あつ子@カナダ1

日本を離れた歳月が、生まれ育った日本での歳月を超えた時、カナダに生きる自分を、
生きてきた自分と一緒に見つめて見るいい機会に恵まれたと思っています。
人の人生は、決して単調でない事などを含めながら、日頃の自分を異国の地で色んな方面から
分析をしてみたいと思っています。これからも、ささやかでも感じる心を持ちながら、
自分の言葉で自分らしさでこれからも綴っていきたいと思います。



SARSがもたらすもの 2003年6月1日  新型肺炎SARSが、再びトロントを不安に陥れている。日本のマスコミも大きく取り 上げているようで、日本の身内や友人から次々とEメールや電話が来る。そして、日 本を離れて、ここトロントでたくさんの人と関わってきたが、中にはそういったカナ ダで知り合った人たちからのものもあり、改めて人の優しさや思いやりに触れている ような思いがする。忙しい日本の日常の中で、ひとときの時間を取って心配をして くれるたくさんの人たちに、心から感謝をしたい。  帰国の決まった友人が不安そうに話していた。「日本に帰国したらトロントから 帰って来た事を伏せた方がいい。」と言われたらしい。久しぶりに、遊びに帰国しよ うと計画していたある友人は、「しばらく帰ってこないで。」と言われショックを受 けていた。また、ある友人は、カナダに35年住んで、一度も電話をもらった事のな い兄から電話が来たと驚きと嬉しさを交えながら話していた。  このように、様々な波紋の中で身近に近づいてくるウイルスに不安はつのるばかり だ。最近、閉鎖になったばかりのハイスクールも割りと近くにある。たったひとりの 生徒が感染した為、1700人の生徒が自宅待機の隔離状態になった。しかし、 1700人を完全に家から出さないようにするのは難しい。すぐ、その生徒数人が モールをうろついているのが発覚して、大変な騒ぎとなった。また、その生徒たちと 接触した人たちが隔離されることになる。そのような人たちがどんどん増えてくるこ とになるのだから、もうこうなると法律で厳しく取り締まるしかないだろう。  先月、トロントのCTVニュースネットでこんなリポートが放映されていたようだ。 『なぜ、日本にSARSが流行しないか。』ここに簡単にその内容を記してみようと思 う。  まず、日本人の清潔さに対する強迫観念とも言えるほどの衛生に関する習慣。 日本人は子供の頃から、手を洗ったりうがいをしたりする習慣があり、自分を清潔に 保つと同時に、他人に病気をうつさないのは、自分の責任だと自覚している。だから、 風邪をひいたらマスクをするし、エレベーター嬢もタクシーの運転手も手袋をしている。 タクシーは、自動ドアで、挨拶も握手ではなくお辞儀をし、靴を脱いで家へ入る...。 こういった内容だったらしいが、このように、カナダ人は、日本人を清潔な人種と見てくれ ているようだ。  思い出してみれば、幼稚園にボランティアに行った時、おやつを食べる前に手を洗 う事もしなくて驚いたものだ。靴で歩いている所に平気で座らせてそのおやつを食べ させたり、先生だけがイスに座って子供を床に座らせ本を読んで聞かせたり...し ばらくは、親の私がそんな事に慣れなくて困った。  さて、こんな状況の中で電話をした私に母がさらりと言った。「そんな危険なとこ ろから早く引き揚げて帰ってきなさい。」心にありながらも今まで言えなかった言葉 だったのだろう。こういう時にしか言えないそのひと言を聞いて、親のありがたさが 身に沁み、そしてその27年の重みを今更ながら感じている。  
お気に入りの小さな町 2003年5月31日  家から、車で15分ほど行くと私のお気に入りの小さな小さな町がある。大きな道 路から、林の方へ入り込むとその町が見えてくる。これからの季節、その町は、お花 がいっぱい咲いて、秋には燃えるような紅葉に包まれ観光の人たちがゆっくりのんび りと過ごす姿が見られる。そこには、私のお気に入りのお店やコーヒーショップが あって、私にとって唯一の気分転換の場所だ。だから、そこにはひとりで行くように している。以前娘から言われた事がある。「レストランやコーヒーショップにひとり で行っちゃだめよ。周りの人が、ご一緒するお相手がいなくてお気の毒って思うか ら...。」こちらの若者たちには、そんな場所にひとりでいることはその様な意味 があるらしい。  先日、娘をその町に案内した。「こんな近くにこんな素敵なところがあるなんて知 らなかったわ。」と言って娘も気に入った様子。いつものコーヒーショップでゆっく りと時間を過ごしていると、娘が「なんていい時間。ここだったらひとりで来てもい いわね。」とポツリと言った。  いつの事だったろう。その町に小さなアンティークの店があって、そこには、所狭 しと歴史のありそうなお皿、コーヒーカップなどの器やアクセサリー、他にもいろん な物がたくさん並んでいた。そこで、私は薄暗い棚の奥に高さ30センチほどの日本 人形が置いてあるのに気付いた。黒い髪のおかっぱに赤い着物を着ていた。私は、そ の日本人形をしばらく見つめながら様々な事を思った。「ねえ、あなたはいつ日本か ら渡ってきたの。どうしてここにいるの。」と言葉をかけたくなるほど淋しそうにポ ツンと立っていた。今もその人形はあるだろうか。とても気になる。今度、行ったら その店に立ち寄ってみようと思う。  このように、カナダには昔風の家が全部お店になっている小さな町がいたるところ にある。北に1時間ほど行った所にも、そのような町があると聞いて、友人たちと遊 びに行った日を思い出す。いつものように、アンティークのお店に入った。そこは、 大きなお店でどこから集められたのか珍しい古いものがたくさん並べてあった。そし て、そこでふとカウンターに置いてある小カゴが目に入った。いろんな古いコインがた くさん入っている。「えっ!」と言ってそのカゴを見つめた。その中に思いがけない懐 かしい物が目に入ったのだ。1円、5円、10円、50円、100円...日本の小 銭が入っている。両手に一杯になるほどの日本の小銭が瞬く間に集まった。一個10 セントと籠に付いている。「ラッキー」と心で叫んで全部買い求めた。そんな楽しい 事に出合う小さな可愛いい町...これからも時間をつくってそんな小さな町を散策 したいと思っている。  さて、私のお気に入りの町もこれからお花でいっぱいになる。本を共にしようか、 それとも友人に一筆したためるペンを共にしようか...ゆったりとした私の時間が そこで待っている。   
