街頭テレビの頃






駄菓子屋 (2006.5.12)

 夏になると大通りに在の農家のおばさん達の竹カゴが並ぶ。小遣いで茹でたとうもろこしを買い 皮と髭を一気に剥く。スグリは茶碗で一杯すくってくれる。小指の爪ほどの大きさのバスケットボール のような模様の実だ。若いものは緑だが熟れてくると赤ワイン色になる。銀行の角を曲がって神社ま での通りには昔の名残りと思うが「ヤミイチ」と呼ばれる店が並んでいる。3件目の店に駄菓子が売って いる。奥行き2mぐらいの店の中心に竹ザルにのったふかし芋が湯気を立てていてその傍らにおばあ さんが座って居る。腹が減っているときにはこのふかし芋が気になるのだ。軍旗将棋や鉄ゴマが並ぶ。 毒々しい色のニッキ味の紙が並ぶ。この紙をクチャクチャしたものだ。ヨーヨーと呼んでいたが腰の くびれたゴムの中にこれまた毒々しい色の甘い液体が入っている。親からは衛生面で不潔だとこの ヨーヨーは買わないように言われていた。他のお菓子も同じように不潔感はあるのだがどういうわけ か乾燥したものは不潔感が薄れていた。50銭のキャラメルもあったが当時既に最低の小銭が1円 だったので1個を買うことはできなかった。日光写真は男の子、女の子は腕に絵を転写するシール で遊んでいた。シールを裏返して腕に張り唾液でこすっていると絵が転写されるのである。店の端の 壁には甘納豆の小袋がぶら下がっていて引きちぎって開けると2等とかはずれとか入っている。1等 はブラスチックのヘリコプターのおもちゃだ。糸を引くと丸いプロペラが飛び上がる。舐めるくじ、カルメ 焼きに紐がついていて大きいカルメを狙うなど「くじ」が大流行であった。鏡里や若乃花が描かれた パッチが並んでいた。ストローの先にセメダインのようなものを付けて吹くと壊れにくい風船ができた。 男の子たちはやはり鉄砲だ。水鉄砲もあったが火薬の匂いを嗅ぎたいのだ。低学年はトグロを巻いた 火薬のテープをセットしてパチパチやる鉄砲。高学年はミシン目で切り離した5mm角ほどの一発もの を挟んで引き金を引くのだ。音が大きいので低学年の子供を威圧した。

川から海へ (2004.12.12)

 小学生の頃は学校が終ると、広場で紙芝居を見るか、かくれんぼをするか、駄菓子屋の前で ブラブラするか、ちょっと遠出気分でたんぼに魚すくいに行ったりした。たんぼの幅50センチ程の 水路には草がいっぱい生えていてそこでタモをゴシゴシすると2センチほどの体長の「トギョッコ」 がとれた。トゲウオのことで草を丸めて鳥の巣のような家を作る。腹にはトゲがある。ビンに入れて 持ち帰ると腹の色は少し金色っぽかった。やはり大きさを自慢しあった。  秋になると裏にある大きな川に鮭がのぼってきた。とても鮭がのぼるような自然たっぷりの川では ないが背中が半分はみ出しながら泳いでいた。また「チカ」と呼んでいたワカサギに似た小魚が 群れをなしてのぼってきた。このときは近所の人達がこぞって、竹ざおの先に針金で輪を作り、その輪 に頭にかぶるネットを張り、水にネットを沈めて待った。チカがネットの上を通過したら持ち上げるだけ。 簡単に採れた。天ぷらにすると旨かった。川エビ売りもよく来た。竹籠を背負い、中には透明な川エビ がピチピチ跳ねていた。お茶碗一杯で何円かだった。夜にはカーバイト燈で照らしながら真っ暗な 所へ魚をとりに行った。家々の軒先にはカーバイトの残骸が白くなって落ちていた。  そのうちある程度小遣いをためて、リールというものを買った。よりもどし、針などをケースに収め 防波堤まで出かけた。よく重りを引っ掛け悔しい思いをした。キス、ハゼ、は堤防から良く釣れた。 砂浜の浅瀬を歩くとカレイの子供が足の下に滑りこんできた。小型の船ではえ縄の浮きを手繰って ゆくと大型のシャコ、アイナメが釣れた。磯の石には養殖の牡蠣のタネが流れてきて成長してへばり 付いている。既に食べた残りの殻の内側が白く露出している。泳いでいて殻で腹を切る友人もいた。 砂浜には「波の子」と呼んでいた小さな2枚貝がたくさん採れて味噌汁のダシにした。 水の中はいつも期待以上の面白さがあり、遊び場としては最高であった。

