あつ子@カナダ6

日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。



あつ子@カナダ IN 日本(思い…最終編) 2006年12月29日  12月29日、トロントは雪の少ない冬を迎えている。クリスマスも暖かい日だった。30年、カナダに住んで 稀なことである。辺りのイルミネーションは、それでも輝いている。今朝は、屋根がほんのちょっぴり白くなって いるが、青い空と輝く太陽にそれは白銀のように眩しく光っている。  この暖かい冬の季節に宮崎を思い出している。9月から10月にかけての帰国は、やはりこの1年の私の大きな イベントだった。懐かしい友人たちも、会えなかった友人たちへの思いも、そして、新しい出会いも振り返りながら 最高の1年だったと思うことができる。母が健在でいてくれるから、帰国も計画できる。親がいなくなると、日本が 遠のくと言う人たちが周りに増え始めているだけに、母に感謝している。  この1年も本当に多忙だった。日系人のイベントとして恒例になったトロント紅白も45回目を終えた。以前は、 あまりにも反響が大きすぎて、昼夜二回を開催することもあった。ボランティアベースの中で継続されて来た、その 精神力と体力に驚きを感じる。新移住者協会の創立30周年記念誌作業も終盤の追い込みに入った。素人手作りとは いえ油断のできない事だと大きな責任がスタッフにかかっている。  そのような中、クリスマスを終え、今度は新年の準備に追われているが、今日は御節の一つ「伊達巻」作りに友人の 家に行くことになっている。3、4人でワイワイガヤガヤ言いながらプロ級の伊達巻が出来上がる。黒豆は友人から いただいた。「あれと…これと…」と指を折りながら、今回は子供たちがなぜか御節を楽しみにしている。「あれれ!?」 と嬉しいことだけれど、御節に手を抜く事を毎年考えていただけに、この異変に子供たちも大人になったのかなあ、と 嬉しいことだと受けとめている。が、これからの二日間の奮闘が思いやられる。日本は、確か「大掃除」も年末作業に なっていたような…。  日本は、まだまだ身近にあるようだ。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.10) 2006年12月26日  いつの間にか、12月も終ろうとしている。忙しさから、なかなか抜け出せない状況の中で、今年中に 「あつ子@カナダ IN 日本」を終らせなければと、ようやく帰国の最後の日本を振り返ることができた。  羽田の待ち合わせの場所では、いつもの笑顔のくろまめさんが待っていてくれた。まず、つくば駅を降りて 「くろまめの小さな展示室」で紹介されているちぎり絵の最終日の展示場へと向った。その展示されている 二階にあるお店に入るとおなじみの「達子さんのちぎり絵」が展示してあった。なんだか懐かしい物に出会え たような思いがした。達子さんも牛久のかっぱさんも懐かしい人に出会えたような思いがして嬉しかった。    そのようにして、私はこれから二泊、くろまめさんの家にお世話になることになった。マンションから眺める 景色も、何もかもが、「くろまめの小さな展示室」に出てくる物(所)ばかりで、感動の連続だった。    300歳の桜の木も、坂田が池も、ドライブする道のりも、すべてが思い出の場所のように思える。どこまで も続きそうな桜の並木道は桜の季節が想像された。車を降りると季節の終った木々に桜が咲いていた。その所々 に咲いている一輪一輪を指差しながら、シャッターを押してもらった。遠くから来た私のために咲いてくれたの かな!、と一人勝手に思いながら見つめた。その姿は、いつまで見ていても飽きないような可憐な花たちだった。 フフフ…と、幸せな気分だった。    夜は、ワインや焼酎で乾杯。くろまめさんのおつまみにたくさんの心をいただいた。「ちぎり絵」の達子さん の優しいお言葉を心にしまった。あの畑の中で育っている野菜たちも、くろまめさんご家族の心がいっぱいの 栄養となって食卓へ届くのだろうなあ、と思った。フフフ…と、ここでも幸せな気分になった。  今回もたくさんの友人たちと、そして新しい出会いもたくさんあって最高の帰国だった。お忙しいのにお時間を つくって会っていただいた方など、今、振り返りながら思い出に浸っている。そばでは、西陣織のにおい袋がいい 香りを漂わせている。フフフ…と幸せな気分になっている。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.9) 2006年11月10日  ビタミン愛さんとるんるんちゃんは、大きく手を振って私を迎えてくれた。ルンルンちゃんの愛らしさがとても印象的 だった。私たちは、西都原へと向った。広大な公園は、私たち3人のために与えられたかのように静かだった。るん るんちゃんと手をつないでランランランと口ずさむように歩いた。 ベンチに座った私たちは、ビタミン愛さん手作りの高菜の葉っぱに包まれた大きなおにぎりをほおばった。 「おいしい〜」を100回言いたいほどそれはおいしかった。るんるんちゃんのそばには、るんるんちゃんの大好きな 「赤毛のアン」の本がいつもあった。 「アンのトランプとレターセットを手にしたらカナダのANおばさんを思いだしてねえ」私のイニシャルがA.Nだなんて それに私は、小さい頃、髪が赤くて、「赤毛のアン」というニックネームがついたり、なんとなく不思議な感じがする。  「るんるんちゃん、P.E.Iにいつか行けるといいねえ。」 ベンチのそばに、曼珠沙華が群れを外れてそっと1本咲いていた。 「このたった1本で咲いているのってとってもいいわねえ」と見つめていたら、ビタミン愛さんが、 座り込んだり、寝っころがるようにしながら、それはまるでプロも顔負けのようなポーズで撮って いただいた。そのポーズが愛らしくてそしてとても嬉しかった。帰り道、私たちはドライブしながら 3人で大きな声で「涙そうそう」を歌った。  「るんるんちゃん、この歌を聴くたびに歌うたびに今日の日を思いだしますからね。」 途中、私が高校時代3年間通った道をたどり、懐かしい思い出の詰まった寮と学校へ立ち寄った。 ビタミン愛さんも私も、その時代に返った様に、ケラケラと笑いあって「ああだったわねえ。 こうだったわねえ。」と絶え間なく語り合った。そして、別れる時が来て私は、思い切りるんるんちゃんを 抱きしめた。  「会えてよかった。ビタミン愛さん、そしてるんるんちゃん!楽しい時間をありがとう!」
あつ子@カナダ IN 日本(NO.8) 2006年10月28日  「うわ〜、ええっ!…」など、感嘆の連続だった東京を後にして宮崎へ降り立った。「青い空 光ゆたかに 陽に映えて におうやまなみ〜」…確か県民歌はこのような歌詞だったと思うが、空港では、元気な宮崎と元気な母が出迎えてくれた。 機上から、太平洋に浮かぶ青島や山並みをみると気持ちがホッとする。生まれた土地に帰ってきたという安心感である。  帰国して四日目、宮崎に向う朝、「今から羽田に行ってトロントから連絡したように定刻に着きますのでよろしく〜」と電話 して羽田へ向ったのだが …。 「三日間も(二日間だと思っていたら三日間だった)、連絡がないからどこかへ連れて行か れたんじゃないかと心配しちょったとよ。トロントに電話しても誰も電話にでらんし、病気かなんかで病院に行っているんじゃ ないじゃろかとか心配しちょったのよ〜!…」。母と姉の悪い想像がドンドン膨らんでいくと言う一騒動を聞いて、親のありが たさが身にしみた宮崎への一歩だった。それにしても、私がどこかへ連れて行かれるなど、そのような心配は親だからこそ できる心配なのではと思ってしまった。親にとってはまだ私は「娘」なのである。  さて、これからしばらく毎度の事ながら私は「台風娘」と呼ばれることになるが、本物の台風もやってきたり忙しい日々が 流れて行った。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.7) 2006年10月23日  その店には、大きなふっくらとしたほおずきが飾ってあった。そのオレンジ色の鮮やかさが店の中で際立っていた。 「うわ〜大きい。うわ〜みごとね。うわ〜…」の連発だった。一体このようなほおずきがどこで収穫されるのだろう。 「宮崎のどこかだと思います。」と返答があった時に、私とくろまめさんは「えええ!」っと異口同音だったか知らないが 驚いてしまった。東京で、またもや宮崎に会えるなんて感動の連続だった。そして、そのまったく同じほおずきが実家 に飾ってあることなど知る由もなかった。  「有薫」は、九州の焼酎、酒や郷土料理が自慢のお店。店に入ると田舎の懐かしさが体になじんでくるような、「今、 帰ってきたばい!」