あつ子@カナダ2

日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。



夏の便り 2003年8月19日  今日も朝が来ました。空は青空。空気が澄んでいます。このところ、トロントは日差しが強くて暑い 日々です。日本より暑いかもしれないですね。  トマトが真っ赤になり始め友人たちにおすそ分けしています。やっぱり甘くておいしいって評判です。近 くの友人もトマトがたくさんできて、今度どちらが甘いか比べる事にしました。お互いに交換です。  コスモスも咲いています。朝顔も咲いています。ほおずきも色づきはじめました。ラベンダーの色が爽 やかです。紫蘇も頑張ってのびています。我が家の小さな庭は賑やかです。  梅はうまく漬かりそうですか?帰国すると母手作りの梅干しをよく持ってきました。真っ赤な梅が今で も冷蔵庫の中で眠っています。ときどき、和歌山の友人がお土産に和歌山の梅干しを買ってきてくれま す。子供たちも梅干しが大好きです。おにぎりには最高ですものね。  宮崎の冷汁も夏には作ります。時々友人たちに作ってあげます。栄養万点ですし子供たちも大好きで す。  日本人に生まれて良かったとつくづく思います。子供たちも日本食で育っていますから何だって食べま す。日本語と同じように食文化を微力ながら伝えていくのも私の役目だと思っています。  さて、「停電」の後遺症は徐々に解消されつつあります。このところ、散々な目にあっているトロントで すが、様々な出来事が起きて様々な事を学び、きっとこれからトロントは、益々住み心地のよい町になっ ていくだろうと思います。山のないトロントは、果てしなく広く、森と湖と草原に恵まれた所なのですも の。  じゃ...今日はこれで!またお便りします。
暗闇の中で 2003年8月15日  30時間経って、ようやくトロント全域に明かりがついた。この長い時間の中で色んな事を経験し色んな思いをした。  さて、あれから停電になって5時間程の時間が流れ、すっかり暗くなった。家に30本ほどのロウソクがあったのが幸いだった。いたる ところに、ロウソクを立てた。ラジオでは、ローソクの火にはご用心としきりに言っている。大学の娘は、明日の試験に備えて、ロウソク の明かりで勉強をはじめた。文明社会の中で見るその姿は不思議な光景に見えた。  10時頃、窓から外を見ると不気味なくらいに静かで暗い。明かりのない夜が、こんなにも暗いなんて驚いた。ひとり部屋で時間を持 て余していると娘が呼んでいる。「マム!外に来て。星がすごくきれい。」誘われて外に出て空を見上げると、北斗七星がそこにキラキ ラと輝いている。  中学生の頃、田舎の実家で降るような星空の中で見つけたその北斗七星を思い出した。その同じ星を今、この異国の地で見つめて いる不思議さを感じた。  どんなに時代は流れても、星は同じところで光り輝いている。一時の暗闇は、私に色んな思いを与えてくれた。
大停電 2003年8月15日  昨日の夕方近く4時頃、プッツリとすべての電気が途絶えた。電話連絡で、広範囲に広がっているという。 コード付きの電話だけが働いて携帯電話などもつながらない。すぐ直るだろうと安易に考えていたのは 大間違いだった。そろそろ、4時間が経つ。もう外も薄暗くなっている。ラジオをから長時間かかるような事が 聞こえてきた。懐中電灯、ロウソク、ラジオ...慌てて準備をはじめた。  ラジオから、サブウェイがストップ、信号がストップ、空の便もストップ...そして、スーパー、レストランなど すべての起動がストップしたという。道路は、家へ急ぐ人で混み始めている。バスは満員。すべてのイベントなどが キャンセルになり、バスに乗れずヒッチハイクで乗り合わせて帰宅した人もいたようだ。  朝4時過ぎになって、私の住んでいる所は平常に戻ったが、隣の地域は今もまだ停電のままだ。そこに住んで いる友人たちから電話がかかってくる。もうかれこれ22時間以上停電になっていることになる。冷蔵庫の中の物も 限界がきているようだ。  今日は、ガソリンスタンドも、昨日のラッシュで車のガソリンを使い果たした人たちがため息が出るほどの列を作っている。 スーパーも人.人.人。  平常に戻るには2.3日かかるようだ。それですむだろうか。便利過ぎるほどの世の中に生まれて生きて、真っ暗闇の 中での怖さを感じた時間だった。