懐かしい同窓生たちへ  2003年5月25日  長い長い時間が経って、世の中がとっても便利になってきた。カナダに来た頃は、 国際電話も高くて、それに、これはちょっと余談だが日本レストランにも、記念日ぐ らいにしか行けなくて...そんな日々が夢のようだ。その頃は、本当によく手紙を 書いた。  でも、今は国際電話も驚くほど安くなり、それにこのようにコンピューターの時代 が来て簡単にメール交換ができる。こんな便利なものが、どなたの頭脳から生まれで たのかは知らないが本当に感謝だ。  そして、今日は感謝に感謝をしなければならない。夕方、仕事から帰宅すると一通 のEメールが届いていた。30年以上も会っていない中学の同窓生からだった。忙し い日々の中での心のこもった長いメールを読みながら、私は、中学時代にタイムス リップをしたようなそんな懐かしさでいっぱいになった。この頃、涙腺がゆるくなっ て、こんな突然のメールにめっきり弱くなった私だ。  今、こうして思いを綴っていると白線の入ったセーラー服に胸に白いリボンの自分 の姿が、そして、思い出を共につくった懐かしい顔が浮かんでくる。「みんな元気に しているよね。みんなしあわせにしているよね。」と問い掛けたくなる。そして、地 球の裏側に来てしまった私は、こうして一生懸命生きてるよって伝えたい。  『長い時間が経ってもいつかはきっと会える。』...卒業前の「思い出帳」に書 いた、そんな意味の言葉が思いだされる。今、懐かしさでいっぱいになりながら、ひ とつのメールが、また誰かに伝わりそしてそれはさらに広がり、あの寒い日々にス トーブを囲んで一緒に机を並べたみんなへと伝わっていくことを願っている。  さて、これから早速お返事のメールを打つことにしよう。流れた長い空間は、たく さんの言葉で埋め尽くされることだろう。  
体験の中で  2003年5月24日  ホッケーの試合を終えた長男が、防具の入った大きなバックをかかえて控え室か ら出てきた。しょんぼりとして元気がなく涙をいっぱいに浮かべている。「どうした の?」と尋ねると相手のチームがぶつかってきた時に、日本人に対しての差別用語を 何度も言われたらしい。日本人を差別する言葉はたくさんあるがその言葉を聞いて驚 きと同時に悲しくなった。その言葉は、日本にいたら知る事もなかったかもしれない し、一生聞く言葉でもなかったかもしれない。まして、自分たちに対して使われる事 はなかったろうと思う。時々、日系の新聞にその言葉に抗議の記事が出る事もあるく らいに、その言葉はタブーになっている。  だからそれは大人の社会で起こりうることだろうと思っていた。しかし、小学生の 子供たちが、平気で使う事に驚きそして我が子もその意味をちゃんと知っていた事に も驚いた。そんな長男を見ながら「ごめんね。ママたちがカナダに来たばかりにこん な目にあわせているね。でもがんばろうね。」...そう言って抱きしめてあげる事 しかできなかった。  それは、決して最初ではない。5歳の頃、日本人の友達とアパートの前の公園に遊 びに行ったふたりが、30分もしないうちに帰宅してきた。「どうしたの?」と聞く と「みんながね。僕たちを指差して嫌な事を言うの。だから、帰って来た。」それで 十分理解できた。小さな子供の世界でも悲しい差別があったのだ。親も辛かったがそ のそぶりをみせるわけにはいかない。負けてはならないとつくづく思った。  土曜日に日本語学校に行っているが、その卒業式に卒業生のひとりがステージで 言ったことが思い出される。「僕は、カナダで日本人として生まれてきて嫌なことも ありました。そのひとつは、学校で差別をされた事です。...」そして、ある友人 の娘さんは、「どうして私はこんな顔なの?」と言って親を困らせた。  このように、カナダで生まれ育った子供たちは、そんな苦境にありながらも頼もしく 育っている。今は、その時以上に移住大国になっている中で、「差別」は法律から 守られている。でも、ここに書ききれないこともたくさん経験しているし、また見聞きしている。 私は、子供たちが成長していく中で、子供たちに言い聞かせている。『日本人である事を 誇りに持つように』と...。
カナダの文化の中で  2003年5月22日  カナダで知り合った友人がこんな事を言ったのを思い出す。「カナダに住んでカナ ダ人と友人になるには、まずカナダの文化であるアイスホッケーを知ることだね。」 それから、その友人はホーケーについてとても詳しくなった。  6歳になった長男に、カナダの文化に触れさせたいとアイスホッケーをやらせるこ とにした。カナダでは、よちよち歩きの頃から、スケート靴をはかせるほどこの冬の スポーツが盛んだ。学校でも野外授業に取り入れているので、100パーセントの子 供たちが滑れると言っていいほどにカナダの文化が守られている。そんな子供達と 一緒に、学校のボランティア(スケートの紐結び)に参加した事も懐かしい。  そして、いよいよ長男が、チームに入ってホッケーをやることになった。まだ、滑 れるだけでルールも何も分からないのだから、まずはベンチで観戦だろうと思ってい た。ところが、監督が「それ!ゴー」と言ってリンクに入れたのだ。驚いた私だった が、初めての防具を身につけて、転んだりしながらも必死でパックを追っていた。 とうとう1度もパックに触らずに終った試合だったが、それでも監督やチームメート に励まされて1日目を終えた。  そして、私は監督に感謝した。日本では、考えられないであろうこの『体で覚え よ』という指導の仕方に感動したからだ。言葉よりも、まずは体で経験することで学 んでいく。なんと素晴らしい方法だろう。監督という、人に恵まれる事の大事さも 知った。このように、体験を積みながら東洋系のいないチームにとけこみ、キャプテ ンになりチームを優勝にもっていくという経験をした長男は、今でも、その体験を人 生の糧にしていると思っている。でも、その長い体験の中には、決して良い事ばかり ではなく親子共々辛い事もあった。それは次稿でふれるが、異国で生きる事の 厳しさでもあった。   