と方言が出てくるような愛しい感じのお店だった。宮崎では、仕事が終わって飲むお酒を、疲れ を取ると言う意味で「だりやめ」と言うが、その「だりやめ」をいただくには最高のところだった。「トロントの思い出」と いう肴も、様々な焼酎に一味つけてくれた。「うーん、おいしい」…私の心も顔も幸せに満ちていたように思う。そして、 おいしかったのは、お料理や焼酎ばかりではなく、トロントを語る時間も最高においしかった。  「出会い」…私の好きな言葉であるがそれを繋ぎとめるものは何だろう。その答えが出たように思った。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.6) 2006年10月19日  「こんばんはあ!お久しぶりでーす」だったのか、「お待たせしましたあ!お元気でしたあ」だったのか... その最初の言葉がどうしても思い出せない。でも、くろまめさんとそれぞれの言葉を発しながら雪崩れ込んで いったのは確かである。そして、お互いにそれぞれ見つめあいながら、「わあ〜、うーーん...」と言いながら おおいに懐かしんだのも確かである。このような時の言葉は、本当は要らないのではないだろうかと、今、しみ じみと振り返りながら思ったりする。  焼酎、宮崎の焼酎が、名物、地鶏が...様々な物が目の前に所狭しと並ぶ。興奮の中に並んでいくそれらを 眺めながら、目がランランと輝いて東京で宮崎を味わえるなんて「(感謝+最高)X100」と文字で表したいほど だった。 宮崎弁と言うよりも、米良弁というよりも、銀鏡弁と言った方がいいのか、その音が耳に心地よい。霧が かかった龍房山、銀鏡川のせせらぎをバックに4人が40年前の姿となって現れる。セーラー服と学生服姿の私 たちがそこにいて、コの字型に建っていた学び舎がそこにあった。テニスコート、バレーコート、剣道部の勇ましい 掛け声など活気に満ちていた学び舎。今は、それも痛ましい姿となってその姿が消えようとしている。でも、思う。 こうして昔を語れる者達が集まり昔を語ることで、そこには永遠と消えない思い出があり、その時代の面影は消え ないと言うことだ。 『窓をあければ 龍房に あれバラ色の雲がわく いつしか 夢は 山こえて 広い世界にかけてゆく あーあ  希望のみなもと 我らが母校』      タイムスリップした時間は、今回の帰国の貴重なものとなった。  
あつ子@カナダ IN 日本(NO.5) 2006年10月18日  書きたい時が書ける時なのだと、ちょっと生意気な事を言っている私だが、まだ、時差に悩みながらの毎日で、 朝の4時にぴったりと目が覚めてしまう。このまま習慣になってしまったらどうしようと思いながら、その早い朝の 時間を利用して書いている。  スキンシップはつくづく大事だと思う。昨夜、TVである歌手が言っていた。「仕事から帰って迎えた家族の者と 必ず握手をするようにしている」そのスキンシップで、その日の疲れが、サーッと消えていくのだそうだ。  私とくろまめさんは手を取り合って喜び合った。彼女の手のぬくもりに都会の雑踏の中にいることをしばし忘れた。 8人のトロント会の友人たちと分かれて二日間の落ち着き場所へと向った。駅でもどこでも歩調がなかなか流れに 乗れず、くろまめさんの、いえ道行く周りの人たちのその速さに「速い!」と思わずつぶやいてしまった。「せまい日本、 そんなに急いでどこへ行く」という、昔覚えた車のスビード違反に宛てた看板が思い浮かんだ。そして、その速さの中で 人はどれだけの時間を短縮し、どれだけの事にその時間を有効に使うことができるのだろうか、とへんてこな事を考えて しまった。  そして、ドキドキワクワクの後輩達との再会の時間が迫ってきていた。40年の流れをどこで感じることになるのだろうか。 タクシーに乗ると「そこはもうそこですよ」と言われた。キョトンとしている私たちは、運転手さんから、動き出してすぐそこを そこと指摘され「あっらら〜〜」と言う感じで大笑いだった。お店まで横付けしましょう、という3人の気持ちが一致して、どう みても3分ほどの道のりだったように思うが、それは楽しい、そして今まで人生の中で一番短いドライブだった。 運転手さんに思い浮かんだありとあらゆるの感謝の言葉を残して降りた。  トントントン、階段を下ったところにその店があった。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.4) 2006年10月16日  9月6日、千葉の朝は爽快だった。日本での最初の朝の食卓はまるで旅館に泊まっているような感動ものだった。 「風呂、畳、布団、味噌汁、ご飯...エトセトラ」、このコンビネーションに日本人に生まれて良かった、良かったと 思いながら、そして3人の目はTVの「特番」に注がれていた。お陰で時間は瞬く間に過ぎ、予定のバスの時間を あきらめた。と友人が叫んだ。「間に合うかも!」。  3人は懸命に走った。バス停まで...。家のすぐ裏のバス停まで走った。「ハアハア、フウフウ」息切れがした。 そして、バスがゆっくり私たちの前で止まった。テニスで鍛えているはずなのに3人の呼吸はなかなか整なわなかった。  「待っている間に、どこかでロケをやっているのかエキストラと間違えられちゃったわ」などなど、それぞれに再会の 喜びをシャワーのように浴びながら、浅草は8人の女性たちで益々賑わったように見えた。そして、私は、そこに揚げ 饅頭屋を発見、「うわ〜、かぼちゃの揚げ饅頭だって。珍しくない?これお芋だって...これは...」誰もいなかった お店が8人の女性たちに囲まれ花が咲いたようになり、通りすがりの人たちが「なーにごと」と言うように瞬く間にお店の 前は人だかりとなった。売り上げに協力して良かった...もう一度良かったあ、とその店を静かに?離れた。  リサイクルの着物店でステージ用に着物を買った。「あーだ、こーだ」と見立ててもらって五千円なーり。「いつ着よう かしら」とほんの一瞬、心がトロントに帰った。でもすぐ現実に戻った。  そして、時間は流れて、くろまめさんと会うべく駅へと向った。満面に笑みをうかべたくろまめさんが近づいてきた。 「わあ〜、わあ!うん!うん!...」と喜びを体中に表しての対面だった。  こうして、これから二日間、私とくろまめさんの笑いとおしゃべりがエンドレスに続くことになる。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.3) 2006年10月14日  「おいしい回転寿司があるのよ」と、私たち3人は尽きることのないおしゃべりの中で目的地へと向った。 ねじり鉢巻の威勢の良い姿が、「うわ!まさしく日本だい」と思いながらカウンターに座った。回る回る、 寿司だけでなく色んな物が回ってくる。「うわーい!これおいしそう」と歓声をあげる間にそれらは、 「バイバイ」と去っていく。「なーんでもどうぞ」という友人の言葉に「ハーィ」と応えながらも、「これ、 なーんだろ」と思ううちにその物が去っていく。  生ビールでかんぱーいして、ワイワイガヤガヤの夕食が終わって外に出るとすっかり暮れていた。 そばにあったケーキ屋さんに入っても「わあ〜、すごい、おいしそう」と言うばかりで、私は、目が点に なり食べてみたい物なんて決まるはずがなかった。  友人の家に納まった私たち3人は、延々とおしゃべりは続き「宮崎に、日本に着いたことをお電話した 方がいいわ」という友人のすすめがあったのにもかかわらず、タイミングがずれて後日(二日後)になって しまったことが、母と姉の間で「行方不明」という大きなできごとになっていたことなど、つゆしらず、久々の 畳の上で眠る布団の心地よさに夢の中へと誘われていった。  明日は、いよいよ「くろまめさん」との対面が待っている。
あつ子@カナダ IN 日本(NO.2) 2006年10月11日  「あーら!一緒の飛行機?」と空港で出会った友人とお互いに言い合うと、お互いのパートナー達は そそくさと、「じゃ!」と言いながら早足で去っていった。  待つ時間、友人が、二人の子供を連れた家族を見ながら「ねえ、あのような子供たちがそばに座ると ゆっくり寝れないのよね」と言ったが、それは、まさしく私の事を暗示するような言葉だった。  ちょうど、テロの事件で厳しくなっていて、機内持ち込みもいろいろと厳しかった。友人は、サーッと 通過したのに、私はなぜかストップがかかり身体、持ち物を隅々まで調べられてしまった。「あーあ、 先行きが心配」とブツブツと言いながら機内へと。  そして、後ろの席に、例の親子連れが座っているのを見て、つい「あ〜らら〜」と声が出てしまった。 おしゃべりな女の子にしばらく悩まされ、ガタガタと動く男の子に悩まされての旅立ちだった。でも、 食事がサーブされ終わると女の子の「マミー、グッ.ナーアイ」の言葉にホッとしながら、そして長い 13時間の旅が終わった。  出迎えた友人たちは、その二人も久々の対面で、私が目の前に出てきてもおしゃべりに夢中のよう で、「はーい!ここだよ〜」という私の声に「あ〜ら!お帰り」という、出迎えを忘れていたような一声に 大笑いの賑やかな対面だった。このずっこけたような対面式は後日談として後々まで残った。  そして、ここから、疲れは楽しい時間に隠れて奥へ奥へと沈んでいっていた。