カナダは夏真っ盛り 2003年8月6日  今年は、何だか春先から雨が多い。でも、素敵な夏はやって来た。  カナダの夏の醍醐味と言えば「バーベキュー(BBQ)」だ。夏の風物詩ともいえるかも しれない。だから、どこの家にも必ず裏庭には、バーベキューセットがドカーンと備わっている。 家族の間でも、「今日は何にしよう...」なんて悩んでいる間に、もう、「バーベキューだーい。」 なんて決まるほど手早い、手軽いメニューだ。  そして、夏に友人を招待して手軽にできるこのBBQは、どこでもメインのコースになる。 主婦にとってもお客様の接待は夏はこれにかぎるというもの。肉や魚貝類を用意して野菜を おおざっぱにざくざく切って、コーンやポテトはBBQ用にちゃんと売っている。後は、サラダを 作って「はい!出来上がり。」ビールがあればもうみんな大満足。  カナダで生活していると、そのようなBBQに招待されることが多い。BBQはとってもカジュアル な集まりだから気軽に招待されるが、やはり、そんな時には、ビールやワインなど自分が飲む ドリンクぐらいは持っていくのがマナーのようだ。  そして、カナダではBBQは男性の自慢のひとつでもある。それほど、こちらでは、BBQセット に向かって黙々と焼く係りは、男性と決まっている。ある本に書いてあったが、そのひたすらに 孤独の中で焼き続ける人の事を「BBQキング」と呼んでいた。孤独の中で...なんて書いて しまったが、BBQキングは、みんなが食べて、飲んでおしゃべりしている間、ただひたすらに 肉などの焼き加減を気にしながら目を離さずに番をして、ただひたすらに背を向けて焼き続け ているから孤独かもしれないとある本に書いてあったからだ。そういえば、私も一度、女性の 集まりで「BBQクイーン」にされてしまった。その時、おしゃべりの私が黙々と焼く事に夢中に なったのだ...。向こうでは、テーブルに並んだ焼きたてのBBQで賑やかな宴が繰り広げら れていた。でも、お陰で大成功だったBBQパーティーは、後々まで焼き役が賛美を受ける 事になるのだから、あの日のBBQの主役は、やっぱり「BBQクイーン」だったのよと大笑いしたものだ。  そんな賑やかな日本人のBBQには、やっぱり焼きおにぎり、お漬物、枝豆などが並ばない と淋しい。そして、みんな嬉しい事に得意のお料理を一品づつ持って集まることが日本人の 間でもマナーになっている。  さて、今月はひとつBBQパーティーが入っている。ほとんどが日本人らしいから、私の得意と するお漬物(おにぎりと一緒に食べましょう)とワイン(お肉にはやっぱりレッドがいいかな)を 持って、夜9時頃まで明るいカナダの夜長をエンジョイしょう。カナダの夏は短い。
日本語の中で 2003年7月31日  ある友人の子供が言ったそうだ。「どうして、カナディアンなのに日本語を勉強するの。」  子供たちは、ある時このようにたくさんの疑問点にぶつかりそれを直球で投げかけてくる。 親が、どのように答えるかでそれからの日本語への方向が決まる事もある。だから、親たちは 納得する確かな答えを用意しておかなければならない。  娘が、ある時、日本語がおろそかになっているような状況になった。はっきりと言葉では 言わなかったが、日本語への意欲がなくなったように感じとれた。私は、鏡の前に立たせ、 「自分の顔を見てごらんなさい。日本人の顔をしてるでしょ。それなのに、英語ばかりが話せて 日本語が話せなかったら変だと思わない。」  毎朝土曜日、学校までの道のりは子供と会話をするいい機会だ。子供たちには、時間ぎりぎり まで寝かせておいてから起こすのだが、時には眠たそうな顔をしてぼんやりとした日もある。 私は、「さあ、日本語学校にいざ出陣。頑張ろうね。」とハッスルするのだが、なかなか テンポが合わない。そこから、私のいつもの会話が始まる。「ねえ、日本に行きたい?行きたい んだったら日本語ができないと大変だよ。日本にいるおばあちゃんたちは、英語なんてわからな いのだから。どうするの?」この言葉が、なかなか効き目があるのだ。 でも、親も我慢の限界の中で時には「日本語ができないと日本に連れて行きません。」 と強い口調になる事もある。だが、これが1番の特効薬のようなのだ。  しかし、親も多くは望めない。毎日、日本語を読んだり書いたりするわけでもないのだから。 日本の学校の教科書に出てくる漢字をすべて読み書きができるようになるには、かなりの努力がいる。 漢字も簡単な頃は、書き順に厳しくしたりしていたが、そのようにしていたら子供たちは日本語に ついてこなくなる。  今は、聞く力、話す力ができるようになればいいと思っている。なにごともそうだが、「やる気」 が優先なのだ。14歳の息子も、いつかきっとその日本語の必要性に気付き「やる気」が起きるはず だと思っている。親は、じっとその時を待っているのだ。