マラソン (2004.5.8)

 昭和60年から平成12年の間はよく走った。週末は練習で田んぼのあぜ道を走り、張りきり 過ぎて遠くまで行き過ぎ、日の暮れるのが早くて街灯もなく真っ暗なあぜ道を星を見ながら心細い 気持ちで戻った。散歩している犬は苦手だった。ご主人様が側に居て気の大きくなっている犬は 追いかけてくるのだ。遠くに行き過ぎて帰りはタクシーに乗ったこともある。短パンにランニング姿の 男がタクシーを停めるのだから運転手も戸惑ったであろう。予めウェストポーチにタクシー代を 用意している自分も情けないが。天気の良い日に自分のペースで走るのは気持ちの良いものだ。 レースは殆ど地元の学校が会場になる。仲間が集るのでシートを広げテントを張って花見気分だ。 出発前の簡易トイレは結構込む。やはり走る前には緊張感で出しておきたくなるものだ。 走り出してしまうと結構何時間ももつものである。真夏のレースでは救急車、救急バイクが行き交う。 家の前でホースでシャワーを出し続けてくれる人もいる。給水所には水を含ませたスポンジが 置いてあるので顔を拭いたり首スジを冷したりする。水やスポーツドリンクもある。私は走りながら 飲むのが苦手でむせてしまうので立ち止まって飲む。スイカが置いてある大会もある。疲れているので スイカがとても甘く感じられ大会終了後の直売品を買ってしまうのだ。風の強いレースでは私にピッタリと くっ付いて走る人達がいて、あとで風よけにされていることがわかった。ゆっくりと走っていると救急車が 私の速度で並走、運転手と目が合ったりした。時間の計測は最初の頃はバーコードと人力であったが 後半は発信機を靴ヒモで留めてフィニッシュで自動計測する方式になってきた。テントに行くとすぐに 記録証にプリントアウトしてくれるのだ。走った後は花見の時期であれば花見、海の側であれば砂浜に シートをひいて波の音を楽しむ。だんだん気力が無くなってきて練習も減ってきたが、たまたま 心臓の精密検査をしたことを「いいわけ」として一段落することとなった。 手帳の最初のページ2ページ目である。

アイスクリーム (2003.11.30)

 子供の頃、小遣いを使うのは紙芝居とアイスキャンディーだった。 自転車の荷台に木製のケースを積んでおじさんはやってくる。10円の小遣い でも5円のお釣りがきた。味は爽やか系のラムネ味、チョコレート味などがあった。 かじると氷の「スジ」が中心に向って幾何学模様をつくっていた。運動会や祭になると キャンディー屋とは別にリヤカーの「かき氷屋」が現れる。フライパン大の蓋をとると その中に腕を挿し込みヘラでシャーベットを掻きとる。コーンにそれをなすり付けるので あるがコーンのしっぽのほうまで詰ってないのが常であった。そのうちに若干の乳成分が 含まれたアイススティックが登場した。クリーム色のバナナ味。当時バナナは高級くだもの で滅多に食べることは無く、アイススティックでバナナ味を楽しんだ。取っ手が2本あって 真中から割ると2本になった。銀紙で包装されたミルク味のスティックは食べ終わると 棒に「ヒット」と焼印されていて4本たまると1本もらえたが「ホームラン」が出ることは滅多に なかった。冷蔵庫というものが家庭に無い時代であるから夏に「氷菓子」は貴重であった。 相当大きくなってからアイスクリームの徳用カップが出たときには驚いた。何でも冷凍庫に 保管しておくアメリカ型の生活に変わったことを実感した。