蘇る日々  2003年5月14日  ホームページに、投稿するようになってから、たくさんの事が蘇ってくる。考えて みると、私は、ここまでの長い間ずっと走り続けて来たような気がする。今、こうし て、ゆっくりとした時間の中で、ひとつの事を思い出しながら綴っていると、それは 次から次へと、眠っていた遠い思い出を呼び覚ますように様々な事が蘇ってくる。思 い出...振り返ると果てしなく続く私だけの懐かしい足跡。  その思い出の中には、時々忘れられない人が自然と心に宿っていて「思い出の人」 として蘇ってくる。そこには、二度と会えない別れもあった。  カナダに来て、最初に通った英語のクラスの先生、バレリーに出会った事は、私の 人生の中でも最高の幸運だったと今でも思っている。70を越していたおばあちゃん 先生は、とっても素敵な先生だった。その会話の優しさ、しぐさなどすべてが大好き だった。両親や祖母と別れたばかりの私は、なおさらその優しさが心に深く沁みた。  クラスが終ると、「あつこ!一緒にランチを食べましょ。」と言って、時にはバレ リーの家に行き、二人でランチを作って食べた日も懐かしい。彼女は、キッチンに立 ちながらも先生だった。サンドイッチを作ったりしながら、優しい口調でゆっくり話 ながら、いろんな事を教えてもらった。決して教室では習う事のできない日常の本当 の英語だった。私は、何も臆することなくバレリーには色んな質問をすることができ た。そして、どんな質問にも私が納得するまで気長に答えてくれた。その優しい口調 を今でも忘れる事ができない。  時々、ランチをしているとご主人のジョージが帰宅してきて一緒に会話に入って私 を和ませてくれた。ジョージは、大きな体にいつもニコニコと笑顔があって、とても 素敵な紳士だった。一度、子供のバースディに招待したが、彼は、「おでん」がとて も気に入った様子で、「うまい!」と言っては何度もおかわりした。その時の二人の 写真も大事にアルバムにおさまっている。   そんなふたりとの別れが来た。「娘たちが、ビクトリアに住んでいるの。彼女たち が、一緒に住もうって言うから行くことにしたわ。」そう言ってビクトリアに越して いった。それからは、バレリーとのクリスマスカードの交換が始まった。でも、ある 年から来なくなった。ある日、入院したという知らせが来て、バレリーとの本当の別 れを悟った。でも、今でも、バレリーは私の心に生きている。不安なカナダ生活を支 えてくれたバレリー。  このように、人は誰でも一生忘れられない人を心に宿らせている。そして、そんな 蘇る日々は、きっと私の生きてきた証なのだと、今日もゆっくりとした自分の時間の 中で思い出を綴っている。   
世界の人と  2003年5月12日  カナダに移住してしばらくしてから「マンパーワースクール」に行き始めた。政府 からお金をいただいて学校に行けるのだから、何と素晴らしい国だろうと思った。 (今はどうか分からないが...)  そこで、私は、たくさんの様々な国の人たちと知り合った。イラン、アルゼンチ ン、ギリシャ、韓国、中国、ロシア、イタリア...エトセトラ。みんな、カナダに 移住をして来た人たちだったがラッキーな事に日本人は私ひとりだった。これで毎 日、日本語と離れて英語の世界で過ごす時間ができる。そんな日々の中でまず感じた 事は、不思議な事に流暢な英語よりも、同じように片言で話す英語の方が理解できた ことだ。  そしてもうひとつ大きな事に気づいた。日本人は、とかく机の上だけで文法中心の 勉強をしているので、会話も文法どおりにしようとする傾向が強いのではないだろう かと思った。だから、そこに無理が来て消極的になってしまい、私のようなおしゃべ り好きは、それがストレスになった。その事が分かった私は、文法にこだわらずに会 話をするようにしたが、それで結構みんな理解できるようだったので日本が話題にな ると楽しくなった。時には、日本についての質問攻めにあったが、それは、とても嬉 しい事だった。  しかし、「ねえ、日本の女性ってみんな着物を着てるの?」「芸者に会った事ある かい?」「日本はどの辺りにあったかなあ?」「日本は...?」みんな日本の事を 何も知らない。なぜ?という疑問が沸いて来た。あんなに、日本の車や電気製品等が 世界中に進出しているのにどうしてだろう。それは、きっとそれ以外の日本に関心を 持たない結果ではないだろうかと思った。  そのような日々が過ぎて行く中で、気の合う仲間ができて、イラン人の静かで愛ら しいファートマの結婚式に招待された。好奇心いっぱいの私。飲み物、食べ物、しき たり、お国の衣装など、それは、とても珍しくて驚くことばかりだった。1番驚いた のは、珍しいイラニヤンのお料理をしたためていたら、突然スプーンでグラスをたた く音が聞こえてきた。そして、それが広がり大きな音になっていく。「えっ、何 事?」と思ったら、『幸せなお二人さん、幸せなキッスを見せてください。』という 招待客からの楽しいいたずらだった。何度も何度もそんな光景があって忙しい二人の 姿がとてもほほえましかった。後で、イタリア人などの結婚式にも招待されたが、同 じように軽快なグラスの音が聞こえてきて、今度は、私もその楽しいいたずらに参加 した。  英語の世界におもしろさを感じていたある日、クラスの先生が「ねえ、日本に白く て細いヌードルがあるでしょ。あれおいしいわね。今度、私の家に来て料理してくれ る。」話を詳しく聞いてみると「そうめん」の事らしい。さっそく、数人のクラス メートを伴なって先生の家を訪ね、私のそうめんの料理講習が始まった。結婚して間 もなかった私は、英語と同じように必死だったが、冷やしそうめんが見事にできあが り、「デリシャス!」の歓声を浴びてみんなで食べはじめた。しばらくして、「ん? 何だこの静けさは?」と見渡すとなるほど、そうめんが音をたてずに静かに口に運び 込まれている。「あのう、日本では、そうめんは音をたてて食べてもいいんです。」 なんて、言える勇気はまだその時にはなかった。  モザイク社会と言われる移住大国カナダ...ここでそんな世界の人たちと知り 合って世界は広いとつくづく思った。   
