があり、 すぐ側に渓流が流れる。対岸の広葉樹の木々がおおいかぶさってくる。夕食は囲炉裏の個室でお狩場焼き。 ヘラに味噌が塗ってあったり、味噌へのこだわりが特徴のようだ。聞けば昔は味噌工場だったそうだ。 こういう宿は渓流の音が絶えず聞えているのがうれしい。  18日の朝、宿の人に美術館を尋ねると足利あたりにいっぱいありますよ!というので行って見ることにした。 美術館はバロック絵画を展示していた。入館者も少ないので各展示室に座っている学芸員さん達も退屈そうに見えた。 そのあと、日本最古の学校といわれる足利学校を見学。一路帰宅。走行1,730キロ。

中国、北京の旅、完 (1999.5)

ホテルの近くにある地下鉄の駅まで歩く。道では交通案内がいないのに自転車の列と車の列が器用に 交差して行く。天安門駅で降りて地上に出る。天安門広場は工事中、その奥に故宮が見える。 ラストエンペラーの映画の舞台なので期待が高まる。そういう季節なのか風で砂埃が舞っている。 道路は人の塊が赤信号もお構いなく横断する。「皆で渡れば怖くない」だ。車も急ブレーキをかけるが 人々は何事もないように進んで行く。故宮の切符買いは娘に任せる。待っていると器用な日本語で 近付いてきて内部のガイドをしたいという若者がいたが、自分たちのペースで歩きたいので断る。 道の脇でグリーンの制服を着た警察官たちがレンガを頭にのせて、背骨を伸ばして行進する訓練をして いた。入口と反対側の出口に抜ける。出口の周辺には客待ちの「輪タク」がいっぱい。故宮の外壁に 添って歩いてみる。人々の生活が伝わってくる。道路脇の店のガラスには赤と白のペンキで文字が 描かれている。道端にはリヤカーが日用品をいっぱいに積んで販売している。この辺りの家々は昔 紫禁城に仕えていた人達がいたとのこと。四合院(スーゴーイン)といい4棟の建物で四角に囲まれ 中庭がある。入口が狭く中庭が直接見えないようになっている。外界と隔てられた中庭は家族の憩いの 場所であったのであろう。城壁で囲み、門で囲み、昔から異民族に侵略されてきた苦労が見える。 地元の人しか入らないような食堂に入ってみる。漢字も読めないものが多く、オーダーには苦労した。 客が帰ると食器を片付けて新しい薄いビニールを3枚重ねてテーブルセッテイングしていた。 さらにプラプラ歩いていると疲れたような顔をしていたのか輪タクのおじさん達が声を掛けてくる。 大きな交差点でグリーンの服の警察官が輪タクのおじさんに立ち退くように指示していたが、おじさん は生活があるんだよとばかりに結構逆らっていた。私は警察官は権力があり、逆らうような民衆はいない と思っていたので興味深かった。 友誼商店という土産物のデパートで買い物。何でも揃っている。欲しい物が見つかると店の中の現金支払 カウンターに行きチケットを貰う。売り場でチケットと交換に土産物を貰う。店員はお役所的だ。 壁に掛かっている展示物が気に入って包装を頼むと、客はそっちのけで先ず似ている在庫品を捜してき て壁に掛け通常の状態を維持するのが最優先のようだ。 日本のアメ横のような通りの秀水市場を通る。衣類や靴等ぶら下がっていたが怖そうなので足早に抜ける。 裏通りは閑静な大使館らしきものが多い。道には20メートルおきに民族衣装を着た物売りが立っていて 客に声を掛けている。焼きいものリヤカーがいたので一つ求める。ひとつ1元(15円)、中は黄色くて 美味しい。向こうは一人1個買ってくれると思ってもっと買ってくれと叫んでいたが、1個を家族で 分け合った。間口1間ほどの薄暗い店に頭にかぶるお釜のような装置が置いてある。パーマ屋さんで あろう。やはりガラス戸に赤や白の字が描いてある。 歴史があり、いろいろなものが混ぜんとしている中国。人々は経済的には貧しそうだが活気があり 実質的だ。この面白そうな中国にはまた行ってみたい。

中国、北京の旅その2 (1999.5)