トランジスタ登場

 仙台がアマチュア無線免許の試験場だが、八戸でプロ無線免許の試験が あるというのでそちらで受ける。漁船に乗るつもりは全くないが プロの免許でアマチュア無線が出来るのだ。学科試験とと実技は 「朝日のア」「いろはのイ」「上野のウ」と文章を伝えるのだ。 免許をとってコールサインをもらっても関心はもっぱら機械いじり アンテナいじりで、近所からテレビにノイズが入るとの苦情がくるので 深夜に電波を出した。 このころ無線の雑誌にトランジスタを使用した送受信機が現れた。 少年の雑誌にもトランジスタ式の小型トランシーバが登場。 友人のSは早くもトランジスタを使って無線機を組んでいたが 私にとってトランジスタは中身の見えない得体の知れない物体であり 近づきがたいものであった。 しばらくして無線の雑誌に「IC」が登場した。ICは例えば1ピンと 5ピンにある信号を入力すれば2ピンと8ピンの間に出力信号が出てくるよ というもので中でどういう振る舞いをしているのかはブラックボックス なのだ。真空管時代は回路図を見て信号の振舞いが判り、応用もきいた のであるが、ICが割り込んでくると「中身は関知しなくて良し。ただ 信じなさい」というのであるから楽しいはずが無い。 無線機を自作する意欲はどんどん小さくなった。

SSBの音

 自作の受信機でアマチュア無線の通信を聞くのも楽しいものだ。 大した内容もなく挨拶の繰り返しみたいなものだが、北海道と 九州と話しをしていたりするとうらやましかった。 人気の周波数帯域では混信もすごい。雑誌で選択度が上がるという フィルターやバーニヤダイヤルという微調整のきく部品を見つけては 通信販売で買い求めた。そのうちモガモガモガモガという判別不能 な声が混ざるようになってきた。雑誌によるとどうもSSBという 新しい通信方式のようだ。普通の受信機では声を再現できないのだ。 隣り町の高校の無線クラブにSSB受信機があるというので 休みの日に行ってみる。初めて聞いたSSBの音の印象は今でも 鮮明だ。ダイヤルを回していくとモガモガがだんだん声になってくる。 ピッタシ合うと混信のないバックに鮮明な声が浮かび上がってくる。 従来の通信が上野駅の雑踏とすれば、SSBは美術館のなかの ヒソヒソ話しだ。 既製品の受信機も送信機もお金が無くて買えないが、免許だけは 欲しくなった。

あみもの

 母親が編物をするのをよく側で見ていた。 木製の平らなさおの先が機械に挿入しやすく三角に尖っており それを差し込むと、たくさんの金属の針が整然と動いた。 機械の後部に付いているボタンを押し込むとまた針が前に出る。 毛糸を通し、またさおを差し込む。この繰り返しだ。 さおを左右に伸ばすので編み機の幅の3倍のスペースが必要 なため子供が走りまわるといやがられた。 古いセーターをほどいた毛糸は、クセがついていて、 やかんの口にブリキ製の金具をかぶせ、毛糸を通せば 水蒸気の熱でクセがとれた。 機械の後部のボタンを押し込むのは私の仕事だった。 さおを差し込む毎にセーターの胸の動物の模様が だんだん形になってくるのが嬉しかった。 昭和35年頃の話である。

カーボンマイク

 友人にSがいた。Sは無線については私の4−5年は先を行っていた。 珍しい真空管は持っているし、専門誌もいっぱい持っていた。 コールサインを持ち海外と通信もしていた。 当時の私はとにかく電波というものを外に向かって出したかった。 自分の出した電波が空間を伝わってとんでもない所まで届くという のがワクワクした。Sから初めて送信用の真空管をもらった。 立派だ。中に見える電極の形まで重厚感があった。アンテナは竹の釣り竿に 電線を縛り付け6メートルぐらい垂直に上げた。 作り方が雑なので不要な電波も出て近所のテレビやラジオのノイズになった。 ノイズは簡単に直せないので夜中に近所が寝静まるころ電波を出した。 別の受信機で確認すると確かに電波は出ている。 部品が無くて自分の声を電波にのせることが出来ない。 苦し紛れにアンテナにカーボンマイクを割りこませアー、アーと言ってみた。 声が電波に乗って別の局を会話が出来た。この時は無免許であった。 夜中に薄暗い部屋でアー、アーと言うと送信管のグローが青く光った。