「あつ子@カナダ」 IN 日本 2006年10月6日  日本は暑かった。でもその暑さは日本だと思うと苦にならなかった。心地良ささえ感じた。きっと、その 感触は、異国と言う地で長い時間が流れた中から生まれたものではなかったか、と今つくづく思う。  夏から秋へと移り行く季節を、ゆっくりと楽しみながら日々が過ぎていった。その姿を目と肌で感じるこ とができたことに、今回の帰国は、今までとは又違っていたように思う。  スーツケースから、一つひとつ物を出しながら、それらを手にした時の事を思いながら取り出していく。 親、兄弟、親戚、友人などからのお土産がカナダに帰ってきて、しみじみとその気持ちが伝わってくるよ うな思いがする。今、ようやくそのスーツケースが空っぽになった。  そして、思い出を語るように、大事に持ち帰った赤い可愛いポストがちょこんとファミリールームのTV ボードの中に立っている。これから、少しづつ一ヶ月の思い出をたどりながら、その赤いポストに投函し ていこうと思う。   
宮崎の恋唄 2006年8月23日  30年も経つと家の中には様々な物が知らないうちに溜まっていくものである。日本から送られて来たそのビデオ テープの数も、ビデオレンタルの店がオープンできるほどである。ある知人から聞いた話であるが、ある方が持って いるその数は3000本を上回ると言っていた。引越しを前に、今、その処分に四苦八苦しているという。  さて、ビデオと並んで我が家には100本ちかくのカセットテープがある。ラジオから流れたNHK紅白歌合戦や のど自慢大会、宮崎の方言で話すラジオ放送など様々である。整理をしながら、おもしろいテープを見つけた。 すっかり忘れていたことであるが、そのテープを聞きながら懐かしい場面が思い出された。  NHK宮崎放送のテレビの番組に「こんばんは九州」というのがあった。その番組で「宮崎の恋唄」という特集が あったが、その番組に両親が出演したものをカセットテープに吹き込んでいたのだ。今は亡き父は67歳、母は 53歳であった。父が母との結婚のいきさつを楽しそうに話している。懐かしい父の声を聴きながらその話に思わ ず笑ってしまった。そして、私がカナダに結婚して移住することを決めた時の父の言動が蘇りだぶってくる。そして、 母は、祭りの時に歌う昔の恋唄を歌っている。  時は、流れたのだとつくづく思う。父の13回忌でもうすぐ帰国するが、このテープも一緒に帰国させようと思う。 母はどんな気持ちで聴くのだろう
八月の手紙  2006年8月10日  8月1日は、36度を越えた温度に混じって湿気のある日で、日本と変わらないような真夏日でした。日本からの お客様二人の女性を案内してナイアガラへと出発しましたが、その猛暑にナイアガラのしぶきも生暖かく感じられ るほどでした。長く、このような夏を経験していない私に「日本はこの暑さ以上です」と言われても、この暑さが今の 私にとっては異常の暑さですから辛い1日でした。振り返ってみれば、帰国はなるべく夏を避けていましたから、 もう、ほとんど日本の夏を忘れている私です。  それでも裏庭のフェンスに添って咲いている朝顔が日本の夏を思い出させてくれます。毎朝、その見事に咲いて いる姿は日本の夏そのもののように感じられます。そして、大地まで続くその空は、どこまでも青く澄み切って朝顔と 眩しいような調和を見せています。  8月の忙しい日々がそのように過ぎていきます。カレンダーとにらめっこしながら今日の予定を忘れないようにチェック するのが日課になりました。今日できる事は今日の日に、と相変わらず新移住者協会創立30周年記念誌やトロント紅白、 県人会の作業に取り組む毎日です。その中で今月はなんと二つのステージが待っていますから目がグルグル回りボワーッ となりそうですが、それでも楽しいボランティア活動ですから歌やスキットの練習にも楽しく出かけて行っています。 先日は、裏庭で育っているミントにお湯を注いで「ミントティー」にしてみました。その香りにホッとする時間を持つことが できました。その事を、友人にEメールしましたら、なんとその友人の家で初めてパイナップルミントが育ったとお返事が きました。香りがとても良くて、さっそくティーにしていただいてみます、というお返事でした。夏の香りと夏の味... 夏の楽しみ方はどこそこにあるようです。  このようにして短いカナダの夏が過ぎていきます。最後になりましたが...        HAVE A GOOD SUMMER!!
痛みがわかる時   2006年7月11日 激しく降り続いた雨が上がったように、近辺も静かになった。賑やかに幕を閉じたサッカーワールドカップも、様々な 波紋を残したようだ。アルジェリア系移民二世として生まれたジダンに何が起きたのか。トロントでも、いろいろな憶測の 中で話題になっている。流れた涙は、いったい何を訴えていたのだろう、と私も思う。 前にもここで書いたことがあるが、長男は7歳の頃からアイスホッケーをやっている。もう20年もプレイしていることに なる。始めたその頃、試合を終えて涙を流しながらチェンジルームから出てきた事がある。もう、小さい頃から子供達の 間でも「差別」という悲しい言葉が飛び交っていた。相手チームから、その言葉が発せられた時に、子供ながらにも 悔しさがにじみ出てきたのだろうと思う。涙でしか抵抗することができなった頃から、ティ-ンエイジャーの年代になると、 その言葉も酷さを増してくる。プレイして20年から考えるとその数は少ないが3回ほど退場となった事がある。試合よりも 自分のルーツを指摘されたその言葉に我慢の限界を超えたのだろうと思う。  そのような体験をした長男も、今では「ARASHI(嵐)」という日系人のホッケーチームを作り他国とのチームと トーナメントをしたりしながら楽しんでいる。移住者で大きくなったカナダという国に生まれたその長男に「融和」という 言葉を教えてあげようと思っている。  さて、サッカーワールドカップが残したその痛みは、経験してこそ分るものだと思いながら見守っている。
7月の手紙  2006年7月2日  雨上がりの日曜日の朝。裏庭に続くキッチンのサッシのドアを開けると太陽に照らされた緑が光輝いています。 土はたっぷりと恵みの雨をもらいそこに育っているトマトや茗荷、ねぎやエトセトラが、所狭しと植えられた花たち と競い合うように空を仰いでいます。  サッカーワールドカップも4強が決定して、近辺は、緊張と喜びの混じった姿がどこそこで見られます。隣は イタリア人、反対隣の二三軒向こうはポルトガル人。お祭り騒ぎが大好きなところはどこか日本人と似ています。 車になびく旗も一本では間に合わないようです。  そんな7月がやってきました。空は雲ひとつなく、そして木々たちは風に誘われて気持ちよさそうに揺れています。 でも、今日は31度になると天気予報は言っています。昨日は、ドライブしながら大地と空が一つの線で境になって いるのを眺めながらトロントは山がないぶん広大に見えますから、これではなかなか日が暮れないはずだわ、とつく づく思った日でした。  夏が終わる頃に帰国しようと思います。そろそろ、エアーチケットの予約をと思いながら成田に立った日から動き 出すスケジュールの忙しさが楽しみです。その中で、今回、38年(?)ぶりに再会をする中学時代の後輩の方々の 感動の対面を思いながら緊張気味です。笑)面影を探しながら、あの白線の入ったセーラー服と詰襟の黒い学生服 がどのように交流するか楽しみです。  夏は真っ盛り。日本を離れてこのようにゆっくり季節を思うのも年を重ねてきたことの意味だろうかと思います。 みなさん!良い夏を。