日本語の教育 2003年7月22日  トロントには、日本語を学ぶ事を目的とした日本語学校が数多くある。新移住者(戦後移住した人たち)の日本語学校 が三校、日本に帰国する海外勤務者などの子女の学校(文部科学省の指導要領に沿った日本の教育)、まったく日本語を 話せない生徒を対象とする成人を含む学校、また主にカナダ生まれの児童生徒(日本語学習による高校外国語単位習得を 目的、日本及び日本語に強い関心を持つ)を対象とした学校など様々だ。  そのどの学校で学ばせるかはまずは親の選択によって決まる。私は、長い道のりになるのだから、子供の友達が通って いた事や家から近いという条件で決めた。その中には、子供たちが楽しく飽きない教育である事も十分な条件に入っていた。  4歳(1組)からスタートして15歳(12組)まで日本の国語の教科書を中心に進められていく。13歳、14歳、 15歳になると教科書に漢字が多くなったり、単元の内容の興味が薄くなったりとここで躓く生徒が増えてくる。以前は、 移住者の子女用の教科書ができないものかと案を出したが、夢のような話で立ち消えている。子供が躓くと親も努力の中で 一緒に躓いてしまう場合も多い。学校側も、いろんな試みで研究しながら四苦八苦している。一ヶ月にたったの4回の授業 だが、その1回には、日本の文化(華道、剣道、柔道、空手、百人一首、習字、折り紙、将棋など)を取り入れて子供たち に授業の変化を与えると同時に日本の文化を学ぶこともしている。  長男が、大学で日本語を専攻して日本語についてエッセイを書いたのを読んだことがある。そこで、私は長男が日本語を 学ぶ事に対する気持ちを初めて知りショックを受けた。エッセイには、こう書いてあった。「13歳になる頃、日本語が 大嫌いになった。なぜ日本語を学ぶのか分からなかった。それでも、嫌々ながら通った...。」私は、その頃、一度も この言葉の状態に気付かなかったのだ。それなりに、そうならないように細心の注意をはらって接してきたつもりだった。 その部分を読んだ時、子供の日本語に対して自信をなくしたが、その後に続くエッセイの内容で救われた。「でも、今、 日本で仕事をしたいという目的を持って日本語を学びながら、雨の日も寒い雪の日でも一生懸命になって日本語学校に 連れて行ってくれた親に感謝している。そして、日本語を学んできて本当に良かったと思っている...。」  今、14歳の次男がその真っ只中にいる。夏休みに入って山のように日本語の宿題を抱えているが、それをクリアー するには親子とのうまい関係から始まる。私にとってもそれは大きな課題だ。
子供の教育 2003年7月11日  子供が生まれると徹底的に日本語で育てた。 赤ちゃんの頃から日本の童謡を歌って聞かせ、日本の童話を読み聞かせた。「ももたろう」の話などは、 ベットタイムに話して聞かせていたので、「どんぶり...どんぶり...」を繰り返して言っているうちに眠りに 入っていたものだ。子供が、二人になると忙しくなったので、カセットテープに童話も童謡も吹きこんで、 それを枕もとで聴かせた。車の中では、いつも中心は子供の童謡だった。  やがて、4歳になり幼稚園に行く時期が来た。午前と午後の2時間であるが、親の都合でどちらの時間に するか選択することができた。さて、今日は入園式と思って張り切って出かけると、幼稚園のクラスのドアで 優しそうな先生が出迎え、子供たちそれぞれに話しかけて、親たちには、「2時間後にお迎えに来てください。」 と言っただけのあっさりしとしたものだった。これは、小学校の時も同じで特別に入学式などはなかった。 日本の事を考えると気が抜けたが、でも慣れてみるとそれはそれで別に華々しくなくてもいいと思えるようになった。  そのようにして、幼稚園が始まると子供たちは、毎日スナックを持って学校の幼稚園のクラスのドアのところで 別れ、2時間の英語の世界へと入っていった。今まで、日本語で育ってきたのだから、日本語のない2時間は 相当に疲れるらしくて帰宅するとぐうぐう昼寝をするのが常だった。  スナックは、お菓子類ではなくチーズやクラッカー、にんじんのステッキ、りんご、バナナなどのフルーツ類... などなどだった。何度かボランティアをさせていただいたが、スナックの時間になると先生はコーヒーブレイクになり、 前に書いたように幼稚園は小学校に設置されているので、その時間は高学年の生徒たちが交代で園児たちの 面倒を見に来ていた。小さい子供の世話をする事を学校はこのようにして教えていたようだ。一人っ子などには、 特にいい学びの場ではないかと思ったものだ。  幼稚園に行き始めると、子供たちの周辺も賑やかになる。友達ができるとバースディに招待されたり招待したり して、どんどんと英語の世界が広がっていく。それに、この頃からフランス語も習うようになる。一方では日本語学校 に入れて日本語も学ばせた。日本語学校は、土曜日の午前の3時間だけだったが、基礎から習う事が大事だと 思い4歳になったその年からスタートして、いよいよ長い長い日本語学校の送迎が始まった。3人の子供を3人分 足すともう休むことなく20年以上も続けている。子供が成長して自分を主張するようになると日本語の勉強は 親子共々倒れそうになったりしたが、それでもどうにか乗り越え続けてこれたのは何だったのか、次の機会に書いて みようと思う。