小さな出会い   2003年5月10日  出合いの一瞬というのはお互いのタイミングが合った時に起きるものらしい。 その女子高生と目が合った時にはお互いに挨拶を交わしていた。 始まりは「こんにちは」というありきたりの挨拶から。小さな出会いだった。 お互いに、名前を名のりあったわけではない。それでも会話はスムーズに流 れていった。 「どこから来たの」と尋ねると、「ナイアガラからです」と明るい返事が返ってきた。 そして、ハイスクールに通っているその訳を淡々と話して聞かせてくれた。  「私は、日本でいじめにあっていました。辛くて辛くて・・・学校に行くことが出来なくなって しまいました。そこから抜け出したくて、それでカナダに来たのです。...」   こんなに爽やかで笑顔の可愛い彼女の一体どこに、いじめの対象があったのだろうかと不思議に思え てきた。とてもそのような辛い事を乗り越えてきたようには見えないくらい彼女は明るく映った。  しばらく話しを聞いていくうちに、彼女はきっとカナダへ来てから生まれ変わったのではと思えて きた。それほどまでに辛かった日々を、こうして見知らぬ私に話せるようになった事自体がそう言える と思った。  これまでも新聞や本、テレビなどで、日本のいじめの実情を何度目にし聞いてきたかわからない。 でも、それはいつも他人事にしていた。この時私は彼女の話を身近に聞きながら、ここに到るまでの 様々な葛藤、そして、悲しみにくれる親の事を思った。それは長い道のりだったにちがいない。親子で 闘いぬいてこの道を選択した事に心から拍手をおくりたいと思った。   人生は、岐路に立った時、どの道を行くかでずいぶんと変わってくるものだと思う。彼女は、この 素晴らしい選択によって、これから先も辛かった過去の日々を教訓にし て、誰よりも強く生き抜いて 行く事ができるだろうと思った。 「私、なんだか無性に梅干しが食べたくなってトロントに買いに来たんです。」と言った彼女の言葉 がとてもいじらしかった。「頑張ってね。」と言うと「は い!」という言葉と素敵な笑顔を残して走 り去って行った。 その姿を見送りながら彼女の幸せを祈らずにはいられなかった。 カナダに住んでそのような小さな出会いがいくつもいくつもあった。
見えなかったもの  2003年5月6日  もう15年以上も前のことになる。夕方、ひとりの日本人の男性から電話がかかっ てきた。宮崎から来たと言う。宮崎...懐かしい響きだった。まだ、その頃は、故 郷である宮崎の人に出会う事は珍しかった。だから、宮崎と聞いただけで懐かしくな り話がはずんだ。出身は、宮崎県内のある町だと言う。そして、その町の地図が浮か んでくるように事細かく出身地の説明が続く。ところが、何かおかしいと途中で私は 気付いた。もしかして、この人は、今、トロントに出没している家族連れの詐欺師で はないだろうか。  そこで、私もかまえ始めた。どこで、私の家の電話番号を知ったのだろうと思い問 いただすと、ある日本食のスーパーだと言う。その店で「便利帳」をもらったという 答えが返ってきた。なるほどその頃、私たちは、新移住者で移住者の名簿「便利帳」 を作成し、日本のスーパーなどに置いていた。  そう言いながら、私の家族構成や仕事の事を聞いたりと質問が続き、カナダに着い たばかりで何も分からなくて困っている。子供もいるので家に行ってお話がしたいと 言う。ここで、私は、はっきりとその家族連れだということを確信した。  その家族は、日本から来てトロントの日本人の家にうまく入り込み、お金を借りる という悪質な家族だった。友人たちの中には、小さい子供が一緒のこの家族が気の毒 になり、ついお金を貸してしまったという人もいた。後で、この事は、総領事館の方 から注意警告として日系の新聞に出ることになる。  さて、話は元に戻るが、私はそれから今度は反対に質問を浴びせた。すると、返事 がだんだんとおかしくなり、そして、困ったのか「あのう、今、外から電話をしてい るんです。それに風呂上りで湯冷めをしそうですから、電話を切ります。」と言って 電話が切れた。  騙されそうになったのだと電話が切れたあと怖くなった。後でみんなに言われた事 は、「宮崎から来たばかりだったら宮崎の訛りがあるでしょうに、気付かなかった の。」だった。私は、その時「宮崎」という響きについほだされ気づく事ができな かったのだ。自分にも油断があったと思いながら、ある本に書いてあった事を思い出 した。『騙すより騙される方で良かったと思いなさい。』  その後、その家族は日本で逮捕されたと新聞に載った。見えぬもの...心は、 やっぱり目を凝らさないと判断を誤ってしまうこともあるようだ。
目に見えないもの  2003年5月4日  私は、友人から日本の新聞をまわしてもらっている。だから、私の手に届く頃は、 かなり遅れて届く事になるのだが、その友人は、時々トロントを留守にするので、時 には、2週間分以上の新聞がドッと届く事もある。「古いけどいいの?」と不思議そ うに尋ねる友人に、私は、「新聞って、古くてもいろんな記事があるでしょ。例え ば、有名な人のエッセイとか、読者の投稿欄とか、日本でベストセラーになっている 本の紹介とか...エトセトラ。」と答えた。ある日、その友人が、たくさんの新聞 を胸にかかえながら、「あなたの言った意味が分かったわ。新聞って、古くても読む ところはたくさんあるわね。」  今日も、そんな古い新聞を読んでいたら、瀬戸内寂聴さんのエッセイが掲載されて いた。「見えぬものに目を凝らせ」とあった。そして、「日本がこのようになったの は、ただ、目に見えるものだけを追っかけてきたからである。目に見えないものに もっと目を凝らしてほしい。目に見えないものとは人の心である。...」  思わずうなづいた私だが、しかし、「人の心」ほど難しいものはない。目に見えな いからなおさら難しい。ここにある、「凝らす」とは、辞書で引いてみると「集中さ せて事を行なう」とある。そんな事を考えながら、それはきっと「人の心」から生ま れてくる思いやりや優しさを言っているのではないだろうかと思う。  カナダに住んで、隣近所との付き合いはあまり深くはしていない。でも、困った時 には、お互いに助け合う心はお互いに持ち合わせている。多くを語らなくても、自然 に信頼関係が生まれてくるのは、日頃の目を合わせた時に交わす挨拶ではないかとも 思う。  隣に住むイタリア人のトニーは、家の中に鍵を置いてドアを閉めてしまった私の失 敗を、家の周りを歩き調べながら、2階のわずかに1センチほど開いている窓を見つ け、はしごを持ってきて開けてくれた。大雪の日に、家のドライブウェイをフウフウ 言いながら雪かきをしていたら、大きな除雪車が通りかかり、ユータウンしてきて 特別に雪をかいてくれた。  そんな事を思い出しながら、形のない目に見えない人の心とは、そういうことでは ないだろうかと思う。そのように、他人や見知らぬ人からの親切や優しさ、思いや りはなぜか心に残っている。 見えぬものに目を凝らす事...今日も、またひとつ 学んだ。