エキサイティング  2006年6月18日    トロントはエキサイティングの日々である。多民族国家社会のカナダであるここトロントは、80以上の人種や 民族が共生している、と聞いているが 、今、そのトロントはサッカー一色。沿道では大小のサッカー国の国旗が ひるがえり販売されている。行きかう車には、それぞれの国の旗が掲げられはためいている。ドイツ、スイス、 ブラジル、イタリア、フランス、イギリス...様々であるが、その旗の国名がさっぱり分らないことも多い。    日の丸が時々はためいている。すれ違う中で、お互いに思わずガッツポーズを取っている。「国を愛する心」 ...今、それぞれの国々が気持ちよいほどにそれを表現している。  いよいよクロアチアとの対戦。クロアチア人と国際結婚をしている友人と「家の中でお互いの旗を持って応援だね。」と 笑った。キックオフを前にスポーツ番組では、一回戦の日本の敗戦のことをしきりに言っている。トロントの目がしばし 日本へ向けられる時間である。  これから、ますます車のクラクションが鳴り響き、車の窓から大きな旗がはためき賑やかになることだろう。多民族国家社会の カナダだからこその光景だと思いながら、ブラジルの旗を横目に,いよいよエキサイティングの時間が近づいている。  その白熱は自然にも移行し今日のトロントは34度の暑い日だ。
「ありがとう!」の言葉  2006年6月15日 記念誌の作業を終えて帰宅して、あちこちから届く寄稿の原稿に対処しながら過ごしていたら、 すっかり夜中の12時を回ってしまいました。今夜も夜更かしです。時には、思考力がなくなって 文字の変換を間違えたり、メールアドレスを間違って送ったりします。昼間は、その度に、気分を 変えて裏庭に出て空を見上げたり、花や野菜の育ち具合を眺めたり、コーヒータイムにしたり、 クリスタルビーズ作りを楽しんだりしながら、与えられた記念誌の作業をすすめています。  でも、無理ができないことをこの作業を通して知ったことも良かったことかなあと思ったりしています。 また、心身が疲れることとはこんな感じなのかなあ、と思ったりもします。そんな時、何をすれば癒される のでしょう?そう思いながら、時々「くろまめさん」のHPを訪問することがあります。  今日は、嬉しい発見をしました。その「くろまめさん」の優しい心に「ありがとう」の言葉を送りたくて、 作業を中断してしたためています。  「ありがとう、くろまめさん!」
ちょっとの合い間に 2006年6月3日   「古い歌をうたってくれんねえ」と、二世の方からたどたどしい日本語で電話が掛かってきた。4月の 事だった。「古い歌?」...それは私にとって古い歌なのか、観客にとって古い歌なのか、と考える間 もなく「はーい!いいですよー」と応えている私である。そして、やっぱりお客様が楽しい、懐かしいに 加えて喜んでくださる歌が良いと思い、電話を切って5分後にはおうむ返しに返答する。「美空ひばりの 柔に挑戦して歌ってみまーす」と自分自身でも驚くほど簡単に選曲してしまった。  リハーサルを繰り返しながら、袴は?下駄は?、というような衣装の事が気になってくるが、仲間とは 頼もしいものである。あっと言う間に衣装はそろい、私はボーっと立っているだけでステージ衣装を着た 私ができあがる。目を閉じて座っていれば髪も化粧もできあがる。プロの方々の陰での底力は素晴らしい とその度に思う。  さて次は、慣れない姿になったステージでの歩き方、舞踊をやってその道何年という方々がちゃんと ご指導してくださる。しかし、いざステージで練習してみると下駄が滑る。履き慣れないもどかしさが加わ って歌詞が飛んで行きそうである。そして、間奏では柔道をやっているプロの友人が出演。私は片腕で 相手の腕にちょっと触る演技をするだけでお相手が転んでくださる。「あら!簡単!」と思わず大笑いして しまった。それに二番の歌を控えている私が息切れがしないのである。決して計算しているわけではないが、 プロの技をここでも感嘆し驚くばかりである。  そのようにしてできあがった3分ちょっとのステージが、今夜、夕方6時半から開演。12時に集合して最後の リハーサル。こんな時間によく投稿の記事が書けるものだと思いながら、そろそろ終わることにして...。   ちょっとの合い間に...そして、書きたい時が書ける時なのだ。     さーて、三四郎!いざ出陣!
6月の手紙 2006年6月1日  昨日までの三日間、30度を越す暑さに驚き、そして今日は24度という快適な日です。その暑さの 前は、雨が多かったせいか何となく日本の湿度のまじった懐かしい暑さでした。  今日から6月...2006年に入った途端6月にジャンプしたのではないかと思うほどの早さを 感じています。忘れ去っていた過去に起きた出来事が「えっ!あれからもうそんなに経ったのかしら?」 と驚くことがあります。そして、今、過去に流れて行ったトロントでの生活が30年という節目にあたり、 ここでちょっと立ち止まり、その忘れ去られようとする出来事を30周年史として、記念誌に記録しよう、 とプロジェクトチームを編成し、10月の「トロント新移住者協会創立30周年記念誌発行」に向けて 奮闘中です。  戦後移住者を新移住者と呼び、「トロント新移住者協会」が創立されて30年が経ちます。 「20周年記念誌」を紐解きながら、それからの10年が、様々な世界の激動の中で、影響を受けながら 流れて行った記録を残す作業は、簡単なものではないことを感じています。しかし、世界中に発信した 祝辞や寄稿依頼の反応を待ちながら、その原稿が届くたびに、トロントへの熱い思いが寄せられ、そして、 それらに感動させられながらその作業も手早くすすんでいきます。 そして、忙しさを案じて下さる方々が 「『先ず健康の増進に、次に最善の努力を尽くせ』、これは卒業の時に恩師からいただいた色紙の一文です。 頑張りなさい。」、「遠くからながめながら、声なき声援を送っています。お忙しい日々、健康にご留意のほどを...」 という言葉が届きます。どんな時にも、人は人に支えられながら生きていることを強く感じ、その言葉から 伝わってくる温かさを大事にしたいと思います。  このように、PCの周りに山積みになった資料や原稿などを眺めながら、関係者スタッフとメールの やり取りなどをしながら夜遅くまで作業をしている日々です。  時折、窓から街路樹を眺めながら、新緑の眩しさに初夏を感じるひとときも忘れないようにしています。
気になる話(付録) 2006年5月11日  車の中は、良いコミュニケーションの場である。毎朝、我が子とそのような場があるわけだが、 時には、途中コーヒーショップのドライブスルーで一杯のコーヒーを買うのもなかなかの楽しみだ。 どういうわけか、ティム.ホートンズが多い。  今朝も、ドライブしながら、前回掲載していただいた「気になる話」について会話が弾んだ。する と、ここでまたおもしろい話が飛び込んできた。  息子の友人が歩いていたら、テイム.ホートンズのコーヒーカップがコロリンとサイドワークに転が っていたという。「オッ!テイム.ホートンズのコーヒーカップ!」とさりげなくだったかは知らないが、 拾ってロールアップしてみると、な、な、なんと「1000ドル」が当たっていたという。今回は、広い広 いオンタリオ州の小さな、小さな道路ぞいの一角。落とし主が現れるはずがない。それに17歳のみ なぎる力。ロールアップなんて誰に頼むこともない。というわけで、この出来事は何の問題もなく、 かーるく一件落着だったようである。  私も、その頃結構その仕組みを楽しんだ。「プレイ アゲーン」がお決まりだったが、ある日、友人 に買ってきてもらった物が「フリー ドーナッツ」とあって、大喜びしたものだ。(ちょっと演技も入っ て...)  さて、年を重ねると共に、ドーナッツとは縁が切れていたが、久々のその甘さは「ウフフフ」と含み 笑いするほどおいしかった。
気になる話 2006年5月10日  あの話はどうなったかなあ、と時々思うことがある。このケベック州で起きた小さなできごと も気になっていた。そう思っていたら、おのずと答えがあちらからやってきた。その話を掻い 摘んで書いてみると...。  3月頃だったと思う。コーヒーショップで有名な「ティム.ホートンズ」のコーヒーカップのふち をロール.アップすると賞品が当たる仕組みになっていた。ある小学校で10歳の生徒がゴミ箱 に捨ててあったコーヒーカップを拾った。ところが、そのふちは大人でもロール.アップがしにく かったのだが、そこで、その生徒は近くにいた上級生にロール.アップしてもらった。すると、なん と自動車(2万8700ドル相当)が当たっていたというのだ。  さて、問題はその賞品は誰の手に?と二人の生徒の親同士の争いとなっていた。ところが、 そこに「あのカップを捨てたのは私です。」と言う小学校用務員が出現。そこまでは、ニュース になって知っていたのだが立ち消えていた。  そして、その後の事がある小雑誌に載っているのを見つけた。用務員は弁護士を雇って賞品 は自分のものだと主張。コーヒーを買ったのも、飲んでいたのも知っている証人がいる。ゴミ箱 に捨ててあったコーヒーカップはひとつだけというから証明が簡単だと言い張った。  さて、こうなったら3組での話し合いでは解決できそうにもない。そこで最後の判断をティム. ホートンズにお願いすることになった。さて結果は...「コーヒーカップをゴミ箱から拾った生徒 に車を渡す」という答えが出たと言う。  争いは、相当に長引いていたようだが、判断が出た後、そのままこの出来事が静かにおさまった のかは定かではない。