オンタリオ州の教育システム 2003年7月8日  子供たちは6月の終わりから9月の始めの新学期まで、長い夏休みに入った。 この長い夏休みの間、日本のように「夏休みの友」みたいな宿題があるわけではないので、完全に学校から 解放されると言っても過言ではない。でも、長い休みだから親たちは、どのようにその休みを過ごさせるかなど、 その家庭の事情や考え方によってまちまちだ。  親が共働きであったり、またはそうでなくても1日のデイキャンプ、お泊りのコースのキャンプなどがあちこちで 企画、開催されるのでそれらに参加させる事が多い。  公立学校であるパブリックスクールは、グレード1からグレード8(地域によってはグレード9まで)までとなっている。 学校の科目は、英語、フランス語、算数、理科、社会、体育、音楽、美術。8年生になると、就職するか 進学するかでコースを選択するようになっている。  グレード9からグレード12まではハイスクールになるが、これは、日本の中学校高学年から高校にあたるようだ。  2002年からオンタリオ州では、全高校生に4年間の履修を義務づけている。高校卒業資格を得るには、 30単位(必修科目18単位、選択科目12単位)を取得することになっている。 その他40時間のボランティア活動が必修科目に入り、親たちはこの科目に歓迎している。 またさらに卒業するには、厳しいテストが加わり、グレード10で、基礎的なライティング、リーディングスキルをみる Ontario Secondary School Literacy Testに合格しなければならない。  2001年までは、グレード9からグレード13までの5年の履修だったので、今年の9月の大学入学は、 グレード12とグレード13が同時にハイスク−ルを卒業して、同時に大学に入る事になるのでマンモス入学となり、 その調節に大学側は大変なようだ。  また、パブリックスクールには、4歳(ジュニア)5歳(シニア)の幼稚園が併設されている。でも、この幼稚園は 義務ではないが、普通、ひとつの学校で4歳から13歳の子供が一緒に学ぶようになっている。だから、時には 高学年のクラスの生徒が、幼稚園のクラスに行って本の読み聞かせをしたりと教科書では学べない事を学んでいる。 これには、とても感心させられた。  朝は、8時半ごろまでには学校に到着している必要があるが、雨などの悪天候の日や寒い日以外は、 早く着いても校舎に入ってはいけない。時間があれば、始業のベルがなるまで外で過ごす事になっている。それは、 休み時間であっても同じで必ず外で過ごす事になっている。  昼食は給食が出ないので、学校の許可を得て家で食べるか、ランチを持参してランチルームで食べる。 その時間は決まっているので、ランチタイムが終ると次の授業が始まるまでみんな外に出される。だから、 時間内に食べないと食べ終わらないうちに外に出されてしまう場合もあるようだ。  移住国カナダは、様々な国の子供たちが一緒になって様々な文化を共有しながら勉強をしている。それに、 移住して英語のハンディのある子供たちの為に学校ではESLクラス(第ニ言語としての英語コース)を設けて 特別に英語を学ぶシステムになっている。 さて、オンタリオ州の教育システムについてちょっと触れてみたが、そのなかでも移民国として学校で異文化を 大切にする事を教えているカナダの教育は素晴らしいと思う。
楽しい予告 2003年6月30日  友人の企画で来年の4月『陸奥(みちのく)銘酒の旅』のツアー話が進み、その予告篇のパンフレットが届いた。  『陸奥銘酒の旅』だなんてなかなかいいフレーズだ。”大吟醸を味わいつつ桜の花を愛でる旅”とくれば「ふんふん ...なるほど」と気持ちが傾く。さらに「”地酒と郷土料理との絶妙なコンビネーション...”」という文字に目が輝いてくる。 とどめに「”大吟醸酒を蔵元みずからの案内で味わっていただきます。”」とあれば、関心と好奇心がめきめきとふくらんでくる。 さらに、さらに、岩手県、宮城県、福島県にまたがっての旅となるのだからもう心は決まったようなものだ。  いまだ一度も足を踏み入れた事のない、その三つの県の銘酒の酒蔵を訪ねる旅なのだから、とうとう友人に参加の OKのサインを出してしまった。今まで、世界をまたがったいろいろなお誘いのツアーを受けたが、何かにと気持ちが 落ち着かず全部断っていた。しかし、そろそろ長年の私の夢としての待ちに待っていた時間がようやく来たようだ。 家族にも少しづつ心がまえをさせるため話す事も始めた。