日本の歌が待ち遠しかった頃  2003年5月1日  寒いカナダの生活がスタートした。しばらくして、私は、英語のスクールに行くこ とにした。まず、近くの昼のスクールに行ったのだが、まだ、車のライセンスも持た ない頃だったので、バスで通う事になった。よくその頃は、ヒッチハイクという言葉 があって、まだ、安全な言葉のような時代だ。でも私にとって、見知らぬ国で、バス を待っていると車がバックしてきて、「乗っていきますか。」とか、歩いていてもよ く車が止まり「どこまで行くの?」と聞かれても、言葉のハンデイーなどの怖さの方 が先で「ノーサンキュー」をかろうじて言っては断った。  暖かくなって、スクールが少し遠くなった。まず、驚いたのは「バスストップ」と 書いてあるだけのバスの停留所だ。降りようにも、名前がないのだから、目を凝らし て自分の下車するところを覚えなければならない。 ところが、ある日、間違ったバ スに乗ってしまい、途中でバスが違う方向へと走り始めた。どうしようと思いながら 考えている間に、乗客がとうとう私ひとりになり、さて、ドライバーにどう言って今 の状況を説明しようかと英語辞書との奮闘が始まった。ところが、バスは、広場で ユータウンして、同じ道を引き返しはじめたのだ。心で「そうよ、そうよね。」と 納得した私は、不思議そうなお顔のドライバーを尻目に、暗黙のうちに、来る時に 曲がったストリートで「バイバイ」と言って、冷や汗の出るような恥ず かしさの中で何事もなかったような顔で降りた。  英語の解釈の間違いもたくさんあった。あるモールで、一人で歩いていたら、 「DO YOU HAVE THE TIME?」と聞かれて、びっくりした私は 「NO」と言って一目散に逃げた。ところが、これは、『時計を持っていて時間が分 かりますか。』の意味だったのだ。それが、後で分かって大笑いした。決してお誘い の言葉ではなかったのだ。  そんな日々の中で、唯一の楽しみは、その頃、移住者の方がやっていた30分の日 本語のラジオ放送だった。一週間に一回の放送だったが楽しみだった。外出先で、そ の時間が来ると、車に一人で乗ってラジオをつけてもらい聞いたこともある。いつ も、その頃の懐かしい日本の歌が流れていた。  そんなある日のこと、何気なくカナダのラジオを聞いていたら、突然、坂本九の 「上を向いて歩こう」が流れてきた。驚いた私だったが、なんだか、その時、その頃 の自分を歌っているようで涙がとどめなく流れてきたのを思い出す。  世界は、まだその頃はとても広くて日本はとても遠かった。今は、世界も狭くな り、日本がとても近くなっている。時は流れたのだとつくづく思う。
押し花の贈り物  2003年4月28日  讀賣新聞を読んでいたら「プラザ」という欄に、「娘へ押し花の贈り物」という投 稿が目に止まった。それを読みながら、カナダへ移住した頃を思い出した。  移住して、初めての春を迎えようとしていた時、一足先に春になった日本の叔母か ら、桜の花の押し花が届いた。手紙には、「日本の春を思いだしてください。」と あった。  2月の恐ろしいほどの雪と寒さの中で、私は、誰もが陥るホームシックにかかって いた。そんな日々の中で、日本から届く手紙を毎日のように待っていた。ドアの外 に、郵便の届く音がすると飛んでいき日本からの手紙を探した。そんな思いの時、叔 母から届いた押し花の便りは、私を元気づけた。今でも、その押し花は、その頃のア ルバムにはって大切に持っている。  以前、帰国した時、初めて母と姉と3人で「京都の旅」をした。秋の京都は、それ はそれは素晴らしかった。高校時代に、修学旅行で訪れたことのある京都は、その年 代と違った感覚で私を興奮させすべてのものが感動となった。3人で静かな紅葉の下 を歩きながら、雨上がりの道に落ちていたもみじの可愛らしさに、私は、思わず一枚 一枚拾い上げ大事にカナダに持ち帰った。今、それらは、押し葉となって思い出の写 真と共にアルバムに、そして、机の上のフレームに入っている。  今、異国の地で生きる長さを、そんな遠い思い出や古くなっていくアルバムで感じ ている。それらは、決して消えてほしくないものだ。だから、このように時々言葉に して蘇らせたいと思っている。
トロントの桜  2003年4月26日 「さくら さくら やよいの空は〜」と歌っていれば、そろそろ、トロントにも桜が 咲くでしょうか。トロントに、長く住んでいながら、なかなか桜を見に行くチャンス がない。  南の方に下ったハイパークに、5月の上旬頃にそめいよしのが咲く。1週間ぐらい が見頃だけれどそのタイミングが難しい。そこで、トロント宮崎県人会では、3年程 前から野遊会「お花見」を恒例にしている。だから、この時季になると、新聞社に電 話をして花見頃を聞いたりと「桜番」が始まる。1週間前に満開の日が分かると会員 の人数分のお弁当(もちろん日本食)のオーダーをしなければならない。しかし、心 配なのがお天気。でも雨天決行にして、昨年は、霧のような雨の中でしっとりと楽し んだ。でも、やっぱりてるてる坊主でも作って、その日のお天気が良い事を願ってし まう。  さて、桜の下でお弁当は無理ですから、桜を遠くに眺めながら広々とした芝生に 座って賑やかなひとときが流れる。カナダは、公園では、お酒は法律で禁止されてい るので、「花見て一杯」なんてできない。夏のバーベキューの季節になっても一切ア ルコールは禁止されている。カナダに来た頃は、なんと徹底した素晴らしい決まりだ ろう、とこの厳しい法律に驚いた。実際に、その季節になると、時々、馬に乗ったマ ウンテイーンポリスが見回りにやってくる。話によれば、私が移住する前までは、家 の裏庭でも禁止されていたと聞く。  今、私たちは、日本国総領事館を中心に「オンタリオにいっぱいのさくらを」を目 標にさくらプロジェクトの活動を行なっている。10年間で、オンタリオ州に 3000本の桜を達成したいという願いからだ。だから、将来は、「桜番」をしなく てもどこそこで桜の花が楽しめる事だろう。  そんな桜の季節が今年もやって来た。満開は、5月の2週目頃だろうということ だ。私も、そろそろ冬眠から抜け出して、春の空気を一杯に吸って行動開始だ。 