早朝、ホテルの近くの裏通りを散策する。大通りは近代的なビルが建っているが、ちょっと裏通りに 入ると胡同(フートン)と呼ばれる何百年も昔からの土で出来た建物の長屋街?がある。ここに足は 踏み入れないほうが良いと思う。帰ってこれなくなるような雰囲気だ。朝とあって道端には油をたぎらせ た揚げパン売り、道端の食堂では多分お粥などを食べているのだろう。自転車修理の人が道端の自転車の そばに道具をひろげている。40年ぐらい前に見たような懐かしい風景だ。 バスで万里の長城に向かう。我家の他にもう一家族とガイドと運転手の貸切状態だ。運転席には相変わ らずお茶のガラス瓶が見える。市街地を離れると景色は赤土の色が基調となる。木々の芽吹きもこれか らのようだ。崖の上に崩れかかった長城らしきものが幾つか見えた。かなり古いもののようだが、これ らを通り過ぎ、しばらくして大きな建造物の万里の長城に着く。駐車場の周りには土産物やがいっぱい。 道路から一段下がった店の中から帽子!帽子!と叫んでいる。”団子三兄弟”が無くて良かった。ここ まできてまであれは見たくない。長城の上の方へ歩いて行って北の方を見た。芽吹き前の木々が遠くま で広がっていた。長城の上でも物売りが多く、頼みもしないのに白いレースを肩に押し付け結構しつこ い。降りて来たところにある「緑の屋根の店」で30分休憩ということなので入る。あまり客のいない 店なのに店員が多く、しつこくつきまとう。もう一家族は根負けして買っていたので我家は難をのがれ た。明の十三陵に向かう。昔の王様の墓でピラミッドや古墳のようなものだ。地下に降りてゆき墓室を 見学する。扉には縦横9行9列の丸い飾り鋲が打ってあるが9という数字は縁起の良い数で王のみが この数の鋲を使えるとの事である。妃が先に亡くなるとまずお墓を造り、その後亡くなった王も一緒に 埋葬されるので一緒に居れるとの事である。逆に王が先に亡くなると、妃が亡くなったときに王の墓 を掘り返すのは良くないので別々に埋葬されるとの事である。 翌日は北京市内の地下鉄に乗ってみることにした。

中国、北京の旅その1 (1999.4)

1999年5月、一家4人で北京の旅だ。機内の表示が地図を映しだし4時間後北京空港到着。ホテル に向かう道路は広く、柳の白い綿毛が飛び交っていた。周辺の乾いた赤土の砂埃に飛ぶやさしい綿毛は 異国の地に来たという思いを盛り上げた。バスの運転手の足元にはネスカフェのガラス瓶にお茶が 入っていて底には開ききった茶の葉が沈んでいた。聞けば、ここ中国は生水は飲めないし買えば高いの で、皆このような空き瓶に入れたお茶を持ち歩き何度もお湯を足して飲むと言う。 市内の長富宮飯店(ホテルニューオータニ)に到着。ホテルの部屋から見える市内は砂埃にかすみ 点々と城壁の塔が見え、歴史の凝縮された時間を感じた。道路を埋め尽くすほどの赤いタクシーが 行き交い、交差点では自転車の流れと器用に交差する。夕食は外のレストランに入って見た。赤い 中国服を着た小姐(シャオジェ)に案内されて席に着く。メニュは全て中国語。漢字は読めるから不自由 しないと思っていたが字の形も違う。大学3年の娘の中国語が役に立ち、食べたいものが食べれて、 会話することも出来た。腐乳(豆腐を醗酵させた調味料)の料理、肉、野菜、魚、ビール等で満腹して 全部で80元(1,200円)安い。ちなみに翌夕のホテル内の高級(?)レストランは全部で10,000円であった。 ここでは北京ダックも丸ごと目の前で切り分けられる。ダックの脳みそも初めて食べた。レバーのような 感触であった。私たちを日本人とみると胡弓の楽団は日本の音楽を奏でてくれた。 明日は万里の長城だ。

芋煮会の旅 (2001.10)