「”この体、動ける時が動く時”」なのだ。それに、夢は若い 人だけに与えられたものではない!、というのが私の考えで、それぞれにその年代にふさわしい夢があると思っている。 それに、長く、日本を離れているとやっぱり日本の魅力に参ってしまいこころがひかれてしまう。「温泉、ラーメン...い いなあ。」異国に住む人たちは、みーんな「日本に行ったらまず?」の質問にそう答える。  トロントに住んでたくさんの同胞に出合った。南は沖縄から北は北海道まで。みんな「おいで、おいで」と手を振って 招いているのでまずは、第一歩の陸奥を歩いて、それから徐々に日本横断をしながら友人を訪ねる旅に出よう!。 夢はどこまでも大きく広がる。  「5泊7日の旅...数々の名所旧跡とそれをさり気なく演出する美しいさくらの花びら...そんな日本をそんな特別な 日本酒を心より楽しんでみませんか。」道連れのカナディアンの人たちにもきっと「どお!日本って結構いいところでしょ?」 って自慢もできる。  そんな来年の楽しい予告篇を読みながら、どうか実現しますように...どうかその時には、何の問題も無く飛行機に 乗れますようにと祈りながら子供のようにはしゃいでいる私だ。
SARSこぼれ話 2003年6月28日  今日、届いた日系新聞にSARSの影響で辛い思いをしている人たちの事が掲載されていた。 そこには、日本のメディアの報道姿勢にも問題があると記してある。私も、その手の話題をたくさん耳にしている。  日本の老人ホームに住む母親を訪問しようと帰国の予定の方は、WHOの安全宣言がないかぎりホームに 来ないようにと言われているそうだ。ある方は、帰国して風邪気味で病院に電話をしに行ったら、駐車場で 「車から降りてはいけない」と言われ、そこへ重装備をした医者と看護婦が駆けつけ、その場で診察を受けて 一歩も病院に入れなかったという。その上、自宅での10日間の隔離状態になった。  ある帰国した女性が投書していたが、帰国の疲労と気候の違いで風をひいてしまい、その苦しさに耐えかねて 病院へ行った。窓口で「トロントから帰ってきました。」と言ったから大変!。完全防備をした看護婦が現れ、小さな 部屋に連れていかれた。診察券は嫌と言うほどエタノールのスプレーで消毒される始末。”はやて”のように現れた 医師からの指示でレントゲンをとられるなどの診察を受けたが、結局はOKだった。 看護婦がそのあとすぐに言った言葉が「さあ!無罪放免よ!」だったそうだ。犯罪事件の被疑者みたいで何とも 気分の悪い日だったと記してあった。  また、ある方は、初孫の顔を見せたいと帰国しようとしたが「帰ってくるな!」と親から言われた。そして、ある方は、 仕事で帰国したので実家に連絡をしたら「来ないで!」と断られ、困ったあげく友人に電話をしたら、ここでも 「会えない。来ないで!」と言われ、仕方なくホテルにという羽目になったそうだ。  新聞にあるように過剰反応だとしか思えない。ある日本のテレビ局がトロントに取材に来て、空港を降りるとマスクを している人がいないことに驚いたそうだ。街中でやっと一人を見つけ追うようにして撮影をしたという。 新聞に「もっと市民が普通に安全に暮らしている風景を取材してほしかった。」と結んであったが私も「そうだ。そうだ。」 と深くうなずいた。  さて、私は来年の4月に3年半ぶりに帰国の予定にしているが無事に帰国できるだろうか。
悪戦苦闘 2003年6月24日  「トロント宮崎県人会」を発足させて丸5年が経った。 宮崎県人会が産声をあげてから後は、それはそれは悪戦苦闘の日々だったが、ようやく足を地におろして 歩み出すことが出来るようになった。会員は40代,50代となり、我々の二世たちは巣立ち始めた。  親が日本を離れて悪戦苦闘の日々を送って落ち着くと、その子供たちは親の生まれ育った祖国へ仕事を 見つけて羽ばたいていく。子供が幼稚園へ、小学校へと通うようになると、英語と日本語のどちらを話そうかと 迷う時期がやってくる。子供は、その頃になると簡単に英語を吸収していく。幼稚園に入ってからすぐに、 「ママ、先生が...と言っていたよ。」とちゃんと日本語で伝えるようになるのだ。その速さに驚かされる。 そして、友達と外で遊ぶようになるとますますその速さは加速してくる。油断をしていると、日本語がおきざりにされてしまう。 その頃になれば、親と子の関わり方しだいで、言葉の方向が決まってしまう。それこそ、親子の悪戦苦闘が始まる。 その辺りの事は、次の機会に徐々に書いて行こうと思う。  そのような、悪戦苦闘のわれわれ新移住者の日々がようやく終ろうとしている。早い人ではもう、三世が生まれている。 そんな一息をいれながら過ごしていると、同じ言葉(方言)、同じ歌(故郷の歌)、話題(昔の生まれ育った頃の事など) が心地よくなってくる。そこで、県人会が生まれることになるのだ。現在、トロントには”21”の県人会が生まれ育っている。  さて、わたしは今、会長から「2400字でトロント宮崎県人会の事を書くように」と命令が来て、素人の限界を感じながら 悪戦苦闘の日々が続いている。小雑誌に掲載されるということで、この5年間の県人会の歩みを紐解きながら書き綴って いるわけだが、人生の中の様々な悪戦苦闘はいつまでもいつまでも続くようだ。