素敵な事は  2003年4月20日  年を重ねながら、自分が生まれた日を祝福してもらう事は、その年によってなぜか 受け取る気持ちが違うようだと今年のその日が来てつくづく思った。  今日のその日は、何だかいつもより久しぶりにその喜びを感じる事ができたような 気がする。働いている日曜日が、偶然にもその日にぶつかり、いつもよりたくさんの 祝福の言葉をもらったからかもしれない。友人二人は、突然私の前にやってきて 「ハッピバースデ〜ツウ〜ユウ〜」と歌ってくれた。  こちらでは、よくバースデーのお祝いにレストランに行くとそこのスタッフたち が、ケーキを運んできてテーブルを囲みながらバースデーの歌を歌ってくれる。そこ に食事に来ている人たちも一緒に歌ったり「おめでとう」の言葉をかけて拍手をして くれる。なんと和やかな光景かとカナダに来た頃はとても驚いた。  カナダのパブリックスクールでは、朝の校内放送でその日の誕生日の生徒の名前を 言ってくれる。だから、誕生日の生徒は、クラスでお祝いをしてもらう事ができるの で、クラスの人数分、ドーナツやお母さんのお手製のケーキなどを持参することがで きる。恥ずかしがりやの子もおとなしい子もどんな子もその日は中心になれる。その ようにして存在を認められる日なのだ。このように、学校は、決して教科書だけを詰 め込む所だけではなく、一人ひとりの人間性をも大事にしてくれる場なのだと感心さ せられる。  さて、そんな事を思いながら帰宅すると子供たちからお祝いにバラの花が届いた。 友人からは、お祝いの電話やEメールが届いた。今年の誕生日の旅立ちは、何だかい つもと違う気持ちになって歩き始める事ができるようだ。  こんな素敵な事は、みんなに与えたい。来月の母の日には、日本にいるふたりの 母に「カナダから思いを込めて。」のメッセージと一緒に真っ赤なカーネンションが 届くようになっている。驚く二人の顔が浮かんで思わず笑いが込み上げて来て幸せな 気分になる。素敵は事は、次から次へと伝わって行ってほしい。
今年のはじめに  2003年4月15日  今年のはじめにと言いながらもすでに4月になりました。 1月は行く、2月は逃げる、3月は去るというように瞬く間に日々が過ぎていきます。  今年は、どんな年になるだろうかと思いきや国際社会は、不安の中でいろんな出来 事が起きています。  さて、そんな中で新型肺炎と名づいたSARSがトロントに上陸してしまいました。 この騒ぎの元になったのが、2月に香港に旅行したたったひとりの中国系カナダ人で した。 事は、どんどんと広まり瞬く間に、病院閉鎖や学校閉鎖を強いられてしまいました。 近くのモールや中国系のレストランやスーパーが閑散となり今も、どこにショッピン グに行っていいのか不安な日々です。  病気になっても病院に行かれない様な状態になり、お見舞いなどの訪問も禁じられ ています。  日本からのいろんな訪問予定がキャンセルになり、今やカナダ唯一の航空会社エア カナダもかろうじて飛んでいるといった感じでしょうか。 日本へ帰国予定の友人も、日本で待っている人たちから遠慮がちな「大丈夫?」とい う言葉に気をまわしキャンセルする人もいます。  時代が新しくなれば、新しいウイルスの病原体も新しく生まれてくるようで、世の 中不安なことばかりです。  そんな中で、明るいニュースは、大リーグの松井選手が開幕戦でトロントにやって きた事でした。 我が家も、その明るいお話に乗せられて、日本から日本テレビ(NTV)が我が家で 松井選手を観戦する場面をロケに来る予定でしたが、イラク戦争などで土壇場でキャ ンセルになりました。  さて、このように新しい年も4月になって、トロントも、ようやく長くて厳しかっ た冬が終わりを告げるようです。  これから、その厳しさに耐えた木々たちがいっせいに新芽を吹き出します。 その様子は、本当に春の音となって聞こえてくるようです。 そして、その新芽の青さはまさに生き返るといった感じでしょうか。 そのように徐々に、春は人の心も活き活きと浮きたて素敵な季節の到来となります。  4月に生まれた私は、まさにそんな新芽の吹く春は、日本にいるような思いの中 で、新しい気持ちで旅立ちをするような気がいつもします。 さて、今年はどんな思いで旅立ちをしようかと思っています。
今年の終わりに  2002年12月21日  2002年が終ろうとしている。今、その日々の中で50代という節目に立ったこ の1年をひっそりと振り返っている。振り返りながら、励まされる事は、確かに歩い てきたという確認できる思い出という足跡ではないかと思う。  この度、私は、100人の出演者.運営.製作スタッフを抱えて、『紅白歌まつ り』というステージショーを企画し成功に終らせた。10月に、企画をし、実行委員 会を発足して3ヶ月、目の回るような日々を過ごした。  代表になる事は、100人の人の気持ちを受け入れていかなければならない。しか し、これは、25年以上というキャリアのある企画であるから、そのボランティアと してのスタッフは、容易に集める事ができた。これも、カナダに住んで27年の長い 歳月の中で育んできた出会いが生んだネットワークだと思っている。  その3ヶ月の間に、私は、人を学んだような気がする。そして、時には、人と人の 板ばさみになりながら、私は、自分をも向上させて頂いたとも思っている。  それに、人の優しさにもたくさん触れた。それは、言葉であったり…時には、疲れ て座っているとお茶やコーヒーが差し出され、指圧をしてくれる友人もいた。電話や Eメールなどでたくさんの励ましの言葉もいただいた。  今回の企画で、カナダで一緒に生きる仲間を私は、確かに持っているという事を確 信できたことも大きな収穫だったような気がする。  今、そういった出来事の過ぎたこの1年を振り返りながら、50代にふさわしい出 発だったのではないかと思う。50代を先に歩いている友人が言った。「人は『欲』 がなくなったらおしまいだよ。」確かにそうなのだ。だから、来年は生きる「欲」を もっとだそうかと思っている。
つぶやき  2002年11月23日 トロントは、大きな雪が一回降って、それもすっかりなくなりました。 これから、辺りは、いつものようにクリスマスのイルミネーションで賑やかになります。 夜、窓から眺めるその景色はそれは素敵です。 でも、現実に返れば…あーあ、今夜は一回雪かきが必要かしらなんて明日の事を考え てしまう…やっぱりトロントの冬は厳しいのです。 これで、何回目のカナダでの冬かしら、なんて考えなくても、着いた日が、恐ろしい ような寒さと雪だったから27回目の冬なのです。 時は流れたのだとつくづく思います。 この頃、これから長く生きる事は、今まで以上にたくさんの悲しい事や辛い事を受け 止めることなのだと思ったりします。 このカナダで、早すぎる友人の死を何度見送っただろうかと改めて考える時、何が、 そんなに人生を短くしたのかなあ、と思ったりします。 慣れない異国での生活や食生活が決して原因ではないと言い切れない。 日本で、生まれ育ってきて、ここで生まれ育つ子供達が、カナダ人として育っていく 事にギャップを感じ、流暢に行かない言葉のもどかしさや夫達の一匹狼的なところに ついて行けず、移住者の妻達は、逃げ場のないたくさんのストレスをかかえている。 そして、40代、50代に訪れるメノポーズ。 これを、どれくらいのパートナー達を含む家族が理解してくれるだろう。 