2001年10月、いとこが集まり芋煮会をやろうということになり山形まで出かける。朝5時に車で 出発。東北道沿いの低い山々がうねり平地には刈り残された稲が朝陽で異様なほど黄色い。いよいよ 山形で高速道路の出口。料金を払おうと手を伸ばしたが、いつもの場所にバッグが無い! 免許証、 クレジットカード、現金をいれてある外出時には手放さない大事なバッグだ。10分前にトイレタイム をした時か?もう出てこないかも。20秒間ほど時間が止まった後、座席の下を覗き込もうと前かがみ になったら背中でドサッと音がした。そうかっ、腰が楽なので、さっき背中にはさんだんだ! ドキっとした余韻がしばらく続いた。 地元の親戚がセッティングしてくれた芋煮会が始まる。朝6時に起きて場所とりをしてくれたとのこと でベストポジションだ。大きなテントも張られ、かまどからは、なつかしい薪の燃える臭いが。 手作りの料理を食べながらビールで乾杯。日本酒もすすむ。川原には若者のグループが何組も やはり芋煮をしながら集っている。芋煮のシーズンの初め頃は九州産の里芋だが、今の時期は地元の 里芋とのこと。翌日のホテルの朝食にも芋煮がでた。 ルネッサンス風レンガ造りの文翔館、霞城の東大手門に立ち寄る。蔵王の山の扇状地の末端に城を 造ったため、お堀の水は豊富とのこと。 山寺は急峻な岩肌にしがみ付くようにある天台宗の古刹だ。1000段以上の石段を登る。途中に 松尾芭蕉ゆかりのセミ塚がある。「閑さや岩にしみ入蝉の声」の俳句を読んだ場所だ。 昼食は和風レストランでムキソバ粥を食べる。皆はとろろご飯。さっと干した鮎の開きも美味であった。 山菜料理自慢の宿に泊まる。何種類もの山菜料理、植物のエキスを抽出した酒が並ぶ。刺身や肉が 出ないのが嬉しい。ここでも芋煮の鍋が出る。この季節はどこにいっても芋煮一色だ。日本酒を 飲みながら夜中まで話しがはずむ。翌日、車で一山越えて羽黒山へ。途中高い所は紅葉が始まっていて 黄色、赤色の葉だ。気温は10℃になっている。夜の気温が10℃以下になると紅葉が始まるとのこと である。途中たまたまバンジージャンプをやっているところを通りかかり、初めて生のジャンプを見た。 羽黒山神社は賽銭箱が3つ並んでいて、ここでお参りすれば出羽三山をお参りしたことに なるという。真中の賽銭箱に小銭を投げ込みお参りしたところで風が強くなり神社の人が戸を閉めて しまった。ご利益が無くなると慌てた私は戸の隙間から小銭を賽銭箱まで指で弾き入れた。一応 3つの賽銭箱に小銭を入れ、ご利益期待といったところである。国宝の五重塔は杉林の中に静かに 佇んでいた。1000年以上の歴史で東北では最古の塔とされている。人影もちらほら。国宝級の建物 の前に人が居ないというのは貴重な体験だ。帰りは雨の中、8時間かけて自宅へ。走行1057キロ。

富士のある休日 (2001.8)

2001年8月、富士が見たくて河口湖畔に宿をとる。部屋は洋室と和室の それぞれがとても広い特別和室で、ゆったりとした気分になれた。夕食は懐石料理。お品書きは、あまりに メニューの数が多すぎるので食べきれるかと心配したが、一品あたり、3行ぐらいの説明とわかり 一安心(ちょっと悔しい)。ここで一句。「お品書き 目印ずらし 次を待つ」。 朝、ホテルの部屋より富士を見る。黒く雄雄しく 見上げるように富士は立っていたが稜線は滑らかで女性的であった。5−6分もすると光の影響で だんだんしろみがかってきた。富士はやっぱり日本一だなあと思った。南岸にある「中原淳一美術館」 に行く。1913年生まれの氏が1950年代の少女や母親たちに挿絵やデザイン画をとおして 熱心に”らしさ”を説いている人生哲学に共鳴した。北岸に回り「久保田一竹美術館」へ行く。一竹は 幻の辻が花染めを独学で再現した人で現80才。富士をテーマにした四季折々のしぼり染めの着物が 展示してある。一竹コレクションの蜻蛉玉(Glass Beads)ギャラリーもあり。未開発の国の 首飾りほど斬新なデザインの感じがした。記念にネックレスを買った。 人は草木の緑や水の傍らにいるとリラックスできるというのは普遍的な真理のようだ。人々が 平和にくつろいでいる姿を見ると私はさらにハッピーになれる。富士周辺にはこれらがある。