5月の手紙 2006年5月2日  春のうららかな日の手紙は、春の日差しのように温かな気持ちになるような気がします。 トリリアムが根付いて可憐な白とワインレッドの花を咲かせました。すっかり我が家の庭に 馴染んだようです。ハイパークの桜も、大小老若の木々たちが満開の花を咲かせポッカリ と浮かぶ白い雲と小鳥のさえずりが見事な演出をかもしだしていた、と会員の友人が言っ ていました。今年の気候は桜に最高だったようです。県人会の皆さんも、20度の温度と満開 の桜を愛でながらお弁当と会員手作りのおはぎで故郷の話に花が咲いたと言います。そして、 たくさんの人で賑わったようですが、そこは、ご無沙汰をしている友人たちと久々に会う場所 でもあったようです。このように、春は、長い冬から解放された人たちの心に温かな風を吹き 込んでくれます。  もうすぐ11年来の友人が帰国します。近くの友人が越したり、帰国したりすると、その住民の 変わった家の側を通る時、淋しい思いをしたことが何度もあります。人生には、別れはつきもの ですが、トロントの春の5月に帰国する友人との別れは「また会える」という別れですから、この 春のうららかな日のように笑ってお別れができるかな、と思っています。  5月2日(火曜日)、温度22度、サンライズ6時10分、サンセット8時21分。 青空がどこまでも続いて春真っ盛りのトロントです。
「野遊会」 2006年4月26日  隣の家のさくらんぼが満開の時に合わせてハイパークの桜が満開になるはず、といつもそれを 目印にしているが(これは私だけの密かな目印)、何だか気にかかり問い合わせたところ「今朝、 チェックに行きましたら満開ですよ。来週は散ってしまって無理でしょう。」の言葉。毎年の気まぐ れ天気にいつも惑わされているので、「今年こそは」と意気込んでいた矢先だった。  さっそく、県人会の「お花見会」を四日後の日曜日に決行することにした。決めたら行動は早い。 それが私のやり方、ポリシーなんて言ったら笑われるかしら、と思ってる場合じゃない。お天気を チェックすると「ラッキー、晴れマーク。温度16度。」  まずはお弁当の手配。この緊急に応じてくれるところがあるかなあ、と思い立ったのが最近オー プンしたある知人のレストラン。「だいじょうぶですよ。その日は他からもお弁当を頼まれています から。サーモン照り焼きやチキン照り焼きやキンピラや...」のお返事に、「お弁当であれば何で もいいでーす。」、とは言わなかったが、OKのサインをいただいたので、次は会員の連絡網で参加 者を募る。時間、集合場所は、「いつもの時間にいつもの場所で」、ということで「野遊会」の計画は 一件落着。  一夜明けて、今朝の何とも言えない清清しい空気に触れながらホッとした時間を過ごしている。 「さくら さくら やよいのそーらーは...」と口ずさみながら。
春のつぶやき 2006年4月24日  紫のパンジーがキッチンの窓際にお目見えした。恵みの雨をもらった後のパンジーは春風に 揺れて気持ちよさそうだ。ガーデニングに取り掛かった友人の庭も、春の光を浴びて色んな花が 芽を出したと嬉しそうに話している。  トロントは、昨年と比べて陽気な日が早く訪れたように思う。やっぱり、寒さが厳しい分この春の 訪れは心がうきうきとしてくる。裏庭に立つと、水仙やチューリップやよもぎや三つ葉や春を待つ もの達が元気良く顔を出している。隣のさくらんぼの木が、今年はもう白い花をつけている。その さくらんぼの花が開くと桜の事が気になってくる。  さて、桜の事を思っていたら「桜が泣いています」、という記事を見つけた。日本のある桜の名所 のようだが、記事にあるように満開の桜の下はなるほどごみの展示場のよう。コンロ、座布団など も置き去りにされているというから驚き。お花見のマナーによるとバーベキューなどの熱い火も夜桜 のライトだって枝には重荷のようだ。敷き物も、根っこを覆ってはいけない。そして、お花見では酔っ たお客が一番怖い、とあるように枝を折られたりするようだ。これでは桜は泣くだろうな、と思う。そう 思いながら、お花見のマナー、というものをこんなにたくさん掲示するほど、昔は、といっても私から 見た昔ですが、(それでもそんなに昔ではないですが)ずらずらと並べるほどなかったように思う。  お花を愛でましょう...さくらがそうつぶやいているような気がする。
「あの頃君は若かった!」 2006年4月17日  久々にボーリングに誘われて、あの1970年代のボーリングブームが蘇った。「さわやか 律子さん」こと中山律子さんの時代である。  「私は、まず形から入りまーす!」と言いながら、ポーズを練習してボーリング場に立った。 あの音、あのざわめきがなんとも懐かしい。ボールは軽すぎてもいけない、と言われ丹念に 選んだが、ここは異国の地、なかなかマッチするボールがない。やっと、「こんなものかしら?」、 と選んだがそれでも納得いかないままいざ出陣!ところがである。投げた瞬間、体がよろめ いてしまった。形どころではなかったのである。「えっ!うそ!あの頃は、あんなにうまくあの 律子さん風に投げられていたのに」、とよろめきながら、最後は、一応形をつくってポーズを とった。あきらめムードの中で、行き着いたボールは?ピンは?と振り返ると、何とタラタラ... タラリンコン(どう考えてもこの音がピッタリ)と、優しく音をたてながらゆっくりとピンが全部倒れ たのだ。なんと時間のかかるストライク、と思ったが、みんなの「オー」という声に私も驚きながら 「軽い軽い、こんなもんです。」と言いながら、ニコニコ顔で得意げの私だったのである。そして、 スタートがストライクなんてお先は明るいわ、と思ったのは甘かった。3ゲームに入ると「ボール が重い。やっぱりボールが合わない。何となく指も合わない...」、とブツブツ言いながら(どう 見ても言い訳)、下がり行く点数をうらめしく見つめながら楽しさと懐かしさの混じったボーリング の時間が終わった。  そして、終わった後、分らないようにしきりに腕をなでていたことも、氷で冷やした方がいいか なあ、と密かに思ったことも、そばにいた若い友人の、何ともはっきりと大きな声で叫ばれた 「腕大丈夫ですかあ?」の一言で「もう、あまり無理はできませんね。」とみんなに言われる始末 だった。 「あの頃、私は若かった」、と思い知らされたことは言うまでもない。
4月の手紙 2006年4月8日  4月に入って、友人たちが桜を求めて帰国します。桜と温泉をコンバインさせて思い切 り楽しもうと計画する人。桜前線を追いかけて北へと旅をする人...それは様々です。  「くろまめの小さな展示室」にも春が来ました。毎日、訪問して楽しんでいます。そして、 動画の春風に揺れる桜に何ともいえない感動を覚えます。それは、春風が桜の香りと 一緒にトロントまで届いているような錯覚さえします。桜は、やっぱり生まれた日本で咲く のがお似合いのようです。動画を観ながら、いつか、人のいない満開の桜の下に立てた らどんなに素敵だろうな、と思います。  トロントにも桜が咲きます。5月の2週目頃になるでしょうか。昨年は、寒くて葉桜で終わ ったようです。今年はどうでしょう。でも、最近では、その桜も手入れが行き届かなくて元気 がないと言います。ある場所では、桜やもみじや藤が間違った手入れをされて枯れてきて います。やっぱり、それらはその心を知った日本人にゆだねるのが一番いいようです。今年 はきっと友人がその木々たちに元気を与えるでしょう。  桜は、日本人に愛でられてこそ「桜」なのです。そして、日本から渡ってきたトロントの桜を 眺めながら、アメリカ経由で移住したこの桜は、いったい日本のどこから来たのかしら、と思 います。そして、世界で桜が咲く最北端はこのトロントであるということを聞いたことがあります。 そう思うと、日本のどこからともなく移住してきたトロントの桜が我が子のようにいとしくなります。  ところで、移住といえば「新移住者協会」が30歳の誕生日を迎えます。そして、10月に 「トロント新移住者協会創立30周年記念誌」を発行します。来週、そのプロジェクトチーム を立ち上げますが、私は、これから、目の回るような忙しさになるでしょう。それに、私も移 住して30年。その思いを記念誌に綴ろうと思います。  このように、人も桜も移住して互いに支えあいながら根を下ろしています。