日本語の言葉 2003年6月20日 トロントに住んでまだ日の浅い友人に言われたことがある。 「日本語に変な英語が入っていますよ。」思わず笑ってしまった私だったが、これが長くカナダに 生活している証だからさほど気にしなくてもいいかなと思っている。長くカナダに住んでいる私は、 日系一世、二世の人たちのそのユニークな日本語を知っているからだ。  日系一世、二世の人たちとたまに会うと、「ハロー!ゴルフ遊んでますか。」と聞かれる。 「はい!やっています。」と答える。「この前、ミーがあそこに行ったらユーを見かけたよ。」などなど...。 このように、何となくユニークな会話になるのだ。でも、こういったことは日本の地方の方言にも似ていて、 結構人との関係を温かく楽しくしてくれる。そしてまた、英語の世界で苦労をされたきた日系一世、 二世の人たちの長い歴史を読み取る事ができるような気がしている。    言葉と言えば、よく友人たちとの間で話題に上る話がある。 「日本の若い人は語尾を上げておもしろいイントネーションで会話をするらしい。」と。Eメールをしていると 日本からも宛名違いのメールが入ることがある。ん?誰だっけ?と疑問に思いながらも、つい開けて読む ことになるのだが、ある日、届いた間違いメールを読んでその内容の日本語に驚いた。内容からして 女子高校生か大学生のようだったが、「?これが、日本語?女子がこんな言葉を使うの...?」と唖然 としてしまった。日本語が汚染されているような思いにさせられた。  友人は久しぶりに帰国して街を歩いていたら、ぶつかった女子学生に言われたそうだ。 「ばばあ!何をもたもたしてるんだよ。さっさと歩け..。」友人は、ショックだったと言う。聞いた私も信じられない思いだった。  こんな事を思い出していた矢先、NHKのあるドラマの中で、ブラジルに移住している女性が、久々に帰国して しみじみと話すその台詞が心に残った。「向こうに渡った者は、日本の心を失わないように懸命に頑張っています。 心意気...日本にはこんな素敵な言葉があったのですね。」私はドラマの中の女性と同じ立場にいるからだろうか、 その台詞にとても感動した。でも、今の日本を考える時、日本の古くから伝わる奥ゆかしい言葉は消えていっている のではないだろうかと思わずにはいられない。 「時代の流れだ」とひとことで済ませるには何だか淋しいような気がするのだが...。
その後のトロント 2003年6月18日  様々なことで気分の沈んだトロントの人たちを元気付けようと観光や飲食、娯楽産業が 色んな事を試みているようだ。ひとつは、ホテルやミュージカルなどをパッケージにしたもので びっくりするような格安である。次はスカイドームなどで一大コンサートなどが催しされる。 トロント市民にとっては嬉しいことだ。ダウンタウンのホテルもいつもよりぐーんと安くて大学生の娘などは、 友人たちとお泊りのコースを取って楽しんでいる。そして、「みなさん、トロントに来てください」という新聞 広告の観光宣伝もあったようで、トロント活性化のために色んなところで色んな試みがされている。  先日は、スカイドームでのベースボール観戦チケットがたったの1ドル。その様子はテレビで放映された。 親子連れなどの観戦客がスカイドームへと吸い込まれるように入って行っていた。満席の大人気だったらしい。 しかし、値段が元に戻れば人もまた元にもどる。これは、きっと今のトロントの現状のせいではなく、昔にストを してファンをベースボール離れさせたその後遺症が、まだ残っているのではないかと私流に判断している。  さて、新聞によると、カナダ最大の航空会社で、世界11位と言われるエアカナダ社の7800人にも及ぶ 従業員が解雇される。9.11やイラク戦争、SARSなどでパンチをもろに浴びているこの業界が生き残る為の ひとつの手段でもあったと記してある。  ところで、オンタリオ州観光局が、「SARSの心配はありません」という安全PRビデオを抱えて日本を訪問した という。さて、その結果がどう出る気にかかる中で、夏の観光をメインとするトロントの景気の成り行きは、人事 ではないのだと思いながら素晴らしい季節になったトロントの日々を過ごしている。 