万座温泉ドライブ記 (2001.5)

2001年5月、白骨温泉に行ったばかりなのに温泉が恋しくなる。 ガイドブックによると万座温泉は標高1800メートルにあるひなびた硫黄温泉と知り行くことにした。 途中、竹久夢二館に立ち寄る。その作品は当時としてはデザインが斬新。多岐にわたる作品の種類に 意欲的な創作活動を感じる。建物はアンティークで日本庭園の林の中にみごとに調和している。 別館のオルゴール館にはシリンダ式、ディスク式、背の丈以上のサイズのオルゴール、自動選曲できる デュークボックス型もある。短い金属のリードからこんなにもまろやかな音が響くのかと感心した。 アンティークな喫茶店の雰囲気に誘われて、つい一杯600円のコーヒーを飲みオルゴールのCDを 買った。喫茶店の出窓から見える新緑は小雨に濡れ時折もれてくる陽の光に輝いていた。   車はぐんぐん高度をあげ霧雨の向こうに残雪が見えてきた。雪の重さで熊笹が押しつぶされている。 一旦2000メートルの峠を過ぎるといきなり硫黄のにおいが。温泉宿まで200メートルほど降りる。 湯は期待以上のものがあった。木造の湯屋。床も木。1日に何回か掃除のおじさんが浴槽にこびり ついた硫黄(湯の花)をこそげおとしに来る。客は中高年が多かったが従業員は若い。若者が一生懸命 まじめに働いている姿は美しいしうれしい。食事は山の自然食である。刺身が出ないのがいい。   山の中を走っているとロマンチック街道と名前のついた道があちこちにある。何がロマンチックなのか わからないがゆったりと時間の流れる里山風景の中に人々の生活ぶりが見えるのがうれしい。 青年団が建てたのか村おこしの看板、のんびり見える郵便配達員、畑仕事の人、畑の野菜の成長ぶりを 見るのも楽しい。山菜売りの店があればそこに立ち寄り値段の違いをおもしろがったりする。 フキ、まいたけ、うどを買い上げ。   徳富蘆花の記念館に立ち寄る。企画展「外国人が見た明治初期の日本」を見る。当時の写真や イラストの中にはまだ素朴で愛すべき人々がいた。当時の外国人のコメントによると「日本人ほど親が 子供たちを大切にし、また子供たちが親を尊敬している国民はいない」とのことである。

信濃飛騨ドライブ記 (2001.5)

2001年5月、信濃方面に向かう。南アルプスが現れ、八ヶ岳が続き、 北アルプスが見えてくる。山々にはまだ雪が残っているが里は春真っ只中である。上高地を右に見て 白骨温泉に向かう。すれ違いの出来ない細い道、いわ壁から清水が流れ落ちている。温泉は白濁した 硫黄温泉である。ゆで玉子のにおいに包まれ、地の底からわきでる湯に身をひたし大地との一体感を 感じる。このお湯を使って粥を炊くとおいしいらしい。乗鞍岳越えは交通規制のため安房トンネル 経由で高山へ。山々の木々は新緑真っ盛りである。高山の古い街並みをブラブラしてから福井の 永平寺へ向かう。運良く夕方に修行僧達の声明と鐘の音を聞くことが出来た。白馬は平日のためか 人も少なく静かな林のなかに鳥の声、啄木鳥が木を突つく音が響く。シャガール美術館へ。鬼無里の 山里を通り長野市へ。国道ではあるが30キロの速度でゆっくり走っても30分間で追い越す車は 一台も無し。道の脇で山菜等を売っていたので格安で購入。善光寺の店でそば饅頭をふかしていた ので2個求めると12個の箱入りしか売らないと言う。食べたそうにしていたら暖かいものを2個 もらった。東山魁夷美術館へ。買い求めた山菜は行者にんにく、山うど、たらの芽等。 行者にんにくは細切れにして醤油付け、山うどは酢みそあえ、たらの芽は天ぷらにして食す。

カナダ釣り日記  (1995.4)