SUDOKU(数独) 2006年3月16日  私も、毎日「SUDOKU」パズルに挑戦している。毎日のトロントスター紙に載っている 「SUDOKU」を、時間がある時は朝から挑戦。時間の合い間にするこのパズルは、時には 夜中までかかることがある。そして、時には集中力ダウンでギブアップ...時には眠 りを誘ってくれる薬にもなる。  SUDOKUは「数独」という日本ゆかりのパズルだと言う。「数解く」から来た言葉かな あ、と思っていたら、ちょうど朝日新聞の天声人語にそのことが載っていた。1から9 までは一桁の数、言わば独身の数しか使わないパズルだから、「数独」と名付けられた とのことである。  9X9の正方形の枠内に1〜9までの数字を入れてその縦横9列のマス目を1〜9の数 字で埋める。そしてその正方形の中の太線で囲まれた3X3のブロックも1〜9までの数 字を入れて埋めるのだが、もちろんブロック内には同じ数字が入ってはいけない。9X9 の正方形の枠内と3X3のブロックの数字がうまく一緒に利用されて1〜9までの数字が 埋められると言う方式は、私から見たら、毎日違うそのパズルが、時々神業としか思えな いような作業に見えたりする。  しかし、すべてが埋まった時の快感は最高だ。以前は、ジクソーパズルを家族が集まる ファミリールームのテーブルに置き、時間があれば誰でも挑戦できるようにしていた。数 千枚のパズルが、一枚一枚形となっていく楽しみは最高だし、特に長い冬はこのような遊 びは最適なのだ。  もうトロントの冬は過ぎて行くようだが、また、その遊びを家族と一緒に挑戦しようか と思っている。そして、今夜も「SUDOKU」に挑戦している。
なつかしい歌 2006年3月7日  日本は、3月に入り卒業シーズンのようだ。卒業式と言えば、その卒業式にうたう歌も 懐かしい歌の一つになる。私の時代は、「仰げば尊し」や「蛍の光」が定番だった。それ らの歌には懐かしさと一緒に思い出が染みとおっている。  先月の2月18日に「なつかしのメロディー」を開催し好評を得た。以前に開催した「 なつかしの歌声」から9年が経過し、ようやく再現に至ったのである。9年前は、トロン ト日系人の移民の歴史に基づいて、その時代にはやった歌を戦前、戦中、戦後に分けて紹 介した。一世や二世の方々にインタビューをしたりして台本を準備したことを覚えている。 その時気付いたことは、異国の地で苦難の生活を送る中で、日本の歌は切り離すことがで きなかったことだということである。そして今、思うことは、懐かしい歌は時代の流れに 流されながらも、どのように時代が変わっても人の心に生きているということである。  10代.20代の頃、ラジオやテレビで親世代の懐かしい歌が聞こえてきた時によく思 ったものだ。私たちの世代の歌も、やがていつかは懐かしい歌として聴くことになるのだ ろうなあ、と。今、それが現実のものとなりつつある。  今回のショーの中に、リクエストコーナーを設けたことで、カナダに移住する頃に耳に した歌は懐かしい歌にと変わっていることがわかった。歌への思いの綴られた手紙も一緒 に紹介した。童謡.唱歌のコーナーでは、普段なかなか耳にすることのない日本の歌が流 れ、日本での懐かしい場面が心に映し出された。  今、ラジオから流れる音楽を聴きながら思う。どこの国にも「なつかしい歌」はあるの だと...。そして、それらはさまざまな状況の人々の心の支えになったのだと...。
拾った話2 2006年2月28日  アルバイト先で一緒に働いている日本人女性の方から聞いた話を不満そうに娘が話し出した。 私は、思わず笑ってしまったが...。  店に、年配の日本人男性が来られしばらくすると「喉が渇きました。お水をいただけます か。」と言われた。すると彼女のそばにいたカナディアンの男性マネージャーが「すぐお持 ちします。」とそそくさと水を取りに行ったのだという。すると、その年配の客が一言。「 そのような事は、女性がするものです。」カナダで生まれ育っている娘にとっては「DOSE   NOT MATTER」なのである。これも「古い日本の文化」と言ったらその一言でおしまいになる が、やはり、それは長い歴史の中で、日本女性が自然に身につけられてきた(身につけてき た)「たしなみ」に繋がってくる。  それは、女性がするもの、それは男性がするもの、という事は今は通じなくなってきてい るがしかしである。「らしさ」はなくしてほしくないと思う。「女らしさ」、「男らしさ」。 その区別は時代が流れても、いつになっても保たれてほしいと思うのは私だけかしら、と思 いながら、娘と向き合っている。  そして思い出した。ずいぶん昔、新移住者の二世の女子学生が「日本の文化」を語り「女 性は、掃除や料理や洗濯という家事をこなす器量を備え持っているのです...」
2月の手紙 2006年2月14日  トロントは、雪が芝生の上に残っているだけですが、今年は何となく暖冬を思わせる日々 です。でも、まだまだ油断はできません。  今日は、バレンタインデー。長男が薔薇の花束を抱えて帰ってきました。真紅の薔薇が活 き活きしてきれいです。次男が、その後から、ニコニコしながら「僕からハイ!コーヒー」 とコーヒーショップから買ってきたコーヒーをタイミングよく渡してくれたのには思わず笑 ってしまいました。まあ、なんとタイミングは続くのでしょう。5分もしないうちに娘が大 きな花束を抱えて帰宅しました。チョコレートが添えてある分、豪華です。私の周りは、今、 薔薇とコーヒーの香りが漂っています。小さなしあわせを感じるひとときです。  HPの金柑の甘露煮を拝見しました。何と懐かしい。田舎の庭の傍にあった金柑の木が思 い出されます。母がよく、甘露煮を作っていました。あの金柑の木はまだ元気で実をつけて いるのかなあ、と懐かしくなってきました。そして、桜や梅の蕾を見ながら、また、この季節 がやってくる、と思いながら見入っています。  そうそう、クリスマスに韓国産の柿をたくさんいただきました。そして、その種をちょっと いたずらしてキッチンの植木の中にしのばせておきました。何と芽が出てきたのです。それを 発見した時、思わずはしたなくも、「うわー、出たあ」と叫んでしまいました。7本もです。 もう20センチ以上の高さです。そのてっぺんにあった種がはじけて、植木の外に土が散らば っています。すごい、生命力。毎日眺めるのが楽しみです。「桃栗三年柿八年」と言いますが、 さあ、そこまで育つでしょうか。  日々小さな変化や発見にはしゃいでいる私です。そして、2月が過ぎればトロントにも春の 小さな、小さな音が聞こえてくる。そう思いながら冬を過ごしています。どんなに長く住んで いても、トロントの冬はやっぱり長い、といつも思います。これからもHPからの日本の季節 の便りを楽しみにしています。この頃、そんな日本の季節の写真に元気をもらっています。  ありがとう...。
拾った話 2006年2月7日  日本へ帰国した友人達から聞く話はなかなかおもしろい。驚いたり、あきれたり様々だ。 シーズン中の空港はどこも人人人。ある友人は、長い列に混じって搭乗を待っていた。夫 婦なのか恋人同士なのか分らないが若い男女が前に並んでいたらしい。すると女性の不平 不満の声が聞こえてきたのだと言う。「どうして、子供がいる人が優先なのよ。同じお金 を払っているのに...」友人は余程言おうと思ったが我慢したらしい。「あなたも、子 供を持ったらわかるわよ。そのありがたさが。」...。すると、今度は、男性が女性に 聞いているのだという。「ねえ、暑いからジャケットを脱いでもいいかなあ。」友人は、 余程言おうと思ったがやめたらしい。「自分のジャケットを脱ぐのに自分で決められない の。そんなことをいちいち尋ねることないでしょ。」それらの話を聞いた私は,とても複雑 な気分になった。 そして、先日長男が思い出しように話し始めた。大学時代、日本の大学のアイスホッケー の合宿に参加し、日本にしばらく滞在したことがある。渋谷でいとこと待ち合わせをして いた時に、隣のやはり待ち合わせをしているらしい方と意気投合し、30分ほど色々な話 をしたという。「大学に行ったり、アイスホッケーなどのスポーツをすることはとても素 晴らしいことだ。私もそのように生きたかったが、子供の頃から喧嘩ばかりをしていてそ のようなことができなかった...。」彼の人生、僕の人生をいろいろと話したと言いな がら、そして長男は聞いたと言うのだ。「お仕事は何をしているんですか。」すると、そ の方は無い小指を見せて「、こういう仕事です。」長男には、服装で分っていたらしい。 何でも体験をすることだ、とよく言われるが、その方ばかりではなく、様々な方と真剣に 話す機会があったことは、日本に行った中での素晴らしい収穫だったと思っている。  ついでに、長男が日本で感じたらしい事を記すが、日本の先輩、後輩の関係はなかなか 厳しいと、それにはとても驚いていた。本人は、スペシャルでそれは多めに見てもらった らしいが、関係は、アイスホッケーの試合の中でも感じたらしい。パックをパスする時に、 後輩がパスをしなくて良い先輩にパスをする光景も見えて「あれでは、ホッケーは上達し ないね。」と言っていた。  郷に入っては郷に従え...それぞれの国の生き方、やり方、習慣がある。それはまた その国の文化と繋がる。  拾った話はそんな事が見え隠れしてなかなかおもしろい。