そんな時、やはり救ってくれるのが友人なのです。 心の底まで、話し合える友人でなくてもいい。 言わずと知れた気心が大切。 だから、40代を過ぎる頃になると、女性は、女性同士での会話を楽しむようになる。 そこで、お互いの本心すれすれの色んな事を話題にして、ネットワークを広め、人 生、社会勉強をしていくのです。 女性同士でしか、会話できない、楽しめない会話はあるもの。 そこに、夫と言う男性がいないから笑って楽しめる会話があるのです。 時々、レベルが下がるのもまた、ひとつの物知りにもなることもある。 この世は、男と女の世界…たまに、そんな深いお話もいいではないか。 人生は、どの世界も男と女の演じるドラマで流れているのだから。 私は、これからの人生を、試行錯誤を重ねながら…どう生きていこうかと見えぬ将来 をゆっくり自分らしさで歩いて行こうと思っている。 やっぱりそこには出会いがほしい。 いくつになっても、素敵な出会いを求めていきたいと思っている。 年を重ねていく事は、夢がなくなって行く事、とある人が言ったけれど、私は、この 年代にふさわしい夢を探して、いつ終るか分からない自分の人生をゆっくりのんびり と歩いて行こうと思っている。                     
トロントの10月 トロントは、10月だというのにまだ暖かい日が続いています。 庭には、友人からいただいたほおずきがオレンジの実をつけて賑やかです。 紅葉も、北からそろそろ色づき始めたようですが…。 それでも、今年は例年より暖かかくてあまりいい色が見られないかもしれません。 でも、今年の冬は雪が多く寒さも厳しくなると聞いています。 しかし、月日の過ぎるのは早いですね。 これから、カナダはハローウインでどこもそこも賑やかになります。 その日になりますと、キャンデイーを求めてたくさんの子供たちが、色んな仮装をし て家々にやってきます。 その、キャンデーを用意するのも大変。 でも、楽しいです。 趣向を凝らした家々があって、その日は、3時間ほどどこの周りもキッズでいっぱいです。 そろそろ、我が子(下の子)は、それも卒業でしょうか。 カナダに来た頃、その日、友人のアパートに遊びに行ったら、玄関で私は、いっぱい のキャンデイーをもらいました。 あれれ…私!子供と間違えられたかしらん…ハハハ 「いらんです!」と言ったけれどおばさんが聞かないので…。 でも、折角でしたからいただきました。ハハハ それが終ると辺りはクリスマスのイルミネーションと変わります。 まことに辺りは派手で賑やかになります。 でも、雪の中で見るそれは、やっぱりロマンチックです。 こちらでは、クリスマスは家族のお祝い。 日本のように若者のためではありません。 だから、恋人がいてもみんなその日は家族と一緒に過ごします。 それが、本当のクリスマスというものでしょうか。 日本は、何か勘違いしてませんかねえ。 夏に来た姪が言っておりました。 お誕生日、クリスマスなどが近づくと若き女性たちは恋人を探し始めると…。 日本らしいお話です。 バレンタインだって、ここは愛する人たちのため(家族『夫婦、親、兄弟、祖父祖 母、親戚』、友人、先生、もちろん恋人たち)の日です。 小学校では、クラスの全員にカードを持っていきます。 先生には、カードやチョコなど。 かわいいものですよ。 日本は、ちょっとやりすぎ、考えすぎじゃないかしらね。 愛はだれそれに…区別なくあげましょう。 そんな、風習にすれば日本はきっともっといい社会ができるかもしれないね。 『愛』をもっと身近なたくさんの人にです。 近所のおじちゃん、おばちゃんにも…。 「義理チョコ」なんておかしなことはやめましょう。  さて、私は、すごく忙しい日々です。 いよいよ、予定のショーが明日の午後。 3時間の予定。 ですから、今から、また練習に行きます。 お客様は、300人弱しか入れませんので満席の予定。 おじいちゃん、おばあちゃんがほとんど。 一応、着物を着て司会をします。 髪も着付けもお化粧もプロがやってくれますから安心です。 ということで、頑張ってくるね。 
「涙(なだ)そうそう」 今、私は日本から買ってきてもらった「夏川りみの南風」のCDを聴いています。 その中にある「涙そうそう」が気に入って買ってきてもらいました。 ここでの「『涙』は沖縄語で『なだ』と読みます。 「涙(なだ)そうそう」という歌です。 他の歌も沖縄の歌ですがいい歌ですよ。 もし、機会があったらぜひ買っていただき聴いてみませんか。 この頃、毎日このCDばかり流しています。 ドライブする時もです。 セピア色の歌の中の思い出が今、私を支えてくれています。 この歌との出会いは、ある歌のショーで男の方がギターを片手に舞台で披露されました。 「いい歌だなあ。」と...。 それから、虜になり日本から取り寄せ今の私のお気に入りになり、心まで染み入る歌に 変化しました。そんな出会いも嬉しいものです。人は、人だけではなくいろんなものに 出会いながら思い出をつくっていくのです。
この人に会いたい  2002年3月11日 私は、カナダに生きて、知らぬ間に日々が経ちそろそろ日本での生活よりもカナダでの生活の方が 長くなります。その人生の節目に立った時、日頃、忘れていた日本での様々な思い出が思いとなって 心によみがえるようになりました。 異国での生活に追われ子供も私の手から離れつつある今、郷愁の中にある自分の光輝いていた若さの 中で出会ったひとりの人が懐かしく思い出されました。 それが、果たして「恋」だったのか、「愛」だったのか、もしかしてそれは「あこが れ」だったのかもしれません。 文通で結ばれていた私たちは、倉敷という素敵な町で1度会いました。 「自分にはまだ果たしたい夢がある。」とその方から聞いたとき、その時の私の引き際は見事なものでした。 今、こうして歳月が経ち素敵な思い出となって残っている...そんな時代があったことに幸せを感じます。 そして、今、思う事は、あの時の引き際は果たしてどんな意味となってその方に残っているだろうかと 懐かしくなりぜひ、お会いしたくなったのです。 友人がEメールで送ってくれた「人生を終末から考えると先が見えてくる」、という言葉に心が動きました。 いい思い出はそのままに...と言われそうですがこれからの人生を考える時、もっと積極的に生きてみる のもいいではないか、とその言葉に励まされました。 果たして、その方を探す術はあるのか雲をつかむようなお話ですが、人生は1度きり...そして、こんな 淡い思いにかりたてられるのも今だからこそかもしれないと思いつつ、そして、海を越えてこの思いがその 方に届く事を願いながら...