トロントから北へ3−4時間ドライブすると湖が点在する地帯になる。 針葉樹の林が水面近くまで降りてきていてコテージが点在している。 取引先の社長にさそわれて彼のコテージまでやってきた。数日間宿泊。 彼の兄弟達も休暇で来ていたが女っ気はなし。伸び伸び遊ぶには女っ気はないほうが いいのだそうだ。案の定、リビングには長靴が脱ぎっぱなし。 日曜大工でコテージに窓を作るのが趣味の人もいる。 先ずは餌となる小魚ミノー採りだ。湖の浅瀬にパン屑を入れた仕掛けを置く。 なかなかつかまらない。結局、いけすで生餌を買い求める。 自家用の桟橋からモーターボートで湖の真中へ。エンジンを停めるとカナダの大自然の 真っ只中だ。ルアー、生餌など試すが、まだ水温が冷たいみたいでトラウトは なかなか釣れない。パーチは釣れる。味は良いらしい。 隣りの湖に行ってみようということになり湖尻にボートをつける。 まだ若干雪が残っている白樺の林を5分ほどボートをヒモで引っ張ると もう隣りの湖だ。ルーン(loon)というカモより大きい水鳥が遠くで泳いでいる。 鳴き声を真似ると鳴き返してくる。物悲しげな声だ。カナダの湖には良く合う。 朝はキツツキがコテージのテレビアンテナの金属をカンカンカンとつつく音で目が覚める。 クチバシが傷まないのか。外につくられている便所の木の戸をキツツキが叩くこと があり、ノックを返すこともあるのだそうだ。頭の赤い大きなキツツキが木を叩いている 所を至近距離で見ることができる。 レイクトラウトとスペックルトラウトを釣り上げる。それぞれ白身とサーモンピンクで違う肉質だ。 急遽ボートに取り付けた魚群探知機も面白い。 コテージの近くの白樺林に入り一本の白樺に固い石で家族の名前を書いてみる。 1週間も経てば消えてしまうだろう。 日暮れてくる。ルーンの悲しげな声が湖にこだまする。 空き地でカウボーイの恰好をした男どもが焚き火をする。 ビール瓶を片手に乾燥した白樺の皮をくべる。炎が大きく巻きあがる。 帰る日にはコテージの窓の数が2つほど増えていた。

ブルガリアの思いで (1978.4)

1978年4月から5月にかけて仕事でブルガリアに2ヶ月ほど滞在した。成田空港ができた頃で、 行きは羽田から飛び立ち帰りは成田に降りた。ソ連のアエロフロート機に乗ったのは初めてであった。 ブルガリアへの直行便は無いため、まずモスクワに向かった。窓からはシベリアの山々が白い雪に おおわれて幻想的な光景であった。モスクワ空港はグリーンの軍服を着た人達がいて違う世界に来た 雰囲気が漂う。仮宿泊のホテルに向かうバスの窓からはモスクワの市街の雪景色が街灯のオレンジ色の 照明で染まっていた。ホテルの窓から外を見ると外出できないように見張りがいた。翌日ソフィアに 向かう。お土産にと100円ライターとパンストを結構な数持っていったため税関で商売に使うのだろ うと税金をかけられた。滞在中はソフィアと、となり村のボテフグラードを行き来した。バスは古い ためか途中の山道でよくエンストになり運転手が運転席の隣にあるエンジンにヒモを巻いてエンジンを かけていた。雨の日でも濡れなくて良いので便利だ。ボテフグラードの田舎はちょうど春。プラムの 白い花が咲く。プラムは地元のアラキアという強い酒の材料だ。家々でアラキアを作っている。 太いキュウリの輪切りに塩をかけてツマミとする。ちょっとあらたまった酒席ではロシアのウォッカと チェイサーとしてトマトジュースの缶が並ぶ。プラムの木の下を馬車に乗った半分兵隊、半分農民と いった人達を見かける。屯田兵といったところか。為替レートの関係で現地の最高裁判所長官並の 給料を政府から貰っていた。日本に送金もできず金があまるので毎日ソフィアの高級レストランで ワインを飲みながら民族音楽の生演奏を聞きながら過ごした。ソフィアの街は石畳の中世の雰囲気が 漂う。路面電車が走る。通常は車掌がいないので電車の壁にある切符に穴をあける機械で自分で穴を 開ける。ズルをして料金をごまかしていたら突然、途中からネッカチーフをかぶった太ったおばさんが 乗ってきて検札を始めた。言葉がわからないふりをしてごまかした。道端には体重計があり、 おのぼりさん?たちがお金を払って体重を測っていた。ビニールハウスは無いので冬の間は生野菜が 無い。瓶詰めオイル漬け野菜だ。人々は昼時には家から持参した太いビンに入れたヨーグルトを 食べている。現地のエンジニア達とのパーティーでは日本の天ぷらを作って披露した。生野菜がないため 道端のわらびをネタにした。現地の人は初めて食べたと思う。水事情は良くなく生水は飲めないので 食卓には何時でも黄色い色をした飲み物が並んでいた。ソフィア近郊のビトーシャ山の中腹に湧き出て いる水が唯一飲める湧き水であった。ジーンズが貴重で市内のドルショップでのみ売っている。ドルの 欲しい人が現地の通貨レバとドルをやみで交換しようと寄ってくる。女の人達は日本から持っていった カラフルな傘をとても欲しがった。現地は雨が降っても滅多に傘をささない。傘はあっても地味な色の ものだけである。デパートでは一世代前のような品物が並び品数も少ない。棚には中国製の トイレットペーパーが並ぶが高級品だ。一般のトイレはプリンタ用紙を切ったものが置いてある。 水に溶けないので目の前に籠が置いてあり使用後の紙はそこに入れる。誰も人の尻を拭いた紙は見たく ないし、自分の紙も見て欲しくない。便座の輪っかは大きくて(輪がとれていたのかもしれない)尻が 落ちそうだ。おまけにドアの鍵はとれていて手で押さえようとしても遠くて押さえきれない。 帰国時は金は使いきらなければいけないので革のハンドバッグ、バラの香水、木彫りをいっぱい買った。 成田に帰ったときは梅雨どきの湿気を感じたのと、物があふれている幸せを感じたのが記憶に残っている。