手紙 2006年2月1日 「お忘れになった頃に、今日のお写真を送ります。」と約束をした友人に 写真を送ろうと思い、久々に筆ペンを握った。毎日、Eメールという便利 な物に押されて、すっかりご無沙汰をした感触だった。自己流でつづって いくその筆ペンの文字を見ながら、次男が「ファー!すごいねえ...」 といつの間に来たのか驚いた声を出している。私が書いていくその見慣れ ない文字が珍しくそして不思議に見えたのだろう。  20代の頃、ある方が書かれたみごとな巻紙の手紙を見た時、私もいつ かそのような手紙を書いてみたいと思った。でも、それは時の流れと共に 自然に忘れ去られていった。そしてカナダに移住して、PCがまだ私にと って夢の中の夢だった頃、毎日のように日本へ手紙を書いた。そして、そ の巻紙の手紙を時々思い出すようになった。  帰国した友人に和紙の便箋と筆ペンを買ってきてもらい、手元に置くよ うになった。自己流でもいい!この感触でその友人を思いながら書くこと は、何物にも勝る!と思いながら気持ちよく流れていく感触を、今、楽し んでいる。    その友人に添えた、「昔は、よくこのようなお手紙をしたためていました 。久々にPCから離れて筆ペンを握っています...。」友人にとっても、 それは久々の手紙かもしれないと思うと楽しい気分になってくる。  このところ、トロントは雪のないプラスの日々が続いている。日本はど うなのだろう。季節を手紙でしたためるのも何とも楽しい。そうだ!2. 3日前に電話をしたばかりだが母に手紙を書こう。このところ、ちょっと 耳が遠くなりションボリ気味の母なのだ。その喜ぶ顔を想像すると楽しく なる。便箋は、和紙の可愛い花柄にしよう。  手紙...その一通が海を越えてゆっくり旅をしながら目的地に届くこ とを考える時、時間がかかる分、それは心をゆったりと和ませてくれるよ うな思いがする。何もかもがスピードの世の中になってきた今、手紙を書 くゆとりとその返事の手紙が来るのを待つスローな時間の世界を忘れては ならないように思う。  カナダ(トロント)、日本(宮崎)を往復したあのゆっくりとした手紙 の時代が懐かしい。
2006年への思いを込めて 2006年1月5日  2006年へのカウントダウンをしながら友人の家で新年を迎えました。そして、 明けて元旦の日は、「おいでなさい!」と言う友人の家に駆けつけました。元旦前 夜もポットラックで集まった手料理が山のようにテーブルに並びました。新しい年 が明けようとするとタイミングを合わせた友人が年越しそばを運んできました。  帰宅して、お昼前には我が家でお雑煮をいただいて、御節を並べて、それから「 おいでなさい」の友人の家へ行ったのでした。そこにも山のようにお料理が並び、 なんと全部それらはご主人の手料理。まだお腹一杯の私は、まずはお屠蘇からいた だきました。日本からのお酒が何本も私を待っていました。「うーん、おいしい」 と言いながらお酒通の方々と杯を交わしました。「やっぱり、日本のお酒はおいし いわ。」と言いながら、おしゃべりも弾みます。40、50、60代のお集まりは、 やっぱり昔話が多いことに気づきます。トロントに移住して来た当時のお話は、ま すます盛り上がります。みんないろんな思いをして移住してきたのだと感じさせら れます。失敗談あり、いろいろありで蘇ってきた楽しい時間は夜更けまで続きまし た。2006年は、このように静かに明けた...わけではありませんが、みんな が元気で「今年も良い年でありますように」と願えたことは嬉しいことでした。 「くろまめの小さな展示室」の皆様にとっても2006年が良い年でありますよう にトロントから祈っています。
昼下がりのひととき 2005年11月8日  トロントは街路樹の葉っぱもすっかり落ちて冬支度がはじまった。隣から舞い降り てきた葉っぱも、風で運ばれてきた葉っぱもすっかり拾われてすっきりした光景だ。 インディアンサマーで暖かかった日も終わり今日は空気も冷たい。でも、空はどこま でも青く澄んでいる。そんな昼下がり、帰国した友人から何とも珍しい(茹でてきな 粉をまぶして食べる)郷土名物をいただいたのでさっそく作ってみた。お供のお茶は 、やはり同じ時に帰国した友人からいただいた「くき茶」だ。いただきながら何とも いえないこのひととき、と幸せな気分になった。日頃コーヒー党の私にとって、お茶 と接するこのホッとする感触がつくづく日本人に生まれて良かったと思う瞬間だ。  そして、県から毎月送られてくるパンフレットが今日も届いた。季節の味覚の欄に は、あちこちの地元の名物や郷土料理、焼酎などの紹介なども掲載されている。目が ランランと輝くばかりである。帰国には、このパンフレットを持参しようと毎回思う のだが、なかなか思いは果たされず、なのである。  今回のパンフレットを読んでいたらおもしろい記事が目に止まった。秋の風物サン マのエッセイが載っている。その最後の方に「ところで、最近の子供達はサンマがな いと言う...」ん?と思いながら読み続けると、「つまり、『時間』『空間』『仲 間』の”間”がないと言うのだ。確かに今の子供達は塾のかけもちをし、テレビゲー ムなどで遊び、外で日が暮れるのも忘れ遊び回ることがない。」...読みながらな るほど、「時間、空間、仲間」の三つの間のサンマというわけで、おもしろいたとえ だと思いながらその記事に同感しながら納得した。  ところで、時々フッと思いだすのだが、食べるサンマの事でなぜか写真のように脳 裏に焼きついていて離れない場面がある。ある日、父が仕事の帰りにサンマを買って きた。サンマは、やはり七輪で焼くのがおいしい、というわけで、煙モウモウの中で 焼いている自分の姿だ。なぜ、そのような何の変哲もない部分が忘れられずに残って いるのか分らない。  ある昼下がりのひととき、日本への思いが深くなってきた時間だった。それも秋の せいだろうか。そろそろ、トロントは秋も終わろうとしているのに...。
10月の手紙 2005年10月16日 トロントは、昨夜からの雨もあがり曇り空が明るくなってきました。家の前の街路樹 も黄色に色づいて、サラサラと風の音の中で一枚一枚葉っぱが散っていきます。一雨 ごとに秋が一歩一歩遠のいていきそうなそんな朝の時間です。  14年ぶりに友人と再会しました。あの日、すれ違った彼女に「ん?どこかでお会 いしたような...」という思いがしたのでした。後で聞きますと彼女もそう感じた ということでした。お互いの思いは、その瞬間から過去へとさかのぼって行ったので す。でも、思い出せません。ショッピングを終えた彼女のご家族がお店に設けられた テーブルに座っている姿を見かけました。 「あのう、失礼ですが、どこかでお会いしたような気がするのですけれど...」と お声を掛けると「私もそのようにさっきから思っていたのです。」...それから、 一気に14年前に時が戻っていきました。そして、私たちは日と場所を変えて再会の 乾杯をしました。お互いの14年間の流れは、会話がハーモニーを起こすほどに弾み ました。トロントで「出会い」そしてトロントで「再会」...この別れを挟んだふ たつの言葉が人を深く結びつけるものだと今、再会を楽しんだ後に思っています。  秋に再会した友人...この冬は、ご主人が得意とされる「お鍋を囲んで...」 というお約束をしました。ギターとカラオケのお好きなご主人は、「今度は歌でハモ リましょう。」ということで、歌も「なごり雪」と決まり盛り上がりました。秋が去 った長いトロントの冬、その冬の夜長の楽しみができました。 「人は楽しい事を探しながら生きている。」今、またその言葉を思い出しました。 さて、お手紙をしたためているうちに、外を見ると青空が広がり始めました。黄色い 葉っぱが、太陽にキラキラと輝いています。今日も秋の空気をいっぱいに吸って1日 のスタートです。そして、トロントの秋を楽しみながら日本の秋を思っています。 日本も秋一色でしょうか。