にがうり  地球温暖化…トロントの冬がなぜかおかしいです。雪も少なく、それに、いつもより気温が高い。 私たちにとっては嬉しいことですが、でも、なぜかこの地球の変化に不安を感じます。さっき、HP を訪問しました。あら、また私の記事が…なんて思いながら楽しく様々な記事を読ませていただきました。  今日は、その中の懐かしい味「にがうり」の事を書いて見ましょう。でも、思い出してみると、祖母や 母たちは、「にがごり」と呼んでいたような気がします。昨年、我が家の小さな畑にYちゃんからいただいた 「にがうり」が見事に育ちました。 最初は、トロント宮崎県人会の会員である方が、ファームを持っていらっしゃいますから、種をあずけました。 「Nさーん!にがうりの芽がでましたよ。」と届けてくださいました。さっそく、トマトのとなりに植え付け ました。なんと、スクスクと育っていきます。花が咲きました。そして、みごとに実をつけはじめたのです。 懐かしいその姿かたち…思わず「やったねえ。」と叫んでしまいました。  さっそく、母に国際電話をして食べ方をおそわり、子供の頃、絶対食べる事のできなかった味をおぼろげに 思い出しながら、料理しました。「おいしい!」…御飯が何膳でもいけそうです。さて、お集まりの多い私の 生活にさっそく取り入れ、色んなところに手作りのにがうりのお料理があちこちに運ばれていきました。それに、 ちょうどNHKでは、「ちゅらさん」が放映されていてみんなその名前をよく知っていました。  ほとんど日本人の友人たちですが、この私の手作りのにがうりの味を、初めて経験し、すっかりとりこに なった友人も数多く…それからは、私を見ると「またあのお料理を…」とせがまれるようになりました。 我が家の畑でできたにがうりは、きっとトロントいやカナダでは、初めてこの地に足をおろしたにがうりに ちがいありません。 ところが…です。中国やフィリピンのお店にそれらがあったのです。でも、輸入品でしょう。友人がさっそく 買って見せてくれました。いやはや、形は小さいですが確かに「にがうり」でした。でも、私の畑でできたあの 独特な形と味のにがうりはどれにも負けないみごとな物で、今年もその季節を友人たちみんなで待っています。 Yちゃん! 種、まっちょるよー。ハハハ  ミセス.にがうりことA子より (時には、ミセス.しいたけ。ミセス.ピーマンと呼ばれております。宮崎のコマーシャルから)ハハハ
トロントより  2002年1月12日 私も、カナダに、移住して25年です。 その間、日系のコミニュテイーに色々と関わってきました。日系人にとって、日本語で見聞きできる、様々な娯楽は、 特にお年よりにとっては、ひとつの楽しみでもあります。舞台で、歌や芝居など様々な事を今まで続けてきましたが、 私にとっては、司会が何よりの得意とする分野です。そこで、私が、何を司会を通して言ったかというと「宮崎県」 という自分の故郷を取り入れることでした。 だから、もう、私が、宮崎県人であることは、誰でも知っています。日本でさえ、宮崎は、何だか取り残されている ような感がありますが、ここでも、お年よりは「宮崎って、どのあたりですかね?」なんて、言われること普通です。 これは、私にとってショックでした。これじゃいかん…と思って、舞台に立つと宮崎の方言を紹介したり、英語も 宮崎弁に訛ます…なんてジョークを言ったりね。 一度は、歌のショーでトロントにある23の県人会の代表を招待して、舞台にあがってもらい、私が、司会でしたから、 プログラムにインタビューの時間をもうけて方言で県を紹介してもらったりしました。お客さまも喜んでいただき 楽しかったですよ。 ボランテイア… おおいに参加します。先月から、老人ホームに行っています。ゲームやクラフトをしたりして、最後は、 手作りのお菓子でお茶をもてなして終わります。このホームは、できたばかりですからとてもきれいですし、便利に できています。しかし、やはりみんな気持ちは寂しいだろうし、その方たちにとって日本は、やはり遠い国(故郷)なのです。 今、私がやれる事…そんなことを考えるとやはりそういった同胞の為にお役にたちたいと思うんです。日本も、外国に 向けて活動するのはいいですが、自分の国に、まず、どれだけボランテイアが…いかに必要か考えるべきでしょうね。  さて、色々と書いてきました。異国にいると日本では見えない色んなことが見えてきます。続きは、また次の機会に…。 
トロントより  2001年12月20日  夜神楽の時期だったんですね。本当に懐かしいです。我が村の夜神楽は、私がカナダに来て何年かになくなりました。 それを聞いて淋しい思いがしたのを覚えています。季節になると、夜神楽の練習が始まって、その笛、太鼓の音色が 悲しくも、懐かしくもなって心にしみついて残っていることに気づきます。あの山々に響く音色と明けていく自然の姿は、 とても神秘的でした。  カナダに行くことが決まってもう見ることもできないかもしれないと、その年の夜神楽を一睡もせず33番の舞いを 見ました。それに、父が無事を祈って垂れ幕と言うのかなあ・・・名前を入れ作ってかかげてくれました。 親とは、まことにありがたいものです。その父もいなくなり、村も数件が残っているだけです。過疎地・・・そんな姿を 見ていくのは、悲しいものがありますが、少子化に加えて高齢化していく人の力にも限界があることをまざまざと知らさ れています。自然が、静かにまた、自然な姿にかえっていくということであるかもしれません。  帰国するたびに、生まれ育った地を訪れながら、あの盛んな日々はどこへいってしまったのだろう・・・何もかもが 姿を消して行く。でも、どんな姿になっても故郷はここなのだ・・・と我が子たちに語りつげていきたいと思っています。 そして、ここには、以前、たくさんの人達が楽しく賑やかに守るべきものを守りながら、住んでいたのだと・・・そして あなた達のルーツはここにあるのだからと・・・  何だか、こんな事を思いながら、人生の流れの早さを感じます。 思い出は、遠い記憶と共にその時代へと私を連れ戻すようです。49・・・時代は容赦なく流れていきます。 だから、今を・・・10年、20年後に素敵に振り返るために素敵に生きて行きたいですね。