「さくら」 2003年6月16日  この春、日本列島を「さくら」という歌が流れ響いたと聞いた。 最近、森山良子のCDを毎日流して聴いていただけに、偶然なのかなあと思いながら、この「さくら」をいつか聴きたいと 「さくら...さくら」と気にかけていた。   不思議なもので、求めていると与えられるもののようだ。2週間ほど日本へ帰国していた友人がさりげなく言った。 「今、日本で『さくら』という歌がすごく流行っているのよ。とてもいい歌よ。」驚いた私は、すかさず「えっ!ね.ね.ね....その CD買ってきたの?」と聞いた私だったが、それから1週間後の今、私の背中でその「さくら」が流れている。 友人と一緒に、海を越えて手元に届いたその歌を聴いていると、惜しみながら別れた人たちが心に浮かんできそうになる。  歌は、その時代に生まれその時代を歌いそしてその時代の人たちの心をつかむ。自分の親にもそんな歌があり、自分にも、 そして子供たちにも心に残る歌が、残っていく歌がある。そして、時には、そんな誰にでも同じように心に伝わる同じ歌がある。 「さくら」は、きっと世代を問わず同じ今の時代に生きる人の心をつかんだにちがいない。異国で聞く「さくら」は、何となく励まして くれるような、支えてくれるような、優しさの中にあるぬくもりにも似た包容力のある歌に聞こえてくる。そんな歌は、どんな時代にも 必要なのだと思いながら、「さくら」を繰り返し聴いている。
夏はご用心  2003年6月13日  夏にご用心といえば空き巣の事である。NHKでやっていたが、その町になぜ空き巣が多いかという 特集だった。その対策案として、町の中の掲示板のポスターをしっかりと管理する事。挨拶を交わして 近所関係をよくする事、子供たちが賑やかに遊んでいるなど、町を華やかにすることだと言っていた。  さて、ここトロントでも夏になるとご用心なのだ。この話は、ハイスクールに行く子供から聞いていたが、 日系新聞にも掲載された。  ある夏の日、裏庭に置いてあったバーベキューセットが姿を消した。盗まれたと思っていたら、後日戻って きたのだ。ご丁寧に封書が添えてあった。「今日、どうしてもバーベキューがしたくてお借りしました。お礼に、 ベースボール観戦のチケットをさしあげます。皆さんでどうぞ楽しんでください。」と家族分のチケットが入って いたそうだ。まさかと疑ったが、問い合わせてみると本物だということが分かった。そして、その日、家族で楽しく 観戦をして帰宅した。帰宅してびっくり。家中が空き巣に荒らされていたのだ。これは、まさに知能犯の例である。  私の友人も何人も経験している。ある友人は、日本から帰って来たばかりのある日、1時間ほど家を留守 にした。帰宅してみると家中荒れ放題になって、宝石、日本円、カメラなどそしてパスポートまでなくなっていた。 途方にくれた友人が、落ち着いて周りを見渡したら、なんとビールが2本冷蔵庫から出して飲んであったと言う。 なんと図々しいと人ごとながら怒った私だ。そして、もうひとりの友人は、帰国を控えていた矢先のできごとだった。 子供たちを映画館に送りショッピングをして帰宅したら、大掛かりな空き巣にやられたらしい。家にあった高級車に、 テレビ、ビデオ等の電気製品、それに帰国の為に用意していたスーツケースの中身を全部出して他の物を入れ、 置いてあった高級車に乗せて持ち去ったと言う。しかし、聞いてびっくりするほどの額の日本円は置いてあったらしい。 後で、車は、ダウンタウンに置き去りにされて見つかった。また、ある人は、休暇に行って帰宅すると家の中はもぬけ の殻になっていたという話も聞いた。トラックで堂々と来る空き巣に、近所の人は「お引越し」と勘違いしてしまった らしい。  このように、書けばきりがないが我が家は対策にアラームを取り付けた。最初は、慣れなくて慌ててしまい何度も 近所中にけたたましい音を響かせた。ポリスが言ったものだ。「あまり頻繁だともう我々は来ないよ。 それにペナルティーになりますよ。」それから、失敗はなくなったが、それでも、長い時間出かける時は、ラジオの ボリュームを大きくして、電気を部屋中につけておくようにしている。