「ハルとナツ」 2005年10月5日  カナダに移住して、30年を迎えて様々な思いが駆け巡る。あの日、冬、機上から 初めて見た広大なカナダの姿を今も覚えている。あれから、流れた歳月が30年とは どうしても思えない。でも、住み慣れたトロントや自分の生活が、流れと共に変わっ ている事で、確かに30年が過ぎたのだと確信する。  確信しながら、日本では決して経験できなかった事や、日本では決して出会う事は なかっただろうと思う人たちに出会った時、その中で触れた様々な事に30年の重み を感じている。観光では決して見えないところ、短期滞在では感じる事の出来ない事、 そして、外から、見えた日本、見える日本...などなど。  今、日本で放送されている「ハルとナツ」は、ブラジルへ移住された日本人の家族 の過酷な日々を描いたドラマだと聞く。同じ頃、カナダに移住されたカナダ日系人の 一世、二世の方々の姿がそこにだぶって映る。移住した当時、戦争を挟んで苦労され た話を実際に聞いた時、20代の私は驚くことばかりだった。教科書では習わなかっ た現実がそこにたくさんあった。  先日、ある県人会のイベントの場で80歳の二世の方とお話をする機会があった。 流暢な日本語、そして、ステージの上での日本の歌...そのきれいな日本語に驚く ばかりだった。「私は、日本には一度も行った事がないのよ。両親が日本人でこの県 の出身だから、ここに来ているの...。」日本人らしさは、たとえ日本で生まれ育 たなくとも、自然ににじみ出て来るものなのだとつくづく思う。  「ハルとナツ」の脚本家が言っている。「ドラマを通じて、日本人が豊かさの中で 見失ったものを書いた。今、外国を旅していると、日本人であることに恥ずかしさを 感じる時がある。そんな中で一途な日本人像を書きたくなった...。」異国で生活 をすることは、いつも背中に日本という国を背負っていることなのだと思っている。 生活している周りの人たちは、身近にいる日本人から、日本を見ているのだから。  さて、このドラマが、どのように描かれているか楽しみだ。私たちの年代も含めて、 現代の若者たちが外国にヒョィヒョィ出かける中で、そういった一世、二世の方々が 固めて来られた地盤というものを考えてほしいとつくづく思う。それに、日本人らし さが失われてきている日本の人たちには、異国で日本人として生活している人たちの 姿を見てほしいと思っている。  移住して30年に入り、そのような日系人の方々と語らい、触れることが出来たこ とは幸せなことだと30年を振り返っている。  「ハルとナツ」の紹介にあるように、ブラジルと日本...海、時、国を越えて流 れた時代...トロントでも放映予定のようだが、多くの人たちに観ていただきたい と思っている。
トロントは大洪水 2005年8月24日  友人たちとコーヒーショップで過ごしていると何となく雲行きが怪しくなった。 一雨くるかなあ、と思いながらも別に気にも止めなかった。ポツリポ ツリがやがて 滝のような雨になり、やがて風が加わりみんな心配になってきた。待て ばいつか止 むだろうと安易に考えたのがいけなかった。雨は激しくなり止まらない。 友人の ご主人からは、「しばらくそこで待機した方がいい。大きな木などが倒れるような 状況になっている。」という電話が入った。ついに携帯も繋がらなくなった。  思い切って解散してドライブをしてみると、ワイパーも役に立た ないほどの雨 だ。やっと、ハイウエーからローカルの道路に出てみると信号は動かず 車も停滞 で動かない。家の手前まで来ての災難は続いた。この大雨でどこも大洪水で身動き できない。勝手知ったる道路だったので裏を通ってみたが、あちこちの裏道も洪水 で通れない状態だ。  前の車に、勝手に誘導されながら大きなプラザに入りそこから家に続く道路に 出ようと思ったのだが、駐車場は大きな池と化しドライバーの乗った車 や無人の 車がプッカプッカと浮かんでいる。「どうしよう?」…すると、前の車が、駐車場と 道路の間の芝生を乗り越えたのだ。「うっそう!」すると、私の後ろの車も 私を横 目に同じように…。「私もやるの?やるしかない。」しばらく悩んだ末、愛車に謝り ながら、ゆっくりアクセルを踏んだ。ガッタンガッタン…小山になっている芝生を 乗り越えてまたガッタンガッタン。やればできる。そう思いながら、窮地に陥った 時の気持ちを今日ほど感じたことはなかった。窮地を脱することは自分を信じる ことだと思った。  このわずかな時間の大雨でトロントの道路は破壊され、家々の地下には水が 入り、あるゴルフ場は激流の川と化し、私の愛用するクラブの室内のテニスコー トも水浸しで様々な所での被害は大きかったようだ。  この大雨で、トロントはまた大きな教訓をしたが、さて、友人を含め私も雨の恐 ろしさを知り、携帯電話という便利な物の普及で知ったことは、ご主人から「大丈 夫?」のコールが掛かったのは、『たったひとりだった』と言うことが、後日談にな ったことも笑い話ですませていいものか。笑)
心の薬 2005年8月18日 「『心の風邪』を優しく癒す音楽の不思議な力」という記事が目に 止まった。「心に よく効く”音楽の薬”」…。 読みながら、今、日本の子供たちは心から疲れているのではないか と思う。最 近、トロントで出会った17歳の少女も「日本で友人たちとのお付き合い に疲れま した。」と言う。私たち大人の中に入っての会話は、屈託がなく、普通の高 校生 に見えた。日本を離れた解放感からか、その笑顔を見た時に、こちらのハイス ク ールでいい友達ができることを祈った。夏休みを利用して2週間のファームステイ にやってきた16歳の少年は、小学生の頃、父親の留学でトロントで過ごし、心に 残った英語がビートルズの歌で呼び戻されたという。自信を持っていたあることに、 ファームスティを経験して現実の厳しさに気づいたと言っていた。 さて、話が前に戻るが、その記事を簡単に引用してみると…。「ある日、思春期 の女の子が来院してきた。ストレス状態が続き人と話せない、いわゆる 失感情 症らしい。心が閉じて無表情になり悩みを話すことができない。そこである音楽 を聞かせ、歌詞カードをあげて、「今、あなたの心の中にあるのは、どんな気持ち かな…」と聞く。すると一つの歌詞をさして「これが私の気持ち」と言いながら泣き ながら話し始めた…医者がどんなに言葉を費やすよりも音楽が心の緊張を和ら げてくれたのです。」 人は誰でも不安を持ちながら生きている。中には何が不安なのか はっきりしなく てそのままの状態で過ごしてしまう。ある小説家が言っていた。 「不安を突き止 めることが大事です。病気の不安だったら病院 に行って調べてもらう。仕事のこ とだったら、その事に詳しい同僚などに尋ねる …。」ストレスから不安が生まれ、 不安からストレスが生まれる。 記事の中に、「音楽を身近に楽しむ健康法としてお勧めしたいのが カラオケで す。」と書いてある。お腹の底から大きな声を出して歌うときの呼吸の仕方が、 健康に良いのだそうだ。不安な状態のある時は、呼吸は浅く短くなっていると 言 う。よく緊張すると深呼吸をして気持ちを落ち着かせるが、歌うことは深呼吸をす るのと同じ効果が得られるのだそうだ。思わず、うんうん…なーるほど、とうなづ いてしまった。記事を書いた方もそうらしいが、私も歌は聴くも歌うも大好きだ。 時々、家で一人になると、ボリュームを大きく上げて「カラオケ」をわんさと歌う。 こちらの家の造りは、どんなに大きくボリュームを上げても外にもれない。それ に、こちらでは、それぞれの好みで、家の地下にカラオケバーが造られていて、 体力があ れば朝方まで歌い放題である。特に冬の夜長は音楽を体中で楽しん でいる。トロント に赴任されていたある方は、毎朝、一曲歌を歌ってから出勤され ると言うお話を聞い た。 記事にもある様に、「仲間と一緒に歌うことで楽しいコミニュケー ションができる し、青春時代にプレイバックもできる。あの頃に、若返ろう…それは カラオケ健 康法なのだ。」 我が家は、キッチンのラジオはいつもオンにしているが、そこから 時々「上を向 いて歩こう」が流れてくる。音楽は言葉の壁を越えて親しまれている。 あるジャズ 歌手が言っていた。「音楽は、その言葉の意味がはっきり分らなくても フィーリン グで聴けばいいのです。」、と。我が家の子供たちも、それぞれの部屋で 好きな 音楽を流している。家中、様々な音楽が流れているわけである。時々、日本の CDを聴きながら「この歌詞の意味は?」と聞かれることがある。まさに、音楽は 親子の関係もスムーズにしてくれる貴重な存在のようだ。 さて、友人たちとの話題がだんだんと健康や病気のことが多くなってきた。これ からも、益々音楽と友達になりながら、生活の中に取り入れて心にゆとりを持ち たい、と思っている。 記事にもあった。「家事をしながら、…をしながらの『ながら音 楽』でもいいので す。」