思い出の音

 雪のしんしんと降る深夜、寝静まった頃、チリンチリンと鈴の音。黒衣の修行僧が辻辻をまわっているのだ。 寝静まった街を静かに雪が埋めてゆき、そこに静かに修行を続けている人がいるという光景は平和だ。 夏になると夜が明ける頃、近くの漁港であがった黒光りする生きたイカを自転車の荷台の木箱に入れて売り に来る。イカー・イカーの声が近づいてきてまた遠ざかる。いっぴき5円のイカの刺身は手頃な朝の定番で あった。小学校では毎朝カッコーワルツの音楽が流れて全校生徒が整然と講堂に集まる。背丈の高い順に並び 元気良く手足を振るため木造の廊下はどんどんという音でキシムほどであった。校庭に薪きりの業者がきて 機械でどんどん薪を切る。発動機の音とキーン・キーンという音が1日中校庭に響き、教室の窓から見下ろし ていた。こわしたラジオから集めた真空管や部品を使って受信機、送信機を作った。電源を接続してスピーカー からブーンという音がでればまずは一安心。近所のラジオやテレビに混信し苦情がくるので皆が寝静まった 夜中に起きて電波を出した。中学で初めてブラスバンド部を作ることになりホルンを吹いてみて楽器の振り分け をすることになった。ただ息を送り込めば鳴るものと思いこんでいた私は一生懸命に吹いたが鳴らず金管楽器は 不適格ということになってしまった。トロンボーン希望であったがクラリネットをやることになった。ブーと 唇を振わせれば簡単に音が出ると知ったのはしばらく経ってからであった。休みの日は近くの自衛隊の音楽隊 まで楽器を習いに行った。体育祭、お祭、花見のときはかりだされ商店街を行進した。

思い出の匂い

 一番古いのは3−4才の頃である。山の中にダムを造るので建築会社の寮があり時々遊びに 行っていた。門を入るといつも田舎にはない匂いがして子供ながらに”文化”を感じていた。今思うと トイレの樟脳(しょうのう)であった。小学生の頃は焼きイモ屋である。リヤカーがやって来る。 木の燻る煙とイモのヤニが混ざった匂い。10円を握りしめて買いにゆく。細くても一本ままのイモが 欲しいのにそれが言えない。いつも大きなイモに包丁を斜めに入れたイモになってしまう。新聞紙の 袋に入れてもらう。図工の時間に紙を貼りつけるために”ヤマトのり”を使っていた。文房具屋に 置いてあるのりも1種類しかなく全生徒が同じ糊を使っていたように思う。その糊に香料が入っていて 糊の実態とのちぐはぐ感があった。祭の夜は道端にずらりと露店が並ぶ。ストローの先に接着剤の ようなものを付け吹くと膨らむのだ。大きくなるとストローとの接続部分を指でつまむと簡単に 穴が閉じるのでゴムで縛る必要も無い。この匂いは接着剤そのものでシンナーっぽく、くせになる ような匂いであった。冬が近づくと学校の校庭に薪きりの業者がきて機械でどんどん薪を切る。 生徒は手渡しで教室まで運び込む。何十もある教室に向かって生徒の列ができ蟻の隊列のようであった。 切りたての薪の匂いは良かった。今でもきのこの匂いを嗅ぐとこの光景を思い出す。 夏の夜、友達と魚を獲りにゆく。この時便利なものがカーバイト灯である。装置の 上部に水をいれツマミで調節しながら下部のカーバイト石にたらすとガスが出て灯りになる。この ガスが独特の匂いで始めて嗅ぐ鉱物性の匂いであった。翌朝は白く崩れたカーバイトの残骸が家の前に ころがっていた。半田(ハンダ)の匂いも忘れられない。家に火で熱して使うコテがあり先端をきれい にしておくために時々塩酸につける。酸っぱい化学の匂いであった。ねっちりした半田ペーストが 出てきて塩酸は必要なくなった。それから電気ハンダごてがでてきて、ヤニ入りハンダが登場。 酸っぱい匂いは松やにのやける好きな匂いに変わった。