くんすけの南アルプス越え…亡きくんすけを偲んで (2000.8)

我輩はハムスターで780円で買ってもらった半透明な衣装ケースの中に住んでいる。名前はくんすけ。 時刻表をうどん状に切り刻んだ紙いれてもらえば住居は自分で作る。あとは「ハムスターのエサ」と ひまわりの種、キャベツだけを食べる。トイレの「すな」(紙でできている)はまめに替えてくれるので 嬉しい。ご先祖様が自然の中で土の中に住んでいたせいか、穴掘りが好きでトイレ容器に入れてもらった 「すな」はたちまち穴掘りの対象となり外にこぼれ出ててしまう。後でトイレの時に困るのは自分だが つかの間の穴掘りを楽しんでしまう。疲れた頃、ご主人様がそっと「すな」を足してくれる。 家で世話をしてくれる人がいなくなるときは外出のお供をさせられる。車に衣装ケースごとのっかる のであるが、直射日光には弱いためご主人様が衣装ケースの周りの6面に新聞紙を貼りつけてくれる。 ある夏の日、ご主人様の友人が埼玉の山里のスタジオでジャズのライブをやるというのでお供した。 私も衣装ケースの中で居眠りをしたまま、中2階の桟敷に鎮座した。めっぽう大きな音が鳴り響き 我輩の鼓膜はビリビリ響いた。クーラーがきいていなくて、けっこう暑かったので心配したご主人様は 2つのうちわを上手に操り、窓際の涼しい風を水平に送り、次に垂直に送ってくれた。演奏会が終わって 外に出た。いよいよ明日は南アルプスだ。南アルプスの林道は車もほとんど通らず、ときおり岩肌を 流れ落ちる自然の滝の音が聞こえてくる。トンネルの中はやっと車が一台通れる狭さで照明も無い。 真っ暗な向こう側にかすかに出口の明かりが見える。入り口には「先入車優先」という珍しい看板が 出ている。ご主人様は注意深く出口辺りを見て対向車のヘッドライトが見えないとみるや、いつもより アクセルを踏んでトンネルの中に向かう。こんな細いトンネルの中央部ではちあわせになりバックする というのは考えただけでゾッとする。道の状態もひどく、四駆でさえ腹をこすりそうだ。おかげで 私の体はしばしば無重力状態に。しばらく下ると舗装道路にでて一安心。胃潰瘍になりそうな1日で あった。