夏時間  2003年6月11日  カナダは、4月から10月まで夏時間になる。4月になると時計の針を1時間前に進め、 10月になると1時間バックさせなければならない。その日は、必ず日曜日と決まっている。 それは、その作業をするのを忘れると色んな失敗が起こる事があるのでそのように 配慮されているのだろう。実際に、日曜日に仕事をしている私は、その日の前夜、 時間を変えるのをすっかり忘れて仕事に遅れそうになった事もある。  カナダに来た頃、その夏時間になかなか慣れなくて困った。何しろ、夜の9時半頃まで 明るいのだから参ってしまう。子供が小さい頃、8時をベットタイムにしていたが、外が 明るいので調整が大変だった。  カナダでは、夏の風物詩である花火は家では普通してはいけない。でも、ビクトリアデー とカナダデーの祝日にはしていいことになっている。だから、その日が近づくと道路やコンビニ の店などで花火を売るようになる。その日になると、公園や庭で打ち上げ花火などをする音で 賑やかになる。ところが、カナダの夏は、なかなか暗くならないので、子供が小さい頃は、 暗くなるのを待つのが大変だった。でも、日本から送ってもらった花火などを用意して楽しみに 待っているのだから、その日を見逃すわけにはいかない。そんな子供を連れて、一度日本の 夏に帰国したが「毎日花火ができる。」と言って喜んでいた事などを思い出す。  これから、日本はどこそこで花火の音が聞こえるようになるだろう。カナダの夏時間にすっかり 慣れてきた私だが、もう長く日本の夏を経験していない。
国民性  2003年6月6日  今、トロントはライラックが花盛りだ。小さな我が家の庭にも色んな花や野菜が 育ちはじめた。今年は、昨年友人からもらったジャスミンがうまく根付いたようだ。 隣の庭にも、さくらんぼや桃、いちじく、イチゴそしてトマトやズキニなどが育って 賑やかになる。さくらんぼや桃の時季になるとフェンス越しにもぎたてのフルーツが たくさん届く。イタリア人は、本当にフレンドリーだ。その隣のイチゴが、今年も我が家の庭 にたくさん根付き白い小さな花を付けている。そして、2年前に植えた菊が隣に根付 いて土に生きるものたちも隣同士で仲良くやっているようだ。  カナダに来た頃イタリア人の家に間借りをして住んでいた。これからの季節になる と、その家の菜園にはたくさんのトマトができてそれでソースを作る。それに、その 菜園にできた野菜のピクルス作りもお手の物のようだ。どの家にも、ベースメントに はコールドルームがあって、そこに1年分の保存品を作って保管する事が出来る。そ れにワイン作りも盛んで、その頃になると甘いぶどうの香りが家中に漂う。大きな樽 に入れて、ベースメントで寝かせておくと渋いワインが出来上がる。外でバーベキュー をしながら、ジョッキーで飲んでいる姿は本当にゴージャスだ。毎年、その自家製の ワインが楽しみだった。その渋みが焼きたてのステーキとマッチして、その味は、最初 は手ごわいがいつの間にかとりこになってしまう。  カナダに住んで、色んな国の人たちの生活を見ていると国民性がわかっておもしろ い。そのように、イタリア人は畑を作ったり自家製のピクルスを作ったりと日本人と 似ている。それに結婚式も盛大だ。フルコースの食事が終っても、永遠と続くかのよ うにワインや食べ物が限りなくでてくる。そして、しあわせな二人のダンスがはじま ると両方の親がダンスの仲間入りをして、そして招待客へと広がっていく。食べて飲 んでダンスをして、それは深夜まで続く。そんな陽気なイタリア人はやっぱりどこか 日本人と似ている。  カナダに住むドイツ人やイギリス人は几帳面だ。隣の芝生が伸び放題になっていた りすると注意がくる。それは、自分の家だけをきれいにしても周りがそうでなけれ ば、美観が損なわれるということのようだ。私もながく住んでいるとなるほどとうな ずける。  ところで、外国の人たちが、日本に降り立ってまず驚く事は、みごとに干してある その洗濯物とふとんの光景らしい。私も久しぶりに帰国してその光景を見ると、「あ あ、日本だ。」と思ってしまう。そして、ホッとした気分になり長い空の旅の疲れが とれたような気持ちになる。でも、これは、確かに見慣れない国の人たちにとっては 珍しい光景だろうと思う。   さてカナダの社会でも、生活していく中でその厳しさなど驚く事がたくさんある。 そのひとつをあげると、住宅地に住む人たちは、コマーシャルの入ったトラックやバ ン等の車を持っている場合、それらは、見えないようにガレージの中へ入れなければ ならない。前庭にある自分の敷地のドライブウェイであってもそれらは止めてはいけない。 これも、やはり周りの美観を損ねるという事なのだろう。カナダの家は、裏庭はフェンス や植木で仕切られているが、前庭はオープンになっている。カナダに来た頃、その日 本との違いを聞かれどう思うかと問われたことがある。私は、家の前庭がオープンで あることによって、隣との交流ができるのでその方が良いのではないかと答えた。そ れに、その方が犯罪防止にもなるという。だから、玄関の周りにはあまり大きな植木 をしないと聞いた。  国民性というものは、言葉や気候が違うようにその国々によって様々だし、またそ の国が産んだ長い歴史の中での習慣や知恵がある。この移住国カナダのように多国民 族が生活している国では、そのそれぞれの国民性を大事にしながら、周りの人たちへ の配慮をする事でうまく社会が成り立っているように思う。