夏休み

    夏も近くなってくると街中の人通りの多い道端には近在の農家の人達の”しょいかご”が ずらりと並ぶ。竹かごの中身はゆでた”きみ(とうもろこし)”と”すぐり”だ。子供の小づかい でも買える安さで日常のおやつであった。すぐりも熟れていない緑色、熟れた赤紫色があった。 きみも皮をむくと黒あり紫あり黄色ありでそれぞれ好みがあるのだ。小遣いでカバヤキャラメルを 買うと中にカードが入っている。4文字揃うと”少年”、”少年画報”と交換できるのだ。 紙工作の付録や別冊マンガがびっしりはさまって分厚く、ヒモで十文字にしばられた本を開く時は わくわくした。 終業式の日は”夏休み帳”や肝油をもらう。ラジオ体操のカードも配られた。夏休み帳には 食べ物の”くいあわせ”の表があり腹をこわさないように注意がある。ざっと中を見て簡単に出来そう な問題は一通り済ませてしまう。肝油は注意書にX脚、O脚、とり目のことが書いてあった。 野や山や海で毎日を過ごした。夏の終りの予感がしてくる、そのころ祭りがやってくる。山車が街を 練り歩き商店はかき氷やおでんを出し、人々が足を停める。露店が並ぶ。十徳ナイフ売りの軽妙な ガラス切りに見とれ、毒消し薬売りの台の上の”お礼の手紙”の山に感心し、樟脳ぶねの店では 水すましのように動き回る小さな樟脳ぶねを飽きずに見ていた。輪投げや射的、広場に作られた ”見世物”の看板にろくろっ首や熊女の絵があり、皆何か怪しげな雰囲気が漂っていた。 ”だっこちゃん”が店の柱やおじさんの腕にだきついていた。 ひよこを買っても育たなかった。隣の家のほったらかしのひよこが大きくなって、”とさか”まで 出てくるまで育つのが不思議であった。

鉱石ラジオ

 小学生の頃だったと思う。鉱石ラジオは自分の小遣いでも工作できるシンプルな構造だ。 コイル、バリコン、検波器とイヤホンがあれば何とか放送が聞ける。検波器は当時はゲルマニウム ダイオードで、針先で最適な場所をサグルという鉱石検波器には実際にはお目にかかった事はない。 とにかく電気も電池も一切いらないというのが気に入った。ラジオ放送を聞きながら寝てしまっても 電気代が掛からない。工夫できる部分は限られていてコイルとアンテナだ。線は太ければ太いほど 良い。また線を巻くボビンも太いほど良いとのことで、最終的にはポリバケツに拾ってきた電線を 巻いたりした。バリコンは古いラジオを壊せばいくらでも手に入った。アンテナは電灯線アンテナと いって交流100Vをコンデンサーでカットしてやる方法も試してみたがやはり家の中に電線を 張り巡らすのが工夫ができて面白かった。放送が聞こえた時は嬉しかった。この鉱石ラジオは空中を 飛んでくる電波のエネルギのみでイヤホンを振動させるのであるからあまり発展性はない。 アンテナは感度が高く指向性があるといわれるくものすのようなスパイラル(?)コイルも試した。 当時、電池を使わないトランジスタ1石式ラジオというものも提案されていた。トランジスタで 増幅するのだが、トランジスタの電源は飛んできた電波を整流して直流を作り利用するというものだ。 田舎に住んでいてトランジスタが手に入りにくかったため、これは試さなかった。 とにかく毎日より良い性能を求めて工夫を重ねた。友達と比べあったりもした。

街頭テレビ

 ラジオから毎朝流れていたベートーベンの田園のメロディーが味噌汁のにおいと混ざって思い出される。 学校では毎朝カッコーワルツの音楽で全校生徒が整然と講堂に集まる。インフルエンザが流行っている ときは流し場に赤いうがい薬でいっぱいのバケツが幾つか置いてあった。保健室ではトラホームの 治療のため列を作り保健婦さんに目に薬をいれてもらった。秋になると薪きり業者が校庭で薪をつくる。 子供達は薪を教室に運び込み壁にそって高く積み上げる。いっぱいの薪を見るとなんだか安心した。 学校から帰ると、木の工作でゴム鉄砲の飛び方を競い、探偵七つ道具と称してナイフ、むしめがね、 ヒモなどをポケットに詰め野山を駆け巡り、田の用水路で魚をすくったりした。道端で職人たちが 井戸を掘り黄色いさびの色をした水が溢れていて、飽きもせずに眺めていた。夕方になると空き地に 自転車をとめた紙芝居のおじさんが大太鼓を叩きながら子供を集める。型抜きを買った子供達は 前の方で見るが金を使わない子供達は遠慮がちに後ろのほうで見る。街頭テレビが始まり、金持ちの 商店がテレビを持ち始めると子供達は夕方の楽しみとしてテレビのある家に集まり扇型に並び ”とんま天狗”、”鉄人28号”を見て元気にお礼を言って帰った。NHKのほか民放は1つぐらい しかなく番組も選ぶほどは無かった。